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このところ遠出ばかりしておりますが、昨日11月26日(日)は太田宿草鞋の会で視察研修の旅に出かけました。東海北陸道から名神に入り、多賀SAと草津PAで休憩を取り、京滋バイパス、第二京阪、近畿道、阪神高速を通り天保山ICで降りて天保山マーケットプレイスで少し早めの昼食をとりました。特別やわらぎ弁当です。食べ終わったころに天ぷらが出てきました。食事の後、海遊館へ全員そろって入館し、約1時間ほど海遊館を見学してきました。飼育展示されている生き物の数は620種、約3万点にのぼり、水族館としては珍しい地上8階にわたるスペースに常設展示、新体感エリア、企画展など工夫を凝らした生き物の展示がされていました。入館後一気に最上階まで上がり、展示スペースを眺めながら徐々に降りてきました。大きなジンベイザメが泳ぐ巨大な水槽「太平洋」や、3種類のペンギンが展示されている「南極大陸」、色鮮やかな熱帯魚が泳ぐ透明な海底トンネル「アクアゲート」など様々な趣向を凝らした14の水槽で生き物たちを眺めました。あまり鮮明な写真が撮れませんでしたが、一部を紹介します。こちらはクラゲです。ペンギンも3種類いたんですが、集団でいたのを紹介しました。(つづく)
2023.11.27
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北大路魯山人寓居跡のいろは草庵を後にしてさて、次はどこを観光しようかと考えましたが、腰も痛いのであまり遠くへは行かずに集合場所の近くへ戻ることにしました。道端にツワブキが咲いていました。石燈籠に描かれた絵が面白かったので写してきました。温泉街なので三味線の音も聞こえてきそうでした。そして古総湯に戻ってきました。古総湯は明治時代の総湯を復元して、外観や内装だけでなく入浴方法も当時の雰囲気のままで、石鹸、シャンプーは使用できないと書いてありました。ステンドグラスや壁や床の九谷焼のタイルも忠実に再現しています。「湯の曲輪(ゆのがわ)」と「総湯」の説明です。江戸時代の温泉場は共同浴場を中心として街が作られていました。共同浴場の周りに温泉宿が立ち並び、湯治客は共同浴場に通ったり、長逗留をしていました。この共同浴場が「総湯」です。そして総湯を中心とした周囲の街並みを「湯の曲輪(ゆのがわ)」と言い北陸独特の呼び方らしいです。ゆせん玉子のお店です。紅葉が綺麗だったのでパチリとこの後、日本海さかな街で買い物をしました。地元敦賀の水産業者を中心に70店舗あまりが軒を並べ、日本海側最大級の海鮮市場には蟹や魚介類、海産物や越前若狭のお土産品がずらりと並んでいるので、各自2,000円のクーポンを頂いたこともあって皆さんどっさりお土産を買ってました。そして雲間から天使の梯子が見えたり、夕日が沈む景色を眺めながら帰途に就いたのでした。夕飯用にひつまぶしも買ってきました。これで加賀・越前のバス旅を終わります。(完)
2023.11.24
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入館料を払って「いろは草庵」に入りました。母屋は1870年代に建てられ木造二階建て、瓦葺、72平方メートルのこじんまりした庵です。(外壁に塗ってあった紅殻は鉄分を含み、耐久性が強いので加賀地方の建造物によく用いられています。)まず最初は「囲炉裏の間」です。ここで魯山人は山代温泉の旦那衆たちと語らい、加賀の豊富な食材を使った料理を味わいました。次の部屋はロビーです。魯山人と山城温泉との関係がよくわかるDVDを見ながらお茶と和菓子を頂きました。山代温泉に窯を築いた初代・須田青華(実際は青の上に草冠がついてます)、九谷焼窯元・須田青華の茶器で献上加賀棒茶を頂きました。地の香はきな粉とマカダミアナッツの和菓子でした。昔懐かしい味を感じました。そして和菓子と茶器の下には山中塗の茶托が使われていました。庭を見ながらしばしくつろぎました。この後、展示室に入りました。土蔵を改装し、魯山人が彫った刻字看板やゆかりの作品が展示されていましたが、すべて撮影禁止だったので拝見して回りました。次に仕事部屋に行きました。魯山人が刻字看板を掘るために仕事場として利用していました。ここから茶室になります。水屋陶芸家 原呉山 作であり、魯山人滞在時には茶会が開かれていました。ここから急な階段を上って二階へ。大正期に山城の旦那衆たちが好んだ謡の本などが展示されてました。山城へ来て初めて製作したのが「吉野屋」の看板でした。吉野家の子息、恒(ひさし)との交流は晩年まで続いたそうです。書斎には法学全書や謡の本が展示されていました。北大路魯山人のいろは草庵を全て見学し終えました。では次にまいりましょう。(つづく)
2023.11.23
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月うさぎの里で昼食後、うさぎと触れ合った後、バスは山代温泉に向かいました。山代温泉は1,300年の歴史がある温泉文化で有名ですが、外が寒いので、湯冷めしてもと思い観光をすることにしました。他の方々は明治時代の総湯を復元した共同浴場である古総湯や広くて新しい熱交換システムを導入した加水なし100%源泉の総湯へ行かれた方々もいました。古総湯では石鹸やシャンプーは使用できなかったそうです。(後日説明します)私と相方は散策に出かけました。左側に見えたのは薬王院温泉寺です。万松園 四国八十八ヶ所加賀霊場霊方山薬王院温泉寺と刻まれています。山代温泉を発見した行基が温泉守護のため、薬師如来などを掘ってお堂を建立しました。明覚上人の碑(五輪塔)はずーっと山の上にあり、腰痛のある私には登るのは無理なので入り口で説明を写してきただけです。五十音図の説明です。↑「五十音図」についての説明です。『五十音図を1103年に明覚というお坊さんが作りました。人が正確に日本語の発音ができるように、そして人が正確にお経に書かれた文章を発音できるように。お経は当時の人の願いを叶えてくれる魔法の言葉でした。五十音図は山代温泉で生まれた日本語の魔法陣なのです。複製を行ったのは現在、大東急記念文庫に所蔵される「半音作法」に見える明覚の五十音図です。』通りから向こうを見渡すと魯山人の寓居跡があるという事でそちらに向かって歩きました。途中左側に縣社服部神社がありました。この石段も本殿までかなり登らないといけないので下の門の前で拝礼だけして通過しました。そして魯山人寓居跡の「いろは草庵」へ到着しました。庭の木々には雪囲いがされていました。ではいろは草庵に足を踏み入れましょう。2001年に「北大路魯山人寓居」として国登録有形文化財になり、2002年より「魯山人寓居跡 いろは草庵」として一般公開されました。では中へ入りましょう。(つづく)PS) 実は今日から3日間京都へ出かけます。京都の孫たち、トコちゃんとミミちゃんの七五三を23日(祝)に祝うためなんです。夜ホテルに戻り、時間がありましたら皆さんの所にお寄りできるかと思います。では行ってきます。
2023.11.22
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さて、19日(日)のバス旅を振り返りたいと思います。48名の乗客を乗せたバスは雪の郡上市を右手に、九頭竜湖を左手に見て一路北陸を目指しました。途中積雪15センチほどありましたが、峠を越えたら雪は全くなく福井県に入りました。先ず向かったのは昼食会場の月うさぎの里でした。ズワイガニ一杯、甘えび刺身、天ぷら、豚みそ鍋、ご飯、香の物で私は相方の分まで蟹を食べて満腹になりました。食後はウサギと戯れました。みんな手袋をはめてウサギに触ったり餌をあげていました。どれぐらいいるのかといいますとこの写真に全員写ってますのでご覧ください。ところが本物のウサギか置物なのか見わけがつかないのもいました。これからは面白い彫像を紹介します。前日まで何を言っても半袖半ズボン姿でしたが、北陸は寒いよとうるさく言ったら、やっと上着と長パンツ姿で出かけてくれた相方の記念写真。(足だけ素足です)自販機にもうさぎが描かれていました。(つづく)
2023.11.21
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昨日は福井、石川県へバス旅をしてきました。今日は先ずざっと紹介します。自宅を7時20分に出て集合場所へ。バスは全員で48名の満席で北陸目指して出発。郡上のあたりで窓外は雪景色になりました。大和PAで休憩した時に撮りました。そして峠を越えて九頭竜のあたりまで15センチほどの積雪がありましたが、福井県に入るとほとんど雪はなくなりました。遠くには雪山が見えていましたが。先ずは月うさぎの里で昼食です。蟹満喫膳で一人ズワイガニが1杯ついているんですが、相方が食べなかったので、持ち帰りはできませんと言われ、私が2杯食べることになりました。満腹で満足しました。食後は月ウサギの里でウサギと戯れました。(後日載せますね)次に石川県に入り、山代温泉街を訪れました。山代温泉は1300年の歴史ある温泉文化を始め、薬王院温泉寺(山代温泉を発見した行基が温泉守護のため建立)や稀代の芸術家・北大路魯山人の寓居跡(いろは庵)がありました。温泉卵のお店もありました。ここで温泉に入る人と観光をする人に分かれてそれぞれがそれぞれの楽しみで過ごしました。私たちは温泉に入らず観光をしました。温泉は古総湯と総湯がありました。最後は日本海さかな街へ立ち寄り土産物を買いました。買い物券が一人2000円ついてましたので皆さんお土産をたくさん買ってらっしゃいました。帰りのバスの窓から見えた天使の梯子と沈んでいく夕陽です。途中休憩をしながら、所々で渋滞に巻き込まれてそれでも日曜日にしては順調に帰れました。明日から少しずつ旅の様子を振り返ります。(つづく)
2023.11.20
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昨日は午前中エステに出かけただけで、午後のダンスレッスンはお休みなので自宅で静かに過ごしました。すると娘から無事に韓国に到着しましたとLINEが届きました。実は仕事で韓国に出かけたのでした。いつも仲良くしているお友達と一緒でした。彼女は世界中の国々へ出かけているので旅慣れています。私が知っているだけでもポルトガル、ベルギー、スペイン、アメリカ、台湾、チリ、ニュージーランド等々とある分野で有名な方(教授)なので、とても頼りになります。無事に韓国へ到着してホテルの周りの景色を写して送ってくれました。象さんがひっくり返っている所はアートスペイスと書いてありますね。ホテルの部屋からの眺めです。今週いっぱい韓国に滞在する予定です。パパは二人の見守りご苦労様です。私はあと1日だけゆっくり過ごします。今朝はやる気が出てきたので、1階の居住スパースを全てモップがけとワックスがけをしました。窓から見えた庭の木々の紅葉です。蔦の葉も八重桜の葉もやっと紅葉してきました。
2023.11.09
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文化のみち 二葉館からバスが待機している場所に戻る途中にあったお寺の塀にも徳川家の御紋が、そして白壁には織部焼の焼き物が埋め込まれていました。そして最後の見学場所である名古屋城へやってきました。ここから本丸御殿へ歩きます。名古屋城本丸御殿は尾張藩主の住居かつ藩の政庁として慶長20年(1615年)徳川家康の命によって建てられました。昭和5年には天守閣とともに城郭として初めて国宝に指定されました。昭和20年の空襲で建物のすべてを焼失。平成21年から復元工事が始まり、平成30年6月に完全公開になりました。近世書院造の建造物で総面積3,100㎡、13棟の建物で構成されます。史実に忠実な復元を実現し、築城当時のままによみがえった絢爛豪華な御殿建築です。(名古屋城本丸御殿パンフレットより)室内は花鳥風月などを画材とした障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られていました。欄間の金細工も素晴らしかったです。名古屋城天守閣木造復元募金箱も豪華でした。これで研修旅行はおしまいで帰路に就いたのでした。(完)
2023.10.21
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昼食後、向かったのは「文化のみち 二葉館」です。名古屋城から徳川園に至る「文化のみち」、旧川上貞奴邸がかつて東双葉町にあったので「二葉御殿」という名で知られています。「日本の女優第一号」として名をはせた川上貞奴は女優を引退した後、大正9年ごろから電力王と呼ばれた福沢桃介とともに約2,000坪の敷地に建つ和洋折衷の建物に暮らしていました。その斬新さと豪華さから「二葉御殿」と呼ばれ、政財界人や文化人のサロンになっていました。平成17年に現在の場所に移築・復元されました。※ 福沢桃介は福沢諭吉の次女の婿さんです。電力事業に乗り出し、名古屋を拠点として木曽川水系に大井発電所をはじめ7か所の発電所を建設し、電力王と言われました。(文化のみち 二葉館パンフレットより)では二葉館に入りましょう。先ず全体でボランティアガイドさんの話を聞いて、その後、46名が3つのグループに分かれて部屋を案内してもらいました。1階の大広間で目を引くのは大きなステンドグラスです。赤色を出すのは難しいそうです。色に金を混ぜないと出ないそうですので。1階展示室には中央アルプスがステンドグラスで表現されています。左から2枚目の高い山が槍ヶ岳だそうです。廊下の下の土台が見えるようになっていました。こちらは大きな邸宅の配電盤です。1階の廊下は木材をモダンに組み合わせてあります。(新しい色は後で補足したもの)貞奴さんの部屋です。和室は創建当時のままで、この部分は国の文化財として登録されました。貞奴さん愛用のものです。櫛や歯ブラシ(手前)、コーヒーカップなどです。女中さんを呼ぶ呼び鈴(インターホン)です。下のインターホンを押すと上の札(?)がパタンと倒れました。こちらのステンドグラスも綺麗でした。螺旋階段です。まるで鹿鳴館を思い出させてくれます。貞奴さんは時の首相、伊藤博文に可愛がられたそうです。家の中の灯りもおしゃれでした。川の流れと紅葉した楓の葉のステンドグラス換気口の柄もモダンでした。電気の笠もモダンでした。網代編みの天井です。ガスストーブです。銀糸で織られた貞奴の着物です。実はピカソをも魅了した女優で貞奴をモデルにしたピカソのデッサン画がありました。屋根の形が鳥の羽のようでモダンな造りでした。外から見たステンドグラス PS) なお、旧川上別邸という川上貞奴さんの別荘が岐阜県鵜沼市にあります。すぐ近くには貞照寺という菩提寺があります。(真言宗智山派寺院 貞照寺は芸事の関係者が参拝に来ます。)当市から車ですぐの所にありますので桜の頃には毎年のようによく訪れます。別荘の紹介は私のブログの2020年1月23日と24日に川上別邸(萬松園)で紹介してあります。興味のある方はご覧ください。では最後の目的地に向かいましょう。(つづく)
2023.10.20
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昨日は坪内逍遥博士顕彰会の親睦旅行で名古屋市にある「徳川実術館」と「文化のみち、二葉館」、「名古屋本丸御殿」を訪れました。総勢46名のバスの旅でした。今日はまず徳川美術館を紹介します。当地を午前9時出発でしたが、早く集合できたので9時前に出発し、一路名古屋へ向かいました。先ず訪れたのが徳川美術館でした。美術館のロビーに飾ってあったのはこちらこれから先の館内は写真撮影禁止でした。頂いたパンフレット(リーフレット?)徳川美術館は尾張徳川家に伝えられた数々の重宝、いわゆる「大名道具」をそっくりそのまま収めています。所蔵品は徳川家康の遺品を中心に、初代義直(家康の九男)をはじめ歴代の遺愛品やその家族が実際に使用した物など一万件余りに及びます。「源氏物語絵巻」をはじめ国宝9件、重要文化財59件、重要美術品46件を含み、種類の豊富さ、質の高さ、保存状態の良さを誇っています。(徳川美術館パンフレットより)第1展示室は武家のシンボル ー武具・刀剣ーかつて大名家で使われていた「具足飾り」が再現され、武士が武具に対して抱いていた尊崇の想いや武家の故実をしのぶことができます。第2展示室は大名の数寄屋 -茶の湯ー名古屋城二乃丸御殿にあった「猿面茶室」が復元されています。茶の湯は江戸時代になると「御数寄屋」の接待として武家の公式行事となりました。第3展示室は大名の室礼 -書院飾ー名古屋城二乃丸御殿の「広間」と「鎖の間」の一部が復元されています。各室の床の間・違棚・書院床には武家の故実に従って各種の道具を飾っています。その他第4展示室には武家の式楽 -能ー第5展示室には大名の雅 ー奥道具ー第6展示室には王朝の華 -源氏物語絵巻ーなどの展示室がありました。園内のいたるところで秋明菊が満開でした。その後、バスは昼食の会場、「魚鉄」に向かいました。大広間で46名が昼食。デザートが出ておしまい。次の目的地に向かいました。 (つづく)
2023.10.19
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長らくお付き合い頂いた5泊6日の旅の最終回になりました。米子城跡の続きです。1591年(天正19年)に富田城主となった吉川広家が築城を始め、広家の周防国岩国へ転封に伴い、新領主となった中村一忠によって完成されたと伝わります。標高90mの湊山の山頂に、大小2つの天守が並立する優美な城郭でしたが、明治維新後の明治12年(1879年)に天守は売却されて解体されました。山頂からは日本海や中海、島根半島、大山が一望できます。米子市街も見渡せます。残された石垣とわずかな遺構をご覧ください。かつては山陰随一の規模を誇る名城と言われた米子城の名残です。「行きはよいよい帰りは恐い」の歌の文句じゃないですが、降りるのも一苦労したそうです。自宅まで戻るのにガソリンが心もとないのでガソリンを満タンに入れました。ほとんどのガソリンスタンドがレギュラーガソリンが187円とか189円なのに、珍しくそのガソリンスタンドはレギュラーが183円となっていました。車はいつもハイオクなので191円でした。山陰地方にしては本当に安かったそうです。出雲大社の近くで入れた時は207円だったそうです。あまりの値段の高さにその時は驚いたそうですが、燃料が少なくなっていた時なので仕方ないのでした。家に帰る前に立ち寄ったのがこのお店お菓子の壽城です。「米子IC」を降りてすぐの所にありました。お客さんが大勢みえていたそうです。おいしそうなお菓子(とち餅、バームクーヘン、フロマージュフォンデ、モンブランフォンデなど)を購入し帰路につきました。「米子自動車道」に入り、「大阪・津山」の標識が出ているところで「米子自動車道」から「中国自動車道」に入り、「勝央SA」で休憩、中村屋のアンパンとバニラアイスを買い、外の「くだもの王国」のテントで「ピオーネ」と「シャインマスカット」を購入。「中国自動車道」から「新名神高速道路」へ入り、鳥取県から岡山県に入り、そこからは兵庫県へ。大阪府を過ぎて京都府へ入り。今度は「名神高速道路」を走り、あとは一目散に自宅を目指しましたが、「湖東三山PA」で休憩、トンネルを抜けて「関ヶ原」と書いてあるところから岐阜県に入り、「養老A」を過ぎてからは愛知県に入りましたが、途中でまた岐阜県になり、「岐阜羽島IC」から工事区間で交通渋滞にはまりました。そこで、ナビに「東海北陸道」へ向かうよう指示が出ました。やはりそちらはすいていました。おかげで自宅に午後5時半に到着しました。やっと長距離運転と5泊6日の旅が終わりました。(完)ながらくお付き合いありがとうございました。今夜は午後7時から9時まで中山道草鞋の会で日曜日の姫行列の衣装の準備に出かけます。力仕事は男性がされ、女性はアイロン持参で衣装にアイロンがけをする予定です。日曜日のお天気が曇から雨になっているので心配です。
2023.10.13
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最終日の朝もやはり午前2時過ぎには目が覚めたようです。旅の間、毎日こんな感じで目が覚めたそうです。そのまま日記を書いて、午前5時から6時までNHKニュースを見て「ラグビー・フランス大会」は見ずに大浴場で湯船にゆっくり浸かって気持ちよくなり部屋に戻ってまたニュースを見て8時まで待って朝食に行きましたが、旅館なので朝はビュッフェではなくパンが食べたくなったそうです。やはり朝食時間は15分。午前10時にはホテルを出るため9時半には部屋を出て1階のお土産物コーナーでお土産を買いました。自分用に鳥取のラッキョウを4袋すべての種類を購入し、最初に行きたかった「米子城跡」に向かいました。20分ほどで到着しましたが、「城跡」までは急な坂で登るのが大変だったようです。20分かかると書いてあり、やはり汗をかいたそうです。呼吸もえらくて、さすがにマスクを外して登ったそうです。その様子をご覧ください。ソフトテニスの試合をしているらしく、パコーン、パコーンと可愛い音が聞こえてきたそうです・そろそろ頂上が見えてきました。あともう一息です。(私は御伴をしてなくて本当によかったと思いました。)(つづく)
2023.10.11
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前述のように9月8日(金)も朝から晩までよく巡りました。後からスマホの画像が出てきましたので少し紹介します。朝、先ず向かったのが「島根県立美術館」でした。「住友コレクション名品選・フランスと日本近代洋画」で「はじまりはモネ」がちょうどこの日から始まったのでしっかり鑑賞してきました。その後、安来市に向かい「足立美術館」で魯山人、横山大観などの作品と美しい庭園を鑑賞。その後、月山富田城跡に隣接している「歴史資料館」へ行き、模型と説明を読みました。そしてその後、山を登って月山富田城跡を見学したのでした。この日はかなりの距離を歩いたので、さすがに足の強い相方も山登りで余計に疲れが出てきたようでした。でもこの後、昨日載せた「米子鬼太郎空港」まで車を走らせ、昼食を済ませ、鬼太郎キャラクターの写真を撮り、「境港さかなセンター」まで紅ズワイガニを買いに行ったのです。後期高齢者にしてはずいぶんエネルギッシュでしょ。そして30分ほど車を走らせ、やっとホテルに到着したのでした。この日のホテルは皆生温泉にあるこのホテル。ウェルカムドリンクはすべてセルフです。部屋に入りシャワーを浴び、ニュース番組を見てしばし休憩。夕食は午後7時30分から1階レストランで90分のバイキングですが、アルコールも飲まないし、あまり食べないので15分で終わったそうです。部屋で大好きな読書をしてニュース番組を見てこの日の行程をすべて終わりました。翌日はもう帰る日なので、予定を立てて眠りについたのでした。(つづく)
2023.10.09
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境港は漫画家・水木しげる先生の出身地として有名ですね。相方は昨年5月に鳥取県を一人旅した時に水木しげるロードを訪れました。ところがその日はお天気が悪くて雨風がひどくて、車から出られなかったそうです。今回は「米子鬼太郎空港」に行きました。バスのラッピングに「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが描かれています。ここにも鬼太郎が父親の目玉おやじと一緒にいます。空港に着いたのが午後1時半ごろだったので、先ずは2階の喫茶店で昼食です。エビフライ定食を食べました。もう少し空港内を散策しました。とにかくいたるところが鬼太郎と妖怪たちばかりです。こちらのバスにはまた違った妖怪たちが描かれています。警備派出所にも鬼太郎の絵米子鬼太郎空港を後にして次の場所に移動しました。昨年鳥取旅行をした時に「境港さかなセンター」を訪れ、紅ズワイガニをたくさん買ったお店に今回もまた立ち寄り、紅ズワイガニの水揚げが始まっていたのでたくさん買って発送しました。そしてその夜宿泊するホテルに向かったのでした。(つづく)
2023.10.08
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安来市へ移動してまず足立美術館を見学して次に向かったのは「月山富田城跡」です。相方は今まで出かけたどの旅行も本当によく歩きましたが、今回の旅行もずいぶん歩いたようです。足は強くなるかもしれませんが、かなり疲れを感じたそうです。特に「月山富田城跡」は山に上がっていったので余計に疲れを感じたのでしょうね。戦国時代を代表する難攻不落の山城であった月山富田城。千畳平が向こうにあります。最も城下に面している曲輪の一つで、斜面に張り出しを持つ大規模な石垣が築かれています。周辺から鯱瓦や鬼瓦を含む大量の瓦が出土したので張り出しの上には櫓が建てられていたと考えられます。山中鹿助幸盛の説明です。山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)の像。毛利元就に中国地方の覇権を奪われた尼子氏の再興を志した忠臣で不屈の精神の持ち主であったと伝わります。月山富田城は標高190mの月山を中心に飯梨川(旧名・富田川)に向かって馬蹄形に伸びる丘陵上に多数の防護施設を配した広大な山城です。山中御殿平(さんちゅうごてんひら)は月山、城主山腹にある、城主の居館があったとみられる場所で、周囲を石垣に囲まれた広大な曲輪です。多門櫓跡山中御殿平です。戦国時代、山陰地方で権力をふるった尼子氏。その本拠地となったのが月山に築かれた月山富田城で、二度にわたる外敵の襲来にも耐えた城跡には曲輪や石垣が残っています。月山富田城は国の史跡にも指定されており、2006年(平成18年)には「日本100名城」にも選ばれました。(つづく)
2023.10.07
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ジィジの旅日記にお付き合いいただいてますが、いよいよ旅も終盤に差し掛かり、9月8日(金)になりました。残り2日です。前回載せた「ハートの石畳」は実は8日の午前6時に歩いて探しに行って見つけたものです。前日は道を1本間違えていたようです。いつものように7時40分に本館9階で朝食を。その後、部屋で休憩して9時50分にチェックアウトして、島根県立美術館へ行きました。その日から「住友コレクション名品選・フランスと日本近代洋画」が始まったそうで、「はじまりはモネ」だそうです。多くの人が鑑賞していたそうですがすべて見て回り、私にはこの本を買ってきてくれました。120ページあります。島根県立美術館で「フランスと日本近代洋画展」を鑑賞している気分になりました。そしてその後、安来市に向かいました。そして名だたる美術品と美しい庭園の「足立美術館」を訪れたのです。私には本を3冊お土産に買ってきてくれました。こちらは180ページもある読み応えのある本です。そして実際の庭園の写真を写してきてくれました。日本庭園は約5万坪もあり、白砂青松庭(はくさせいしょうてい)と枯山水庭(かれさんすいてい)が広がっています。こちらは魯山人館です。陶芸家で書家で美食家など多芸で有名な魯山人の約500点の作品を所蔵しており、随時展示替えをしているので陶芸作品、絵画や書、漆の作品等を常時約120点鑑賞できます。こちらも本を買ってきてくれました。196ページあります。庭の続きです。実は「足立美術館の庭園」の本の後ろの方に庭園の手入れについて書いてありました。日本庭園は専属の庭師さんたちが中心となって管理していて、水やり、苔はり、松の剪定、芝生の刈り込み、サツキの刈り込み、木々の植え替え、施肥、白砂の補充、池や滝の清掃など一年を通して作業を行っていますし、また毎朝の開館前には庭師だけでなく全職員で庭の掃除を行っているそうで、これは足立美術館創立当時から続いているそうです。だからこんなにきれいなお庭を見ることができるんですね。アメリカの日本庭園専門誌の庭園ランキングで20年連続日本一に選ばれています。広大な枯山水を眺められる喫茶室もあります。横山大観特別展示室もありました。足立美術館に約120点の大観コレクションがあり、常時20点ほど展示されています。所蔵されている横山大観の作品が載っている本も買ってきてくれました。これも195ページあります。創設者は安来市出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう)という方で郷土への恩返しと文化発展のために1970年(昭和45年)に近代日本画を中心に展示する足立美術館を創設したそうです。(つづく)
2023.10.05
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一息ついたのでもう少し観光しました。おかげ天神です。街中をぶらぶら歩きました。向こうに松江城が見えました。ミートショップの前の置物珍しいコロッケの自販機実はミートショップの前にコロッケの自販機がありました。夕方の商店街何を写したのかと聞くと電線ではなく鳥を写したとのこと。さて、それはどれでしょう。そしてついに石畳のハートを発見しました。京屋小路(きょうやしょうじ)の説明です。伊能忠敬が1806年松江地方測量のため、1か月間逗留し、療養しながら測量の基地とした場所です。これも鳥を写したんだそうです。↓ わかりますか?(つづく)
2023.10.04
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ジィジの旅行記の続きです。「松江ホーランエンヤ伝承館」、「松江歴史館」を見てぜんざいと和菓子で一息ついた後、松江駅に戻る前に八重垣神社を訪れました。小泉八雲の「知られぬ日本の面影」第14章に八重垣神社のことが載っています。明治24年4月5日西田千太郎とともに行楽と取材を兼ねて松江郊外の神社巡りを人力車で行ったそうです。特に「鏡の池」に興味を示したようで、八重垣神社のお札類をイギリス・オックスフォード大学の博物館に贈っているそうです。↑「鏡の池」は稲田姫が飲料水を得、また姿を写されたといわれています。次に松江駅の地下駐車場へ車を入れ歩いて白潟天満宮へ行きました。学問の神様・菅原道真公を主祭神として天神さんの愛称で親しまれています。毎年7月24・25日に行われる夏祭り(例大祭)は松江の夏を告げる風物詩で、勇壮な神輿が繰り出し露店も並び、多くの人でにぎわうそうです。私たち二人に「ボケ防止のお守り」を買ってきました。この後、駅まで戻りホテルへ帰りました。お天気が良い中、かなり歩いたのでしばらく休憩をして、シャワーを浴びてからまたお出かけしたようです。ケーキのお店が前日夕食を食べた西洋軒の隣にあるのでそこまで行ってケーキを色々と買い、2階の喫茶店で一息つきました。ケーキをたくさん買ってホテルへお持ち帰りです。お店ではイチジクのショートケーキとジンジャーエールでほっと一息相方は和菓子も洋菓子もどちらも好きなんですよね。(つづく)
2023.10.02
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昨夜は中秋の名月で満月でした。次に中秋の名月と満月が一致するのは7年後だそうです。煌々と光る中秋の名月を時折見上げて眺めておりました。とても明るかったですね。さて、旅の続きです。「松江ホーランエンヤ伝承館」を見学後はすぐ隣にある「松江歴史館」を訪れました。では中に入りましょう。(少し傾いてしまいましたが、)松江藩松平家7代藩主・松平治郷(はるさと)は1806年隠居し、号を不昧(ふまい)としました。大名茶人「不昧公(ふまいこう)」は禅の道での称号です。書画や和歌、陶芸など多彩な教養にあふれ、茶人として「不昧流」を創始した大名茶人です。形式や華美な道具に固執しない不昧公の茶の湯は武士や町民にも浸透したそうです。歴史館の中の喫茶店で温かいぜんざいと和菓子を食べました。不昧公好みと呼ばれる三大銘菓もあるそうです。洋菓子の好きな相方ですが、やはりたまには松江の歴史や季節感を味わえる和菓子もいいものですね。(つづく)
2023.09.30
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9月4日、5日と休業だった洋食レストラン「西洋軒」に出かけ、夕食に「ビッグハンバーグ・250g」とスープ、ライスを食べてきました。その日の夜は珍しく22時からの「国際報道2023」を見て夜更かししたけれど、翌朝は午前5時からの「おはよう日本」を見てゆっくりテレビを見て過ごし、本館9階へモーニングに。いつものように窓際の席で宍道湖を見ながら朝食でした。外は通勤ラッシュで車がせわしなく行き来をし、宍道湖のシジミ獲りの船がたくさん出ていたそうです。シジミ獲りの船9月7日(木)の午前のことです。昨日のブログに書いたように京店商店街を散策し「カラコロ大黒」「ハートのパワーストーン」「京店ギャートルズ広場」「小泉八雲の後ろ姿」などを写真に撮った後、車に乗って「松江ホーランエンヤ伝承館」を訪れました。「ホーランエンヤ」は正式には「松江城山稲荷神社式年神幸祭」(まつえじょうざんいなりじんじゃしきねんしんこうさい)と言います。松江城内にある城山稲荷神社の御神霊を約10キロ離れた東出雲町の阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)まで船でお運びをし、7日間にわたり出雲国内の安定や豊作をお祈りしかえってくる船神事です。十年に一度、約百隻の船が大船行列が繰り広げられる全国でも最大級の船神事です。櫂伝馬船と乗組員(櫂方)について櫂伝馬船は神様の乗った船をお供しお守りする役目をします。乗組員はそれぞれの地区の男性がなり、ホーランエンヤの歌や剣櫂(けんがい)と彩振り(さいふり)と太鼓による櫂伝馬おどりは先輩の師匠が指導して伝統が受け継がれていきます。「ホーランエンヤ」の由来は漕ぎ手の掛け合いの音頭からきています。一番船は馬淵二番船は矢田三番船は大井 ↓ 左は剣櫂(けんかい)、右は采振り(さいふり)↓四番船は福富五番船は大海崎始まりは1648年、出雲国は大凶作の危機に見舞われ、心を痛めた松江松平家初代藩主・松平直正が城山稲荷神社の神職を兼務していた阿太加夜神社の神主の元へ城山稲荷神社の御神霊を船でお運びし、長年にわたって豊作を祈らせたことがホーランエンヤの始まりです。豊作の祈りは見事にかない、以後370年もの間ホーランエンヤは脈々と守り受け継がれています。(つづく)
2023.09.28
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松江市に大雨警報が出て、雨の勢いが強く、せっかくここまで来たのにあわや中止かもと気をもんだ「堀川めぐり・半周コース」も無事に終わりました。やはり安全管理を充分行っているのだとよくわかりました。水上観光船は毎年表彰してもらっているようです。お昼時をとっくに過ぎていたのでまずは昼食に出発しました。ナビを頼りに走り、2か所目のお店に入りました。udon dining cafe 安菜蔵という名のうどんがメインのお店です。14時までランチタイムで13時半過ぎに滑り込みセーフ。少し高台にあるお店で回りの景色がとても良かったそうです。「野菜天うどん」がおいしかったようです。9月7日(木)の午前中のことです。京店商店街を散策中に面白いものを見つけました。こちらは「カラコロ大黒様」です。出雲大社のご神体である大国主大神(別名・大黒様)が祀られています。石畳に埋め込まれたハートのパワーストーンを発見。紺屋小路のハートの石畳は探せなかったそうです。カラコロ広場にある小泉八雲の後ろ姿です。小泉八雲の著書で描かれた、松江大橋を渡る人々の「カラコロ」という足音が広場の名前の由来になっています。こんなのも面白いですよね。↓園山俊二さんは松江市出身だそうです。京店ギャートルズ広場にこんなものがありました。相方はギャートルズがわかる世代です。園山俊二さんの世界を体感できます。あそこのシャッターにも小泉八雲が描かれていますね。マンホールの蓋も松江らしいですね。松江市内の面白いものを見ていったんホテルに戻りました。(つづく)
2023.09.27
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国宝松江城(城山公園)を見学後、松江神社を通りました。松江藩初代藩主・松平直正を祭神に楽山神社として創建され、徳川家康を合祀した翌明治32年(1899年)この地に移され、松江神社と改名しました。そののち、松平治郷と堀尾吉春を合祀しました。次に興雲閣を訪れました。国宝松江城二の丸に明治36年(1903年)に迎賓館として建築されました。木造2階建ての擬洋風建築です。皇族のご宿泊所として使用されていたこともあります。大広間では堀川めぐり乗船場に行ってみましょう。実は小泉八雲記念館の後、堀川めぐりをしたいと「松江堀川ふれあい広場乗船場」まで行ったんですが、急に雨が強く降りだし、乗船場で雨が激しいので(松江市には大雨警報が出ていたので)船が出せないといわれ、お茶処で休憩して待ちましたが、小雨になりませんでした。その日の降水量は午前中が50%、午後は60%でした。(18時からは20%と低くなったそうですが)11時半を過ぎて小降りになりましたが、(宍道湖へ流す)堀川の水位が下がりません。(水位が下がらないと橋の下が通過できないので)船を出すのが難しくなってきました。後ろに来られたご夫婦は既に大手前広場乗船場から半周船に乗ってこられたそうで、松江城に行きたいとのことで、3人は車で松江城に送ってもらい、先に松江城を見学したのです。お城見学後、相方は大手前広場乗船場から半周コースで堀川めぐりをしてきました。堀川の水位が下がらないので全周コースには乗れませんでした。長々と書きましたが、堀川めぐり半周コースの様子です。そして元の乗船場に戻ってきたのでした。(つづく)
2023.09.25
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松江城に入り天守閣まで登り、周りの景色を見てきたそうですが、やはり国宝松江城の階段はものすごく急で登りにくかったそうです。昔ながらの国宝のお城はどこも階段が急ですね。(松本城、犬山城、彦根城、姫路城もそうでした)では附櫓・地階から見学していきましょう。ちょっと見えにくいですが、旧鯱(きゅうのしゃちほこ)1階の説明天守最大柱(半分切れましたが)↓1階からの眺めです。2階に上りました。松江城東側内堀沿いの石垣の刻印です。3階3階からの眺めです。東の方南の方北の方東の景色西の景色南の景色北の景色文部科学大臣の松江城天守一棟 国宝指定書4階・5階の説明この後、また急な階段を降りて行ったのでした。実は松江城天守に登る前に色々と事情があったのでした。そのことは次回に説明します。(つづく)今朝7時から中山道小松屋の掃除に行ってきました。今月まで夏時間で午前7時からですが、10月からは冬時間で午前8時からなので楽になります。例会を終えて8時半に解散になりました。午後は愛知の娘家族の家まで移動します。明日の朝一番に大学病院を受診するので今夜泊めてもらうのです。では行ってきます。
2023.09.24
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武家屋敷から松江城に移動する途中で見かけた祠です。次は大太鼓の「鼕・どう」の説明です。鼓の下に冬と書いて「どう」と読みます。大きさは150センチ前後から大きなものは200センチもありこれを宮造り座台(鼕台)に2~3つ乗せ叩きながら市内を練り歩きます。これが大太鼓「鼕・どう」松江開府の祖・堀尾吉春(ほりおよしはる)の像国宝松江城は堀尾吉春とその孫で第2代藩主の忠晴により慶長16年(1611年)に築かれました。では松江城の見学に参りましょう。松江城は城山公園になっています。二之丸地区解説版には「本丸南側の一段低い平地で、江戸時代は中央に御書院があり、松平家二代藩主・綱隆(つなたか)の時まで藩主の居宅となっていた。」と書いてあります。「松江城は松江開府の祖・堀尾吉春が1607年から5年の歳月をかけ、1611年に完成させた。松江城は住居というより、実用的な望楼型の砦の例の一つである。」と書かれています。江戸時代の姿のまま残る国宝の天守は千鳥が羽を広げたように見える入母屋破風(いりもやはふ)が設けられていることから千鳥城とも呼ばれます。それでは松江城の中に入りましょう。(つづく)
2023.09.23
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小泉八雲記念館から先へ進んでいくと江戸時代初期から塩見縄手の名前にゆかりがある塩見小兵衛など松江藩の上級・中級武士が住んだ武家屋敷があります。享保18年(1733年)の大火で焼失したものを再建してあります。たくさん写真を撮ってきてくれたのでどうぞご覧ください。市の文化財に指定されています。座敷では主の人形が出迎えてくれます。生活用品も展示され、当時の武士の暮らしぶりがわかります。湯殿(浴室)です。(つづく)
2023.09.22
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ジィジの一人旅も3日目になりました。9月6日(水)のことです。いつもの時間に起きて「国際報道2023」等を見て、午前7時からのモーニングに出かけるまでに旅の記録を書いたり写真を取り込んで本館9階へ移動し、窓際の席で外の景色を眺めながら朝食。(写真を省略)ホテルのすぐ下に神社が見えたので朝食後散歩がてら訪れてみたそうです。有名な神社ではなく、地元の氏神様のような感じだったそうです。9時前にホテルを出て松江方面に向かいました。この日は精力的にたくさん見学、見物してきたようです。先ず小泉八雲旧居(ヘルン旧居)を訪れました。明治24年(1891年)6月から11月の熊本赴任まで八雲がセツ夫人と新婚生活を送った屋敷です。著書「知られぬ日本の面影」で屋敷と庭の魅力を記してます。どうぞご覧ください。小泉八雲旧居の外観を遠方から撮ったものです。そしてすぐ近くに「小泉八雲記念館」がありました。小泉八雲記念館の中は撮影禁止だったそうです。「耳なし芳一」など怪談の著者で知られる小泉八雲の関連資料を収蔵して陳列してあります。八雲の生涯を編年で紹介してあったり松江市出身の俳優・佐野史郎さんの朗読が聞ける「怪談ルーム」があったそうです。ギリシャ生まれのアイルランド人、ラフカディオ・ハーンは英語教師として松江に赴任し、この地の伝説や怪談話を再話し、多くの本を書きました。(つづく)今朝は地元の小学校へ読み聞かせに行ってきます。小学1年生の教室に入ります。
2023.09.20
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昨日の続きです。龍源寺間歩の中を進んでいき、左折して、約116mの栃畑谷新坑の中にある電照板の「石見銀山絵巻」展示の残りをもう少しだけ紹介します。さあこれで出口にやってきました。この出口の中に入ったところが先ほど通ってきた約116mある「栃畑谷新坑」で、その説明です。龍源寺間歩の出口からすぐの場所にあるのは佐毘売山神社で地元では「山神さん」の名で知られています。16世紀中ごろに創建されました。(現在の社殿は1819年に再建されました)鉱山の守り神である金山彦命(かなやまのみこと)を祀り、鉱夫達がこぞって安全祈願に訪れました。約100段の石段が神秘的だそうです。ここまで見学を終えると、もうお昼時間を過ぎていました。駐車場の前にあるカフェで焼きそばを食べました。昼過ぎに雨も上がり、よかったと思って車を進めていると帰り道で所々強い雨が降ってきたそうです。雨の中を「出雲縁結び空港」に向かって山陰自動車道や国道を進み、到着。駐車場は満車で、運よく1台出ていったのでそこに停め、傘をさして空港へ入りました。レストランは予約の人だけしか入れなくて、仕方なく2階のショップでお土産を買ってから雨の中、ホテルまで戻ったのでした。そしていつものように時間が過ぎ2日目が暮れていったのでした。(つづく)今日は1日愛知でダンスパーティーです。新しい振り付けのサンバを笑顔で踊ってこようと思います。帰りは遅くなると思います。
2023.09.17
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次は銀山地区を紹介します。銀が採掘された現場や坑道(間歩)が当時のまま残っています。間歩(まぶ)というのは銀を掘るための坑道のことで、坑夫は間歩を掘り進め、鉱脈に当たると左右にひおい坑を掘りました。龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)というのは江戸時代に開発された代官所直営の坑道跡で、全長600mのうち、手前の157mを公開しています。手作業で掘られたノミの跡や鉱脈跡を間近に見ることができます。そこの写真をたくさん撮ってきてくれたので載せたいと思います。さぁ皆さんもご一緒に坑道(間歩)へ入りましょう。天井にノミの跡が残っているのがわかりますね。竪坑(たてこう)坑内で湧く水を排出するために掘られた竪穴で深さは約100mあります。ひおい坑間歩の左右に広がる穴で、鉱脈に沿って掘られていて、ここで採掘した石を製錬し、銀を抽出しました。突き当りを左折し、約116mの栃畑谷新坑を電照板の「石見銀山絵巻」の展示をたどって上がっていきます。もう少しありますが、長くなりますので次回に続きます。(つづく)いよいよ明日はダンスパーティーで新しい振り付けのサンバを踊ってきます。昨日から忙しなくなってきましたが、今日はダンス以外に夕方からある団体の大会に出席してきます。夏に岐阜県大会に出かけましたが、今回は市の大会です。立派な肩書のある方の講演会を聞いてから懇親交流会があります。あまり食べすぎないように気を付けないと明日のドレスが着れなくなってしまいます。
2023.09.16
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旅2日目、9月5日(火)のことです。この日はあいにくの雨。午前3時ごろには降っていなかったのに、時間がたつにつれ雨が降り出し、大雨警報が出ていたそうです。いつものように午前4時からNHKの番組、「持論公論」「国際報道2023」「おはよう日本」を見たそうです。朝食は本館9階で7時45分から。ホテル本館の9階からの眺めです。宍道湖には早朝からしじみ採りの船がたくさん見えたそうです。午前9時半に出発して山陰自動車道へ乗りましたが、途中、途中で工事中で対面通行が多かったそうです。午前11時半ごろに着いた「歴史資料館」や「いも代官ミュージアム」「ベッカライコンディトライヒダカ」などすべて休館でとても残念でした。記念に写真だけ撮ってきたようです。かろうじて「羅漢寺」と五百羅漢だけは見ることができたそうです。但し世界遺産の五百羅漢は撮影禁止なので、周りの景色だけ写してきてくれました。羅漢寺の五百羅漢は銀山で働いて亡くなった人や祖先の供養のため、約25年かけて造られたそうです。羅漢像が501体ひしめいています。全体が完成したのは1766年ごろだそうです。龍の天井絵がある羅漢寺本堂参拝の後、石橋を渡って石窟へ行くとこの中に五百羅漢は安置されています。↓龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)公園入口まで300mという看板が立っていました。銀山とともに栄えた街、大森地区は江戸時代の武家屋敷や石見銀山で栄えた歴史的な建造物が当時の面影を残していました。やっと石見銀山公園に到着しました。しかし車はそこまでしか行くことができません。登りの道が3キロ近くあるのでレンタサイクルで行った方が良いといわれ、電動レンタサイクルで一生懸命こいでいくと、前に借りて出発した3人組を追い抜いて走っていったそうです。登りは電動なので楽に走れたそうですが、帰りは下りが多いので電動スイッチを切ってきたけれど、速く走りすぎて、何度も何度もブレーキを使ったそうです。(つづく)
2023.09.15
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長くなりましたが、9月4日(月)の島根県立古代出雲歴史博物館の最終回です。国宝 加茂岩倉遺跡出土銅鐸国宝の青銅器群荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣の実物と模鋳品、16本の銅矛の実物が壁一面に展示。馬上の大首長の説明です。今回の旅の楽しみは出雲そばをいただくことでした。昼食は「出雲の国麺屋」に入り「3色割子蕎麦」を食べてきたそうです。夜寝るだけに泊まったホテルの別館にチェックイン夕食は俳優の佐野史郎さんがお気に入りのお店へ出かけ、チキンフライとかぼちゃフライを食べたら満腹になったそうです。出雲大社と出雲大社宝物殿と島根県立古代出雲歴史博物館を訪れることができて満足して、夕食後はホテルの部屋でいつものように読書をして9月4日(月)は暮れていったのでした。(つづく)
2023.09.13
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出雲大社に参拝した後は、徒歩3分にある島根県立古代出雲歴史博物館へいにしえの出雲を見学に行きました。まず目に飛び込んできたのはこちら。2000年に出雲大社境内遺跡より出土した宇豆柱(うずばしら)【重要文化財】と重要文化財の古代ご本殿心御柱【複製品】です。出土状況を再現しながら展示してあります。ガラス張りで反射して見にくいかもしれません。でも歴史は十分感じられますよね。それでは常設展の方に進みましょう。古代神殿の復元模型平安時代の出雲大社本殿10分の1の推定復元模型です。出雲大社本殿豊受大神宮(伊勢神宮外宮)正殿住吉大社本殿(第一本宮)宇佐神宮本殿(第一殿)賀茂別雷神社本殿春日大社本殿平安時代の出雲大社本殿復元模型です。出雲大社の屋根にあった千木(ちぎ)・勝男木(かつおぎ)の説明もう少し古代出雲歴史博物館が続きます。(つづく)
2023.09.12
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9月4日(月)から9日(土)まで5泊6日で島根県と鳥取県を車で旅したジィジの旅行記です。私は今度の日曜日(17日)のダンスパーティーに向けて今週はサンバの練習に集中したいと思いますので、写真が多いですが、お付き合いください。ちなみに写真は約550枚撮ってきてくれました。一眼レフなので画素数を7パーセントぐらいに縮小するのが大変で不揃いになりました。午前4時に自宅を出て、ちょうどお昼の12時に出雲大社に到着しました。この写真は中国道をひたすら西に向かって走っている時に西の空に月が見えたので非常駐車帯に入って撮ったものです。では出雲大社からご覧ください。境内にはウサギの石像が60体以上あるそうですが、一体として同じポーズはしていないそうです。読みにくいと思いますので少し補足します。幸魂(さきみたま)奇魂(串御霊)の説明です。「時に海を照らして依り来る神あり・・・古事記・また日本に述べてある出雲大社の御祭神・大国主大神はこの「幸魂・奇魂」のおかげをいただいて神性を養われ「ムスビの大神」となられました。」松の参道を抜けると両側に大国主大臣の像が出現。こちらは御慈愛の御神像です。「因幡の白兎」の神話のシーンが再現されています。銅の鳥居こちらも読みにくいと思いますので補足します。「縁結びの碑」の説明です。古事記に綴られた大国主大神が須勢理毘売神が出雲大社に仲睦まじくお鎮まりになられた由縁を語る神話の一文です。こちらはムスビの御神像です。大国主大神が海から寄り来る「幸魂奇魂(さきみたまくしみ」」と対話する神話の情景です。角度を変えて撮ってきました。そしてやっと出雲大社のご本殿前にやってきました。大きな注連縄がかかる拝殿で参拝しますが、出雲大社の参拝作法は二礼四拍手一礼なんだそうです。西側から仰ぎ見たご本殿が左奥に見えます。国宝指定の荘厳な大社造と呼ばれる日本最古の神社建築様式です。1744年に再建されました。ご本殿を覆う大屋根の面積は約180坪で檜皮が敷かれています。破風(はふ)板を覆う銅板には緑青「緑ちゃん」が塗られています。千木(ちぎ)は銅板を保護するため油煙(炭)を混ぜた「黒ちゃん」が塗られています。勝男木(かつおぎ)にも「ちゃん塗」が施されています。参拝を終えた人が御守所(おまもりしょ)でお守りやお札、絵馬を買っています。珍しい大砲が置いてありました。ここにも兎がいますね。(つづく)今日は朝一番に胃癌と大腸癌の集団検診に出かけます。お昼に、ダンスレッスンに出かけ、そのあと午後2時から整体師の方に自宅まで出張施術に来てもらいます。夫は朝早く、映画を見に出かけるので、中学生二人を雨降りなら送迎しないといけません。ミラ君の水泳教室までには帰ってきてくれるかしら?
2023.09.11
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2日目はお宿を出てからまっすぐ帰るのもちょっとねということで、南知多のお店を2店だけ立ち寄りました。まずはプリンのお店です。チータープリンでプリンを買いました。画像はありませんが、プレーンと塩キャラメルと桃ジュレとブルーベリーのプリンです。とてもおいしかったです。次に訪れたところは「まる伊」さんです。暑いのでアイスクリームを食べました。アイスの上にシラスと佃煮が載っていました。どちらも珍しい味でおいしかったそうです。お土産の買い物も終えたし、お宿を出てきたのが午前11時過ぎでしたので、そろそろ昼食タイムでした。魚太郎へ寄りましたが、駐車場は満車、お店も大勢の人たちで混雑していたので、買い物だけして次のお店に向かいました。まるは本館です。刺身盛り合わせや岩ガキフライやエビフライをみんなでシェアして相方とペコちゃんは海鮮丼を食べました。サーモン丼と鉄火丼だったような気がします。私は鯛とヒラメとカレイの3種盛りです。この後、帰路につきました。(旅の写真をすべてスマホで撮りましたが、最後の昼食だけ相方の一眼レフの写真です)こうして1泊の楽しい家族旅行は終わったのでした。(おわり)昨夜8月31日のスーパーブルームーンをスマホと一眼レフで撮りましたので記録として載せておきます。スマホの画像です。こちらは一眼レフで撮りました。なんだかスマホの画像のほうが幻想的ですね。月の周りに虹の輪が見えました。スマホには写りませんでしたが。
2023.09.01
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2時間余りの夕食の後、部屋に戻ると雷がひどくて、目の前の全面ガラス窓からは稲光が絶えず走り、雷鳴も迫力満点で稲光というより火柱が海に向かっていくつも落ちるようで、怖くて部屋の露天風呂に入れませんでした。(東海地方は天候が不安定で、どこでも雷や風雨がひどかったようです。岐阜のわが家も朝顔の支柱が倒れ、一瞬留守の間に泥棒でも来たのかと疑ったほどです)翌朝は嘘のようにピーカンの快晴。船が行き交う様子がよく見えました。朝食は午前8時半からゆっくりと。自分で魚を焼いていただきました。前夜の給仕は女性でしたが、翌朝は若いイケメンのお兄さん。御飯も味噌汁もおかわり自由ですが、そんなに食べられません。ゆっくり朝食を済ませた後は部屋でまったり。何しろここのお宿はチェックアウトが11時ですので。それじゃあ昨夜雷で怖くて入れなかった露天風呂に入りましょうとシャワーの後は、孫、娘、私の女性3代で海を眺めながら露天風呂でおしゃべりを楽しみながら癒しの時間。(撮影はジィジです)午前11時近くになり、帰る時間になりました。庭の風鈴がチリン、チリンと涼しげでした。↑ロビーに飾ってあったお花です。お宿の前で全員で記念撮影。下は8年前の7月に当時87歳の今は亡き母親とお宿に来た時の記念の写真です。この時も娘が旅を企画して招待してくれました。それではお宿を後にしましょう。(つづく)
2023.08.31
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令和五年 葉月 「金魚がすいすい泳ぐ頃」とお品書きに書いてある通り2時間かけてゆっくりと食事を頂きました。煮物椀の清汁の中に人参の金魚が2匹泳いでいました。窓からはどこかの花火が見えました。伊勢海老のお造りはお宿から娘へのプレゼント↓ (支配人さんがわざわざ運んできてくださいました)お祝いの器に盛りつけられています。飛騨牛A5等級ロースト知多牛5等級フィレが舌の上で柔らかく溶けてとても美味しかったです。 炙りアワビと枝豆の炊き込み御飯も美味しかったです。お品書きの「金魚がすいすい泳ぐ」はこちらでわかりますか?最後のデザートタイムにサプライズがありました。前もって娘がお宿に頼んでおいたようです。チョコレートでお祝いのコメントが書いてありました。まず今月誕生日を迎える自分のために(左)自分の娘(私たちの孫)に向けて(右)父親に向けて(左下)そして私に向けて(右下)もうこれだけで感激でしたが、もう一つサプライズがありました。私達は昨年金婚式を迎え、祝ってもらいましたが、今回もまたお祝いのお花を頂きました。最後は4人で記念撮影。本当は満50歳の娘にお祝いをあげないといけない立場なのに、娘がすべて段取りを企画して祝ってくれて、今回の旅を何もかもプレゼントしてもらったのでした。こちらこそどうもありがとう。そしていい気持ちで部屋に戻ったのでした。(つづく)
2023.08.30
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えびせんパークで「ぺったん体験」をした後は一路お宿に向かいました。車1台がやっと通れる細い山道を上がっていくとお目当てのお宿がありました。ペコちゃんは早速やぎを見つけました。やぎは人に慣れているようでしたが、ペコちゃんは慎重に近づいていきました。そしてツーショットを記念に撮りました。黒やぎさんはどこへ行っちゃったんでしょうね。ロビーからの眺めと部屋からの眺めです。見えるのは青い空に白い雲が浮かび、見渡す限り大海原が広がっている景色でした。夕日が海に沈んでいくところも見えました。夜のとばりが下りて、所々に明かりがついた庭を見ながら夕食に向かいました。このお宿は食事は個室でします。「食前酒はいかがですか?」と聞かれ、部屋で娘と甘口の赤ワインを1本空けた後なので、躊躇していると相方が「乾杯のシャンパンを飲む。」と言ったので大人3人は食前酒にシャンパンで乾杯!稲庭うどんの先付を酒の肴に。部屋が寒かったので、私だけブランケットを羽織り足腰にもブランケットをまきましたが、次第に体が温まってきました。乾杯も終わり、いよいよこれから2時間の夕食が始まりました。午後7時に始まり9時過ぎまでかかりました。目で楽しみ、舌で味わい満足、満足。(つづく)
2023.08.29
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8月26,27日で出かけた一泊の旅を振り返ります。お宿に行く道中、面白い看板があちらにもこちらにもありました。「ぺったん体験しませんか?」というフレーズが書いてあります。「ぺったん体験って何?」と4人全員が興味をひかれたんです。えびせんパークに到着して建物の中に入ってやっと疑問が解けたのでした。愛知の娘はカメラマンになるので、3人で体験してみてと受付で申し込みをしてきてくれました。結構大勢の人が体験していました。まあ若者が多かったですが。私たち3人も早速ぺったん体験をすることに。3人がそれぞれ好きな具(甘エビ、イカ、おおあさり)の入った器を選んでからトッピング(しょうが、黒と白胡麻、青のりなど)も好きなように入れて店員さんの説明を聞いてからぺったん体験を始めました。説明書を読みながら相方から順番にやりました。次は私の番でした。鉄板からはみ出したのもすぐに乾きました。出来上がったのを網に載せて待ちます。次はペコちゃんの番でした。3人ともなかなかうまくできました。完成したら袋に入れて持ち帰るなり、休憩所で食べるなりご自由にという事で少し食べてみましたが、とっても美味しかったです。自分で作ったという事もあるでしょうが、紅ショウガや黒、白ゴマや青のりなど味付けが良かったんでしょうね。屋外で出来立てのえびせんを食べて満足し、隣の売店でぶらぶらした後、この体験がとても面白かったので全員満足してえびせんパークを後にし、お宿に向かったのでした。(つづく)
2023.08.28
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昨朝自宅を出て愛知の娘家族の家に着き、家族と昼食後、ポコ君だけ一人留守番でペコちゃんと娘、私達夫婦の4人で車で南知多に向かいました。途中、「ぺったん体験」という面白い看板を見て面白そうだと寄り道して、姿焼きを焼いて楽しんでからお宿に向かいました。三重の母親と8年前に女子旅をしたことがあるお宿で、娘が仕事でよく利用しているのでおなじみのお宿・海のしょうげつです。ウェルカムドリンクお宿のロビーと部屋からの眺めメゾネットタイプで私たちは2階ヤギさんも2頭いてのどかな雰囲気です。黒と白のヤギさんです。早速娘と私は赤ワインで乾杯❣甘くて口当たりがいいのでついつい飲みすぎちゃいました。まだ夕食前だと言うのに…夕食は午後7時から9時過ぎまで2時間たっぷりかけて美味しくいただきました。途中で窓から花火が見えるし、雷の稲光がし始め、部屋に戻ると、稲光が目の前の海に向かっていくつも走り、雷鳴が近づいてきて火柱が落ちたりで、露天風呂にゆっくり浸かりたいと思っていたけれど、危険なのでやめて部屋から眺めてました。帰ってから詳しく振り返りますね。
2023.08.27
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6月1日(木)に出かけたバスの旅、中山道太田宿草鞋の会視察研修の旅も今回で最終回です。大樹寺から向かったのは蒲郡市竹島水族館です。昭和37年に建築された古い建物で、日本で4番目に小さな水族館ですが、展示は充実しています。三河湾、遠州灘の生物を中心に、熱帯地方の淡水魚、深海の生物など500種4,500点が飼育されています。深海の生き物は全国一の展示数です。ここは何度もバス旅で訪れた場所ですが、ここ数年訪れなかった間に水族館の周りはシャッター通りになって見る影もなく寂しい感じがしました。車で訪れるのは小さな子供連れの家族だけ。それでも水族館の中に入ると目を見張ります。ほんの一部ですが紹介します。館内からは子供さんたちが驚く声が聞こえて来ました。そしてちょうど午後3時からアシカショーが始まるというアナウンスがあったので移動しました。すると3段ある見物席はもう親子連れで満席でした。私達は立って見ました。アシカちゃんの大活躍に会場全員が拍手喝采でした。ここだけは大盛況でした。バスの集合時間までにまだ時間があったので海が見える所まで散策しました。向こうの方に竹島が見えました。隣のクラシックホテルもきっと皐月が咲いて綺麗だったことでしょう。帰りのバスは恒例のビンゴゲームがありました。参加者全員にお土産がいただけます。相方は2位でしたが、私はというとなかなかビンゴにならず、結局23人中23位のビリだったのでした。これもまた旅のいい思い出になりました。(オシマイ)
2023.06.09
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カクキュー八丁味噌の味噌蔵を見学後、食事処で八丁味噌の「味噌煮込みうどん御膳」を食べた後、バスは大樹寺を目指しました。慌て者の私と相方はタクシーでみんなよりも一足早く大樹寺を見学してきたんですが、再度念入りに見学できました。池には水連が咲き、1641年三代将軍家光公が建立したという山門も歴史を感じる古い門でした。楼上に後奈良天皇の筆による「大樹寺」の勅額【重要文化財)が掲げてありました。(逆光で暗くて見えませんが)屋根瓦には葵の御紋が見えました。鐘楼(県指定文化財)も1641年三代将軍家光公が建立。九代将軍家重公の名鐘が木の扉の内側に隠れてました。最近できたであろう家康公の石像本堂には「厭離穢土欣求浄土」の文字が以上が最初にタクシーで見学に行った時の写真です。これからはご一行の皆さんと見学に行った時の写真です。80歳の元気のいいガイドの男性の説明を聞きながら見学しました。境内から山門を通して家康公生誕の地、岡崎城が見えました。直線で3キロ以上ありますが、視界を遮る建物が立っていません。岡崎城とを結ぶ「ビスタライン」と呼ばれています。岡崎城が見えますでしょうか。山門の奥にある室町時代の末期に建てられた多宝塔は国の重要文化財です。この後、ご一行様全員の記念写真を撮りました。こちらが大樹寺の本堂。徳川家の先祖・松平氏と徳川将軍の菩提寺です。家康公の座右の銘で旗印にも用いた「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」はこの寺の住職・登誉上人が若い家康公を諭した言葉です。桶狭間の戦いで今川軍が敗れ、敗走した家康公がこの寺で自害を果たそうとした折に住職の登誉上人が諭した言葉で有名です。ここで家康公が亡くなっていたら天下統一は出来ず、長く続いた江戸時代はやってこなかったですからね。「欲にまみれた世を厭き、平和を求める」という言葉です。本堂の奥に進みました。家康公お手植えの椎(しい)の木です。幹が太く根元から枝分かれしていました。こちらは宝物殿です。「位牌は三河の大樹寺に祀るべき」という遺言を家康公が残したので、宝物殿には家康公の位牌をはじめ、日本で唯一14代までの徳川将軍の等身大の位牌が安置されています。15代将軍の徳川慶喜公は1867年に大政奉還をして政治の実権を江戸幕府から朝廷に返し、明治時代になって平民になられたのでお寺にご位牌がなかったのです。歴史の授業ではここまで教えてくれませんのでとても興味深かったです。また背の高い将軍や小さい将軍など等身大の位牌でそれぞれの体格がよくわかりました。(続く)
2023.06.08
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岡崎城見学の次に訪れたのはカクキュウ八丁味噌の郷、工場見学です。徳川家康公生誕の岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある八丁村に味噌づくりを始めたために「八丁味噌」と呼ばれています。工場見学と言っても味噌蔵見学をしました。こちらでは昔の建物が多く残っています。こちらの看板もずいぶん古いものでした。こちらでは昔の味噌づくりの様子が再現されています。女性が案内してくれました。次にみんなは味噌蔵の方へ移動して実際に杉桶の上に3トンもの石を積んである味噌蔵を見学しました。このような状態で2年間寝かすんだそうです。中山道太田宿草鞋の会の男性の皆さんは法被姿です。味噌蔵で味噌を作る人は納豆菌など他の菌が混じらないように三度の食事で納豆を食べてはいけないんですよね。味噌蔵見学の後は、みそ汁をカップに1杯に飲んでから工場内の食事処へ移動して、「味噌煮込みうどん御膳」を頂きました。団体旅行の人たちはこのメニューに決まっているそうです。大した量でないと思うでしょ。ところがお腹いっぱいになりました。食後ゆっくり休憩してから次の目的地に移動しました。(私たちは先ほどタクシーで行ってきたので二度目ですが)(続く)
2023.06.07
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岡崎大河ドラマ館を出て、ちょうど午前9時半のからくり時計を眺めた後は岡崎城公園内を歩いて岡崎城に向かいました。実は私たちは以前バスの旅でここを訪れたことがあり、家康像は見たことがあります。しかしこの像は初めてのような気がします。龍城神社の案内石像が立っていました。岡崎城を背にして家康と竹千代の石像があります。毎年石垣の測量をしているそうで、廊下橋の東面も歪みやずれがあったとか。※ この橋は通行止めにしてあり渡れなくなっています。本丸へ通じる細長い通路部(帯曲輪)です。史跡岡崎城には高木が1490本も生育していたので石垣を毀損する樹木を伐採してよく見えるようにされました。岡崎城の天守閣まで上がりました。天守閣石垣や礎石などの遺構に関するものからジオラマやプロジェクションマッピングで岡崎城の成り立ちや武士と庶民の暮らし、岡崎の文化や伝統産業などが紹介されていました。以前の岡崎城の写真です。プロジェクションマッピングで花火が何度も上がってました。外に出て顔はめをして遊びました。笑わないでね。徳川家康と竹千代です。そのすぐ近くにある龍城(たつき)神社です。龍城神社の天井を見るといいと教えられて、見上げると木彫りの龍の彫刻が施されていました。その後、すぐ近くの本丸茶屋へ入り、抹茶ラテとお団子を食べたのでした。※ 実は岡崎大河ドラマ館と岡崎城見学をするだけで集合時間までに約2時間半もの時間の余裕がありました。大河ドラマ館も真っ先に見学して出てきましたし、岡崎城内でもほとんどご一行の皆さんと顔を合せなかったのでてっきり次の大樹寺まで出かけたのかとなぜか思い違いをしてしまい、場内のガイドさんに大樹寺へ行く道を聞くと、「約3キロほどあるのでとても歩いて往復はできませんよ」と言われ、駐車場の守衛さんにタクシーを呼んでもらって御一行様より先に大樹寺を見学してきたのでした。当日の旅行参加費よりも高くついたことを幹事さんにこぼすと、「大樹寺は昼食後にバスで行きます」と言われて、「アッチャー!いつもの慌て者の癖が出てしまった」と反省しきりなのでした。(続く)
2023.06.06
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6月1日(木)の事です。太田宿草鞋の会視察研修の旅に参加してきました。総勢23名のバス旅でした。バスは一路岡崎を目指し、最初に着いたのが「どうする家康」大河ドラマ館でした。岡崎公園内の岡崎城近くにあり、1階フロアではドラマに登場する衣装や小道具、作品紹介パネル、オリジナル映像シアターなどがあります。ストーリーや人物紹介のパネルなどが展示され大河ドラマの世界観を楽しめる施設になっています。「どうする家康」の出演者全員の写真と相関図、色紙なども展示されていました。(色紙の写真撮影は禁止)ここは写真撮影ができる所とできない所がありました。これらの甲冑は写真が撮れました。家康公の像まで3点は撮影可でした。そしてこちらのコーナーからも撮影できました。挽いて粉にして使った香辛料?だったような気がします。(記憶がおぼろげです)地階では史実に基づいた家康の一生と三河武士について展示されています。大河ドラマ館を見て回って出てきたところで、暇を持て余していた武将たちに声をかけ、記念撮影をしてもらいました。御一行様も他の観光客も皆さんスルーしていくので、声をかけたのは多分私だけでした。ちょうど午前9時半を知らせるからくり時計が動き始めたので撮りました。10時や11時ジャストだと倍の長い時間、舞い(踊り)を見せてくれるんだそうです。またしばらく「どうする家康」岡崎の旅が続きますのでよろしくお付き合いください。(続く)今日は朝一で大学病院を受診してから午後自宅へ帰ります。
2023.06.05
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朱塗りの春日大社と緑の木々のコントラストを楽しみ、スイーツと抹茶で一服をしてから最後の目的地である新薬師寺に向かいました。本当は車で遠回りすれば行けるんでしょうが、春日神社から歩いて行くことにしました。ところが、鎮守の森を歩かなければなりません。しかも歩いているのは私たち二人だけ。鬱蒼と木々が生い茂る森の中を歩いていると少しだけ不安な気持ちになってきましたが、ボディーガードがいるのでただ黙々と歩き続けました。「夕方から夜は通らないでください」と立て看板がありました。やっとのことで民家が見えてきてほっとしました。案内標識に従って歩を進めました。最初に着いたお寺はどうも新薬師寺ではありません。そこからもう少し進むとやっと見えてきました。こちらが新薬師寺です。747年(天平19年)聖武天皇の眼病平癒を祈り、光明皇后が建立しました。こちらが本堂です。本堂内は写真撮影禁止でした。(以下3枚の写真は頂いたリーフレットから拝借しました)ご本尊の薬師如来坐像(国宝)が祀られています。右手のポーズは「大丈夫だよ」という意味を表す施無畏印(せむいいん)。ご本尊を守るために十二神将像(国宝)がぐるりと回りを囲んでいました。実は相方が十二神将立像の内、一番人気がある伐折羅(ばざら)大将像の実物が見たかったんです。炎のように髪を逆立たせ眉を吊り上げ、歯をむいて敵を一喝する勇者です。ご本尊の向こう側でこちら側からは見えません。これが伐折羅大将像(国宝)です。そして自分たちの生まれ月の神将の所へ蠟燭を献灯した後で、新薬師寺を後にして、また森の中を歩いて春日神社の参道へ戻ったのでした。最後に紹介するのは2日目に滞在したホテルのロビーです。奈良駅の近くという利便性もあってか外国からの観光客の皆さんが本当に大勢滞在してました。そして朝食はビュッフェのモーニングです。柿の葉寿司が食べたくてほんの少し盛り付けたつもりなんですが…他の皆さんは朝から食欲モリモリで圧倒されました。これで2泊3日の奈良の旅を終え、帰宅の途に就いたのでした。奈良の旅をご覧いただきありがとうございました。(オシマイ)昨夜は先日選ばれた10名のオーストラリア派遣生の第1回派遣研修会に出かけました。今朝は早朝に三重県に向けて出かけます。実家の母親の一周忌法要が行われるからです。早いもので母が亡くなってもう1年になります。時間が経つのは本当に早いですね。法要と食事終了後、愛知へ移動します。明日朝一で大学病院を受診するので娘家族の家に泊めてもらうからです。PCを持参しますが、落ち着いてみることができるのは遅くなるかもしれません。では行ってきます。
2023.06.04
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雨の中、東大寺を参拝した後でやってきたのは春日大社です。平城京ができた頃、常陸国(茨城県)の鹿島から都の守り神としてお移り頂き768年に社殿を造営しました。手水舎で清めて歩きました。参道には約2000基もの石灯篭が並んでいます。やっと見えてきました。南門です。本殿が少しだけ見えました。しかし、その日は幣殿にずらっと座っている人たちと外で順番を待つ長蛇の列ができているので、どうも何か神事があるようでした。それで特別参拝受付には行きませんでした。重要文化財の朱塗りの美しい回廊には金色の釣灯篭も吊るされています。ここまで来ると、観光客は足止めをされました。どうも珍しい行列が始まったので相方は外の石段下から写し、私は内側から写しました。最初に山伏のような方々がほら貝を吹きながら現れました。その後ろに続く人たちは以前載せましたので省きます。そして神官さんたちが続きました。行列の最後を見送りました。珍しい行列を見せてもらえたことだし、雨の中を歩いたので、国宝殿1階にあるのカフェで一服しようと私は抹茶クリームあんみつセットを頂き、相方は鹿音クーヘン抹茶セットを頂きながらしばらく一休みしました。そして最後の目的地、新薬師寺へ行く道を検索したのでした。(続く)
2023.06.03
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奈良滞在3日目は朝から雨ふりでした。(最終日)最初に向かったのは東大寺です。聖武天皇が早世した息子のために建てたのが始まりとか。国宝 南大門の扁額「大華厳寺」は聖武天皇の筆跡です。正倉院に残る聖武天皇直筆の文書から文字を集めて写したものだそうです。南大門の左右に向かい合って立つ阿吽(あうん)の仁王様は金剛力士像(国宝)です。南大門向かって左側には「あ」と口を開いた阿形像(あぎょうぞう)。高さ8m36㎝あります。金剛力士像(向かって右側)は「うん」と口を閉じた吽形像(うんぎょうぞう)。高さ8m42㎝あります。中門中門を入ると左側に東大寺ミュージアムがありました。大仏殿は現在混雑しているので待ち時間が長いとアナウンスがあったので、東大寺ミュージアムの開館を15分ほど待って東大寺との通し券を買いました。中は撮影禁止なので表に貼ってあった仏像を写しました。中央が千手観音菩薩立像(重要文化財)木造・平安時代(9世紀)左は月光菩薩立像(国宝) 右は日光菩薩立像(国宝)どちらも奈良時代(8世紀)の塑造です。国法 四天王立像も奈良時代(8世紀)の塑造です。ではこれから大仏殿に向かいましょう。雨降りでも大勢の学生さんたちがいました。人の大きさと比較するといかに大仏殿が大きいかがよくわかりますね。大仏を安置する東大寺の金堂(本堂)で世界最大級の木造古建築です。創建以来2ぢ焼けているので現在は江戸中期に建てられた3代目。ご本尊の大仏(廬舎那仏坐像)さまは国宝で高さ15mの世界最大級の銅造の仏像です。持国天像頭部と増長天像頭部の二天の頭部のみ残ったそうです。多聞天如意輪観音私達が拝観を終えて大仏殿を出る頃にはもう長蛇の列ができていました。雨がかなり降っているので、さすがの鹿さんたちも雨宿りをしていました。木の下で鹿さんたちと記念撮影をする私です。ではこれから春日大社に向かいましょう。(続く)
2023.06.02
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薬師寺を拝観した後で、車を走らせ、やっと駐車場に車を入れて興福寺にやってきました。先ず右手にあるのが興福寺国宝館。阿修羅像で有名ですね。そのほかにも金剛力士など国宝仏像の宝庫です。次に向かったのは東金堂です。聖武天皇が建立し現在は室町時代に再建した6代目。五重塔は奈良時代に光明皇后が建立。やはり5回の消失と再建を繰り返し現在は室町時代再建の6代目で高さ50mの塔は奈良のランドマーク。矢印に沿って進みました。こちらが南円堂。そしてこちらは木造建築として屈指の大きさを誇る中金堂です。興福寺の中心となる中金堂は現在入れなかったので外観を写してきました。江戸時代中期に焼失後、本格的な復興は行われてなかったんですが、2018年に約300年ぶりに再建されました。屋根の両端に金色に輝く「しび」は高さ2mもあるそうです。瓦は約7万枚で日本だけでなく世界から寄進されたとか。柱も太かったです。帰り道で、笹竹で舞台を作っている男性に会いました。明日薪能があるので見に来てねと言われましたが、私達は翌日はもう帰らねばならなかったですし、翌日(金曜日)は雨の予報が出ているんだけどなぁと思いながら通り過ぎました。鹿せんべいを買っている姿をこっそり撮っている人は誰ですか?鹿にせんべいをあげました。ホテルのテレビでちょうど奈良公園の鹿の事をやっていました。鹿がせんべいを食べる前に何度も頭をペコペコ下げますが、それを研究した方(奈良女子大学の方)がいてコロナ禍で山から公園へ下りてくる鹿の数が減ったそうです。そして餌をもらう時に頭を下げる回数も減ったそうです。こういうところにもコロナ禍の影響が出ていることがとても面白いなぁと思ったのでした。やはり何でも体験するとよくわかりますね。(続く)今日はこれから「どうする家康」で有名な岡崎城など家康に関する場所を観光してきます。午前7時15分集合で午後6時過ぎに帰る予定です。それでは行ってきます。
2023.06.01
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法隆寺の西院伽藍、東院伽藍、夢殿と中宮寺を参拝した後で向かったのは薬師寺です。駐車場がわからず、私一人だけおりて池のそばの細い道を歩いて薬師寺ヘ向かいました。鷺が一羽だけ羽を休めていました。なんとか薬師寺に到着。東塔と西塔が見えました。南門(重要文化財)の脇から入ることにしました。相方は駐車場を探して走りまわり、車で待っているとの事でした。手水舎でしょうか。誰も近づかないので私も遠くから眺めただけ。中門の両側には彩色された金剛力士像でしょうか?中門をくぐると目の前に金堂が見えました。薬師寺は7世紀後半、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気回復を祈り建立を発願。藤原京に創建され、平城京遷都に伴い718年現在地に移されました。(藤原京跡を訪れた時に持統天皇の碑を見たばかりでした)後の火災などで東塔以外創建時の建物を焼失。昭和から平成にかけてお写経勧進によって中心伽藍を白鳳様式で復興し、玄奘三蔵院伽藍を造営しました。2021年には10年以上かけて東塔の大修理が完了。大勢の中学生が修学旅行中でした。向こうに見えるのは東塔(国宝)高校生も大勢いました。こちらは西塔国宝・東塔落慶記念で東塔と西塔の特別公開をしているので共通拝観権を買って東塔から参拝しました。東塔は奈良時代の創建で平城京に残る最古の建物として国宝に指定されています。私が東塔と西塔で最も印象に残ったのはお釈迦様の生涯を表した「釈迦八相像」でした。創建時は粘土で作られた塑像がありましたが、多くが破損してしまったので中村晋也氏によって平成27年から令和5年にかけてすべて彫刻で再現されました。八つの像は見る価値があると思いました。その後金堂の薬師三尊像(国宝・白鳳時代)を拝顔しました。中央は薬師如来、向かって右が日光菩薩立像、左が月光菩薩立像で薬師三尊像です。金堂も東塔、西塔すべて写真撮影禁止だったので頂いたリーフレットから拝借しました。駐車場に戻ると、中高生がバスを何台も連ねて大勢来ているので,ずらっと並んだ自販機はすべてどれもお水とお茶が売り切れで買えませんでした。(続く)
2023.05.31
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斑鳩町にある法隆寺の西院伽藍から東院伽藍に向かって長い参道を歩き、夢殿(国宝)を拝観した後はさらにその先にある中宮寺を訪れました。左に表門と本堂、太子殿を外から眺めながら進むと中宮寺の入り口が見えてきました。ご本尊の如意輪観世音菩薩(国宝 木造菩薩半跏像)の写真が展示されていました。前日に上皇様ご夫妻が中宮寺を訪れたニュースが流れましたが、入場券売り場の女性二人は「昨日は警備の関係でこの場所に入ることも座ることもできなかった」と言われました。翌日は静かで訪れる人もそんなにいなくて静かに拝観できました。但し、菊の御紋の建物を正面から撮るのは止めてください、斜めの方向から撮ってくださいと言われました。それで斜めから1枚だけ撮って、中に入り参拝しました。中宮寺は聖徳太子が母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の御所を寺に改めたのに始まると伝わる尼寺です。高松宮妃殿下の発願で昭和43年(1968年)に建立され、2021年春に本堂が修復されました。それで旧斑鳩御所と呼ばれます。ご本尊の菩薩半跏像(寺伝:如意輪観音菩薩)は右手の指先をそっと頬に当てまなざしは慈愛に満ち、唇の両端を軽く上げた優美な微笑古典的微笑(アルカイックスマイル)をたたえ、エジプトのスフィンクスやモナリザと並ぶ「世界の三大微笑」の一つに数えられます。(入口の写真をご覧ください)そして太子が往生した天寿国の様子を刺繍で描いた天寿国曼荼羅刺繍(国宝・拝観できるのは複製)も説明入りで、すぐ間近で拝見してきました。(リーフレットから拝借)聖徳太子二歳像もしっかり拝顔してきました。(リーフレットから拝借)その後、裏道の住宅街へ出てしまい誰も通らない道をとぼとぼと歩きました。おかげでめったに目にしない発掘調査中の場所を眺めることができました。やっとのことで法隆寺の南大門に到着しました。(続く)わが家の庭で咲いたカーネーションとスカシユリと紫陽花です。
2023.05.30
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聖徳太子と推古天皇が7世紀初めに創建したとされる法隆寺にやってきました。南大門から入る前に、五重塔を遠くに見ながら茶店でソフトクリームを食べながら少し休憩。まだ両足に痛みがかなり残っているので早く歩けなかったんです。南大門にはすでに小学生の学外研修の子供たちがたくさん。南大門は1438年に再建されました。南大門から入るとさらに子供たちの人数は増えました。中門は飛鳥時代の建築で重厚な扉と左右に立つ塑像の金剛力士像(奈良時代)が睨みを利かしていました。(向かって右側)(向かって左側)深く覆いかぶさった軒、その下の組み物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱は飛鳥建築です。東西に延びた回廊の連子窓が塔と金堂を包み込んでいます。拝観入り口の左の方へ進みました。五重塔が見えています。五重塔(飛鳥時代)は釈尊の遺骨を安置するためのもので、7世紀後半~8世紀初頭の建築です。金堂と並ぶ世界最古の木造建築で地上からの高さは約34mで日本最古の五重塔です。小学生のグループが次から次へと入っていきます。待ち時間はどうも長くなりそうです。座る所もなさそうで今回は金堂拝観をあきらめることにしました。金堂(国宝)は西院伽藍の中心で、世界最古の木造建築です。頂いたリーフレットから写真を拝借しました。堂内には聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代・国宝)、父君、用明天皇のために造られた金銅薬師如来坐像(飛鳥時代・国宝)、母君穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来像(鎌倉時代・国宝)、樟で作られた日本最古の四天王像(白鳳時代)が邪気の背に静かに立っています。木造吉祥天立像、毘沙門天立像(平安時代)が安置されています。鏡池のそばには正岡子規の有名な句碑、「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」が建っています。樹齢がありそうな木を眺めながら東大門に向けてひたすら歩き続けました。門をくぐると目の前に夢殿が建っています。東院伽藍の中心の八角円堂です。聖徳太子が住んでいた宮殿跡に、739年(天平11年)に行信僧都が大使を偲んで建てました。堂内には本尊の救世観音立像(国宝)、行信僧都坐像(国宝)が祀られています。私達は拝観できる最後の日(5/18)に見ることができました。拝観できるのは4月11日~5月18日と10月22日~11月22日までだけでした。内部は写真撮影できなかったんですが、スマホで撮っている人が数人いました。救世観音立像は聖徳太子の肖像と伝わります。豪華な宝冠は精密な透かし彫りで瑠璃色のガラス玉が散りばめられています。飛鳥時代の仏像の特徴である体の左右に伸びる天衣と神秘的な表情は「アルカイック・スマイル」は(古拙の微笑)と言われ唇の両側が上がり微笑しているように見えのが飛鳥仏の特徴の一つです。鐘楼を見ながら中宮寺に向かいます。(続く)
2023.05.29
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