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少将は白木の簀子の敷かれた井戸端に角盥を置くと、中の赤黒く染まった水を覗き込んでまた溜め息をついた。 こんなに妹の胸の病が悪くなっているとは思わなかった。もっと早く知らせてくれていたら、お仕えしている后の宮に少し無理を言って退出させていただいていたものを。 だが、そう考えつつ、少将は自分の胸の底に何か冥(くら)いつかえのようなものが燻っているのに気づいていた。 知らせが来ても、果たしてわたくしはすぐに宿下がりを願い出て、この屋敷に戻ってきただろうか。 少将は醍醐帝中宮藤原穏子の元に女房として出仕しており、いまや側近の一人としてなくてはならない存在である。内裏で多忙な生活を理由に、一日伸ばしにしてしまったのではないか。今度の宿下がりも、亡くなった父母の忌日の法要を営むためのものだった。妹のために戻ってきたのではない。 少将は自分の薄情さを振り払うように、角盥の中の水を勢いよく庭へ撒いた。井戸の中へ釣瓶を落として引き上げようとしたが、水をたっぷりと汲んだ釣瓶を上げるのはなかなか骨が折れる。 本来ならこんな仕事は下仕えの女童にでもやらせることだが、妹の側には乳母以外に侍女はついていなかった。いまや庇護者を失った妹は、宮中に出仕して俸禄を得ている少将の援助で、何とか屋敷を維持していくのに精一杯なのだ。余分な人を雇う余裕はない上、古参の侍女たちも妹の病を恐れて一人二人とこの屋敷を去って行ったらしい。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2009年01月30日
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井戸と言っても、雑仕女が洗濯をするようなただの井戸ではない。それは県(あがた)の井戸と呼ばれる世に名高いものだった。 その井戸は、この山科の地へ都が移されるずっと以前からここにあり、万病を癒す霊水として人々に崇められていたという。 それを気に入った少将の祖父の文章博士橘広相が、この地を譲り受けて自分好みの瀟洒な屋敷を建てた。県の井戸にちなんで井戸殿と呼ばれるようになったこの屋敷は、後に父の大膳大夫橘公平に譲られて、父亡き今は少将ら姉妹たちの住まいとなっている。 風流な教養人だった祖父は、山吹の名所として知られる井手の里にちなんで、その井戸の周りにたくさんの山吹の木を植えた。それから何十年もたった今では、それぞれの木は大きく成長し、井筒を覆わんばかりに茂っている。 まだ父が生きていた頃には、山吹の花が満開になると父の同僚や上司の殿上人たちがこの屋敷に集い、寝殿の東庇で花の宴を開いたものだ。今はもう誰も訪れる者はいないが、今年も美しい花を咲かせるだろう。 だが、その花が見られるまで、妹は生きていられるだろうか。 山吹は青々とした葉を広げていたが、花の蕾はまだ固いままだった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓こちらが現在に残る「県井」。現代の京都御所のある京都御苑の中にあります。少将たちの屋敷である井戸殿はきっとこの辺りにあったんでしょうね。
2009年01月28日
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角盥の中に、黒々とした水の澱みが沈んでいく。手拭いを浸すと、赤黒い血の色が白い麻布の面に浮き上がった。 少将は少し戸惑いながらその手拭いを絞ると、血の滴り落ちる妹の口元に当ててやる。妹はひきつけるように激しく咳き上げると、再び角盥の上に屈み込んで血を吐いた。 少将は苦しげに震えている妹の背を、ただ何度もさすってやることしかできない。そして、側に控えている妹の乳母へ視線を移して言った。「僧に祈祷はさせているのか。何か、薬湯のようなものを飲ませた方が良いのでは……」 乳母はじっと少将の瞳を見つめたまま、悲しげに首を振った。もうこれ以上何をしても、三の君様は助かりますまい。乳母はそう言っているのだ。少将は途方にくれて溜め息をついた。 ようやく吐血の治まった妹を乳母に預けて、少将は汚れた角盥(つのだらい)の水を取り替えるために、妻戸を開けて東の対を出た。 ようやく春も深まって少し暖かくはなってきたが、外の風に当たるとさすがにまだひやりとする。 少将は角盥を抱えたまま、袿の裾と長い黒髪を気にしながら、ゆっくり目の前の階(きざはし)を降りた。 東の対の北にある坪庭には井戸があるのだ。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2009年01月27日
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このブログでの6作目の連載も、ようやく終了しました。お読みいただいた皆様、本当にありがとうございます! 今回は久々の短編だというのに、連載中は私生活で何かと忙しくて長期の休載もあり、思ったより連載が長くかかってしまいました。ほぼ毎日連載をうたいながら…ごめんなさい。 さて、この作品は2004年のオール読物新人賞への投稿用に書いたものです。今からもう4年以上も前のことなんですね~。(しみじみ) この頃は短編での応募のできる賞が他にもいろいろあったんですが、最近ではみんな長編に移行して、私が昔から応募していた賞のうち今でも短編で受け付けてくれるところはこのオール読物だけになってしまいました。(こちらも、推理小説の賞と合併して以前とは変わってますが) 長編を書くのは好きですが、どうしても物理的に書く時間が長くかかってしまうので、そうすると一年に応募できる賞が少なくなってしまいます。それに、最近では私生活でもいろいろ忙しくて、執筆時間がなかなか取れず。。。1年に長編1&短編1がやっとになってきました。 それで、ここ数年はこのオール読物と小説すばるの新人賞への投稿が主になってきています。というのも、自分自身の作品評価の優劣にかかわらず、この2つの出版社への投稿作品は比較的結果が良いんですよ。この「光明遍照」も第一次選考は通過できましたし、去年書いた小説すばるへの投稿作品は初めて第二次選考まで通過することができました。やはり、自分に合った出版社というのがあるんでしょうか?(←ぜんぜん違うカラーの出版社のような気もするけど…)とにかく、文芸春秋と集英社の皆様、本当にありがとうございます♪<次回からの連載のお知らせ> タイトルは「山吹の井戸」。美しくて有能だけれど孤独な姉と、自由奔放な恋に生きる妹……全く異なる個性を持つ2人の姉妹の確執を描きます。 私自身には同性の姉妹はいませんが、昔から「女同士の関係って、姉妹であっても(だからこそ?)結構難しいものなのかも」と何となく思っていました。そこからいろいろと想像して書いた作品です。今回も80枚程度の短編。気軽に読めると思いますので、どうぞお付き合いくださいませ~♪↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2009年01月25日
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やがて、東大寺の東側を囲んでいる三笠山の山の端から、朝の光が差し込んできた。その柔らかな光は、遠ざかっていく太上天皇の行く手を照らし、扉の蔭から覗いている駿河麻呂の頬も薄紅色に染めていく。 駿河麻呂はふいに後ろを振り返り、頭上高く聳える毘盧遮那仏の御顔を見上げた。大仏殿の第二層の窓からも曙の光は射し込み、御仏の顔も金色に輝いている。その御顔は清らかに澄み渡り、まるで浄土の夢を見ておられるかのようであった。 太上天皇の言う通りなのかも知れぬ。 駿河麻呂は思った。この世はこの大仏殿の中のように、未だ夜の闇に沈んでいる。だが、遥か彼方を仰ぎ見れば、そこには浄土の面影が確かにたゆたっているのだ。穢土の汚辱にまみれながらも、その浄土の面影に焦がれ救いを夢見ながら生きていくというのが、人間というものなのかもしれない。 駿河麻呂はいつまでも毘盧遮那仏を見上げ続けていた。次第に明るくなっていく曙の光は、毘盧遮那仏の御顔にも駿河麻呂の身体にも等しく降り注いでいる。その光明は遍くこの世を照らし、地上を覆っていた夜の暗闇もやがて穏やかで懐かしい輝きに満ちていった。どこからか、優しい朝鳥の囀りも聞こえてくる。 暗い大仏殿の堂宇の冷たさに凍えていた駿河麻呂の身体も、天から降り注ぐ柔らかな曙の光に、いつしか暖められていったようだ。「南無毘盧遮那仏……」 駿河麻呂は小さな声で呟いた。 (了)↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2009年01月21日
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驚きで声も出ない駿河麻呂の前で、老僧は自ら大仏殿の扉を開けると外へ出て行った。 重い扉の立てる大きな軋み音に、階で眠りこけていた衛士たちも目を覚ましたらしい。一人が老僧に呼びかけている。「これは、太上天皇様。お祈りはお済みでございますか」「ああ、もう済んだ。これより、都の田村第へ戻るとしよう。もうすぐ夜が明ける。館の主の仲麻呂が起き出す前に、私の宿所に入っておきたいからな。一晩中番をしてもらったそなたらには大儀であった。田村第に戻ったらゆっくり休むが良い」 駿河麻呂は大仏殿の扉の蔭から、二人の衛士を引き連れて去っていく聖武太上天皇の後ろ姿を見送っていた。 少し足を引き摺るようにして歩くその姿は、長年の病苦と心労の重さと深さを物語っている。確かまだ五十歳をいくつか過ぎたばかりのはずなのに、小柄な身体は痩せこけ、背は七十歳の老人のように曲がっていた。まるで、その身に纏った唐渡りの紫衣の重みにすら耐えかねるというように。 豪華な衣装と脆弱な身体。それは、太上天皇が生まれた時から背負わされてきたものの象徴であろう。そして、太上天皇はそれをこれからもずっと背負いつづけていくのだ。この世を去るその日まで……。注…田村第は藤原仲麻呂の邸宅。この記念すべき日、天皇家ご一行様はここを宿舎としていたようです。仲麻呂は光明皇太后の異母兄である藤原武智麻呂の息子で、一説によれば従姉妹である孝謙女帝の愛人でもあったとか。政治家としても優れ、後に恵美押勝という美名を賜るほどでしたが、孝謙女帝の寵愛が弓削道鏡へ移ると失脚。恵美押勝の乱を起こすも失敗して、官軍により一族とともに斬首されちゃいました。。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2009年01月20日
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老僧は身を引き摺るようにして後ろを向くと、毘盧遮那仏の膝元にひれ伏した。「私のような者が、どれほど御仏に祈ったとて、浄土へなど行けはしまい。そう思いながら、なおその望みを捨てきれずに、こうして必死の思いでこの毘盧遮那仏を造った。そして、その御力に縋り、僅かでも我と我が国への救いを祈ってきたつもりであったが……そなたの言う通り、この世にもあの世にも救いはないのかも知れぬ。だが、それを夢見て祈り続けずにはおれないのも、また人間ではないのか。私にはただ祈り続けることしか出来ぬ。自分の犯した罪を背負い、その重みに喘ぎながら、ただこの穢土を彷徨い続けることしか」 老僧は再び駿河麻呂の方を向くと、その目の前で数珠を持った両の手を合わせて言った。「こんなことしか出来ぬ私を許してくれ。そなたの哀しみ、この世の民人の嘆き、全て私がこの身に背負っていこう。そして、どうかそなたら民人の苦しみが、ほんの少しでも癒されますように」 老僧の目から、涙が零れ落ちる。それを拭おうともせずに、老僧は駿河麻呂に手を合わせて俯いていた。駿河麻呂はただ黙ったまま、小さなか細い老僧の姿を見下ろしている。老僧を責める言葉は、もはや出てこなかった。老僧は長い間駿河麻呂の前に額づいていたが、やがて身を起こしてゆっくりと立ち上がると、駿河麻呂に言った。「私とここで会ったことは、誰にも内緒にしておいておくれ。表向き私は女帝と一緒に田村第に還御したことになっているのだから。外にいる私の供の衛士に見咎められぬよう、私たちが立ち去ってから、そなたはここを出るが良い」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2009年01月18日
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老僧は絶望したように、両手で顔を覆ってしまった。「全ては、人の上に立つだけの資格も力量もない者が、人の上に立ってしまったことから生じた災いだ。今の帝もそうだろう。女だからというわけではない。同じ女であっても、光明皇太后のように、人々を率いていけるだけの気概と能力に恵まれた者であったならば……。だが、女帝は我がままで気まぐれな凡人に過ぎぬ。やがて大きな世の乱れを招かねばよいが」 老僧は疲れたように項垂れていたが、やがて駿河麻呂に眼を戻して言った。「帝とて、帝に生まれたくて生まれてきたわけではない。人は生まれてくる身分を自分で選ぶことは出来ないのだから。だが、一旦人の上に立つ立場に生まれてしまったならば、どれほどその資質がなかろうと、どれほどその地位が重荷であろうと、死ぬまでそれを背負っていかねばならぬ。それが人間の宿命というものだ」 老僧は駿河麻呂に許しを乞うような眼差しで続けた。「下々の者には下々の者の、上に立つ者には上に立つ者の苦しみがあるのだよ。それに、たとえ身分が違っても、老病死苦は誰の元にも等しく訪れる。私ももう長年病に苦しんできた。もはや疲れ果て、一刻も早い死を望んでおるが、なかなかこの身体にも心にも平安は訪れぬ。いや、死んだからといって、果たして私に平安が訪れるものだろうか。私のせいで死んでいった多くの者たち、私の名の元に犯された多くの罪過。それらは私の魂を圧し包み、やがては彼らと同じ奈落の底へ引きずり込んでいくことだろう」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2009年01月14日
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