全4件 (4件中 1-4件目)
1
先日、またまた鳳高校27期学年同窓会(11月12日 ホテル アゴラリージェンシー堺)の打ち合わせ&郵便発送の作業で、JR堺市駅近くの居酒屋の2階に1年10組のメンバーが集まりました。住所不明者を除いて、住所が分かっている同窓生約400名への発送作業はなかなか大変でした・・・宛先、送り先を前もってプリントシールに印刷し、それを1枚1枚手分けして手紙に貼りつけ、案内用紙、会場案内、返信用ハガキの3枚を入れ、最後は糊で封をする。これを1枚のミスもなく作業するって、ホント大変だと感じました・・・10人くらいでペチャクチャ喋りながら作業をするのですが、見直し見直しの連続で結局3時間近く掛ってしまいました・・・最近は同窓会代行業者もあるそうですが、解ります・・・学年同窓会の幹事がこれほど大変だとは・・・クラス会とは比べ物にならないほどタイヘンなんで・・・学年同窓会を開いて同級生に喜びと感動を与えられれば、それまでの大変な苦労も吹っ飛びます。なんか、音楽スタジオとカブってしまいます・・・10年かけて、やっとオープンさせた「スタジオ0724」。まだ5カ月ほどですが、お客さんに喜びと感動を与えて、これまでの苦労なんて吹っ飛び、益々ヤル気が湧いてきます・・・まァしかし、こういった他愛もない世間話や昔話を、ぺチャククチャ喋るのも楽しいモンです・・・しかしペチャクチャ喋る内容も、半分以上が病気や健康の話というのも還暦になった証拠ですねェ・・・(笑)。もう仕事の話なんか、話題にものぼりません・・・(笑)。人生、最後は身体(健康)か・・・60歳を超えると収入が減るにも拘らず、身体のアチコチにガタがきて病気が増えて医療費がかさみます。若いころまで歯が丈夫で自信があったのに、このところ歯医者通いが増えています・・・(笑)。信じられない事が身体のアチコチに起きているのです・・・同級生情報でも、誰それが亡くなったとか聞くと寂しくなります。泣いても笑っても、平均寿命から考えるとあと20年(日本人男性)。健康寿命まであと10年。たった10年しか健康的に動けないと思うと、逆に「出来るだけ好きな事を思いっきりヤッテやろうじゃないか!」と反発したくなります・・・(笑)。これって、ある意味アンチエイジングか?その表れが、今年になって始めたスタジオです。60になってからの起業なんて、普通に考えれば「バカじゃないの?」と思われそうです・・・(笑)。しかし、私的発想はそうではありません。これまでもう充分働いてきましたし、3人娘もそれぞれ結婚して独立。今は寂しいですが、夫婦2人だけ・・・すると、あと何するか?待ってました!・・・もう、好きな事をするしかないでしょう・・・(笑)。「もう、父ちゃんは自由になるのだァ~」です・・・(笑)。好きな事をすると言っても、もちろん制限もありますし浪費するだけなら何の意味もありませんし、海外旅行に行くためにもお金を貯めなければなりません。それと2人の孫娘の顔を見ると、若い頃仕事ばかりで娘たちとあまり遊んでやれなかった後悔もあり、不思議と今は「孫一番」みたいな感がチョッと情けないですねェ・・・(笑)。孫が出来て、ガクッと牙を抜かれたジイサンになったのか・・・(笑)。まァそんなデレ~となってしまったジイサンライフですが、好きな事、悔いのある事、やり残した事、夢に終わらず可能な事・・・出た結論が、「リハーサル音楽スタジオ」でした。この中に、自分の「40年ぶりのドラム再開」もチャッカリ含ませました・・・(笑)。これが、今回の誰にも分からない大きなミソでした・・・(笑)。そして、娘たちにそれほど伝えきれなかったコト・・・あわよくば、孫娘たちに音楽とダンスという人生の楽しみを知ってもらえればと・・(涙)。これが、ジイジのホンネかも・・・もうこれくらいしか、ジイジにはデキませんから・・・(涙)。まァ、40年前は自宅納屋で我流でドラムをヤッテいた為、基礎も糞もありませんでしたので、1年半で挫折してしまいました。普段は薄暗い納屋でカセットテープを聴きながら汗だくになりながらドラムを叩き、それがイヤになって気分を変える意味で、たまに2階の自分の部屋までドラムセットを運んで音響の良いオーディオを聴きながら叩いていたのです・・・まァ、それも防音も何もやっていませんでしたので、思いっきり叩く事は出来ず、当然遠慮して叩いていたのは言うまでもありませんでした・・・(涙)。そんな邪魔臭い事までしてドラムを叩いていましたが、まだ、家で叩けるだけスゴク恵まれていると・・・(嬉)。それでも、当時のヤマハの安物の中古のドラムセットと、今スタジオにある新品のパールのドラムセットとの音の違いには隔世の感がありましたねェ・・・当時は学生でありながら朝5時から家業を手伝い、学業以外に空手、ウインドサーフィン、バンド2つ、青年団(だんじり、盆踊り)、ディスコ、ライブハウス、デートと目が回るくらい忙しい青春を送っていましたので、ひとつの事に拘っていられなかったのです・・・(笑)。夏休みともなると朝5時から12時間も働いていた、入ると一挙にム~として汗が噴き出る40℃湿度90%にもなる冷房空調もない昔の織物工場には参りました・・・(泣)。それでメシを食っている家業なので、逃げ出すことも出来ないそういう環境が、そうとう忍耐力をつけたと思われます・・・(笑)。その反動かどうか知りませんが、空手は大学体育会空手部から地元沖縄本部流空手に転向したり、ウインドサーフィンは樽井の泉南フリートでやっているだけでは物足りなくなり大学に学連加盟のレース派の同好会を創部したり、青年団は団長になって祭りと盆踊りを引っ張っていましたし、夏は蕎原青年団と牛滝山で合同キャンプしたり、ミナミのライブハウスのハシゴとか・・・今考えたらもうムチャクチャな青春を送っていたなァと感心します・・・(笑)。まァ、そういう事があったりして再度初心にかえり、4月からヤマハのドラムスクールに通って基礎から学んでいます。「これが基礎なんだ・・・フムフム・・・」と基礎と並行して、好きな曲に合わせて自由気まま間にドラムを叩いています・・・(笑)。基礎も大事ですが、ドラムはだんじりの大太鼓と同じで「アドリブが命!」でセンスが1番大事です。そのセンスを磨くために、自分の感性にあった好きな音楽を聴いて、基本的にそのドラムコピーをしようとしますが、それとは違った自分オリジナルの叩き方も模索するのです・・・大太鼓はパワー重視でアドリブパターンも少ないですが、ドラムはパワーよりもテクニックです。今は便利な時代で、YOU TUBEでアーティスト名と曲名のあとに「drum cover」と検索すれば、出て来る出て来る・・・素人さんが撮ったと見られる上からドラミングを撮影した動画が。素人さんといえでも上手なのは言うまでもなく、どのタイミングでどれを叩いているのか一目瞭然です。ドラムは両手両足を使って、沢山あるタムやシンバルといったパーツを叩きますからヤヤコシイ、ヤヤコシイ・・・私みたいなド素人は譜面を見ただけでは分かりません。まァしかし、私には技術的に早すぎて出来ない場合が殆んどですが・・・(笑)。けど、将来的にはどこかの7,80年代洋楽ロックのコピーバンドに加入させてもらえれば・・・そんな夢を抱きながらドラム練習をしているのです・・・そして10年後には、ロン毛のかつらを被り、老人ホームへ慰問に行き、ディープパープルやレッドツェッペリンをガンガン叩いている自分を想像すると武者震いします・・・(笑)。妄想はこれくらいにして、学年同窓会を盛り上げるために1次会でフォークダンスを企画しています。当時フォークダンスをよくしていた・・・とみんなが言ってますが、残念ながら全く覚えていません。記憶にあるのは、「遠い世界に」という五つの赤い風船のフォークソングを学生集会の度にみんなで歌っていたという事だけです。入学前年まで学生運動が激しかったらしく、その反動で校内のそこらじゅうでフォークソングギターの音が聴こえたり、原付バイク通学もOKだったり、遠足は各クラス自由に決めて現地集合現地解散の自由服、美術の油絵は広い校舎の何処で描いてもよく、と当時の鳳には自由が溢れていました・・・一方、毎回誰かが寝技で首を絞められて落ちそうになる厳しい柔道や、土のグラウンドでタックルさせらて傷だらけのラグビーといった体育の授業には閉口しましたが、今思えば心身を鍛えるのにピッタリだったのか・・・(笑)。中学は丸坊主の厳しい校則でしたので、そのギャップの大きさに戸惑ったものです。まァ、もちろん部活のオーケストラ部で練習した曲は覚えています。新曲を仕上げるのに3ヶ月もかかりました・・・高校から始めたトランペットでしたので、みんなの足を引っ張らないように冷汗をかきながら吹いていました・・・(笑)。今となっては楽しい思い出ですが、当時は自分より上手な後輩たちからのプレッシャーに耐えていましたねェ・・・(笑)。その1つ後輩のうちの1人のM君が今、鳳高校の教員でオケ部の顧問をやっているようで、何とも心強いものです・・・そういう事で、同窓会本番の1次会はフォークダンスで大いに盛り上がり、2次会は近くのライブハウスで更に盛り上がるというプランを今考えているところです・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.07.25
コメント(0)
やっと、この楽天ブログが100万アクセスを達成しました。丸10年で100万・・・長かった100万への道のり・・・最初の2,3年は更新もあまり出来なくて、1日2,30アクセス程度でしたので、とても100万なんて想像も出来ませんでした。5万、10万で喜んでいましたし、それで充分満足してました。ところが、4,5年目くらいから「SEO対策にブログは良い」というのが分り、そこからブログを一生懸命するようになりました。しかしブログを書くと言っても、一体何時間かかったのかというのを考えると、膨大な時間と考える労力が要ったのは間違いありません。実際2000件(話)超えてますので、1話書くのに1時間かかったとして2000時間、準備も入れるとその2倍の時間かかりますから4000時間も費やした計算になります・・・100万アクセスしたからと言って、賞金が貰える訳ではありませんし、アフェリエイトで金が入る訳でもありません。純粋にブログからリンクしているトランクルームのホームページへのアクセスが増えるの(誘導)を期待してのブログで、実に根気のいる作業でした・・・(涙)。そんな根気の要る地味な作業を10年も続けた訳ですが、誰も褒めてくれませんので自分を褒めてやりたいです・・・(笑)。まァ、書いているうちに単なるビジネス的なSEOだけと違って、世間に訴えたい事や自分の考えというのも時々入っていったような気がします・・・それほど、自分の情熱がこの日記(ブログ)に投入されているのです・・・いずれにしても、100万アクセスなんて他人からすればどうでもいい事ですが、本人にとっては長年の小さな努力の積み重ねの結果という事で、ちょっとした自信に繋がるんですねェ・・・(涙)。こういった小さな努力、小さな自信の蓄積こそがその人の人格を徐々に作っていき、それが人生に対して健全で前向きなヤル気が滲み出てくるのだろうと思うのです・・・まァ、織物業からトランクルームに転業と同時に、何も分からないまま、このブログを始め、このブログを読み返すと、10年前当時の大変な状況を思い出します・・・(涙)。南大阪(泉州)の地場産業で祖父の代から引き継いできた綿スフ織物業を廃業し、海のモノとも山のモノとも分からないトランクルームという全く新しいビジネスを始めようと、不安と期待の混じりあった複雑な気持ちでした。どちらかと言うと、期待6、不安4くらいでしたので、不安に押しつぶされなかったのでしょう・・・(笑)。しかし急いで織物工場内の機械類をすべて売却後、工場を改造してオープンの3か月後には心境が一変し、期待1、不安9になってしまいました・・・期待に反し、お客が殆ど来なくて「失敗した!」と直感したからです。これには、200%自信満々でトランクルーム開業しただけに、ホント心が折れ、挫けそうになりました・・・(涙)。廃業と同時に借金を全額返済しましたし、子供の教育資金も必要で、残った手持ちの資金を考えると、直ぐにでも何か収入源としての仕事が必要でした。見栄を捨て恥をかくつもりで職安に何回も足を運び、何社も面接試験を受けました。しかし現実は厳しく、20代サラリーマン時代に建築金物の営業経験だけで殆ど50歳まで織物業しか経験がなく、他にこれと言って資格もありませんでしたので、せいぜい月収10数万円程度の仕事しかありませんでした。これには一段と茫然自失・・・完全に希望の灯が消えてしまいました。そこで、「やっぱり、織物業の現場仕事なら自信がある。これしかない!」と改めて悟り、同業の社長に「現場で雇ってください。」と頭を下げ、「日曜だけ休み、毎日残業4時間させてください。昼休憩は30分しか要りません。」という私の要求を全て受け入れて頂き、それでやっと手取り月30万円の仕事にありついたのです(月給制ではなく時間給)・・・(涙)。これまで長年やってきた織物現場の仕事の実力は世間に通用するのだと、ある意味自信をつけてくれました。これが単なるボンボン社長で、デスクワークしか知らず現場の経験が無ければ即座にアウトです。いや、単なる経験だけではダメで、そこそこの実力がないと・・・私の場合零細工場の現場で随分鍛えられましたので、勤務先の大手の分業化された現場において重宝されました・・・分業化され過ぎて、大手の「これしか出来ない(応用が効かない)」という意外な現場の実態(弱点)に驚かされたました・・・まァ、「何処ででも通用する(働ける)」・・・本来仕事というモノは、そういうモノだと思います。その会社しか通用しなければ、根本的に人生設計から考え直した方がイイかもしれません。やはり50超えて、全く新しい仕事は難しいです。2、30代なら許されるかもしれませんが、40代以降は「これまでの経験」を活かすしか道はないのです。いずれにしても40代以降の転職(転業)は、ある意味これまでの生き方が問われます・・・その時点で後悔しても、時すでに遅しです。結局、その織物会社で1年半も働いたのですが、なんせ12時間歩きっぱなしの機織りでしたので、キツイキツイ・・・いくら30万円あると言っても、こんな肉体的にキツイ事は60歳まで続けられないと思いました。それまで自分の会社で毎日15時間は働いていましたが、機織り、機械修理、タイイング、検反、荷造り、フォークリフト作業(糸、織物)、従業員の送迎、営業、経理、受渡し(糸と織物)、仕入れ、他雑用・・・とイロイロありましたので長時間可能だったのです。イヤ、自分の為の仕事なら喜んで長時間するが、他人の為の仕事(サラリーマン)は短時間でも嫌なのか・・・(笑)。いずれにしても、12時間歩きっぱなしは身体に堪え、2週間で足のマメが何回も潰れ(2回靴を替え)、膝に痛みが来たため歩行困難になってしまいましたが、それを過ぎると不思議と歩けるようになりました。限界を超えたら、フッと楽になるとよく言われますが、正しく神風が吹いたのか・・・?この2週間目に懐に辞表を持って行きましたが、ついに出さずに済んだのです。頭を下げてまで掴んだ仕事を、2週間で投げたら世間の笑いものですから・・・そこは、男としてどうしても譲れない意地があったんでしょうねェ・・・ブログを10年続けたと言っても、この前半の2,3年はとてもそんな余裕はなく、殆ど書けてなかったのです・・・睡眠も実質4時間半しかなく、12時間の織物工場での肉体労働に加え、夜は自宅に帰ってからトランクルームの契約書の作成、インターネットでホームページのSEO対策で1日に10ポータルサイトへの登録、トランクルームの建物の内壁にこびり付いた風綿をグラインダーで削る作業を1日1部屋(改造リフォーム代節約の為に)、そして9か月間は夜中の2時に起きて3時間宅建の受験勉強をしていたのです・・・唯一休みの日曜もトランクルームの溜まった仕事を片付けながら(家内を休ませ)、10時間くらいは宅建の勉強をしていたのでしょうか・・・今考えると、よ~ヤッタなァ・・・ですが、50歳と今より10歳も若かったからデキたんでしょうねェ・・・今なら、ムリムリ・・・(笑)。結局この会社での1年半の勤務後、宅建以外のファイナンシャルプランナー等の9つの資格を取って、1年後には満を持して不動産屋開業となる訳です。しかし、現実は甘くなかった・・・トランクルームをやりながら不動産屋も始め、火災保険や生命保険の代理店も兼業出来る訳がありません。この時ばかりは、自分を過信しました。結局、不動産屋を始めて2年間はイロイロやり過ぎました。張り切りすぎたと言ってもイイのか・・・(笑)。無駄みたいな事も失敗も沢山しましたし、恥も一杯かきました。それもイイんです・・・それが経験値となって、今後のビジネスに活かされると思えば。事実、間接的になっているように思います・・・何もしないより、「アイデアを考え → 実行 → 成功 or 失敗」という行動こそが何かを掴み、成長の糧になると信じています。トランクルームも当初別館で「ガレージ659」という屋号でジェットスキーや、アルミボートやウインドサーフィンといったマリンスポーツや大型バイクの保管をやっていたり、不動産屋は「ガレージ倉庫.com」という屋号のHPで独自ドメインも取り、泉州一帯のガレージと倉庫に特化した仲介をやっていたのです。しかし、どちらも1年後には採算が合わず見込みもないという事で止めました。火災保険も生命保険の代理店も1年で辞めました。ダメなのにズルズルとヤル事が1番いけません。ダメと判断したら、一刻も早くスパッと止めるのです。これはビジネスに限らず、プライベートでも強く感じます。そんな色んなトライ&エラーを繰り返し、数年くらい前から今の体制に落ち着きました。そして、今年の音楽スタジオ開業です。保険代理店は簡単な損保募集人資格だけでやれましたので、宅建資格というベースがあったものの、殆ど準備せずに出来たようなものですから止めるのも簡単です。やはり、準備に時間と労力と資金がかかるようなビジネスでないと長く続かないと悟りました。そういう意味で、トランクルームと不動産屋はそれぞれ10年、8年と続けて来れたと思いますし、スタジオもそれなりに準備に苦労しました。なので、しばらくこの「3体制」で頑張れると思うのです。しかし、ブログのアクセス数も当初はイマイチでした。アクセス数を上げるためにイロンナ工夫をしました。リンクを貼ったり、毎日書いたり、SEOを意識しすぎたり・・・もちろんヤフーとグーグルの検索エンジンの傾向の変化も見逃さず・・・昨年から文章も文字数を2倍以上にして1,2週間に1回の更新に減らしたところ、何といきなり2倍以上のアクセス数になり、結局ブログの中身、コンテンツが大事だと悟りました。いくら話題が豊富?だと言っても、毎日ブログを更新するほどネタがありません。当然、内容も薄くなり、アクセス数が伸び悩むのも頷けます。まァ、何と言ってもグーグルを意識しなくてはネット社会を生き抜けません・・・ブログのアクセス数が伸びが、結局トランクルームや不動産やスタジオのHPへのアクセスに繋がります。楽天ブログ、トランクルームHP、不動産HP、スタジオHP、駐車場HP、フェイスブック(個人、トランクルーム、不動産、スタジオ、空手)、ツイッター(個人、スタジオ)、YOU TUBE(個人)、LINE・・・これらネット関連を互いにリンクしあい、全て自分1人でやっていますが、これを可能にしたのはネット社会の凄さで、「タダ同然で広告が出来る」事によって、1人で出来るビジネスの範囲が飛躍的に広まったのです・・・零細企業は、これを見逃さない手はないのです。という事で、これからもネット社会の進歩と発展に恩恵を受けるべく努力をして(手段として利用し)、トランクルームと不動産とスタジオという「アナログビジネス」で勝負を賭け、ブログも今の調子で行くとおよそ2年後には200万アクセスですが、2倍のスピード(アクセス数)で1年後に200万アクセスを目標にしたいと思います。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.07.19
コメント(0)
今年1月末から貝塚「初」の音楽スタジオをテストオープンて、2月一杯は無料開放し、実質3月からオープンし、早いもので6月末で丸4ヶ月経ちました。4ヶ月・・・あっと言う間でした。実際スタジオの工事が始まったのは昨年12月ですから、それも含めると丸半年過ぎました。その前の構想計画と実際の設計段階も含めると、実に1年がかりです。更に、トランクルーム開業当初の「2室の防音室」まで遡ると、実に10年がかりです。ビジネスには時間がかかる・・・その通りです。全く白紙の状態から、アイデア → 構想と計画 → 実行 → 成果は?ビジネスは競争なので、競争に敗れれば撤退。それが致命傷なら倒産。傷が浅ければ、単に閉店(廃業)。ビジネスの面白いところが、そこです。自分の能力が結果として端的に表れます。誰もが現実を見たくないものですが、少しでもヤル気があるなら、まず自分の能力を知る事から始めないと前に進めません。約30年前にサラリーマンを辞めて家業に戻った時、ちょうど機械設備(織機)の更新時期でした。当時、メインであった和布団の側地(サテン)の需要が激減して、新しい機械(エアージェット織機)で織った付加価値のある生地(国内向けのダウンジャケットや羽毛布団用の高密度織物)しか売れそうになかったのです・・・設備更新するか否かは、父親はもう50代後半で病弱でしたので、私の決断に委ねられていました。せっかくサラリーマンを辞めて継いだのに、エライ事になってしまったと少し悔やんだものです。1985年のプラザ合意から円高不況になってしまったのです。今のイギリスのEU離脱と同じで、誰がそんな未来を予測できたでしょう・・・まだ2人の娘は小さく、今更元の会社に戻る訳にもいかず、1週間悩みに悩んだ末「織機更新へGO!」と決断したのです。もし失敗すれば、親子共々自己破産し会社は倒産・・・そんな最悪のシナリオが待っているのは百も承知でした。それでも親父が私を信用して、GO!に着いて来てくれた(承諾してくれた)のは、子供の頃から家業の織物業を何一つ文句を言わずに手伝い、大学時代はずっと朝5時から現場に入り、サラリーマンになってからも2年間は同じように5時から手伝っていた実績を評価したのか・・・私の唯一の自慢は、農業の家は暑かろうが寒かろうが田んぼの手伝いを当たり前のようにするのと同じように、織屋の息子は24時間稼働の綿ボコリと騒音の工場で、朝早くから毎日長時間油まみれになって働いて培った「忍耐力」かもしれません・・・(涙)。もちろん内心では「同級生が大学生活を謳歌しているのに、何で?俺がこんな事をやらなアカンのや・・・」という激しい葛藤があったのは言うまでもありませんが・・・(涙)。しかし家業と言っても10人程度の零細企業で、そこの「御曹司?」と言っても、もう完全に現場要員として組み込まれ、逃げ出す事も出来なかったのです。もともと親父が病弱だったのが幸いしたのか、何でも私にやらせようと、現場の「基本中の基本」の掃除や注油はもちろん、主な仕事の機織りとタイイングと検反と荷造りだけでなく、従業員間のイロンナトラブルや調整、採用まで大学生でこなしました。一時両親が腰痛で2人とも同時入院した時は、商社との電話でのやり取り(糸と織物の受け渡し)もせざるを得ませんでした。この時は、ホント参りました・・・商社には入院している事を隠し、現場の責任者が私の足元を見て「もう辞める!」と言いだし、本当にどうしてイイかわからず、泣きそうになりました・・・この時は大学や彼女どころではありません・・・工場を稼働させるために(食う為に)、一日中身体も心もクタクタになるまで走り回りました・・・両親が居ない中泣いている訳にもいかず、どうにかこうにかして、この難局を何とか切り抜けた事は無形の自信となっていったのかもしれません・・・この経験を通じて、他人に任せる事の難しさと、自分自身が何でもこなせないとダメだ(或いは、そういう努力をしないとダメだ)と痛感しました・・・トヨタみたいなオーナー大企業は別ですが、中小零細企業では他人の番頭に頼るのは大間違い(筋違い)という事が心の底から理解できました。まァそういった事だけでなく、親戚の選挙の応援や村の行事に病弱な親父に代わって「家の代表」として参加しました・・・そんなオッサンやジイサンだらけの環境にいきなり放り込まれたら、何て言えば(対処していいのか)困り果てましたが、親父からは初めて取引商社へ行った時と同じように一言のアドバイスもなく、ただ「行って来い!」だけでした。そこには、親父一流の「目と口があるやろ!自分の脳ミソで考えろ!」という考えがあったのか・・・それが、結果的には「経験を積む」という意味でヨカッタのか・・・(汗)。追いつめられた?環境の中で、タイミングを逸せず瞬時に適切な言葉を喋るには、通常の10倍くらい頭が回転して鼻血が出そうです・・・(笑)。後から考えれば、何てバカな事を言ったのかと、顔から火が出そうですが、それも反省材料と思えば笑い話です。そんなトライ&エラーで、人間というのはボチボチ「本当の成長」をしていくんでしょうねェ・・・毎日機屋の基本である「油さし(注油)」と掃除で油臭い頭髪と体臭になってしまい、爪に油が染みついて取れず、機械の下に潜り込んでスパナを使うものですから手が太くゴツゴツなってしまい、デートの時はそれを隠すのにイロイロと苦労しました・・・(笑)。人間と言うのは、真実を隠したいものですし、中身が無ければ見栄を張りたい動物です・・・(笑)。だから人間のそういった深層心理を突いて、見栄を張る格好の産業として自動車や住宅、アパレルファッションやダイエットといったビジネスが絶対廃れないんですねェ・・・(笑)。まァ、それから20年間、土日休みなしの24時間エンドレス操業になるとは・・・それが苦労の始まりだとは、夢にも思いませんでした。が、それに「耐えれた」のも子供の頃からの経験がベースになっているのは確かです。詳しい事は以前のブログにも書いていますし省略しますが、ラッキーがイロイロと重なり、メデタクその20年後には「借金ゼロ」で廃業し、トランクルームに転業できたのです。導入当初は、2,3年で投資資金を回収して、そこから数年儲け倒して、10年後には次の設備更新・・・てな予測をしていたのですが、番狂わせもイイとこです・・・億単位の工場新設まで行った設備更新でしたので、親子共々「背水の陣」だったのです。それがバブル崩壊で途中で大きく計画が狂いましたが、バブル前に大きな借金をしてバブル中はまだ背負っていましたので、余計な投資話には一切耳を傾けられずに「本業1本」だったのが幸いしたのです。メデタク・・・というのは、そういう事だったのです。人生、何が幸いするか、ホントわからんものです・・・不幸中の幸いというのは、正にこういう事を言うのでしょう・・・(笑)。まァ、しかし、トランクルームも10年間頑張ってきましたが、8年前から不動産屋も兼業しました。トランクルームオープン3か月後にお客さんが殆んどは無く「失敗した!」と直感し、事務所で1人でも出来る「他に何かしなければ!」と藁をもすがる思いで不動産屋が閃いたのがキッカケでした。これも、後から考えれば、不幸中の幸いでした。トランクルームもオープン1年後にはやっと目途が立ち、その後不動産屋兼業で更に相乗効果を得る事ができましたから・・・祖父の代では従業員40人、親父から私の代でも10人と、これまで人(人事)で散々苦労しました・・・それがイヤで「自分独りでヤッテいこう!」という基本戦略で、不動産は「狭く深く」という戦略で、貝塚市に限定した仲介オンリーでやっています。トランクルームの方は競合が少なかったので、割と順調に推移しましたが、不動産の方は「後発」でしたので、苦労の割になかなか儲けさせてくれません。8年間地元に不動産屋としての「種まき」を一生懸命しましたので、これから20年かけてボチボチ回収しようかという壮大なプロジェクトです・・・(笑)。単なる仲介では儲けられる訳がありません。せっかく宅建だけでなくファイナンシャルプランナー資格と不動産コンサルティングマスター資格も持っているのですから、それらを総動員して当初の目標であった「コンサルティング不動産屋」を、文字通りロングスパンで目指して行こうというのです。そして、既存の2つのビジネスに並行してこれからヤッテいこうというのが今回の「スタジオ」です。「本業1本」「この道一筋」・・・言葉としては綺麗ですが、実際の中小零細企業の泥臭く細かい商売を考えると、特殊なケースは別にして、言葉通りにコトが運ぶのは現実問題中々難しいと思います・・・現実には、あのテこのテで色々画策し、2重3重に網を張り、這いずり回ってやっと少しだけ利益が出る・・・これが、会社設立で倒産する確率が1年で60%、5年で85%、10年で95%と言われる所以でしょう・・・(涙)。不動産屋は「10年で80%が倒産廃業」と言われますから、まだマシな業界か?(笑)。長かった織物時代は、取引形態は「委託生産」、いわゆる「賃織り」です。悪く言えば、取引先の商社の「下請け」に過ぎません。大手総合商社との直接取引でしたので、現金振り込みで回収には全く問題はありませんでしたが(不渡なし)、値段はほぼ相手の言い値です。自分の言い分が通らないのです。普通に考えれば、これは正常なビジネスではありません。フィフティフィフティではなく、90:10くらいで、完全にバランスを欠いています。それが、残念で残念で仕方ありませんでした・・・(涙)。当時の繊維業界の長く古い流通を考えれば、無理もありませんし、自分で何も考えずリスクがなかったので当然と言えば当然ですが・・・川下のエンドユーザーを無視して(ないがしろにして)、いくら流通の中間(川中)あたりで業者間だけでアレヤコレヤと商売をやっても、そこに自分のどうにもならない「限界」を感じ、将来に対して一抹の不安を感じていたのです・・・普通に考えれば、「来年はどんなファッションが流行るのか?」という発想を元に織物を織る・・・ですが、そんな発想は全然なくて、「こんなん織れる?」「いくらで織れる?」「中国はもっと安いで・・・」といった取引先からの提案ばかりで、相手に完全に主導権を握られていたのです。織屋がアパレルを兼ねているようなエンドユーザーを意識したブランド戦略のイタリアの繊維業界と違って、流通が長い日本の繊維業界の情報の分断化と分業化で、中小零細企業にとって努力以前の問題だと悟ったのでした。考えてみれば、努力の割にはサッパリ儲からない・・・「何でや?」「オカシイ?」「不条理だ!」「何とかせねば!」なんて事を20年間も考え続けていたというのは、我ながら相当な忍耐力です・・・(笑)。そういう繊維業界での反省の意味もあって、トランクルームも不動産もスタジオもエンドユーザー「直」の大手業者に頼らない「屋号(ブランド)」ビジネスにしたのです。ある意味、20年間の積もり積もった不平不満が新しいビジネスで爆発したのか・・・(笑)。(株)笹谷繊維工場という登記名を変えずに、業種ごとに「トランクルーム貝塚」「貝塚不動産.com」「スタジオ0724」と、独自ドメインを前面に押し出す屋号戦略です。そりゃ、苗字の笹谷や村の古くからの屋号「惣治郎」を使って、「トランクルーム笹谷」とか「笹谷エステート」とか「スタジオ惣治郎」とかカッコいい?自分の名前を使い虚栄心を満たしたいのは山々ですが、それだと何処で何をヤッテいるのか?サッパリ分りませんし、単なる自己満足で終わってしまいます。それよりうちの家訓の「名を捨て、実を取る」です。同じエンドユーザー「直」のビジネスでも、トランクルームと不動産はメインのお客さんの年齢層が30代以上と割と年齢層が高いですが、スタジオは中学生や高校生や大学生といった10代、20代が結構多いのに驚かされます・・・近隣の中学校の軽音学部で40人、高校で100人も部員数がいるそうです・・・(驚)。吹奏楽部や合唱部といった今風なバンド編成ではない部活は別にして。正に、第2期?バンドブームが10代に起きているのか?ダンスも中学から必須になった影響からか、高校のダンス部(主にヒップホップ)も何処も50~100人もいるようです・・・(笑)。今は幼稚園児くらいから「キッズダンス」というのも流行っており、充分なマーケットがあると踏んでいます。我々が高校生だった40数年前は、これらの「マーケットはゼロ」でしたから、如何に世の中が変わったかと言う証明でしょう・・・先日の新聞で、日本レコード協会によると音楽ソフトの生産金額は1998年に6075億円のピークから、2015年には2544億円に急減したそうです。たった17年で、マーケットが3分の1以下に急減です。逆にライブ市場は右肩上がりで、コンサートプロモート協会によると、1998年に711億円だった音楽公演の売上高は2015年に3186億円と4倍以上になったようです。正に、デジタル化社会の「反動」現象です・・・まァ、家業だった織物業も、昭和40年代前半には貝塚から岬町まで(泉州の半分のエリア)当時680社あったのが、今は15社程度です。半世紀でほぼ消滅(98%減)・・・最盛期は町内(名越)だけでも11社あり(清児から木積までの三中地区で約150社)、その従業員のための駄菓子屋や八百屋や飲食店が約10軒もあり、盆踊りも町内会に大手織屋2社と合わせて3カ所あったのも、もう50代後半以上の人間しか知らないでしょう・・・織物生産も、30年くらい前から世界の潮流がシャットル(機械式=アナログ)からエアージェット(メカトロニクス=デジタル)に急激に変わってしまいましたが、今は逆にジーンズに代表されるように、シャットルで織った「生地の風合い」という面で見直されているようです。エアージェットは効率第一で、シャットルの5倍以上の高速回転で動かしますので、経糸テンションを限界まで張るので、どうしても生地の風合いがペーパーライクになるのが致命傷だったのです。まァ、音楽業界ひとつとっても、21世紀は決して「100%デジタル化はあり得ない」という証明だと思うのです。世の中は自然と「バランス」を保つために、必ず「反動」があるのだと・・・バランスと反動・・・これがこれからのビジネスのキーワードかもしれません。もう60年も生きていると、世の中2転3転する様を身をもって経験します・・・(笑)。30数年前の私の大学卒業時は大手家電や都市銀行に優秀な学生が殺到しましたが、今は消滅したりリストラがあったりM&Aで社名が無くなったりと無残な形相を呈しています。考えられない無残な事が目の前に起き忘れ去られる一方、ITを代表とする新たなビジネスで経済が活性化しているのでしょうか・・・まァ、そう意味でスタジオのホームページも、これに合わせてツイッターも後からリンクしたのです。フェイスブックは利用年齢層が割と高く、中高大学生はあまり利用しませんが、彼ら若者はツイッターをメインにSNSをやっています。こういうように、自分なりにマーケットを分析しながらSEOを進めていっているのが現状です。しかし、中高生らは素直かつ素朴でイイですねェ・・・リハスタの一番イイところは、若者も使ってもらえますので、「将来性」があるという事です。10代の彼らが、これから継続的にお客さんになる可能性があと50年・・・かもしれません。私がウインドサーフィンのお客さん(メーカーやショップの)になるのは、あとせいぜい10年しかありません・・・ウインドサーフィン愛好者の平均年齢は50歳超。もう何年もマーブルビーチで、20代の若者も女性も見た事がありません・・・(笑)。もう立派な敬老のスポーツです・・・(笑)。将来、中高生がウインドをヤラナイ限り、絶滅するかもしれません・・・やはり、ビジネスとして考えるなら、若者も「ヤリタイ!欲しい!買いたい!」と思い、思わせるようなモノを考えないといけませんねェ・・・ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.07.13
コメント(0)
先週、久しぶりに堺の友人がやってきました。高校からの友人で、仕事の都合で長らく長野県に住んでるようです。高校時代から彼は「タンクロウ」というフォークデュオを組んでレコードも出し、オリジナル曲も500曲を超え、精力的に音楽活動に取り組んできました。昔、高石市民会館を貸し切って演奏会をしました。私はボンゴで参加したのも懐かしい思い出です・・・今は彼も「指が動けへん・・・」という事で、ギターを弾く事もないそうです。残念ですねェ・・・しかし、昔それだけヤッタんなら、もしリスタートしたら必ず出来るはずです。10代、20代の経験は、4,50代からの経験と違って、身体の何処かに残っていますから、思い出せるものです・・・よく定年後「趣味がない・・・」とかマスコミの話題になりますが、何も新しい趣味を見つける必要もありませんし、60超えてから新しい事を始めると心身とも拒否反応で余計にストレスになります。そんな事をするより、若い頃熱中した事を「もう1回」やればイイのです。単純明快、これである程度「定年後のヒマ地獄」から解放されます・・・(笑)。その点、音楽なんかは裾野が広いので、趣味として応用がスゴク効きます。音楽を聴く、楽器を演奏する・・・今はタダ同然で何千万曲も聴け、楽器も実店舗やネットを含め新品中古品も結構安く沢山売っている時代です。カラオケ店は何処にでもあり、弊社のようなリハーサル音楽スタジオ(練習場)や、大小含めたライブハウスは東京や大阪にはいくらでもあります。アマチュアでもレコーディングが簡単にでき、ネットを通じてYOU TUBEやUSTREAMで自分たちの音楽を簡単に世界に発信できる時代です。もう溜息が出るくらい、今の音楽環境は整っています。音楽が趣味なら、可能性は無限に広がります・・・正に、最高の趣味と言えるかも知れません。そして、ネットで音楽を聴いてリハスタで楽器を演奏・・・とミュージシャンにとって、デジタルとアナログのバランスが素晴らしくイイのです。更に、音楽とダンスは密接な関係で、音楽を聴く(楽器を演奏する)人はダンスも好きと言う人も多いですし、ダンサーはほぼ100%音楽が好きでしょう・・・そうなると、可能性は益々広がります。音楽もダンスも楽しいし、人を幸せにします・・・海外旅行に行くと、音楽が身近にありますし、そこにはダンスがつきものです。バリやハワイでも、夜な夜なホテルのライブや小さいライブハウスをハシゴしました・・・リゾートに行けばライブハスがつきものというのは、人間というのはリラックスすれば音楽を聴き踊りたくなるものという事でしょう・・・スペインのフラメンコ、ハワイのフラダンス、インドネシアのバリ舞踊、アメリカのフォークダンス、ロシアのコサックダンス、イギリスのリバーダンス、バリのケチャ、中東のベリーダンス・・・日本でも各地にある盆踊り、阿波踊り、沖縄エイサーも有名です。身近なだんじり祭でも、太鼓など(鳴り物=お囃子)に合わせて屋根(大工方)で踊っています。しかし楽器でも、ピアノが出来る人は譜面を読めますので、ギターなどの弦楽器やトランペットなどの管楽器とか他の楽器を器用にこなす人が多いので、更に幅が広がります。またクラシックから聴き始めた人が、その後ロックやジャズ、R&B、ソウル、ファンクといったジャンルを広げる傾向にあるように思います。そういう将来「音楽の幅を広げる」という意味で、小学生からクラシックのピアノを始めるというのは、理に叶っていると思います。ある意味、ピアノは音楽の「基本」でしょうねェ・・・私が子供の頃は「男がピアノなんて・・・」という偏見がありましたら、妹だけ習って私の年代で男がピアノを習っていたなんて聞いた事がありませんでした。その反省もあって、自分の子供にはピアノと水泳は「必須」という事で習わせました。スポーツでも仕事でもそうですが、若い頃に基本を学ぶ事が、その後の人生において「その応用を効かせる」チャンスが多分にあると思うのです。という事で、古いアルバムを捜してみると、今回の彼が中心になって開催した高石公民館でのコンサートの写真が出てきました。タンクロウの2人が中心になって、兄さんや彼女やその友達、クラスメートとかサポートメンバーがイロイロで、楽器もアコースティックギターを中心に、トロンボーン、Eベース、ボンゴ、ピアノ、バックグラウンドボーカルと様々でした。青春の思い出です・・・(涙)。当時練習は、リハーサルスタジオという存在も知りませんでしたので、今回の彼の家でよくしました。今思えば、かなり広い家でしたので、近所から苦情も出なかったのでしょうねェ・・・(汗)。日曜にお邪魔すると、たまに彼のお父さんが家で居られ、私達に「学校の勉強も大事やけど、本当の勉強は社会に出てからや・・・」と、熱心に我々高校生におっしゃっていたのがトテモ印象的でした。たまに、国際電話をしているのか、英語で喋っているのを聞いた時はビックリしました・・・普通のオッサンなら聞き流していたでしょうけど、自転車の変速機メーカーで世界的に有名な会社の社長さんで、その後アメリカのマウンテンバイクに多大な影響を与えたとかで、米国の『MTB殿堂』入りで日本人唯一というくらいですから、さすが言う事が違うなァ・・・と熱心に聞いていたのでした・・・その後私が社会人になってから、たまたま彼のお父さんが「自転車業界の神様だ!」という大絶賛の話を複数の人から直接聞き、残した業績もそうですがその人柄の良さも含め、その「偉大さ」を再認識した次第です・・・(驚)。コンサートの写真の中で、Eベースを弾いているO君は、その後30代で急病で亡くなりました。オーケストラ部の同級生で、パートも同じトランペット。トランペットは3人いたのですが、3人とも同級生で、3人とも家業が織物業という共通点がありました。何とも、不思議ですねェ・・・私以外の2人は中学からトランペット経験者で、こっちはいくら頑張っても追いつくのは無理でした。なので、万年サードトランペットの「ハモリ専門」で、ファーストの旋律を吹く事はありませんでした・・・(涙)。一番情けなかったのは、1つ上の先輩が「これからはジャズロックや!」とクラシック中心のオケ部を飛び出して「音楽愛好会」なるロックとジャズ中心の音楽クラブ(同好会)を創り、当時世界的に人気を誇っていた全盛期のアメリカのブラスロックグループ「シカゴ」の曲(Ballet for a Girl in Buchannonという15分もある組曲)をやりだして、私以外の2人を助っ人で引っこ抜いたのです・・・私はまだまだヘタクソという事で、声すらかけられなかったのです(死ぬほどヤリたかったのに)・・・(涙)。まァ、6カ月やそこらでシカゴのホーンセクションが務まる訳もありませんでしたが・・・その亡くなったO君は、高校卒業後も付き合いがあり、ドラムの処分に困っていた私に、売却先を紹介してくれたりとイロイロ尽力してくれました。後輩からも「サブちゃん、サブちゃん」と羨ましいくらい慕われていました。あんなイイ奴が、小さい娘さん2人を残して30代で亡くなったのが残念でなりません。という事で、わざわざ貝塚まで来てくれたので貝塚駅前で一杯やり、スタジオを見たいという事で見てもらい、地元の焼き鳥屋で一杯・・・「もう泊まって行けよ」と引き止めましたが、明日予定があるという事で「じゃ、また・・・」と。次会うのは、11月の高校の学年同窓会。もう、みんな今年60歳。感無量・・・特に男は今年、多くが定年を迎えます。これまでの60年の人生、学校、恋愛、就職、結婚、子育て、教育問題、離婚、別居、転勤、脱サラ、起業、リストラ、転職、住宅問題・・・とみんな大いに悩んできたと思いますが、今年から「定年後どうする?」という新たな悩みを向かえる年代になりました。ある意味、人生のセカンドステージと言えるかもしれません。このセカンドステージを如何に充実させるか・・・???「まだ60歳」と言いたいですが、現実的には「もう60歳」で、平均寿命から計算すると20年後には「この世に居ない・・・」という悲しい現実が待っています・・・(涙)。20年後のチーンの前に、自立できなくなる10年後の健康寿命が待っていますので、この「悲しい現実」を直視して、人生を「逆算」して生きている自分がそこにあります・・・「逆算」と言っても、もう今更ジタバタしても仕方がありませんので、基本は「自分に正直に、納得の出来るように生きるだけ」です・・・(笑)。これまで、まあソコソコ好きなように生きてきましたが、ある意味、もう一段ワガママに「好きなように生きる」と言えるかもしれません・・・(笑)。海外旅行で現地の文化や日本人以外の外国人と接すると、「一体何のために?生きているのか(きたのか)・・・」という人間としての根本的な問題を、時々考えさせられます・・・それが、音楽業界「新規」参入の突破口である「スタジオ起業」に行きついたのかもしれません・・・(笑)。人生、60歳からオモロなるでェ・・・を地で行きたいと思うのです・・・(笑)。まァ、しかし、車で去る彼を見ると、年取った証拠ですかねェ・・・何故か人恋しく、そして寂しくなりますねェ・・・(涙)。ここもポチッと押してください!ご協力お願いします!にほんブログ村 にほんブログ村にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ
2016.07.04
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1