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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-25(三百七十七) カントの有名な三大批判「純粋異性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の著作によって彼の哲学はは批判主義とか批判哲学と呼称されます。然し乍ら、此の時期のカントの最初で最大の関心事は、哲学史上かってなかった「認識論」を樹立することにありました。当時には啓蒙主義故に教会権威を離れ自然科学が日々に発展してきています。カントは此等自然科学に応じて自らの新しい思考を以って哲学を確立することに励みます。自然科学の発展が経験によって、増々、知識が拡大していくことを容認し、更に此の知識い確実性を齎すには、如何様の「認識論」立てたらいいのかを探求し、可能だと思考します。ところが、カントの思考に多大な影響を及ぼした、ルネ・デカルトのコギト・エルゴ・スムの我の意識即ち「自我」を解体し、其れ其れの個別的経験にすぎない経験から観念の主体を束ね想定した「私の感覚」「私の観念」とすり替えた抽象観念だと決めつけたデイヴィッド・ヒュームが、すべての知識が経験によって起こるとは言いながら、知識の確実性や必然性を認識するに至らず、経験によって得られる知識が印象として時々変化に晒されるという結論にしか到らないことに不満でした。其れは恋愛している若者の会うごとの心情の惑いのようなものです。更には、カントが若年より馴染んでいた「合理主義哲学」が時々変化発展し経験を提供している自然科学の進歩に純粋の思考の力「理性」によってのみ頼るのでは覚束ないと判断します。此処においてカントは変遷拡大しつつある、必然的確実な知識とは可能かの方法論を提起します。然し乍ら、カントの云う経験的認識が、現代に捉えられているような外感覚的で物質的な経験による認識だけを意味しないのは、彼が不可視である「物自体」を主張するところにあります。「思考と直覚」は其れを理性の深奥に眠る絶対存在の意思の延長としての先駆的な霊性、其の深奥の理性の存在の非有を問うていると看做します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-24(三百七十六) カントと言えば一番に「純粋理性批判」が俎上に上がりますが、「純粋理性」とは広義では,経験を可能ならしめる先天的な認識能力。狭義では,感覚内容を受容する感性に対する能動的な思惟能力を言い、理論理性に対して、人間の行為及び意志の決定にかかわる理性、経験的動機に依存しない先天性と自律性をもった純粋で理性的な善とされる意志、叡智界に参入する人間の能力とされる「実践理性」に対応するものです。科学的な自然認識の成立根拠に超越的な人間理性をおき、それとの関係で感性とつながった悟性的認識と純粋な理性的認識を区別し、更には、其の「実践理性」をも感性的且つ経験的動機に規定されたプラグマティッシュ(実際的,有用的)な実践と,理性の法則に従うモラーリッシュ(道徳的,精神的)な実践とに区別して,倫理的実践(行為)をより優れた意味での実践と考えています。そしてこの実践を規定する理性を「実践理性」と呼び,認識における「理論理性」が人間の自由や霊魂の不滅、更には「神の存在」を理論的には証明しえないのに対して,実践的にはそれらの存在が必然的に要請されるから,実践理性は理論理性に優位するとしました。其の故に、倫理的実践によって人間の精神開放としての自由が「人間性」の完成として実現する理性の王国が,人間の実践の目的とされ、それは歴史的実践(進歩)によって未来に到達される筈のものとしています。「神の存在」を理論理性が捉えられないのに対して実践理性は捉えられ得るとしたことに「純粋理性批判」の刮目すべき思考が見られます。それでは、カントの有名な実践倫理其のものの生活が「神」を直感したかといえば、其のようには働きません。カントが「神的存在」を捉えられ得るのは、人間が云うところの不可視である「物自体」でした。但し、不可視である「物自体」を如何様に捉えるのかは、「思考と直覚」で推理すれば宇宙の原初の素材である「核/Core」の背景存在を予感させます。pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2foh-platter%2f612791%3fscid%3daf_link_txt&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2foh-platter%2fi%2f10001693%2f" target="_blank">cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-23(三百七十五) カントの基底思考の基底に流れる定立命題に対する反定立命題の二律背反は、先ず前もっては、通常、説かれるところでは此の一對の命題は、其れ其れに正統性があることを主張しており、仮に何方にも正統性があるとすれば、同時に有限でありながらかつ無限、或いは、存在且つ不存在となり論理的に不条理です。それ故、この対立は一見して矛盾対当のような印象を与えます。矛盾対当とは、片方が真であればもう片方は偽であるような対立関係でしょう。但し、カントは其の定立命題に対する反定立命題の二律背反にも反対対当というものがあり、両方が真であることはできないが、両方が偽であることは可能な対立を第一のアンチノミー「時間と空間に関する宇宙の限界」で、定立命題の立場からすれば、反定立命題が主張するように世界に端緒がないとしたならば、現在の世界が生まれるまでには無限の時間が経過していることになる。即ち、世界において物が継起する状態の無限の系列がすでに過ぎ去ったことになる。時系列が無限であるということは、継起するものの総合によっては決して完結することがないということ。それ故、世界の系列が無限に過ぎ去っているということは不可能であるとします。世界に端緒があることは、世界が現実に存在することの必然的な条件だということと「世界の内部では、多数の事物の系列が始まることができるが、世界そのものは端緒を持たない」とするのを「反対対当」、即ち両論共に偽の命題なのだと解き二律背反を解消します。二律背反の対立関係には、また、両方とも真でありうるものがある。カントはそれを小反対対当と言い、アンチノミー(二律背反)に掲げる四つの命題に共通するのは理性の誤謬だとします。カントにあっては、アンチノミー論は理性の否定的な活動を示す論拠となります。カントの限界は人間の理性を生物学上の人間本来の持つ特性として捉え其の素因を現実経験主義的なものに囚われ過ぎた傾向にあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-22(三百七十四) カントの最後に掲げる第四のアンチノミーは「神」の存否の定立命題と反定立命題ですが、そもそも「神」を如何様に捉えるかにより正否は問えないことになります。仮にカントが、認識作用の原理を経験可能な対象でなく、経験そのものを成り立たせている条件に求めたのだとしたら、まさにカントは其のように考察した哲学史上の先駆者なのですが、其の経験を成り立たせる「条件」とは世界を成り立たせている「理法」ということになります。此れをヒュームの自然の斉一性原理(しぜんのせいいつせいげんり/ principle of the uniformity of nature)「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」と併せて考えれば、異なる人々が互いに認識を共有でき、また私秘的な現象的意識を公的言語に変換し、かつコミュニケーションが成立している理由も、同一の自然法則によって経験が生じていると仮定すれば合理的に説明でき得ます。経験の条件が法則にまで還元できるなら、物自体を措定したカントの意図に反して「実在」というものを措定する必要がないから「神」の不存在が浮上し、科学哲学における実在対象を措定しない立場を取る規約主義、道具主義、存在論的構造実在論に継っていきます。 ところで、カントにおいては、アンチノミー論は人間理性の否定的な活動を示すものでしたが、それを理性の肯定的な活動と捉えた思想家ヘーゲルがカントのアンチノミー論を踏まえたうえでカントは「二律背反」として捉えたアンチノミー論を「硬貨の表裏」一對のものと解釈しています。ヘーゲルはカントの定立命題と反定立命題の関係を、物事の直接態である「即自」、未だ他とのかかわりによって規定される段階にまで達していない相、自己自身への反省的関係を欠くという意味で「無自覚態」、其の「即自」が自己の自立性を失う他とのかかわりによって規定される段階、子供が大人の命令に従うのは、自己の内なる理性を、他者の側にもつ「対他」へと発展、更には、恰も子供が大人の命令に従う自己の内なる理性を他者の側にもつ「対他」から自己自身と関係することによって、自己を取り戻す段階である「対自」に置き換えて弁証法を構想します。唯物論への継承を鑑みれば、カントの「神」論は敢えて持ち出す必要性は「直覚」を否定する限りにはなかったでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-21(三百七十三) カントの第三のアンチノミーに掲げるのは、自然法則に基づいた必然的な因果関係のほかに、人間の思考意思の自由に基づいた因果関係も存在する定立命題、対して人間の思考意思の自由に基づいた因果関係などは世界には存在せず、自然法則に基づいた因果関係だけが存在する反定立命題が浮上します。仮に世界の構成に必然的、もっとも、何が必然を齎すのかは大きな課題であり、絶対存在に理法を求める、或いは親的存在であるものを実相する立ち位置から因が其のものの根底は異なりますが、それでも、因果関係があるのなら世界内存在の人間の思考意思の自由に基づいた因果関係は、其の存在の下にあって人間の思考意思の自由に基づいた因果を供するでしょう。対して人間の思考意思の自由に基づいた因果関係などは世界には存在せず、自然法則に基づいた因果関係だけが存在する立場からは自然法則其のものの始元が問われることとなります。カントにとっては理性はこのような誤謬に陥るとします。更には、誤謬は理性にとっては避けがたいものなのであるとしています。世界の時間的な端緒と言い、空間的な限界と言い、それらは直感によってとらえられるものではなく、あくまでも理性による推論の産物である其の推論の産物に過ぎないものを客観的な実在として存在するように考える。此処に西洋哲学の盲点、主観と客観を離脱した思考「無我」が俎上します。外感覚的で物理的なものに囚われ過ぎたり。自己の依怙に囚われていては理法は観えてはきません。西洋哲学の盲点でしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-20(三百七十二) カントの第二のアンチノミーである世界は究極の構成要素としての単純な実体から構成されている(定立命題)、世界には単純な実体は存在せず、構成要素はどこまでも分割可能である(反定立命題)、此れが、意外にも現代科学では一方の命題の正当性を、他方の命題に潜む矛盾を明らかにすることで証明する方法の背理法の成立が危うくなっています。世界即ち大宇宙の究極の構成要素が極単純な実体から構成されている定立命題は、素粒子物理学における四つの力のうちの重力相互作用を伝達する役目を担わせるために導入される仮説上の2016年までのところ未発見である素粒子もを含めて成り立つとも想われます。然し乍ら、現時には、無から粒子が発生する理論も発表されており、無を実体としないかぎり世界の構成を語れません。方や、反定立命題の世界には単純な実体は存在せず、構成要素はどこまでも分割可能であるにしても宇宙の原初の始まりである核(Core)を分割可能なのか、分割可能とするならば核(Core)は核でもなくビッグバンは有り得ないことになり世界は虚空のものになります。此の説を取るときには「無」は無でなくなり「有」として存在せなばなりません。無が時間を空間を生じ、始元は失くなります。勿論のこと、「神」は世界の出現がなければ在ることさえ論じられない状況に陥るでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-19(三百七十一) カントのアンチノミー(二律背反)に掲げる四つの命題に共通する基底のあるのは、其れ其れに「定立命題}と{反定立命題」の対立する立場が「真」であることを主張しています。カントはどのような理屈でそうなるのかを、四つの対立を含んだ命題に検討をしてみせます。其の思考経過はまさにシッダルタの仏教を哲学として高めた偽経の聖人大乗の祖「龍樹」と同様「背理法」を利用します。詰まり、一方の命題の正当性を、他方の命題に潜む矛盾を明らかにすることで証明する方法です。定立命題はその正統性を反定立命題の非正統性を指摘することによって証明し、反定立命題は、その正統性を定立命題の非正統性を指摘することによって証明しようとする「空論」論法です。この証明方法は、他のアンチノミーにおいても共通しています。第一のアンチノミー「時間と空間に関する宇宙の限界」では、、定立命題の立場からすれば、反定立命題が主張するように世界に端緒がないとしたならば、現在の世界が生まれるまでには無限の時間が経過していることになる。即ち、世界において物が継起する状態の無限の系列がすでに過ぎ去ったことになる。時系列が無限であるということは、継起するものの総合によっては決して完結することがないということである。だから世界の系列が無限に過ぎ去っているということは不可能であるとします。それ故、世界に端緒があることは、世界が現実に存在することの必然的な条件だということになるとします。対立する反定立命題では同様「背理法」を利用して、定立命題がいうように世界には端緒があったとしたら、それ以前には世界の存在しない「空虚な時間が流れていたに違いない。しかし空虚な時間においては、ある事態が生起することはできない」それ故、「世界の内部では、多数の事物の系列が始まることができるが、世界そのものは端緒を持たないとし、時間論に関しての一対の命題は、それぞれが正統性を主張しています。伝統的な論理学によれば、相互に矛盾しあう命題は、同時に真理であることはあり得ない一方が真なら、他方は偽である筈なのに、アンチノミーの議論は、対立しあう二つの命題が、ともに真であることを主張しています。この対立は一見して矛盾対当のような印象を与える。矛盾対当とは、片方が真であればもう片方は偽であるような対立関係である。しかし対立する関係にはこのほか、反対対当というものがある。これは、両方が真であることはできないが、両方が偽であることは可能な対立です。新たに第三の要素を「思考と直覚」は、そもそもの思考の根底にある時間の非存在と空間の幻影です。時間にしろ空間にしろ「運動」を根拠にした仮説であり、時間無きところに運動なし、空間無きところに運動なしではなく、「運動」こそが世界の基底であり理法だと解きます。それ故に、全ての物事は「運動」を起源する人間云うところのキーパーソンを想定します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-18(三百七十) カントの二律背反の思考論理は一方に定立して在ると捉えるものを、対象的な軸を位相となすものを併存させます。四つで構成されるアンチノミー、時間と空間に関する宇宙の限界、全ては分割不可能な原子から構成されている現在の素粒子論の先駆に対して、実際にはそのようなものは存在しないという理論、普遍的な因果性に関する自由の問題、必然的な存在者の実在を、カントの「純粋理性」は経験的なものに対して、定立命題と反定立命題として、矛盾を提出します。では此の矛盾は何に由来するのか、其の不条理性をカントは、人間の知覚出来得る総ての物事、人間界や自然界に象形されるもの「現象体(phenomenon)」とカント哲学ででいう純粋理性にとってのみ対象となり得る現象がその感覚内容の基礎とか原因として関係しているもので,そのままでは経験できない「英知体 (noumenon) 」の領域を混同することから生じるとします。事実カントは如何なる合理的な説明可能な宇宙論は有り得ないしま不可能としています。例えば「無限の何かが在る」という語彙は矛盾を含み、たとえ、微積分学で無限小が用いられていようと、其れは数学上の図式であり現実とは相容れない。カントにとっては我々人間の経験する現象世界は有限其のものであり、無限なのは「物自体」の異相の世界だとします。此のカントの数学的無限と現実的無限の区別は、アリストテレスの可能的無限と現実的無限の区別に対応するものであり、後のヒルベルトやウィトゲンシュタインも無限についてのカントの区別を受け継いでいますが、何れの達人も宗教上の神は兎も角も、絶対的存在をば否定はしません。其のこと故に、人間精神の奥底に眠る「物自体」に感応する外感覚的で物理的な事象を離れた、人間の経験する能力はスピノザの定義する「神」の様態の延長であり「霊魂」は其のことに根拠を持ちます。「神」が「不始不終」の存在有ならば、人間の内底に潜む延長様態として精神を霊魂の高みに上げた人間はカントの不可能を覆すことになります。人間の霊魂を高めて「物自体」に感応出来得ることを覚る精神ならば「輪廻」は不論のものであり、自ら理法に吸収されることは不条理とはいえないとも考察します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-17(三百六十九) カントは二律背反表として四組のアンチノミー「1:時間と空間に関する宇宙の限界」「2: 全ては分割不可能な原子から構成されている(それに対して、実際にはそのようなものは存在しない)という理論」「3:普遍的な因果性に関する自由の問題」「4:必然的な存在者の実在」を提示します。第一のアンチノミーでは世界は時間的に端緒、即ち始元を持ち、空間的には限界を持つ、即ち有限であるという定立命題、対して世界は時間的には端緒を持たず、空間的にも限界を持たない、すなわち無限の存在であるという反定立命題を掲げています。以降4つの命題についてカントは各々検討し考察したうえで、伝統的な論理学によれば、相互に矛盾しあう命題は、同時に真理であることは不条理であり、一方が真なら他方は偽である筈なのにカントは対立しあう二つの命題が、ともに真であることを主張します。第一のアンチノミーうちの、空間を巡るものについてのカントの思考は、世界は時間的に端緒を持つ始元を持ち有限であるというのが定立命題、世界は時間的に端緒を持たず、それ故に無限であるというのが反定立命題である。此の二律背反がいづれも真理だと主張するのに、カントは、一方の命題の正当性を、他方の命題に潜む不条理を明らかにすることで証明する方法「背理法」を取って説明します。言い方を変えれば、定立命題はその正統性を反定立命題の非正統性を指摘することによって証明し、反定立命題は、その正統性を定立命題の非正統性を指摘することによって証明しようとすることになります。この思考的論理は、他のアンチノミーにおいても共通しています。此れは将にインド大陸の仏教を哲学に高めた偽経の聖人「大乗の祖」ナーガールジュナの「空論理」の二律背反そのものです。即ち、必然的存在と空的存在に違いは有り得ても思考論理に相違は観えません。東西のフィロソフィーの興味津津の論理です。神を持ち出さないカント、絶対存在者を持ち出さない龍樹は共に「思考と直覚」が霊魂を捉えるのには欠かすことの出来得ない思考論理です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-16(三百六十八) カントの外感覚的で物質世界の奥底にある創造力そのものの存在「物自体」は認識することが出来得ないカントの立ち位置からは、「全体世界」は事実が集合された総体ではなく、経験的な「知」、其れも人間が通念上の「知」の総体ではなく人間の知性を超えた「物自体」だと、スピノザ風に譬えれば「絶対的世界存在」ということいなります。それ故に決して、人間の知性が其の創造の権化である実相「世界それ自体とされる物自体」には及ばない。然し乍ら、人間の理性は推論の能力の拡大によって「世界それ自体」に達し得るかのように錯覚する。此処に、シッダルタの哲学である人間の理性は推論の能力の拡大ではなく倫理でもなく「己を虚しゅうする無我」をカントが知っていたら結論は意外な方向へ向ったかもしれませんが、飽く迄も「理性の哲人」カントは人間理性を考察する故に、人間理性は推論の能力を二つの極に分別させ、何れにも原理的に確証が得られない独断に陥るとする弁証法的説明、アンチノミー(二律背反)を持ち出します。例えばゼノンのパラドックスなどは、「無限」という経験不可能なものを、「経験的な知」と同等に扱うことから生じる、純粋理性の誤謬推理なのだと論破しています。二律背反とは、同一の事柄について、ふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態をさしていう哲学及び論理学の用語です。論理学においては、それはありえない事態を意味している。ところが人間の創出した理念をめぐっては、このありえないことが生じる、其の所以をを論じたのがカントのアンチノミーを巡る主張です。大乗仏教の祖「ナーガールジュナ」は此の矛盾を「空理論」説きますが、カントは二律背反表として四組のアンチノミーを掲げ「命題」を掲げます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-15(三百六十七) 「思考と直覚」の直覚とは世界の理法に自己の精神理法を同化させることを云うのですが、其の前提には先ず、外感覚が捉える表象、取り分け正しく受け止め得る能力を持って知覚表象を自己内意識と統合し統一する「統覚」が必須となります。ルネ・デカルトのコギト・エルゴ・スムの我の意識即ち「自我」をデイヴィッド・ヒュームは自我そのものを解体し、其れ其れの個別的経験にすぎない経験から観念の主体を束ね想定した「私の感覚」「私の観念」とすり替えた抽象観念だと決めつけます。ヒュームのデカルト批判を受けてカントは全ての表象に「我思う』」が伴いうるのでなければならない」と考え、「私は直観において与えられた多様な表象を一個の意識において結合することによってのみ、これらの表象における意識の同一性そのものを表象できるのである」とヒュームが否定した経験の原因を肯定したうえで、多様な表象を結合する能力こそが「統覚」であり、それをカントは悟性のもつ先駆的な能力であると主張します。言い換えるとヒュームが個別の知覚に分解した「自我」を其れ其れの「知覚」に統一を与える能力としての認識力、即ち「悟性」を提示し其の統覚こそが人間の思考に悟性の統覚の能力を与え、後にはフィヒテらのドイツ観念論によって超越論的自我と定義されています。但し、注意すべきは此の超越論的自我を「魂」とは表現していることを、宗教的な意味合いで捉えては誤謬に陥ります。其れは世界内存在に物質的に在るようなものではなく、世界を自我の中に同化する能力であり、世界の理法に自己の精神理法を同化させることを云うのです。其の実体とは外感覚的で物質世界の奥底にある創造力そのものの存在を意味します。「思考と直覚」は其の基本的思考への「テーゼ」となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-14(三百六十六) 通俗的な神は否定するも変転しない純粋な存在の意思的「有」を否定しないカントの姿勢は、「仏陀、エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べているドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer/1788年-1860年)にカントの認識論が引き継がれ、仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家が、カントの認識論を「世界は私の表象に過ぎない」と看做し、表象をもたらす存在である「物自体」を「意志・絶対意思」と規定することによって、「意志としての世界」という世界観を構想します。此の意志の優越を説く思想はニーチェにも引き継がれており、更にはニーチェを経由してハイデガーの実存主義的な存在論に引き継がれて今日(こんにち)に至ります。カントはデカルトのコギトを、それぞれの知覚に「我思う」という統一を与える能力として復活させたのが悟性の統覚である。「自分」と呼ばれるものを詳しく見ればそこにあるのは個別的な感覚や観念だけである。さまざまな観念の束にすぎないものが「私の感覚」「私の観念」とすり替えられ、個別的経験に過ぎないものたちから、経験の原因である「主体」なるものを想定した結果、作られたのがコギトという抽象概念だというデイヴィッド・ヒュームを批判し、「直観乃至直覚」こそが多様な表象を統覚出来るのであり経験の原因である「主体」なるものを想定し得る悟性の統覚とします。「思考と直覚」は統覚の統一という原則こそ一切の人間認識の最高原理であり、絶対存在・意思・意識の実体性と其の限りにおいての人間精神の様態の延長としての「霊魂の実体性」と不滅を主張します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-13(三百六十五) カントが時間と空間を実体として認識するのかを人間存在特有の感覚と認識、経験の背後にあって経験を成立させるための必要な条件として実体としての「物自体」を仮定します。このことから、時間や空間が人間の外感覚で捉えられす外物質として認識出来得ないにしても、「物自体」として不可視の「ブラックボックス」でも、大乗仏教の祖「龍樹」の説く「空」そのものでも、外感覚的な物質経験として捉えきれない以上物自体は非物質的な霊魂であってもよいし、時間と空間をもたないような存在「時空間を超えた存在」即ち次元が異相であってもよいことになります。それ故、些か観念論的ではありますが、カントの認識論は現象主義的な視点を外感覚で物質的な人間の認識を維持したまま自然科学とは相克せずに経験世界を世界存在としても説明が可能であり、仮に「物自体」言い換えれば「実体」あるいは仏教哲学に云う「普遍」もしくは「有」で、前6世紀の後半南イタリアのエレアに起った哲学前6世紀の後半南イタリアのエレアに起った哲学、パルメニデスやゼノンの学説、存在のあらゆる有限な規定性,変化を否定し,無規定的で変転しない純粋な存在のみを認める一元論であろうとも矛盾しないので、観念論とも相克しないということになります。カントは理論的には神の存在を否定したけれども、実践的には神の存在を道徳律の根幹として必要だと思っていたことからもゼノンのパラドックスを意識しておりカントの「純粋理性批判」がエレア派の哲学の影響を強く受けています。その思考は存在のあらゆる有限な規定性,変化を否定し,無規定的で変転しない純粋な存在のみを認める一元論で世界の根源を「一にして二無し」と捉え「絶対存在」を想起させます。此のは存在のあらゆる有限な規定性,変化を否定し,無規定的で変転しない純粋な存在のみを認める一元論であり、所謂通俗的な神は否定するも変転しない純粋な存在の意思的「有」を否定するものではありません。カントが虚無主義あるいは完全唯物主義者でない所以です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-12(三百六十四) カントは時間と空間を実体として認識するのか人間存在特有の感覚と認識しているのかについて経験の背後にあって経験を成立させるために必要な条件として、実体としての「物自体」を仮定しました。感覚によって経験されたもののみが知りうるとしたヒュームの認識論を受けて、カントは経験を生み出す物自体は前提されなければならないが、その物自体は経験することができないと思考します。二元論で物自体を仮定したジョン・ロックの物質概念を想起させますが、カントの物自体とはロックの物質概念と全く異なっており、ロックが物質に属するとした一次性質としての個性や延長と形状、運動と静止及び数も、その実相はカントに言わせれば本相からは二次性質であり、我々の知覚の性質だとカントは考えます。此のことはベルクソンが論じた純粋持続を想起させます。此の思考は物自体を不可視の、その内部構造は問題にせずに,それに対する入力と出力の関係だけが考察の対象とされるような過程とするものであり、極論すれば、物自体は非物質的な霊魂であってもよいし、時間と空間をもたないような存在であってもよいことになる。物自体というものに必要とされている能力は、ただわれわれの経験を成り立たせるということのみなのであると説きます。カントは外感覚的で物質的には経験しようのないものを否定するのではなく、其の実相を仄めかすに留まります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-11(三百六十三) カントの哲学の基底に流れるのは、人間に経験可能な現象の世界即ち人間が外感覚を駆使して捉えきれる物質的世界と、人間が外感覚では捉えきれない経験不可能な物自体の世界を明確に区分し、其れ等の条件・形式を思考において経験可能とするのを本分とします。カントによれば、人間が認識能力を手中とした時点で、先験的能力にしたがって感性と悟性の二種の認識を備えていると説きます。「感性」には「純粋直観」である空間と時間が、「悟性」には因果性などの 十二種類の純粋悟性概念が含まれ、意識はその感性と悟性にしたがってのみ物事を認識し、其の認識こそが物の経験であるとしています。他方、感性と悟性の二種の認識形式に適合しないものは原理的には人間には認識でき得ない。たとえば、物質と認識されるものには全て空間という形式を伴い、感覚と認識されるものには全て時間という形式を伴っている。時間と空間という形式をそもそも纏わないものは人間には知覚出来得る筈もない。カントが生得観念をめぐり論争していた英国経験論と大陸合理論を綜合したといわれる根拠です。カントは時間や空間が人間の感性の形式であり、其れを実体として主張するのではなく、ましてや、経験によって構成されたものではなく、あらゆる経験を可能にする条件としての生得的な知覚の形式、其の実在の理非を問うものではなく、人間のあらゆる経験を可能にする条件としての生得的な知覚の形式であるとします。時空間は人間の思考のアプリオリであり、其の存在は感性の形式であり、実体を問わない姿勢です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-10(三百六十二) カントは当時の教会権威や其の延長にあった神的科学の枠組みからは離脱した自然科学の発達に応じた哲学の確立を目指します。カントは人間に経験可能な外感覚的で物質的な現象の世界と、人間が経験不可能な物自体の実体の世界を峻別し、感覚によって経験されたもののみが知りうるとしたヒュームの認識論を受けて、カントは経験を生み出す物自体は前提されなければならないが、其の物自体(実体)は経験することが出来ないと説きます。カントの物自体は個性、延長、形状、運動、静止、数も、人間の知覚の技であって実体を捉えているものではないとします。実体とは物を「モノ」あらしめる基底である実相で、人間の外感覚的で物質的な思考では捉えきれない「有る」存在であり、通常の人間には捉え成すべき事非ずの世界だとします。但し、此の不可視の「ブラックボックス」を、インド大陸の哲学の雄、大乗仏教の祖「龍樹」が空理論で実相を究明し、人間の不可視の「ブラックボックス」を解き明かしているかもあい知れません。詰まり、物自体(実体)は非物質的な霊魂であってもよいし、時間と空間をもたないような存在であってもよいことになります。カントは物自体というものに必要とされている能力は、我々人間の経験を成り立たせる其れのみで充分であり神を持ち出さなくても解読は可能だとしたのです。然し乍ら、カントが実体、即ち、外感覚的で物質的な現象の背後存在を無視しているわけでもない事は、彼の文献から見て読み取れます。カントは人間生活を全うするのには実体の存在の有無は問う必要がないことを主張しています。人間には神存在の必要性の有無を問うのではなく倫理を全うすることの重要性を問うのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-9(三百六十一) カントの宇宙微粒子は星雲と呼称し、この物質世界の宇宙論はカントがニュートンの世界観を受け継ぎながら、其の欠陥を補うのには当時の天文学にあっては充分のものがありました。何故ならニュートンは太陽の自転と、惑星の自転及び公転については、外部からの働き掛け、天体運動の起動力に「神」を持ちださざるを得なかったからです。カントの宇宙説の「ただ一つの物質塊(核/Core)」に総ての宇宙の物質が引力により引き寄せられることはなかったし、また各物質塊相互に均衡が齎され静止することも斥力の働きでなく、絶えず運動を伴ったとする仮説的思考はなんら外部からの働き掛けを不要としたからです。然し乍ら、そのカントも、神の世界創造を、当時の通念上全くは否定し切ったわけではなく、神は無限であるから、その創造も無限である筈であり、そうでなければならない。詰まるところ、神は宗教に云う、一度の創造で世界を造り上げたのではなく、その世界創造は、無限の数の実体や物質の産出が、絶えず豊かさを増しながら永遠の過程を貫いている。神は永遠の始元から永遠の過程を貫いて働いている。諸々の世界組織が、相次いで宇宙の形相は完成を目指して進んでいる。神の諸性質は決して止むことがなく永遠に亘って啓示されていく。神の啓示には終わりも始まりもなく働いている。汎神論あるいは理神論の「神的存在」を宇宙の運動そのものに置き換えてみせます。神とは因果関係そのものだとも云えます。因を離れたところに神があり、果を離れたところに神ありの思考からは相容れない主張でしょう。但し、運動であるからには消滅もなく、人間精神の深層に隠れた霊魂も運動であり、静止無い以上が消滅することはないことになります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-8(三百六十) カントの物質世界の宇宙論は当時の科学水準からすれば妥当だともいえますが、但し、其のことを大世界の原始に当て嵌めることは、今時では稚屈とも言えますがカントが宇宙から「神」を追い出しにかかった根拠の思考経過は読み取れます。カントは一般的に過去から現在、更には未来に向かって流れるとする経過において、「ただ一つの物質塊(核/Core)」に総ての宇宙の物質が引き寄せられることはなかったし、また各物質塊相互に均衡が齎され静止することも斥力の働きでなく、絶えず運動が伴ったとします。然し乍ら、其の流れの中にも、「幾つかの巨大な物質塊(ブラックホール未発見)」が途轍もない引力を備え、其れを中心に牽引されながら更に小さな物体が幾つか形成された。それらの経過が宇宙其れ其れの区々に亘り起こり且つ起こっている。ここではカントは宇宙を大宇宙の中の小宇宙のひとつ銀河系を世界と捉えたため、「幾つかの巨大な物質塊」を恒星とし、幾つか小さな物体を惑星としていますが、現時の科学は小宇宙も同様に捉え思考的には天体運動を正確に捉えていたとも云えます。但し。小宇宙は兎も角も大宇宙の形相を見誤っていることには間違いありません。カントの宇宙の形相は内層を孕んだ空間であり馬蹄形或いは亀甲を鉢合わせしたラグビーボール型の表面宇宙、紐宇宙論は経験思考になかったでしょうから致し方ありません。問題はカントが神を宇宙から追い出す根拠にした宇宙形相にあります。時間は勿論、光さえ無きところから発生した巨大宇宙形相に面した時、カントが神を宇宙から追い出す根拠は変化する筈です。但し、彼の批判に遡上するところの神は、所謂、通俗的な「神」的存在であって絶対存在までをも否定しているわけではありません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-7(三百五十九) 「始元」が無ければ「神」は無用となるのは、此の宇宙には、今現に惑星系が運動しているが、其れはいつのときからは問えず、永遠の昔過去から存在して運動していると説き、今後も永遠に運動を続けると主張しています。カントは時間が過去から現在そして未来へ流れていると考察しています。現在のコア爆発の学説ビッグバンでは時間は重力子の誕生を待たなければ発生しません。此処に、当時の科学力が及ばないことが顕著に出て、カントに「宇宙の存在はいつのときからは知らぬが」と言わせ、永遠の過去の広大な宇宙空間に世界物質の根本となる微粒子が全体を満たしていた。そこには密度の違いが生まれ粒子間に引力と斥力が働いて、宇宙世界の方々で凝縮を引き起こし、其れ等がやがて塊となり、現在に見る物質塊となったとさせます。ここには、余りにも形而上学を離れ現実経験主義的に偏向したためのカントの弱点がみえます。カントは人間の理性を尊重したのであって、其れさえも進化過程の一水準に過ぎず理性は人間自らが生起させるものと思考しています。時代情勢はともあれここまでカントが宇宙から「神」を追い出したかったのは、恐らくは、神の権威を背景にした王権神授説や教会権威への反発であったのでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-6(三百五十八) カントの哲学は前期批判論には教会権威や王権神授説はもとより、其の根底の思想にある「神」への権威拒否が読み取れます。彼は「旧約」宇宙創造から神を追い出しにかかったのです。それが「カント=ラプラスの学説」の宇宙論、宇宙生成に中心課題として置かれた星雲説です。現実論者カントにとっては、当時の天文学や物理学を受け入れて思考するしかなく致し方ないのですが、其の思考過程には一理あります。カントによれば、宇宙は広大無限で不測のものであって、我々が見る太陽は惑星軌道の中心にあり、強力な引力作用により、惑星系の諸天体を永遠の軌道に乗せている。。ところが「夜空」を見上げると空高く見える太陽と同様の恒星も、同じく惑星軌道の中心にあり、強力な引力作用により、惑星系の諸天体を永遠の軌道に乗せている。宇宙は此等の諸太陽を中心とする無数の惑星系の拡がりだといえる。然し乍ら、「引力」無制限で普遍的であるの同様に「斥力」即ち引力(いんりょく、英語:attraction)が、2つの物体の間に互いを近付けようとする力であるのに対し斥力(せきりょく、英語:repulsion)同様に2つの物体の間に働く相互作用であるが、反発し合う、すなわち互いを遠ざけようとする力も惑星系に普遍的に働いており、惑星系の大小を問わず其れ其れに組織体を成しながらも、相互に入り組み、連関性を構成し結合している。カントの宇宙構成の思想です。此の思考過程を鑑みると、彼には宇宙の始まりや終末は無いといえます。此のことがカントが「神」を宇宙から追い出す決め手だと言え、宇宙を無限時間の存在と考察していたことが読み取れ、「始元」が無ければ「神」は無用となるわけです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-5(三百五十七) 東プロイセンの首都ケーニヒスベルクで馬具職人の四男として生まれたカントが8歳にしてフリデリキムス学校に入校、校長の目を惹きヴォルフの哲学を学習、其の哲学の影響を受け、16歳でケーニヒスベルク大学に入学し、1746年には大学を卒業、苦学ということではなく、当時の慣例であった8年間の家庭教師、其の後は同じくケーニヒスベルク講師を経て正教授から二度の大学総長に就任、、其の当時の中世的な位階制の影響はあるとはいえ、自己の学者としての誇りが大衆に比して知識を多く持ち人間的にも価値が高いというエリート意識を持つのも学識を誇るのも当然でした。そこに、影響を及ぼすのが、人間が生まれながらの自然の人間性は機会均等であり、其の重要性を説いた、フランス革命の最大の思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Roussea/1712-1778)の思考が、カントを、中世的な位階制や儀礼的虚飾に疑いを持ち始めたカントを目覚めさせます。此のときよりカントは教会権威と決別し、世界、否、大宇宙から神を追出しにかかります。此のことは、当時の社会体制からは創造し難い思想ですが、ニュートン、ヒューム、ルソーの影響下にあるカントには当然の思考だったことは納得がいきますが、人間精神の成り立ちと其の根拠を外感覚で物質的社会に牽引させたことは、類稀な才能が形而上学に向かっていたならと想うのは私見ですが、現実生活に苦難を覚える人間だけではなく、精神生活の苦渋や救いを求める人間には大いなる鏡になったとは覚えるのは「人間の霊魂を思考」する立場からはもどかしいものがあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-4(三百五十六) カントが理論哲学から批判哲学に転換させるのは、イギリス最後の経験論の最後を代表するデイヴィッド・ヒューム(David Hume/1711-1776)イギリスはスコットランド・エディンバラ出身の哲学者であり哲学者・歴史家、ジョン・ロックの「社会契約説」に見るイギリス経験論を懐疑論の立場に立ち、因果法則や実体の観念の客観性を否定して、自我は「知覚の束」にすぎないと主張する等々、伝統的形而上学に破壊的な批判を加え、カントの批判哲学の成立に影響を及ぼしたことは間違いありません。それ迄のカントは1723年に孔子を賞賛した演説が無神論という言いがかりを招き災いに合うドイツの哲学教師にしてライプニッツからカントへの橋渡し的存在であるクリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff/1679-1754)の影響下にあったカントを、人間経験の外在する実在を疑い認める立場は「形而上学」即ち経験論の立ち位置からは無為な論議と斥けるヒュームの思想に傾けさせます。其の典型が因果律であり、経験が人間経験の認識及び外界に客観的に成り立つことを否定し、其れは経験の連続であるとする持続論が几帳面な思想家合理主義的形而上学に捕らわれていたカントの転換を促します。此のことは唯物主観から見れば偉大な一歩かもと憶えますが、人間精神を電子化・構造機能化したかの様相は精神困窮に苦しむ人間には救いがないのも事実です。此の傾向は、人間の社会的欲求が個人より社会的なあ順応を優先させた結果だとも云え、人間の深遠さを失わせる危険を孕んでいます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-3(三百五十五) ドイツ古典哲学の成果を唯物主観の思想家から観相すれば、教会権威やヨーロッパの中世から近代初期にかけて,王の権力をキリスト教によって補強する役割を演じた観念である王の統治権は人民の委託によらず,神の特別な恩寵に基づくとする王権神授説から人民を開放したことを高く評価します。そのカントの哲学は前期批判論と前期批判論に大きく分けられます。前期の批判の代表的著作は、多くの思想家に影響力を与えたニュートンの影響が顕著に見られる「一般自然史と天体の理論」、後期批判論には「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の三大批判があり、此の著作によりカントの哲学は批判哲学と呼称されます。馬具職人の四男として生まれた彼が大学卒業後の8年間の家庭教師としての生業、其の後に続く大学教師生活、つまり、31歳より72歳までの40年間の永きに渡り教職生活を送るのですが、彼の著作どおり、極めて謹厳で時間行動は正確に、ケーニヒスベルクの住民が彼の散歩を目撃することで時刻を知るほどでした。この行動は日本の西田幾太郎を彷彿させます。然しながら、理性を追求する姿勢はカントにあってっは人間自身の倫理にあり、西田幾太郎に於いては世界理法即ち「絶対意思」を求めたことに隔然とした開きがあります。カントは人間「霊魂」の救済を追求することよりも人間社会生活の生き方、社会契約説のロックの思想との共有するところがあり、「人間の霊魂を思考」する立ち位置からは哲学と云うよりはカントと同じ四男として生まれた貝原益軒の「養生訓」を想起させます。フィロソフィーが実践主義に立ち代わるのはカントの哲学です。一切の宗教・神秘哲学を排除し人間社会生活を根本に思考を体系化します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-2(三百五十四) 哲学というと興味を持つきっかけは、我々人間が通常生活では知り得ない大宇宙での人間存在や其の精神の成り立ちと其の根拠、生命の誕生と死の存在意義、世界の背後の意思のう有無等々、多分に夢幻的であり興味津津たるものでしたが、ドイツ古典哲学の創業者カントは、イギリスで発展した自然科学と心理学、共に外感覚的な表層、否、現実世界の人間生活に重きを置いた思想を、19世紀以来の合理的思想の主流を齎します。カントの哲学はドイツ民族の合理的国民性もありますが世に受け入れられ、ドイツ古典哲学としてフィヒテ、シェリング、ヘーゲルとその学派と続くのですが、デカルト以来のの合理論とイギリス経験論を併せ、人間の深層にまで及ぶ精神思考を全能の「神」を用いず全てを人間の内的能力と位置づけます。つまり、カントはデカルト以来のの合理論とイギリス経験論の上に新しく哲学を構築することを目論みます。此のことは、ギリシャ三哲の観念論、霊魂を合理的に解釈する試みであり、カントが創始者といえます。フランス革命は、典型的なブルジョア革命ともいえるものであったが、其の標語「平等と自由」を神とは無縁の人間精神の内部のものと受け止め、精神転換を企てます。ドイツ古典哲学は弁証法的唯物主観が基底でありカントはその着手者ともいえます。弁証法的唯物主観は世界よりは「社会」、世界理法よりは人間中心の倫理観、認識論・論理学を取り入れた極めて外感覚的で物質的な要素の濃いものです。其の影響は「神」を廃し、霊魂を廃し、現物主義や外欲主義者が後世の一部の間違った共産主義の思想弊害を生み出したことの一因ともなる両刃の剣でした。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-1(三百五十三) 人間は時間と空間という形式によってしか物事を認識できないと論じた。したがって物質的なものの実在を否定し、さらに時間や空間の実在も否定し、なおかつ「私」という主体の存在も否定する極端な立場の思想を携えて世に現れたのが、17世紀から18世紀にかけて欧州に起きた三大革命、フランス政治革命・イギリスの産業革命・ドイツ精神革命が起こりますが其のうちの精神革命の創業者とも云うべき雄が、1724年に東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現在はロシア領カリーニングラード)で馬具職人の四男として生まれた「理性の人」イマヌエル・カント(Immanuel Kant)、ドイツの哲学者、思想家。プロイセン王国出身の大学教授である。一生独身で過ごし、時間には定刻通りに行動し、勤勉且つ律儀の独逸魂の権化を時代が要請します。19世紀以降の哲学において彼が高く評価されるのは、カントが今に続くドイツ古典哲学の祖であるからです。認識論における「コペルニクス的転回」をもたらしたとも言えます。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学ドイツ観念論の祖とされ、後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼし、その影響は「理法の人」西田幾多郎などへの日本の哲学者にも強く見られます。哲学がどちらかと言えば、ソクラテスといえども無居無宿の徒(やから)ではなく、身分上は高位に属するように多分に遊学的な要素が強いものですが、カントは生計のためではなく止むを得ない心の高鳴りから哲学の道を選択します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-終章(三百五十二) 何故に現代においてもライプニッツが学究の徒にもてはやされるのか、一つは彼の2進数、微積分の研究に負うところが大きいでしょう。人間の外感覚器官からの情報とは違い、倫理数学は、デカルトやスピノザの名を挙げるまでもなく、真実に近いものがあるからです。三角形の和が180度と同様にライプニッツが世界のみならず人間の精神及び神にまで言及するのですからマルクス主観依頼、精神的基底に飢えていた青年には心の励みとしてライプニッツが金字塔となります。言い換えれば「神」こそが素数の無限の集まりの体性であり、霊魂も其れに連なる様態としての性格を持ちます。印度のシッダルタは瞑想から世界の素数とも取れる「空観」を悟りますが、対象的にライプニッツは科学から「空観」と相似の見解[モナド」に至るのです。此のことからもいつしか、哲学は科学に近寄り、科学もまた哲学に同化する未来があっても不可思議ではないでことになります。ライプニッツのモナド論は先人の哲学、観念論や経験論とも一線を画し、クオリア(英: qualia)即ち人間の内心的活動での、内観によって知られうる現象的側面、とりわけそれを構成する個々の質、 和訳の感覚質の存在的な位置づけと心的因果の問題として自然主義の立場とも違い、かといって時間や空間の実在性を否定する非実在論とも説を事にし、イマヌエル・カントの人間は時間と空間という形式によってしか物事を認識できないと論じる物質的なものの実在を否定し、さらには時間や空間の実在も否定し、なおかつ「私」という主体の存在も否定する説を先見しています。モナドは時間や空間も全ては単体因子の総合であり人間精神及び霊魂も世界の在り方を示す「単子」が関与しており「無」も「有」も現在化してあり、其の要素が「神」の意思であるモナドだと説くのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-8(三百五十一) ライプニッツのモナトロジーで興味深いものは微分法の創始者である彼が「物体」を質料として根源的に実体ではなく「現象」であるに過ぎないと示している見解です。「物体」を見る人間によって異なるが互いに関係を持ち同一の根拠に由来する現象に過ぎないとするところです。観方が相違すれば「物体」は違う外観を纏うことを説きます。それ故に、空間は、実体どころか、存在でもない。空間は、時間と同じように、秩序である。時間が一緒に存在していない物の間の秩序であるのと同じように、空間は同時に存在する物の間の秩序であり、時間と空間を「関係」ではなく「存在」と見なすことから、例えば無限に関する矛盾(パラドックス)が生ずるということを述べています。マルクス主義者には手に負えない「実体」を彼は精神作用の基因子モナドに解決を求めます。即ち、物体を構成するのは物質であり、其の物質を構成する単体の深奥の構成するのがモナド、「意思」であり、運動を促す成因因子だというわけです。ライプニッツがアリストテレスの流れをくむ以上、モナドは形相を含有する意識であり「霊魂」に行き着きます。此の流れを紐解くと亜細亜の「偏在」、空間も時間も「霊魂」の実在を根拠に成り立ち、たとえ、神や仏が空想であろうと「偏在」するものと捉えれば可想だともいえます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ゴットフリート・ライプニッツ-7(三百五十) モナド即ちモナトロジーのいう単子とは、成因因子を帯びた関子である意思を表象しているかもしれません。宇宙内因子の全ての無機・有機物及び空間・時間の素因となせる絶対意思の表現、神の因子を顕在化しているのか。宗教に頼らず科学が世界理法を獲得でき得るのかはこれからの課題でしょう。ライプニッツは「実体」の語彙を、形而上学の先人アリストテレスの本質を形相と見立てたことに準じて、実在的な在り方を精神的な存在と理解し、これに「モナド」という名を与えます。此のことは現時の時点での理論である素粒子論を想起させますが、ライプニッツ思考では、これは原子のようなものではないとしています。即ち、モナドとは、デカルトの立場から見られたアリストテレスの「形相(イデア)」です。一の中で多を表出するという構造、意志的構造の能動的因子です。ライプニッツの書簡の一つに此のような表現が見出されます。「私の信ずるところでは、この宇宙は全て単純な実体すなわちモナド、もしくはその集合体から成り立っている。この単純な実体は、人間や聖霊においては「精神」と呼ばれ、動物においては「魂」と呼ばれているものである。どちらも表象としての統一体の中における多の表出に他ならない。それは欲求、一つの表象から他の表象へ向かう傾向に他ならない。欲求は動物にあっては「情動(passion)」であり、表象が知性に浮上する者においては「意志(volonte)」と呼ばれる。単純な実体の中に、それ故また自然全体の中に、これ以外のものがあるとは考えることもできない。此のことの帰結は世界はとある意識によって成り立っていると看做すことになり、龍樹の「空」論よりは「実体的」です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年02月01日
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