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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ39(五百二十六) 「仏法」とは西田哲学の理法への探求を追跡すれば、いま現在自己が生きて存在する其のことが「法或いは理」に照らし、誠に殉じていれば、「仏法」其のものだと云えます。「法或いは理」は此の世界における人間が人間として生きる社会生活基本を示しており、世間と隔絶しているものではありません。其の「法」を覚った人間が「仏」となるのであって、<仏と衆生に異相のものが別々に実存するわげではありません。とは言え、釈尊が自己を含めて認めるほぼ同時代に現れた「六仏」(此処で云う六仏は、仏教の説く過去七仏(かこしちぶつ)とは違い、同世代の大聖人される行者連)とが衆生と全く同一かと問われれば、同一の種から育つ蓮も開花の様子に異相が在るように、世間の濁水に混みれた巷から育つ睡蓮は「仏子」はあれども開花しないのが常道です。人間思考の「迷」と「悟」の差異が浮上します。「理」すなわち法的には、仏も衆生も同一での立ち位置ですが「現時の事」すなわち社会環境世界では、他者への関わりや生活の中では「仏」と「衆生」は全く異なります。此の語彙がフォイエルバッハの説くフォイエルバッハが自分の人間学を「宗教」と呼んだ理の要請なのでしょう。フォイエルバッハが神を観想する眼、其処に映るのは「仏」だといっても差し支えがないとも云えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ38(五百二十五) キリスト教的神概念は「主体と客体」「父なるものと人の子」「権威である創造者と被造物としての僕」は、神の懐に迎えいられることは在り得ても、神そのものに一体化し、自己が神に成ることは、不遜であり不謹慎の誹(そし)りを受けざるをえないでしょう。片や、仏教哲学における「ほとけ(仏)」とは、「衆生本来仏なり」の言葉どおり、「衆生」を解釈的には生命あるものすべてをいうが、衆生本来仏なりでの「衆生」は心識を有する衆人と解釈して、人間の心情其のものに、浄土も極楽の基(もとい)があり自己の精神の奥底を検索すれば世界の自然である「理り(ことわり)」としての「仏性」が無為無性を覚えれば「さとり」が得られ、仏になる道が開かれていることを示します。フォイエルバッハの信教解釈では、基督教からは異論はあれども、「神」が人間自身であることを自覚しないのが宗教意識の特徴であると述べていますが、仏法は宗教ならざる宗教、覚りを得た人間こそが「仏」であると明言します。人間の内在的仏性に対する信仰はフォイエルバッハの信教解釈と相似しています。ニュートンのリンゴから発想された万有引カの法則があらゆる質量に貫くように、一切の存在を貫く法則ともいうべきもの、其れが「仏法」です。西田哲学の理法を知り神を知る哲学の道は此処から始まります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ37(五百二十四) キリスト教的観念論は、神は「主体」にして「父」であり「主」である。人は「客体」にして「子」であり、其の父なる神の「しもべ(僕或いは下僕)」にして被造物である。此の原則は原理であり侵されべからずの規範的思考が導き出されます。対して、シッダールタの興した哲学から派生した大乗哲学、「いとも気高き白蓮教」を説く日蓮仏法においては、衆生である人間と神とは言えないにしても存在的に普遍とされる「仏」との相互関連が逆転します。日蓮の教えを説く「御義口伝」では、 「我等衆生は親なり仏は子なり」と思考が逆転します。衆生に現出した人間が「覚り」を得て「覚った人間」である「覚人=仏」と成り得たからです。日蓮仏法は「諸法実相抄」にて 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主・師・親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては侯はず返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり」と、仏教にも多かれ少かれ否、支配的に存在した、仏が主であり衆生が子という思考が完全に転倒します。其の行く付く先は、衆生が「法」を覚ることによって、湧き上がってくる自然な振る舞い・働き、即ち慈悲や主・師・親の三徳、所謂、仏教で一般に云われる三種の徳ですが、其の基底には仏・如来・涅槃には三種類の徳、 実践や経験を介さないで、純粋な思惟・理性のみによって事物の真相に近づく思弁が具わっており、「法」を「覚る」或いは「悟る」という思考方法を示唆しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ36(五百二十三) フォイエルバッハの言う超越的な人格神という表象の否定を最も明瞭に示すものは、アジアの仏教の「成仏」という概念が妥当します。仏は人間と同様の様態であるからこそ「成仏」などと言うことが語彙が使われる。キリスト教的信仰のなかでその信仰に矛盾せずに人が「神」に成るなどとは決して想わないしイエスでさえ自身を神とは称しません。但し、仏教であれ基督教であれ其の世祖でない限り、人間の理解力が干渉しており、仏教をキリスト教的な人格神と殆んど区別のつかない「存在仏=神」とする浄土宗系の阿弥陀仏が代表的ですが幾多は見られます。フォイエルバッハの指摘は、此のキリスト教及び仏教こそが世祖の真相を人間が解釈したものであり、其の原点には成り得ないことを示しています。但し、仏法と基督神法の決然たる分かれ目は、キリスト教的な類似信仰にあっては、「神」は人類の父であり、人は其の子である。 「神」は主であり、人は僕(しもべ)である。「神」は主体であり創造主である。人は客体であり且つ又被造物である。このことは「絶対に侵すべからざる」秩序であり区別とするのに対し、シッダールタの興した哲学から派生した大乗哲学は「衆生本来仏なり」と述べています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ35(五百二十二) フォイエルバッハの要請、人間と自然に対する「信仰」への呼びかけは、カントの主観に依存する主観的観念論、更には、フィヒテの観念論及びシェリングの客観的観念論を統括し「絶対理念」の自己展開、言い換えれば「存在」其のもの、見えざる「絶対意思」なるものがあらゆるものを創造するとする、所謂、ドイツ観念論哲学の太成者のヘーゲル完成体系にたいする批判。「信教」全般、とりわけ創造者に対して「神格性」を帯びさせる、神の意識・認識・意思を「見える手」とする基督教に反撥するものです。フォイエルバッハの要請は、人間が世界精神の礎とすべきものは血肉の人間精神にあり其の精神の土台は人間の肉体形成に関わる自然にあるとします。其のこと故の「信仰」への呼び掛けがなされるわけです。呵らずば、其の呼びかけに応えるとして何を連想するかと自分に問えば、仏祖シッダルタの声が答えます。「信」と伴に「学」、並びに「学」と伴に「行」を重視する仏教、特に偽経と称される仏教の哲学を高揚せしめた「大乗」がフォイエルバッハの宗教論を紐解きます。「仏」とは字句通り、決っして人間以外のものを意味はしません。「仏」は自然の理「法」を覚った者を指しており、人間以外の何ものをも想定していません。超越的な人格神という表象は存在しないということです。但し、仏祖「シッダルタ」は方便としては「神」存在を否定はしませんでした。此のことこそが「嘘も方便」の典型的な常法なのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ34(五百二十一) 新教「基督教」は、使徒や聖者を通じて宗教的感動と心情を民衆、後世には為政者の心を揺さぶります。然し乍ら、フォイエルバッハにとっての人間学から観想すれば、その対象たる「神」は人間の観念のなかにしか存在せず、人間の人間に対する相互の感動を否定する。従いて、其れは「宗教」を標榜しながらも、他面に「宗教」の否定を含有する。生身の人間としての同じ血脈に対する配慮を神の言葉のもとに卑小化する。人間が生を受けたと同時に、率先する命題は観念世界の「神」ではなく、現実生身の愛と心情が率先しなければならないと述べます。物的実践を率先して実行した良寛を思い浮かばせる文言(もんごん)です。このフォイエルバッハの要請、人間と自然に対する「信仰」への呼びかけは、それ自身、全く正当な凡そ人間である限りでは否定しえない要請であるにしても、現実主義が表立ち過ぎます。其処にフォイエルバッハの思考が普遍化しえなかった要素が潜みます。この要請には、一般的にはキリスト教的信仰をもっては答えることが出来得ない問題を抱えています。フォイエルバッハが明らかにした通り、答えはあれこれの思想としての思想、哲学としての哲学であることは有り得ない。思想でありながら、観念としての思想を出て、超越者ではなく、生身の人間の元に、他者のもとに往くことを教え命ずる様な思想、哲学でありながら、生活することを要請する哲学、即ち己れ自身の否定をはらんだ思想・哲学は「形而上哲学」を離脱した「社会学」でなければならない。フォイエルバッハは社会科学者と呼称されるべきかもしれません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ33(五百二十) フォイエルバッハの要請である現実の人間と自然に人間思考の基底や価値を置き、凡そ汎ゆる思想は其れを根拠にするとする姿勢は、思想や哲学がそれ自身として正しいとか間違っているとかという指摘でさえ無い。此の要請は、生身の人間が現実の血肉を持つ他人とどう関わるのか、現実の自然とどう関わるのかという問題を要とし、其処から自己の観念を導き出すという自己の経験・体験なしには「観念」其のものが生まれ得ない状況を踏まえます。、フォイエルバッハが自分の人間学を「宗教」と呼んだ理由は「新しい哲学は、宗教的感動の真理を否認する神学の否定として、宗教の肯定である。人間神論は自覚した宗教云々、自分自身を理解している宗教である。」にあるのです。此のことから想い当たるのは同一人物である哲人シッダルタと仏陀「釈尊」に表象されます。釈迦国王子のシッダルタは物欲的体験世界に不興を覚え沙弥になり観想の世界、即ち、完璧な観念を求めて極まり、仏祖の称号を得ます。対して、宗教化した大乗では「天上唯我独尊」の通り観念は生まれながらに授かっています。フォイエルバッハが東洋思想と相容れない矛盾点です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ32(五百十九) 人間世界の基底にある普遍は己の観念に囚われた幻想だと云うフォイエルバッハの要請は、「思考と直覚」の記述を現にしている当人は困惑を憶えます。思想や哲学にとっては現世人間の処世術や金銭獲得及び地位の向上、権威の獲得・権力奪取には、自然現象ではなく人間特有の世俗現象に過ぎないからです。フォイエルバッハやマルクスの時代背景を鑑みれば人間思想の根本に人間普遍の思考などは軽微な問題であり、今生きゆく人間こそが最大事であり、思想は其の改革の基底を与えることが思考であったことも事実です。此のことを、フォイエルバッハやマルクスは至上の命題とし、自己の思念を捨て去った自身を観ること、己をむな(「空」若しくは「虚」)しゅうとする思考方法の観念論的世界は勿論のこと、自己の理性を極限まで深めて真相を掴まんとする哲学の放逐に意を向かわせます。観念の世界を持ってしまう人間が生活の中でその観念の世界を否定しなければならないことに陥る。フォイエルバッハは、思想としての思想、哲学としての哲学が己れ自身を超えてゆくこと、生活のなかへと己れ自身を立ち入らせ超えてゆくこと。フォイエルバッハは人間が生活の中でその観念の世界を否定すること、我々の常識とは違(たが)い、生活環境に密着して思考することを観念の上位に位置させます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ31(五百十八) 言うまでもない事ですが、現在人には科学万能のおかげで合理的精神とは、信教を除いて、人間と物理的世界自然の相互関係意外には何もなく、思想や学問その総合学とも云える哲学は形而上の世界を抜き去っって当然、学問や思想あるいは哲学の基礎は人間と世界の物質関係の追求意外には要請されない風潮です。然し乍ら、現実の人間と自然こそが一切の根源であること、思考は常に此の命題を基底に戻らなければならないとするフオイエルパッハの要請は、哲学本来の観念を離れており、「現実」忠志のフオイエルパッハやマルクスを批判する傾向が、物理科学や人間組成論から見直しが図られています。マルクスやフオイエルパッハの「人間」とは社会上の一般化された規格を出ず、抽象的に語られます。然し、我々個別の人間は具体的感性と其処に継る理性としての「自我」を抱い(いだい)て人生を歩んでいます。現実の人間は常に個別的であり、具体的な感性的存在である。確かに、人間は物理世界からの影響を免れ得ないし、亦、其れを拒否する力は持ち得ない。其れだからこそ人間精神は自己の精神の深層に霊魂を求め自己が生きていく「術(すべ)」を求めているのです。哲学は其の要請をあらためて新たな哲学を構成する時代を迎えています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ30(五百十七) IT時代に突入し情報の膨大化、専門化、分枝化が進む中、現代に生きる人間はへーゲルやフォイエルバッハやマルクスの時代と比較にならない知識の蓄積を手中にすることが可能な世界を謳歌しています。但し、現実の人間との思想や学問、更には哲学との乖離は新たなる問題を孕んでいます。物理科学や生命科学は言うに及ばず其の専門域は細分化され、もはや過去の時代における、人間の全体性や現実性の把握すら困難な時代を迎えています。へーゲルやマルクス時代の思考体系には、歴史や社会も含めて人間の現実性全体性を把握しようとする試みがあったからこそ、現実の人間を動かし、一つの行動をうながす力にもなり得たとも言えましょう。然るに、現代思考を究めんとする知識人はもはや稀で、限られた専門領域を促す要素を持たないし、其の意欲は消失しているかに見えます。自らの学問の限界や抽象性を自覚している。自分の知識や学問の抽象性、限界を承知しているとは口篭りながら、実際には、人間を自分の限られた知識を通してしか見ていません。学者はアカデミーの金の盾に満足しています。自らの学問や知識の限界を知りながらも、そこから出ていこうとしない風潮が現代思考を覆っています。現代人が仮想と現実に苛まれるのは人間の精神、自己の深層に眠る自我「天地一切のものに対する自分」の意義を失ったことにあります。其のことが極端な宗教原理の信奉や集団自殺を誘引していることは枚挙に暇がありません。宗教を原点に帰すことが必要ならば、人間原理も総合科学としての原理である哲学を省みるのも現代人には要請される時代であることを認識すべきでしょう。人間が外界を意識し認識し、其処から、自らの精神の奥底に隠された「霊魂」は再来します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ29(五百十六) マルクス主観はフォイエルバッハの思考を完全に超克し得たのであろうか。フォイエルバッハの思考が決して存在を超えることは出来得ないとの批判を解明したのであろうか。マルクスの唯物主観が社会体制其のものではなく、個人意識に与えた影響は人間主義を履き違えた多くの俗人やプチブル及び権力者にも及んで、マルクスの目論見が崩れ去っていることからも誤りであることは指摘できます。マルクスの著作「資本論」が、資本主義社会の構造とそこに生きる人間の運命については体系的に解明した最初の科学的著作であり、今もその意義は重要な業績であるにしても、人間精神の倫理観や精神論及び霊魂の無視により、社会主義運動や共産主義運動のなかでは、永らく無謬性の神話をたもって来たにしても、人間に関することが全てが「資本論」に著されているかの如くに扱われ。共産主義者、マルクス主義者を自称するものに、「資本論」を通してしか、人間や歴史を見ないという倒錯を与えたのは現代の「物質主義」更には、富と地位、権力を手中にすれば凡そ汎ゆること、愛情さえ手中可能だとする風潮、「物神論」を誘引したことは人間の精神を殺す作用を持つということをマルクスの本意ではないにしても、其の影響力には現代でも注意が肝要です。人間の根源にある精神生命「理性」が、フオイエルパッハの要請、現実の人間と自然こそが一切の根源であり、思想、哲学は常にここにもどり、またそこから出発しなければならぬという要請が如何にも困難な課題であるということを示しています。哲学が現在生活に束縛され物欲の欲求に迎合する傾向があれば、精神の安らぎを求め活きる人間は信仰へと走るのも当然の成り行きでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ28(五百十五) 経済的人間生活からの実質実働の幸福論を説くマルクスの資本主義社会に生活する人間の運命を克明に描きだす「資本論」は人間生活の実勢改革論は人生の移行を描き出して「運命」を変えることの可能性を、経済学の観点により導き出し、観念哲学や経験哲学を投げ捨て。共産主義を唱えます。マルクスのフォイエルバッハへの批判が此の点にあるにしても、当時の社会状況からはやむを得ない事でもあるし、亦、現に一定の成果を見せたことは疑う余地のない事実でしょう。然し乍ら、マルクスのフォイエルバッハへの批判が言うように、非歴史的、非社会的な観念的性格が付き纏っていたことには肯んずるも、或る種、人間の精神思考及び内省をフォイエルバッハが大海の藻屑にしなかったことに安堵します。人間学を自然科学にしか結びつけなかったフォイエルバッハ、対して、人間の歴史性、社会性を明らかにし現実論を標榜したマルクスは当時の社会制度にあっては理想的思考には見えたであろうが、新たなる支配層を呼び込んだことは史実が示します。マルクス主観はあくまで人間の現世精神の幸福追求が支柱をなしており、20世紀以降には其の思考は資本主義社会にも及び、精神内世界おいて「母の愛」も価値的対象として対価付けられ手に入るとした資本主義体制のもとで被支配階級に属しながら、資本家階級の生活態度から抜け切らない社会階層のプチブル(小市民)並びに一定の成功を収める成金主義者に「愛の額面」を提供することになります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ27(五百十四) フォイエルバッハの批判対象は、殆んどが哲学上の批判に終始し、亦、其のことを自己の思考の本分と心得て活動しますが、此の思考態度自体を手ぬるいとした思想家マルクスが登場し、彼の哲学批判が現実的国家や社会の矛盾の変革に結びいていない軟弱思考だと決め付けます。更に、マルクスは現実的な国家や社会の矛盾の変革に結びつかねばならないとする立場から、キリスト教というものの宗教批判をも、倒錯した自己意識の成立する根拠である現実生活の矛盾と悲惨の批判にまで高めていく根本批判がないことを指摘します。此処には学者としての思考家フォイエルバッハと社会体制主義者で其の人間の社会生活の変革を説く立場の違いが表面化しています。人間内面の精神を追求するヘーゲル哲学の基底を受け継ぐフォイエルバッハを、経済的人間生活からの実質実働の幸福論を説くマルクスとは立ち位置が「水と油」です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ26(五百十三) フォイエルバッハは人間に主体を置いた主義を足掛りに、へ―ゲル弁証法の転倒を主張して、史的展開の主体はへーゲルの頭の中にある「絶対精神」ではなく、「市民社会」にあるとしますが、一面では現存主義・現実主義であり人間精神を蔑ろにする概念であり、市民生活の向上や社会生活其のものの改変には役立つものの、人間が各自抱く自我の心底に眠る「霊魂」の救済には益なるものはなく、社会改革の信奉者には受け入れられる思想となります。其処に俎上にあがるのがプロレタリアートの世界を信望する科学的社会主義即ちマルクス主義を掲げたエンゲルスとマルクスの唯物主義です。其処には最早、人間精神をを神秘的に捉える思考は抹消され人間学、フォイエルバッハのいう「理性」や「愛」や「意志」さえも現実的には、「社会的諸関係の総和」であるとし、人間は生命史として精神の奥底に潜む霊魂観の束縛から解放され、歴史的、社会的に現存在を基底とらえられねばならないとします。マルクス主義は哲学が立つ位置を精神の柵から解き放ち、精神の奥底に潜む霊魂には人間の根拠はなく史的経過の結果としての矛盾が露呈しており、哲学其のものを攻撃対象とします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ25(五百十二) へーゲル哲学の思考経緯は弁証法の大家としては当然なのですが、哲学の展開を全て概念の内在的矛盾、真と偽・正と否の対立を自己展開して概念が概念を産出することによって真相へと展開します。謂わば概念の阿弥陀籤ですが、人間を中心に思考体系の完成を目指すフォイエルバッハにとっては、市民社会や国家というものさえ、理念によって創造されるとした観念に閉塞観を見い出します。へーゲル哲学の、理念と現実・理念と自然・理念と人間の転倒した関係を「存在」其のものを捉え切っているとはいえず、其の思考概念が存在全般を捕らえていないと批判します。へーゲルの「理念」や「精神」というものも、所詮は言葉にすぎず、へーゲルの思考のなかにある概念に過ぎない。人間の思考は決して存在を超える訳にはいかないからだとします。其れ故に、へーゲルの世界の存在に隠された絶対観念なるものは想像し得ない。思想・哲学の基礎は、現実の人間と自然にあるのであって、たえずそこに還らねばならないとし、観念論の隠された世界というよりは未知の潜在世界或いは外在世界の意思たるものを否定します。フォイエルバッハは汎ゆる思想であれ、学問も、更には宗教も含めて自然的存在としての人間の自己認識であり、自己確認の場に過ぎない。其れ故に、思想や哲学そして宗教が一度語られ、体系化されると、確実にと言って良いほどそれを創りだした人間の精神を束縛し「人間にとって最も大事なものは、日々生活している現実であることを忘れさせるという副作用を伴うことを指摘します。フォイエルバッハは人間現実世界の視考から世界を見る目を磨き、所謂、宗教・哲学観念に惑わされるな、現実を見る眼を制限し損なうなと問います。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ24(五百十一) フォイエルバッハの宗教、とりわけ、キリスト教の批判は何処から導き出されるのか。彼は著書「思想・哲学の批判」で言う。「人間にとっての最高の価値は人間にあり、現実に生活している人間こそが大切であって、現実の人間から離れて、人間とは別なものに究極の価値を頂くような宗教は、どんなに巧みに説かれようとも駄目だということである。人間にとって最も尊いものは現実の人間であるということを明言しない宗教、或いは、其の価値の根拠を曖昧にする宗教は駄目なんだということである」と。更にはフォイエルバッハは其の立ち位置から思想や哲学までに批判を波及させます。彼の批判が哲学の兄弟(けいてい」たるへーゲルの思弁哲学にもむけられていたことは衆知の事実です。其の中心となる論点が、旧教を継承するキリスト教の「神」が世界を創造した如く、へーゲルの言うカントの哲学は主観に依存する点において主観的観念論であるとし,更には、フィヒテの哲学的観念論及びシェリングの哲学を客観的観念論として「絶対理念」の自己展開があらゆるものを創造するとする、所謂、ドイツ観念論哲学の完成体系にたいする批判です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ23(五百十) キリスト教の神を観想したフォイエルバッハは、人間は人間と、人間と自然とは其の基底が分離されて、信仰と理性・信仰と徳・信仰と愛の相互間に対立が生じる。更には其のこと故に、人間の幸福も希望も現世地上の生活にはなくなり、天上の生活である来世に託されます。現実の生成する歴史のなかにはもはや神の恩恵はなく、歴史の終末の彼方に投げ出されてしまうと述べます。此のことは宗教が人間の自己発見ではなくて、人間の眼を人間と自然環境である現実から引き剥がし、空想のなかに萎縮したまま放置することになるとします。フォイエルバッハのキリスト教批判の本意は、先ず以て、キリスト教における「神」と人間の関係の逆転の発想である倒錯思考、神が人間自身の存在であることを本元として認めようということです。神学が人間学を根拠に推し進める必要がある、人間の精神の真底を定義することが神学の真の本質だというのです。此の思考経過を踏まえた上で、人間の根源的存在の根拠から神の存在の真偽の定義にまで思考を高めたのが汎神論者スピノザです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ22(五百九) フォイエルバッハはキリスト教批判を通して、「人間学」を「神は人間を愛す」という宗教的命題をば、「人間を愛することは神的なことである」と言う如くに「神」への信仰を人間の信仰へと逆転の発想で解釈せねばならないとします。フォイエルバッハがキリスト教的有神論を全面否定するのではなく、現実の血と肉を持った自然的な存在としての人間をそのまま最も価値あるものとして視点を逆転させているだけで、所謂、無神論者の虚無主義とは意味を異にします。視点を換えるということは、主語と述語の交換とも云えます。フォイエルバッハが視るキリスト教の教義は「本質」を取り違え、キリスト教観念からは人間精神の高度で深遠に成長した「モノ」が神を創ったのものであり、其れ故に神の本質を問えば人間の本質性が現れる。其れにもかかわらず、キリスト教的信仰の内部では「神」と人間との倒錯が現われる。然るに、其れは神を人間とは別次元の存在、人間の「霊魂」とは異質だと捉えるところに起因している。フォイエルバッハの思考が人間存在の持つ本元性の「霊魂」の声、ナザレのイエスが聞いた「聖なる声」の本分を取り違えていると云わざるを得ないことに起因すると解釈します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ21(五百八) フォイエルバッハが説く世界内人間は、全く以って、神に起因し、其の精神の被造物は当然に神の本質を受け継ぐ、或いは其の延長に類するにも関わらず、キリスト教的信仰の内部では「神」と人間との関係を倒錯、人間を神とは他者の姿として捉えられています。其処からの帰結は「神」によって人間と人間、人間と自然は分離され、信仰と理性、信仰と徳、信仰と愛は対立、将又、人間の幸福も希望も現実の地上の生活にはなく、天上の生活に、現世ではなく来世に、そして現実の生成する歴史のなかにではなく、歴史の終末の彼方に投げ出されてしまうことになり現世の生活は貶められます。此のことから導かれるのは、宗教は自己発見ではなく人間の眼を人間と自然、つまり現実からひき離し、空想のなかに萎縮したまま放置することになるとフォイエルバッハは訴えます。フォイエルバッハのキリスト教批判の主旨は 先ず第一には、其れがキリスト教における「神」と人間の関係を転倒しなげればならないと言うことに起因していること。人間にとっての神は人間自身であることを其の儘受け止めることです。神学の基礎概念たるものは、真の本質にすなわち人間学に解消せねばならぬということでしょう。このことは決して神学を卑しめることではなく、人間学を神学にまで高めることでもあると述べます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ20(五百七) キリスト教のみならず、同一のエホバを抱く(いだく)イスラム教であれ、ユダヤ教であれ、更には、世界3大宗教の一に数えられる仏教も、其々が表象する愛の対象は人間どころか其の抱く(いだく)ところの被造物全般に及んでいた筈が、信教色を纏い宗教としての教義を構成させると、 「愛」がもともとは自然としての人間に備わった類的能力であり、他から与えられなくとも、人間を内部からつき動かすものであり、人間の共同性の表現である生物学的な人間精神史を塗り替え、愛を説いたキリスト教、イスラム教・ユダヤ教、更には仏教が宗教面から人間に受けいれられ覆されます。愛を頂点としつつも信教は人間を神を世界存在の別の存在者とする限り、其々の信仰が抱く(いだく)神仏の愛は人間相互間に世祖の思惑とは異なり、人間と人間の間に史的に幾度もの分裂を齎し、人間から生身の生得の愛、人間に対する直接的な愛、無条件の愛を奪い、愛を信仰のなかに解消するのであるとフォイエルバッハは信教の教義を解釈しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ19(五百六) フォイエルバッハの思考はキリスト教義の「愛の概念」を教義信仰に依ることには異論を述べます。実世界の人間よりは遥かな偉大な次元存在を人間関係相互の愛に持ち込み介在させることは、人間相互間の生得の愛概念を根拠をもたぬものとして否定しざるを得ない。自分である私が他者を愛するのは、神が人間を愛されたからであり、神が人間を創造したからである。キリスト信教に従うものは其の信仰の「神」に愛の根拠を持ち、血と肉を持った人間には基づかない。其のこと故に、たとえ肉親であろうとも異端者には神の愛が下されない以上、愛は注がれない。キリスト者にとっては、神が全くもっての価値あるすべてであり、最も愛を向ける対照の鏡面である。対して、人間や自然物は神を創造者とする限り、愛に関しては神なしに考えられない以上、全くの無、故なきところに花は咲かないし、果実は実らないと考察します。単に「愛」がキリスト教の道徳観念としての範囲に収まっていれば、争論段階で済むが宗教の衣を纏えば異端に対しては苛酷性を帯びる。「愛の宗教」「人間救済の仏法」にしても、宗教色を帯びた時には他者を切り裂く両刃(もろは)の剣としての性状を持つことは歴史が示しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ18(五百五) フォイエルバッハのキリスト教的概念への不安は、キリスト教の説く愛は単にキリスト教の道徳に過ぎない。しかし其れがキリスト教の根本教義であり、将又、宗教のなかでも秀でた教義を「名さしめる」骨格であらしめる根本教義です。キリスト教的概念に盛り込まれた超越者は神への信仰に根ざした信頼関係で結ばれており、イエスのとなえる父なる神、超越者に対する信仰のなかの愛は、異教徒及び信仰をもたぬものに対しては如何様にも苛酷になれる、哲学全般から睥睨すれば特殊な制限された愛であると云わざるを得ないことへの不安でしょう。フォイエルバッハの「愛」の推敲は、世界理念からして、愛とは元来世界内存在としての人間にそなわった類(たぐい)的能力であり、他の力を要せずとも人間を内部から突き動かす要素であり、人間が類(たぐい)として共有する共同性を示します。其のこと故に、「愛」を尊上とするナザレのイエスの声が人間の心に響くのです。然し乍ら、人間とは別の存在を想定した神への愛の強制は、自然的短音階の愛の世界に濁音階を持込んだとして地球に生きる現生人類、旧人類(ダビデの倒したゴリアテは残存の旧人ネアンデルタール人の可能性もあり)を除いた人間族(ホモ・サピエンス)の自然愛から無条件の愛を奪い愛を信仰のなかに昇華させていると批判しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ17(五百四) 信教徒に対して無神論者の口に、屡々、昇るところの人間的徳性の否定と道徳的欠如は、いづれの指摘もキリスト教の道徳観念のコインの表裏であり、無神論者の口にするのは其の裏がえしに過ぎず、信教であれ無神論であれ、双方ともに人間自身に内在する徳性の否定に結びついていることは重要課題となり得ます。フォイエルバッハは、更に、キリスト教義おける信仰と人間の矛盾点として最大のものが「信仰と愛」、キリスト教義に於ける「愛の概念」は、現実在の人間相互間の「愛」とは異相の「愛」を持ち込みます。 現実世界の人間相互間に、生ある人間とは異相或いは次元が異なる無限の介入者、人間の人間に対する愛は決して其のなかに発芽としては與えるものの根拠をもたぬ愛です。ナザレのイエスは言います。私が人間を愛するのは、「神」が人間を愛されたからであり、「神」が人間を造りたもうたからである。キリスト教観念論からは「愛」は神のなかに根拠を持ち、血と肉を持った存在に過ぎない人間には基づかないことをことを宣言します。キリスト教的概念では、信仰のなかの人間にとっては「神」が全てであり、最も価値があり、最も愛すべきものである。対して、信仰の渕に立つ人間や自然はそれ自身としては全くの無であるとしています。「愛」はキリスト教の教義ではなく、信教そのものを成り立たたせている根本其のものなのだとも云えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ16(五百三) フォイエルバッハはキリスト教的宗教意識の倒錯性の第二に掲げるのは、キリスト教義の信仰と道徳の相対的な矛盾点です。キリスト教義では、人間とは別な次元が異なる第三者的存在としての「神」に対する信仰が人間の第一義的な関心事となり、其のことにより、人間にとっての最高の義務となるところに位置付けられるのは、教義上では神への奉仕が第一義であり、各個人間における人間の現実の人間に対する義務、個人対全体社会はどうでも良い価値の無いものになってしまう。其のことからくる道徳性を価値付ける徳は、信仰の中で語られることはあっても、「徳」は「徳其のもの」にあるのではなく、「神」其の由縁ものとして基礎づけられる。言い換えれば、「善と悪」「徳と悪徳」等の区別け(分け)は専ら神の存在の実相に関わっており、「徳」の真実在はギリシア哲学の三哲人が説くような人間霊魂の実相に在るわけではなく、「善と悪」「徳と悪徳」さえも人間の理性の深奥で捉える自己の霊魂の声ではなく、其の思考を辿ったならば人間精神の外在する「徳」、フォイエルバッハは人間の理性の霊魂が捉える徳とは人間の内性に在るのではなく、徳が「外在」する以上は神に属します。信仰は神に人間自身の心底に徳ある霊魂が存在しない以上、徳を委ねたものであり、自己の霊魂も神に由来する以上、其の取捨剥奪の権利も当然に神が握ります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ15(五百二) フォイエルバッハは、キリスト教義に「神」のなかには「凡そあらゆる財宝と貴重品との総体をもち、人間が推敲する、知る値打ちで考える限り汎ゆる物の総体を持っている」とするのを、其の「神」が、何の訳あって神には価値もない、自然や人間そのものに興味を持ったり学んだりすることがあり得ようか。あり得るはずがないと断定します。然し乍ら、キリスト教義の人格性を付与された「神格」ならば、我々人間が屡々経験する何度試みても興味が尽きない物理化学の実験のように注目視することは矛盾するとも言えない面を忘れています。彼の著書「キリスト教の本質」のもう一つの主題がキリスト教義への痛烈な批判精神が基底にある以上、結論は目に見えています。フォイエルバッハの思考する「神」が現実には存在するというこの実存性を問えきれないなにものか。将又、実存性を問うても何の答を期待し得ない「人間の知」では履かれない「有と無」をも総括するもの、大乗の祖「龍樹」の「空論」を彼が理解し得てたら、キリスト教義をまた違った視点から批判していたでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ14(五百一) フォイエルバッハはキリスト教的宗教意識の倒錯性の第一は、信仰と祖の人間の理性との相関に矛盾をもたらすと述べます。人間の外部に「神」の実存を説くこと自体が矛盾の要(かなめ)です。「神」が現に存在すると言うことと、同時に、特例の預言者や「神の子」意外に「神」は人間には捉えきれない人間精神の感性を超越した不可触の存在だとも言います。フォイエルバッハの思考は現実に存在するものは感性的な存在である時はじめて現実に存在するといえるのであり、人間の眼にも見えないし聞かれもしない超感性的存在にして、しかも、現実には存在するというこの「神」の実存という教義は、既に人間の理性との和解しがたい矛盾を孕んでいるからと受け付けません。然し乍ら、大乗の祖「龍樹」の世祖釈尊のへの理解からすると「神」は存するものの限りあるものであり、其れをも穿つ超絶然とした「モノ」、存在を問えない「ナニモノか」を大乗の教義に取り込んでいます。フォイエルバッハの矛盾点を仏教哲学が解答を与えているのにも興味津々なものがあります。更に、フォイエルバッハは、キリスト教的信仰の内では、人間は「神」のなかに「あらゆる財宝と貴重品との総体を含有し、知る値打ちで考える限りの汎ゆる物の総体を持っていると言う。この時にどうして、何の価値もない自然や人間そのものに興味を持ったり学んだり出来ようか。」と目的知への矛盾を指摘しますが、人間精神、なかでも深奥に眠る人間理性の根底が「神」に感応する「直角霊知」であれば一切の矛盾は解消されます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ13(五百) 「神」への信仰と人間的な理性との矛盾、信仰と徳の矛盾、信仰と愛との矛盾が問題になるのは、宗教一般が「神の認識」に関しては、神の意識を自己認識として位置付ける際には、自己の思念が神を意識し、其れが自己の深層に眠る本質であることを理解していなければならない。此のことの意識が欠如した信仰は、他者の神は「偽神」に捕らわれており、我が信心する神こそが「絶対義」であり、他は排撃すべきと映り、宗教特有の排撃戦争が起動します。此のことの素因は、宗教が「神」を人間とは別な他の存在者として思いうかべている所に由来しています。「神」を自己の外に配置するだけではなく、自分自身が人間として持っている最も尊いものを全て「神」の所有となし、自分は全く卑しい虚無的な存在である故に謙虚に其の神には仕え命令、即ち「教義」を旗印に、自分自身の本質の本質としての自分とは関係せず、同軸系統の「神」でも在るに関わらず、解釈並びに神相の異想によって間違った道を行く者は人間を悪しき道に導くとして、自らの生命を賭して戦い、其れが神への愛への殉教だとしています。ここに「宗教の非真実性・宗教の制限・理性や道徳との宗教の矛盾が横たわって」いるとフォイエルバッハは著書 「信仰と人間の矛盾」で述べます。 cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ12(四百九十九) キリスト教義における宗教の根底に対してフォイエルバッハは、キリストの受難、世界創造、三位一体を要として検討し、「神」とは人間のことに他ならないこと、そして、「神」の認識は人間の自己認識に他ならないことを、キリスト教は「神」という表象のなかで間接的にではあるが、人間にとって最も価値があり、最も尊いものは人間自身であることを、言いかえれば人間こそが人間の神であるということを表白しているに過ぎないとします。フォイエルバッハは、キリスト教の人間的意味について論じ、転じて、キリスト教の非人間的側面の批判にに移行し、キリスト教における人間の自己肯定が専ら「神」という表象に媒介された間接的なものである点を解明しようとします。。即ち、キリスト教において人間の自己肯定は現実においては実現せず、「神」という「存在」、人間が創り上げた表象によって逆に人間自身の内面の分裂と人間と人間の分裂と対立を促進させる。別面から捉えれば、「神」への信仰と人間的な理性との矛盾、信仰と徳の矛盾、信仰と愛との矛盾でだとしています。この痛烈な批判が、著書「キリスト教の本質」のもう一つの主題です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ11(四百九十八) フォイエルバッハは「神の愛」という教え程、明快に宗教の目的、対象が人間自身であるということを明白に指し示しているものはないと断言します。其の素因は、キリスト教の極めて重要な「神の愛」の対象を、誘惑的偽善を用いてアダムとエバを楽園追放の因を為した「蛇に変怪させられた天使」を除いて、ゴキブリのみならず他の何ものでもない人間自身をも教義に明確化していることに顕れています。キリスト教における「神」の定義から類推すれば、人間の本質とは、結局のところ自己自身との相互関係に基底を置いて、自身を最も神的な目的として直観しています。キリスト教義における宗教の根底は、根本的に人間自身の神であり、神は旧約・新約を問わず、キリスト教においては、人間に対する神の愛が赤裸裸に表明されているからです。詰まるところ、キリスト教に於ける「神」は類(たぐい)としての人間が、神存在の思考に関しては自己自身に関係していると捉え、自身を最も神的な対象目的として直観しているからであり、一般に善意宗教或いは報償論の教義に盛り込まれた要である「人間に対する神の愛」だと推論すると解釈するのが妥当でしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ10(四百九十七) 信教的教義は理性的で完全な「神」、道徳的に誤ることのない「神」という、冷厳そのものの「神」には、人間の耐性其のものが自己浄化への負担に耐え切れず崩壊する。それ故に、人間の理性の深層に眠る霊的存在が「神」の人間に対する「アガペー」を求めます。そう思考することによって初めて「神」は人間の「神」となるのです。勿論、「神の人間に対する愛」は「人間の人間に対する愛」以外のものであること以外は、出来得えようが無い、亦、有り得ないとフォイエルバッハは言う。人間が、人間の人間に対する愛以外のどんな「愛」を想像出来得ようか。現実の生身の人間の愛、親の我が子に対する、或いは、恋人達の愛等々、血肉を持った愛以外のどのような愛も人間は考えることが出来得ない。其のことの思考経過から導き出されるのは「神」の愛は人間の愛である。そして「神」の愛が人間の愛であるならば、「神」存在が人間であることは明白ではないか。とキリスト教義に問い掛けています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年08月02日
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