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遠くで、海鳴りのような波音が聞こえる。 風が強くなってきたのか、夜明け前の静けさのせいなのか。今では少し耳につくほどだ。 その音が気になって目覚めたのか、腕の中からくぐもった細い声がした。「あれは何の音でございましょう。遠くで、恐ろしい、獣の唸るような音がいたします」 近江守は薄暗い天井を見上げながら、ふと思いついた歌を口ずさんだ。これぞこの つひにあふみを いとひつつ 世にはふれども いけるかひなし(これこそは近江の湖の波の音です。その近江(あふみ=おうみ)の名のようについには「逢ふ身」だったはずなのに、互いに離れ離れになって長い年月を過ごしてしまいました。でも、それでは生きている甲斐もないことです)「何のお歌でしょうか」 訝しげなその声にも構わず、近江守は側の女の身体に手を這わせた。黒髪のまとわりついた白い背を後ろから抱き締めながら、左手の手首を探り当てると、その上に指先を這わせる。 滑らかな肌の中で、そこだけ明らかに盛り上がっている二本の太い線。 それは、古い火傷の跡だった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年01月31日
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「父は宮中にお仕えする者でございました」 何と、それほどの身分の者の娘だったのか。もしかしたら、父親の名前くらいどこかで聞いたことがあるかもしれない。 近江守はふいに身を起こし、京乃に向かって問うた。「父御のお名前は何という? 官職は?」「大した身分ではございませぬ。それに、もうとうの昔に亡くなりました」「他に身寄りの者は?」「母も亡くなりましたし、兄弟もおりませぬゆえ、もう誰も。京で一度夫を持ったことがございましたが、そのお方も別れてからしばらくして亡くなったと聞きました」「そうか。だが、京へ戻りたくはないのか?」「戻ったとて、詮(せん)無いことでございまする」 そう言うと、京乃は俯いて押し黙ってしまった。 艶やかな黒髪がさらさらと流れ落ちて頬にかかる。京乃はその乱れた髪が気にかかるのか、日に焼けた指先で何度か後ろへかきやった。 ひび割れ、あかぎれた褐色の手。だが、時折袖口から覗く手首の内側は、驚くほどに白く滑らかだった。 近江守は思わずその手首を掴み、自分の目の前に引き寄せた。京乃は驚いて顔を上げたが、いつものこととすぐに諦めたように近江守の胸に身を寄せてきた。 だが、近江守は微動だにせず、掴んだ手首を凝視している。その顔が奇妙な形に歪んだかと思うと、近江守はふいに固く目を閉じた。それでも、その瞼の隙間から、堪えきれない涙が滴り落ちる。 言葉にならない嗚咽(おえつ)が、獣の低い咆哮(ほうこう)のように喉の奥から迸(ほとばし)り出て、近江守は思わず激しく腕の中の京乃を抱き締めていた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年01月28日
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その晩、夜半になってようやく、京乃が近江守の寝所へやってきた。 酒宴の時と違って、小袖の上に袴をつけ、袿も羽織っている。髪も梳(くしけず)って背に流し、浅黒かった顔には白粉と紅が塗られていた。 だが、せっかくのその装いも、近江守の心にさらなる哀れをもよおさせただけだった。 おそらく、郡司の娘か誰かの借り着なのだろう。派手な朱鷺(とき)色の小袖に、胡蝶を織り出した緋色の袿。若い娘ならば愛らしくもあろうその装いは、四十を過ぎた女には少し酷だった。厚く塗りすぎた白粉は田舎臭く、紅は品のない色合いだ。 ただ、梳(と)き流した黒髪だけは長く艶やかで、ひどく痩せていることをのぞけば顔立ちは悪くない。近江守の前で手をつく仕草も優雅だった。 おそらく、若い頃は相当に美しく、しっかりとした行儀を身につけられるほどの裕福な暮らしをしていたのだろう。それなのに、今はこんなところで、下人の如く落魄(おちぶ)れ果てようとは。 近江守はこの京乃という女がひどく哀れになり、労わるように笑顔を見せながら優しく言った。「今日は一日中馬に乗ってきて疲れた。腰を揉んでくれぬか」 京乃は静かに頷くと、横になった近江守の背や腰を揉み始める。郡司の言った通り、確かに上手い。近江守は心地良げな溜め息をつきながら、背後の京乃に尋ねた。「そなた、京の生まれだと聞くが、どこかで屋敷勤めでもしていたことがあるのか」「いいえ」「それにしては物慣れた風情だ。元は身分のある者か?」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年01月27日
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「ほう……」 近江守は少し眉をひそめた。 仮にも息子が睦み合っていた女を、息子が飽きたからと言って親の自分が愛妾にするとは。 近江守の不快げな様子にも気づかず、郡司は目を細め唇に下卑た笑みを浮かべている。 目の前で花を活け続ける女を、近江守は痛ましげな眼差しで見つめていた。 女は少し首を傾げて、花の活け具合に目を凝らす。そうすると、その浅黒い眉間に深い皺が現れた。その皺は、この女が今まで辿って来た無残な道のりを、如実に物語っているようだった。男に惑わされ、裏切られ、辱められ、貶められて……。 いや、よく目を凝らせば、その皺だけでなく、女の全身からそのような惨めな境涯が臭い立ってくる。 近江守はそれ以上見ていられずに、さりげなく目をそらしていたが、郡司はまだ気づかずに近江守へ言った。「守殿、今日はお疲れでございましたろう。よろしければ、あの女にお腰でも揉ませられては。按摩(あんま)も上手うございますよ」 近江守はすぐに断ろうと口を開きかけたが、ふいにまた口を閉じた。 目の前の女が、活け終わった花の甕を奉げ持ってこちらへ向き直っている。その目が近江守の上で止まり、そのままじっと動かなくなった。 涙がすべてを洗い流してしまったかのような、生気のない褪せた瞳の色。 その瞳が、近江守にはなぜか気に掛かり、思わず郡司に言葉を返していた。「そうだな、確かに今日は少し疲れた。宴が果てたら、私のところへ寄越してくれ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年01月25日
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しきりに酒を勧める郡司に、あまり酒には強くない近江守は適当に返事を返していたが、ふと目に付いて郡司に問うた。「あの女は、そなたの身内か」 寝殿の隅の柱の陰で、一人の女が青磁の甕(かめ)に花を活けていた。 年の頃は四十半ばか。日に焼けた浅黒い肌に、痩せ尖って皺の刻まれた頬。色褪せた山吹色の小袖に褶(しびら)をつけ、脛(すね)を剥き出しにして跪(ひざまず)いているその姿は、田舎の百姓女そのものだった。 だが、頭の後ろで輪のように結わえられた髪だけは大そう豊かで、花を活ける手つきにも何となく雅なものが感じられる。 近江守の視線を追った郡司は、にわかに相好を崩して言った。「おう、殿のお目に止まりましたか。あれは、身内ではございませぬが、うちで長い間召し使っている者でございましてな。何でも生まれは京の都だそうで、うちでは京乃という名で呼んでおります」「京の女か」「さようで。あれでも、若い頃はなかなかに美しゅうございましてな。私の息子が京に上った折、見初めて連れてきたのでございますよ。まあ、息子の方にはもともと口のうるさい古妻がおりまして、その悋気(りんき…嫉妬)があまりに激しく、すぐにあの女の元へは寄り付かなくなりましたが。京に戻っても行くところがないと申しますので、それ以来ずっと私が面倒をみております。もうだいぶん薹(とう)が立ったので、近頃はあまり寝所には召しておりませぬが、それでも時々恋しくなることがございますよ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年01月24日
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そういえば、今年の春の除目で近江守になった時、周りの者たちが口々に言っていた。「近江とは。これはまた羨ましきこと」「初めての任国が近江など、なかなかあることではございませぬぞ」「主上のお覚えの目出度いお方は、出世も早ようございますな」 父と共に京へ戻ってしばらくした後、多聞丸と呼ばれていた近江守は位階を得て、隠居した父に代わって宮中に出仕するようになった。 父のかねての思惑通り、伯父の引き立てによってすぐに蔵人の末席に連なることができたのが、まず一番の幸いだっただろう。 元々活発なたちで人付き合いはそれほど嫌いではないし、毎日忙しく働くことは性に合っていたから、宮中の仕事は思いのほか楽しかった。それに、病気の父に代わって播磨で国府の采配を揮(ふる)い、多くの経験も積みそれなりの苦労も味わってきた身だ。 懸命に役目に励んだおかげで、年若い蔵人たちの間でめきめきと頭角を現し、ほどなく帝の目に止まってその愛顧を被ることになったのである。 そして、それが今回の近江守への異例の抜擢に繋がったのだった。 郡司の老人に勧められるままに、近江守は寝殿の上座に腰を下ろした。 目の前を、大勢の男女が手に手に銚子や高杯を持って、忙しげに出たり入ったりしている。身なりや言葉付きからして、皆この近江の者たちらしい。 おそらく、郡司は自分の舘から一族郎党を引き連れて、近江守の歓迎に出向いてきたのだろう。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年01月15日
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小役人が言った通り、やがてたどり着いた近江国府は、琵琶湖を眼下に見下ろす高台の上にあった。 堀に囲まれた八町にも及ぶ広大な敷地に、唐風瓦葺の政庁と桧皮葺の国守舘、小役人たちの住む家々が整然と立ち並んでいる。その豪壮な佇まいは、この近江国の豊かさと国守の権力とを雄弁に語っていた。 国府の正門には、既に出迎えらしき人々が居並んで、近江守の到着を待ち構えている。近江守の一行が近づいていくと、人々の中からでっぷりと太った老人が進み出て、深々と頭を下げながら言った。「守殿。ご無事のお着き、何よりでございます」 近江守が頷くと、老人はさらに腰を折りながら続ける。「私はこの辺りの郡司を勤める者でございます。さあ、どうぞ中へお進みくださりませ。都の高貴な御方のお口に合うかは存知ませぬが、近江名物の酒肴も誂えておきました。どうぞごゆるりとおくつろぎくだされ」 長旅に疲れた近習たちは、それを聞くと嬉しげに顔を見合わせた。近江守も微笑みながら郡司に話し掛ける。「それは大儀であった。遠慮なく馳走に預かろう」 国府の中は落ち葉一つなく掃き清められ、建物の床や柱も綺麗に磨かれて光っているようだった。贅沢な蒔絵の調度類も所狭しと並べられ、そこかしこに唐渡りと思われる高価な壺なども置かれている。六条の近江守の自邸より、よほど豪華だ。寝殿には既に酒宴の用意が整えられ、さらにたくさんのご馳走や酒が惜しげもなく運ばれてくる。 近江守は目を見張りながらそれを眺めた。播磨も近江も共に大国だが、こちらの方が数倍豊かなようだ。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年01月09日
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近江守はその厳かな響きに耳を澄ませた。海に近い播磨の国府で暮らしたことのある近江守にとっては、懐かしくも聞きなれた響きだ。 だが、京を一度も離れたことのない者にとっては、物珍しい音らしい。馬の口を捉えていた近習が、近江守を見上げて尋ねた。「守殿、あれは獣の鳴き声でしょうか。何やら遠くでごうごうと唸るような音が聞こえまするが」 近江守は少し苦笑して答えた。「あれはただの波の音だ」「波の音? このような湖でも波が立ちまするか」「海に比べれば穏やかだろうが、今日のように風の強い日にはなかなかに荒れると聞く」 それを聞いた近習は、感嘆したように額に手をかざして湖面に目をやった。 近江守一行を先導していた近江国府の小役人が、馬上の近江守を振り返って言った。「国府の舘も湖に近うございますゆえ、朝晩にはこのような波の音が聞こえまする。都のお方には少々うるそうございましょうが」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m↓大津のホテルから観た琵琶湖の岸辺。向こうで半ば雲に隠れている山並みが比叡山です。
2014年01月06日
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