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10年前のトランクルームオープン当初は、トランクルームという都会型ビジネスで地方には珍しかったのですが、貝塚市内にはすでに3軒が存在していました。近隣の岸和田には4軒、泉佐野以南(岬町まで)はありませんでした。しかし、弊社が泉南エリアではコンテナではない屋内型の115室(当時)という大阪では最大級で賃料が他社の半額以下(日本最安値)という戦略で出店すると、1年以内に貝塚の3軒すべてと、岸和田の2軒が撤退&廃業してしまいました。ビジネスは残酷なものです・・・特にエンドユーザー相手の商売は結果がすぐに分ります。消費者(エンドユーザー)に受け入れられなかったら流行らない・・・ただ、それだけの事です。1年でダメだという結果が出ているのに、2年も3年も赤字の垂れ流しをするバカな経営者はいないでしょう・・・後染め綿織物の日本有数の産地だった泉州で祖父の代から60年続けていた織物製造業も、昭和40年代前半の全盛期の680社(貝塚市以南)から98%も減ってしまい、今や10数社しか残っていません。長い歴史のあった泉州の地場産業が、50年でほぼ壊滅してしまったのです(たった2%に激減)・・・世界のグローバル化によって時代が完全に変わってしまい、中国を中心とした中後進国からの洪水的なアパレル製品や生地や糸の輸入で日本の産地が崩壊してしまったのです。10数年前に通産省前で全国の織物組合一緒になって3000人規模の「セーフガード(輸入規制)発動要請」のデモ行進をしましたが、何の効果もありませんでした。実際自分もわざわざ飛行機で東京まで行ってデモに参加しましたが、本来のような必死さは全くなく、単なるセレモニーみたいで拍子抜けしました。これじゃ、政府も動かないと・・・案の定、国はもう政治献金出来なくなった斜陽産業を見捨てたのです・・・もうこれ以上国をアテに出来ないと、心の底から思いましたねェ・・・自助努力しかないと。既に転廃業時に政府からの補助金制度がありましたし、もうこれ以上面倒を見れないというのが国の見解だったのでしょう。まァ、普通に考えれば至極当り前に事ですがね・・・まァ、時代の大きな潮流の前には成すすべもなく、自分の努力以前の問題だったのです・・・大きな流れに飲み込まれてしまい、どう足掻いても無理だったのです。それなら、40代のまだ残っているパワーを別の方向へ注いだ方が賢いと・・・と言っても、40代ギリギリの49歳でしたが・・・(笑)。50代に突入すれば、ズルズルとそのまま行ってしまう・・・という危惧があったのです。たかが40代、されど40代・・・40代と50代の間には大きな溝があったのです。イヤ、溝ではなく、大きな谷だったという意識です・・・これは単に転業だからという理由だけでなく、人生において50歳というのは男女にとっても大きな「節目」だと思います・・・しかし、あれから10年経って60歳になって思う事は、49歳なんてまだまだ若かったなァ・・・です。もう60歳という「次の節目」に立っていますから・・・(笑)。人生ホンマ・・・展開が早いです・・・(驚)。そして、まだ傷が浅いうちに廃業して正解でした。廃業(転業)2年後に、ちょうどリーマンショックでしたから・・・見方を変えればラッキーと言えるかもしれません。無理してあと2年余計に頑張っていたら、倒産するところです。という具合にあれから転業して丸10年過ぎ、トランクルームの方は割と順調に推移してきましたが、2年後の不動産屋開業、そして今年の音楽スタジオという順番に起業してきました。問題は音楽スタジオです。これはもう半分趣味の世界です。過去のウインドサーフィンブームに乗って、周辺のウインド仲間らはショップ経営に乗りだし殆ど100%失敗しました。自分も二色浜人工島にウインドサーフィンの艇庫経営を画策して、途中で断念して大正解でした。これらの経験で、「趣味を仕事にするのはタブー」という世間一般の常識に大いに頷いたものです・・・熱くなりすぎて、周りが見えなくなってしまうのです・・・これが失敗の主因ではないでしょうか?「好き」と「ビジネス」は違うのです。完全に切り離して考えないと。経営が失敗すれば、自分だけと違って、お客さん(エンドユーザー)にも迷惑をかけます。音楽スタジオ経営でも、ミュージシャンの立場として少しでもイイ楽器を揃えたいのは山々ですが、経営者の立場で考えるなら、お客さんの言われるままに楽器を買えば経営が成り立たなくなります。その辺が難しいですねェ・・・元プロミュージシャンやセミプロ級のアマチュアだと、設備機材や楽器にどうしても「こだわって」しまうのです。コダワルというのは恐ろしいです・・・彼らはプライドがあって、妥協できないのです。上を見ればキリがないので、コストがドンドン上昇してしまいます・・・幸い、私がミュージシャンと言っても、40年前にドラムを少しカジッタだけで、ただのロック好きのオヤジです。これがヨカッタのかも・・・(笑)。中途半端が不幸中の幸いです。趣味は中途半端でイイ・・・これ、普通のオッサンの実感です(笑)。もちろん、才能がある人は別です・・・世界に通用する天才はドンドンその道に進むべきです。そんな、ある意味冷静な立場でスタジオ経営を営んでいる訳ですが、一見これまでの織物業やトランクルームや不動産屋と180度違うビジネスみたいですが、実は「賃貸ビジネス」という意味で本質的にはトランクルームと同じという感覚でやっています。トランクルームは建物を単に区切って「月貸し」ですが、スタジオは付加価値(防音防振対策と楽器機材設置)をつけて区切り「時間貸し」なのです。トランクルームからスタジオへの発想は、音楽が好きで元ドラマーだったという理由だけでなく、24時間稼働の織物工場で防音と防振に関して経験済みだったからです。こんな2つの理由でスタジオを始めるのは、私が日本で初めてだと思います。ビジネスセオリーで重要な事は「他人が考えない事」ですので、アイデア自身は合格かも・・・(笑)。単に「儲かるから」では、失敗するのは目に見えています。音楽スタジオの難しいところがそこで、音楽に何の関心も無ければダメで、好き過ぎてもダメなのです。「ほどほどに」「中途半端に」好きなのがベストだと思います。そして、基本的なスタンスとして「儲からなくてもイイ」「トントンで充分」「半分ボランティア」というビジネスセオリーとは真逆の気持ちでないとダメだと思います。それくらい、音楽スタジオ経営というのは「水モノ」で不安定この上なく、それだけで長期的継続的にメシを食っていくのは難しいのです。スタジオをスタートさせてから、貝塚の音楽業界の重鎮であるキャリア60年の高校の大先輩N氏に挨拶に行った際に、冒頭最初に言われたのは「何で、事前に相談にけーへんかったんや?」「止めちゃーんのに・・・」でした・・・(笑)。80歳の今でも現役のプロのジャズのテナーサックス奏者で、ビッグバンドを抱え各地で演奏し、過去に楽器販売やレコード店や学校教材の納入もされ・・・これが、関西の音楽業界で超有名人のN氏の60年間の凝縮された言葉だと思います・・・それほど、音楽業界1本でメシを食っていくのは至難の業だという事でしょう・・・それと同じような経験を20年くらい前にしました。大阪ミナミ長堀の名もない小さな居酒屋のカウンターで飲んでいたところ、偶然にも隣に大阪NO1のジャズピアニストが来られました。北新地のジャズのライブハウスによく行っていた頃で、一目で分りました。「こんなところに、どうしたんですか?」と聞くと、「今日は私の初のCD発売日なんです・・・」という言葉に唖然としました・・・派手なセレモニーも何もなく、奥さんと二人で知り合いの店をひっそりと回り、CDを置いてもらう・・・世間話で「いくらプロでも、大阪ではメシは食えません・・・」という悲しすぎるストーリーには涙が出そうになりました・・・しかしそれから20年経って、たまたまその方とフェイスブックで繋がり、今もライブハウスに出演しながら大学教授になられているという事なので、メデタシ、メデタシです・・・(涙)。確かにその頃毎週のように通っていた、吉本興業がミナミ心斎橋の鰻谷にオープンした「アンコール」というニューヨークから招いたブラックミュージック(ソウル、R&B)ミュージシャンによるライブハウスもよく流行っているようでしたが、残念ながら2年ほどで閉店になってしまいました。如何に音楽のライブハウスを長期的に経営を継続するのが難しいか・・・見かけと実態は違っているんですねェ・・・特に大阪は、ミナミは泉州のお客さん、キタは京阪神や北摂のお客さんが多いように思いますので、キタのライブハスの経営は安定しているのに、ミナミは過去3,40年に殆どのライブハウスは潰れ、また新しいハコが出来ています・・・だから大阪市内に近い堺は別にして、岸和田以南にリハーサル音楽スタジオやライブハウスが殆んど無かったのです。イヤ、正確に言えば小さいライブハウスやリハスタがいくつかあったのですが、出来ては潰れの繰り返しの歴史で、どちらも殆どないのが現状です・・・(涙)。小学校の社会で、大阪府の「南北問題」というのを学んだ事が思い浮かびます。確か、年収で40%くらい北(北摂)の方が南(泉州)より高いのです。北摂は地方から出てきて新しく住み着いた一流企業のサラリーマン、泉州は土着民が多い地場産業の繊維と農業というイメージです。当然聴く音楽も北摂はクラシックやジャズやソウルやロック、泉州は盆踊りの民謡や歌謡曲やレゲエ・・・そんなイメージか?そんな、誰もが分るしょぼいマーケットに挑むなんて、気でも狂ったんとちゃうかと言われそうです・・・(笑)。親父がまだ生きていたら、100%大反対していたでしょう・・・高校時代、納屋でロックをガンガン大音量で聴いていたら、「とうとう、徹も気狂ってしもた・・・」と周りに嘆いていたくらいですから・・・(笑)。何故納屋で聴いていたかというと、2階の自分の部屋では薄いガラス1枚なので大音量で聴けば村中に聴こえます・・・壁の分厚い納屋(土蔵)なら、まだマシだったのです。でも、借金をせずに自己資金で賄い、リスクを最小限に抑えました。もし失敗しても、楽器機材を処分して、またトランクルームとして使えます。まァ、そんな事はあり得ませんし、最悪自分の趣味のドラム練習場になるだけです・・・(笑)。オープンして7カ月経って一番に思う事は、「地元にこれだけのミュージシャンがいてたんや(隠れていたんや)!」という驚きです・・・それを掘り起こしている、発掘している「炭鉱夫」の気持ちです・・・(笑)。炭鉱夫の役目でも充分です。それで喜んでくれる人がいれば、仕事をした甲斐があるというモノです・・・(涙)。誰かが喜んでくれる・・・「仕事」とはそういうモノだと思います。そして、高校生から70代まで年齢層が幅広いというのが、スタジオ経営の醍醐味です。特に高校生から20代前半のお客さんは、今後10年や20年くらいはリピーターになってくれる可能性大です。これは大きいですねェ・・・これまで織物業では取引先担当者は4,50代中心で、トランクルームも不動産も似たような年齢層が顧客でした。それがいきなり高校生ですから・・・新鮮です。彼らと喋っていると、音楽を通してこちらに若さがビンビン伝わってきます・・・大したスタジオでもないのに、「メッチャ、キレイ!」「広い!」「スゴイ良い機材!」と連発&感動され、褒めまくりです・・・こちらは、そこまで喜んで頂けたら、逆に恐縮します・・・(笑)。楽しいですねェ・・・これがホントのアンチエイジングか・・・?まァ、こちらが何も宣伝もしなくても、高校軽音楽部なんかは先輩からの「申し送り」という強力な口コミを期待できます・・・そして副産物として、彼らの親世代がちょうどバンドブームを経験した世代と重なりますので、相乗効果も期待できるのです・・・当然、来店数の絶対数が増えれば、エリアビジネスであるトランクルームや不動産ビジネスへの波及効果も期待できるのです・・・いずれにしても、こういう口コミを中心にして広がる音楽ビジネスというのは時間がかかると思います。自分が1から始めたトランクルームと不動産屋を経験して言える事は、軌道に乗せるのは「最低3年」はかかると思います。3年辛抱デキるか否か・・・3年で目途が立つと思うのです。ダメなら即止め、イケルならヤッテいく・・・簡単に言えば、ただそれだけの話です。世の中の商売で、一般的に言われているのは起業しても10年で95%が廃業倒産という事実です。不動産業界では10年で80%が廃業倒産と言われていますから、少しマシか・・・(笑)。この厳しい現実と表裏一体ながらも、全責任を背負ってヤッテいく覚悟です・・・てなカッコいい事を言っても仕方なく、気負い過ぎず肩の力を抜いて、淡々と毎日楽しく仕事する事です・・・(笑)。これが60年間生きてきたジイサンの生きる知恵かも・・・これからお客さんが順調に増えて来たら、Bスタジオ、Cスタジオ・・・という計画をすでに練っています。Bスタジオは11畳音楽スタジオ、Cスタジオは2面ミラー貼りでバレー・バーを設置しサンドバッグも吊るした33畳のダンス系、ヨガ系、クラシックバレー、空手(武道系)といった多目的スタジオです。私にとっても、ファミリーにとっても音楽とダンスに毎日囲まれているだけで幸せです・・・文字通り、Music&dance「スタジオ0724」です・・・楽器や機材や道具はトランクルームがありますので、いくらでも保管が出来ます。毎日音楽に囲まれているだけで、それだけで儲けもんです・・・(涙)。しかしこれが、単に音楽好きなジイサンのホンネ(願い)だったかもしれません・・・にほんブログ村 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2016.09.24
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ハイティーンから20代前半(高校大学)あたりで影響を受けたモノは一生を支配する・・・なんて、大袈裟ですが、私の場合当たっています・・・(笑)。空手を始めるきっかけは、もちろん高校時代に流行った映画「燃えよドラゴン」の主演ブルース・リーです。そして、フルコンタクト空手の極真会の創始者大山倍達です。大山倍達に心酔し、彼の著書を全て読破しました。残念ながら当時大阪には未だ極真会の支部が無かったので、家から通える関西外大の体育会古武道部(林派糸東流)で空手を始める事にしました。しかしその後、親父の心臓病の手術で家業を今まで以上に手伝わなくてはならなかったので、途中で退部して地元貝塚の沖縄本部流盛道館(現・本部流盛道派)に転向したのです。「ブルース・リー」ブームの数年前の小学生の頃に、日本でキックボクシングブームというのがあり、毎週キックボクシングの実況テレビ中継があり、日本の剛柔流空手出身の「沢村忠」がスーパースターであり、タイのムエタイ選手らとエキサイティングな試合をして日本中熱狂していたものです・・・その沢村忠を題材にした「キックの鬼」というアニメもテレビで放映していましたので、小中高生も熱心に見ていたという「下地」もあったのです。まァちょうど、沖縄空手と並行してウインドサーフィンを始めました。元々昔、地元二色浜海水浴場の北隣の脇の浜(現・二色コスタミラあたり)でシングルハンダーのヨットをしたかったのです。家から近かったし、サーフィン全盛の頃でしたが、「みんなと同じ事をしたくない!」という意味もあって、「ヨット・・・オモロそうやな、女にもモテるやろ・・・」なんてミーハーな気持ちで、岸和田の岸田スポーツでヤマハのシーホッパーのローンを組んだのです。この持って生まれた「みんなと同じ事はイヤだ!」という私の性分は、ビジネスには向いていると思います。なぜなら「みんなと同じことをしたい!」「異端児はイヤだ!」では商売になりませんから・・・(笑)。日本の公教育や受験体制では実社会とは違う「ひとつの答えを導き出す」のを主眼としていますから、オリジナル発想が生まれにくいのは仕方のない事ですが・・・ビジネスにはニュービジネスやニッチマーケットを見つけるのが何より大事ですから、若い頃から集団行動(スポーツ)に慣れ親しむのはかえって邪魔な場合が多いのです・・・「一匹狼」的で誰にも毒されない感覚や嗅覚、覚悟が経営者には必要なのです。ちょうどそんな頃、サンケイ新聞の泉州版に「若者のニュースポーツ!ウインドサーフィン体験スクール」なる記事が目に飛び込んできたのです。「ヨットみたいで、オモロそうやな!」とピンときて、早速その週の日曜日に樽井浜へ行ったのがウインド人生の始まりでした。ヤッテみると、最初はなかなかセイルアップも出来なくて難儀しましたが、一度10メートルほど水上をスルスルと滑ると、今まで体験した事のない何とも言えないな気持ちよさで、すぐにこの「快感」にハマってしまいました。直ぐに地元樽井浜のウインドサーフィン愛好クラブ「泉南フリート」に入会して、ヨットのローンは直ぐに取り消しウインドサーファー艇(木製ブーム&木製ジョイント)のローンを組みました・・・(笑)。1979年当時、ウインドサーフィンブームが始まりかけ、ナント注文してから納期が1ヶ月もかかり、セイルの色も選べなかったのです・・・ウインドサーファーの値段がシーホッパーの半額くらいで、シーホッパーは1人で運ぶのは無理で、ウインドなら1人で出来る気軽さがヨカッタのです。「これはオモロイ!最高や!」と始めてから凝り始め、とうとう大学にウインドサーフィン同好会まで創ってしまいました。遊びでやるよりレースの方がオモシロいという事で、出来て間もない全日本学生連盟に加盟しました。関大の創部者の石田君と一緒に新幹線に乗り、東京の岸記念会館まで行って、関東学連の熱烈な歓迎を受けた事が今でも忘れません。「僕らと一緒に、日本のウインドサーフィン界を盛り上げていこう!」みたいなノリで、関東では信じられないくらい盛り上がっていましたねェ(関西ではまだそれほど流行っていなかった)・・・当時の関東は、情報や道具が関西より1,2年は進んでいて愕然としました。関西では一般人のヨット的なトライアングルレースが主体でしたが、湘南あたりでは学連中心のそれをもっと強化した上に、関西人が見た事もないジャンプやウエーブといった世界的な流行であったハワイアンスタイルもボチボチ広まっていたのでした・・・(驚)。そして、まだ結成していなかった関西学生連盟も他大学4校と一緒になって慌てて設立したのでした。会社の起業と同じで、全く新しいスポーツを大学に同好会や学連を創って世の中に普及させるというのは、想像を遥かに超えた充実感と快感がありました。先輩も誰もいなく「我々が1番最初」というのは多少の苦労もありましたが、それを超えた「作り上げる」充実感や快感の方が遥かに上回っていたのです。そして何より技術的に我々が日本のトップクラスで「我々が(業界を)引っ張っている」という自負が大きな自信の裏付けでした。当時は「家業が大変なのに(父親が心臓病)、こんな事をヤッテいていいのだろうか?」と「イヤ、今好きな事をやらないと・・・」いう心の葛藤に悩まされ続けていました・・・しかし「ウインドサーフィンという新しいスポーツを最先端でやって、クラブ(同好会)や学連を創った事が社会人(経営者)になればきっと役立つはずだ!」と勝手に落とし所を見つけ、自分を無理やり正当化し納得させていたのです・・・(笑)。顧問の部長にそれまで何の接点も無かった体育学の来栖教授に依頼すると「ヨッシャ!なったるで!」と、ひとつ返事でなって頂いたのも追い風になりました・・・(涙)。まァ、これが総合大学で野球や柔道といった沢山の先輩がいるような伝統クラブだったら、「何を言っているのや?アホか!」でシュンとなって一巻の終わりだったでしょう・・・人生を振り返ると、このウインドサーフィンと家業の織物工場の最新機械(エアージェット織機)に不思議と共通点がある事に気づきます。先ずどちらも、これまでになかった全く新しく「発明された新製品」です。そしてやり始めた(導入した)のが、爆発的ブーム(バブル期勃発)の前年です。この「前年」というのが最も大事かつ重要で、ブーム(バブル)の時は既にこちらは「軌道に乗っていた」のです。この「差」はとてつもなく大きく、こちらが絶対的有利な立場でした。ブームになってから始めたのでは、遅すぎるのです。人より先に始めたというのは、たまたま偶然の成り行きだったのです。「運」以外何ものでもありません・・・まさに強運だったのでしょう・・・(涙)。まァ、ともすれば自信過剰に陥りがちだったですが、その「勢い」のまま卒業してサラリーマン生活に突入し、新規開拓をバンバン出来たのだろうと思います。元々頭にそれほど自信がなく行動力で自己実現するタイプなので、大学時代の「体育会で空手」&「ウインドサーフィン同好会創部」というノリが自分に合っていたのでしょう・・・家内とは偶然にも樽井浜でウインドサーフィンをキッカケに知り合いましたが、もし家がサンケイ新聞を取っていなかったら、或いはサンケイの泉州版の記事を見逃していたら、そもそもウインドサーフィンスクール行かずヨットを始めていたら全く違った人生を歩んでいたでしょう・・・人生とは、運命とは・・・ホント、些細な事で変わるものです・・・1968年にアメリカでウインドサーフィンが発明され、日本(関東)に入ってきたのが1973年。関西では琵琶湖が1975年に1番早く普及したと、泉南フリートの先輩から聞いています。しかし当時のウインドサーフィンの世界チャンピョンは、当時まだ10代のロビー・ナッシュでした。確か13歳でワールドチャンピョンになり、その後何十年とチャンピョンだった伝説のウインドサーファーで、愛好者なら誰でも知っています。今52,3歳くらいでナッシュブランドの経営者で、大会には出ていないようで、ウインドよりカイトサーフィンに力を入れているようです・・・アスリートでありながら経営者という2つの顔をもったレジェンド。ミュージシャンでありながら自社レーベルをもった(経営者)ビートルズや矢沢永吉といったアーティストと同じです。趣味と仕事が一体。この過去に誰もが陥った「危険な間合い」を制した・・・正に、素晴らしい人生・・・この一言に尽きます。人気&実力がダントツで、賢かったから成しえた偉業だったと思います。殆んどの人は自分の「実力=ビジネス」と錯覚して、能力もないのに経営に乗り出して失敗しています・・・古いウインド仲間の多くがショップ経営に乗り出して、100%例外なく潰れてしまいました・・・未だにウインドを3,40年も続けているのは、趣味でヤッテいた者だけです。それほど一般の人間が、趣味を仕事にするのは至難の技だという好例です。日本チャンピョンどころか、世界チャンピョンだったロビーナッシュでさえ、ブームが去ってしまったウインドだけでメシを食うのが難しいのが現状かと思います・・・一般の人間が、才能(実力)とビジネス(能力)という相反する問題を、そのビミョウな「間合い」をどう取るか?この「間合い」を制する者だけが成功するのでしょう・・・私も残り少なくなった人生、考え方だけでも1ミリでも近づきたいものです・・・(涙)。音楽やウインドサーフィンと同じように、「それでメシを食っていく」なんて発想の無かった空手でも、フルコンタクト空手を最初に始めた極真会の大山倍達氏から始まったかもしれません。2020東京オリンピックの正式種目に決定した全日本空手道連盟の伝統空手(寸止め)では、今でもその発想はあまり聞いた事もありませんし、私が今学んでいる沖縄空手でもプロの空手家になるのは戒められています。あくまでも空手は趣味に留めておけ・・・と。ただ、世界中に広がった近年のフルコンタクト空手の目覚ましい発展と普及には、空手に本腰を入れた職業人としての空手家達の存在が大きいのは間違いありません。ドラムを始めたのが40年前ですが、直接のキッカケは大昔過ぎてもう忘れてしまいました・・・(笑)。今でも決して忘れないのは、高校時代にテレビの音楽番組でドラムの「つのだひろ」さんがスペースバンドというバンドを率いて、洋楽のコピーか何かを演奏していた時です。「何や!このドラムの音は!?カッコいい!!!カッコ良すぎる!」と脳天に衝撃が走ったのです・・・それほど、彼のドラムの音が衝撃だったのです。テレビの音でこれほど衝撃的だったという事は、生で聴いていたら失神していたでしょう・・・(笑)。これまでレコードで聴いていたロックバンドのドラムの「オト」とは明らかに違うのです・・・・この衝撃的な「出会い」以前にも、小学校に入る前からだんじりの和太鼓を叩いたりして、太鼓(ドラム)の音が好きだったという下地があったのは言うまでもありませんでした。小学校4年の時のビートルズ来日の記憶が鮮明に残っているというのは、元々音楽が好きだった証拠です。その頃GS(グループサウンズ)大ブームがあり、テレビの素人バンド勝ち抜き合戦をかじりついて見ていました。ちょうど決勝戦で「モージョVSオレンジペコ」というのがあり、これがまたアイドル的だったGSバンドとは一線を引き、その後現れたモップスやゴールデンカップス風な正に「ロックバンド」サウンドであり当時10歳の私にとって衝撃的でした・・・50年経った今でも充分通用するようなサウンドでした。素晴らしい芸術(音楽)というのは、時代に関係ないと思いますし、その音楽にスタジオ経営でほんのチョッとだけ関わっているというだけで、精神的にも休まる部分があるというのは決して小さくないですねェ・・・(涙)。それが2,3年後の中1から洋楽ロック(ブラスロックのシカゴなど)にハマった「下地」だったのです。何でも理由(生まれつき、才能、遺伝、生い立ち、教育)があり、下地(歴史)があるのです。何もなしで、いきなりボン!・・・というのはあり得ません。高校オーケストラ部でトランペットを始めたのも自然な成り行きです。ただ、当時エレキギター&洋楽の軽音楽部というのはどこの高校にもなく、泣く泣くクラシック音楽中心の部活に入らざるを得なかったのです・・・(涙)。今考えると、それはそれで集団(管弦楽団)練習の経験にもなりましたし、ロックとは真逆のクラシック音楽(一部映画音楽)にドップリ嵌った経験が、自分の耳とハートの許容範囲を広げるのに役立ったのか・・・とポジティブに考えています(笑)。トランペットをやったお蔭で「自分には管楽器は向いていない!」と才能の無さに目覚めさせてくれました・・・(笑)。「やっぱり、オレには打楽器しかない!」と。若い頃にイロンナ事に無茶にチャレンジするのは「自分に向いているか?」「楽しいか?」「才能(能力)があるか?」という刺激(経験)を身体の五感とハートに取り入れるという意味で、非常に大事だと思います。それが若者の特権です。年とってからでは遅いのです・・・イヤ、遅くはないですがイロンナ意味でリスクを伴います。そして、高校同級生の友人のフォークソングデュオにボンゴとしてサポートメンバーで入り、中学同級生のバンドでドラムを始めたのです。ドラムも天王寺の楽器店でヤマハの中古のドラムを2万5000円で買い、自宅納屋で古くて小さいレコードプレーヤーと小さいカセットプレーヤーを聴きながらドンドコ始めました・・・ちょうど納屋の2階にサンドバッグも吊っていましたから、もちろんエアコンもない納屋でしたので、汗だくになりながらドラムを叩き、それに飽きたら2階で回し蹴りをヤッテいました・・・環境は格段に良くなっていますが、40年後の今も全く同じ事をしています・・・(笑)。人間って、変わらない(変えれない)モンですねェ・・・(笑)。そして、大ブームの前年スタートしたウインドサーフィンとエアージェット織機と同じように、来年再びバンドブームが起きる事を祈っています・・・(笑)。これだけデジタル化社会が進んだ「反動」で、「アナログ」への回帰の一環としてライブハウスやリハーサル音楽スタジオへの見直しが必ず起こると思うのです。にほんブログ村 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2016.09.17
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10年前のトランクルーム開業当初から「日本最安値!」「日本一安い」を標榜しています。お客さんの中で、関空関連の仕事で東京(羽田空港や成田空港)から関空のおひざ元の泉州に転勤になって、弊社トランクルームを利用される割合が年々増加しています。彼らが一様におっしゃる言葉が「安い!」です。もっと具体的に言えば、東京23区のトランクルームより格段に安いと目を丸くしています。そりゃ、そうでしょう・・・弊社の「平米賃料」は大阪市内の3分の1、東京23区の6分の1に設定していますから。当たり前の話です。では、何でそんなに安いのか?理由を並べると、1.東京23区と貝塚市の地価が違います。これはビジネスの根幹に関わる事で、都会の土地の値段(地価)は高く田舎は安いのは当たり前で、何処に会社(物件)があるかで、ほぼ会社の基本戦略が決定します。もちろん貝塚市は土地が都会に比べて安いので、固定資産税も安くランニングコストで大きな差が生まれます。「何で、東京と貝塚を比べんのや?」とツッコまれそうですが、結構東京の方が弊社トランクルームを利用されているのです。海外転勤で東京の自宅に荷物を置けない場合(賃貸なら解約、所有なら賃貸に出す)、引越運送便でもシーズンによって或いは交渉によって、東京から大阪まで案外安く出来ます。特に弊社はサカイ引越センターさんとアリさんマークの引越社さんの両社と正式に業務提携をしていますので、「特別価格」が期待できます。海外から帰国する場合、荷物は安くて安全であれば日本国内の何処のトランクルームでもイイ訳です。正に、考え方次第です。賢い人はそう考えますねェ・・・それに白羽の矢が当たったのが、弊社トランクルームなのです。それには副産物があり、賃貸マンションでも審査があるものですが、弊社トランクルームも独自の基準がありますが、だいたいそこまで考えて大阪のトランクルームを借りようとするお客さんは身元がシッカリしているものです。弊社も安心してそういう人に貸せるという訳で、海外転勤となれば2,3年は全く来られませんので弊社にとって手間が省けるという2重のメリットがあったのです。よく引き合いに出されるのがトランクルームとシャッター付ガレージですが、トランクルームの利用の仕方(実態)は、車のガレージ(月極駐車場)と根本的に違い、車はほぼ毎日利用するのでガレージは自宅近所にないと不便ですが、トランクルームは自宅近くにある必要はないのです。何故なら、トランクルームユーザーの利用の実態は、「年平均2,3回」だからです。「安くて安心出来る(低価格&高品質)」で片道1時間以内なら、大阪市内や堺市内だと十分弊社トランクルームの商圏内だったのです。弊社のお客さんで1番遠いのは名古屋市の方です。何で?冗談でしょう?・・・と思われると思います。ところが、このお客さん、大阪のUSJに年に何回か行かれるので、「そのついでに」弊社に寄るのです。大都会の名古屋市内のトランクルームは家賃が高く、郊外に行くとコンテナばかり・・・そんな不満を解消するのに弊社がピッタリだったのです。そんな使い方もアリかな・・・と。このお客さん、かなり知恵が回りますねェ・・・相当賢いと思います。2.自社所有の土地と建物他人の土地や建物を借りると家賃が発生します。この家賃がバカになりません。これがゼロですから、100m走で20メートル前(先)からスタートするようなものです・・・(笑)。ついでに言えば、大手チェーン店のように新築物件ではなく、もう減価償却の殆ど終わった築30年の織物工場をリノベーションしましたので固定資産税も安く、これも競争力に一役買ってます。土地と建物の固定資産税はジワジワと経営を圧迫します。滞納すれば差し押さえられます。それが登記簿謄本に載りますし、あとで納付しても履歴が残るのです。企業力の差は、こういった小さい事の積み重ねだというのは、大企業も零細企業も同じです。しかしトランクルームが建っている場所は自社の土地と言っても、私の本籍地の番地です。曾祖父が江戸時代末期の150年前に、2軒隣りの母屋(本家)から隠居(分家)した場所で、祖父も父もここで生まれたのです(母屋&隠居は泉州弁)。そんな場所ですし、私もまだ昭和の人間ですので、古いかも知れませんが、この土地だけは守りたいというのはまだありますねェ・・・(涙)。だから安心してください。仮置きしているだけのコンテナ型トランクルームみたいに、「ある日突然無くなった!」というのはありませんから・・・(笑)。しかし、本籍地というのは現行の戸籍法では任意に定める事ができますが、本来の意味での何百年も前から続く本籍地でビジネスをしている経営者と言うのは地方ではいざ知らず、3大都市圏で実際営んでいる経営者は殆んどいないと思われ、私は何もしていないので、ある意味相当ラッキー?だったなのか・・・3.無借金10年前の織物業廃業と同時に、金融機関からの借金を全額返済しました。こんな事を堂々と言えるなんて、涙が出るほど嬉しいです・・・それほど借金があるというのは、負担が大きくのしかかってくるのです。特に中小零細企業の経営者は、金融機関に対して不動産担保を取られるのはもちろん、「個人保証」をしているのが殆んどで、会社の倒産=個人の自己破産ですから必死のパッチです。それだけでなく、相続の相談でよくトラブルがあるのが「ハンコ(実印)のつきあい」です。金融機関から借金をする時に連帯保証人を2人以上求められる場合がありますが、1人目は経営者自らですが、2人目が問題です。2人目を親戚や友人にしてもらう(依頼する)場合、その人が借金する場合必ず連帯保証人を頼まれます。仮に自分が1000万円借りたとしても、連帯保証人の分も含めて実質2000万円借りた事になるのです・・・これが「ハンコのつきあい」です。「2人目だから」と言う理由であまり説明もしないまま、ハンコをつかされるケースが多いのがトラブルに繋がります。連帯保証人であれば、1人目も2人目も関係ありません。契約者(債務者)と同列、全く同じで、同じ金額借金をした事になるのです。保証人と連帯保証人は全く違うのです。無知では済まされないのです。そして、故人が「誰かの連帯保証人になった・・・」と言うのは、非嫡出子(法律上の婚姻関係がない男女の間に生まれた子どものこと)の存在と同じように案外家族に言ってない(言えない)のが、トラブルをより複雑化させます・・・何故なら「連帯保証も相続されるから(嫡出子と認知された非嫡出子の相続分は同じ)」です。親父が亡くなったから、他人の借金にハンコを押した(実印を押して連帯保証人になった)のは法律的に決してチャラにならないのです。幸い、家業で商売をやっていましたので、サラリーマン家庭よりこの辺はシッカリしており、子供の頃から「ハンコ(実印)は絶対押したらアカンどォ!」と親父からクギを刺されていました。実社会に揉まれて生きる知恵は学校教育だけでは無理で、家庭での教育も大事になってくるのです・・・大学受験は人間性や人格を問われる事なく国公立は5教科、私立は3教科だけで切り抜けられますが、人生を乗り切るにはそれだけでは済まされませんし足らないのです・・・以前紹介した米国「MTB殿堂」入りを果たした「自転車の神様」と言われていた友人のお父さんが、高校生だった私達に「人生、社会に出てからが本当の勉強(実務経験&机上の勉強)や・・・」と言っていた言葉が未だに忘れられないのは真実を突いているからだと思います。まァ大袈裟でも何でもなくて、実際周りで借金で人生が狂った人(倒産、夜逃げ、自殺、病気、蒸発、離婚、家庭崩壊)の多い事多い事・・・(驚)。「人生、やっぱり金だな・・・」なんて決して言いたくありませんが、誰でもかなりの部分で金に頼る事(解決できる)が多いのは紛れもない事実です。だからこそ当たり前ですが、多くの人は毎日一生懸命仕事をしているのです・・・金融機関からお金を借りれば、当たり前ですが元本だけでなく金利(利息)も払わなければなりません。会社経営していると、これが24時間いつも頭の中にあるのはどんな経営者でも同じです。という事は、借金が無ければ熟睡できるのです・・・(笑)。不動産屋の仕事で任意売却物件を取り扱う時にいつも思うのが、債務者の支払いが滞ると「最近の銀行は情け容赦ないなァ・・・」です。銀行内の社員の査定が厳しくなったのか?会社なら儲かっている時、個人なら昇進して給料が上がっている時は銀行はドンドン金を貸してくれます。業績が下がったり、リストラで会社を首になった時は、銀行は「金を返せ!」と畳み掛けてきます。正に銀行は、晴れの日に傘を貸し、雨が降ったら傘を取り上げるです。不動産の事業用物件の仲介していると、殆どの借主が最初から銀行融資を当てにしているのです。個人の住宅ローンもそうですが、やはり必要資金の最低20%の頭金がなければ計画をやめた方が賢明です。不動産コンサルティングマスター資格と住宅ローンアドバイザー資格も持っている私ですが、勧めるだけでないのです。お客さんの事を考えれば、時には言いにくい事も言わなければならないのです・・・4.薄利多売(大阪最大級171室)大阪の商売人の基本は「薄利多売」です。織物時代にこれが身に沁みました。もう完全にDNAに組み込まれていますので、利幅を取って高く売れない(貸せない)のです・・・(笑)。もっと家賃を高くして貸せばいいのにと人からよく言われますが、残念ながらそれがデキないのです。お客さん(エンドユーザー)にとっては、喜ばしい事ですが・・・音楽スタジオも「22畳で1時間1500円」と大阪最安値にしてしまったくらいですから・・・(笑)。大阪最安値というより実質「日本最安値」ですが、スタジオの場合エリアビジネスなので、「日本」をつけても意味がないのでコピー的にそうしたまでです。織物時代は委託加工の所謂「賃織り」で、情けない話・・・1m織って50円、60円の世界です。安ければ30円台、せいぜい90円台で100円超える織物はバブル期に記憶があるだけです・・・バブルが弾けてから珍しく1mあたり100円近い加工賃の仕事を喜んで受けていると、それがヨーロッパ有名ブランドのレディスサマースーツ向けで、店頭販売価格が1着20万円もするというではありませんか・・・(驚)。1着せいぜい4mしか使いませんから、生地代(加工前)がたったの400円弱・・・それが20万円に化けるのです・・・この一件で、もう単なる下請けはバカらしくなりましたねェ。やはり、物販の流通やサービスでも、エンドユーザーに近いところで主導権を握らないと報われないと・・・実はこの一件も、転業の一因だったのです・・・まァしかし、こんな事を24時間フル稼働で年間わずか10日しか工場を止めず、月産20万mも織る訳です。家庭サービスもそこそこに、趣味のウインドサーフィンもあまり出来ず、仕事仕事の20年でした。正に真面目に取引先の言う事を聞き、文字通り身を削って一心不乱に働いていたのです・・・(涙)。こんな事を20年間もやれば、誰でも「高く売ろう!」なんて思いませんし、そんな発想も出来ません・・・(笑)。5.事務員なし(1人経営)従業員を雇っていません。所謂、家族経営ですが、私が専業で他の家族は仕事や用事をしていますので、実質的に私1人でトランクルームと不動産屋とスタジオを経営しているのです。ひとりで3つの仕事をやっていて大変なようですが、パソコンとスマートフォンを駆使し、5台の防犯WEBカメラと2台のドアフォンを駆使できれば、案外そうでもないのです。家でも対応できますし、外出先や海外旅行に行っていても対応できるのです。ホント、イイ時代になりました・・・(涙)。10年前なら難しかったかもしれませんが、私は何の努力もしていないのに、勝手にパソコンと携帯電話の飛躍的な進歩の恩恵に与かっているのです・・・(涙)。まァ、事務員を1人でも雇うと、毎月給料や保険代も掛ってきますし、解雇も難しくなります。何処の企業も人件費が悩みの種ですし、収益を圧迫する経費の中でも人件費が1番です。特に零細企業は「人件費は悪!」と思って、経営者自ら「すべて自分でヤルのだ!」くらいの気概をもって仕事をしなければダメでしょう・・・如何に人を減らして、売り上げの最大化を図るかが企業経営の至上命題です。減らすと言っても優秀な従業員に辞められると困るので、その辺を如何にバランスを取っていくのが難しいですが・・・これまで祖父や親父の代は40人、私で10人も雇っていましたが大変でした・・・特に私の代は月産20万mの織物を10人で24時間エンドレス稼働(年355日)を20年間も続けていましたので、この「機械を絶対止めない!」苦労は筆舌に尽くしがたいモノがあります・・・(涙)。その大変さを考えると、1人の気軽さ自由さは何ものにも代えがたいモノがあります・・・それは残念ながら、経験した者でないと実感が湧きません。織物業に戻るくらいなら、「何でもしまっせ!」というくらい少々の苦労やしんどさは何でもありません・・・(笑)。正直に言うと、それほど織屋は肉体的にも精神的にも苦しく辛かったですね・・・(涙)。唯一の楽しみは、他社の半分の人件費でエンドレスで回して「儲ける事」でした・・・それも悲しいですねェ・・・織物業ラスト1,2年はその唯一の楽しみである「儲ける事」もままならず、「これだけ努力してもダメなら、今のうちに廃業や!」と決断したのでした。6.SPA(製造小売り)スタイルを真似た!最後は最も肝心な事で、今日本の流通業界で儲かっている筆頭としてユニクロやニトリがありますが、彼らのようなSPA(製造小売り)というスタイルをトランクルームでも見習っている点です。一言で言えば「1~10まで自前で商売をする」という事です。製造企画から店頭までの間に問屋や商社を介在させず自社で全て完結させ、中間流通(マージン)を省くのです。普通に考えれば、中抜きを(中間業者を排除)すればその分儲かるのは当たり前です。織物時代はユニクロが扱っている「カジュアル」分野の織物も生産していましたので、ユニクロの全盛期には大阪本町の繊維問屋がバタバタ潰れていったのをこの目で見たのがイイ勉強になりました。たいした機能もなく、単に「通す」だけでマージンが入っていた業界というのも、考えてみればオカシナものでした・・・考えてみれば衝撃的なユニクロの躍進は、未来の繊維業界にとってヨカッタのかもしれません・・・この経験で、トランクルームに転業する時は「業者に任せずエンドユーザー直」で商売しようと心に誓ったのでした。賃貸マンション経営でも、地主が途中で破産したりして社会問題になっていますが、すべて業者に任せているからです。普通に考えれば、主導権(企画、建築、集客、契約、管理)を相手にすべて握られれば負けるに決まってます。歩合給の営業マンが必死に売り込みをかけ、知識量で劣る地主が押し切られる・・・そんな構図が浮かび上がります・・・少子化で人口が減っていて、しかも日本の空家率10数%が更にドンドン上がってきています・・・人口が減っているのに、賃貸マンションや建売がドンドン建てられればどうなるか?建築業者は会社存続の為、資金繰りの為にドンドン建てなくてはならない宿命です。小学生の子供でも、「その先」は予想できます・・・そんな逆境の中では少しどころか、地主も必死に勉強して業者と同等レベルの知識(建築、不動産、税金)を持たないと、この「戦い」には負けるでしょう・・・そうなれば、営業マンはそそくさと退散するでしょう・・・(笑)。賃貸マンション経営は何千万もかかるひとつの事業(ビジネス)なので、本来は業者も地主もどちらも真剣勝負でなければなりません。まァしかし根本的に多くの地主さんは、残念ながら賃貸マンション経営を「ビジネスとして」捉えていないのかもしれません・・・そんな中で私の知っているマンション経営で成功している地主は、設計事務所に図面を書かせ、建物工事は工務店に丸投げせずに職人を1人1人雇い自ら管理監督をして材料も支給し、客付も一般媒介で複数の不動産屋を競争させ自らも集客をして契約を締結しています。管理も管理会社に任せず、自ら管理しています。正に、ユニクロやニトリと同じことをしているのです。規模は違いますが、経営の考え方は全く一緒です。これが儲かる秘訣です・・・イヤ、秘訣も何もなく、これがデキるかデキないかの違いです。イヤ、もっと以前の心の底から「自分でヤロウ!」と思うか思わないかの違いです。実は、ビジネスなんて最初から勝負が決まっているのです。私ももちろん最初研究の為に、業者の資料を取り寄せました。すると賃貸マンション業者と同じように、トランクルーム業者からのセールス攻勢に合いましたがその「手」に乗らず、逆に業者の経営スタイルを探る事によって勉強になりました。自社で1~10までやると言っても、私1人です。その辺の事は、既にこのブログに書いていますので詳しくは書きませんが、これまでに人生を振り返ると「最初が肝心」というのを強く感じます。大学生の頃に熱中して大学に学連加盟のクラブまで創ったウインドサーフィンレースも、「スタートで順位が90%決まる」と言われていました。織物時代のエアージェット織機という最新式の機械を導入した時も、機械の性能を100%引き出すには地下ピットを掘った新築工場しかないと、単なる改造と違って新築には資金もかかりましたが、そうやって最初から勝負に出たのが正解でした。そしてその新築工場がまさか、その後トランクルームに生まれ変わって「再生」するとは夢にも思いませんでした・・・(笑)。今考えると、将来トランクルームに転用するのを予想してレイアウトしたのではないか(図面を書いた)というくらい、搬入口もクレーンの位置もバッチリだったのは自分でもビックリするくらいです。という事で、世の中は変わっていくのが常ですが、それに伴って様々な事やモノや考え方も変わっていくものです。そして、残念ながら誰にも予想できません・・・占い師も、政治家も、経済学者も、日銀総裁も、未来学者も、上場企業の社長も、オーナー経営者も、米国FRB議長も、ロックフェラー家も、ロスチャイルド家も・・・誰にも頼らず、自分の将来は自分の頭で考えるしかないのです・・・トランクルームの「SPA発想」も、下請けで長くて苦しく儲からない織物時代があったからこそ閃いたのであって、何もないところから突然思いついた訳ではないのです。そもそも織物業も、家業だからで・・・長男だったからです。それがもっと賢ければエリートサラリーマンを目指していたかもしれませんし、次男であれば別の方向へ行っていたでしょう・・・スタジオが閃いたのも、昔バンドマンだったのとトランクルームが結びついただけです。誰でも「今」があるのは、これまでの毎日の積み重ねストーリーの延長線上です。突然変異や誰かのアドバイスや本読んだりして、人生が突然変わるモノでは決してないと最近シミジミ感じます・・・にほんブログ村 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2016.09.09
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「100歳まで生きる」なんて公言しましたが、そうなる為に生活の知恵や工夫が必要なのは言うまでもありません。人体の寿命や病気に大きく関わっているとされるのは、誰もが認めるのは「ストレス」の存在です。日本人女性は、男性より7歳ほど長く生きて87歳まで生きるようです。世の奥さんが旦那さんより短命なのは「旦那さんの存在そのものがストレス」だったり、奥さんが長寿なのは旦那さんが亡くなってストレスが無くなったから・・・(笑)。これって、真髄を突いています。これは男女間の問題だけでなく、男同士の付き合いでもベタベタはNGですし、着かず離れずの「君子の交わり」がちょうどイイのです。やはり人間というのは「ひとり」になって、自分で考え行動、そして自己研鑽する事によって人生というモノを充実させ、ひと回り大きな魅力的な人間に変わる事によって「相手」を魅了させ、その関係を継続させることが出来ると思うのです。「1年前と一緒」の男なんて女に愛想をつかされ、互いに競争して高め合う「男の友情」も築けません。極真会の大山倍達氏がよく言われていた「男子3日会ざれば、括目して見よ」という言葉が正にそれを表しています。しかし、私の母親も親父が亡くなってから19年も経ちますが、ピンピンしてます・・・(笑)。逆に知り合いの未だ70代のお父さんが、奥さんが亡くなってから急速に元気が無くなり、1年で老衰で亡くなったと・・・男と女でこれほど差があるのか?・・・と思うと同時に、如何に「人生とはストレスとの闘い」かを思い知らされます。そういう事を考えると、長生きしたければ、根本的に人生設計をひとつひとつ見直す必要があります。私の場合、最近目覚まし時計をセットするのを止めて、自然に目が覚めるようにしました。これまで人間の睡眠サイクルは90分という事で、90分(1時間半)×4の「6時間睡眠」で目覚ましをセットしていましたが、前日の体調によって睡眠の深さに差があり、90分サイクルというのも無理があるのだと分かりました。スタジオは22時までやってジムも辞めましたので、今は就寝時間は夜9時~11時くらいとバラバラで、起床時間も朝3時~6時くらいまでとバラバラになっています。しかし、22時~2時の4時間間のゴールデンタイムはシッカリ寝ていますので、睡眠の質としてはイイ線だと思います。いずれにしても正に、早寝早起きです。まァ、60年間生きてきて、早寝早起きはカラダに良いのは間違いのない事実だと思います。2つ目は、夏は「スーパークールビズ」と称して、ランニングシャツ(タンクトップ)に半パンのセッタでの出勤が多いです。多いというのはケースバイケースで、お客さんがある時は長ズボンに開襟シャツに靴~Tシャツに半パンにセッタと、お客さんに失礼のないようにギリギリのコーディネートを考えています。この半袖Tシャツからランシャツに変えると、チョッと大袈裟ですが、「人生変わります」。肩の周りがフリーなほど楽な事はありません・・・半袖Tシャツと体感温度が全然違いますし、これだけでもストレス軽減に一役買っています。まァそれほど、衝撃的な「変化(リラックスへの)」です。そして、間違っても冬でもネクタイはしないですねェ・・・(笑)。家でも昔から、初夏から秋先までの4,5カ月は「パンツ(下着)1丁」です。娘が小学生高学年になった時に、私のブリーフ姿が「気持ち悪い」と言われてから無理やりトランクス派に変わりましたが・・・(笑)。今でも風呂からあがって暫くは、リビングの扇風機の前でフリチンで乾かしながらビールをグイッ・・・(笑)。全く無防備、これでストレスフリーです・・・しかし、これが私の大事な毎晩のルーティンでした・・・(笑)。とにかく、家でリラックス・・・もちろん、家族に迷惑の掛からない程度に。これら以外に1.「記憶する(覚える)事がストレス」年を取ると覚えが悪くなるというのもありますが、20代のサラリーマンの頃から実践しているのがメモです。賢ければ問題ないですが、普通の頭しかない私は覚えようとするだけでストレスです。50歳の宅建受験勉強がどれほどストレスだったか・・・頭が壊れそうというのは、正にこの事だったのです・・・(笑)。とにかく何でもメモするようにして、覚えない事にしました。本当に覚えなければならない事は、自然と頭に入っていますし、キャパが段々狭くなってくる脳は、もっとクリエイティブな事に使わないと・・・2.「相手に期待しない(自力本願)」他人(他社)に期待する事によって、どれほど失望したか・・・これまで織物時代は4,50年「1社依存」の委託加工(賃織り)でしたが、時代のグローバル化が加速して、それに賃織りという下請生産が合わなくなってきました。繊維業界に未練はありましたが、それに少しでも依存すると、次のステップの足かせになると判断して、100%決別したのが正解でした。そりゃ、祖父の代から全面的に世話になってきた業界ですから、ある意味人生そのものです。それを、こちらから「断ち切る」のは勇気の要る事でした。しかし、全く新しい事をする(トランクルームへの転業)には、それが逆に「思考の妨げ」になると思ったのです。長かった下請け依存体質が、自分の心の底に「沈着」しているのが、何より怖かったのかもしれません・・・その反動で、トランクルームはエンドユーザーと個別月契約とリスク分散にしました。これで、「明日切られたらどうしよう?」という心配が無くなりました。8年も営んでいる不動産仲介も業界的に波があるものですし、3月から始めたスタジオもまだまだこれからです・・・不動産仲介は他人(他社)の不動産の取り扱い(売買と賃貸)で、そんな大事で高価で思い入れのある商品(物件)を、本来こちらがどうのこうのと簡単に言えない立場のビジネスですから波があるのは仕方のない事です。ある意味不動産屋というのは、他人の不動産(売買や賃貸)に期待しても仕方がないという事です。HPに物件を掲載して、後は反響を待つしかない・・・「待ちの商売」で、なるようにしかなりません。その点トランクルームやスタジオは言わば自社商品ですので、こちらが提案している内容(値段、品質、ポリシー)に共感して頂けるお客さんを対象にし、そこからお客さんと共に「スタジオを育てていく」という感じのビジネスモデルを目指したいですねェ・・・ 特にスタジオは単なる物品販売と違って、ある意味「音楽という芸術」を取り扱う異次元のビジネスなので、これまでの反動で自分のモチベーションがメチャメチャ上がっているところがイイですねェ・・・本部や他社(他人)が主導権を握っている代理店やフランチャイズや仲介と違って、トランクルームと同様に自社企画商品だけに「どうにでもなる」のが何ともヤル気をそそられますねェ・・・(笑)。いずれにしても、トランクルームも不動産もスタジオも基本的に「来る者拒まず、去る者は追わない」スタンスです。ただ来られても一定の要件を満たさいのは論外で、去る者は絶対引き止めません。ビジネスは両社の思惑が一致して初めて成立しますから当たり前の事ですが・・・3.「無借金」経営借金が無くなって、メインバンクに行くときの服装が変わりました・・・(笑)。夏でも借金がある時はわざわざシャワーを浴びて長ズボンに半袖開襟シャツに着替えていましたが、借金が無くなってからは半パンにTシャツとセッタで、冬はスーツかジャケットでしたが、今は作業服かMA-1ジャンパーです・・・(笑)。見栄を張る必要が全くありませんし、相手(銀行)に気を遣う事もありませんから・・・個人の住宅ローンもそうですが、借金がある限り、自分の「自由にデキない」のです。私もそうでしたが、夢に資金繰りや支払いや返済の話が出てくるのです・・・(笑)。会社の人間関係で死ぬほど悩めば辞めればイイ事ですが、借金から逃げる事はデキません。自己破産すれば法的には借金は帳消し(ゼロ)になりますが、家庭が崩壊し人間関係も壊れて心情的に元の自分に戻るのは難しいでしょう・・・これって、メチャメチャ大きなストレスです。熟睡できないのですから・・・財産より借金が遥かに大きく全く返済できないような債務超過の場合(倒産やむを得ず)、逆にまな板の鯉的に諦めで熟睡できるでしょうけど・・・(笑)。今回のスタジオも借金をせずに自己資金の範囲で、自社の土地と建物の中に作っていますから「最悪ダメなら、楽器機材を売って、それをそのままトランクルームに戻せばイイや・・・」てな感じですが、他社の殆どのスタジオは借金をして自社ビルではなく賃貸ビルのワンフロアを借りているので根本的に弊社と経営スタンス(損益分岐点)が違います。彼らはもしダメならそれで終わりではなく、賃貸借契約の解約時にまた莫大な金の掛かる「原状回復(かなり費用がかかった防音防振工事を解体し、元のスケルトン状態に戻す必要がある)」をしなければなりませんから、それに戦々恐々としているのです・・・いずれにしても、ドラムは趣味とボケ防止を兼ねて一生続けますから、間違ってもスタジオ閉鎖なんて事はあり得ませんのでご安心ください・・・(笑)。リハスタ経営ではなく、朝から音楽カフェと称して地元の音楽好きが集まって適当に楽器を演奏(セッション)したりカラオケを歌ったり、フラダンスを踊ったり、夕方からアルコールOKで本格的なライブバー(ハウス)に変身したりするのもアリかな・・・(笑)。とにかく朝から晩までMUSIC、MUSICの音楽漬けです(ダンスも)・・・(笑)。スタジオ経営というのは、一般的なビジネスと比べて異質な要素を持ったある意味水商売的なビジネスです。それをこちらは全くの異業種から参入するのですから、まともな経営者ならリスクを最小限に抑えるのは当たり前の心構えです。あくまでも副業のひとつで、自分の趣味的な音楽スタジオの「延長線上」という戦略が、最もリスクが少なかったのです。それでも家族に大反対されましたが・・・(笑)。そりゃそうでしょう・・・親父が生きていたら「気でも狂たんちゃうか?」とサジを投げられたでしょうねェ・・・(笑)。でも、どうしてもヤリタかったのです・・・人生最期?の「野望」として・・・(涙)。それを「儲けよう」と言う発想で、部屋数も一般的な3,4室作ればとんでもないハイリスクになっていたでしょう・・・弊社のように先ず自社物件の無借金で「副業(片手間)で」1室・・・それからボチボチ増やしていくという戦略でないと・・・弊社トランクルーム別館1階はまだ余裕がありますので、1室で様子を見ながら、上手くいけば2室目の音楽専用「Bスタジオ」とダンスやヨガや空手専用「Cスタジオ」の構想を既に練っています・・・特にCスタジオは空手道場もOKにして、フルコンタクト空手も全空連の寸止め空手(2020東京オリンピックから正式種目)も我々がやっている沖縄空手も時間帯をずらして共存できるようになればと・・・一生続ける「生涯空手」と考え、世界のKARATEと広いココロで捉えれば、フルコンも寸止めも沖縄空手も関係ないと思います。そういう意味で、たまにCスタジオ同士「交流会」なんかやってもオモシロいと思うのです・・・4.通勤時間が1分自宅で仕事をすれば、通勤時間0分(なし)でイイように思いますが、これが奥さんにとって大きなストレスの原因になって逆効果です・・・(笑)。旦那さんが定年後家にずっと居ると、奥さんが「主人在宅ストレス症候群」という病気に掛かってしまうくらいですから・・・自宅から1分が正に理想の距離です。トランクルームも不動産も8時から始業になっていますが、朝も4時か5時起きなので、だいたい7時には出社して仕事前に1時間ほど好きなドラムを叩いています・・・(笑)。仕事前に会社近くのジムとかプールに行くとか聞きますが、仕事前にドラムなんて少なくとも大阪ではおらんでしょう・・・(笑)。20代のサラリーマン時代は片道電車で1時間かかって通勤していましたが、今考えると大きなストレスだったように思います。行も帰りも満員電車に揺られながら立っているだけで疲れます。1日2時間も通勤時間にとられると、1週間で10時間、1ヶ月で43時間、1年で516時間も無駄な時間を過ごしている事になります。30年間サラリーマンをすると、15480時間(645日=1年10か月)も電車の中で過ごしている計算になります。恐ろしい無駄で、勿体ないです・・・これこそ、人生の無駄といってもイイでしょう・・・私はサラリーマン時代、2年間は朝5時から2時間機織りをしてから出勤していましたが、3年目からはこの通期時間を無駄にしない為に朝6時に家を出て、各停でユックリ座りながら日経産業新聞と日経流通新聞を読みながら乗っていました。2つの新聞代は安月給の新婚家庭の家計に痛かったですが、早く一人前の社会人になろうと必死でしたので、「出世払い」という事で家内には理解してもらいました。サラリーマン3年目で「家業は継がない。サラリーマンで身を立てる!」と親父に宣言した手前、背水の陣で家族を守るために必死だったのです・・・まァしかし、それをせずに、ただボーっと電車に乗っていれば、今もタダのボーっとした還暦ジイサンになっていたでしょうねェ・・・(笑)。5.スタジオは半分遊び感覚遊びと言えば、お客さんに叱られそうですが、トランクルームも不動産も1~10まで真面目にやらないとダメですが、スタジオもそういうスタイルで接客すると逃げられそうです・・・(笑)。もちろん最初の会員登録なんかは真面目にして、あとは「オモシロく音楽を楽しもうぜ!」みたいな感覚がスタジオ経営には必要です。ホームページやブログよりフェイスブックやツイッターといったSNSで「自ら音楽を楽しむ!」を発信するのです。ツイッターはエエ年こいてやりたくなかったのですが、高校生のお客さんも多く、彼らはフェイスブックはあまりやらずツイッターの方が断然多いので、やらざるを得ませんでした。この「気持ちの切り替え」がキモかも・・・と言いながら、高校生とのツイートも結構楽しんでいますが・・・(笑)。まァ、ある意味「3毛作経営」なので、経営者の多面性(使い分け、3重人格?)が問われます・・・(笑)。朝から夕方までのトランクルームと不動産でチョッと固くなった頭を、午後から夜のスタジオという柔らかい仕事で頭をほぐして、無意識に自分でバランスを取っているのかも・・・(笑)。音楽のバンドでも高校生からオヤジバンドまで、楽器の個人練習でもドラムがダントツに多く、各楽器のレッスン、ボーカル練習(カラオケ)、ダンス系もフラダンスからフラメンコダンス、タヒチアンダンス、ヨガ系のお客さん、エアロビクス同好会、空手の自主練、結婚式の2次会の練習、コスプレなどの写真・・・実に様々なお客さんがみえられ、それだけでオモシロくて仕方ありません。こんな事もあんな事もヤッテいるんだなァ・・・世の中には様々な人生のドラマがあるんだなァとチョッとした驚きと感動の毎日です・・・正に、スタジオというインフラを提供する側冥利に尽きます・・・(涙)。金儲けは二の次で、毎日刺激をもらうだけで十分という感じです・・・「完全防音&防振」「前面ミラー」「音楽環境」「22畳の大型スペース」という4つのインフラを取り揃えているだけで、トランクルームと不動産と殆ど関係のない地元の人達が利用されるのです。こんな事でも、トランクルームと不動産屋への波及効果が期待できるのです。高校生には「家に帰ったら、お父ちゃんやお母ちゃんにトランクルームと不動産屋の事を言うといてや…」と言うのを忘れません・・・(笑)。彼らの殆どが名刺を貰うなんて「人生初」ですから衝撃的なようです。人生これからという高校生にとって、うちのスタジオで練習したという経験は一生忘れないでしょうし、これから10年、20年リピーターになってくれるかもしれません。上手くいけば、3,40年もお客さんに・・・これって、ビジネス的にスゴイ事だと思います。織物時代は24時間稼働で土日も休まず(工場を止めず)ありとあらゆる織物を織っていましたが、分野によって差がありますが、婦人衣料(ヤングレディスファッション)を追っかけている時は酷かったです・・・毎年9月から翌年のSS(春夏)の商談が始まるのですが、毎年トレンドがコロコロ変わるのです。去年までやった事が全く通じず、毎年新しい織物にチャレンジしなければ話(オファー)自体が来ないのです。当時、9月に契約した織物を10月にフル生産に入った時に「ストップしてくれ!」の声が掛かり、理由を聞くと「売れへんからや」と平気で言う始末。これには怒り心頭、キレかけましたが、次の注文を考えるとキレる訳にはいきませんでした。また染工場へクレームで行くと、明らかに相手に非があるのに、無理やりこちらにクレームを被せてきたので「うちとちゃいまっせ」と文句を言うと、ストレートに「注文いらんのか」とねじ伏せてくるではありませんか・・・そいつの顔と名前を今でも忘れません。よっぽど意を決して社長に進言し、この担当者をクビにしてもらおうと思いましたが、株価も低迷し大赤字で傾きかけの会社でしたので、言っても無駄だと、そんな会社だからこんな社員がいるのだと・・・逆に、こんなところと付き合う自分が悪いのだと気づき、徐々に距離を置いていきました。ホント、織物時代は下請けの弱い立場で、言いたい事も言えずにガマンガマンの連続でしたので、相当忍耐力が付いたと思います・・・(笑)。「多品種小ロット」「高級高品質」・・・日本で織物業をやっていくには、これが最低条件と言うのはよく分かりますが、実際自分がその立場に置かれると、日本の公共料金(電気代)と人件費の高さで、いくら自分が寝ずに働き給料ゼロで頑張ってもムリと心の底から思いました。なんせ当時は、日本の人件費は中国の20倍、日本の電気代はアメリカの2倍でした。国内市場はユニクロを筆頭とするSPA(製造小売り)が製品輸入で恐ろしい勢いでしたので、北米やヨーロッパや中近東への輸出に活路を見出すしかなかったのですが、輸出先で中国やインドネシアやパキスタンと競合になると日本の高いインフラと人件費高ではとても勝てる戦いではないと悟ったのでした・・・そういう意味で、まだ競合の少ないスタジオ経営はまだまだ頑張り甲斐が大いにアリという事です・・・(涙)。ビジネスの基本中の基本、100m走(競合多し)より800m走(競合少ない)です。6.つきあい方の再考私みたいな還暦のジイサンでも小学生の子供でも一緒で、時間は無限ではなく有限です。特にジイサンにとって、残された時間は少ないのは言う間でもありません。なので、プライベートでもビジネスでも誰でも彼でも付き合うと、残された少ない時間が無くなってしまいます・・・仕事でもハードル(値段や審査基準)を下げれば、客が大入り満員になるのは分かっていますが、そうなるとトラブルやクレームで走り回らなければなりません。決算でフタを開けると「何をヤッテいるか?分からん」という事態になりかねません。その辺のハードルを何処に設定するかがビジネスのキモでしょうねェ・・・プライベートではどうしても「好き嫌いが基準」になってしまいますが、どうしようもない人間は論外ですが、一見キライだけど付き合う価値がある人間をどう攻略するかがキモでしょう・・・(笑)。そして、相対的に「自分より10~20歳若い」人との付き合い方が、100歳まで生きるためのキモになるでしょうねェ・・・スタジオ経営は公私混同の最たるモノですが、メインのお客さんは10~20代ですから、自分の「若返り?」に役立ちそうです・・・(笑)。まァ、残された時間を考え、「自分は何をしたいか?」「どういう余生を過ごしたいか?」「人生に悔いの残さない生き方をするには?」と真摯に問いかけると、自ずと答えが見えてきそうです・・・もうそれほど見栄や世間体を気にする事もありませんから、ある意味多少ワガママになってきますが仕方のない事でしょう・・・(笑)。残念ながら還暦にもなると、大した人望も実力もないのに人にエラそうにしたり忠告や箴言をしたくなるものですが、逆にそうされる機会が殆どなくなり、自分をより客観的に見たり自己反省する機会も激減します。そうした中で、そういう貴重な人の存在を大事にしたいと思うのです。エエカッコで言うと、「我以外皆師」という謙虚な精神で、残りの人生を乗り切って行きたい・・・と。という事で、長かった織物時代も「カイゼン」と称して朝一番に毎日織機を1台ずつ全てチェックし、毎日変わる日々の問題点を潰していって織機の寿命を少しでも延ばし利益を追求していったように、今の日々の生活を見直して、少しでもストレスになりそうなことを、支障の無い程度に一つ一つ「潰していく」事が、病気にかかりにくい身体になり寿命が1年2年と伸び・・・やがて100歳まで・・・と。今日9月3日は父親の命日です。19年前に持病の心臓病で67歳の若さで急死したのです。私は正に41歳の厄年でした。やはり、人間というのはその時々の「年回り」というのがあるんですねェ・・・しかし、親父が亡くなって19年はアッと言う間でした。しかし、これからもっとアッと言う間に19年が過ぎ去って79歳になってしまうのか?年をとると月日が経つのは早いと言いますが、頭と身体の老化も相まって今まで以上にスピード高速化は避けられないでしょう・・・(悲)。その避けられない流れに「逆行」しようとする気概と体力が無ければ・・・60歳定年も無視し、健康寿命も平均寿命も無視して100歳まで生きるつもりですから、79歳というのは単なる通過点です・・・(笑)。19年後の自分が79歳になると、孫娘たちが20歳になります。この間生まれたばかりと思っていたのに、今では走り回ってボチボチ喋りかけていますし、こちらの言っている事をだいたい理解出来るようになりました・・・(驚)。自分は更にヨボヨボになりますが、まだ片言しか喋れない可愛い盛りの孫娘が立派な大人のギャルになっているのです・・・(驚)。ホント、時が経つのは早いですわ・・・そう考えると、ひ孫を見るのは完全に射程距離ですねェ・・・(笑)。それを夢見て、楽しみに生きますか・・・にほんブログ村 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2016.09.03
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