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2013.11.18
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カテゴリ: 名歌と遊ぶ
20131118

こころよく

我にはたらく

仕事あれ

それを仕遂げて

死なむと思ふ


       石川啄木


せつないなぁ・・

久しぶりに啄木を紐解いた。若い頃に求めた一冊である。かつては空で読めるほど、啄木には親しんだはずなのに、とんとご無沙汰であった。
その背表紙は、書架の目の届くところにあるのだが、手にする機会が激減したというわけだ。

本を開き、若い頃に好きだった歌を拾った。
三つ四つと進め、そして私は本を閉じたのだ。

せつない、そしてやりきれない。
読むに耐えられないのだ。もちろん文学的評価でなく、啄木の鬱積したエネルギーへの私の感情の問題である。
青春の頃はそれこそに共感を覚え、何度も口ずさんだ啄木である。


だが今や私は啄木の倍以上を生きる年齢にある。

啄木の懊悩に比例し、その鬱積したエネルギーは混濁の度を深め、内へ内へと堆積されていった。
堆積物が限界点に達したとき、石川啄木の生も限界に達したのかもしれない。
青春のとき、それは「劇的な生涯」に映り、当時流行った自主映画の一篇を見ているようであった。

そしてまた、堆積物の限界点は啄木文学の限界なのだ。
中年に至り、それが劇的な生涯でもなく映画の一篇でもないことがわかってしまった。そして啄木文学の限界も見えた。

全うに生きてくれば人は皆、角は削がれる。
だから多少は意に反したことでも「そういうものだ」と理解できるくらいに大人になるのだ。
或いは口角泡を飛ばす輩に対しては「そんなもんじゃないよ」と言って聞かせるほどの余裕は出てくる。
何より、すべてを社会や他人のせいにしないだけの人間としての節度と成熟は見られるわけなのだ。

だから、今となっては啄木の歌はせつな過ぎてやりきれないのである。


秋の日に、若くして逝った啄木の限界を思ったことである。南無阿弥陀仏、合掌。

20130124aisatsu





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最終更新日  2013.11.18 05:30:34
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