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昨日は、織物時代にお世話になった伊藤忠OB社員らと大阪ミナミの心斎橋で食事会でした。伊藤忠・綿スフ部OBと取引先の織物会社の飲み会です・・・銘打って「第1回呑んダべ友の会」です。発起人は、元部長Kさんです。元々伊藤忠と弊社の関係は、私が生まれる以前の織物創業時代の昭和20年代に遡ります。今年3月期の決算で総合商社で三菱商事を抜いて純利益トップに躍り出る、日の出の勢いのある連結売上13兆もある日本を代表する世界の伊藤忠ですが、元々江戸末期に「糸商」から出発し、明治時代から糸や織物で大阪南部(泉州)の繊維産地(織物、紡績、毛布、タオル、ニット)と深く拘わってきました。弊社にとってキーパーソンに当たるのが、Kさんの上司に当たるS元本部長でした。1970年の私の実家新築の上棟式に駆けつけつけてくれたというのですから、相当古い付き合いです・・・そんなSさんが入社してから糸の販売だけでなく織物産地ともっと関係強化の為に、昭和40年代に「産地織物課」を作って、伊藤忠の売上に大いに貢献したのです。元々弊社は他の同業者と同じように「糸買い布売り」の売買スタイルだったようですが、これを機にリスクの少ない「委託加工(賃織り)」に徐々に変わっていったようです。また織物も終戦から昭和40年代の高度成長期にかけて、泉州の同業者の機屋が簡単な「平織」が多い中にあって、当時チョッと難しくあまり手掛けていなかった和布団向けの「サテン(朱子)」を早くから織り始めたり、西ドイツ向けの輸出用の幅広50ポリエステルローンを織るために、他社に殆んど無かった75インチ幅広織機を導入したといった話をSさんから聞くと、親父も先見の明があり研究熱心だったんだなァ・・・とつくづく思います。確かに、食事の際にそんな話を親父から自慢話として聞いた事がありました・・・子供の頃って、一番怖いのは父親なので、はやりイイ悪いは別にして、親父の言う事はよく聞いているんですねェ・・・小学生や中学生の頃に、親父に連れられ、親しい同業者の織物工場へよく行きました。当然、何の関心もない私でしたが、工場の機械の音や油や風綿の臭い、大人同士の会話ややり取りの中に、無意識ながら「うちは、これで生計を立てて(メシを食って)いるんだなァ・・・」と子ども心に思ったものです。これが親がサラリーマンだと親の仕事が全く見えず、「何故?ここで住んで、何で?飯を食べれるのか?」という素朴な疑問も湧くはずもないでしょう・・・睡眠薬を飲んで昼に寝て深夜に工場で働いている両親を見て、「お金は身を削って稼ぐものだ・・・」と早々と経済観念を植え付けられたのがヨカッタのかも・・・まァしかし、本当にお世話になったのは、私がサラリーマンを辞めて家業に戻ってきた昭和60年からで、その後の工場新設で同じ従業員数で生産量がいきなり4倍になっても、100%賃織りスタイルを維持してくれました。そして織機更新の機種(エアージェット織機)選定でも、当時伊藤忠機械部隊が代理店をしていた日本でシェア90%のA社製ではなく、ライバル関係にあるシェア10%しかなかったB社製のエアージェットを弊社が導入してもその姿勢は変わりませんでした。これにはホント、いくら感謝しても感謝しすぎることはありませんでした・・・伊藤忠と取引のある同業他社の多くはA社製を導入していましたので、100%賃織りの弊社だけがB社製を選んだというのを不思議がっていただろうと思います・・・弊社の織物製造の基本である「品質第一」という理由で「バックローラーが2本で綾枕というクレームが出にくい」と見抜いたB社製を選んでも、何も商売に影響はなかったのはSさん懐の深さのお蔭でした・・・(涙)。同じ会社でも、織物は織物、機械は機械だ・・・と。実は弊社もA社製の契約寸前までだったのですが、最後の最後まで織機理論から考えて「バックローラー1本は品質に問題あり」と睨んでいたのです・・・その証拠に、機械展(OTEMAS)でA社製のブースに行くと、綾織で綾枕(クレーム)の出やすい太番手ジーンズを織るエアージェットだけは「バックローラー2本」だったのです。メーカーも隠していたかどうかは知りませんが、見えにくいポジションで、「後ろ(バックローラー)を見せてください」というと断られました。それで、ピーンと来たのです・・・世の中多くの場合、真実は隠されているものです・・・本当の名門や金持ちは質素にして貧乏を装い、借金だらけの人間や成金は金持ちや名門を装い見栄や虚勢を張る・・・料理に隠し味があり、空手の「形」を分解すると、その中に隠し技があるのですから・・・そのギリギリのところを見抜くか否か、見抜かれるか否か・・・その辺が、厳しいビジネスの勝負の分かれ目です。異業種交流会やセミナーに参加しても得る事は少なく、代理店やフランチャイズも本部だけが儲かるのもそういう意味です。男と女の出会いにしても、私のように長い恋愛期間を経て結婚した場合はリスクがまだ少ないですが、若くしてデキちゃった婚や見合いで慌てて結婚した場合はリスクが高いというのも、そうかもしれません・・・まァ、普通に考えれば当たり前の事ですが、一番知恵を絞って「考えた」ところしか儲からないのです。だから、不動産屋でも10年で80%倒産廃業、一般でも起業すると95%が10年以内に倒産廃業すると言われますが・・・普通に考えればごく当たり前の事ですが、「普通の人が普通の事をすれば必ず失敗する」というのが厳しい現実だと思います。まァ、そんな理由でB社製のエアージェット織機を選び、今回もあの時の感謝を伝えました・・・親父も天国で喜んでいると・・・(涙)。100%賃織りという事は、営業が不要で、織物生産に専念できるというメリットがありました。私もこのエアージェット織機(新型機械)導入時期は人生で最もよく働いた時期で、最初の2年間は男子従業員も雇わず現場の主要な仕事を1人で全てこなし、朝5時から夜10時まで土日関係なく働き通しでした・・・(涙)。しかし残念がら織物業の最後の10年間は、時代の趨勢と伊藤忠の更なるグローバル化で、100%委託加工の維持も難しくなり、弊社も生き残りの為に専門商社や産元へ取引先を変更せざるを得なくなりました。工場稼働を100%キープする為に、サラリーマン時代の営業経験を思い出して新規開拓に必死になり、初めて世間の現実の壁(厳しい風)に当たっていた時に思ったのが、「如何に賃織りで守られていたか・・・」という事です。1回の発注量の少なさ、品質の厳しさ、多品種小ロット、支払い条件、織物の難易度・・・全てにおいて、これまで如何に「甘かった」かを思い知らされたのです・・・試行錯誤で悪戦苦闘しながらノウハウを体得するまで2,3年は工場現場が多忙と煩雑さでひっくり返り、糸と織物を管理する事務処理(受け渡し)も複雑すぎてパソコンを導入せざるを得ませんでした。しかし、従業員を増やすことなくキチンと対応できるようになると、大きな自信に繋がりました。と言うか、それまで私は昼食に近くの自宅に帰っていたのですが、1分でも時間が惜しいので、それをやめて弁当持参で工場に張り付くようになったのですが・・・そりゃ、従業員の2倍の1日15時間も休みなしに働き心身ともに疲れ切っていたので、自宅で昼食をとりユックリ昼寝でもしたいところです。社長がそこまで「覚悟」を決めたら、従業員も襟を正すしかないでしょう・・・(笑)。大事なのは、「ここが正念場だ!踏ん張るぞ!」という経営者の実際の行動で示す「覚悟」です。「みんな、頑張ってくれ!」と、口先だけなら誰でも言えます・・・大企業なら通用するかもしれませんが、零細企業はそうは問屋が卸しません。経営者の言動が伴って初めて従業員は動かされるものです・・・24時間稼働でしたから、深夜の従業員の管理が一番難しいところで、夜中に機械が故障したりタイイング(経糸繋ぎ)する必要があれば、深夜の1時2時でも工場に「出没」していましたから、従業員もさぞかし私の「覚悟」を悟って驚いていたでしょう・・・(笑)。家庭で子供が父親を見るように、会社では従業員が社長を見ています。それが今、トランクルームや不動産、これからスタジオ経営ですが、これもすべて独りでヤッテいけるベースになっていたのです。織物時代の苦労がなければ、せいぜいトランクルームだけで終わっていたでしょう・・・今から思えば「100%委託加工」というのは、「すべて面倒を見る」という事ですから、相当なプレッシャーだったろうと思うのですが、当時はそんな契約書もなく単なる口だけの話でした。今から考えると信じられませんが、糸を弊社に出荷するのも電話だけで、発注書も何もありませんでした。月産20万mも織って(生産)いましたので、相当な糸量です。そこにあるのは、互いの「信用」だけです。そこには単なる取引ではなく、公私含めた取引以上のものであったのは言うまでもありませんでした・・・昔の繊維ビジネスは、信用だけでそこまで出来たのです。子供の頃から親父から「信用第一や・・・」とよく言われていたのは、そういう事だったのです。厳密に言えば普通の織物取引と違い、昔の委託加工(賃織り)形態の商売は今の情報的機械的な与信管理ではなく経営者の人柄を見るという意味で、今は少なくなった浪花節的ビジネスだったのです・・・単に、売って買っただけではなかったのです・・・そこには長い歴史があり、今では忘れかけてきた義理人情といった浪花節があったのです・・・だからこそ、4,50年経っても、今回のような飲み会をやろうと言っても、大勢参加するのです・・・(涙)。また20数年前に、綿スフ部の若手男女社員ら20人くらいで日本海に旅行に行った際、私も誘われてウインドサーフィンを車に積んで行った思い出も蘇えりました・・・殆んど忘れかけていた思い出が蘇えったのです・・・不思議ですねェ・・・人間の記憶って・・・毎日、新しい事を追いかけるのもイイですが、たまに旧友と会って思い出話に花を咲かせるのも頭の活性化にイイのか・・・(笑)。という事で、久しぶりに酔っぱらってしまいました。ホントにお世話になったSさんとKさんだけでなく、みんなに会えて・・・(涙)。そして、SさんやKさんが立派な上司だったからこそ、その部下で「産地織物課」の弊社の歴代担当だった営業マンがその後、伊藤忠ファッションシステムやエドウインの社長になったのだろうと思います・・・やっぱり振り返ってみると、私の人生の中で織物時代が一番長く思い入れがあったからです・・・物心ついたころから、織物工場で遊び、女子寮や隣接する祖父母の家で女子工員さんや叔母さん達にとても可愛がられましたから・・・織物商売現役の頃は、毎週金曜日に行くとよく飲みに行ったものです・・・私についたあだ名が「ミスターフライデー」・・・本町界隈では、チョッと有名でした・・・(笑)。正に織物時代の経験なくして、私の人生は語れません・・・という事で、この会もこれから半年に1回するようで、また楽しみも一つ増えました・・・(笑)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.03.27
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先日大阪ミナミで、いつもの貝塚市立木島小学校5,6年時のクラス会(藤田会)でした。今回はクラス会というより、食事会と言った方がイイかも・・・年1回のクラス会は今年も地元貝塚で11月にありますが、今回は大阪市在住のクラスメートの計らいで、ミナミで集まる事になったのです。初の「遠征」です・・・(笑)。クラスメートには、もちろん地元泉州だけでなく、大阪市内や遠い人で明石から駆けつけてくれた人もいますので、ミナミで会をするというも当然と言えば当然ですが・・・集合場所の難波タカシマヤ前では、既にワイワイガヤガヤと泉州弁炸裂の小学生モードです・・・(笑)。同じ大阪弁でも、大阪市内弁と泉州弁はチョッと違うのです・・・平たく言えば、大阪でも南へ行けば行く程、和歌山弁に近くなるのです。大阪市内弁と和歌山弁との中間が、泉州弁だったのです。定住型の農耕民族である我々日本人は、歴史的に見ても地政学的に見ても当たり前と言えば当たり前の事ですが・・・そして、ちょっとシャレた今流行の「バル」レストランを昼から貸し切って、飲んで食べてワイワイあっと言う間に3時間過ぎてしまいました・・・小学校5,6年だけ一緒と言っても、1学年3クラスしかなく、お互い屋号や下の名前で呼び合うほど同じ苗字が多く3,4代辿れば殆ど親戚のような田舎で、多くが「木島保育所」出身、そして殆ど貝塚三中に進学しましたので、10年間一緒に学んだ計算になります。この絆は相当濃いと思います・・・しかしもう60歳になると、女子が大胆不敵になり、男子が大人しくなり、ちょうど思春期前半の小学校5,6年といったところでしょうか・・・(笑)。人生・・・45歳くらいがピークで、60歳でチョッと芽生えかけた小学5,6年に戻り、80歳で殆ど男女差がない赤ちゃんに戻るという事か・・・(笑)。まァ、10数人だけなので、みんなと喋れます・・・これがクラス会のイイとこですねェ・・・高校のクラス会も同じような人数なので、イイ感じです。これが学年同窓会となると、こうはいきません・・・人数が多すぎて、誰が誰だか分らないうちに、知らぬ間にまとまりもなく終わってしまう感じです。人数が多い分幹事さんも大変で、会の後味もイマイチで、続くはずもありません・・・どんな飲み会や集まりも、せいぜい10数人までがベストでしょうね・・・しかし、これからだんだん身体の自由が利かなくなり、亡くなる人もボチボチ出てきます・・・外に出て行くのも億劫になりますので、20年後の80歳くらいになれば学年同窓会もオモシロいかもしれません・・・(笑)。その年になって急に集まるのも無理な話なので、ボチボチ今から学年同窓会をヤルのもイイかもしれませんねェ・・・そして2次会のカラオケには、歩いて行きました。この辺は、車で移動する貝塚と違って、ミナミは都会と感じました・・・(笑)。そして、3次会は鰻谷のシャレたバーへ・・・プールバーが流行っていた30年くらい前の若い頃から、この辺界隈よく来ました・・・特にバブルの頃、吉本興業が経営していたライブハウス「アンコール」が1番のお気に入りで、一時毎週金曜日の大阪本町への営業日(商社や紡績への織物の売り込み)には通っていましたので、年間60回くらいは行っていた計算になります・・・(笑)。確かライブチャージ込の飲み放題食べ放題で、1人3500円くらいだったように思います。これがまた料理が美味しく、3ヶ月ごとに替わる黒人のミュージシャンの歌(ソウル、ディスコ、R&B)が痺れるほど上手い!おそらく、当時為替が1ドル80円の頃で、日本で全く無名のニューヨークの三流?のミュージシャンを安く雇っていたのでしょう。しかしニューヨークでは三流でも、日本に来たら超一流です。彼らはどんな客のリクエストにも上手に応え、彼らの客と一体となってみんなを楽しませるパフォーマンスやエンターテイメントにはホント感心させられました。ホンモノの音楽を、毎週カブリツキで聴いていたのです・・・これがニューヨークスタイルのホンモノのミュージシャンかと・・・大阪に居ながら最高のコスパで、日常的に毎週彼らの音楽を触れられた幸せをシミジミ感じました・・・(涙)。しかし、毎回満員御礼で、何故3年ほどで閉店になったのか不思議でなりません・・・?その辺が、音楽バー&レストランの経営の難しいところです。この経験が、今のリハスタ経営でも最初からフンドシの紐を締めている原因かも・・・(笑)。3,40年前からミナミやキタのあちこちのライブハスに毎週ほど通いつめましたが、まさか自分がその関連の「リハーサル音楽スタジオ」を経営するなんて事は、当然夢にも思いませんでした・・・それが、実際ヤッテいる自分を考えると、人生の不思議な運命を感じざるを得ません・・・遊んだことが役に立っているのです・・・(笑)。学校で習った事の「逆」をして、正解?だったのです・・・(笑)。小学校時代は勉強がデキた記憶はなく、中学でチョッと頑張っただけで、高校から再び低空飛行のまま・・・大学も浪人も留年も経験しヤット卒業出来た程度で散々でした・・・(涙)。親がサラリーマンだったら、こんな体たらくが許されるはずもなく、ラッキーな事に家業(地場産業の織物業)でしたので、勉強せずに好きな音楽を聴いたり、だんじりに凝ったり、ウインドサーフィンや空手に勝手にハマっても、毎朝5時から家業を手伝っていれば、私には何も言いませんでした・・・ホッタラカシ・・・と言えば、そうかもしれませんが・・・(笑)。息子を信じて、ホッタラカシ・・・ホッタラカシにされた息子は、自由奔放とは言いながら、「こんな事をヤッテいいのか?」と常に、それなりに考える・・・???このサイクルが、逆にヨカッタのかと、イイように考えていますが・・・(笑)。19年前に亡くなった親父は、私が高校生の頃に納屋でロックを大音量でガンガン聴いていた時「トオルもついに気が狂ったなァ・・・」と母親に漏らしていたそうですが、音楽スタジオをやりかけた今の私を見て、天国から「トオルも、ホンマに狂ったなァ・・・」とボヤいているかもしれません・・・(笑)。人生って、この年になって改めて考えてみると、ある意味・・・そんなモンかもしれません。という事で、メッチャ楽しかったクラス会も終わりましたが、11月の幹事もケイスケとべトに決まり、次は何をして遊ぼうかと考えているところです・・・(笑)。取りあえず、うちの「スタジオ0724」で梶やんのアコースティックギターのミニライブをヤロウという話が出ました・・・ついでに、やっちゃんとヒトミちゃんのフラダンスと、ユミちゃんのよさこいも・・・あと、能の踊りも誰かやっていました・・・けっこう身近でも、音楽とダンスが趣味だという人がこれだけいるのに驚きです・・・別にスタジオは、バンドの練習だけではないのです。こういったミニライブにも使ってもらってもOKです。発想は自由です・・・もちろん、常識の範囲内ですが。ミニライブだけでなく、カラオケも出来ます・・・締めはディスコか・・・(笑)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.03.21
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最近は何処へ行ってもWiFi(無線LAN)環境の有無が優劣を分けます。例えばカフェに行っても、コーヒーだけを飲みに行くとは限りません。ノートパソコンを持ち込んで仕事する場合も多々ありますし、スマホでゲームする若い子も多いです・・・最近はスマートフォンがごく普通になり、スマホを見るのにWiFiがあれば便利この上ありません・・・そういう一昔まで考えられなかった、インターネットによるライフスタイルの変化に対応する為に、ビジネス的にWiFi環境が不可欠なのです。音楽スタジオの機材関連にしても、これからWiFi対応の便利な新製品がドンドン出て来るでしょう・・・そういう近い将来を見据え、スタジオ側ではインフラを整えてやるのがお客さんに対する使命だと思うのです。今のところ、スタジオ待合室などでwifi環境のところがありますが、スタジオ「内」でwifi環境があるところは少ないです。だからこそ、それが強みになるのです。スタジオにカラオケ機材を導入しなくても、スマートフォンの無料「カラオケアプリ」をダウンロードすれば、一円も掛らずに、すぐにでもカラオケが出来るイイ時代になりました。WiFi(無線LAN)は、正に無限の可能性を引き出してくれるのです・・・(涙)。このWiFiに、近年ドンドン新商品が発売されているBluetooth(ブルートゥース=デジタル近距離無線通信規格)機能付きの機器機材を加えれば、省力化やコードレス化で更に可能性が広がります・・・WiFiがあるかないかで、「大きな差別化」になると思うのです。既存のスタジオをWiFi環境にするのも、改造工事が大変です。ビジネス的には、潜在需要を前もって予測して間髪を入れずにプレゼンをする・・・これが理想でしょうねェ・・・弊社スタジオの場合はトランクルームを改造コンバージョンしましたが、ある意味「新設」みたいなものですから、WiFiなんかはどうにでもなりましたらラッキーでした。正にグッドタイミング・・・1,2年早ければWiFiを導入してなかったでしょう。今回も、「人生(ビジネスは)、タイミングだなァ・・・」と感じた次第です・・・これまでWiFiのある家や事務所中心の生活で、WiFiの必要性をそれほど感じていませんでしたが、海外旅行に行くとWiFiの必要性をヒシヒシと感じました・・・日本からスマホを持って行き、設定をそのままにすると、旅行先の電話会社との契約になり、べら棒な料金設定になってしまがちです。それを防ぐために、持って行く日本のスマホは空港で電話だけの設定にするのです。そして、ネットやメールは現地の無料WiFiに繋ぐようにすれば事足ります。世界の観光地に行けば、たいがいのところではWiFiが繋がり、便利さを感じるとともに、日本の不便さを痛感しました・・・海外旅行のメリットのひとつに、日本を外からチョッと客観的に見れる事でしょうか・・・?未だそんなにWiFiを意識していなかった2年前、タイのプーケットに行くと、道端で店番している4,50代のオバチャンまでがWiFiでスマホを使っているではありませんか・・・(驚)。日本より後進国のタイでは、日本より遥かにWiFi(インターネット)が進んでいたのです・・・これには、チョッと大きなカルチャーショックを受けましたし、世界の大きな潮流を感じざるを得ませんでした。ボーッと、ノンビリ海外旅行をしたいのですが、商売人は何処へ行ってもビジネスに関連付けてしまうのが悪い癖です・・・(笑)。という事で、「スタジオ0724」のホームページを依頼している親戚のウエブデザイナーから、ロゴマークが出来たとの連絡が入りました。これから、このロゴを色んなところで活用していきたいと思います。まだまだ新興のIT業界も玉石混合&海千山千ですから、ITの素人が手段としてのウェブサイトの制作依頼等をする場合、親戚にIT能力のある人間がいると心強いです・・・もちろん、中小零細企業経営者は「ITは苦手だから・・・」と逃げ回ると商売になりませんから、どうしても自分で「ある程度」勉強しなければならないのは当然の事ですが・・・しかし、この3月末で織物業を廃業して(トランクルームに転業)、ちょうど丸10年です。この楽天ブログも同時並行で、今回でちょうど2000話になっています。49歳から10年・・・過ぎ去ってみると早いもので、苦労した事やイヤな思い出も、不思議と全てイイ思い出に変るんですねェ・・・ホント、無我夢中の10年でイロイロありました・・・祖父の代から60年も携わってきた織物業界から、何のコネもない全く畑違いのトランクルームにゼロ(白紙状態)から転業し、2年後に不動産屋・・・そして10年後に、まさか「音楽スタジオ」を本当にヤルとは夢にも思いませんでした。というか、過去10年間、心の底で無意識のうちにずっと想い続けていたのが、実際夢に繋がったのか・・・と(涙)。この10年でリーマンショック、中国の台頭(日本が抜かれ、GDP世界第2位に)、更なるインターネット化(デジタル革命)、東北大震災、政権交代、テロの頻発化、円安株高、企業のグローバル化が加速、日本が観光立国に方向転換・・・日本だけでなく、世界を取り巻く環境が激変しました・・・将来このまま世界情勢は永遠に変わらない・・・というのはあり得ません。現役でこれからも仕事を続けていく限り、仕事を楽しみながらフンドシの紐を締める「術」を見つけなければ・・・(笑)。現在59歳・・・今年60歳の還暦になります。自分ながら信じられませんが、鏡で自分の顔を見ると・・・やはり、リッパな還暦のジイサンです・・・(笑)。しかし・・・人生、最後の最後までワカリません・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.03.14
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