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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール21(四百六十五) キルケゴール自身を実体化している其のものの故郷ともいうべきは、「天上」であり「地上」ですが、彼の倫理的実存精神は混乱してしまい、「パウロの悲観」を再起させます。彼は今自分が思考していることの行動に不安を感じます。自己の思考の欲することは行わず、自己の憎悪している其のものに嫌悪します。此処に彼の基督教会倫理に染め付けられた生活環境が浮上します。自己の憎悪している其のものは、自分の精神に宿している精神の奥底に潜む魔性であり、善なることを行う意志はありつつも、自分の欲する善は起動しない。善なることを行う意志はあるのにと「原罪論」を受け入れています。其れ故に、将又、暗き思考癖が浮上します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール20(四百六十四) キルケゴールの本来の自己、永遠の自己にまみえる迄は努力を惜しまないとは、多分に偏執的にも取れるが、キルケゴールは自己の存在の根源及び発源が「天上」であり、其れとともに「地上」だとします。キルケゴールの思考癖からして自分の故郷は天上であると伴に現実界に在るとします。但し、永遠を追求する彼自身は現実界では地上の有限なる存在です。彼の思考探査は自己を「霊」であると共に「肉」其のものであると囁きます。彼の精神の奥底では倫理的側面からも、自己を「霊」であると共に「肉」其のものが互いに鬩ぎ合い且つ其れによりキルケゴール自身を引き裂く。彼の倫理的実存の行き着くところは自己の「霊」であると共に「肉」其のものの、憎悪を込めた抱擁であると云えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール19(四百六十三) キルケゴールは人間が外部環境の関わり方において感性的で美的な実存性を求めても得られるものが「絶望」しかないとしても第二の生き方があるとして倫理的(りんり)な実存を用意します。感性的で美的な実存を外部環境の関わり方においては揺らめいたのに対し、倫理的実存は外部環境と拘わらず、自己自身の内面性である奥底の自己内精神に向かって、ただ只管(ひたすら)に自分自身を追求する。其の行動は、自分自身の精神の内奥を選択する旅であり、本来の真の自己自身に出会うまでは内精神は飢えと乾きに苛まれる。強靭な霊魂の持ち主ならば本来の自己、永遠の自己(Eternal self)にまみえる迄は努力を惜しまないだろうと予測します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール18(四百六十二) キルケゴールに哲学的体系には個別的霊魂の不滅を願う姿勢が読み取れるとはいっても、其の流れはヘーゲルの哲学的体系が見せる客観的抽象概念への批判と格闘の結果得られたものであり、其の基本的立場は「現実性は主体性である」又「真理は主体性にある」でしょう。然し乍ら、此の思考的方法を原則として自己を徹底的に追跡・追求することには人間の最大の喜び若しくは幸福感が待ち受けているのだろうか。古代ローマの詩才に長けた芸術皇帝「ネロ」は自己の幸福乃至快楽の目的を達成するために、ローマを配下に放火させ焼き尽くし、子の母親の面前で其の幼児を切り苛みしたが己が心に結果として現れるのは憂愁と倦怠だけであった通り、其れ故に、キルケゴールは人間が外部環境の関わり方において感性的で美的な実存性を求めても得られるものは「暗い灰色の絶望」しかないとします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール17(四百六十一) キルケゴールはヘーゲルの哲学的体系が見せる客観的抽象概念には批判的です。論よりの証は、彼が22歳の時の日記に「私にとって真理であるような真理を発見し、私が其れがために生き死にすることが重要なのだ。所謂、客観的真理を探し出してみたところで、其れが私に何の益になるのだろう。」と述べます。キルケゴール自身にとって意味があるものは、他ならぬ自分自身「此の私」だけだという訳です。言い換えれば自己の内精神は其れだけが現実だと訴えることになります。此処で彼は主体的な在り方「実存」を高らかに歌い上げます。此の肉体と精神を共に含有する私は自身専ら愛し、何処どこまでに関わること、関わり切ることが主体性であり「実存」其のものだとするのです。此処には彼の信仰上の霊魂観とは相違する共有する霊魂ではなく、寧ろ、個別的霊魂の不滅を願う姿勢が読み取れます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール16(四百六十) キルケゴールは人間の個別観念の彼の思考基底を無視したヘーゲル体系に果敢に挑戦します。全世界にも替え難い、此の自分が持つ魂と生命、此のものこそがキルケゴールの個別観念の思考の「花咲かせるための種」である。一応のこと、キルケゴールはヘーゲル体系を、歴史の進歩を説き明かしていることは評価しますが、では、其の歴史の中に生きて死にゆく一人ひとり、個々の人間は課題に挙げない。成る程、次々と異彩を持って世代をもって世界史に登場する人物は尽きることがない。ヘーゲル体系は其れを見向きもしないし、星屑のいち雫である個々の人間などは問題としない。「哲学的断片後書」の中で「観察者は呆然と、彼(か)の世代の巨大な森を見つめる。そして、樹を見て森を見ずの言葉通り、彼は森を見て個々の木を見ない。観察者はヘーゲル体系で膜(幕)を吊るし、其のためには民族と国民は用いるが、個々の人間は体系にとって何の意味もなさない。」。ヘーゲル体系は確かに、生を説き、死を説く。然し乍ら、人間は例え心中や集団自殺にしても最終的には、自己その者は一人で死ぬ。死ぬのは抽象的な「人間一般」ではなく、詰まるところ其の時は各々単独の私人間です。そう、今まさに此の世を離れる「私(わたくし)」、肉体とその身体に宿る精神の奥底に眠る魂です。キルケゴールは此の人間の喜怒哀楽・苦楽平安にヘーゲル体系は無関心だとしています。此の批判はヘーゲルからすれば意外だったでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール15(四百五十九) キルケゴールはヘーゲルが構築した体系に、人間が充分な経験・体験を積み重ねて後、自己の思考に切迫されヘーゲル思想に頼ると、彼はヘーゲルの隠れなき偉大さにも拘らず、滑稽なのを見出すとは何故か。例えれば、ギリシャのアテナイの市民層の知識人が多くの知識を持つにかかわらず、ソクラテスが云う最も大切なものとしての基礎概念を知らなかったように、アテナイ市民と同様にキルケゴールが最も大切なものとしての基礎概念に気付かされていない。では、其の隠れたソクラテスが云う最も大切なものとしての基礎概念「無知の知」に匹敵するキルケゴールが云う基礎概念とは何であろう。意外性を持った答えを彼が用意しています。「ひと(人間)たとい、全世界をもう(設)くとも自が世界に魂を失わば、何の益あらんか」と聖書にある。まことに、ヘーゲルが構築した体系には、成る程の「全世界」がある。しかし、其処には、欠けている唯一のものがある。自己の「魂」を存在を高らかに掲げています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール14(四百五十八) キルケゴールはヘーゲルに対して其の思考体系を評価し尊敬もしていたのですが、其のことが彼の著書「哲学的断片後書」のための覚書にしたためられています。「私は、時としてヘーゲルに対して不可解な尊敬を抱く。私は、彼から多くのものを学んだ。そして、再び彼に帰ってゆくとき、更に増々多くのものを学ぶことが出来るということを、実によく知っている。------私は生きた。そして、恐らく人生の網の中で、並々ならぬ試みを成した。思想に対して発見すべき道が残されているに違いないと信じつつ、私は哲学者の著書、取り分けヘーゲルの著書に頼っていた。」此処で彼が続ける文章には、ヘーゲルの哲学体系が、はたして世界の謎とした真実を明らかなさまに絶対的に解いたものとして良いのかどうか、全て解決したものでないのならば「ヘーゲル体系」が見落としたものは何か。彼は前文に続けて「然し乍ら、まさしく此処でヘーゲルは人を見捨てるのである。彼の哲学的知識、彼の驚くべき博学、彼の天才的洞察、そして普通に哲学者に云われる汎ゆる長所を、私は彼の何様の弟子にも劣らず認めようと思う。------否、思うどころか誉め称えようと思うのだ。教えられようと思うのだ。だが、其れにも拘らず、人が人生で充分の試みをなして切羽詰まって思想に頼って行くと、其の隠れなき全ての偉大さに拘らず、滑稽なのを見出すだろう。」と結んでいます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール13(四百五十七) ヘーゲルがベルリン大学の教壇に立ち講義していた頃は、其のヘーゲルが構築し説くところの哲学は、当時のドイツ哲学思想を尽く論破して天下無双の勢いで、もはや、ヘーゲル哲学が、世界の謎とした真実を明らかなさまに絶対的に解いたものとして、かってのローマ帝国の執政官のような威令でもって学界を席巻し、誰しもがヘーゲル哲学を覆されざる真理と認めざるを得ない時代でした。ヘーゲルの当時の世界の思考を覆うのは、古代からの哲学思考の非凡な人間によって構築された累積的思想を「絶対的観念論」の体系にまで昇華し、かってにはまみえない、知識と信仰との融和、ギリシア哲学三傑と其の流れとキリスト教の融合を果たし得たの如くもてはやされます。此の傾向は、ヘーゲル死して後には一層の勢いをもって欧州学界を席巻します。そこに、デンマークが国体を保っているとはいえ、文化的・思想的にはドイツの影響下にある状況下、キルケゴールがヘーゲルの弁証法に対し、彼自身が語彙を与えた「逆説弁証法」及び「抽象的思考」に対置させた「具体的思考」をもって挑戦します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール12(四百五十六) キェルケゴールはソクラテスに始まる問答法やプラトンのアカデミア更にはアリストテレスのフィロソフィア学院創設を試みるでもなく、専ら著述家としての生涯を駆け、急逝するまでに多量の著作を残しています。彼の著作は大きく分けて「美的著作」と「宗教的著作」とに分類することが一般です。また「美的著作」を「詩的著作」と「哲学的著作」に再分類し、計3つに区分することもあります。但し、「美的著作」は専ら偽名によって記述され、「宗教的著作」は実名で書かれていることには彼の意図が顕れており注目注目に値します。キェルケゴールが有限である主体が決定的な要素である思考具体的思考である「実存主義」を旗上に掲げているとは云え、取り分け、日本では専ら「誘惑者の日記」に類する「美的著作」、「死にいたる病」や「哲学的断片」等の「哲学的著作」がキェルケゴールの主著として取り上げ、紹介される傾向があり、「野の百合と空の鳥」等に類する「宗教的著作」はあまり顧みられないことはキェルケゴールの本意を見誤る危険性があります、。キェルケゴールの本意はあ「宗教的著作」に向かっていたことが、本人も言明している通り疑いない事実であるからです。キルケゴールは生涯にわたって神を離れたことがない事実を確認すべきです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月21日
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「至極の女性」Maria-SharapovaとVenus-de-Milo 私見ではあるが、ミロのヴィーナスに一度として魅惑されたとか、感極まったことがない自身である。そもそもが、8等身以上の人間、マサイ族や長身男性である戦士は別にして異性は対象外であり、まして、女性の場合には自己と比較すればこそ故には魅惑されないが、限りある生命老化を宿命とする人間の女性にも彫刻像「ミロのヴィーナス」には露程の情が浮かばない人間である自分が、精神の奥底に憧れ的な美女に出食わします。言わずと知れたロシアはシベリアハンティ・マンシ自治管区・ニャガン市出身の女子プロテニス選手。これまでにWTAツアーでシングルス29勝、ダブルス3勝を挙げ、自己最高世界ランキングはシングルス1位。ダブルス41位。 史上10人目の生涯グランドスラム達成者であるマリア・シャラポワ(Maria Sharapova)、身長にしても「ミロのヴィーナス」に引けを取らなく、等身では少しは劣るものの、黒目「眼」のない像にない躍動が心地よい。此の世紀の美女を「ミロのヴィーナス」の製作者が再来するならば、失われた右手にはラケット左手にはテニスボールが備わっている筈です。cap-hiroのプロフィール人気ブログランキングへ
2016年06月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール11(四百五十五) ヘーゲル体系の意味を成さなくなるとした観点から、キェルケゴールはヘーゲルの弁証法に対し、彼自身が語彙を与えた「逆説弁証法」をもってヘーゲル体系と向かい合います。逆説弁証法とは、有限的主体、此処では人間の精神或いは自我が自らの否定性に直面したときに、ヘーゲル体系の思考方法の基底にある抽象的観点から止揚するのではなく、その否定性及び矛盾面と向き合い、其の事実を自らの実存的な生の観点から真摯に受け止め、対峙するための論理であるとします。キェルケゴールは自らの思想の特徴を具体的思考と呼びヘーゲルに限らず哲学の抽象的思考に対置させます。抽象的思考とは、世界思考において個々の主体が消去されているような思考であるのに対し、具体的思考とは、有限である主体が決定的な要素であるような思考だと説くのです。然し乍ら、キェルケゴールは「主体性は真理である」と基底に於いての定理として置きますが、反面、主体性は非真理である」とも説いています。キェルケゴールの此の矛盾性が意図するのは、歴史的、現実的な選択の場面においては主体性以外に真理の源泉はありえないとするものの、此の「主体性」は、実際には主体は普遍的に絶対的な真理からはあ隔てられており、主体性なるものは非真理であるとのであるし、再度、ヘーゲル体系の抽象的観点へと退却せざるを得ない状況に陥ります。彼の思考の矛盾性を社会的現実の理想を追いながら自らの生を絶った日本の三島由紀夫(Yukio Mishima)を連想するのは私観ですが、悲劇的哀愁を感じるのは「もがく精神」を直感することから来るのかもしれません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール10(四百五十四) キルケゴールが生きた当時のデンマークの思想的背景に辟易してた彼の思考は、ヘーゲル体系に果敢に渡り合います。キルケゴールは自ら構築した思考の体系を「具体的思考」と呼称し、人間精神を取り巻く世界に於いて、個々の人間性或いは人格が消去される危険が付き纏うヘーゲル思考を「抽象的思考」と呼称して、主体を忘却するような思考は、人間が主体性ヲ」決定的にする「実存」を訴えます。ヘーゲル思考の構築は、イマヌエル・カント以来の重要課題「純粋理性と実践理性」、「無限なる者と有限なる者」、「絶対真理なるモノと個々の人間精神との間の関係」が大いに問題として取り上げられます。ヘーゲル思考の其れ其れへの取り組み方の基底に流れるのは、有限的存在である人間は、まさに其れが有限であるが故に、現実世界に在っては常に自らの否定性の契機に直面するが、其の場面の有限なる者である人間は否定性を弁証法的論理において止揚することで、その否定性を克服し、より真理に近い存在として自らを高めていくことが出来得るとしています。対して、キルケゴールは、有限的な人間存在が直面する様々な場面での、個々の人間の否定性や葛藤及び矛盾に対応するにはヘーゲル的な抽象論的な議論は用を成さない。抽象的議論では歴史、現実における世界の人間の諸活動の外縁に立ってそれを記述されるときにのみ有効であって、歴史の内縁世界において自らの行く末を選択し決断しなければならない現実的な主体にとっては、ヘーゲル体系云うところの其れ等はもはや意味を成さなくなるとします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール9(四百五十三) キルケゴールの著作に関しては1843年以降の著作活動は別にして幼少の頃より日記を綴る習慣をもっており、急逝(きゅうせい)する迄の生涯に亘り日記を書き留め綴っています。其のこと故に、現近の研究においては日記が彼の著作と同等か、若しくは著作物以上の価値を持つ文献資料として扱われることが度々です。著作物に対する自己の意図するものの表明やレギーネ・オルセンへに寄せる想いが綿々と綴られています。キェルケゴール自身は、何れの時か。此れ等の「日記」も白日の下に晒されることを予期する故に、各処に面体(めんてい)・体裁を繕うような修正・抹消を施していることは彼の性分でしょう。彼から受ける陰気で悲嘆の印象は、何も「三大事件」のみから来るものでもなく、当時のデンマークの文化状況も関与します。キルケゴールが生きた当時のデンマークは国体を保っているとはいえ、文化的にはドイツの植民地然としたものでした。例えば、デンマーク語を話すのは下層民だけで、多くは競って、まるで母国語かのように独逸語を使う状況でした。此のことはデンマークの思考の双璧である学界と宗教界も御多分に漏れません。当時のドイツの思想の大巨頭ヘーゲルの右派哲学、知識と信仰の一致・哲学と宗教の一致・哲学と現存の社会秩序を思想的背景にヘーゲル体系に当て嵌め解決せんと図るものであり、ヘーゲル哲学に辟易するキルケゴールには当然に悲愴感が漂うのも止むを得ない事情となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール8(四百五十二) キルケゴールの著作及び日記は誕生の1813年から1843年の間は目立った活動もなく、其れ以降の最期を迎える12年間に40冊の書本と20巻の日記を著しています。彼の衝撃の三大事件が執筆に力を加えたことが、此のことからも読み取れます。其の12年間の主著は、「あれかこれか」、「反復」、「おそれとおののき」、「不安の概念」、「人生行路の諸段階」、「哲学的断片」、「哲学的断片後書き」、「愛について」、「死に至る病」、「瞬間」、「我が著作活動の視点」等々になりますが、其れ等の何れもに共通するのが哲学思考に自己の精神思考の状況をを反映させることに特徴が見られます。キェルケゴールの哲学は彼以前の哲学者が求めてきたものとは異相で、彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることを根底にするからです。キルケゴールは著書「死に至る病」では、死に至る病とは絶望のことであると言い、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようとも、来たるべき「死」によって齎される絶望を回避は出来得ないと見通し、其処から神による救済の可能性のみが信じられるとします。此の思考の特異点的なのは、従来からのキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、更には世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生には夫々に世界や歴史には還元出来得ない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であって、ヘーゲル哲学との対立を示します。「死に至る病とは絶望のこと」此の思考の本源が彼を専ら悲観傾向の実存主義者としています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール7(四百五十一) キルケゴールの輻輳したレギーネへの純粋無垢の心情は、凡そ通常の社会環境で生活する人間性別の愛情関係の段階を超えたレギーネへの情愛に溢れています。キェルケゴールは兄宛の手紙形式による遺言書の中で、レギーネを「私のものすべての相続人」に指定していました。彼女レギーネは其の遺産の相続の件は断りますが遺稿の引き取りだけには応じ、かつて封をしたまま送り返された手紙も此の時に彼女の手に渡っています。レギーネ及び彼女の親友でキェルケゴールの姪に当たるヘンリエッテ・ルンらの努力のかいもあり、これらの遺稿は後世に伝えられることになります。更に、もう一つキルケゴールを悩ました事件に、1845年に発刊された著書「人生行路の諸段階」の、当時の有力を誇っていた風刺新聞「コルサール(海賊)」の書評に真っ向挑戦しますが、「コルサール」は漫画入り記事にて応じ、キェルケゴールを冷笑し酷評したために、かえって、公衆の嘲りの的となり、其の目を意識せずにはいられない生活を送ります。彼の衝撃の三大事件は、キルケゴールを自殺未遂にまで追い込みますが、其の後は著作活動の発展への原動力になります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール6(四百五十) キルケゴールの輻輳したレギーネへの情愛は、彼自身にとっては著作活動の原動力となります。とはいえ、キルケゴールとレギーネの相愛は1847年のフレゼリク・スレーゲルと彼女が結婚したあとも続きます。彼女レギーネは夫にキェルケゴールの著作の購入を依頼したり、一緒にその著作を読んだりもして、更には、1849年にレギーネの父が亡くなると、キルケゴールはレギーネとの和解と友情の回復を求めた手紙を、夫フレゼリク宛ての手紙に同封して投函することもありましたが、当然のように其の手紙は封をしたまま送り返されている始末です。。その後、フレゼリクが当時のデンマーク領西インド諸島の総督に任命されてデンマークを旅立ちます。但し、レギーネがデンマーク戻るころには、キェルケゴールは既に今生の人間ではなかった。キェルケゴールはデンマーク教会の改革を求めた教会闘争の運動の最中に道端にて倒れ、搬送されるもその病院で死亡します。此の複雑怪異な相愛関係は、キェルケゴールは兄宛の手紙による遺言書の中にレギーネを「私のものすべての相続人」に指定していることからも、並々ならぬ愛情が伺えます。但し、レギーネは遺産の相続は断ったものの遺稿の引き取りには応じ、過去に受け取り封をしたままで送り返された手紙もこのとき彼女の手に渡っていっます。哲学史にあって幸運なのは、レギーネ及び彼女の親友でもあるキルケゴールの姪に当たるヘンリエッテ・ルンを初めとした支持者の努力によって、これらの遺稿が後世に伝えられたことは幸運です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール5(四百四十九) キルケゴールの思考と其の集成発展である思想に影響を与えるのは「大地震」の衝撃ばかりでなく、「レギーネとの婚約と其の破棄」及び「コルサール事件」も大いに関与します。キルケゴールは1840年に17歳のレギーネに求婚、彼女はそれを受諾した間も無く、其の僅か一年を経ず、彼は一方的に婚約を破棄、其の理由がキルケゴールの思想研究の重要な問題の一端を担っています。キルケゴール自身が「この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである」という台詞を自身の日記に綴っているように、最期を迎えるまで愛し合っていた両者の隠された鍵、愛すればこその婚約破棄は、初期の彼の大作とされる「あれか―これか」に収録されている「誘惑者の日記」や中期の「人生行路の諸段階」に収録されている「責めありや―責めなしや?」を解読すればレギーネに纏わる一連の事件との密接な関連が推測されます。婚約破棄の原因について、真相は定かでないものの、本人が呪われた生を自覚していたこと、うららかな乙女であったレギーネを「憂愁」の呪縛に引きずり込むまいとしたこと等を読み取れますが、性的身体的理由を原因とする説もあり、未だに解明はされていません。レギーネがキェルケゴールに婚約破棄の撤回を求める覚え書きをしたためたりこともあり、彼は意図してレギーネを自分から突き放そうと試みたりしていることからみても感情が輻輳しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール4(四百四十八) キルケゴールの思考と生活は父ミカエルからの「大地震」の衝撃以来、志賀直哉の著書「暗夜行路」の名称の通り外部生活と内面精神は分裂気味で、外面では周りを笑わせる程の陽気さを振るまい、コペンハーゲンの大学生活は有るだけ、使える金を湯水の如く遊蕩三昧と万事が度外れの放蕩生活を送ります。其の反面の内面精神は自身を取り巻く生活環境への限りない絶望と憂鬱が強力に彼を脅かし孤独其のものが著書には溢れ返ります。彼の言葉「私は二つの顔を持つヤヌス(Janus)だ。」古代ローマの神で、前向きと後ろ向きの二つの顔を持つ双面神、門出や正月等あらゆることの入口と始源を司る神を自身に例え上げ、「一つの顔で笑い、他の顔では泣いている」と吐かせる程に彼の思考は輻輳の渦の中にありました。当然に「大地震」の衝撃がキリスト教への反発をいだかせますが、彼の少年時代、父ミカエルの信教生活からの環境の影響は脱し切れず、彼の霊魂の奥深くには基督は去りません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール3(四百四十七) キルケゴールをして自ら「大地震」と呼ぶ程の精神的が、衝撃を与え、以降の彼の放蕩生活を起動するきっかけ、或いは逆に、放蕩生活を止めさして立ち直らせる事件とも言われる其の心境を後に彼が日記に、其の時の大地震が、恐るべき変事が起こって、父ミカエルの若き日に窮乏から神を呪ったこと、母を娶る迄の行跡が、突然に私をあらゆる現象に今迄とはまったく新しい法則に従うことを余儀なくされた。父ミカエルだけの長生は、神の祝福どころではなく神の呪いであることを認識した意を述べています。おそらく、彼の此の「大地震」を解釈するならば、其れがさ指し示すものは、父ミカエルの神に対する罪業でしょう。其のことを知ったことが、キルケゴール自身の思考に衝撃を与え、自己もまた、神の前で罪の子であることを認識したことには間違いない。勿論のこと、国法上の罪ではなく自己の深層に息づく神状意識に関しての内面的で信仰上の意味での罪へのこだわりです。此れがキルケゴールの思考の基底となり、キリストへの反発と愛着の輻輳した性格及び思考を促進させます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール2(四百四十六) 孤高の人・悲嘆を醸し出す人間キルケゴールは、幾分其の人生の成長期の生活環境が多大な影響力を及ぼしたことは想像に難くない事実です。但し、誕生に関しては1813年にデンマークのコペンハーゲンでセーレン・キェルケゴール(Kierkegaard Søren Aabye)は、父ミカエル、母アーネを両親に富裕な商人の七人の子供の末っ子として生まれています。元来のキェルケゴール家はユラン半島西部のセディングという村で教会の一部を借りて住んでいた貧しい農民であったが、ミカエルが首都コペンハーゲンにおいて「神への呪い」の罰が俗世間の成功、その見返りとして、基督教の報償論を信じ、家族が全て34歳、即ち、凡そ30歳でナザレのイエスが教えを始めた後の3年半後にキリストの磔刑(キリストのたっけい)がありましたから、其の年齢までに家族全員が死ぬものと信じ込んでいました。末子のキルケゴールにしても、年齢が22歳若しくは25歳の時に其のことを知り、其の罪の素因を知った時、キルケゴールをして自ら「大地震」と呼ぶ程の衝撃を与え、以降の彼の放蕩生活を起動するきっかけ、或いは、逆に放蕩生活を止めさし立ち直らせる事件ともなります。キルケゴールの思考には父ミカエルのキリスト教への信仰心と彼自身の罪への恐れがあ刻み込まれ、著書「恐れと慄き(おののき)」として顕れます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール1(四百四十五) キルケゴールは20世紀から以降の現代日本では、其の著書の多くは翻訳され且つ解説されており、思考する若年層を中心に流行りの哲学者として一定の支持を得て持て囃されています。然し乍ら、デンマークでのキルケゴールの生前は名指しで酷評され、思想攻撃の的にもなり、侮辱に苛まれて終始した人生に明け暮れました。その彼が突如100年を経て見出され、注目を浴びるのは何故か、孤独な思想家の思索を何故に現代が持て囃すのかを解明すれば、現代に生きる人間の精神的様相も浮かび上がる筈です。先ず第一にはキェルケゴールが現代の「核とテロ及び地球自然の異常」が、ヘーゲル風の汎論理主義に抗して、不安と絶望のうちに個人の主体的真理を求めた彼の思想に共鳴するところのあることがあげられます。第二には、過去の経済成長期には学歴がものをいい、将来への不安はなく、計画性を持った安定が目されていましたが、リーマンショック以降は全く将来が見えてこない若年層が、「無意味さ」を自己の内面に感じ、其の悲観的状況からの超克を、超越者や神とのかかわりに求めるか,無意味さそのものの肯定に求める、キルケゴールの自由のもつ創造力に求めるかによって立場は違うものの、「客観的真理が人間を生かすのではなく主体性内面性が真理である」と述べます。良く言えば「個人主義」反面で捉えれば「単独主義・孤独主義」とどの詰まりは「批判・悲観主義」が将来が見えてこない若年層に受け入れられるのですが、キルケゴールの単独者として神の前で主体的に生きる人間を宗教的実存と呼んだように其処には他生への連携はありません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲルとニーチェの時間概念の総括5最終章(四百四十四) 5世紀頃に現在のドイツ北岸辺りの南部よりグレートブリテン島に侵入してきたアングル人・ジュート人・サクソン人のゲルマン系の3つの部族のなかでアングロ・サクソン人(Anglo-Saxons)総称である。 イングランド人としてイングランドの基礎を築いたアングロ・サクソン人(Anglo-Saxons)であるが、其の民族的な性風は、現代調に翻訳すれば、元社会党で女性としての初めての党首になり、首相を務め、衆議院議長を務めた土井たか子の決め台詞「ヤルっきゃない」の決め台詞のように、アングロ・サクソン系の思考は、単に結果を待つということでなく、事象そのものに理を問う現象学です。ヘーゲル的な現象学として捉えてみれば、大乗仏教の華厳経「理事無碍法」が浮上します。これは華厳の四法界のうちのひとつであり、事実・経験を掘り下げ、追求、究明することにより、更には、世界の理法を掘削することにより得られるものでヘーゲル的の思考と近似します。此処に大いなる問題が生じます。世界の無限の拡がりは物理理論学に於いて真相に近付いてはいます。ところが、其処に待ち構える「次元」である時間概念に関しては未だに形而上哲学は別として、経験論では仮想事実論としては述べられるものの、「時間」を解明した思考にと出会えないことが一般です。人間は自己の精神の意識を超えた、物理科学の頂点には達するには暫くの時間が掛かりそうです。其の時点までは、宗教・形而上哲学・物理科学が三つ巴で進行することしか選択のすべがないでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲルとニーチェの時間概念の総括4(四百四十四) 人間精神の文明史上にあって、絶えず思考家を悩ましてきた「主観主義と客観主義」「観念優先と経験優先」の抱える問題は、20世紀に主流となったの、主観のうちには既に客観が忍び込み、同様に客観は主観のなかで既往として捕らえられているということである。主観と客観は、相互に身体と言語によって媒介されており、純粋にそれだけで自立した主観や客観はありえないことが解き明かされつつありました。相互に内属する関係にあるときには、対立的な関係を一方的にとらえても其れだけでの決着は付かない矛盾点が残ってしまう。人間の現代的合理精神を持ってしても不解明感は払拭出来得ません。「人間精神の我」とも言る「主観」は人間の観想の相互作用が介在してこそ、客観の理解や主観である自己の精神の自己制御を可能とします。ヘーゲルが著書「精神現象学」で「<我である自己>が<一般化の我々>であり、<我々>が<自己意識的我>であるような経験」という表現で相互主観性を主張しています。ヘーゲルは若年期から相互主観性を基に思考を組み立てようとしていたことは伺えます。此のことから読み取れるのは、人間の捉える「時間」とは、自己の主観を離れては「運動及び変化」であり、外界からの侵入は時間を観相させていることになります。時間を拡大解釈すれば「運動であり変化」ですが縮小解釈すれば人間精神の外的環境の精神鏡面反応「ミラー(仮想現実)」である可能性も否定し難いものがあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲルとニーチェの時間概念の総括3(四百四十三) 近代哲学の時間概念の混乱は21世紀に至って姿を消すであろうか。人間の観相には既に時間概念が忍び込み、時間は客観ではなく主観として取り込まれてしまう。主観と客観は、相互に身体と言語によって媒介されており、純粋に自立した主観や客観はありえない。相互に内属する関係にあるとき、それらを対立的な関係で一方的にとらえても決着はつかない。其れでは矛盾は避け得ないし真相は見えて来ない。人間精神お深層に眠る自覚である、自己を他と区別し顕示する主観は、主観と主観の相互の関係に引き渡されて初めて自己の客観に対する自制が働き得ます。「時間概念」にしても其の観相は長短様々であり、学生が修学旅行に待ち遠しいときは、「時」は遅く流れ、日々、過去時と同様の経験を繰り返す年配者は「時間は速く流れていると認識します。経験の繰り返しは「時間」を早めます。其れ故に、「時間」は人間精神特有の運動・変化を持続として捉える「感性」であると疑えば「時の流れ」は今迄とは違った受け止め方が出来るでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲルとニーチェの時間概念の総括2(四百四十二) ヘーゲルにしろニーチェにしろ「時間」は客観的に世界に内在すると思考します。人間の理性は元来(本来的)には主観のある側にではなく、ヘーゲルの思考は客観そのものが展開するなかでの経験から醸しだされるのであるとしています。客観の側は主観で組み立てられた理性を客観が持つ事実性(経験則)によって理性、即ち、内的論理の組み立てのための確認に利用されるとするのは両者共通です。然るに、ヘーゲルにしろニーチェにしろ「時間」は客観的に世界に内在するとは思考はしますが、客観の側、即ち変遷する世界である大宇宙の中で、例えば時刻の経過を示す時計のように変化を測るものはなく、運動量としてしか確認のしようがありません。十億年前の大宇宙の世界は時刻を刻む時計のようには過去の世界の実相を見せません。更には、ヘーゲルの直線的な時間の概念、ニーチェの円環的な時間としての「永劫回帰」も限りある人間人生の寿命では経験・確認しようがなく、実相を観想しようとすれば宗教及び形而上哲学が浮上します。時間概念の統括は現代においても、人間の観想の産物だとしても誤認とは容易はには否定は出来出来得ないでしょう。時間の事実上或いは事物上のあるなしは物理科学の一層の展開を待つことになります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲルとニーチェの時間概念の総括1(四百四十一) キリスト教的時間観念の最大の特徴は、時間を有限なものとして捉えることである。時間には始まりがあり、かつ終わりがある。時間はそれ自体では有限である。無限なのは神だけである。無限な神が有限な時間を作り、其れを神の意志により一定の時刻で終わらせる。。それに対してニーチェは、時間には始まりもなければ終わりもない。時間は永遠に循環する。循環するある局面をとってみれば、それは円環として見える。円環は、すべてがそこから始まる出発点であり、また其処に戻ってくる終末点でもある。ヘーゲルは「時間(Time Line)」を過去・現時・未来且つ永劫と捉え、基督教では永劫の過去・現時・終末の未来且つ永劫として捉え、此の直線的な時間の概念を狩猟・牧畜文化の思考だと結び付ける思想家もいます。では、直線的な時間と円環的な時間では、どちらが本源的な時間なのか。基督教に傾向する時間観念の最大の特徴は、時間を有限なものとして捉え、永劫の神・無限の神が世界を創造した時点から有限な時間を創り、それをある一定の時限に終わらせる。其の後に有るのは永遠の神即ち「神の時間」であり、「神の永遠の瞬間」だという訳です。それに対してニーチェは、時間には始まりもなければ終わりもないし、時間は永遠に循環する。循環するある局面である流れをとってみれば、それは円環として観想される。円環は、すべてがそこから始まるスタート地点でもあり、将又、其処へ戻ってくるゴールでもある。時間は同時に而も至る所に経過を内在させている。其れ故に、永遠に循環運動を続けていく。何故か。其れは世界に神という存在はないから。其れから導かれるのは世界そのものが永遠でなければならない。仮に、世界が永遠ではなく、有限なものだとするならば、其のものに起因し終末点を賦与する存在そんなことができる者は神以外には考えられない。だが、神は死んだのだ。そうニーチェは強調するわけです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-41最終章(四百四十) 抑々が、時間概念を問題視する時間観念とは「観念」とされる通り、世界内には存在が認められず、人間の観相に過ぎないとも思考でき得ます。アルキメデスの説くが如く運動が変化であり其れを人間が「時間」と観想するのであれば、時間は人間にあって世界にはありません。ベルクソンの述べるが如く持続を時間と観相するのは人間の精神の特質であり、実相は運動であり変化だということです。ヘーゲル的な考え方では対処できないような現実や問題、そのような問題の質や次元があるのかと問えば、本質的なものとして内在する何かを問う姿勢は必要です。其の点、所謂、本質的なものに内在する「何か」を求め、問う思考法には正当性があります。ヘーゲルにおいて、歴史とは現在における未来のこのような成熟であり、知られざる未来のための現在の犠牲ではないとしたことは意義深いものがあります。ところで、時間概念を問題視すれば人間は過去とは現在における未来への成熟であり、ヘーゲルに言わせれば知られざる未来のための現在の犠牲ではあってはならないとします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-40(四百三十九) ヘーゲルが自らが生きる時代の時間概念を直線的時間(Straight time)と捉え目的論的な時間としたのとたのと同様の概念とも言えるキリスト教的時間概念の最大の特徴は、時間を有限なものとして捉えていることです。時には始まりがあり、かつ終わりがある。時間とはそれ自体としては有限である。無限なのは神だけだという訳です。無限の創造力を持つ神が有限な時間を作り、それをある一定の時で終わらせると思考するのです。それに対してニーチェは、時間には始まりもなければ終わりもない。時間は永遠に循環する。循環する或る曲面を観想すれば、円環として繋がっている。円環はとは全ての連続線が其の極点から始まるスタートであり、将又、其処に戻ってくるゴールでもある。しかも円環として繋がっている時間は同時に至る処に運動を内在させている。其のことから結論付けされるのは、時間が永遠に循環運動を続けていくということです。現代のエントロピー理論がなかった故に、続けて、この世界に神というものは存在しないのであるから、世界そのものが永遠でなければならないではない。仮に、世界が永遠でなく、有限なものだとすれば、時間に始まりのきっかけを賦与し、それを終わらせるものがなくてはならない。そんなことができる者は神以外には考えられない。然し乍ら、神は死んだのだ。そうニーチェは強調します。終わりのない世界には神は必然性がないことから「神は死んだ」という表現をする訳です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月01日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-39(四百三十八) ニーチェが云う自分が生きている現実の「大地(現実を踏まえた世界)」に置くべきとしたことの表現は、ヘーゲルが夢想家だとでもいうのでしょうか。ニーチェが云う自分が生きている現実の「大地(現実を踏まえた世界)」に置くべきとしたことの表現は、其の儘、ニーチェに還(かえ)され彼を現実を踏まえた思想家どころか「ニヒリスト(ニヒリズム・虚無主義)者と呼称します。ニーチェはヘーゲル的な思考法では対処できないような現実や問題、そのような問題の質や次元があるのかと問えば、ニーチェよりもヘーゲルが大地に身を置く思考をする哲学者として映ります。時間論に関しても直線的な時間と円環的な時間では、どちらが本源的な時間なのかという問題がひとつの課題ではあるものの、現代の所謂俗流とする時間論は、直線的時間観念をキリスト教的世界観と結びつけ、円環的時間観念を仏教やゾロアスター教など東洋的世界観と結びつけています。興味深いのは、直線的時間観念を狩猟牧畜分化と、円環的時間観念を農耕文化と結び付く傾向があることです。そこから、キリスト教的世界観は直線的時間観念で狩猟牧畜文化であり、対して仏教圏にある亜細亜・東洋的世界観は円環的時間で農耕文化という概念が生じます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年06月01日
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