全5件 (5件中 1-5件目)
1
最近「実家問題」が話題になっています。日本の人口の約半分が、東京圏と大阪圏と名古屋圏という3大都市圏に集中していますので、地方から出てきた多くのサラリーマンの地方にある親が住んでいる(住んでいた)家の処分をどうするかが社会問題になっているからです・・・これは、ホント難しい問題です。定年になって、田舎に簡単に戻って生活できれば、何の問題もないのですが・・・高校や大学を卒業してから都会に出て来て定年まで働くと、人生の半分以上は都会での生活ですから、なかなか戻りにくいものでしょう・・・定年まで親が元気でいればイイですが、それまでに親が認知症になったとか重い病気に罹れば、人生計画そのものが狂ってくる可能性があります。都会や地方に関係なく、要は働く場所と実家の場所が近ければ、そんな問題は少ないと思うのですが、離れているから問題が起こりやすいのです・・・現実的には、田舎に実家があって長年都会暮らしの方が最も多いでしょう。都会に実家があれば人口も多くビジネスチャンスもありますので、売却や賃貸の需要があり処分し易いのですが、地方だと中々思うように事がスムーズに運びません。しかし、今のデフレ時代は不動産は持っているだけではダメです。税金を払うだけで「損の垂れ流し」です。売却するなり賃貸するなりして何らかの「収益」を上げなければ、持っている意味がありません・・・しかし、田舎の誰も住まなくなった実家を、ズルズル10年も放置すると大変な事になります。朽ちてボロボロになり売却できなくなり、土地と建物の固定資産税の額だけでも家計を圧迫します。いずれにしても、出来るだけ早くどうするか?を決断して実行に移すのが一番です。私の場合も、この実家問題に早くも6年前に直面しました。同じ町内ですが、実家に独り住んでいた母親が老人施設に入居したのです。それで、空家になってしまったのです。賃貸に出す事も考えましたが、一度他人が住んでしまうと、この家を苦労して建てた亡き親父に申し訳ないし、私は文字通り産婆さんの手でココで生まれましたし、多い時で私の家族5人と両親合わせて7人で同居していましたので、過去の思い出がココに一杯詰まっています・・・(涙)。そこで、考えました。当時、トランクルーム別館1階を全て10~15畳クラスの大きな部屋にしていましたが、それでも満杯で部屋が足らなかったのです。そして、ピンときました!実家をトランクルームにして貸せば・・・自分でも驚くほど柔軟なヒラメキでした・・・(笑)。幸い昔の泉州独特の「錣(しころ)建築」の家で、1階に8~10畳の部屋が4つと4畳半の部屋が2つ、2階に6畳の部屋が3つもありましたので、襖を取り外しコンパネで仕切りをして鍵を付けて畳の上に絨毯を敷けばトランクルームに早変わりになったのです。門から玄関までの動線が一直線で、開口部が広かったのも幸いしました。昔の家は今の現代風な家と違って、家で結婚式や葬式や行者講など村人が沢山集まれるようなレイアウトで、玄関や廊下も広くとってあったのもトランクルームとして幸いしたのです。今の別館(1)を改造する時も、建物の高さが通常より「1m高かった」為に2階も部屋にデキたのです。これが他社と同じ高さだったら、2階を新たに作るという改造をしようにもデキなかったのです。正に、祖父と親父に感謝、感謝・・・ラッキーとしか言いようがありません。やはり、将来の子孫の事を考えればチャランポランな仕事をしてはいけないという、ある意味メッセージとして受け止めたいと思います。親父が実家を建てる前に、材木屋の社長がノイローゼになるくらい「良い木」を集めさせたほど、太くて良い木で建てたと聞いていましたので、トランクルームとして使ってもビクともしませんでした。その後リフォームする時に水平を測ると「数ミリしか狂っていない」と大工さんが驚いていました。この時は、正に亡き親父に感謝、感謝です・・・(涙)。確かに、実家を建てている最中の土壁の竹を編む職人さんが作業をしている時に、中学生だった私はたまたまその場に居合わせ、「負けヘンさかい(値切らないから)、あんばいやっちょうェ(ちゃんと仕事をしてください)」と職人さんに言いながら見張っていた?オヤジの姿が忘れられません・・・職人さんもオヤジが後ろでおられたら、真面目に仕事をするしかなかったでしょう・・・(笑)。この中学生の時のショッキングな経験がその後、織物工場新築、自宅新築、本館リフォーム、実家リフォーム、別館リフォーム、月極青空駐車場施工、スタジオリフォームと、過去30年の間に2つ新築と4つのリフォーム(大改造)と駐車場を他人に任せず施主として全責任を負って関わりましたが、これが大いに役立ったのです。全体の構想(アイデア)は私が考え、設計の段階から細かく関わり、実際の工事も極力手伝ったり、資金繰りも当然自分がやりましたので、神経がすり減り肉体的にもヘトヘトでした・・・しかし業者に丸投げせず、これだけで中間マージン分を省いた分だけ、おそらく億単位の節約と、有形無形の「経験という財産」を得たのが何よりも大きかったのです・・・(涙)。そして実家を「別館2」と称して貸し出すと、すぐに満室になりました・・・(笑)。今もそうですが、当時のトランクルームと言えば1,2畳の小さな部屋が殆どで、5,6畳というチョッと大きな部屋も少なく、ましてや10畳なんて大きな部屋は日本のトランクルーム業界では皆無だったのです。正しく、スキマだったのです。しかし、需要とすれば少ないですが、家の建て替えや海外への転勤(1軒分の家具家財道具一式)といった需要が確実に存在していましたし、そこへの供給が皆無だったのです。特に海外転勤の需要がリーマンショック以降の不況で、増々加速したメーカー工場の海外移転と重なり、オファーが急増して「別館2」を増設しても追いつきませんでした・・・まあ、こんな需要は誰も気づいていなかったし、誰も目もくれませんでした。5,6畳を超えれば、トランクルームではなく2,30坪以上の「賃貸倉庫」の分野だったのです。そうなると宅建業法も絡んできますし、一般のお客さんは手が出しにくいです。私はそこを狙った訳です。外からの見た目は普通の家ですし、ホームページには写真も載せませんでしたが、上々の人気でした。結局、その後長女夫婦が住む事になり、2年間限定のトランクルームでしたが、「如何に不動産を遊ばせないか!」という考え方を身をもって心の底に定着させる事が出来ました。その裏には「持っているだけでは、損がドンドン膨らむ・・・」という日本の不動産事情が大きく存在しているのです。自社トランクルームも織物工場を改造コンバージョンし、この自分の実家もトランクルームからリフォームして娘夫婦が住めるようにしました。その間、営業をストップして自ら毎日工事を手伝ったのが非常にヨカッタのです・・・工事を任せた幼馴染の大工さんや各職人さんらと共に汗をかき、説明を聞きながら肉体労働に勤しんだ事がヨカッタのです・・・不動産屋として単なる仲介業だけでなく、顧客にコンサルティングする場合、こういった自らの経験が顧客を説得するのに非常に役立つのです。経験が無く単に本や研修で勉強してペラペラ営業トークを喋るだけでは顧客を説得できませんし、絶対分からないモノがあるのです・・・弁護士や大学教授といった特殊な頭脳を使う職業を除いて、一般的には頭だけで世の中通用するものでは無いと思います。今60歳になってトランクルームと不動産とスタジオという「楽な仕事」に就けているのは、50歳までの30年間キツイ肉体労働を経験してきた、ある意味「反動」だと思うのです・・・「もう、こんなシンドイ事したくない!」・・・と20年前から考えていましたし、その為に着々と10年以上準備をしてきました。だから、あと20年健康に問題なければ、80歳まで独りで十分やっていけるでしょう・・・逆に言えば、これから食事と運動に気をつけ、ストレスを極力排除するような生き方をすればOKです。その為の空手でありウインドサーフィンであり、スタジオでありドラムであり、海外旅行なのです・・・今、頸椎症でウインドも空手も苦渋の思いで一時中断し、ドラムも40年ぶりに再開し基本を一生懸命していますが、ここまで来たら人生をロングスパンで考え、70歳になっても肉体的にも経済的にもウインド&空手&ドラムを同年代の誰にも負けまいと・・・そして80歳までこの3つが継続できるように「今、努力している」のです・・・(涙)。20代前半に一緒にウインドを「泉南フリート」でヤッテいた仲間は全くおらず、私1人になってしまいました。今は愛好者そのものが激減してそんなフリートみたいなグループはありませんし、みんなフリーで風の吹くビーチへ移動するようになりました。そんな平均年齢50歳オーバーのフリーのウインド仲間も、これから体力的健康的な面で年々減ってくると思うのです・・・そんな中で今は持病で中断、今ウインドを楽しんでいる仲間を横目で見ながら「臥薪嘗胆」の身ですが・・・これから「細々と長く」ウインドをロングスパンで楽しんでいきたいのです・・・65歳、70歳、75歳・・・最終目標80歳までウインドを楽しみたいと・・・(涙)。今年サイパンで見た平均70歳のウインドサーファー軍団「サイパン少年隊(2ヶ月~2年のロングステイ組)」に大いに感化されています・・・(笑)。90%が中国人観光客かと思われるほど中国人だらけのサイパンでしたが、彼らは平均70歳の真っ黒で元気な日本男児サーファーを見て驚愕してましたし、「日本恐るべし!」と思ったんちゃいますか・・・(笑)。中国でこんな元気なジイサン、考えられませんから。そして、もうこの年で更にガツガツ儲けようとすれば逆に寿命が短くなると思いますし、「儲けは後でついてくる」くらいのスタンスで丁度よく、そうすれば長生きできるでしょう・・・その為に時間もかかりましたが、身軽になる為に金融機関からの借金をゼロにしました。「借金がない」ほど楽な事はこの世にありません・・・(嬉)。日本の相続税法では「借金も相続対象」ですから、子供に迷惑をかける事もありません。若者と違ってもうこの年になると、空手の形の緩急や呼吸と同じで、「生き方のコツ」みたいなモノが分かってきたような気がします・・・(笑)。いずれにしても、実家問題は避けて通れません。弊社トランクルーム利用で、実家問題関連が理由というのは「ベスト5」に入っています。というのは、一般的に親世帯と子世帯が別所帯というのが普通で、1.親世帯が老人施設に入居2.親世帯に子世帯が同居3.子世帯に親世帯が同居だいたい、この3パターンがあり、1の場合は親世帯が住む実家を処分して(売却か賃貸解約)、親世帯が老人施設に引越します。この時、施設の部屋は狭いので、普段要らないモノや捨てたくないモノはトランクルームに直行です(仏壇、アルバム、ビデオ、着物、家宝、琴、楽器、レコード等々)。今の相続税法では相続人である子供は平等ですので、「中立的立場」であるトランクルームが人気なのです。長男や長女の家に親の荷物を置くと、不平等になると考えるのです。2の場合も3の場合も、2世帯が一緒になって1世帯になる訳ですから、荷物が入りきりませんので、入らない余ったモノはトランクルームに直行となる訳です。という事で、実家問題で荷物の問題が必ず起きますので、そういう場合は弊社トランクルームをご利用ください。特に大阪に実家があり生活の基盤が東京や名古屋という人にはピッタリですが、実家が地方で生活の基盤が大阪だという人にもドンピシャだと思います。例えば、地方に実家があり生活基盤が東京や名古屋の人も、「安くて安全」であれば、大阪のトランクルームを利用しても全く問題はありません。イヤ、逆に利用しないと損でしょう・・・2畳クラスで年間10万以上も安いとなれば。全国ネットの引越業者を使えば、シーズンオフに荷物を東京から大阪に移動しても安いです。賢いユーザーは、これを利用しない手はありません・・・しかし、この実家問題の根っこには、会社に振り回される日本のサラリーマン事情があります。転勤、左遷、転職が難しい・・・普通に考えれば、一生を保証してくれる訳でもない会社に、何で従順に自分の意思を曲げてでも従わなければならないのか?素朴な疑問です。人生をトータルで考えれば、仕事なんて、会社なんて「一部」のはずです。「人生=会社」なんて、サラリーマンではあり得ないはずです。もちろん、自営業者や我々オーナー企業経営者は「人生=仕事」ですが、一サラリーマンが会社に盲目的に従う必要はサラサラありません。会社都合による転勤によって、ファミリー全体がガタガタになるなんて、人生が狂うなんて・・・全く馬鹿げています。会社都合と言っても、社長命令ならわかりますが、単に直属の上司とそりが合わなかったり、バカな上司に仕えたとか・・・そんなクダラナイ原因が殆どです。私の経験でもサラリーマンなんて、そんなモノだと思います。自分の人生だからこそ、それに嫁さんと子供の事を考えると、「そんなモノ」で済ませてはいけないと思うのです・・・私の周りでも過去30数年を振り返ると、出世コースに乗って転勤、転勤を繰り返して部長、本部長、取締役、社長・・・にまで上り詰めた人もいますが、その裏には業績が悪化して途中で飛ばされたり、分社されたり、分社されてそのまま外国企業に買収されたり、リストラされたり、過労で精神を病んだり、過労で病死(自殺)したり・・・こういう人の方が多かったのも見逃せません。運良く社長になったとしても、所詮「サラリーマン社長」で、お役目が済めばご苦労さんでオワリです。退職金をもらうだけで、あと何も残りません。替わりの社長はいくらでもいますから・・・アメリカは日本を絶対守ってくれない・・・この「当たり前で考えたくない真実」と同じように、会社は社員を一生保証してくれない(面倒見てくれない)という真実から目を背けてはいけないのです。まァ仕方ないと言えばそれまでですが、人生の途中で「自分の人生を自分でコントロールするのだ!」と早く気付く人間だけが、この実家問題を上手に解決できるのだろうと思います・・・29歳でサラリーマンから家業の織物業に転職しましたが、辞めずにそのままサラリーマンしていたら・・・と思うとゾッとします。この年までその厳しい建築建材金物業界で上手く乗り切っていたとしても、転勤の繰り返しでヘトヘトだったでしょう(40歳くらいで勤務していた会社が倒産している)・・・正直、親父の織物工場や実家どころではなかったと思います。3人娘にも満足のいく教育をつけてやれなかったかもしれません・・・そんな事を考えると、20代最後の29歳で転職を「決断」した事が、人生のターニングポイントだったんでしょう・・・「30歳ではダメで、20代のうちに決断せねば・・・」という内なる声に従ったのです・・・その声の主は誰だったんでしょう・・・?祖父か?そして、その20年後の49歳の時に「50歳ではダメで、40代のうちに決断せよ・・・」という内なる声に従って、織物業からトランクルームに転業したのです。その声の主は、オヤジだったのか?ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.08.28
コメント(0)
最近、貝塚市内のデイサービスにスタジオを使ってもらうように、集中的に新規開拓の「売り込み」を掛けています。何で、デイサービスとスタジオ?不思議に思われる人が殆どだと思います。もちろんメインターゲットは「リハーサル音楽スタジオ」と称していますから、音楽のバンドです。しかし、夕方から夜の時間帯に集中しますので、それだけではスタジオはまだまだ埋まらないのです・・・そこで、客の手薄な午前中から昼間をどう埋めるか?と考えるのは経営者として当たり前ですし、オープン前からそれはチョッと危惧していました・・・そんな事を考えながら日々を過ごしていると、ある「コメダ珈琲」の記事が目に留まりました。ご存知のように、コメダ珈琲と言えば6月に東証一部に上場したカフェチェーンです。スターバックスをはじめ、ドトール、サンマルク、珈琲館、タリーズ、プロント、ルノアール、ベローチェ、星乃珈琲・・・なかでも超激戦のカフェチェーンです。既に、町の小さな喫茶店は殆ど無くなるほど淘汰されて久しい業界です。最近では異業種のコンビニが煎りたての美味しい100円コーヒーに参入して、コーヒーを巡るボーダーレス戦争が勃発しています・・・そんな誰でも参入したくない激戦カフェチェーンで、何でコメダ珈琲が成功しているのか?その記事には、コメダと「デイサービスとのコラボレーション」が書かれていました。デイサービスはレクリエーションのひとつとして「外出」を掲げており、その目的地のひとつとして「和風喫茶」を選んでいて、それがコメダだったのです。この記事を読んで、思わずピンときました。デイサービスの外出先のひとつとして、「音楽スタジオ」を選んでくれないか・・・と。通常のリハスタでは狭くて無理ですが、南大阪最大級の22畳の広さがある弊社スタジオでは10人や20人来られても全く問題ありません。母親もデイサービスを利用しており、外出でよく海に連れて行ってもらったとか言っているのを思い出したのです。施設では同年代の友達が大勢いるとはいえ、毎日を同じ建物の中で過ごすのは退屈だ・・・という施設利用者の心理が大きく働いていると思います。もちろん介護保険適用範囲内で利用するというのは基本ですが、多少のオプションを追加してでも利用者にメリットがあれば問題ありません。施設内のカラオケや一般のカラオケ店にない魅力がなければ、もちろん来てくれません。そこで、考えました。1.スタジオ内は無料WIFIがありますので、スマートフォンのカラオケアプリを利用したり、YOU TUBEに合わせてカラオケが出来ます。2.音響設備(スピーカー、マイク)が目玉で、施設のカラオケや一般カラオケ店を数段上回る音質が魅力です。3.弊社でミニライブを主宰して(スタジオ客の発表の場として)、デイサービスの方々を招待する。4.デイサービスやグループホームの文化祭(音楽や踊り)をスタジオでする(貸し切り)。5.母親は趣味で日本舞踊をしますが、高齢者に人気のフラダンスも前面ミラーがありますので、ウケる事間違いなし。いずれにしても、音楽は認知症予防に絶大な効果を発揮しますので、これを利用しない手はないのです。また、あと数年から10年後には団塊の世代がデイサービスの新たな利用者になります。これがミソで、この世代は青春時代の1960年代のグループサウンズの洗礼を受けていますので、今のデイサービス利用者と根本的に音楽に対する受け入れキャパやジャンルが違うのです。今のデイサービス施設内でのカラオケは、童謡や演歌や民謡かもしれませんが、もうすぐタイガーズやテンプターズやスパイダースといったGSサウンズに変わるのです・・・(笑)。これは劇的な変化だと思います。そりゃ歴史を振り返れば、そうだと思います。母親世代の昭和一ケタ世代はまだ戦争体験がありますが、団塊の世代が生まれたのは戦後です。マーケットのエンドユーザーがこれほど違うのですから、供給側のデイサービスはその変化に対応すべく備えるのは当たり前の事です。その備えのひとつに、弊社スタジオを利用して頂ければイイのです。デイサービスやグループホーム内に専用スタジオを作るのは、資金とノウハウが要りますので現実的ではありません。専門のこちらに任せてもらえればイイのです・・・いずれにしても、事業用不動産仲介でもデイサービス事業者の引き合いが活発です。というか、私どもに来るオファーの半分はデイサービスです。これから団塊の世代が増えてくると言っても、チト多すぎるのでは・・・?その証拠に、単なるデイサービスは少なく、整骨院を併設したデイサービスとか「プラスα」を意識した出店が増えてきたというのがここ2,3年の特徴です。それだけ、過当競争になってきたという事でしょう。これから他業界と同じように、更に差別化とニーズに応じた細分化が必要な時代になってくるでしょう・・・「音楽は脳を活性化する」というのは紛れもない事実ですから、そういう意味で5~10年後のデイサービスで元ミュージシャンや趣味が音楽という老人を対象にした本格的な音楽スタジオを併設した「ミュージック・デイサービス」が出てきてもおかしくありません。その後我々1950年代世代になると、青春時代に一世を風靡したディスコを併設した「ディスコ・デイサービス」というのが出て来るでしょう・・・(笑)。儲かるとか儲からないとかいう次元ではなく、老人が毎日音楽に接して笑顔で過ごす施設には、日本の明るい未来があると思うのです・・・(涙)。もうなんやったら、うちで「ミュージック&ディスコ・デイサービス」を始めようかな・・・(笑)。そして朝から夕方までしか使わないデイサービスが、夜は施設がライブハウスに早変わりという「2毛作経営」をしたらオモシロいのでは・・・という事で、今は「片道15分以内」の貝塚市内のデイサービスやグループホームに声を掛けていますが、貝塚市以外の岸和田や熊取や泉佐野や泉南や和泉市といった「片道30分以内」の興味のある同施設やケアマネージャーさんがおられたら、是非一度お声を掛けてください。「将来の音楽とデイサービス」・・・一緒に考えていきましょう。このアイデアを「叩き台」にしてお互い知恵を絞れば、何かイイ方向にモッテ行けるはずです・・・元々22畳もあるリハーサル音楽スタジオなんて大阪に殆どありませんし、こんなコラボアイデアを提案しているスタジオ経営者も日本で私ぐらいなものですから、大阪市内から来られてもイイですよ・・・しかし、よくよく考えると、朝から昼間が暇なのはデイサービスのお年寄りと、保育所の乳児や幼児も対象になってくると思います。お年寄りと小さな子供・・・この世話を「音楽を絡めて」ヤッテいこうという発想です・・・不動産仲介でも「無認可保育所」のオファーも時々あり、狭いところに大勢の乳児や幼児が集まっているのを見ると息も詰まってくると思うのです・・・そういう意味で、保育所からオファーも期待できるのでは・・・不動産仲介ではこういったデイサービスとか無認可保育園という事業用のオファーが結構多いのですが、仲介の立場ではそれほど深入りできませんでしたが、自社スタジオでここまで「深入り」出来るとは予想出来ませんでした・・・(嬉)。2,300年以上前の先祖は宮大工(三ツ松の左甚五郎の分家筋)、130年程前は本家から分家した曾祖父が村唯一の牛の獣医(耕運機が無かった頃)、太平洋戦争直後から祖父と父は織物製造業を創業・・・そしてここ10年は私がトランクルームに転業し、不動産屋とスタジオを起業・・・特に曾祖父は江戸時代末期に、代々宮大工の川岸仁左衛門(戦後役所の間違いで川﨑に変わった)の次男として川岸惣次郎という名前で生まれましたが、先祖が水間の三重塔の建立した関係で、「お夏清十郎物語」で有名なお夏の実家である水間村の庄屋「楠右衛門」から名越の仁左衛門に養子に来ていた惣次郎の実父(高祖父)の紹介で、楠右衛門の親戚で子供の無かった笹谷吟蔵さんの長男として養子縁組し、何故か?笹谷勘松という苗字だけでなく名前まで変えてしまったのです・・・(驚)。名越町会館を入って右に、前の町会館の寄付者氏名を書いた板が飾られていますが、曾祖父の笹谷勘松という名前が載っていますが、子供の頃から「ヒイ祖父ちゃんの名前は、惣次郎」と聞いていましたので、長らくそれは親戚の誰かと思っていました。イヤ、うちの一族は未だにこの事実を知らないでしょう・・・私も19年前に親父が亡くなり相続でイロイロ調べていく中で、初めてこの事実を知ったくらいですから・・・(笑)。宮大工の家に生まれながら次男でしたので、跡を継ぐ事もなく日清戦争に行かなくてはならない立場でした。戦争に行って戦死していたら、ハイそれまでした。しかし、曾祖父は養子縁組で氏名を全て変え、名越唯一の武士(岸和田藩足軽の士族)であった石原家の長女を嫁にもらい(曾祖母)、仕事も名越村唯一の牛の獣医として何とか明治大正の激動の時代を生き延びたのです・・・(涙)。正に「名を捨て実を取る」です・・・耕運機も車もない何でも「牛車」に頼る時代でしたから、当時最先端の独占ビジネスだったのか・・・(笑)。村の古老から、明治時代初期に村の織物産元業者(仲買人、織物業者の原型)が各農家が閑散期に納屋の簡易織機で織った反物を集め、それを牛車に積んで何日もかけて大阪本町の今の伊藤忠や丸紅に売りに行ったと聞きましたが、ちょうどその頃なんでしょうね・・・明治中期以降、日本一の綿織物産地に急速に成長した水間鉄道沿線(木島~葛城地区)ですが、その織物業者の「原型」だった織物産元業者は親戚の作太夫(塔筋)の分家だったそうで、今は神戸に転居されているそうですが、その場所が正に今の私の実家の住所だったのです。何とも不思議な縁ですねェ・・・まァしかし、曽祖父がそういう行動をとったからこそ、祖父や父、私や娘達がこの世に生まれたのです。それどころか、祖父には姉兄が3人、父には9人も兄弟や妹がおりますので、それらを含めた一族は貝塚を中心に岸和田や熊取、泉佐野といった泉南地区を中心に膨大な数になります・・・そういったうちの直系だけでなく、それぞれの配偶者の親戚も含めると、見た事も聞いた事もない親戚がドンドン広がります・・・血縁だけでこれほど広がりますので、更に地縁や趣味や同窓会を含めると果てしなく広がります・・・(笑)。これが、普段の仕事で世間話をしていると大体「どこかで繋がる」という意味で、これが地域密着型ビジネス上の大きな強みになっています。曾祖父がイイカッコをして日清戦争に出兵していれば、私も含めそれら一族は存在しなかったかもしれません・・・人間というのはどうしても見栄を張りたいもので、それを満たすために色んな産業(ファッション、自動車、住宅など)が世の中に発達している訳ですが、その悲しいサガを克服したところに曽祖父の偉大さがあると思うのです。もちろん当時は「お国の為に出兵・・・」という時代背景で、合法的な養子縁組で長男になったとは言え、周辺には妬みや悪い噂があった事は容易に想像できます。しかし、うちと同じように町内には「本家(母屋)と分家(いんきょ)の苗字が違う」という、次男が苗字を合法的に変えて長男になるところが結構存在するのです。当時は、それが流行りだったのか、知恵だったのか・・・?いずれにしても当時の曾祖父の心情を考えると、「男の生きざま」として大いに参考になりますし、この家訓を守りたいと思うのです。続きが未だあり、祖父も父も長男ではなく次男でありながら「後を継いでいる」のです。これは何を意味するか?結論を言うと「次男の方がシッカリしている(後継者として相応しい)」のを見抜いたからだと思うのです。自分が一生懸命頑張るのも必要ですが、そういった人を見る「眼力」も無ければ上手く事業承継も出来ないのです・・・私は長男で妹しかなく、もし弟がいたら入れ替わっていたかもしれません・・・(笑)。しかし、その曾祖父も大正時代に作った古い墓には笹谷惣次郎と、戸籍の本名と幼名をミックスした名前を彫っているのです(曾祖父に3つも名前が!)・・・シャレか?興味深く最後までオモシロそうな男だったのでしょう・・・一度、お会いしたかったです・・・(笑)。まァ、江戸末期から150年も同じ本籍地でビジネスをしているなんて、日本でも極々少数派でしょうし、それで成り立っていたなんて、何と私は幸福なんでしょう・・・(涙)。自分の努力よりラッキーだったというこれまでを振り返ると、先祖が私を見守っているとしか思われません・・・(涙)。まァ今日の妄想は結構膨らみましたが、これくらいにしときます・・・(笑)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.08.20
コメント(0)
昨日は貝塚駅前の居酒屋「大阪庄や」で、毎年恒例の小中学からの友人との盆の飲み会でした。3人ともまだ60になっても仕事中心でみんな忙しいですが、スケジュールを合わせて何とか駆けつけました。そこには、ただ「会って話をしたい」一心で、他に何もありません・・・毎年盆と年末の2回飲み会をしますが、もう30年以上も続いています。これが、5,6人ですとなかなかスケジュールが噛み合わず、ここまで続かなかったでしょう・・・それに5,6人だと大袈裟で一緒に話すのも難しいですが、3人だと話がシックリくるのです。今回も、他愛もない話からちょっとディープでシビアな話で盛り上がりました・・・やはり60ともなると、仕事の話より健康や病気の話が多くなるのは仕方のない事です・・・(笑)。そして3人とも、ボチボチ子供が独立して孫も出来ていますが、それと同時に年老いた親の介護問題といった話題も避けて通れません。一般的に60歳というのは、正にそういう年だったのです。そういう現実的なシビアな話になると、人の話というのは参考になるものです・・・年を取ってくると、誰でも増々頑固になり独善的になってしまうものです。とくにオッサンはこの傾向が強く、増々嫁さんや子供から煙たがられる・・・(笑)。それに待ったとストップを掛けてくれる人も少なくなり、最終80歳くらいになれば、誰も何も言わなくなります。自分では「これでイイ・・・こんなモノか・・・」と思っていても、今回の飲み会で、「これではいけない・・・こうしよう・・・」となってきました。急には出来ませんが、徐々に自分を変えていこうと思った今回の飲み会でした・・・(涙)。持つべきものは友だと思います・・・(涙)。そして自分で言うのもオカシイですが、60の割に結構「素直」なオッサンだったのです・・・(笑)。最近思うのですが、日本人の平均寿命は男性が80.79歳、女性が87.05歳(2015年)となってますが、「100歳まで生きる」事を目標にしたいと・・・別に世界長寿記録や日本記録を狙っている訳ではありませんし、100歳なんて親戚でもチラホラいますから、これくらいは目標にしても非現実とは決して思いません。これくらいを目標にし世間に告知して、自分のモチベーションを高めるという意義も大いにあったのです・・・100歳まで生きるというのは、平均寿命より20年長く生きるという事で、あと40年生きるという事になります。現在40歳の日本人男性と同じという事になります。言葉を替えれば「マイナス20歳(40歳)」のつもりで生きるという事になります。10年後の70歳で50歳のつもりで、80歳で60歳のつもりで、90歳で70歳のつもりで生きる・・・総じて、40歳レベルの「気力」と「体力」と「感覚」を持って、これからの40年を生き抜こうと考えています。同年代と同じような感覚で生きれば、それなりにしか生きれません。子供と同世代の30歳は無理ですが、40歳なら仕事と趣味(トランクルーム、不動産屋、音楽スタジオ、ウインドサーフィン、空手、ドラム)を同等に、あと20年くらいならデキそうです・・・だんじりの鳴り物の大太鼓や今年サイパンでウインドサーフィンした時や、今スタジオ経営などで青年団や高校生や大学生といった若者らと接してきた感じでは、「ついていけそう」「一緒にデキそう・・・」という手応えを感じました。人間対人間とのコンタクトで、「ダメだ・・・」「アカン!」「ムリ・・」というケースがあるものですが、それが不思議とないのです・・・無理をすればこちらにストレスも溜まりますし、ダメなら止めるだけだったのです・・・第六感というかフィーリングというか、自分の「この感性」を大事にしたいと思います。空手も蹴り技に関して、精度や強度は別にして、まだ上段回し蹴りもカッコだけは一人前です・・・(笑)。まァ、そういうこれまでの経験や今の地道な努力を考えれば、何とかデキそうという自信が芽生えてきたのです。もちろん、見てくれは毛も少ない「普通の60歳のジジイ」ですが、身体の外側の筋肉や柔軟性もそれなりに鍛え、これからの40年は食事と運動とビジネスと趣味の4つを通して内臓と歯とハートで勝負しようという事です・・・(笑)。特に高齢者は足腰が弱ると同時に気力も萎える傾向にありますので、足腰強化も課題でしょう。ウオーキングやランニングのやり過ぎは足腰と膝に悪いので、自転車による有酸素運動と筋トレマシンによる無酸素運動を上手く組み合わせる必要があろうかと思います。また高血圧、高コレステロール、頸椎症という持病がありますが、これも本当は完治したいところですが、治療しながらもロングスパンで上手く付き合っていくしかないですねェ・・・(涙)。自分の身体の筋肉や関節、内臓の隅々まで緻密に分析して運動と食事に配慮し、仕事と趣味のバランスも配慮すれば、病気を極力寄せつけずに100歳まで「なだらかな下りカーブ」で生きて行けそうです・・・(笑)。そりゃ、10年も20年も寝たきりで100歳まで生きても意味もありませんし、家族に迷惑をかけるだけです。あと40年もビジネスを現役で走るのは難しいかもしれませんが、その時代に合わせたスタイルを模索したり、また転業の可能性(チャンス)もあるのは重々承知です。今のトランクルームと不動産とスタジオがそのまま40年続く事は100%あり得ませんから・・・理想は100歳の誕生日の前日まで自立した生活を送り、誕生日当日人知れずポックリ亡くなっていた・・・ですが。そんな事99.9%無いと思いますが、それを願って生きたいものです・・・100歳まで生きれば、3人娘も70歳の立派なお婆ちゃんになり、孫娘も40歳のオバチャンになっています・・・(驚)。もちろん、ひ孫も誕生しているでしょう・・・(笑)。ひょっとしたら、玄孫(やしゃご)が出来ているかも?89歳の知り合いのお爺さんが、玄孫を見るのを目標(生き甲斐)に毎日元気にしています・・・人間って、そんなものだと思います。チョッとした目標があれば、張り切るモノです・・・如何に、目標や目的が大事かと。そういうロングスパンでモノを考えるようにすれば、小さい事や細かい事にクヨクヨ悩む事もありません。「事実は一つ、考え方は二つ」ですから、出来るだけポジティブに物事を考えたいものです。という事で、今日の妄想はこれくらいにして、身体の事を考え今日は休肝日にし、夜は盆踊りに孫を連れて行きたいと思います・・・(笑)。年のせいか、もう遅くまで飲めません。昨日は5時開始で、お開きは9時半で2次会なしです。明日の事もありますし、健康を考えればこれくらいがちょうどイイのです。友人と会って嬉しいのは分かるが、調子に乗って呑み過ぎない・・・疲れを翌日に残さない・・・これ鉄則です。もう無理は禁物、無茶はしないです・・・その時はオモシロくありませんが、人生をオモシロくするコツです。しかし、貝塚駅前周辺にも驚く事に中国人観光客が増えました。いくら南海本線の急行が止まる駅とは言え、駅前商店街はシャッター通りで今まで閑散としていましたが、2,3カ月前から観光客をチラホラ見かけていました。関空に近くてもインバウンド需要とは全く無縁と思っていましたが、いるんですね・・・(驚)。昨日の居酒屋にも中国人の団体客が押し寄せてきました・・・(笑)。また千石橋から三ツ松団地に抜けるカーブのところに(漬物工場跡)、いつの間にか宿泊施設が出来て中国人観光客を乗せたバスが何台も止まっているのはホント驚かされます・・・正に「こんなところにも!」という感じです。こういった日々の変化をも見逃さないのは、60歳ではなく40歳だからなのです・・・(笑)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.08.15
コメント(0)
昨日から弊社リハーサル音楽スタジオ「スタジオ0724」で、「ドラムレッスン(マンツーマン個人レッスン)」を始めました(大阪府貝塚市名越661 072-446-0798)。もちろんリハスタは音楽バンドの練習がメインですが、こういった「楽器スクール」も視野に入れています。防音&防振と楽器機材という「付加価値」を活かすスタジオの使い方なら、何でもイイのです。そう考えると、可能性がグンと広がります。要は考え方次第です。弊社スタジオは1室しかありませんが、22畳と大阪府内では最大級の広さです。この広さを活かすために、バンド以外に大人数のダンスやヨガも可能です。先日なんかは、スタジオを目一杯使ったバンド数人とダンサー10人というコラボ練習をされていた高校生もいました。正に、うちのスタジオ練習でライブ感でノリノリでした・・・(笑)。また、他社のスタジオとの大きな違いは、2枚の防音ドアを別注で巾を広げ、2尺5寸のだんじりの和太鼓が入るようにした事です。これで、スタジオ内で鳴り物(お囃子)の練習も出来るのです。こんな発想のスタジオなんて、日本初ではないでしょうか・・・ビジネスなんて所詮、発想勝負です。如何に他人(他社)が考えない事、出来ない事、やりたくない事を実行するかです・・・しかし楽器スクール(レッスン)なんて、都会の多くのリハスタで既にやっていますが、大阪南部ではスタジオそのものが少ないですし、希少価値だと思います。それが60分3000円(スタジオ代1000円別)で受講できるのです。講師はベテランドラマーの永野先生です。大手レッスンでは月3回(30分レッスン)10000円~12000円くらいですから、弊社スタジオでは「実質半額」で受講できます。レッスン時間が30分というのは、あっと言う間です。2倍の60分レッスンだと、ある程度「深い授業」を受けられ納得できるモノがあります。また大手では味気ない基礎から始めますが、弊社スタジオでは好きな曲から始めて、その中から基礎を学ぶという型破りな方法です。この2点の特徴で、「ドラムの楽しさ」を味わってもらえると思います・・・何故、こんな事ができるのか?大手レッスンでは大手コンビニと同じように、ブランドに対して本部にロイヤリティを支払わなければなりませんし、立派な建物(スタジオ)に高い家賃を支払わなければなりません。そう考えると、講師に実際支払われる報酬は生徒が支払う月謝の半額以下かもしれません・・・ところが弊社スタジオでは、スタジオ利用料金(2人1時間1000円)を頂くだけです。それも生徒負担ですので、講師は丸々授業料を受け取れます。このように弊社スタジオは、講師に儲けてもらって、生徒は安い授業料(大手の半額)でそれ以上に上達してもらうというのが願いです。「お値段以上」というどこかのフレーズの様に、お客さんにメリットを感じてもらい、会社(スタジオ)の利益を最小限に抑え、社員(講師)は高給待遇・・・みたいなモノです。こちらは、スタジオを使ってもらうだけで十分です。それ以上何も望みませんし、それで地元泉州の音楽文化が少しでも根付いてくれれば御の字なのです・・・と言えばカッコいいですし、実際その通りですが、スタジオ利用客の絶対数が増えれば、個人練習だけでなくバンド練習にもスタジオを使って貰い、楽器の保管庫の需要にも繋がりますし、ミュージシャンという横のつながりが強いという特殊性を考えれば、ドンドン口コミで輪が広がる事を期待しているのです・・・更に一見関係なさそうなトランクルームや不動産仲介への波及効果も、スタジオ利用客と住居エリアが被っている事を考えれば期待大です・・・レッスンでわざわざ儲ける必要はなく、トータルでトントンでイイのです。もちろん、ドラムレッスンに限らず、他の楽器やダンス系のレッスンも大歓迎ですし、今の待遇に不満な講師やインストラクターさんにも是非弊社スタジオを利用して頂きたいと思います。弊社スタジオは総力を挙げて柔軟に、音楽とダンス系講師を応援させて頂きます。「音楽でメシが食えない」という日本の多くのミュージシャンが抱えている現状の悩みを、少しでも弊社スタジオで改善したいのです・・・(涙)。そして「少しドラムをやってみたい!」という潜在需要を気軽に掘り起し、1人でも多く本物の「生のドラム」を叩く楽しさを知って欲しいのです・・・ただ、それだけです・・・弊社の儲けは後回しで、泉州で音楽が盛り上がれば自然とスタジオ利用率は高まるものです・・・・何年かかるか知りませんが・・・(笑)。普通のビジネスと違って、それくらいロングスパンで考えないと、音楽ビジネスはデキないと思います・・・「半分趣味」というくらい余裕がないとダメなのです。スタジオ1本でメシを食えるほど甘くはありませんし、それほど「水モノ」という事です。これを理解しないで、単に儲かりそうだからとか、音楽が好きだからではスタジオ経営は失敗するのです。それ以前に、金をかければイイというモノではないノウハウが絶対必要な防振と防音の段階で、大半が途中で挫折するでしょう・・・事実私も、トライ&エラーで足掛け10年もかかりました・・・(涙)。10年前に織物業から全く異業種のトランクルーム業界に新規参入しましたが、今考えれば、全くの素人だからヨカッタという部分があります。素人だからこそ、素直に考え、奇抜な発想もデキたのだろうと思います・・・今回のスタジオ経営も同じです。しかしそれらも10代からのオーディオマニア時代、20代前半でのバンド経験、織物の新工場設計プランも私が中心となって考えた事、工場の防音&防振に苦心した経験、自宅の新築に設計の段階から大きく関わった経験・・・これらの経験がベースになっているのは言うまでもありません。まァ素人だからこそ、そんな発想もデキたのだろうと思いますし、これからもイロイロなアイデアを出し続けたいと思います。まァ、今回の永野先生のドラムレッスンを「たたき台」にして、これからイロイロやりながら考えていきたい・・・というのが実感です。そりゃ、こんな事にトライするのも「人生初」で何が起こるか分かりません・・・取り敢えず、始める。これが何より大事で、問題が起こればその都度考えて解決していく・・・この姿勢と気概がないと、何も前に進めません。まァ、根底にはもう十分働いてきましたし、子供らもすでに結婚独立・・・あとは、自分の好きな音楽を・・・あわよくば、泉州の音楽文化の底上げの一助になれば・・・と。オープンして5カ月の間にイロンナお客さんが来られました。その中で、今回のドラムレッスンのように、タヒチアンダンスとフラメンコダンスのプロ級のお客さんがおられます(実際大阪市内で指導されているようです)。この2人に、将来うちのスタジオでレッスンを開いたらどうですかという話をしたら、前向きに検討されているようです。フラダンスは何処でも山ほどありますが、タヒチアンダンスとフラメンコダンスはなかなかありません。地元貝塚でレッスンを開始すれば、話題になるのではないでしょうか・・・それと、将来的にはミニライブなんかも、盛んになればと・・・お客さんによる単独ミニライブはもちろん、スタジオ主催による各バンドに出演してもらうミニライブも出来ればイイと思います。また、以前ミナミでよく通っていた「セッションバー」的なスタイルもオモシロいのではないかと思います。自分のバンドに拘らず、ミュージシャン各自がスタジオに来て、その時揃ったメンバーの「初顔合わせ」でセッション(演奏)するのです。ある意味「他流試合」「ミュージシャン同志の文化交流会」です。それで自分の腕(楽器&ボーカル)を磨き、自分の音楽人生をより深く楽しむのです・・・オモシロいですねェ・・・ワクワクします。妄想はこれくらいにして、先ずは自分のドラミングを少しでも向上させねば・・・(笑)。※ 弊社「スタジオ0724」のドラムレッスンの永野講師の紹介です。「やる気」だけでOK!!これからドラムを始めたい…今さら聞けない…この曲を叩きたい、けど、どう叩いているのか分からない…などの疑問に同じ目線に立って親身にお応えしていきます。年齢性別問いません。楽しく一緒に始めませんか?プロフィール永野智巳 (ながのともみ)大阪府出身。10歳より独学でドラムを始める。13歳の頃から高校生に呼ばれてはライブのサポートドラムを行う。大学を中退し19歳から本格的にバンド活動を始め、ソニーのオーディションで準優勝する。その後、拠点を東京に移し精力的に全国でライブ活動をする。ドラムというものを突き詰めたいと強く感じるようになり26歳でバンドを脱退、某音楽学校に入学する。勉学に打ち込む傍らブルースやロックセッションの日々を送る。4年間のドラム武者修行を修了させ、バンド活動を再開する。国内はもちろんアジアやアメリカでもライブを成功させる。36歳でバンドを脱退後、地元の少年にドラムを教える傍らサポートドラマーとしてレコーディングのみ参加する。現在は、ポピュラーミュージックを中心に型にはまらず誰にでも楽しくドラムを叩けるようになるメソッドを研究。従来のドラムスクールのレッスン内容とは全く違う切り口でマンツーマン形式によるそれぞれの生徒に合わせた育成に努める。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.08.09
コメント(0)
4月くらいから右手の小指が痺れ、オカシイなァと思いながら、脳神経外科に行ってCTを撮ると「頚椎症性神経根症」と診断されました。頚椎症(椎間板の膨隆・骨のとげの形成)の変化によって、脊髄からわかれて上肢へゆく「神経根」が圧迫されたり刺激されたりして起こるのだそうです。セカンドオピニオンも大事だと思い、その後いくつかの病院に行きレントゲンやMRIを撮っても、やはり同じ広義の意味で「頸椎症」という事でした。思い起こせば、昨年末くらいから机に座ると、右肘が少しジンジンという違和感が走っていました。少し変だなァという程度で、それほど気にしていませんでした。ところが、それがダンダン小指の方に移動してきて、違和感から痺れに変わってきたのです・・・そして「これは変だ!」「脳から来ているかも?」という恐怖心が込み上げてきて、地元で有名な脳神経外科に走ったのです。実際、CTで脳が原因と違って、首でヨカッタというのが実感です・・・(笑)。それから藁をもすがる思いで、ネットや本で頸椎症を必死に研究して、そこに書いてあった改善する運動を毎日したり、他の病院でリハビリをしたりしました。薬を処方してもらいましたが、副作用が怖いので一切飲みませんでした。しかし、増々症状が悪化するばかりです・・・(涙)。右手小指だけでなく、右手全体が痺れたり、痺れが痛みに変わったり、更に右肩全体まで症状が広がったりと・・・それらの症状が1日のうちに波があり、一体どうなっていくのかと不安で仕方がありませんでした。そして、もう病院のリハビリは止めようと決断しました。この頸椎症は治る事はなく、手術をしたとしても非常に難しく、対処法には薬かブロック注射しかないようです。病名が分かっても治らないというのは、私の人生で初めてです。これまで一度も入院した事もない自他とも認める健康体の私にとって、これほどショックな事はなかったのです・・・(涙)。これまでたまたまラッキーだったと思えば気も楽になり、これからは年齢相応にボチボチ身体のアチコチにガタが出て来るのでしょうか・・・しかし、今回の頸椎症を「何とかして治したい!」一心で自己流の生活様式に変えたところ、ボチボチですが症状が治まってきたような気がします・・・1.激しい運動を控え、空手は一時中断。2.病院のリハビリを止める。3.毎朝のストレッチ運動の中で、回数をこなす腹背筋運動は首に負担がかかるので、「10秒静止スタイル」に変える。4.首の基礎である下部にある僧帽筋から肩甲骨あたりのストレッチを強化する。5.頭の四方を手で押さえ、首を強化する。6.首に負担がかからないように、上を見上げたり、横を向いたり極力しない。7.普段の生活では姿勢を常に意識して、特にデスクワークでは背筋と首を一直線にして首への負担を減らす。8.枕を少し高めのモノに代えた。9.出来るだけ右手を使わないよう意識し(字を書く以外は右手がないモノと思い)、元々やっていましたがマウスと歯磨きと箸を左手を使うように更に徹底する。この9点を普段の生活で意識するようになってから、少しずつですが症状がマシになってきたような気がするのです・・・?しかし、そもそも何で、頸椎症になってしまったのか?直接のキッカケは、昨年秋の空手の稽古中に、畳床に後頭部を強打した事によるものと思います。その後2週間も、首から肩にかけて痛みが取れませんでした・・・やはり年取ってからは、あまり激しく危険な運動は考えものです。直接の原因は空手の稽古であったかもしれませんが、それ以前の長年の加齢変化という下地があった事も大きな要因だったと思います。というのは、長年織物時代に肉体を酷使したからです。考えてみれば、子供の頃から工場現場に入って、織機で織って出来上がった反物を検反場(検査&折り畳む)に運ぶ作業をよくしました。子供の頃は担ぐのは重いので、小さな台車に載せて運ぶのですが、台車に載せるのも力が要ります。高校生くらいになってからは担いで運び、時間短縮を図ります。60台くらいシャットル織機がありましたから、1日30本くらい運んだような記憶があります・・・反物を運ぶだけでなく、検反が終わった「空の棒」を織機場に戻さなくてはなりません。これには反物が巻き付いていませんので軽いですが、また邪魔臭い作業です・・・未だに、夢に出ます・・・(笑)。それだけ、イヤだったんでしょう・・・高校生、大学生、社会人と年齢を重ねる度に、肉体労働が増えました。糸(50ポンド入り=約23キログラム)が入荷したら、倉庫まで何百個も運んだり、反物を4,5反まとめて荷造りして出荷したり、4,50キロもある鉄製の空ビーム(経糸用)を担いだり・・・これらを担ぐのに、右利きでしたの右肩に載せるのです。特にシャットル織機の空ビームは重かったので(限界ギリギリ)、1本運ぶごとに真冬でも汗が噴き出たものです・・・これが、悪かったんですねェ・・・MRIで見ると、首の骨が少し変形していました。これも、頸椎症の原因なんでしょう。また、シャットル織機に経糸ビームを載せるのも1人でしていましたが、これが150~200キロくらいあったでしょうか・・・これが1番大変で、片方を先に載せて、もう片方を渾身の力で載せるのですが、これは気合と同時に自分の最大の力を出すために身体の重心を何処に入れたら良いのかを知るためにもイイ訓練でした。今から考えれば、よくそんな事をしていたものだと・・・織屋の職業病は腰痛と難聴と決まっていますが、実はそういう作業環境が原因だったのです。最新のエアージェット織機になってからは、そういう人力作業からかなり解放されました。織機自身が3,4倍の大きさになり、人力では運べなくなり、クレーンを多用した自動化が進んだからです。いずれにしても、人間の身体で首は頭と並ぶ最も重要な部位のひとつで、自民党の谷垣幹事長も自転車で転んで首を強打して大変な事になっていますし、私の知人でも過去に物置の下敷きになって首を強打して下半身不随になっている人もいますので、これから余程注意して生きていかねばと肝に銘じている次第です。という事で、今まで「自分は健康体だ!」と自信を持っていましたが、この1件でガタガタとその自信が崩れ落ちました・・・「もう60歳・・・」と悟らざるを得ないというのは、そういう事でしょう・・・これまで長年身体を酷使してきたバツでしょう・・・もうイイ年だから、チョッと大人しくしないと寿命が短くなるよという、天からの教示か・・・(笑)。アチコチ病院を回っていると、小学校の同級生にたまたま出会い、「どないしたんや?」と聞くと「どうもしてないんやけど、背中が急に痛なった・・・」と。何もしていないのに、突然体に変調が訪れる年齢になったのか・・・?これまで厄年の40前後で身体のガタを初めて感じ、50歳でガクッときて、今回60で更にガクッ・・・か。しかし、これでメゲル訳にはいかないと、自分自身に言い聞かせている自分がそこにありました・・・(涙)。たかが、右手が痺れているだけです。周りを見渡せば、いくらでも気の毒な身体の人が山ほどいます・・・そんな方に対して、たかが右手の痺れだけでワーワー騒ぐのは失礼です。とにかく当分の間この調子で生活習慣を変えて、症状が治まるのを静かジッと待つのみです・・・今以上に酷くならないように・・・ただそれだけを祈るのみです。空手はやはり右手にどうしても力が入りますので一時中断せざるを得ませんし、ウインドサーフィンをヤルのは未だチョット怖いですが、脱力で叩くドラムはそれほど影響はありませんのでバンバンやってます・・・(笑)。もう100%頸椎症が治る事はありませんが、多少痺れが残ったとしても、空手とウインドは身体と相談しながら何とかボチボチ続けたいと思うのです・・・(涙)。長年付き合ってきましたし、誰が何と言おうとも、それ無しでは自分が自分で無くなるような気がしますから・・・(涙)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.08.01
コメント(6)
全5件 (5件中 1-5件目)
1