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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム15(六百十四) 一般的に現代に置ける人間は、第2次大戦後の思想を、大きく分けてマルクス主義とプラグマティズムと実存主義の3つをあげるようです。それらの思想を更に哲学史として眺めてプラグマティズムに論理実証主義を加えて一括りにしているのが現代思想の傾向です。マルクス主義もそうだが、プラグマティズムも世界的にも現代思想の流れに底流としてはある。日本では西洋にまで聞こえた「善の研究」で知られる西田哲学はプラグマティズムの影響を受けながらも、禅宗の思考方法を組み込み、独自の和的哲学を説き名を成します。日本ではプラグマティズムは大正デモクラシーと相まって普及します。特に来日したデューイの数学的のみならず科学的な思考方法はウィリアム・ジェームズと並んで、戦前の日本、特に自由思想や女性の地位向上に役割を担(にな)います。大正時代は民衆デモクラシーを謳歌させたのがプラグマティズムです。21世紀を十数年を経た時代に介護に携わる方々が耳にする「甘き口づけ」や「ロマンスの恋」などを耳にされることを見れば、政治的治安統制が昭和に始まっていることが解ります。但し、日本では第2次大戦後の思想傾向は、三国同盟が連合国に敗北した影響もあり、プラグマティズムの教育制度が底流に置かれます。但し、当時の大学論壇がマルクス主義の影響を受けていたために、戦後の教育界は分断されました。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム14(六百十三) ジェイムズは過剰な信仰を欠いた人々にとって人性に於ける生活環境は表面的で面白くないものだろうとしたうえで、何れの宗教・宗派に属するかは兎も角もとしても、我々は有神論若しくは無神論、将又、絶対的存在を予感させる一元論などの何れのか道を選択する賭けを行っているとします。対して、デューイは宗教的な制度や実践が人間生活において果たす役割を賞賛するかと云えば其のような発言は一切見られません。代わりとえば有神論における、人間の心のなかに潜む自己を駆り立てる観念が概念化した人格神、即ち、人間の形骸をしているだけではなく、固有の最高の(絶対-的)知性と意志を備えた大宇宙内外を睥睨する個体的・有形的な不滅の独立した存在、或いは神格性が付与されたような存在、変化を伴わない静的な絶対性への信仰観念を拒絶します。デューイは数学的で科学的方法のみが人間の善を齎すと思考します。言い換えれば、人間云うところの神は人類なしには有り得ない存在だという事になります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム13(六百十二) 抽象概念に対するプラグマティズムのなかでも、取り分け、デューイの思考方法で、自身をプラグマティストとは考えずに、「道具主義」と称した「概念道具説」または「概念器具説」と訳されるものは、デューイによると、概念はプラトンのイデア論で語られる超越的で永遠、不動の存在や、カントの範疇(はんちゅう)のように、主観の先験的な形式でなく、また、イギリス古典経験論のいうように、外界からの受動的観念やイメージおよびそれらのモザイク的な構成物でもない。それは、人間の環境への順応という実際の経験の過程で形成されて、実験的に対象に適用され、その成果の効用によって是非が判定されるべき道具、手段である。そこから見いだされる概念は、観想の静止的対象でなく、実践的活動の過程で使用され、絶えず修正、廃棄、創造されるべき指針としてある。以上は、プラグマティズムの実験的経験主義の主張、理論と実践の連続的な把握、認識を生物体と環境との相関関係においてみる考え方などの伝統を概念に適用した結果である。此の文言を字句通りに受け止め分析すれば、生物体と環境との相関関係を優先していることに驚かされます。デューイはプラグラティズムを自身の教育論に当て嵌め、ヘーゲルの影響から、プラグマティズムの多元主義にも相対主義には偏らず、プラグマティズムを独自の観念で捉え、絶対的に正確な「真理」や「知識」を求めることは教条主義的、所謂ドグマであり、「真理」とは其れよりは寧ろ「人々にとってより好ましく信じられるもの」として、その社会的機能や社会関係のなかに於ける知識理論を構築します。其のことに対しては、より相応しいアプローチとして、間違えることや紆余曲折を積極的に評価するより複合的なアプローチとしての「可謬主義」を唱えます。宗教的な制度や実践が人間生活において果たす役割を認識を、単に否定せずに、「有神論者」の云うところの「神存在」、静的な観念への信仰を拒絶します。デューイは科学的方法のみが人間の善を齎すことを信念とします。「神とは、我々を欲望や行為に駆り立てる観念的な目的の統一である」とした。謂わば人間精神が「神」を創造させることになります。デューイの特異なところは「教育哲学」なる応用的哲学を創始し、教育に携わるものが如何に形式化したもので子弟を退屈化させ煩わしているかを説き、実践を数式化することで学びの道をプラグラティズムを「道具化」して容易にさせるかを論理で諭します。教育には教条主義は子供が自ら選択した神学校であれば此の論理は働かないにしても教育を受けいる子弟の自由発想には恩恵を齎すことは、政治体制からの偏向教育を史的観念からも事実でしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム12(六百十一) プラグラティズムの発展型といえるものがインストルメンタリズム(道具主義/instrumentalism)でしょう。プラグマティズムの抽象概念に対するプラグマティズムを唱えたチャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズと並んでプラグマティズムを代表する思想家として知られる20世紀前半のアメリカ哲学者、なかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者、所謂、ポピュリスト(民衆主義者)として名を馳せたジョン・デューイ(1859年-1952年)でしょう。教育学者でとして高名な彼、現代アメリカを代表する哲学にも影響多々なものがある彼が、デューイの主張が実践主義・実用主義にあるように、非常に現実に密着した合理的判断を重んじる思考方法はプラグマティズムを教育界に持ち込んだことが、其の後の人間の人格性にまで影響を与えます。此の思考は、教育と民主主義との関係に照明を与えた業績が高い評価に値するとはいえ、特に第二次世界大戦後の日本の新教育に与えた彼の教育論の影響の抗悪善利若しくは受け止め方是非は別にして、教育者による子弟への将来性に及ぼす影響は甚大です。マルクス主観・主義共々に、デューイの教育論は現代人の思考要素の基幹にも刷り込みが読み取れます。「人間の霊魂を思考」する立場からは精神の深層を顧みない人間を多出したことは残念至極ですが、其れこそが我意・欲情を離れた「衆生本来仏なり」の釈尊の言葉を噛み締めない人間を送り出している教育界、特に低年層を導く立場である人間がジョン・デューイの真意から離れていることから来る要因なのでしょう。新世紀を迎えている今こそ、哲学に先んじて教育を再考することこそが人間の思考の至高性を高めることには益となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム11(六百十) プラグマティズムに欠格していたのは宗教の絶対排除です。合理主義を志望していたにも関わらず、C・S・パースと同様の可謬主義に立ち位置を持つウィリアム・ジェームズは、宗教の見解に関して、過剰な信仰を欠いた人々にとって人間生活は表面的で面白くないものだろうとしたうえで、何(いず)れの宗教・宗派に属するかはともかくとしても、我々は有神論、無神論、一元論などのいずれかを亘る賭けを行っているとします。ジョン・デューイ(John Dewey/1859年-1952年)は、有神論、無神論、一元論などのいずれかを亘る賭けの発言に対して、宗教的な制度や実践が人間生活において果たす役割を賞賛する代わりに、たとえば有神論における神のような、なんらかの静的な観念への信仰を拒絶します。デューイは科学的方法のみが人間の善をもたらすと考えています。「神とは、我々を欲望や行為に駆り立てる観念的な目的の統一である」とし、「神」は人間の倫理的実存の存在ではなく、人間を本拠に置く精神機能に組み込まれた「質」と捉えています。即ち、絶対的に正確な「真理」や「知識」を求める究明を「教条主義(ドグマ/dogma))」として基礎付け、「真理」とは形而上や心情にて「人々にとってより好ましく信じられるもの」として、其の社会的機能や社会関係のなか知識理論を構築します。そしてそれに相応しいアプローチとして、過去の哲学の単一的な思考方法に対して、間違えることや紆余曲折を積極的に評価するより複合的なアプローチとしての「可謬主義」を唱えます。社会的、文化的、技術的、哲学的な実験を、真理の仲介者といえると主張し、「教条主義」を排斥し、人間精神の解放を基底に置き教育面では見るところは大いにあります。彼の機能主義心理学は人間を世界を思想の根底に置いており、仮にも、絶対存在や世界外存在は眼中にないことは確かです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム10(六百九) ウィリアム・ジェームズは友人であるC・S・パースへの思想上の決別として、パースの「我々の観念を明晰にする方法」に先立つこと一年、1877年に発表された「信念の固定化」(The Fixation of Belief)という論文は、パースのプラグマティズムの背後にある特別な理由「自己の疑い得ない常識」の認識世界にあっても疑念が生じたとき、その疑念を振り払って再度の疑いを得ない「命題」や「推論」にたどり着き人の信念を固定する方法として、固執の方法、先天的方法、権威の方法を掲げます。其の行き着く先は「科学的方法の優秀さ」です。彼が「信念の固定化」で答えようと試みているのは、パースが「論理学の問い」(the logical question)と呼んでいる問い、すなわち「我々はいかなる方法によって探究を行うべきか」「如何に概念を明確にするか」という方法論において、如何にもプラグマティズムらしさを表現する概念を明確にする方法に格率の適用を持ち出し論じています。此処で云う「格率」とは(所謂「確率」とは別物)カント哲学で、行為の普遍的な道徳法則に対して、主観的にのみ妥当する実践的原則概念を明確化意味し、各々の人間個人が自分で守ろうと決めている「規則」や「基準」のようなものを指します。例えば、朝は早く起きることと決めている人がいれば、その人にとっては、早起きすることが格率になります。カントを例にあげれば、まさしく、時間通りに起き、決まった道を時刻に歩き、決まった行動をする、会う人々がカントで時間が分かるとしたものです。これに対して、万人に妥当するものと認められている道徳律があるとすると、格率よりはもっと客観的なものだということになります。然し乍ら、客観的な道徳律があることを論理的に定義し証明するのは、甚だ、難を伴うことでもあります。一般的には「格率」をもつ個人が多いことは、我々現代においても経験的に承認できます。パースのプラグマティズムは、従来の論理学では精々が他の概念と区別できるものを持つという意味を有するに過ぎなかったを提供しない。真実という概念を「存在と認識の一致」として分けるが如きである。方法論としては一定の正当性はあるが明確な概念を得ることには不充分としています。全き多くの科学者が検証を繰り返し、格率の適用によって明確な概念であるとの科学者集団の合意を得たときの獲得された真理こそが実在なのであるとします。プラグマティズムの形而上学や信教と分別される由縁です。合理的側面は現代にも継続され其の思考方法は是々非々主義を煽る一因にはなりますが、其のことは人間の本来持つ精神の本性とは別件の数ある欲望の産物です。プラグマティズムは人間から神秘性こそ奪いますが、其の真否を明らかに示す方法論としても働きます。此の影響は西田哲学にも大きく顕れています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム9(六百八) ウィリアム・ジェームズは友人であるC・S・パースと同様の可謬主義に立ち位置を持ちますが、其の見解は同様だとはいえず、寧ろ非常な隔たりを持ち見解の相違があります。C・S・パースは著書「プラグマティズムの格率」で曖昧であった倫理、なかでも、道徳とは峻別された実用的な法則における意味を峻別するために定義したのですが、友人であるウィリアム・ジェームズは此の思考を道徳や宗教にも拡張して適用することが出来得ると考えます。結果、友人にも拘らずC・S・パースは1905年の「What pragmatism Is」において、ジェイムズと決別し、以後自身が基底に置く思想をプラグマティシズムと呼ぶようになります。C・S・パースが取り組むとはプラグマティズムの神髄に挑みます。ルネ・デカルトは、全てを疑い、其の結果に絶対に疑いえない精神を発見したというが、抑(そもそも)が人間は何かの切っ掛け・機会に巡り会うことを意外に思うからこそ疑いを持つのであり、デカルトの方法的懐疑のように自らの意思から発動する{発意」の力によって疑いを持つことは出来得ない。其のことは何ゆえかと問われれば、人間は通常、必要に迫られて余程の積極的な理由がない限りは自己認識の有る無しにかかわらず「自己あることを疑わない」其のことを言い換えれば「自己の疑い得ない常識」の認識世界に生きているからとします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム8(六百七) 我々人間の思考の全ての根元にあり、普段は理解し解り切っているとされる真実が、実は其の正否・真否は微妙に揺れ動き、それらを比してどれも優れたものがない場合は混沌が待ち構えます。自身がある対象に関して考証する際に、プラグラティズムでは思考に完全な明晰さを得るには、其の対象が持っている実用的な種類の認識できる効果をのみを考える必要があるとします。其処から三者択一的が生まれ、どのような精神感応を期待し反応を用意するのかを思考する訳です。ウィリアム・ジェームズは友人C・S・パースと同様に可謬主義に立ち位置を持ちますが、真理論における真理の対応理説は拒否していますが、パースとは異なり、理性主義・主知主義・実証主義の哲学や唯物論などには反対し、生きている「生」、「生の哲学」が体験としての生の直接的把握を目ざしたと同様に真理の有用説に立つとする立場です。「生の哲学」とはカントやドイツ観念論を初めとする「本流」の哲学の認識論、実在論などをあくまで理性を中心に見据えた理論に比して、極めて文化闘争的なものであり、「生物」としての人間の生{人生」といった限定的意味を範疇とするのではない。寧ろ、理性に対する生の優位、とどの詰まり、理性とは理性によっては捉えることのできない非合理的な生を実現するための「道具」にすぎないものであるという価値を含んだものなのであり、生を脅かすものは「病」であるとする。「生」とはどのようなものかについては、論者によっても差異があり、ショーペンハウアーはただ生きんとして生きる盲目的な暗い意志としていたが、ニーチェは彼とは反対にすべてを我がものとし、支配し、超え出て、より強くならんとする権力への意志とし、ディルタイは歴史の流れの中にある客観的精神体としており、それぞれにニュアンスには違いがあるが、合理的な理性に対する、非合理な生の優位を主張する点でおおまかな一致をみることが出来得ます。此のことを鑑みウィリアム・ジェームズは、真理には信念が世界については事実が、その他の背景的信念及びこれら信念の将来的結果を含むと主張します。また真理には実際に複数の正しい答えがあると思考するところはC・S・パースとは異なり多元論者だとも云えます。ウィリアム・ジェームズは対象間の関係は対象自体と同じくらい現実であると主張するその徹底的プラグマティズム、究極の実在はある種のものであり、精神的でも肉体的でもないという唯物論や観念論と対立しつつも、其の両者の中間的位置を取る中立一元論を説きます。実在・非実在を問わない或る「有」的存在、インド大陸の仏教哲学の「空」的存在が仄(ほの)めかされています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム7(六百六) ウィリアム・ジェームズは友人C・S・パースとジョン・デューイらプラグマティストたちが提唱したのと同じ土俵の可謬主義の立場を選択します。可謬主義(かびゅうしゅぎ/ Fallibilism )は、「人間が判断した知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる」という哲学上の学説を掲げ、 知識が絶対に確実であることは不可能であるとまで論じる可謬主義者達さえ生み出します。懐疑主義(scepticism)が物事の既存知識を、一旦は、ドクサ(独断)を吐き捨てる事により、新(あら)ためて過去時の知識とは無縁の再度の思考構築するのに比して、可謬主義は我々が知識を捨てる必要性ということには含意してはいません。我々は我々自身が知っていることを論理的に確実に正当化する根拠を持つことさえ必要されず、寧(むし)ろ、可謬主義は、経験的知識は観察をすることによって修正され得るということを根拠に、我々が知識と看做しているものはどれも誤りであることが判明する可能性があるということを承認します。実のところ、可謬主義其のものは、クセノパネス、ソクラテス、そしてプラトン等の古史に登場する哲学者たちの見解の中にもすでに存在していました。紀元前387年にプラトンが学園を開設した地名「アカデメイア」がそのまま学園名として継承されたアカデメイア派は「人間は何事についても確信をもちえない」と考えて、新たにプラグマティスト達が提唱した思考方法ではありません。公理的に真であることを例外とする可謬主義者、将又、たとえ其れ等公理的な学説がある意味で不可謬としても、我々はそれらの学説と連動するときに誤ることが出来得る。。批判的合理主義者ハンス・アルバート (Hans Albert) によると、論理学や数学においてさえ、どの真理であろうと確実に証明することは不可能であるとさえ断言します。この議論はミュンヒハウゼンのトリレンマと呼ばれていますが、同じ三者択一を迫られて窮地に追い込むトリレンマを、この問題を最初に明確に指摘した古代ギリシャの哲学者にならって「アグリッパのトリレンマ」と呼称されることも多々あります。此れ等の思考の要には人間が「真理」とするものは論理学や数学の公理においてさえ誤謬が入り込む余地があることを示しています。其れならば、大型集中コンピューターの二進方算には間違いがあり得ないかと云えばインプットが人間である以上、誤謬の可能性は残ります。棋界にあって将棋の最高峰には未だに十万手先を読み込むコンピューターが勝利を収めることが出来ません。最高棋士の判断には誤りを直感する曖昧であろうとも閃きがあります。可謬主義とは其の思考経緯を示します。真理は何ものの実体に在るのでしょうか。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム6(六百五) プラグマティズムが世に現出したと想われるのは、英国から独立を勝ち得た一つの国が互いに工業社会の北部と専ら黒人奴隷の労働力に頼る近世植民制度から始まった前近代的農業大企業およびその大農園の南部プランテーションの二つに分かれ、60万人以上の人間が死んだ南北戦争が終わり、科学が急速に発達し始め再生に取り組む合衆国の「形而上学クラブ」1870年代のマサチューセッツ州・ケンブリッジで2週間ごとに開かれた学徒たちの集まりから出発する集会で思想の原型が形成されますが、稚拙(ちせつ)な文の故か、学会的には問題にされていません。プラグマティズムが評価されるのはC・S・パースの思考として発表された友人ウィリアム・ジェームズが、1898年8月26日にカリフォルニア大学の講演会の中で発表した「プラグマティズムの格率」によって世に受け入れさせます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム5(六百四) プラグマティズムは現代に相応しい哲学であると考え肯(がえ)んずるのは思想家のみならず現代人の多くの方々の支持を占めます。然し乍ら、今我々が現存する日々・時々の時間の変化をを「現代」時間とする期間として捉えるならば、プラグラティズムは現代に相応しい哲学であると答えることには難を覚えます。IT時代の21世紀では現代の時間的範囲では科学進歩によって時事の変化が非常に狭く現代其のものの意味合いが異なって来ているからです。史的区分である古代・近代・現代の定義は、現在の時点では区分的には相応(ふさわ)しくなくなり、現代を「近過去時・現進行時」の変化変遷の質的変化の語彙と取ると、とてもじゃないがIT時代の21世紀では現代の時間的範囲からはプラグマティズムを今現在進行形の時代の風潮である精神と理性を軽んじ、自己欲求を合理化して自己の欲求を満足化する傾向の間隙を埋めるには、相応しい哲学であると単純には頷(うなず)く訳にはまいりません。我々現代に生きる者が求めている「真実在」の全てをプラグラティズムが解答を与えているとは思えないのからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム4(六百三) チャールスサンダーパースと同時期に生きたウイリアム・ジェームズ(William James/1842―1910)は、学者肌の家風であるアメリカはニューヨーク市の哲学・心理学・宗教思想家のヘンリー・ジェームズを父に第一子として、次男には後に小説家ヘンリー・ジェームズという思想家になるには最高の家庭環境で成長しますが、豈図らんや、ハーバード大学では最初は化学を専攻、次いでは比較解剖学と生理学から医学の道を選び医学博士の学位取得後は、母校ハーバード大学で教鞭をとり解剖学と生理学に続いて心理学を教え、1885年哲学教授となる経歴は、古史の哲学者の多才にも遅れは取りません。彼の1898年のカリフォルニア大学における哲学会での講演「哲学的概念と実際的結果」は、其の20年前にパースが唱えたプラグマティズムを独自の角度から紹介し、プラグマティズムの名を全世界に広め、名声を成さしめたのはウイリアム・ジェームズ其の人です。彼の最初の著作「心理学原理/1890」は12年の歳月をかけて執筆されたもので、従来の思弁的、内省的な心理学を超え、実証的、観察的な事実を重視する科学的心理学を志向する画期的な名著とされ、現代心理学に置いても、尚、重きをなしています。其の基底には深い哲学的含蓄が読み取れ、現代哲学に勇名を馳せるベルクソンやJ・デューイ更にはウィットゲンシュタインに思考方法論的にも刺激を与え影響を及ぼしていることは彼等の著作から読み取れます。彼の思考方法の特徴は、人間が知的領域で真偽を決めることの出来得ない命題はまさに其れを信じることによって初めて真となる場合があることを明らかにし、更には決定論を批判し自由意志を認める立場を主張することにあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム3(六百二) プラグマティズムを大成させた人物、C・S・パースと並び称される人物がジョン・デューイ(John Dewey/1859~1952)です。アメリカ合衆国の英国からの移住者としての開拓民の四代目の家系を継いだ父でしたが裕福とはいえず、新聞配達や農場の手伝いなどをして小遣いを稼ぐ程に余裕がある生活状況でしたが、のちに経済学者・統計学者になる兄がが通っていた、バーモント州バーリントン市にキャンパスを置く州立大学、ノーベル賞受賞者、ピューリッツァー賞受賞者などを輩出している名門バーモント大学に入学します。大学ではチャールズ・ダーウィンの進化論やオーギュスト・コントの実証主義哲学・社会哲学などに感化されています。大学では成績優等のため超エリートの集うThe Phi Beta Kappa Societyに入会、卒業後は高校教師を2年間務めるものの、中等高等教育機関での教師には自分は向かないと考えるようになり、バーモント州の小学校で勤務を経て、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院に再入学し、心理学者スタンレー・ホールのもとで学んだ後、同大学心理学研究所で働きながら、博士号を取得します。出版されず紛失した博士論文の題は「カントの心理学」。1884年からはミシガン大学で2年間講師を務めたあと助教授に、1889年に若干30歳で教授になります。デューイの大成させたプラグマティズムは実験主義または道具主義とよばれる立場を確立し、其の著書「学校と社会」「民主主義と教育」「哲学の再建」にその思想傾向が読み取れます。プラグマティズムは現代哲学へのアメリカの最も大きな貢献とも呼べますが、多分に匂うアメリカ超越主義を批判するむきもあります。それにしても実存主義及びマルクス主義や分析哲学などと並んで現代哲学の主流の一つとしての要素を占めています。他にプラグマティズムを代表する思想家にはC・S・パースは勿論のこと、W・ジェームズやJ・デューイ、G・H・ミード、並びにF・C・シラー、C・I・ルイス、C・W・モリスらがプラグマティズムを思考の基底にした思想家として挙げられます。プラグマティズム運動は〈アメリカ哲学の黄金時代〉(1870年代~1930年代)の主導的哲学運動で,特に20世紀の最初の4四半世紀には全盛をきわめ、アメリカの思想界全体を風靡(ふうび)するとともに、広く世界の哲学思想に大きな影響を与えたことは事実です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム2(六百一) 近代アメリカ合衆国の中心思想であったプラグラティズムとは、古代ローマ支配下以前の台頭するマケドニアのアレクサンドロス二世の家庭教師アルキメデスを代表とするギリシア(希臘)以来の形而上学を排して、真に科学的に思考する哲学的立場を探求したチャールスサンダーパース(Charles Sanders Peirce/1839-1914)が、カントの実践哲学の方法論に触発されて新たにプラグマティック(pragmatic)、ギリシア語のプラグマ、活動する・実際になすべきこと(pragma)、其の形容詞プラグマティコス(pragmatikos)に由来したプラグマティズムをアメリカ合衆国の近代中心思想に据え、概念の意味を思弁ではなくそれが行動に現れる実際的結果によってとらえることを説き、理論は常に実践(乃至は実験)によって検証すべきことを主張したのは、実践を多分に理論に先行させる唯物史観とは趣を異にします。プラグマティズムの語彙を定義付けた始祖であるチャールス・サンダーパース、通常表記ではC・S・パースと記される彼は、自然科学者並びに論理学者そして哲学者であり数学に基を置く現代記号学の創設者のひとりとして、現代思考の哲学には欠くこと能わずの合衆国が生んだ最も多才で,最も深遠な,そして最も独創的な哲学者〉と言われる記号論理学・数学基礎論・方法科学論の現代発展に寄与した先駆者です。現代における評価に於いても合衆国が生んだ最も多才で、最も深遠な独創的な哲学者と称えられています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム1(六百) 現代哲学を語るうえで、20世紀から21世紀の世界を牽引してきたと表現しても不当ではないアメリカ合衆国の近代中心思想であるプラグラティズムは、其の思考と方法論は「人間の霊魂を思考」する上でも現代人にとっての重要な要素のひとつです。プラグラティズムは「直観知」、即ち仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとし、「純粋経験」「善の研究」を著した西田幾多郎にも影響を及ぼしており、プラグラティズムは日本の教育全般にも影響を齎したことは疑問を挟み得ない事実として、現代の日本人の思考傾向を読み取る上でも極めて重要な要素を占めます。仏教思想及び西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとしたその思索は禅仏教の「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論、その純粋経験を自覚する事によって自己発展していく自覚論、更には、その自覚等々、意識の存在する場としての場の論理論、最終的にその場が宗教的・道徳的に統合される絶対矛盾的自己同一論へと展開していった日本的哲学が、19世紀後半のアメリカのプラグラティズムの影響下にあることは意外に知られていません。マルクス及びエンゲルスの唯物主観とは形而上学を排して真に科学的に思考する哲学的立場を探求からは実践を強調するチェルヌイシェフスキーに相似し、哲学をイデオロギー的にとらえ社会制度化したことは、ソクラテスの「哲人政治」と意味合いは異相だとしても、政治体制に思考が及んでいることは事実でしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学61(五百九十九)最終章 概念は現実の事物を写し取った映像即ち仮象であると考えるチェルヌイシェフスキーの思想に同調する人間は、現実の事物を鏡像の特性である正反逆像であろうとも現実世界の表層を手に入れることで満足し、其の実体である内層を究明しないで無視することでしょう。人間有り様の要(かなめ)である精神の実体であるところの霊魂をも失う危険を伴うことを認識する覚悟があるのでしょうか。人間とは石を削りブロンズで鋳造された彫像に過ぎないが、芸術と称される程の出来栄えの作品は、其の創作者の心性の眠る真情或いは熱情を吐露して我々の心に感銘を与えてくれます。其の創作者から受け取る感受性を否定することは人間の心の自由から思慮しても、否、喩え全体への献心が社会を向上させる政策が是とされる国体にあっても、人間の心の自由を拘束することは許されざるものです。芸術の冬は人間性の冬となります。人間は単に飢えを克服し飽食を得んとする動物に成り下がっては、全体性の向上どころか日々刻々の闘争にしか視界が届かず展望が見えません。人間が真に人類全体の「幸福」を追求するものであったならば、個々其々の感受性を備えた人間の「幸福」を追求するものに「内心の自由」があることにも配慮すべきです。哲学は飽食のみを追求する思考方法ではありません。ソクラテスの「無知の知」を肝に銘じ、シッダルダの衆生救済の目的意識をも、今一度、原点からIT技術の現代にあっては殊更に見直さなければ、人間が持つ知的欲求が科学した其の目的因からも見放され、人類の末路は混沌しか待ち構えかねないことが懸念事項として浮かび上がります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学60(五百九十八) 唯物論的哲学はヘーゲルが自然や歴史の一切を、認識への「経過」として捉えた。ある存在についての認識とは私たちの意識における過程其のこと自体だとしたことから始まり、真理が認識の過程のうちにしかないことをヘーゲルの弁証法は明らかにし、其の思考法は「キリスト教の本質」で観念論に対する唯物論の優位を示したフォイエルバッハに逆説的ではあるが受け止められ、自然こそ唯一の現実であると考える思想がチェルヌイシェフスキー並びにマルクス及びエンゲルスに引き継がれ、デカルトからヘーゲル、更にホッブスからフォイエルバッハまでの経過を、主観と客観の一致を主張するエンゲルスは、彼等の思考を、純粋な思考の力によってのみ推し動かされていたのではないとし、その逆で、彼等を真に推し動かしていたものが、自然科学と産業の、時代を突進する進歩であったことを主張します。以前の歴史哲学や法哲学は社会事象について観念的な連関を想定していたが、弁証法的唯物論においては、もはや問題はそこにはない。問題は現実的な連関、すなわち歴史の一般的な運動法則を発見することへ移行したのだと主張します。人間精神の在りどころが歴史の現実的な動因、ブルジョワ階級とプロレタリア階級の間の階級闘争へと転化されます。哲学が社会科学へと降下した瞬間です。要は哲学とは物事の成り立ちの真相を思考することであり、その思考の源泉を拒否すれば産まれ出て来るのは物質優位説であり、人間精神の高貴的側面は失われスピロヘータ(Spirochete)と場を同一にすることとなります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学59(五百九十七) 唯物主観的な人間哲学を奉じるにしても、無機質なものには質的反応及び量的反応はあるこそすれ、「心なきモノ」は喜怒哀楽に関与しないし、考察する事は有り得ない。当然に自己表現を外環境に語り話すことはない。人間が其の表現を受け止めたときにだけ其の表現は既成の事実となる。其のことの意味が人間固有に内在する「心」があるの語彙でしょう。環境を受け止める反応に優れた存在のゴキブリは喜怒哀楽に関与しないものの、生存環境から受けた印象を記憶には残さず淘汰反応として遺伝子に組み込み対処しています。此の生成経過はチェルヌイシェフスキー並びにマルクス及びエンゲルスの唯物主観を想起させます。否、人間は喜怒哀楽を受け止め其の表現を言葉をもって話す。喜び悲しみが自己の理性に何某(なにがし)らかの影響と行動を呼び覚まし、心が揺れ動きます。とはいえ、其の「心」たるや甚だ心もとない基底にあり唯物主観からは観念として拒否されます。人間の「心」たるものの根源が臓器のどの部位に存在するのか、人間身体の有るべき存在の根源としては「脳」や「心臓」を探求しても見つからないからでしょう。脳細胞のシナプスとして規定すれば唯物主観的には「心」は環境反応だとしても納得出来ることもあり得ますが、此の原則を事細かく突き詰めれば人間機械説が浮上し、IT時代の「アンドロイドは心を持つか」が現実化します。人間特有の理性の深層に隠された「心」なるものは、「在ればあり」且つ「無ければ夢」の甚だ心細きものなのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学58(五百九十六) 唯物主観的人間哲学は何故に「私観」なるものを軽んじるるのでしょう。其のことの発現[「全体」こそが唯物論的哲学から派生した唯物史観の旗印とする「真っ赤の象徴」だからです。自己の意識が自我を伴って肉体の一部の脳によって創りあげられている、この自分では選択権も何もない一方的な存在、我執を離れた釈尊でもなければ、それが「私」という主体であるという事実は疑えないとする観念を唯物主観的人間哲学は唾棄します。各々の人間は世界内に存する物質の量的変遷を経た質的形態のとる形態に過ぎず、其の実体性からは何事も生み出せるものはなく、自己を取り巻く世界環境を全体として向上させることが社会生活況や貧困からの脱出につながる。「全体」の向上のためには既得権を保有するものを排除するのが当然だとする共産主義にチェルヌイシェフスキーの思想はマルクス及びエンゲルスはいうに及ばず取り込まれていきます。「物質がすべてである」という唯物論に立って考察するとき、温度計の温度反応及び高度計や水深計の圧力反応を見れば、ある意味、外環境を「知覚」したかのように反応を見せます。人間に此の反応を無理も道理で、複雑に組み合わせ統合すれば人間の自覚を意識させる事になり、自覚生成も質的反応の物質特性に過ぎない。蟻や蜜蜂の職制と同様、人間の社会制度にも職制を持ち込むことが必須となり、ロシア共産体制では労働者を、後れて中国共産主義は毛沢東の農民を主体とした農本共産体制が芽生えることになります。何れにしても個人は全体の組成の一部であり「全体」に従うことが唯物史観の特異な思考を示しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学57(五百九十五) チェルヌイシェフスキーは自己の受ける打撃を敢えて受け止め従容として振る舞う良い意味では克己心のある重厚な人物ですが、其のこと故に、マルクス及びエンゲルスはドイツのみならず大陸各国から追放され、已む無くイギリスに渡ったとはいえ、実質は亡命です。チェルヌイシェフスキーにも亡命の機会はあったのですが敢えて苦境にまみえます。人間的に何方の生き方を支持するかと言われても返答に詰まりますが、マルクス及びエンゲルスはドイツを離れ英国で出版の機会を得、チェルヌイシェフスキーは流刑地での出版禁止の状況の憂き目が、彼等の後世の評価の別れ目ともなりました。弁証法の大成者ヘーゲルは観念論的ではあるものの「唯物論哲学」を基とした共産主義を生み出した巨頭です。現代には自己同一性の構造の分析が精神分析学や心理学で扱われていますが、唯物主義的人間哲学では、人間の意識とは、人間の脳の動作様式を説明するために便宜上表明のため造語であって、直接観測されるものではない」あるいは「自我などというものは、それ自体実在する訳でなく、さまざまな知覚の束にすぎない。」とする、「私」観を蔑(ないがし)ろにします。他人の意識を想像し考察する立場は「私」観から発するものであり其のことを明晰な論理で答えた唯物論哲学は見付からないのに難を覚えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学56(五百九十四) 現代社会にも持ち越されている課題として唯物論的観念論を再考することは、唯物史観から農奴制の廃止や働けば働くほど搾取の対象となる非搾取者の労働者の解放を掲げた農本主義的共産主義や「働かざる者、食うべからず」の労本的共産主義からは、歓迎されはしないものの、現代先進国の飽食の時代にも人間を悩まし誘惑する悪は絶えず浮上しています。チェルヌイシェフスキーの「打算」を人間の幸福を追求するゆえの選択肢と捉えれば、唯物論的観念論を再考することも許される筈です。「打算」とは人間自身が自己の幸福を追求する由縁だからです。チェルヌイシェフスキーの「打算」が人間生活の社会状況の改革を目指すものであるとすれば、唯物論的観念論を再考することは宇宙には始まりがあってエントロピー増大による終末が用意され、無への進行は止むことは出来得ないにしても、唯物論的観念論に於ける絶対存在は有無消滅には関与されない「絶対有」としてあるとすれば、其の延長としての人間理性であることを深慮すれば、人間肉体の生死の變化がありとも流転の可能性が浮かび上がります。言葉を変えれば「人間霊魂」の不生不滅も考慮するに値します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学55(五百九十三) チェルヌイシェフスキーは自己の生きる社会構造と状況を鑑みて、人間世界に萬延する諸悪を貧困と無為、社会構造上では非搾取の下層民の貧困と搾取者の属する中産階級以上に帰します。此の論点については、現代の社会状況の西洋や亜細亜には散見されるものの、全て諸悪の素因を貧困と無為に帰するには無理があります。但し、チェルヌイシェフスキーが諸悪の定義を社会構造上から派生する悪としているのなら別ですが、宗教絡みや先進諸国の自己の生活環境のストレスから来る憤慨を一般的には精神破綻が見られないのに自分が死ぬならの比較衡量で他の生命を巻き添えとする事件を顧み、他人の生命を奪う行為が人間の精神の取扱の軽薄化を唯物主観が教育に浸透していることが現代では憂慮化されています。チェルヌイシェフスキーの思考を読み解く限りは、人間世界に萬延する諸悪を全ての事例において貧困と無為に帰すとだけとは決め付ける訳にもいけません。彼は此の無為と貧困、為すべき者の為さざることと、作(な)すことを為せば成る程に貧困に陥る矛盾を社会構造上から悪としているのであって犯罪行動者其のものをば指し示している訳ではないことには注意が肝要です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学54(五百九十二) チェルヌイシェフスキーの曰く「新しい人」とは、社会階級の一方の層では権威と権力と富裕に無為が萬延し、片や其一方に属する層には貧困が見い出される状況の中で、其の行動を起動させるのは「打算」だとします。価値ある自己の真の利益を求めて行動する人間の「打算」こそが要求されるのです。現代世界では「打算」を自らの保身の損得勘定の比較衡量と捉える傾向がありますが、今日(こんにち)の事実上の社会では通用されるときには原則上はともかく、表現としては歓迎されていませんが、チェルヌイシェフスキーは「打算」の意味合いを、汎ゆる人間、汎ゆる道徳の隠れた秘かな原則だと指摘します。然し乍ら、「新しい人」とに対する「古い人」、其の古い道徳は自らを欺いて「打算」を自己流に思考、原則を顧みないで否定していることを自己欺瞞とし、其の報いとして、他の非現実的な神権受諾による有り余る責任論や宗教に於ける権威の押し付けや思想体系によって、自らの罪悪感に苦しんでいることを説きますが、たぶんに、貧者救済の唯物史観の便法とも取れ全面的には認証され得る思考としては肯んぜず、「思考と直覚」人間の霊魂の直覚を思考する立場からは肯定することは甚だ難しいものがあります。チェルヌイシェフスキーの思想やマルクスとエンゲルスの思想は当時の社会体制の矛盾を露呈したものであり、現代社会にも持ち越されている課題としては唯物論的観念論を再考するに値することは疑わずの風潮が再来しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学53(五百九十一) チェルヌイシェフスキーの掲げる「新しい人」とは、現実社会にいままさに起こっている社会行動に促されて其の行動に示されている事実を自己の精神内に真剣に受け止め、人間社会に存在するとおぼしき汎ゆる悪と称されるものが、たった唯二つの素因、貧困と無為から発していることを識別し受認すること、更に其の素因を指摘出来得る能力示しています。此処に掲げる指摘はチェルヌイシェフスキーの掲げる労働意識の混乱を表現した状況だとも言い換えることも可能でしょう。チェルヌイシェフスキーの掲げる貧困と無為は、抑々(そもそも)が、労働に携わる民衆への盤石の信頼を置くことの信頼を基礎に置くことに疑問を持ち、素因が貧困と無為から発していることに一応の解答を用意します。貧困と無為を全て世界社会環境世界や施政制度に素因を根拠とさせ、社会制度上に改革を求めることは当然ですが、貧困と無為が労働と報酬が逆転した世界に甘んじているとを社会制度の不法なことを指摘します。働く労が多ければ多い程、其の報酬の多は報酬の少を齎す。逆に、現状社会では働く労が少ければ少い程報酬の多を齎す状況にある。其のこと故に、社会階級の一方には無為が萬延し、他方には貧困が見い出される。チェルヌイシェフスキーは其の何方(どちらか)の一方の立場に立つ人間にも批判の眼差しを向け、其の根源的な思考の害悪改善を求めています。人間の霊魂を思考すれば、チェルヌイシェフスキーの思考は、の社会体制の崩壊が人間救済の道だとしたのも社会情勢上無理らしからぬ思考であり、参考にすべき点では現代に於いても有用な思考ではあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学52(五百九十) チェルヌイシェフスキーが辛辣に批判の目を向けるのは、一には観念論を信奉する類(たぐい)の思想、二に宗教的な神秘を懐き、信教による道徳を吹聴する類(たぐい)の思想を掲げる権威筋に対してです。其の批判の要旨は、彼等が自己の中の意識に存しているもののあるなしには関わらず、民衆に良かれと思おうが思わないの意思にも関わらず、一心に民衆の心を捉えんとして活動し、事実、民衆の心を捉えている矛盾に向けられます。チェルヌイシェフスキーが要求するのは、彼等は新しい思考に目覚めるべきであり、新しい世界観を持った人間に変貌することが重要だと言います。自己の著作「何をなすべきか」のなかでそのことを具体化させます。彼が名付ける「新しい人」とは人間そのものを哲学の基底に置き、人間からヘーゲル以来の唯物的主観論の思考法を抜粋して取り入れたものであるにしても、外環境世界から人間を見つめ観相する思考は眼中にありません。其れ故に、人間の人生の基本を労働を説き、労働なしには人生はありえないとします。労働に対するこの思考こそが、事業などというものよりも、人間にとっては根本的なものであり本質だとします。此の本質の本意を理解し行動する人間を旧世界の人間に比して「新しい人」と表現するのです。其の行動は多分にエゴイスティックであり、ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham/1748年-1832)の唱えた功利主義の匂いが香ります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学51(五百八十九) 現代科学が創造の実相を究めんとしているのとは相違し、史的唯物論は在るように在りて世界は自ずと成り立ち疑問を持つ程には至らないのは当り前のことであり、人間実践論こそが人間精神の基礎に置くべき哲学だと主張して革命倫理には影響を与えたことはマルクス主観共々に認められる思考です。世界に在るものを從容として認容することは或る意味ギリシャ以来、将又、アルミテラス洞窟以来、人間がハードウェアに刻みつけた自然崇拝からの精神を軽んじている傾向も無きにしもあらずとも憶(おぼ)えます。哲学が人間の救済を究明するのか、世界存在自体の在り方を究明するのかは、真相を何に求めるかによって解答が異なることがあってはなりません。チェルヌイシェフスキーの思考は哲学と受け取るよりは、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill/1806年-1873年)イギリスの哲学者であり社会思想家にして経済思想家でもあり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えたベンサムの唱えた功利主義の擁護者、晩年は自ら社会主義者を名乗り、また、論理学分野においてバートランド・ラッセルら後続の分析哲学にも強い影響を与えた思考の初期科学哲学と共通する指向が認められるのはチェルヌイシェフスキーの思想が社会科学的哲学の傾向を帯びていることからの憶測です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学50(五百八十八) チェルヌイシェフスキーの論理的展開が倫理的実存に帰するのは、古史の唯物論を唱えながらも、絶対者を片面に持った、彼以前の思想が二元論からは離脱することが出来得なかったのを辛辣に批判しています。チェルヌイシェフスキーの生きた社会の状況の影響も見逃せませんが、唯物論的一元論にて、人間は自己にとって選り快適であるように行動し、よりいっそうの多くの利益、将又、より多くの満足を得るため、より少ない利益、或いは、より少ない満足を拒否するように命じる自己内欲求の打算的行動をとること良しとしてを、あるで原則として彼自身のの人間観の基底に置いています。其処には、もはや本来的に語り継がれ、記述に留めた世界自然観から遥かに遠のくというよりは、次元を異にし、真理が人間的側面から描かれ、物質的なものは人間の質としての真理に従属し、真の利益を見出すことを人間倫理の根本とします。世界自然は在るように在りて、そのもの意外の何ものでもない、物質的なものに過ぎないとする訳です。世界創造に根拠を求めること自体が無意味だともとれます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学49(五百八十七) チェルヌイシェフスキーの唯物論が其の思考の基底に置くのは、思考の論理を大成したヘーゲルの弁証法でしたが、ヘーゲルの人間精神と物質世界の見解に対し、社会改造のための革命的唯物論故に、一定の理解は示すものの、現実世界の観相を以って否定します。何故なら、明日の食いぶちを危惧する人間がヘーゲルの観念論には関心どころか、世界の見えない絶対者が恩恵を現実的に与えてくれるのかと疑問を持つ程に、飢食(Starve)に耐えかねていたからです。チェルヌイシェフスキーが唯物的思考方法を社会制度及び人間開放のために持ち込むことは、ロシアの人間のツァーリズム制度の農奴解放が必須の急務でもあり、観念論が自己の頭脳を弄ぶだけで実践に役立たないとしたのも頷けます。但し、チェルヌイシェフスキーが唯物的思考方法に弁証法を思考方法の基底として念頭に置いていたのは観念論に立ち位置を持つ弁証法の大成者ヘーゲルです。其れを、自らの革命的民主主義と唯物論をもってヘーゲル体系の限界を指摘し、人間の社会的発展は、現実世界では「量的差異は質的差異に移行する」との運動論を法則を論理付け主張します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学48(五百八十六) チェルヌイシェフスキーの唯物論は、近代マルクス主義を俗物的に捉えた「物質主義(Materialism)」一辺倒の思考かと云えば、事程左様には、単純ではない。チェルヌイシェフスキーは、決して、所謂、通俗的なマルクス主義の捉え方、俗物唯物論のように物質と意識は同一視しなかったところにマルクスとエンゲルスの思考方法である「唯物論」とは、多少の意味合いとは云えず基底の置き方に相違があります。彼の言「人間の本性は統一されているにもかかわらず、我々は人間に異なった系列の現象と、所謂、物質的カテゴリー、人間はもの(物)を食い、歩くの現象と、精神的カテゴリー、人間は人間はもの(質)を想い、感じ、欲するの現象があること、人間の心理的過程を唯物論的に解釈する努力に伴なって、人間が世界を認識する能力のあることを認め、人間の知性に真理性を付与するのが実践だと主張します。彼の人間実践論は人間の感覚的経験の実践に踏み止まらず、自然改造のための実践、社会改造のための実践に含有せしめていることに思考の特徴が顕著です。人間深層に眠る神秘性は否定するものの人間精神の質の特異性は認識しているのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年11月01日
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