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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-38(四百三十七) ヘーゲルの絶対存在が賦与した時間は直線的時間(Straight time)なのに対し、ニーチェ時間論での永遠回帰は、只管に、教会権威を敵視しています。我々が生きる現代の俗的な時間思考は、直線的時間観念をキリスト教的世界観と結びつけ、円環的時間観念を仏教やペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である「アヴェスター」、善悪二元論の神学、神話、神々への讃歌、呪文等から成りを根本経典とする教など東洋的世界観と結びつける。また、直線的時間観念を狩猟・牧畜分化と、円環的時間観念を農耕文化と結びつける傾向が強まり、キリスト教的世界観、即ち直線的時間イコール狩猟・牧畜分化と対持して東洋的世界観の円環的時間、農耕文化という概念を構成する単位(セット)があるとしています。然し乍ら、ニーチェは、時間には始まりもなければ終わりもない。時間は永遠に循環する。循環するある局面を掴んでみれば、それも円環として見える。円環は、すべの支点が其処から始まるスタート地点であり、またそこに戻ってくるゴールである地点であり、同時にしかも至る所に内在させている。更に、永遠に時間は循環運動を続けていく。何故なら、内外問わず物理的世界に神というものは存在しないのであるから、内世界そのものが永遠でなければならないではない。仮に、此の世界が永遠でなく、有限なものとあるとするならば、其の始現のきっかけを与え、それを終わらせるものがなくてはならない。そんなことができる者は神以外には考えられない。然し乍ら、「神は死んだのだ。」そうニーチェは強調します。詰まるところ、始まりを求めるのは、弱い人間が自己から逃避した結果であり、自己の生を意味づけるために捏造したものであり、虚構であると暴露します。真の価値基準は、「神」や「天国」「真理」ではなく、自分が生きている現実の「大地(現実を踏まえた世界)」に置くべきとしたことの表現が「神は死んだ」の語彙となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-37(四百三十六) ヘーゲルは自らが活きる時代の時間概念を直線的時間(Straight time)と捉えたのに対して、ニーチェの時間論は、キリスト教的な直線的時間概念を粉砕して、其れに代えるに循環的な時間概念を「時間の理」に持ち込みます。キリスト教的な直線的時間概念を粉砕して、其れに替えるに循環的な時間概念を以てした「永遠回帰(Forever regression)」、時間の円環的、即ち循環的性格を「時間の理」に持ち込みます。対して、キリスト教的直線的時間概念或いは其の思考から派生する時間観念の最大の特徴は、時間を有限なものとして捉えていることです。時間はその性質上、自体では有限なものとしています。ヘーゲルが捉える神存在とは相違し、屡々姿形を旧約の記述に現れる神格を、始めに「言葉ありき」からの派生した神の創造であるからして、人間精神の有限はもとより、神の世界創造に関わる時間も「無限の創造力」を神は神格思考で一定の時刻で終わらせる。神を粉砕するニーチェは、時間には始まりもなければ終わりもない。時間は永遠に循環する。循環するある局面をとってみれば、それは円環として見えてくる。円環は、全てが其の支点から始まるスタート地点であり、またそこに戻ってくるゴールであり、同時に、しかも至る所に内在させ、永遠に循環運動を続けていく。何故なら、此の物理世界に神というものは内在は勿論の事、外在もしないのであるから、世界現実そのものが永遠でなければならない。若し仮に、この世が永遠でなく、有限なものであるとするならば、始まりのきっかけを与え、其の運動を終わらせるものがなくてはならない。そんなことが出来得る「モノ」は神以外には考えられない。だが、「神は死んだのだ」そうニーチェは強調します。何故に「神は死んだ」のでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-35(四百三十四) ヘーゲルは自らが活きる近代の時間概念を直線的時間(Straight time)にあると捉えます。其の意味では唯物主義論者のマルクスも同種同義です。其の掲げる旗は明日であり、理想、目的論的な理論の構えです。。ヘーゲルの理念であった自由と理性、主体性と国家は、其の後の二百年の年月に変質はしますが、過去から未来への直線的時間意識に基づく意識の構え方自体には変化は見られず、寧ろ、強化されていると捉えます。此の円環の時間軸から過去から未来への時間軸の捉え方は、キリスト教の終末観の世俗化を進行させたと捉える向きもありますが、此処は、近代経済の商取引上の予測金利計算が反映されたと見る向きもありますが、世俗の経済体系の発展が、定時に規定通りに打ち鳴らされる時間の持つ意義を根底から変えたことは宗教を、世界時間に否が応でも引き摺り込み、宗教的神存在の定義自体を時間線上の問題として「神の時間」と人間の悟性が捉える「時間(とき)}の時間軸の相違が問題となります。此処に宗教と時間の関わりが浮上するのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-34(四百三十三) ヘーゲルは近代の自由概念をギリシャやローマの時代には未だないものとして捉えた人物ですが、此処にはギリシャやローマの時代からの「時間観念」或いは「時間概念」の変遷・転化の影響があります。西欧世界の古代では、東洋の時間観念或いは時間概念の其れと同様に、時間は閉じた円環のなかで反復するイメージとして思考の基礎に置かれます。一日のサイクルがあり、春夏秋冬のサイクルがにあって、連続的で永遠に繰り返される。意識は過去へと向いており、先祖を敬い、伝統に学び、其の反復のなかで変わらぬものを真なるものとして重んじてきた。かくいう、日本に置いても、僅か百数十年以前迄は、時間は閉じた円環のなかで反復するイメージとしてあり、意識は過去へと向いており、先祖を敬い、伝統に学び、其の反復のなかで変わらぬものを真なるものとして重んじてきたことは古代西欧世界、印度中国圏、極東の日本も事情は変わりません。其の思考が、むしろ、過去から未来へと向かう直線的継続時間意識に変遷したのです。それが近代の活力を支える基底としての思考の裏側の事情です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-33(四百三十二) ラテン語の Nihil(無)に由来する虚無主義(英: Nihilism、独: Nihilismus)の巨頭には、フリードリヒ・ニーチェ、マルティン・ハイデッガー、エルンスト・ユンガー、エミール・シオラン等の思想家に代表されますが、なかでも、近代思想の徹底した批判を淵源にいる立場、価値の転倒、ニヒリズム、善悪の彼岸という言葉を文面に出して繰り返しています。其れは彼の生きている近代、彼ニーチェにとっては「現代」でしょうが、人間が常に何々のため故に在り方を要求される。其の「何々」とは「理想・善・幸せ・救い」であり、此れ等は、カントの理念やプラトンのイデアに共通し、我々現代人の明日への理念であるとも云えます。人間ありの儘の現在の在り方を肯定せず明日の在り方を、現時に持ち込んでいることを人間の生を弱めていると告発し、非難するのです。何故に、人間が生の活動を衰えさしたのかをニーチェはソクラテスに始まるイデア思想、継続するプラトン、以降の基督教の思考が生を弱める方向をさらに助長増大させたと断じます。ニーチェはソクラテスに始まるイデア思想、継続するプラトン、更には、基督教に巧みに思考を取り入れた人間観念論を否定し、自身はギリシャ神話の別名をバッカスともいう豊穣とブドウ酒の神ディオニュソス(Dionysus)を称揚します。陶酔宗教の主神とでも称すべきその中核部分はナチズムを予感させています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-32(四百三十一) ヘーゲルの説く神とは、「精神哲学」の最後の部である第三部を読み取れば、神とは所謂「姿形(しけい)・形相」的な世界存在としてあるのではなく、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)自身によって提唱された言葉であり、自己自身の外に根拠をもたぬ精神の本質が主観的・客観的段階を経て十全に展開され自覚に至ったもの。芸術・宗教・哲学に表証されるものであり、「絶対精神」と解きます。更に、 ヘーゲルは「神」其のものが顕われるのが宗教ではなく哲学だということです。詰まるところ、彼ヘーゲルは、「神」をアリストテレス同様「思考の思考」の究極の根源として、尽きぬ理性の最高峰であり「理法」と捉えていることになります。従って、理性の最高峰であり「理法」を把握出来得るのは「概念」を掌握する哲学だということになります。此の論法は、一面において、近代から現代に繋がる合理主義である「理神論」とも合致します。此のことが「神」の宗教の対象としての神秘性を帯びた「神存在」を否定する方向に動くのは致し方ないことだし、将又、止むを得ない思考なのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-31(四百三十) ヘーゲルの人間が自己を外化して神となるの「外化」とは内面が外に現れて物象化される思考経緯を、唯物論的に物象化論として「神の存在」を否定し、人間は自己の精神を物象化して神などというものを創り出すが、造り出した後は、一変して、其の想像物によって支配される。と人間精神の浅はかさを謳ったのがカール・マルクスだという訳です。其れとほぼ同時代にあり、同じくヘーゲルを批判するキルケゴールは、カール・マルクスとは異った視点から、つまり、ヘーゲルは神という存在其のものをすっかり人間化してしまったが、ヘーゲルの云う人間視点から現象化した神は、神の真相を離れている。其のような人間造成物は神を冒涜している。神は人間造成の張子の虎ではなく、人間創造の始元である。其の創造主を差し置き、自分自身が創造主の立場に居座ろうとする。それがヘーゲルの宗教論の本質だとしています。ヘーゲルの宗教論は正真正銘の無神論だと決め付けています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-30(四百二十九) ヘーゲル的には、人間が天性に付与された精神、其れも内奥の精神は「自己意識が自己を外化して物としての存在ないし共同体の自己になるという側面」を併せ有している」とする、と神そのものが人間とは独立した彼岸の存在だと捉えられかねない懸念があり、伝統的な宗教観の思考へと毎戻りそうですが、ヘーゲルの云わんとする要は、神の絶対的な本性である絶対存在から観想される絶対意識・絶対意思・絶対精神は人間の本性とは全く異相のものではない、神は元来、人間の精神の内奥に在しているのである。ナザレのイエスが受肉して人間として誕生したのも、或いは、インドのシッダルタが釈迦牟尼仏として外化して神(仏を宗教化すれば神存在的語彙は成り立つ)と云うのも相関関係が成り立つとしています。人間が自己を外化して神となるの「外化」とは内面が外に現れて物象化される事である。其れを簡略化すると、精神が外化して神というものの形姿を現出する。即ち、外化とは現象化ということだと述べます。人間は自分自身の内面を、「神仏」という外面的な形に物象化することの可能性を否定しないのです。ニヒリスト(虚無主義者)であるニーチェの出現を予期させます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-29(四百二十八) ヘーゲルにの思考に依れば「啓示」とは、神の側から観想した人間への働き掛けではあるものの、受動的存在とされる人間の精神、神の啓示に対応する特化した「内精神」は、単なる受動的な存在にはとどまらないことを意味します。人間が天性に付与された精神、其れも内奥の精神は「自己意識が自己を外化して物としての存在ないし共同体の自己になるという側面」を併せ有している。此のことは、神目線だけではなく、人間の内精神にも、神の存在を必然のものとして要請するような動きが内在していることを証します。此のことの根拠をヘーゲル的に突き詰めれば啓示宗教とは、人間の要請と神の意志、但し、ヘーゲル的にはを前提としますが「一般意思と世界理法としての存在意思」が一致することの可能性が芽生えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-28(四百二十七) ヘーゲルの思考での「啓示」とは、神が人間属性を含有し、自身を人間であると示すことであるとしています。世界創造に唯一関わる「神」がキリストとの姿となって世界内に於ける人間の世界に現出する。其れが最初の第一の啓示です。「神がこのように受肉して、本質的かつ直接的に自己意識を持つ人間の形(姿)をとるということが、絶対宗教に於ける根本的で単純な内容でしょう。受肉したときに初めて人間は「神の本質」は精神だと知り、自分が精神であることを意識します。人間の高度に極まった精神は神が精神であることを認識します。此のことこそが「神の啓示」と呼称されるものです。言い換えれば、神が何ものであるかが知られるということです。即ち、此のことから判断されるのは、神が自己意識を本質とする存在だと知られるということ、ヘーゲルにとっては、「神の本性と人間の本性は同じもの」だとする驚くべき思考を展開します。此の思考展開は、釈迦の説く「空寂是」にも共通性が見られます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-27(四百二十六) ヘーゲルは「啓示」が神が自身が人間である故の表現だと言うのです。其のことを成り立たせるのが、神がキリストとなり人間世界に現出する。其れが人類初の「啓示」だとしています。其の当の神の子、言い換えれば「人の子」であるイエスが生命としての肉体を失った後には、其の体験に顕れたキリストの聖徒により記憶が「聖霊」と変容し人間或いは其のことを受け入れた者の内精神に生き続ける。此れが第二の啓示と呼称されます。更には、此の二つの啓示が併されて「三位一体」の法が説かれます。掻い摘んで云えば、世界内外を統べる存在者が受肉してキリストとなり、キリストを認容する人間人の精神の深奥に聖霊となり生き続けることとなります。ヘーゲルは、更に続けます。聖霊と精神とは同じものなのだと。事実、現在でもドイツ語が聖霊と精神とを同じ「」と呼称することからもヘーゲルの影響の大きさが伺えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-26(四百二十五) ヘーゲルが宗教を完全に人間化したのは啓示宗教(revealed religion)、通俗的解釈では通常の体験や理性的な認識に基づく,いわば合理主義的な宗教に対比される人間の精神の力では知ることのでき得ない宗教的真理を、神が神自身または天使など超自然的存在を介して特別の人間、預言者(神の通詞)や「ひとの子」と称される神の子を通して人間へ伝達する天啓によるユダヤ教・キリスト教・イスラム教などを指すと解されていますが、ヘーゲルは、啓示とは、神が自身を人間であると示すことであり、ギリシャの詩的物語調の芸術宗教や旧約の世界の、神存在を彼岸・超越的な世界のこだわりを脱して、宗教を完全に人間化したのは啓示宗教としてのキリスト教だけを認めています。ヘーゲルは、キリスト教だけが人類の歴史にとってもつ決定的な重要性があることを強調します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-25(四百二十四) ヘーゲルが「絶対知(Absolute)」なるものをのは、宗教の頂く「神格性を帯びた神」とは別誂えするのは、啓蒙期を権威とに挑戦し且つ戦った物理科学を基礎に置くカント等には我慢出来得ない、下手をすれば処世術と捉えられかねない程、柔軟な思考を用います。但し、宗教とは此の世とは異相の彼岸の世界のことであって、我々の知性では推し量る事の出来ぬ超越的世界にかかわることとするのが、伝統的な見方であるのを、ヘーゲルは、宗教とは人間の精神が「取る」ところの究極的な形であるという彼の本音が露吐されます。宗教というものは、なにも彼岸とか超越的な世界にかかわる事柄なのではなく、我々人間の精神が捉えるひとつの形態なのであって、宗教とは人間の精神がとるところの究極的な型であり、なにも彼岸とか超越的な世界にかかわる事柄なのではないと説きます。宗教なかでもキリスト教を人類の歴史に現れた宗教の重要性を強調するのはヘーゲルの育った環境の影響は見逃せません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-24(四百二十三) 宗教の頂く「神格性を帯びた神」に人間との連関性を意識するのは、何も宗教には限らず人間生活日常でも儘あります。ヘーゲルの思考の特異性は宗教が頂く「神格性を帯びた神」を自己の神性思考を披瀝する著書で、ソクラテスが云う「絶対知」をヘーゲルの思考表示では人間の知恵の最高の在り方を指すものとして、すぐれて人間的なものとし、絶対知識の人間可能性を否定はしません。此のことはインドの釈迦牟尼仏を観想すれば人間の最高知である「悟り(亦は覚り)」をイメージするのが妥当であり、近似したものと捉えられます。其れ故に、ヘーゲルの「絶対知」なるものは、宗教の頂く「神格性を帯びた神」とは別誂えする訳です。何に故か、「絶対知」なるものと宗教が頂く「神格性を帯びた神」を同等としたのでは、「仏教哲学の始祖シッダールタ」の段階に正教会頂く「神」其のものをも人的レベルに引き摺り落とすことになり、ヘーゲルの処世術として宗教を絶対知の手前に置きます。形式上は宗教と絶対知とを分別し、宗教を絶対知の手前に置くことで「無神論者」のレッテルを貼られ思考攻撃を招く恐れを回避します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-23(四百二十二) 人間が自己の精神を意識した時点から宗教は始まったと言っても過言ではない。人間の尽きせぬ源泉である宗教の頂く「神」を、神秘哲学の思想家を除いて人間精神が形をなす思考だと捉えた哲学者はヘーゲルに始まります。生命体其れも精神を保持するのは人間だけである前提がある以上、精神とは、ほかならぬ我々人間のことを指し示します。此のことは「神」が精神のとる一つの形状だと云うに等しい思考です。ヘーゲルが現出する時代以前のキリスト教の権威社会では、「神なる者大凡イコール人間精神なる言質」は許しがたい思考であり、不遜・不尊・人間の驕り昂ぶりとして、教会権威からともすれば体制からの無神論の仮面を被せられ攻撃の的として弾劾されます。当然に、ヘーゲル自身も無神論者と看做されて攻撃されたことは度々です。そのたびにヘーゲルは自身の思考に煙幕を張り、自分は敬虔なキリスト教徒だと、人々に弁明したのは史上の宗教思想家にはない論理思考の哲学者ヘーゲルの面目躍如たる素養が伺えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-22(四百二十一) 「有」である「存在」は否定し得ても、「世界」の実在、人間理性が世界理法其れも人間精神が捉える現象を、偽経としての龍樹の「大乗哲学」が否定するのはあり得ても、物質現象である変化である運動まで「大乗哲学」が否定することはあり得ません。但し、「時間概念」に関しては実在・非実在が課題となるのは時間観念が人間精神特有のものとされるからであり、世界内自然其のものに「時間」が在るかどうかは別問題です。ヘーゲルの「宗教哲学」、特に「精神現象学」において、「宗教」は「絶対知」の直前に置かれていることの「語彙」は意味深長です。此のことはヘーゲルがフィロソフィーとしての立場から宗教を如何様に捉えているのか、将又、真実に宗教が絶対知の直前に位置するに相応しい高度な精神の形態なのかを問うのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-21(四百二十) ヘーゲルの哲学体系は神存在を予期させる絶対意思並びに絶対精神を自己を「己(他者と区別するもの)」としてではなく、自己さえを認識すらことすら必要性が持たないため、俗な人間性に似通った自己意識がないとも云える絶対意識である「絶対・者(者は存在と言い換えたほうが語彙的には適性)である」世界理法の根底を基底にしなければ論壇に立ち得ません。然し乍ら、此れまで現在に至るも「神的存在」を信仰上の教本は兎も角も論理的及び科学理論で成功したことはありません。デカルトにおける神の人性論的証明も、結局のところ、神の概念は存在を含むという存在論的証明に帰することになるが、カントによって否定され定説となります。ヘーゲルはデカルトにおける神の人性論的証明を支持しその証明を擁護しようとしていますが不首尾なものに終わります。其れでは「絶対存在」は不在なのかと問えば、カントの言うが如く「その客観的な実在性はもちろん思弁的な方法によっては証明されえないが、しかし其れも亦、反駁することも出来得ない概念であることにかわりはない」とするように神の存在も不在も理論的には証明されている訳ではない。此のことは21世紀の現代でも変わりはありません。ヘーゲルが「宗教哲学講義」において述べる、宗教を憎悪している人間ですら、やはり宗教と関わっており、寧ろ「宗教は人間としてのその人に本質的なものであり、彼に縁のない感情ではない」とすることも一理あることには、批判を旨とするニーチェの虚無主義或いは否定主義を用いても、其の思考方法の究極には何らかの絶対性を帯びたものを置かざるを得ない。自己を含有する存在其のものを全否定することに成功し得ない限り、言い換えれば世界を「虚無」としない限りは「存在」は人間思考を離れ得ません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-20(四百十九) 人間精神の意識が生み出した主体性論理思考の多くの問題点を止揚することを自己哲学の中心に置くヘーゲルは、絶対存在且つ絶対意思並びに絶対意識は、人間の精神思考の求められる究極の存在として「現存且つ実在有」としていなければならないとします。人間が一(いち)完全体として成り立つことが不可能な以上、人間の精神思考の深層では分裂が必然的に起こることは避け得ないし、永遠に相互の分裂への対応を策定しつつ措定するのが人間の精神思考の前提であり人間の甘受する理性の目覚め、世界理法の最高の生命性における総体を究明する唯一の思考法だと解きます。近代における主観と客観の分裂思考は絶対者の自己実現の過程における必然的な現象として捉えられていくと観想し、驚くべきことに「絶対者が意識に対して再構成されるべきこと「哲学の課題」ヘーゲルにおいては必然的論理思考で実現且つ其の思考経過を示します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-19(四百十八) 人間意識が多重性を持たざるを得ないということを止揚されるためには、絶対者の意識存在が不可欠だとヘーゲルは基幹としています。同様の完全な絶対存在としての「神存在を」デカルトに解かせれば、「何ものかが私に欠けており、私はまったく完全であるわけではないことを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が私の内にあって、それと比較して私の欠陥を認めるのでなければ、不可能である」として、人間は不完全な存在者だが、それでも完全なものの観念をもっているということから、その証明を試み、、不完全な存在者である人間が完全なものの観念の原因であることは不可能だが、逆のことは可能であるということから、神の存在を証明しようとしています。対して、ヘーゲルは人間の内意識が陥っている分裂が自覚され止揚されるためには、否定しえない根源として、先ずは絶対者が現存していなければならないとしています。デカルト流に換言すれば、絶対者がそのようにすでに根底に存しているからこそ、哲学は「絶対的主観性と絶対的客観性の対立」へと先鋭化した近代の分裂を批判し、それを乗り越えることも出来得るとしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-18(四百十七) ヘーゲル哲学の成り立たしめているのは絶対存在として神格を認めない全体性としての神が基底に据えられていることがあります。ヘーゲルの1807年での育った町イエナからの旅立ち以前、シェリングとフィヒテと哲学体系の差異を認識し、フィヒテとの対決時期を経過した後、シェリングとフィヒテと哲学体系の分裂を自己の哲学の要求の源泉であるとします。其の、哲学思考の前提は、過去時の理性と感性などの対立が、現在では、絶対的主観性と絶対的客観性への対立へと先鋭化されて、故に理性の唯一の関心事が、そうした諸対立を止揚することにあると発言させます。ヘーゲルは哲学体系には二つの前提、一つは「全体である絶対者そのもの」であり、彼の一つは人間意識其のものは「意識一般の総体性」から出ていることです。人間意識が多重性を持たざるを得ないということです。第一の前提である意識の「求められる目標」としての絶対意識に関しては、絶対者、其れを哲学的な表現に言い換えれば「絶対意識」は世界の存在の基底として既存としてあり、世界が制限のない状況にあるものを認識すべきである。その根源は否定すること能わず、自らの諸制限の多様性を全体として構成することに向かわざるえない。其のことに起因して絶対者が意識に対して再成されること、其の一事こそが最初に哲学が立ち向かうべき課題だと述べます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-17(四百十六) ヘーゲル哲学の論理は「神存在」なしには成り立たないと言っても過言ではありません。彼は論理の端緒を神存在に置いています。宗教哲学講義では「哲学においては我々は対象を前提してはならない」とした云々の後、此のことが「哲学一般に関して困難をなすものともみられよう」と述べていることからことからも伺われます。ヘーゲル哲学の論理が「神存在」を絶対存在として前提としているこそ、彼の主張する「円環の理」が可能となります。「エンチュクロペディー序論」に於いて、哲学にとっての固有の対象である思惟(思考ととっても可)が存在・成立するのは「思惟の自由な行為」にもよるが、直接的なものとして表れる立場も哲学の内では成果であり、且つ最後の成果として現われる。此のように「哲学」は「自らの内へと還帰する円環であり、それは他の学問の意味での端初をは持たない。哲学の端初は哲学しようと決心する際の主観をスピノザ風に読み込めるならば、神の思惟の延長関係にあり、「学」そのものは人間も含めて有限な諸存在の根拠をなす絶対者としての神が根底に存しているから、其のものには関係しない。換言すれば、哲学の端初の意義は、哲学の道が其処へと帰趨すれば目的に適うのであり、哲学しようと決心する際の主観に求められるものとします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-14(四百十五) ヘーゲルの著書「精神現象学」を見れば、人間をこえた存在者からの教えに基礎をおく宗教。通常の体験や理性的な認識に基づく,云わば合理主義的な宗教に対比される「啓示宗教」、大乗の偽経を除いた仏教哲学は別にして、人間を超越した存在者からの教えに基礎を置く宗教。通常の体験や理性的な認識に基づく合理主義的な宗教に対比されるユダヤ教やキリスト教及びイスラム教等々、宗教学的にはこれに含まれるものが多い。のですが、其のうちの一キリスト教についてヘーゲルは至らなさを主張し、精神はその「最後の形態」としての「絶対知」、換言すれば「自らを精神の形態において知る精神、あるいは概念的に把握する知」へと進まなければならないとします。結局哲学は宗教に対して上位に立つのではなかろうかを意味する発言です。ヘーゲルは自らの「宗教哲学講義」において哲学は宗教と同じ内容を有する。だが、哲学はそれを「思惟の形式」において提示する。「それは信仰の形式の上位に立つだけであって、内容は同一である」と驚くべき一言を発します。ヘーゲルによれば、「宗教と哲学は一つに帰する」のだから、哲学は実際神事(Gottesdienst)であり、宗教であると述べるのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-13(四百十四) 通常、概念で捉えるとは、ものごとを具体的、個別的な場で捉えながらも、其れだけではなく大凡規定する条件にまで視野を拡げ、全体との関連において位置づけることとされますが、ヘーゲルは概念とはそれだけのものではないとします。「小論理学」159節において彼は概念とは存在と本質の真理であるといわれ、また其の概念は、「精神現象学」において自己である、生命である、無限であるとのいわれると述べます。。概念は単に或る特定のものごとの捉え方のみだけでなく、其のもの自体が真理の自覚された在り方として、ヘーゲル哲学の中心に位置しているのである。其処での概念とは、一般化すれば、第一には出発点となるところの与件(最初に直接的に与えられたもの)が、第二の全体との関連付けに向けて、媒介を得て進捗し、最後に統一を得て其のもの自体と成すという全過程、弁証法を含有した三段階の認識の展開としての運動を説きます。此の思考を「神存在」の概念に持ち込めば、第一には出発点となるところの与件、第二の全体との関連付け、当然に神は全体としてあるのだから肯んることになります。最後に統一を得て其のもの自体と成すという全過程に関しては「其のもの自体」を有する全体、次元の絶対者である限り当然に在る訳であり、神は「有」としての形態を取ります。言い換えると「世界存在」其のものが「神の形態」だということです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-12(四百十三) ヘーゲルは「真理は全体にあり」という原則を「神の概念」本来の語彙を当て嵌め、「自らを自己から区別するものであり、自らにとっては対象と成す自己ではあるが、然し乍ら、其の区別においては端的に自らと同一と成すものである」が、如何にも神を対象とするのは哲学と宗教は同様だとはいえ、「神存在」に同様の解釈や対応及び態度を軸を一にする訳ではありません。宗教言い替えれば信仰が自己の表象によって神格を捉えんとするのに対して、哲学は更なる思考、「思惟(シイ又はシユイ)」、スピノザは神の意識の延長としての思考を「思惟」と表現していますが、何れにしても論理に重きを置きを成した思考を根本的な論理形態として証すことを目的とします。ヘーゲルの著書「精神現象学」を見れば、「啓示宗教」としてのキリスト教は「形態そのものや表象」という克服されていない面が至らなく、人間精神は概念、ヘーゲル説くところの「普遍・特殊・個別」三つの概念の統合へと移行しなければならないとしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-11(四百十二) ヘーゲルは「真理は全体にあり」という原則を「神の概念」本来の語彙を当て嵌め、「自らを自己から区別するものであり、自らにとっては対象と成す自己ではあるが、然し乍ら、其の区別においては端的に自らと同一と成すものである」が、空間的次元性及び時間的時限性更には運動性を超えた存在を、神の円環をなす運動性、倭語で云う「巴」、「クラインの壺」として捉え、人間精神学いうところの自己意識の中で其れは完成しているものであり、自己意識の相互承認は統一という概念によって成り立ち、自己意識の相互承認は、其の二重化自己を認識することさえ不要であり、絶対性を帯びた存在、唯一つのスピノザ風に表現すれば「絶対有」と定義出来得ます。但し、ヘーゲルは神存在自身から生じる普遍的な自己意識は、自らを区別しつつもその区別を止揚するという運動性を有しているとします。此のことは人間の側から、宗教とそこにおける神的なものを再構成することも可能であることを意味します。然し乍ら、この場合にも、絶対的存在として、完全なものとしての神が目標として前提とされているわけだから、神が人間的なものへとまったく還元されるということには成り得ません。宗教とそこにおける神的なものの再構成が促される契機が求められます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-10(四百十一) ギリシャに端を発するフィロソフィー(philosophy)、西周の和訳「哲学」は近代唯物主義とは相違し、文字通りギリシャの思想家ピタゴラスによって導入された「知恵を愛する者」を意味しますが、古典的な意味においての主流の哲学者とは、世界における人間性の実存的問題に解答を出し、世界の実在の意義はヘラクレイトス等の唯物観とは一線を画する思考でした。其れ故に、極めて人間の精神存在に重きを置き、其の思考に必須の言葉の定義は自己の思考を理解せしめる上で欠かせない前提条件となります。此の一事が「哲学」を面白げなく一般に忌避される傾向を助長させます。ヘラクレイトス等の古典的な唯物観は科学とは未分離であり、エレア学派の「アキレスと亀」や「飛んでいる矢は止まっている」というパラドックス(Zeno of Elea paradoxes)には興味や好奇心は湧くものの実存哲学の扱う人間精神の深層に眠る「霊魂」は抑々定義さえフィロソフィアごとに定義や概念及び観念に至る迄に其の「言語の語彙の定義」が其々に違い興味を削がさせます。其々の哲学者の「言語」の使用は著書の前提に語られており、其れさえ踏み越えれば理解が容易になることもあり、此のことが信仰と哲学を分別しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-9(四百十) ヘーゲルの宗教観は別として、ヘーゲルに於いて「神」を「自らを自己から区別するものであり、自らにとっては対象と成す自己ではあるが、然し乍ら、其の区別においては端的に自らと同一と成すものである」と概念として捉えます。 ヘーゲルび思考方法の特徴には、ものごとを他と切り離されているという意味で捕捉することを空虚で否定的な意味合いとし、直接的というのも他と媒介されていないという「純粋な」といっても、其のことが些かも高級な意味合いはは持たず、単に混じりけがないことのみを意味するとします。全ては総てに繋がり、「真理は全体にあり」という原則をヘーゲルは「概念」の本来の語彙とします。「概念」とは通常は、ものごとの定義とか捉え方という意味合いで使用されますが、ヘーゲルの場合は「概念」の語彙に非常に重要で広範な役割が担わせます。概念には、特殊概念としてものごとが受けている規定性や限定性を指し、一般(普遍)概念としては其の規定性や限定性を内に含む全体として含有するものであり、其のことを成り立たせる全般的な在り方とし、現象を個別具体的に存在成らしめる、特殊と一般が同時に現れ出る場でもある個別概念の三つの要素に分類し、概念の3要素すべての事象を生成発展の相として捉えていこうとする思考経過に特徴があります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-8(四百九) 確かに、ヘーゲルの宗教論は、矛盾したものだとも批判なきにしも非ずとも言えますが、其れよりも何も、近代が啓蒙期の思考の騒乱を通じて被り陥った「神存在の概念」を、思考の分裂による止揚するために、神存在は宗教・哲学を問わず更には科学にあっても根底に前提されるべきものとします。此処に言う「神存在」の語彙は「世界理法」を指し示します。ヘーゲルの宗教哲学講義において、西洋宗教取り分け基督教の展開を俯瞰し、キリスト教の「神と人間」及び「神と自然」の相関を探求し論理付けて解明を試みます。キリスト教は「絶対的宗教」並びに「完成された宗教」等々と称されるが、其の当事者イエス・キリストを、論理的或いは哲学的に「神と人間」及び「神と自然」の相関の矛盾点を探求して、神と人間、神と自然の間の分裂が止揚されているかを探り、その問いに対する答えが否定的なものとならざるをえないことを示します。絶対的宗教としてのキリスト教への挑戦です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-7(四百八) ヘーゲルは「神」の語彙を宗教論を通して、神と人間との関わりを人間の側面から観想します。ヘーゲルの言に依れば、哲学も宗教と同様に最高の真理としての神を対象としており、其れ故に、哲学と宗教の「神」の実相の表装には相違はあれども、哲学も紐解けば神に関しては宗教神事の趣をなす。更には、ヘーゲルは「神」の定義に対する批判を予期して、「神の本性と人間の本性は同じものである」とも述べます。此れはスピノザの「エチカ」を読み取れば解読できます。然し乍ら、当然にヘーゲルに於いても、宗教とそこにおける神的なものは人間的なものへと還元されるものである筈はない。宗教は神の精神の産物であり、人間の発明ではないということです。此処にヘーゲルの神の人間との相関が描かれます。神は「神の全体性}に何らかの認識を必要とし、取り立て有限存在の人間を必要とし、神は「有限者への運動」において有限者を自らへと止揚するとします。ヘーゲル曰く「神」は自らを有限なものとして止揚する人間の精神存在にに内奥する自我・霊魂の内において神は自らへと還帰し、そしてこうした還帰としてのみ神存在として「有」なのです。言い換えれば、存在世界がなければ、神は神ではないと言い放ちます。。ヘーゲルの宗教論は、矛盾したものだとの批判なきにしも非ずと言えますが、神と人間の関係に対して人間の側から可能な限り接近しようとする試みに対しては、後世に良き素材を与えてくれ、優れた「神概念」を育て上げます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-6(四百七) 「神」の定義が曖昧模糊であるのに、其の存在をニヒリズムや虚無主義及びマルクス主義の唯物的物質論を除いて、総ての思考が「神」を「現在」する物事が実存する以上、世界の「無」が証明できないのに伴い、本質存在としての「因」である源としての「有」を否定し切れないからです。仮に存在其のものを否定する大乗の祖ナーガルジュナの弁を採ろうとも、彼は「物質世界の無」を説いた訳ではなく、人間の内奥に眠る精神を対象に「空論」を展開するのであって、現存在の有り様を否定していないのであって、インドの発見である「0(ゼロ)」の如く存在を否定出来得るものではなく、存在を人間思考の範疇に浮かび上げるものとはしないだけで「空」たるものとして説いています。「空」たるものとは人間が眠りに就いて日毎夢見るものの如く「事実」存在ではなく、さても、「無実」だとも否定し切れないものだという訳です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-5(四百六) 世界に「神性」を問うことは思考分野を異にしても共通してはいますが、物理化学で言うところの絶対性の問題、宗教観から糾明する絶対存在、哲学から観相される絶対存在、世界に「神性」を問うことには異存はないにしても、認識の原理的な根拠には掛け離れた思考があり、其の確信或いは究明の思考経過は世界を別にすることが一般です。科学者が神を認識するのと、高度の生命医学を極めた医師が神を認識するのと、知識の有無に拘らず神の啓示を確信するものと、論理に於いての絶対観から神を確信するもの、或いは人間精神を神の延長として捉える経過に於いて内奥にある精神存在に感応するものを覚えるもの、たとえ、従前の神の表意を否定はするものの存在性を覚りのかたちで認識するもの等々、「神存在」は異種異相的存在であり、其のこと故に多様な表装を観せ、凡その人間には「神存在」は世界理法の根源と捉えることが最も真相に近縁するのではと思考されます。「神」の定義が曖昧模糊である以上致し方ないことでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年05月01日
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