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武富士は、見事に6300円で利食いした。調達が、5350円だからとりあえずは臨時収入というところだ。しかし、身体は動かさないが疲れる。こんな作業で、170億円も稼いだ奴の顔がみたいものだ。とてもじゃないが、やってられない。(顔をCLICKすると、「ガイアの夜明け」の特集へ)こちらは、いろいろ忙しい。炊事、洗濯、外食一切なしで去年から暮らしている。そこに仕事があって、英語の学習があって、楽天にブログを書いて、日本語学校の教師やって、そのあいまにネットで株などに手を出しては生きている気がしなくなる。しばらくは、閃くまでは株はやめよう。とりあえず、ディトレーダーというのがどういうことをやるのかは追体験したので、一応満足だ。だが、こんなことで汗もかかずに、金になるなら仕事に打ち込み気にならんだろう。困ったものだ。しかし、オヤジにまともに仕事をさせないのが日本の企業の人事屋だ。組織の30代以下は、オヤジと仕事をするのを拒否するというのがゴロゴロいる。まあ、気持ちは分からないでもないが、仕事と成果だけは自分たちにまわせ、と露骨に要求する奴も多い。自分らが、20代にあんなさもしい真似を顔に出したり、口にすることは恥かしいことだという自覚があったが昨今は、ほんとうに露骨だという自覚もない。いや、40代の経営者などもそのレベルのことを平気でいう。資本主義としても、末期的だと思う。それならば、もう企業だの事業だのをやめて、会社ぐるみでディトレーダーやればどうなのだろう。競馬をやっているよりは、よほど実業風だろう。虚業だとの自覚は、「結果が手段を浄化する」という鉄則の前に姿を現すことはなくなる。資本主義が極限までゆけば、地球は間違いなく終わるな。
2006年08月31日
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↑クリック最近、購入することがなくなった月刊プレジデントだが特に今月9/18では有名外国人が日本語を習得するまでの壮絶な努力の跡づけを、読み解きができるかと期待もあり読み進んだ。それが、内容的にいまいち面白くなかった。企画編集の長山清子氏が、力不足なのだろうか。直近で、杉田敏先生の「英語の達人」を読んだ後だから、特別その踏み込みの浅さが眼についた。「英語の達人」は、インタビュアーがなにしろ名にしおう杉田敏先生だから遠慮無しに免許皆伝的なレベル。ある意味くつろいで手の内を開示しているというフシがある。ここでこの企画に、日本語学習歴がある達人をもってきていれば、さぞや面白い話題交歓になっただろうと思うと、惜しい。びなさん/石井伸介さん(プレジデント副編集長)もう少し頑張ってね。剣道の達人だって、やはり目録クラスより上の方でないと秘技開帳にはならないんじゃないかしら。有名外国人が伝授「いつも三日坊主で終わる人」への処方箋多忙人の「挫折ポイント」一挙解決 /長山清子●やる気を高めるゴール設定 ●4つの時間ジャグリング●朝60分の黄金タイム ●集中力リセット仮眠…… 実は、話題に相手しているクラスの駐在日のビジネスマンの向学心については想像ができるのだけれど、語られているのは新書版のどこにでもある語学書レベルの話ばかりで、この程度の逸話を聞き出すために流石に月刊プレジデントを、650円も出して買わないよなあ、と思ってしまった。杉田敏先生の、「英語の達人」では野田聖子代議士やらあの世紀の同時通訳の神技で一億国民を魅了した國弘正雄先生や、高円宮憲仁殿下にまじって何かと話題の堀義人氏がみえる。この本が出た頃といえば、パソコン通信でやけにヒールなスタンス。けばい発言をしていた時期だから、思い出し笑いをしてしまった。杉田敏先生の前での発言は、相当謙虚めにつくろわれているフシが濃厚だが、パソコン通信のビジネス系での彼のスタンスは、往事を記憶している人間にはいまだに鮮明に残っている。通信時代あの池田信夫先生だって、あそこまで高慢ちきな打ち出しをしていることはほとんどない。謙虚なものだったと思う。ただ、同書の中で彼が経営修士の資格取得を広汎なビジネス社会の普及を低廉で実行しようと、目論見したという流れについては一定理解できた気がする。資格取得そのものが、目的化しているということについては当時の通産省産業政策局の内部でも、こそこそと陰口を叩いている人もいてあの程度のものをベンチャー事業で数えなければならないのか、などという失笑があったのも事実だ。80年代ならば、その後につづく事業支援ブームの「布石」としての意味合いがあったかもしれないが、96年時点ではむしろ敵前逃亡の方便のように響かないでもなかった。「英語の達人」の中では、杉田敏先生と旧知で怩懇だったという石倉洋子教授が面白い。女性らしく、けっこう包み隠さず手の内を開示されているところも好感ができる。なにしろアメリカでのビジネススクールでMBA(経営学修士)をとられただけでも壮絶な感があるが、その後ハーバード大学で日本人女性ではじめてDBA(経営学博士)を取得されたというのは、頭から血がさがるほどの凄さだ。こりゃあもう比較するとしたら、荒川靜香とかでも引き合いにださざるを得ないほどだと思う。だが、あまり世間で喧伝されることがないのはビジネスの世界で靜に披瀝されているからなのかもしれない。こういう凄い人が、輩出できる日本はまだ頑張れる余地がありそうに思える。「西洋砲たとえ吾が艦を砕くも」の精神は、不可能ではない。しかし、杉田敏先生の対談を読んでいるとまさしく彼女の鍛えられたアメリカのビジネススクールの手法が導きだす。それは、日本的な「予定調和」、はたまはあの戦艦大和だの零戦だのをかたちにしちまうOptimaizationの対極にあるものを目指す方法論、や気概を是とする精神だ。杉山巡さんの言う「朱子学」の呪縛は、こういう人の存在を福音に、少しづつほどけてゆけるかもしれないと期待する。要するに工業製品としていえば、「最適妥協案」Optimaizationというのだそうだ。なにが胸を張って自慢ができるものであろうか。他ならぬ設計技師、堀越二郎、曽根嘉年らがみな一様に認めていることだ。つまり、組織としての海軍は、もう戦争を始める以前にその指導思想で欧米には遥かに及ばぬところで、ふんぞり返っていたのである。つまり、戦艦大和とは、そのような連中が、つくった世紀の大恥。日本人の恥部のようなモーニュメントだったのではないか。
2006年08月30日
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87年に偶然、ラジオで東後勝明先生の番組を聴いてキレイな声に引き込まれた。その著作、「英語ひとすじの道」を読んでますます瞠目させられた。なんと英語は学問というよりも、格闘技系なのだ。そう感じた。大山倍達や宮本武蔵の世界のようだ。これは、面白そうだ。上達するのか、どうか別にして英語を聴いてみようと思った。その頃に聞いたものは、結構覚えていたりする。残念ながら、直後に会社をつくってしまったために、忙殺されてとても勉強をしようというファイトが失せた。同時にパソコンも学びだして、とても二兎を追えるような心理状態ではなかったのが残念。その頃、杉田敏先生の「やさしいビジネス英語会話」が始まった。やり直し英語を、始めたのは鈴木陽一「DUO3.0」の初版が出た頃だ。始めるのが遅いといわれたので、ますます面白くなった。遅くから始めるハンデが、どれぐらいのものかを知りたいという好奇心だ。なにしろ好奇心を糧にして生きているようなところがある。なにより素晴らしいのは、学習環境が80年代に比べても飛躍的に良くなった。東後先生や、杉田先生の時代の「過激さ」も魅了されるが、やはり根性なしの自分には、この恵まれたWEB環境を待っていて良かったという気分だ。軟弱な人間には、パソコンとICレコーダーの時代は夢にも見た環境という気がする。ところで、杉田敏(すぎたさとし)先生の「英語の達人」(DHC)は面白い。これは久しぶりに面白い本を読んだ。英語の学習者にとどまるものではない。ビジネスマンによし、学生によし、ただの読み物として読んでもよし。最近、スランプ気味だというジャズサックス奏者のlalameansさんにも是非読んでいただきたい。世の中には、ほんとうに凄い人というものはおられるものだ。あまり凄過ぎると羨望の念が涌かない。また、IPOで数十億円の資産を得ました、などというような話と違って、眼つきが悪くなる事がない。この清々しさが心地よい。とにかく2000時間勉強しろと、小林薫先生。なるほど、2000時間か。ならば凡人の自分は、5000時間ぐらいやればいいのだろう。まだ、あの世へ行くまでは相当時間が残っていそうだ。毎日1時間、365日で10年もやれば少しは先が読めるのだろうか。
2006年08月29日
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↑クリックいまや、マオイストといえばネパール共産党の軍事的冒険主義な動きを指すらしい。変われば変わるものだ。自分らが、高校時代には、マオイストとは、紅衛兵で、毛沢東=林彪路線の手先だった。当時の林彪は、ある種のスーパースターだ。私に言わせればギャングスターなのだが、、、それから、その影響を喰らった極左主義がフランスなどで流行し、当時地上で売春が存在しない社会が中国だ、などと平気でフランスのインテリが吹聴していた。フランスの左翼が、ノー天気だから、これまた日本のファッション左翼が、すぐに魅了されてしまう。そうこうするうちに戦後まもなくから日本共産党の中で、親中国派とは聞こえがいいが狭い日本で銃砲をぶちかましたいというヤカラらが蠢動していて、ここでも時代は学生さんの威勢のいい叛乱期とて。景気良さに跳ね上がり京浜安保共闘とやらぬかす、都市ゲリラになり。果ては赤軍派と組みリンチ殺人で全国に飛び火した極左活動の隆盛を、一気に沈静化させることになる。実に皮肉な動きだった。ようするに、頭がおかしい軍事カルトが左翼のマスクを被っていたようなものだろう。あの連中が、まじめにマルクスやレーニンの書を読んでいるのを見かけたことがない。読んだところで、何が書いてあるのか理解できそうなタマではなかった。自分が、学生時代は、もぱら保守系リベラルな連中から手ほどきされて、よほど理解が進んだ気がする。マルクスの資本論だって、日本で最初に翻訳したのは国家社会主義者だった。ところが、自分も99年に訪問したネパールで季節はずれにマオイストが跋扈しているというのである。これには、呆れた。事情がわからないので、てっきり親中国派の手先かと思いきや。これがとんでもない。むかしの全共闘オヤジに、電話をして聞いてみたらネパールのマオイストというのは、もともと中国とは、あまり関係がなく。あっても希薄で、どちらかいうとあのフジモリ大統領のとこで激突したりしていた、あのセンデロルミノソの子分だか、手先のようなものらしい。(うう、、自分が毎週日本語を教えているペルー人労働者の中にも、マオイストが混じっているやもしれない。よくよく、発言や言葉づかいには注意しよう。)※Sendero Luminoso; センデロルミノソ「輝く道」の意 Peru's Shining Path rebels. そんな、地球の裏側から飛び火した赤色武装一揆主義者らが、なんと当初毛沢東を僭称するなだの、ニセ中国派だのとむしろ糾弾していたはずの中国が、いまや突然のように武器を供与し始め、にわかに中国共産党とネパール共産党が「野合」し始めているらしい。なんと、あの善良そうな前国王を蹴散らしたギャネンドラ国王一派が、もうひとつアホで、インドやアメリカなどの政治的な支援をはずみで蹴りつづけた。インドも、アメリカも、現国王を見放し始めたらしい。となると、インド側もアメリカ側もネパールの議会政党の連合組織とマオイストの合作めいた怪しい連合を認知しつつあって、よほどギャネンドラ国王に愛想がつき不信任という展開が加速したのだとか。となると、「ハミゴ」にされてたまるかと中国側が、これまで不倶戴天の敵のようにいっていたマオイストと密かに内通し始めて、昨今では急速に武器輸出を仕掛けているらしい。極左山岳ゲリラを、元祖共産党の顔ではなく、地政学的リスクについて計算だかく資本主義中国が、武器輸出を始めたのだとか。ややこしい。いずれにせよ、ここしばらく緊張は緩和の兆しもなく、予断を許さない事態が続くようだ。
2006年08月28日
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猫は、好きだ。あの生き物は、少し他の動物とは人間にとっての距離がなにかが違っている。ところが、ご丁寧に猫に出産させては殺しているとカミングアウトした作家がいるらしい。この坂東眞砂子という聞いたこともない作家が話題になっている。雑誌といわず、WEBといわず。検索すると、ゴロゴロでてくるので驚く。とは言え彼女についての攻撃は、あまりに月並みで読む気がしない。まして、日経新聞社に抗議を行って、一体どうするつもりなのだろう。ほとんど、彼女を擁護するという論がないので、「ああ、亀田父子に飽きたのが今度は猫殺しか」というあたりの気分だ。日経新聞掲載の記事は、一読してふきだした。まあ、好き勝手なことをいう女史だと驚く。何を訴えたいのかは、薄々分かる。だが怪奇趣味の作家が、作品よりもこの種の場外乱闘で、虚名を売るのはいかがなものだろう。本人は、この記事で予想外の、もしくは予想どうりの反響で、手ごたえを感じているのだろうか。彼女の論が、破綻しているというのは簡単だ。論としては相当無茶なもので破綻そのものを、ここで指摘するまでもない。猫は、サカリついて交尾したいという願望と、同時に子供を生みたい育てたいという基本的な生理を抱いているのは自明だからだ。不妊手術をさぼって、タヒチに住んでいる有閑な作家先生が、よりによって猫の子供をいきなり殺しちまうなどとの言明は、生命についての感覚が、毀れていると社会に向けて開示しているようなものだ。なるほど、烈しく叩かれるのは仕方がない、とは思う。それにしても、ついつい叩いている方にも、なにやら眼つきが不気味な気配がしてしまう。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。原則的に、坂東は人間の世界で生殖行為と性行為が、几帳面に分離しつつあるという現況を人間の問題として考え抜いていない証拠に、いとも簡単に生物やペットの生態に対しても自分の生活実感だけで、踏み込めると安易に考えてしまっている。人間の内面についての描写に長けたと一応は、理解されている作家にして、この安易さは少々情けない。彼女は、社会的には「女」の役割を果たしているのかもしれないが、生き物についての距離感は、ただのオヤジである。「どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない」などとは、よくぞ言えたものだ。そのような放埓きわまる謂いは、殺される猫にとっては荒ぶる神そのものではないか。それはいってみれば彼女自身の好都合な神を脳裏に宿し、いつでも神と寝られる娼婦のような論であり、振る舞いなのだという自覚がないらしい。この主張は、あの須磨の酒鬼薔薇少年とわずか一歩なのだ。坂東眞砂子の叩きかたについてさまざまなコースは、この際数えあげておく価値があると思った。1、猫を最初から、飼うべきではなかったのではないか。2、猫に不妊手術を忌避するなどという自己都合を、わるびれずに告白したとしても免責されるものか。3、猫を飼うならば、猫の子についても慈愛を向け育てあげるべきだ。4、猫に、交尾するチャンスを与えるべきではない。5、勝手に雄猫の生理を肯定しておきながら子猫の生きたいという生は否定できるのか。6、わが行いに恐懼しながら、生涯沈黙を通すというのならばよし、なぜそれを論であるかの如く語るのか。7、子猫を殺すことに快感を感じてるのでは。連続殺人犯最初の頃なぜか猫とか鳥とか犬だったりする。数え上げれば、きりが無いのだがWEBで見かけた論は、ほぼすべて猫が可哀想という素朴心情に発しているものが大半のようだ。坂東は、ある種の変態のようでもあるが、それは人間に固有の属性でもあって、その点踏み込んだ突き方をしているものが少ないのが残念だ。おそらく、この話題でももっとも愉しんでいるのは、例によって2ちゃんねるの諸兄らだと思う。せめてならば、もう少し頑張って欲しい。しかし、坂東のように自己愛の化体したような「神」を宿している者にも困惑だが、ただ愛猫の反応にひたすら惑溺して、路上に斃れる労務者にも、98年以降恒例のようにわが国で3万人を越える自殺者について、はたまた昭和20年3月9日東京で起きた大虐殺にも一切沈黙する我らの見事なまでのご都合主義は、果たして坂東眞砂子とどれほどの違いがあるのだろう。1333. Posted by cider house 2006年08月27日 06:19殺してしまうのか?勿体無いなあ。食べればいいのに。地球資源の無駄遣いだ。大阪では、新世界の下で、犬や猫を食わせてくれていた。最近は、やめているのだろうか。もともと家畜などを飼うようになったから、鶏も、豚も、犬も鳩も、猿も、ひいてはザリガニも。みんな人類は食べてきたのだ。猫だけ、間引いて食わないというのは人類史上まれに見る変態だとしか言いようが無い。1337. Posted by 2006年08月27日 10:34人間社会のために「できた子を殺す」のを担っているのは単に国家である。年間日本では30万匹の犬猫が処分されている。この作家はそれを自分でした。それがこれだけ叩かれることになったわけだ。ここで語られた問題は、タヒチに住む個人が「殺す」役割を担ったというだけである。日本人は増えすぎた愛玩動物の処分という「社会的責任」を国家に代理させることで、自らの善良さを信じているにすぎない。(「痛い2ちゃんねる」より)
2006年08月27日
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戦争が近づいているとは、皆夢にも思っていない。しかし、現実には、時代の戦争の大きな流れが、軍事の主導性が事実上特定のエリートにゆだねられざるをえない時代ほど大多数国民が想像も出来ぬあいだに準備されて、地すべり的に始まることが避け難いと思う。いま戦争の主流となりつつあるモードは、麻痺戦だと言われている。イラクに科せられた事実上の経済封鎖は兵糧攻めであり、一般民間人とりわけ乳幼児、女性、老人、病人など弱者を狙い撃ちにした非人道的手段である。「付随的被害の極小化」を求める戦争法規に照らしてみても、明らかに違法な行為と考えられる。一方、イラク戦争はRMA(軍事革命)により殲滅戦から麻痺戦に変わったために、非戦闘員の付随的犠牲者はますます少なくなっている。マスメディアでは米軍の誤爆が喧伝されるが、誤爆が特定できること自体いかに精密に爆撃がおこなわれていたかという証拠であろう。イラク戦争は正戦である桜美林大学教授/当研究所研究委員加藤 朗こういう血も涙もない発言が、飛び出す社会というものは我々個々人が、まちがっても全体的な生を生きていない、生きさせてもらえない時代だといえるだろう。国家という制度の体系が、官僚機構が、戦争のまっとき勝利のために機能づけられてしまうと、最短時間で、効率よく敵国に致命的な打撃を集中して与えるということに全身全霊でエリート集団が取り組みはじめ、その結果政治と、軍事、そして一般の行政組織がどんどん乖離、分離、相互疎通を「離脱」する。軍事が、脱社会化してまでも尖鋭化をしなければ、短時間に勝利条件をクリアできないという宿命が、一方で戦争を誘発し易いのではないか。そういう状況論が、まずわたしの中にある。すでに、このブログで以前も書いたがあの1941年12月の時点で開戦の進行について首相兼陸軍大臣、東條英機も、はたまた海軍大臣、嶋田繁太郎らが開戦の日を正式に知らなかったなどという笑い話のような怪談がある。要するに軍事が政治をある程度抑圧しなければ、けして戦争を有利な環境に誘導できない。そうみなされ易いのが高度な集約度のある戦争の避け難い側面としてあるのではないか。ましてや情報化軍事革命(RMA)型戦争が主流となる現況であれば、ますますテクノクラート技術集団の情報開示度が、さがりにさがって機密性が高まってゆくのは想像に難くない。・ハイテクや情報技術(IT)を利用した迅速かつ正確でムダのない攻撃・国民に不安を抱かせない早期の戦争の決着と犠牲を極小化すること時間をかけて、勝てない可能性を高めるという桎梏をかかえている国家は、当然だが近未来戦には緒戦では勝てないという状況がはっきりとしてきた。つまり、戦争勃発の可能性は、軍事指導と国家行政の疎通の悪さが、もたらすという風に想像する。疎通を良くすることは、現下の極東における地政学的な脅威から考えて緩和されるとは思えない。となれば、ますます戦端を切る、切られるという可能性のネクラなまでの追求が激化する。そのことが極度の政治的な緊張をも強いる筈なのだが、到底そのような極限的な緊張感に長時間耐えられるとは思えない。国民が、あずかり知らぬところで始まり、ススリ声も聞こえぬうちに終わる。これでなければ現代戦では勝てないということなのだろう。↓クリック「発射されなかったもうひとつの危険なミサイル」
2006年08月26日
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↑CLICK権力者がよくつかう、一見、歯切れのいい、大義とか正義とかいう言葉の反対側に潜むものをわれわれは、注視していかねばならない。 msk222さん 2006/08/25 城山三郎の『大義の末』msk222さんは、良い人だと思う。しかし、良い人が昨今侵しがちなのは「戦後的」風景を所与のものとして本来対極的なものを、味噌もくそも一緒にして距離感なしに議論するというわれわれの弊害だ。msk222さんも、我々もどうやらそれから逃れられていないように思っている。たしかに、日本の軍隊は腐敗したらしい。相当腐敗しただろう。事実、腐敗したと伝えられている証言もとりどりに手厚い。しかし、では日本の歴史から、軍隊を引き算したと仮定してみよう。これは私見ながら、日本が成立していたかどうかすら怪しいと思っている。明治維新から、この方。日本がかたちになっているとすれば、それは腐敗していたか、どうかは別にして軍隊によってかたちを維持していたからだということは多少頭の血にめぐりが悪くなった自分にすら見て取れる。明治維新を、否定できるか?わたしには、とりあえず出来ない。無理。父親は、日本共産党支持者だが実家は日本陸軍へ徴用される軍馬生産農家であった。共産党を支持したのは、旧軍に恨み骨髄の人だったからだろう。なにせ内務班でくりかえし手榴弾をもって敵戦車の下に潜り込み自決攻撃の訓練をさせられたと心底腹立たしそうに言っていた。あげくあの戦争は、間違っていました済みません。「わたしも人間、ミスもする」で許されるものだと昭和天皇は本気で思っていたのか、定かではないが、わが父親は、天皇に殺されかけたと思っていたのかもしれない。さりとて、日本に軍隊が存在しなかった可能性など歴史のイフとしても無謀だと思う。大東亜戦争肯定など、するつもりはないが太平洋戦争否定が、そのまま憲法九条的感覚で、軍隊否定までいっきにつるべ落としになってしまうのは一寸待って欲しい。我々の国家は、とりあえず明治四年まで軍隊らしきものを持ち合わせがなかった。1871年(明治4)に鹿児島・山口・高知の3藩から徴集して編成された明治政府の直属軍隊。明治新政府は,発足当初から政権の確立と国内の統一につとめたが,固有の軍事力を欠いた上に,西郷隆盛,板垣退助ら有力者が自藩にとどまったので,政権の基礎は容易に固まらなかった。そこで,1870年(明治3)末から1871年初めにかけて,大納言岩倉具視が勅使となって鹿児鳥・山口両藩を訪れ,政府への協力を求めた。そこで,鹿児島藩大参事西郷隆盛が政府に入ることになり,西郷の提案によって高知藩大参事板垣退助にも協力を求め,かつ鹿児島,山口,高知3藩から政府に兵力を提供させることになった。1871年2月,3藩に御親兵召集の命令が出され,5月までに鹿児島藩から歩兵4大隊・砲兵4隊,山口藩から歩兵3大隊,高知藩から歩兵2大隊・騎兵2小隊・砲兵2隊の合計1万の軍隊が政府の指揮下に入った。ここに政府の威力は格段に高まり,7月の廃藩置県断行が可能となった。 権力者と、ひとごとのようにmsk222さんは言う。しかし、日本が民主主義国家であるということは、本来ならばわれわれが権力者自身なのだ。いや、実態で違うというのは簡単だ。それは、有権者がその自覚がないだけで、自覚がないことの責任は法にも、行政にも、軍隊にも求めてはならないのではないか。しかも、その民主主義は、まちがいなく過去の歴史の上においても、軍隊によってもたらされた。いまに至る全国都道府県とは、まさしく起源において、天皇の軍隊によってはじめて実現した。これは紛れも無い事実。それがいやならmsk222さんに限らず、赤旗を振りし抱き赤軍で行政組織を作り直すことだろう。しかしそれも、軍隊に依存するしわざだ。実は、日本共産党だって、軍隊を否定しているわけではない。ところで、恐ろしいことに明治6年にはその軍隊が解散同然にまで至った。あの西郷隆盛が横になってしまったので、新政府は天皇の軍隊の大半が退去してしまうという事態に陥る。いや、慰留はした。いくら止めても止めても、さっさと九州に帰ってしまったのだった。西南戦争が、その後勃発する。世界史的な感覚でいえば、市民戦争。わかりやすくいえば内戦である。これが、どれほど国家としての体を震撼とさせるものかは、いまの平成の御世からは、到底理解できないだろう。うっかりすれば国が滅ぶような体験を、われわれは何度も通過しているのだ。薩摩がイギリスと戦争した幕末の記憶も生々しい。すってんコロリンと負けている。もし徳川幕府が、島津藩の言うとおりと尊王攘夷路線を素直に実行しておれば、日本はすでに明治新政府どころか、存在してすらいなかった可能性だってあるのだ。薩摩が、かってに戦争をした。それは、国内有数の雄藩ではあっても、所詮は藩だ。つまり、鹿児島県がイギリスと戦争をしたようなものなのだから、笑っておれる。江戸徳川幕府が、同じことを実行していれば、なんと1863年8月15日(文久3年7月2日))の時点で、8月15日無条件降伏だったかもしれない。いや、まず100%間違いないといえるのではないか。実は、伊達や酔狂で軍隊をわれわれの国が持っていたのではない。良いも悪いも、過去現在日本という国が、成り立ち維持できているのは軍隊が存在してはじめて成立したのだということを、少しは理解しよう。「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。 しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。 言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。 どうか、耐えてもらいたい」(吉田茂 昭和32年2月、 防衛大学第1回卒業式にて)
2006年08月25日
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大阪のイケマンで、ハンドシュレッターを買ってきた。なかなか便利で、具合がいい。早速、こちらで紹介しようと思っていたら報道で指を損傷した少女の事が流れていた。あまりにも気の毒で、二三日落ち込んでしまった。一生のうちで、いちばん可愛い時期のお嬢さんの不幸に、胸が痛む思いがする。もっともテレビ報道されていたのは、アイリスオオヤマの電動型のものだった。本来業務用のハイパワーなものを家庭に持ち込むのは、無茶な気がしないでもない。アイリスオオヤマの経営陣は、肝が冷えたことだろう。しかも、この種の事故は、あちこちのメーカーで頻発しているらしい。しかし、この機種は便利だ。そもそも手動で、まちがっても家族の指に怪我をさせたりはしないだろう。それに、値段がわずか1000円以下なのである。なんでもかんでも主婦が電気製品に頼り過ぎる。娘の指が、普段からシュレッターにふれているのを気づいていながら、平気で使っていたのだとすれば生涯母親にも、禍根で残るだろう。この際、手間を惜しまず、紙の裁断は手でまわす式にされた方が良いのでは。これは、不要なCDやカード類も手回しながらつぶしてくれるので重宝だ・
2006年08月24日
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昨日から、近江八幡の宿で琵琶湖を眺めながら文藝春秋9月号を読んでいた。あのNHKの歴史ドキュメントに頻出されている、元文藝春秋編集長の半藤一利氏が例の日経が遅まきに世に開示した他ならぬ「富田メモ」の実地検証、日経から依頼を受けた当事者だと知った。富田メモ捏造説については、逆に半藤氏が仰天しているようだ。日経が、おぼつかないのでその検証に請託された半藤氏であるから、もし捏造などということがありすれば半藤氏の面子丸つぶれということになる。一方、半藤氏や秦郁彦氏らの見立てが間違っておらず、捏造はおろか日経は、その内容に腰が引けているほどだというのが真相であるとすれば、すなわち富田メモこと昭和天皇の意向色濃い「靖国メモ」が、謀略だとし、日経より金員が動き冨田家の御内儀らがメモを託したなどと公言していたあの東條由布子氏などや、中西輝政・京都大学教授らと真っ向から対立する事態になってきた。これは、面白い。名古屋の金さん銀さんが最晩年、「欲がからんじょるもんがいちばん面白れえでいかんわ」と述べていたのだが。まさしく、意地と意地、当事者らは意識をしていないが、欲と欲が真っ向激突の展開と思われる。「むしろ、日経は及び腰でしょう」というほどの観測意見を述べる秦氏などにとっても捏造説は、笑止千万ということだろう。どうも、昭和天皇の「大御心」同伴派 VS 皇国史観「国粋派」の様相とすらなりつつあるようだ。東京裁判が、いかがわしいのは最初から分かったことだ。しかし、そのいかがわしさには昭和天皇の合意、納得づくのマッカーサーとの共犯行為という側面が間違いなくある。共犯が、言いすぎならば、共同作為。ようするに星条旗と戦後もっとも早く寝たのは昭和天皇その人だったのである。これを諌めるなどという、大それた発想を抱いている国粋派が大勢いるらしい、というのは自分らのような超生物主義者には、愉快で愉快でたまらない。双方、ヘトヘトになるまで喉斬りをやらかして欲しいものだ。半藤一利(はんどう かずとし 1930年5月21日 - )は日本の作家、随筆家。東京市向島区(現在の東京都墨田区)に生まれる。新潟県立長岡高等学校を経て東京大学文学部卒業。文藝春秋社に入社。当時「連合艦隊の最後」などで人気を博していた軍事評論家伊藤正徳のアシスタントとして資料集めに奔走、これが後に『ノモンハンの夏』などを書く素地となる。『週刊文春』誌の編集長や『文藝春秋』誌の編集長、同社専務取締役などを経て、作家となった。『歴史探偵』を自称。NHKの歴史番組「その時、歴史が動いた」によく出演している。『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞を受賞。また『ノモンハンの夏』で山本七平賞を受けた。妻の半藤末利子は、作家松岡譲と夏目漱石長女筆子の四女で随筆家。↑CLICK松平永芳 大正四年三月二十一日、東京生まれ。祖父上は、福井藩主 松平春嶽公。父君は、宮内大臣 松平慶民子爵。海軍機関学校卒業、海軍少佐。戦後は陸上自衛官、一等陸佐にて定年退官後、福井市立郷土歴史博物館・館長を経て、昭和五十三年から、平成四年三月まで靖國神社・六代宮司。その後は、福井市立郷土歴史博物館・館長に復職。平成十七年七月十日午前四時五十五分に、享年九十歳で帰幽された。 しかし、「富田メモ」いわゆる靖国メモで、昭和天皇が名指しで罵倒モードの対象となる松平永芳という宮司は太い奴だ。あのアーミティジ元国務副長官を、呆れさせた遊就館の「いけいけドンドン」もどうやらこの松平永芳が国政に対する政治的テロか、刺客並の送り込みでなされた荒技のひとつらしい。少なくとも文藝春秋9月号の特集は、そう示唆している。となれば、なおさら戦艦大和や非力な零戦で優秀な皇軍兵士を死地に赴かせた東條や松岡らとよくよく心のベルトがかかったままの与太郎か、はたまた諫死も辞さずの烈士国士ということになるのだろうか。丁半、黒白をつけずに戦争がやれたらお慰み。これで勝てる戦争などありえないと誰しも思うはずだ。少なくとも昭和天皇は、不忠者と思っていた。そう考えて間違いなさそうな気がする。
2006年08月23日
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2006.08.22 現場20年 現場を知らずにただ、文章が上手いだけで、それが世間に流布されて歴史になっていく。この戦艦大和神話やゼロ戦神話から、解放されて、はじめて、アメリカに勝てる世界戦略が出来るのではないかと思っています。 杉山巡さんの日記2006.08.21 吉田満『戦艦大和』角川文庫 結論から、これが「朱子学」です。金日成の「主体思想」、文鮮明の「統一原理」、吉田満「戦艦大和」、皆、朱子学の系譜のものです。 これを見破れなくては朝鮮人に笑われますよ。皆さん! 阿川弘之:海軍の恥さらし! 吉川英治:相手が見えてませんね! 小林秀雄:お酒の飲みすぎ! 林 房雄:日本人にだけ通じる話です。 河上徹太郎:人間は醜いものです。 三島由紀夫:君には期待していない!◆この本を読んで感動している人に戦争責任を追及したり、靖国の英霊を批判する資格はありません。 杉山巡さんの日記2006.08.17 靖国神社参拝について 私は靖国を新参者のパスポートだと思っている。明治以降、日本人という新概念が作られた。戦後、韓国・朝鮮・中国の中にこの靖国を目の敵にしている人達が居るのは、明治以降に作られた日本人という新概念に組み込まれたくないからで、日本人の中にもこの靖国に反発している人達が居る。その理由は明治以降の日本人に成りたくないからだ。 杉山巡さんの日記たまゆら1/fさんともども、杉山巡さんのブログのファンである。なかなか忙しくて、丁寧に拝読させていただけないうらみがあるが、折々に勉強をさせて貰って教えて頂けるものが多い。残念ながら、健やかに学んでこなかった自分には、難しかったり理解できないことも多いのであるが、最近は杉山巡さんのほうで次第に、こちらの理解力にあわせて物事を解説してくださっているような気がして、嬉しいやら恥かしいやら。特に、「新概念」と「朱子学」については、蒙を啓かれる。たぶん、これを語るだけであと三十年は吹き飛んでしまうだろう。それぐら荷が重い。戸田奈津子の語り口で、To tell the bottom line---というような飛躍をすれば、シャルドネはこの新概念にそむくものを一貫して卑怯な奴と思ってきた。また、「朱子学」は、わからねど卑怯な奴の正体を示唆されたと受け止めておきたい。本当は、「新概念」にも頓着せずにゴギャーンのように茫洋と生きる方が生物としては正しい気もする。事実、そのようなことを3年間ものあいだ書いてきたのが、このブログだと思う。またその視座で語れる日本も実は、ありかと思う。なにせこの太平洋は、われわれの内海なのだ。WASPの諸君が、しばらくアメリカ大陸などと称して間借りしているに過ぎないと思っているのも事実だ。とりあえず、昨今日本主義を任じているものの大多数は偽物だ。自分は勝手にそう思っている。星条旗に、一矢も報いずにやれている日本主義など笑止千万。なにも戦争をふたたびアメリカとやれ、と言っているのではないのだ。アメリカと朱子学で折り合いをつけて、なにが日本主義なものか、というほどの気分だろうか。「西洋砲たとえ吾が艦を砕くも、日本刀能く彼の頭を断つ」 三島由紀夫:君には期待していない!には笑ってしまった。実は、三島は期待をすればするほど、緩くなってゆく。彼は、本気で赤軍派に殺されたかったのではないか。そんな気がする。
2006年08月22日
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乾杯(1973年)作詞・友部正人 作曲・友部正人 今だにクリスマスのような新宿の夜一日中誰かさんの小便の音でもきかされてるようなやりきれない毎日北風は狼のしっぽをはやし ああそれそれってぼくのあごをえぐる誰かが気まぐれにこうもり傘を開いたように 夜は突然やって来て君はスカートをまくったりくつ下をずらしたりおお せつなやポッポー 500円分の切符をくだせえ電気屋の前に30人ぐらいの人だかり 割り込んでぼくもその中に「連合赤軍5人逮捕 泰子さんは無事救出されました」金メダルでもとったかのようなアナウンサーかわいそうにと誰かが言い 殺してしまえとまた誰かやり場のなかったヒューマニズムが今やっと電気屋の店先で花開くいっぱい飲もうかと思っていつものやき鳥屋にするとそこでもまた店の人たちニュースに気を取られて注文も取りにこないお人好しの酔っぱらいこういう時に限ってしらふついさっきは 駅で腹を押さえて倒れていた労務者にはさわろうともしなかったくせに泰子さんにだけはさわりたいらしいニュースが長かった2月28日をしめくくろうとしている死んだ警官が気の毒です 犯人は人間じゃありませんってでもぼく思うんだやつら ニュース解説者のように情にもろく やたら情にもろくなくてよかったってどうして言えるんだい やつらが狂暴だって新聞はうすぎたない涙を高く積み上げ 今や正義の立て役者見だしだけでもってる週刊誌 もっとでっかい活字はないものかと頭をかかえてる整列して機動隊 胸に花をかざりワイセツな賛美歌を口ずさんでいる裁判官は両手を椅子にまたがせ 今夜も法律の避妊手術巻き返しをねらう評論家たち明日の朝が勝負だとどこもかしこも電話は鳴りっぱなし結局その日の終わりとりのこされたのは朝から晩までポカーンと口を開けてテレビを見ていたぼくぐらいのもの乾杯! 取り残されたぼくに 乾杯! 忘れてしまうしかないその日の終わりに乾杯! 身もと引き受け人のないぼくの悲しみに 乾杯! 今度逢った時にはもっと狂暴でありますように夜が深みにはまりこみバセイだけが生き延びているおでことおでここづき合ってのんべえさんたち にぎやかに議論に花を咲かせているぼくはひとりすまし顔 コップに映ったその顔がまるで仕事にでも来たみたいなんでなんだかがっかりしてしまう誰かさんが誰かさんの鼻を切り落とす 鼻は床の上でハナシイと言って泣く誰かがんが誰かさんの耳を切り落とす 耳はテーブルの上でミミシイと言って泣く誰かさんが誰かさんの口を切り落とす 口は他人のクツの上でクチオシイと言って泣くぼくは戸を横にあけて表に出たんだ するとそこには耳も鼻も口もないきれいな人間たちが右手にはし 左手に茶わんを持って 新宿駅に向かって行進しているのを見たおお せつなやポッポー 500円分に切符をくだせえ友部正人は、悔しそうに「乾杯」を唄うが以後日本から極左カルトは雪崩をうって社会の表面から消え去った。当時の左翼活動家は、その卑怯な性根を露骨に打ち出し企業社会へ。いまや年金生活者だろう。彼らの中のただの一人。不忘記四十年前的虐殺を、一瞬でも。ただの一瞬でも脳裏に思い浮かべることがあれば幸いだ。
2006年08月21日
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紅衛兵という凶暴なテロ集団が、中国全土を跋扈していた。まさしく、ビートルズが世界を席捲していたあの60年代である。当初は、毛沢東の私兵としての上からの煽情と謀略的な動員によるものであったが、次第にその暴力の連鎖は、とめどなく。暴力そのものを目的とする暴力の回路を開き、ついに中国全土に虐殺の渦を巻き起こす。昨今、2ちゃんねる右欲諸君が浅い反撃を中共に対して繰り広げているのが愚かしくてならない。靖国神社などというレベルの低い国家神道を擁護しようなどとするから、いつまでもあやつらの正体を捕捉しかねるのだ。自分らの高校時代、校門の前に大阪府警のパトカーが常駐するという事態が、何週間も続いた。いうまでもなく中国で吹き荒れていた紅衛兵運動の火の粉。飛び散り、飛び散って健常な授業など到底成立しない事態が、幾週間も続いた。↑クリック冒頭の写真は、同じ頃。66年9月、黒龍江省省長であった李範伍が頭髪を刈り上げられ、糾弾をこうむっている映像だ。なんのことはない、当時日本の都市部の公立高校などや国公立大学で同じ風景が、カーボンコピーのように頻発していた。海の向こうのこととしてではなく、極めて身近な出来事だったのである。先年、他界した義弟も当時極左の高校生活動家として、所属する公立高校長を、この李範伍と同様に虐待を実行し、のちにその咎を一身に受けて退校させられている。実のところ、実行犯らはその後ぬくぬくと進学し、サラリーマン社会に溶け込みまんまとしらをきって、まもなく定年を迎えようとしていることだろう。しかし、この国における紅衛兵の亜流らが起こした真似事と中国本土で実行されたそれとは比較にならない熾烈さと残虐さであったことは、ほどなく露呈する。当初、毛沢東らの政権側から仕掛けたクーデターとして始まった「四旧打破」(すなわち旧思想旧文化、旧風俗、旧習慣)などという観念的であいまいなアラ探し、所詮はいいがかりの一方的な申しつけに始まったものが、次第にエスカレート。ついには「四類分子」(地主、富農、反革命分子、悪質分子)という直接攻撃に熾烈さを加味するや、いわゆる造反行為は、単なる一揆的なものから大量虐殺の様相を呈しはじめる。66年8月には、北京南部地域ですでに集団虐殺が始まっている。共産党県党委員会が、すでに統制できる事態になく制止することもなせぬまま、現場へ駆けつけても、暴徒とも暴力集団ともつかぬ、当然無抵抗な農民に対する一方的な暴力行為がくりひろげられて、その凶器は釘つきの棍棒や家畜用のムチなどで、おもに標的となったものは、土地所有権利書等を保有している、などという本来ありえない事由を「隠匿」などとして、狼藉する粗暴なものが大半であった。その攻撃対象は、地方の富裕層にとどまらず疑心暗鬼に陥った、密告などから下層農民ですら攻撃目標となり、果ては老人や子どもに至るまで、財産目録を提示しない、などとの理由で棍棒、鉄棒で殴打されている。子どもの中には指をなくし、ちぎれるまで容赦なく打ち込まれていたという。死体は、累々と積み重なり一部息の残っているものは、なおシャベル等で痛撃をされ、絶命にいたってから屋外に運びだされる。その様を目撃した県党委員会は、のちに「那個年代中的我們(あの年代の我ら)」遠方出版(張連和、者永平編)などに描写している。参照毛沢東に権威づけられ、紅衛兵らの挑む敵は人間の「類」とはみなされず、「牛鬼蛇神」だと蔑まれた。つまり、「人」にあらず、「もののけ」なのだというわけだ。この恐怖は、現場のすさんだ狂気を味わった人間にしか理解できぬだろう。虐殺の現場では、被害者を庇護するものなど、存在しないのだ。庇護するものは、それすなわち「もののけ」なのだから。ほかならぬ、日本でも当時、水の入っていないプールに胴上げされてほりなげられた高校長や、教頭は珍しいことはなかった。寒中に水の中にほりこまれた教職員などは幸いである。しかも、当時の中国共産党中央政治局委員に予定されていたほどの実権者でありながら、国務院公安部長、謝富士などは北京公安局拡大会議において、平然と「撲殺には賛成できないが、人が悪人を憎む気持ちは制止しがたく、これをあえて止めることはできるものではない」と、事実上の容認宣言を行うのである。公安(警察)は、むしろこの紅衛兵活動に庇護、すべからく情報提供者として側面支援すべき、というぐらいの声明であったとされる。 「文化大革命十年史」この結果、謝らの声明が引き金となり66年8月後半から9月1日。悲劇は、始まった。まさしく、この8月こそが彼ら中国本土で引き起こされた中国人同士による紛れもない「大虐殺」の40周年記念日なのである。大興県各地で、意図的にながされた公安情報(警察の手引きという意味だ)により、その数22世帯、80歳から生後40日みたない嬰児まで325人が撲殺された。その連鎖は、とどまるところを知らず、阿鼻叫喚の黙示録世界さながらに中国各地全国に伝播するところとなり、ついには1529人を数えるまでになる。殺されぬまでも、罪とがなく公衆の面前で引き回され三角棒を頭上に、肉体への脅威、精神への度重なる恫喝で心に異変を来たすまでの拷問が続く。日本における、いわゆる全共闘運動とはこの流儀を「成功事例」として、さっそく模倣踏襲したものに過ぎないとすら自分は、思っている。中華人民共和国における、国内騒擾や内乱鎮圧、そしてそれに連なる虐殺や粛清など尨大な規模である。このような書籍に記録されているような紅衛兵による狼藉など「氷山の一角」に過ぎない。
2006年08月21日
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この2人のおかげで、地球から失われた生命や生物は、軽く数億個体、人間だけでもおそらく6千万人は下回らないだろう。彼らの前では、ヒトラーもかたなしで、分が悪いと思われるほどだ。日本の南京大虐殺が10回はやれるほどの生命を危機に陥れしかも、いまだに彼らの亜流が虐殺を繰り返している。靖国神社など、この際もうどうでもいのでさっさと彼らの悪魔性を露出させるべきではないか。太平洋戦争など、蒋介石らの謀略的誘導の可能性が濃厚である。だまされた東條らはアホではあるが、仕掛けた奴らが一枚も二枚も上手だった。ニューヨーク・タイムズ六日付は上海発で中国の教科書について「歴史をゆがめ、政治の必要に応じて、修正されている」とする報道を掲載した。同報道は中国では歴史自体が政治の材料にされているとして、とくに日本に関しては「日本をたたくことが(中国の)国民的娯楽」と伝えた。 同報道は「中国の教科書は歴史を曲げ、省く」という見出しの記事で、ニューヨーク・タイムズ記者が上海で中国人の教育関係者多数から取材した結果だとしている。同報道は「中国では日本をたたくことが国民的な娯楽で、日本に対し正しい歴史を教えないと叱るが、中国の歴史教科書こそ近年の歴史をきわめて選別的に教え、ゆがんだ見解を提供している」と述べ、ゆがみの実例として(1)中国軍はチベットやベトナムに侵攻したのに自衛以外の戦争はしたことがない、と教えている(2)第二次大戦で日本は米国ではなく中国共産党軍により敗北させられた、と教えている(3)一九五〇年代に毛沢東主席が断行した「大躍進」の政策失敗で三千万人も餓死した事実は教えない(4)朝鮮戦争は米国と韓国が北朝鮮を侵略したことで始まった、と教える-ことなどをあげている。同報道はまた上海の中国人教育関係者らの談話として「中国では歴史は政治の道具として使われる」「天安門事件も騒乱分子が国家基盤を危うくした犯罪行為だとされる」「近年の歴史になるほど、共産党への配慮からあいまいにしか教えられなくなる」という言葉を紹介している。 2004年12月06日【ワシントン=古森義久】大躍進政策第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを追い越すという壮大な計画を立案した。しかし、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。1959年の7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・彭徳懐が大躍進の問題点を諫めた。この指摘は正当なものだったが、毛沢東の逆鱗にふれ、彭の支持者も含めて政治的に失脚した。この結果、大躍進に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増した成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。また一見合理的に見えるが、経済や生態系のシステムを無視した、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも、甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。有名な失敗例を挙げると、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉を用いた製鉄が全国の農村で展開されたが、使い物にならない粗悪品しか産出されず、資源を無駄に浪費する結果となった。しかも農民が大量に駆り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。さらに、農作物を食い荒らすスズメは害鳥だとして、大量捕獲作戦が展開されたが、かえってイナゴなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。 旧日本軍が中国各地で虐殺行為を繰り返したと彼らが喧伝主張をしても、それらが事実であるとして、では彼らのかつての同志毛沢東らが自国の「内政」で葬った政敵や、善良な農民、商工労働者たちへ行った無理無体。そして本来ならば彼らの国土を豊穣ならしめてきた無数の鳥獣、生物へなした壮絶な規模の虐殺行為を早晩冷静に凝視する必要が中国人民にも当然ある。しかし、わざわざ指摘してやる親切心を我々は維持しかねているというところだ。彼らは、あまりにも日本人をコケにし続けている。友人であれば、警告も忠言もしようがあるのだが、彼らは田中角栄や早坂茂三らの「無邪気さ」につけこんで、日本国民のお宝をまんまとせしめて、ただひたすら中国国土を疲弊させてきた。いまや黄河は、干上がり揚子江は、今世紀中に砂漠になりそうな勢いである。 急速に砂漠化する黄河---揚子江とて例外ではない。↓クリック ↑クリック
2006年08月20日
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江原啓之vs佐藤愛子-破滅のオーラが日本を戦争へ導く(対談) 誌名 : 週刊現代 [ 2006年09月02日号] 今週の週刊現代は結構面白い。日本語教室の授業が、始まる前に少し時間があるので暇つぶしに週刊現代を読んでいた。江原啓介と佐藤愛子の対談が、革マルや安倍晋三よりも面白い。ふたりは、なんと二十年以上のつきあいなのだそうだ。佐藤愛子は、最近の若い人には、ただのおばさんだろうが、その存在なかなか侮り難いと自分は思っている。そもそも佐藤の父親の佐藤紅緑は、明治大正期に日本中の青年、少年を鼓舞した熱血の小説家で、あの著名なジャーナリスト陸羯南の弟子として、新聞「日本」の編集者として、正岡子規と同志的なまでの傾倒で明治の俳句・短歌の革新に邁進し、その俳句は子規直伝。東北日報、富山日報、報知新聞、万朝報などで新聞記者として声名を得ている。創作活動は、小説、劇作にもおよび当代きっての売れっ子作家と自他共にみとめる域だっただろうと思う。報知新聞社時代には、大隈重信に重用され、当時の日本の青年で、衆議院議長の名前を知らないという手合いがいたとしても、佐藤紅緑の名を知らないというような例は、なかっただろう。息子に、サトウハチロー、そして佐藤愛子というわけだ。胸にしみる 空のかがやき今日も遠くながめ 涙をながす悲しくて 悲しくてとてもやりきれないこのやるせない モヤモヤをだれかに 告げようか白い雲は 流れ流れて今日も夢はもつれ わびしくゆれる悲しくて 悲しくてとてもやりきれないこの限りない むなしさの救いは ないだろうか深い森の みどりにだかれ今日も風の唄に しみじみ嘆く悲しくて 悲しくてとてもやりきれないこのもえたぎる 苦しさは明日も 続くのか「悲しくてやりきれない」サトウハチロー作詞そうだ、あのサトウ八チローの妹である。などと紹介しなくとも佐藤愛子は、佐藤愛子なのである。実家の母親が、佐藤愛子のファンである。佐藤愛子は、どう考えても母親に酷似している。佐藤と同年輩の母もなかなかの霊能者なのである。自分は、霊脳というものを全然信じていないが、本人が霊能者だというのだから、たぶんそうなのだろう。その程度のいい加減な息子だが、母親の霊能とやらには何度も助けられている。命の恩人。的中率についても、全然信じていないのだが、ここぞという時に俊足で必要十分な手助けをされた。その動機が、霊視だ、霊能だといわれたら笑っていても認めざるを得ないのである。佐藤愛子が、一連の作品の執筆動機にその霊能があるといいだしたのは、比較的最近のことだと思うが、あの江原啓之の二十代からの交際だというのは知らなかった。私自身は、墓場の上でも平気で8時間ぐらい寝てしまうぐらい、霊的な感受性が欠落している。逆に霊能者から驚嘆されることもある。つまり、あまりにも霊的な感受性が、欠落しているためだ。墓場の前で、眼も覚まさず寝ていられるという鈍感さは、霊能者には凄い才能にみえるそうだ。そんな鈍い男が、江原啓之と佐藤愛子の霊能ばなしを、喜んで拝読したのだという風に聞いて欲しい。ふたりは、もはや日本は戦争に向って雪崩をうっていると断じている。霊能者でない私が、なぜか彼らの謂いがわかってしまうような気分になる。93年から、パソコン通信を経て10年以上もさまざまな人の意見や関心に耳を澄ませてきたが、江原や佐藤の述べるようにさすがに日本人は昔日の霊的資産を喰らいつくしたと思わざるをえない。すでに日本の敗戦時、石器時代を経験したと述べた。自分が幼い時代には、都市郊外には江戸と地つづきな風景がいくらでも散見できた。いま日本は、都市化の中でももっとも最悪の都市化を精神の内奥で果たしてしまったように思う。二人が、まもなくこの霊的な枯渇が行き着く先は戦争しかないだろう、というのをまのあたりにして、残念ながら納得してしまうのである。
2006年08月20日
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つげ義春は、もう70間近なのだろうか。朝鮮戦争時代に、ばりばり一家をささえる過酷労働をしていたのは作品からわかる。自分が生まれたときに、すでに必死で生きていた人だから、後に人々がいくらつげが、怠け者だとかスケベエだとか言っても、致し方が無い。脱力感が、全身にまわってしまうほど、過酷な時代。かろうじて記憶の底から思い出せるところだ。都留重人の経済白書ものを読むと、終戦直後はさながら(文字どうり)日本は石器時代だった。額面どうりの石器時代なのである。いきなり60年代に駆け足で東京オリンピックをやらかすわけだから、無理無体の連続だ。片方では人が、人を喰っていなければ生きては行けないというありさま。有名な小平義雄という男は、いまならスーパーマーケットでタダでくれそうな砂糖や米などを餌にして誘い出し、両手の指では数えられないほどの女性に乱暴を働いては殺害している。山東省出兵の際に、海軍陸戦隊として現地では中国兵に対して武功を立てて、といっても国が許した殺人行為で勲八等旭日章を貰ったりしている。女性への乱暴狼藉は、その頃中国人女性に対して実行し覚えたものらしい。戦後同じ事を日本人女性にやっちまったので、死刑になったわけだがこの時代の価値観の転換、倒錯ぶりを象徴している。中国では妊婦の腹を割いて勲章をもらってしまったオヤジが、日本に戻って20代の女子挺身隊員を強姦しちゃ洒落にならない。そんな混迷期を生きてきた荒んだオヤジらが街中にゴロゴロいたのは、自分の幼少期にも肌にさすようにわかった。つげには、そんな時代に「捨ててきたはずのわたし」をこだわりつづけて世評などに耳を一切与えないという凄みがある。戦後的な視点で、つげを怠け者だとか、スケベエだという声には、あっさり物事のこだわりを捨て、過去を忘れされる日本人の軽重さがなせるわざだと一蹴すればよいのだが、現実にはそうもゆかず煩悶は延々と続く。ついに、つげ義春は悩みつづけてついに自殺未遂も。手塚治虫も、絶望感に打ち勝つために宇宙の星のように漫画を多作した。果てはブッダを描こうとまでした。だが、つげ義春は釈迦の轍を淡々と歩こうとしてという風にも取れる。つげの手塚からの影響は、かなり早い時期に失せているのが印象的だ。↑クリック↑クリック↑クリック↑クリック↑クリック↑クリック↑クリック↑クリック
2006年08月19日
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「右翼は暴力団に弱い。暴力団は警察に弱い。警察は右翼に弱い。この三つをうまく使って物事を収めろ」(武井保雄)平素、200か300のアクセスのわがブログが武富士というだけで600アクセスを越えてしまったのは異常である。いうまでもなく、この書き込みではなくTakefuji Dancers の人気というものだろう。どうも、あのCMは、なくなった刺青オヤジがかなり真剣に取り組みしていたらしくコマ割りごと、シーンごと、そしてダンスの振付まで知的財産権でゴリゴリに固めてあるそうだ。まあ、とんでもないところにカネをかけるものだと驚くばかりだ。確かに団地主婦に小額の金銭を貸し付けるという発想は、大胆かつ新規的であって既存大手の金融機関が思いつくことすら無かった独創的なものだったという評価も成り立つ。60年代の成功した数少ないベンチャービジネスだと言っても、さほど間違ってはいない。本音のところで、暴力的取立てといってもアイフルと一緒にするなというぐらいの気分はあるのだろう。もともと金融屋の、取立ては大なり小なりよく似たものだ。現実に、政府系金融機関が国民金融公庫時代に烈しい追い込みで、東大阪市では中小企業経営者が同公庫東大阪支店で、焼身自殺でもって死の抗議を行っている。政府系金融機関の取りたては、怒鳴らないだけのことで実際その強烈さは武富士やアイフルの比ではないと思う。なにしろ100万円の回収に、1000万円かけるもの平気な組織。それが政府系という存在だ。一度経験するとよく分かる。まして政府系はテレビで叩かれることもない。借りたい時に貸さない政府系や大手銀行と、ヤクザの卓袱台をひっくり返すサラ金とどちらが、悪いというのもなかなか判定に難しいところと言うべきだろう。さて、Takefuji Dancers のあのジャズダンスだが、よほど好評らしく数年前までは全国の女子高校生が必死で振付を学習していたらしい。なんでも、ジャズダンスの名手と言われるタレントを、根こそぎあのオーディションでかっさらっていく為に、あの才能の世界では登竜門ほどの位置づけだったそうだ。しかし、まさかテレビの画像に意匠登録、ダンサーの振付に特許出願するとは・・・他社に、絶対に真似されたくないというおそるべき「排他的独占欲」。これこそが、日本で個人資産家の頂上に登りつめる必須の資質だったのだろう。Won't you take my hand. For I will be your man. So tonight we gonna dance the night away. One and one is two. Don't you be so cruel. Synchronize this love is what we've got to do. All the time we'll be together 'cause it's yours and mine. Forever we're in this love thing... SYNCHRONIZED LOVE↑クリック
2006年08月18日
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武富士を、5350円で買った。あまりにも、安すぎるからだ。まだまだ、下がるなどという人がいたが、下がれば買い増しするつもりだった。底値同然で、下げるなど笑うしかない。大歓迎だ。案の定、いきなり上げ始めて6200円まで一気に吹き上げた。なにしろあの武井保雄の親分が他界しちまったのである。世界長者番付の日本人筆頭が、刺青のあるオヤジだというのが笑える。いかにも、日本的風景だとしか言いようがない。知る人ぞ、知るだが、武富士マネーは、よほどベンチャー事業支援に資金還流している。いい悪いは、別にして流れているという事実は無視できない。今回、懲役3年の元ワンマン経営者のご他界という「不幸」を、どうか武富士という企業の体質改善に寄与するべく活かして貰いたいものだ。武井保雄の旦那だったら、地獄の閻魔大王にも高金利で金を貸していることだろう。 武井氏は、逮捕直後に会長を辞任したが、今年3月に米経済誌「フォーブス」が発表した世界長者番付では、日本人トップの107位(資産総額54億ドル、一族含む)にランクされた。↑クリック
2006年08月17日
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「オンナってヤだわ、男はなんでこんな生き物が好きなんだろう?」 mikage_keiさん最近ブログ再開された、みちのくはじめさんのところとかを読んでいて、つくづく思うのは自分は、良くも悪くも60年代固着している。たぶん、このまんま。60年代坊やのまま火葬場へ行っちまうのだろうと思う。どうも、物事の考え方や発想が、小学生時代に思っていたことや、不思議だと思ったことに傾げてしまって戻らない。mikage_keiさんのブログを読んでいて、フレイズだけが残った。はっと、我にかえってわがことに引き寄せてみたときに、、、「男って嫌なもんだな。女はなんでこんな生き物が好きなんだろう?」などという発想を抱いたことがないのに、気づく。まあ、愕然とはしないまでも、多少は焦るというものだ。予想どうりかも。自分は、小学生の頃から。たぶん、小学四年生ぐらいから、あまり成長しちゃあいないのだろう。みちのくはじめさんが、高校時代に東京の手塚治虫に憧れて出向いて挨拶をするぐらいの時期には、もう自分は手塚の漫画を熱心に読んだりはしていない。そもそも、自分にとっては「ブラックジャック」も「火の鳥」も、さほどの興味をかきたてられるようなものではなかった。手塚が、沁みるいるように吸収されたのはやはり小学4年頃までだ。手塚の描く、少女はみな男の子のようだ。一方、鉄腕アトムとは男の子の言葉を語る女の子ではないか。あのながい作品の中で、面白い人物がいる。スカンクという、救いのないギャングキャラなのだが、鉄腕アトムに冷ややかに言う。「悪が、わからなくて一人前といえるか」みたいな。ほんとうに、不思議な少年漫画だった。
2006年08月16日
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↑クリック日本版マンハッタン計画の指導者、仁科芳雄博士↑クリックアメリカ本土爆撃予定の伊400号潜水艦と晴嵐爆撃機東條英機は、サンフランシスコに原爆を投下する事を起死回生策と本気で脳裏に描いていたのだろうか。超歴史的な俯瞰でいえば、もしそのような発想があったのならば、よくよく無能な男だと思わずにいられない。実は、自分が小学生時代すでに仁科芳雄博士らが日本国内で原子爆弾開発に着手を行っていたという事実は、知っていた。今回、ザスクープなどの報道で、その具体的な活動規模などを窺い知って、その確度は適切な規模と資金、計画的な開発指導が存在しておれば、実現可能な域であったことはよく理解できたように思う。しかし、あの戦艦大和をまんまと造艦させてしまうような間抜けどもが「戦局打開」などという発想で、場当たり開発を命じるという発想が、負け犬そのものなのだと思わずにいられない。この国では、いつも声だけがデカい田舎者がどこからか、しゃしゃり出てきて物言わぬ大多数の善良な多数国民が余程酷い眼にあう、というおなじみのパターンが定着しているのだと思わずにいられない。歴史のイフを、いえばあのルーズベルトと蒋介石らに嵌められた「ABCD包囲網」に、まんまと封じ込められてしまうことも愚かだが、ヒットラーにまで裏切られ枢軸国だの、防共協定だとの重々しく合意を結んでおきながらドイツに中国向け武器輸出で荒稼ぎを許した、など当時の日本の軍事指導者の底抜けバケツぶりには、開いた口がふさがらない。自分だって、クラウゼビッツも石原莞爾も読んだのだけれども、戦争ってドンパチだけが戦争ではないと知った。つまり、ヒトラーとあんな合意をしたことが愚か、騙されたうえに貢がされたようなものだ。冷静であれば、持久戦にもってゆき、この国力であれば、確実に核開発は可能だっただろう。ソビエトとアメリカの冷戦の前に、核抑止の構造へ突入することも可能だったはずだ。石原莞爾は、それを念頭においていたのではなかったか。やっぱり、東條英機と松岡洋右は皇居前広場で晒して、国民の手でギロチンにかけるべきだった。それを、国民は好まず、マッカーサーも適当に手打ちしてせいぜい北一輝の「日本改造案大綱」を虎の巻に占領政策を推し進めるという程度のアイロニカルな仕打ちをした。しかして毒はたっぷりと注入されていて、いまや衛星軌道から、日本の政財界のお歴々のゴルフ姿はすべてアメリカへ筒抜け。自民党から共産党まで、だれが政権取ろうが戦後の日本は、どう転んでもアメリカの植民地みたいなものに成り下がった。東條や、松岡が神になっているなどという靖国神社などとても、参拝などできるものではない。だったら、あっさりハワイに続いて星条旗の中の星に納めて貰ったらどうなのだろう。どうせ昨今じゃあ、どなたも子どもの頃にミッキーマウスの枕で、寝ていらっしゃった御仁ばかりでは?
2006年08月15日
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中東情勢がきな臭くなってきました / 株式日記と経済展望2001年8月29日日本にしてもアメリカにしても景気対策は打つ手が無くなってきました。需要の停滞がいったん起こるとその回復は難しい。日本も公共投資で需要を作り出してきましたが、消費の回復には繋がりませんでした。アメリカでも金利を半分にしてもNYダウの株価は停滞したままだ。消費の落ち込みを株価は折り込み始めたのでしょうか。ヨーロッパも景気が落ち込んできました。アメリカは戦争が景気対策としてあるらしい。10年おきぐらいに大規模な戦争をしないと、その巨大な軍需産業を維持できなくなる。古くなったトマホークやパトリオットを在庫処分しなければならないし、新型の巡航ミサイルのテストも実戦テストする必要もある。アメリカの軍事技術の象徴が巡航ミサイルだ。巡航ミサイルは何処からでも発射でき、数千キロを超低空で飛び、ピンポイントで攻撃できる。弾道ミサイルと違ってレーダーで探知できず、飛行機のように変幻自在に飛び目標もわからない。イラクもユーゴもこの巡航ミサイルにやられた。通常爆弾を積んでいるが、目標を正確に攻撃できるから核兵器より効果がある。イスラエルとパレスチナとの軍事衝突が拡大してきている。表向きはアメリカは止め役に回っているが、イスラエルがアメリカの了解なしに単独で軍事行動を起こすとは考えられない。イスラエルがPFLPの議長をヘリからのミサイル攻撃で殺すとは紛争の限度を超えている。アラブ諸国に対する挑発行為だろう。ブッシュ大統領は何を企んでいるのだろうか。彼の背後には産軍複合体があり、エネルギー産業がある。となると中東で何か陰謀を企画してもおかしくは無い。イラクのフセインはCIAとつながりがあると言われている。湾岸戦争の時もフセインを失脚させなかったのもその関係だろう。敵の大統領と話をつけてマッチポンプで戦争をすれば一石二鳥の効果がある。事実アメリカはクウェートやサウジに軍隊を置き油田を手に入れた。そしてPLOを弱体化させた。日本から130億ドルの軍事費を毟り取った。すべて計算ずくの陰謀である。日本は軍隊を出せないから金を出さざるを得ない。海部首相は一千万ドル程度の金で済むと思っていた。しかし突きつけられた請求書は百億ドル以上の大金だった。アメリカ政府は湾岸戦争の当時のメンバーが揃っている。イラクのフセインは今度はイスラエルと戦争を始めるかもしれない。そうすればアラブ諸国の支援が得られる。そこから先はどのようなシナリオかは分からない。何も起きないかもしれない。アメリカのやっている事はヤクザの世界と同じである。マッチポンプで漁夫の利を得るやり方だ。私の仮説なのですが、太平洋戦争も同じ仕組みで行われたのではないかと思う。アメリカが日本を挑発してアジアからヨーロッパ勢を追い出させ、アメリカが悪役の日本を懲らしめて日本とアジアに軍隊を駐留させ利権を独り占めする、マッチポンプ戦略だ。天皇陛下が戦犯としてさばかれなかったのもイラクのフセインと同じ役割をしていたからではないか?2006年9月11日の、直前にアメリカが「自作自演」をやる可能性を指摘する方は少なくなかった。昭和天皇が、フセインの扱い方へお手本になっているという説は、興味深い。たしかに、太平洋戦争の手口は、その後も繰り返し再生されているように思われてならない。同時に、日本赤軍がアラブ世界にお手本をしめしたあの流儀が、いま世界を震撼させている一連の自爆テロの導入口となったかのようだ。この連鎖を、我々にとどめるスベがあるのだろうか。↑クリック↑クリック
2006年08月14日
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↑クリック1960年代の世界的な学生運動では、しばしば原理主義的な共産主義信奉が毛沢東思想に移行する例がみられた。影響を受けたのは大学生を中心とする都市部の中産階級の若者で、集団生活や農村下放などが模倣されたが社会全体を変えるには至らなかった。ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』は毛沢東思想を研究するために共同生活を始めるフランスの若者たちを描いている。カンボジア内戦時にはポル・ポト率いる「クメール・ルージュ」が毛沢東思想を奉じてその思想を極端な形で実行に移した。都市の住民を全て農村に移住させたこの政策は大躍進政策と同様、多数の餓死者を出し、経済的な破局をもたらした。また、「人民は阿斗になってはいけない」という発言も有名ではあるが、劉禅は暗愚であったが数千万人規模の餓死者を出しておらずむしろ暗愚なのは毛沢東だという意見もある。しかし近代化の遅れている農村主体の国では、毛沢東思想はいまだに人をひきつける力がある。現在でも毛沢東思想を綱領としている共産党はネパール共産党毛沢東主義派だけだが、その他にも世界の様々な反政府組織が毛沢東思想に範をとっている。そのため一部の国家では「マオイスト」という言葉はテロリストや強盗・ゲリラなどと同じ意味に使われることもある。無差別機銃掃射で知られたペルーのセンデル・ルミノソも、「農村から都市を包囲する」の毛沢東思想を標榜していた。1969年11月5日、「大菩薩峠事件」が起きる。個人的には、この事件はその後の日本を大きく変えたような気がしてならない。歴史に、書かれることがない、重要事件だったのだ。当時、新左翼中もっとも直線的に武装蜂起を目指すとされた共産主義者同盟赤軍派の幹部ら53名逮捕され、急伸途上であったこのセクトが一気に弱体化した。彼らは、脳裏では首相官邸および警視庁襲撃のための軍事訓練を実行していたとされている。三島由紀夫は、この事件をことあるごとに取り上げ強い失望を抱いたと正直に表明していた。彼は、ことと次第では赤軍派と本格的な対決を演じ願望の上では彼らに殺されることを夢見たというフシがある。しかしながら、現実には三島の期待とは裏腹に戦後世代特有の軟弱さで夜間に歩哨も立てず、まんまと一網打尽に取り縄にかかってしまった。実は、そののち都市ゲリラ的な活動は、四分五裂し赤軍派は、日本国内の毛沢東主義者らと「野合」することとなる。この失望感は、三島ら右翼主義者にすら伝播するほど、低徊が予想された。案の定、あの連合赤軍事件として時代のトラウマを刻印、今に至って大きな影響を残した。もともと、毛沢東主義者が、日本の国の中で唯銃主義だの、武装蜂起だのと鎌首をもたげて良いことがあるはずがないのである。そんなことは、わかりきったことだ。当時、高校生だった自分にすら明快に見通せた。彼らは、日本の新左翼運動に大きな影響を与えたかもしれないが、所詮は左翼の退嬰的な部分をもっとも色濃くもちあわせている「田舎者集団」に、過ぎないからだ。いま、ネパール国土の7割近くを制圧しているというこの武装集団の隆盛ぶりには心底危惧されてならない。早晩、武装カルトとしての、凶暴な性格を露呈することになるだろう。↑クリック
2006年08月13日
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「敗戦は我が国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)、随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存じ候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に候。つらつら思うに我が国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存じ候。即ち国外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。かくの如き形勢より推して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に、干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、治安維持法及び防共協定の廃止等々)。翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する所謂新官僚の運動。戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みあるというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するのは、全く共産党の手に乗るものと存じ候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速やかに戦争終結の方途を、講ずべきものなりと確信仕り候。戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態まで時局を推進し来たりし、軍部内のかの一味の存在なりと存じ候。彼等は已に戦争遂行の自信を失いおるも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。戦争を終結せんとすれば、先ずその前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来米英及び重慶の目的は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争の継続につき、考慮する様になりはせずやと思われ候。それはとも角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。以上」1945年冬2月上旬、近衛が、終戦直前に昭和天皇裕仁を説き伏せたとされてる。というのも、天皇の招集した御前会議で、誰一人として不景気な話をしない。東條に至っては、日本が絶対に降伏しないと悟らせるまで、戦いは断固として続行だと、絶好調だ。実は、沖縄上陸作戦が敢行されたとき、腰を抜かすほど仰天したのは他ならぬ東條だとされている。大本営発表を、額面どうり信じていたふしもあるという。この時点で、東條の認識の大甘なことは昭和天皇に不安を抱かせるほどだったのだろう。ソビエト参戦は、ドイツとの戦線を維持するがために、到底可能ではない、などと進講し、国民は叱咤激励されることを好むものであるから、戦意高揚を目的として、詔書煥発をと天皇に詰め寄ってすらいる。ようするに必勝の信念があれば、敵国アメリカの殲滅などさほど難しいものではない、などと本気で口にしていたらしい。広田弘毅も、よく似たものだ。いや、東條よりも酷いのは、アメリカが日本との戦意を阻喪して、戦争を忌避したいぐらいの気分になっている、などと述べ具体的に、ルーズベルトの政策や人事を枚挙して、その心証だとまで言明したという。ただ、もっとも冷静に帝国の帰趨を分析していた近衛文麿だが、有名な長文のメモを持参しその中には、またまた後世の我々を驚かすような語り口で、敗戦よりも怖いという未来像を昭和天皇に示した。いや、近衛によれば日本の軍部に共産主義者が、わんさかいていつでもスターリンと疎通しかねない、というのである。ことと次第では、若手将校は赤色革命を一機にくわだててソビエトの参戦をも招きよせ、日本の国体を変革しかねない、というのである。これはもう、ほとんどSFという感覚だが、まことしやかに上奏したことで昭和天皇は、相当動揺されたものと思われる。日本の職業軍人は、大多数が中産階級以下である。(まあ、事実そうだろうと思う。)その生活環境、出自から考えて共産主義の餌食になりやすい。(そりゃあ差別発言だぜ)従って、共産主義のスパイは、密かに日本国体と共産主義は両立すると主張して(おいおい、ホントウに陸軍統制派が、共産主義者に洗脳されているって、証拠を握っていたのかいな)これら職業軍人の少なからぬ部分を、共産主義革命の隊伍に引き入れようと画策をしておるようです。(見てきたような話。というより、ほとんど近衛の妄想だろう。)「世の中も かくあらまほし おだやかに朝日にほへる おほうみのはら」(御製)しかし、戦争に負けるということはつくづく大変なことだったらしい。なんのことはない。京都大学で、河上肇に学んだのは、ほかならぬ近衛文麿の方だろ。河上 肇(かわかみ はじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の座を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党に参加して検挙され、獄中生活を送る。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)や、死後に刊行された『自叙伝』は広く読まれた。名文家であり、漢詩もよく知られている。
2006年08月12日
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インターネットは、どうなっているのか。あの「愛のコリーダ」(76)のノーカット版である「愛のコリーダ2000」がパソコンのモニターでみれる。例によって、無料だ。うざいCMがこびりついているが、トイレ休憩にでも利用してみることにした。なにせ主演藤竜也扮する吉蔵などトイレ休憩も定から貰えないのである。贅沢は言うものではない。とりあえずリンクしておいたので、画像をいつものようにCLICKすればよい。製作代表:アナトール・ドーマン脚本・監督:大島渚 製作:若松孝二撮影:伊東英男 照明:岡本健一 美術:戸田重昌/美術担当:下石坂成典助監督:崔洋一 装飾:荒川大 衣装:加藤昌廣録画:安田哲男 編集:浦岡敬一 音楽:三木稔演奏:日本音楽家集団 美粧:竹村幸二結髪:大沢菊江 スチール:小山田幸生 合作調整:フランス映画社76年当時、三越劇場で初演を見た記憶がある。すでに高校は卒業していたが、およそポルノというようなものは絶対駄目みたいな空気で育っていたので、いわゆるポルノ映画という感覚では見に行った記憶がない。映画館は、予想外に20代の女性が多かったように思う。当時から、すでに消費者は日活ロマンポルノとは一線を画したものだと、認識していたのかもしれない。なにせ、のちにフランスの文部大臣を担当した哲学者が、絶賛しちまうのだから、自分のようなアマチュアが下手なことを言ってもしかたがない。水準のある秀作映画だと思う。三越劇場では、ずたずたの作品をみたわけだ。残念ながら作品が扇情的だったという記憶がない。その理由は、ながらく不思議な気がした。全編ベッドシーンの性交場面ばかりだというのに・・・そもそも主演の松田英子は、自分や中島みゆきと同年だ。しかし、彼女は、ひと世代前の桑野みゆきという女優を踏襲するように人選されていて、露骨に大島渚の趣味だと思う。桑野みゆきは、小学生時代には、スクリーンに登場するだけで、気分が高揚させられる自分の大のお気に入りで、その延長線上にある松田英子が、大島作品に登場するというのは見逃せない、という感覚でみたのかもしれない。浅丘ルリ子が、あれだけ映画に出演しながら、ロクな映画に恵まれていないことを考えると松田は、一作で世界タイトルに登りつめた無名のボクサーのようなもので、強運の持ち主というほか無い。なんとカッコいいことか。今回、「愛のコリーダ2000」をみて改めて驚いた。やはり、ポルノというには何かが欠けている。いや、間違いなくポルノなのである。きっと、ポルノなのだろう。もしかしなくとも、十分ポルノなのである。ところが、昨今秋葉原や日本橋で大量に売られているあの、今様に脳みそを消費させているポルノの形式とは、なにか違うのである。早い話、煽情的というには炭酸の切れたジンジャエールみたいで、あまりにも情け無い。平素、面白くもなんともない映画を量産してきた、大島渚監督の作品の中では、もっとも成功したこの映画は、ポルノの分母のうえに何かを分子で、のせてしまっているのだろう。どちらかいうと、拍手(かしわで)を打って拝んでしまう、というような感覚である。たかだか百年そこそこの靖国神社では、こういう気分にはならない。「男の体からペニスが切り離されたのではなく、ペニスから男の体が切り離されたのだ」と、哲学者ミシェルフーコーがいったそうだ。はて?つまり「歴史」から、「肉体」(自然)がデカルト的に対象化されたという近代形成の本質は、ここでは黙示的にしりぞけられている。つまり、われわれの「原生的自然」が、歴史的制約を帯びた男の肉体から揚棄された、そんなドラマが象徴形式で進行する映像。それがこの映画「愛のコリーダ」なのだ、とでも哲学者はいいたそうだ。自分的には、とりあえずおちんちんに影響がなさそうだった。靖国神社など、なにやらモッタイをつけているけれども、あんなもの所詮は近代的な装置に過ぎないのである。吉蔵のおちんちんと一緒に定に斬り取られてしまう雑件だ、と、そういう風に大島はメッセージしているのかもしれない。日本の検察は、結局ありもしない猥褻だ、いたずらに性欲を喚起しているなどと低いところで反応して、結局大恥をかいた。阿部定は、実在の人物で各地にある遊郭でもさまざまに人間交差点を重ねてきた人だ。至極普通の愛らしいおばさんのようだが、、、どこまでいっても世の中のことは分からないものだ。映画と、実在の阿部定とは通底しているが風評とこれら映像作品に終始ふりまわされる人生だったらしい。↓CLICKで「阿部定事件予審調書」へ
2006年08月12日
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ご存知、スカイプアウトを使い始めてから日本中どこへでも平気で電話で質問できるようになった。インターネットで、あらかじめ質問の要点もまとめておけるので、短時間に本質的な議論へ斬り込める。すばらしい時代になったものだ。あの80年代や90年代に、このようなシステムがあったならば、どんなビジネスが組み立てられていたのかと思うと、実に口惜しい気がする。会社代表をしていた10年ほどの時代に自分なりに工夫をして、相当手厚いデーターベースを作っていたのだが、あれにかけたエネルギーと人件費、完成させるまでの数年ほどの時間を考えると、夢のような環境だと思う。実は、いまメーカー窓口の対応がこれまた格差があるとはいえ、微妙に切れ味が良くなって来ている印象もある。これも、やはりパソコンの普及と、その使い込み、そしてインターネット環境がジワリと効き始めているのだろう、と思う。ビジネスのスタイルも、この時代の独特のものになっている。どうやら製品の使い方についてもこの時代の基本環境を折り込んで考えぬかねばならないらしい、と気づいた。(おお、めずらしくビジネスヒント的話題になった)手元で、気に入っている文具がある。これをGEL ROLLERという。いろいろなメーカーで、出回っているが一社手に馴染んで使いやすいので追いかけていたら、切らしてしまった。そこで、メーカーに問い合わせをしてみたのだが、これが意外にどこにでも売られている製品ではないことが判明した。たかだか、ボールペンだの水性ペンだのといわれている程度のギアですら、そうなのだ。窓口の説明を聞いていて、その奥深さがわかって舌を巻いた。つまり、VOA規制の進行下でこの手の小物文具ですら次第に水性化して来ている。水性化の速度が遅い業界は、「利権構造」が阻んでいると言っても、さほど間違っていない。ところが、この脱油性、脱揮発性有機化合物という、編成途上ではなかなか微妙な製品が世に出てくるという面がある。過渡期というもの特有の品作りというのだろう。実は、自分が気に入っているゲルインキのボールペンが、それだ。たしかに、製品はメーカーの努力や、物性上で極めて書き心地はよいのだけれども、資材として実に、不安定なのである。なにせ水性にも移管できなくて、市場規模を睨み、流通の状況も踏まえてゆくと、極めて鮮度条件の厳しいものになる。揮発性有機化合物(VOC)常温常圧で空気中に容易に揮発する物質の総称で、主に人工合成されたものを指す。英語表記の頭文字をとってVOCと略される。比重は水よりも重く、粘性が低くて、難分解性であることが多いため、地層粒子の間に浸透して土壌・地下水を汚染する。一方、大気中に放出され、光化学反応によってオキシダントやSPM(浮遊粒子状物質)の発生に関与していると考えられている。炭化水素(系物質)を主とするが、C、H以外の元素が入っているものも含むため、炭化水素類(HC)より概念的には広い。1970年代初頭から農薬や、主に電気工場や半導体工場で洗浄剤などとして大量に使用され、当時規制する法律がなかったため土壌にそのまま廃棄されていた。これが再開発等に伴って汚染事例が数多く判明し、社会問題化している。一方、大気中に放出されるVOCは、環境省の試算では国内で年間約185万トンと、諸外国と較べて単位面積当たりの排出量が高く、濃度も高い。2004年の大気汚染防止法改正により、浮遊粒子状物質、光化学オキシダントの生成原因となるVOCの排出が規制されるようになった。早い話、雑貨といっても生鮮なみに旬が発生するのである。これは、どういう意味かと言うと、時間が経つと使いものにならない劣化が発生するということである。遅くとも、一年以内には使い切らねばならない。買いだめは、しない方が良い。さりとて、従前の油性インキは、環境負荷もあり次第に、市場から消えてゆく。また、消えて行ってもらわねば困るのだ。となると、消費者としてはいつも切れそうになった、段階でショップで購入するように心がけなければならない。実は、これが最善の答えであり、最善策なのである。ほんとうは、そのメーカーに気に入ったからまとめて購入したいと希望した。見事に断られたのである。理由は、ふたつ。まず、まとめ買いには適していない。間違いなく使い切りされる前に、製品が劣化して苦情の原因になる。なるほど、雑貨だと思っていたが、これはすでに生鮮の域になっていたのだ。つぎに、自分が購入した価格は、とてもメーカーが販売できる流通価格ではなく、販売チャンネルが特段の小売りなのだ。すばり、百円均一の全国店である。自分は、記憶していなかったが、そのペンはどうやら地元の大手百円均一店だったらしい。メーカーが言うには、その販売チャンネルならば、鮮度を維持しながら大量販売が実行できるので、苦情が発生しない。在来の文具店チャンネルでは、到底この製品をこの価格で売り切ることは不可能なのだという。これも、聞いて驚いた。なんと、あの安売り屋が、この時代の環境問題には一定の貢献をしているのだということが分かった。本来ならば、次世代型の製品をもっとも大量に販売しなければならない、文具流通では到底収容できない規模の流通在庫を一気にはけてしまう、という意味ではすでに百円均一の全国展開に、文具店は足元にも及ばないらしい。実は、文具流通とは、知られていないだけで、あの東條英機や、永田鉄山らが戦時体制として舵取りを行った。例の「30年体制」によって戦後も長く庇護されてきた業界なのである。この陸軍統制派らが亡霊のように生きながらえて戦後流通に巣食ってきたシステムでは、もはや環境負荷の増大する今日のわれわれの課題を担えなくなっている。そういう事なのではないか。文具メーカーも、そのような実績づくりと卸売りチャンネル離脱を図るために製品の特性を読みぬいて、販売チャンネルを選び抜いているのだ。文具をAMAZONで買うのも、製品によっては慎重であるべきなのかもしれない。
2006年08月11日
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革マル派の最高指導者死亡 黒田寛一・元議長 過激派「革マル派」の最高指導者だった黒田寛一元議長(78)が6月下旬、埼玉県内の病院で死亡していたことが10日、関係者の話で分かった。 関係者によると、黒田元議長は1963年、日本革命的共産主義者同盟(革共同)が分裂して、革マル派が結成されて以来、議長を務めていた。 「クロカン」の通称でも知られ、同派の理論的指導者として執筆活動を続け、96年に開かれた同派の政治集会で議長を退くことを表明したが、詳しい消息は長年不明だった。 議長辞任後も最高幹部として組織を指揮し、絶対的な存在だったとされる。(2006年08月10日 11時44分)あれ、まだご存命だったのね。死に損なった吉本隆明が、長生きしているから不思議。黒田寛一の葬儀には、中島みゆきは駆けつけたのだろうか。革マル派の歌姫が、紅白歌合戦に出てきた時には仰天した。黒田 寛一(くろだ かんいち(「ひろかず」とも)、1927年10月20日 -2006年6月下旬 )は、日本の反スターリン主義者、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)最高指導者。通称クロカン。筆名は山本勝彦、牧野勝彦など。旧制東京高等学校を中退後、出版社を自営。その傍らマルクス主義の研究・著作を重ね、その研究サークルが発展する形で日本トロツキスト連盟を結成。1957年12月、革命的共産主義者同盟全国委員会の結成と共に議長に就任。1962年の参議院選挙全国区に党公認で出馬するが、落選。得票数2万余り。大日本愛国党総裁の赤尾敏が12万票余りを獲得したのと比べれば、惨敗であった。左翼の亡霊とは、いわないけれどかび臭い人たちがまだまだ影響力もっているんだね。いまやJR東日本に、魔界転生した革マルさんだけれど、あの東京駅の高くて不味い弁当だけ、なんとかしてくれないものだろうか。東京新聞って、暇ネタに今頃って感じかな。だって、2ちゃんねるって6月頃に扱っていなかったけ?世の中はいつも、変わっているから 頑固者だけが、悲しい思いをする変わらないものを、何かにたとえて その度崩れちゃ、そいつのせいにする シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく 変わらない夢を、流れに求めて 時の流れを止めて、変わらない夢を 見たがる者たちと、戦うため世の中はとても、臆病な猫だから 他愛のない嘘を、いつもついている包帯のような嘘を、見破ることで 学者は世間を、見たような気になる シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく 変わらない夢を、流れに求めて 時の流れを止めて、変わらない夢を 見たがる者たちと、戦うため シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく 変わらない夢を、流れに求めて 時の流れを止めて、変わらない夢を 見たがる者たちと、戦うため シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく 変わらない夢を、流れに求めて 時の流れを止めて、変わらない夢を 見たがる者たちと、戦うため 「世情」JR東日本の「赤」レンガ夜景
2006年08月10日
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パンチのきいた「亀田興毅弁当」 ローソン ↑クリックローソン、明治製菓 「スポンサーやめろ」の大合唱↑クリック亀田父vsガッツ石松&やくみつる 1 ↑クリック亀田父vsガッツ石松&やくみつる 2↑クリック亀田父vsガッツ石松&やくみつる 3↑クリックさて、亀田父子の件である。自分は、たまゆら1/f氏とスカイプで世間話に忙しくTBSの番組など見ていない。スカイプの最中に、亀田興毅が辛勝したことを伝えられた。いろいろな方の、いろいろな意見が出揃ったのを拝見するのが楽しい。礼儀知らずだ、無礼だという反発が多いのは当然だろう。関東でウケる筈がないと思っていた。あっさりKO勝ちしてこその、パフォーマンスである。あんな微妙な判定勝ちでは、ファンもアンチもいきり立つのは避け難い。そこまでは、確かにそうなのである。「沈黙は、金」というのに亀田史郎は、さらに傷口を広げる結果となるテレビ対決を挑んだらしい。ほかならぬ、ガッツ石松と漫画家のやくみつるへだ。これは、テレビではさほど話題にならなかったらしいが、この時代の動画配信。その普及で、日に日にアクセスを通じて視聴してゆく人の輪が広がっているらしい。あげく、ついにはローソン、明治製菓、パチンコ屋の京楽産業と軒並みスポンサーにまでバッシングの嵐が向っているという。もっとも、亀田父子の後援に入っている山口組系の英組宛てに抗議する度胸のあるネットワーカーが多数いるとは思われず、手ごろなコンビニ、製菓会社をいたぶっているという図である。まあよほど暇なストレス過多の人間が、いかに多いかと呆れるばかりだ。今回、亀田父子は辛勝したという痛烈な自覚があるだろう。ならば、沈黙して臥薪嘗胆、堅忍不抜で次回戦に失地回復を目指すしかなかったのだが、、、、いかんせん、血の気の多さで売って来た人生スタイル。とうとう、漫画家や評論家をいじってしまった。この緩さが、今回の試合の無様な結末を招き寄せた油断と、同根だろう。しかしながら、ガッツ石松や やくみつるなどもあまり芳しい話ではない。やくなど、自身の作品から早稲田ブランドをひいて何が残るのかは知らないが、所詮は、いしいひさいちの亜流どまりの漫画家の分際で、何を教育者づらしているのだろう。今回も、自分の作品のネタに、自分まで乗り出して売り物にしようと言うあざとさが、ミエミエで、漫画家としての水準が、いよいよ低徊の兆候が濃厚というしかない。自分からみれば、いしいひさいちの漫画の水準は、もともと亀田父子らのようなキャラクターが盛りだくさんな関西系でディープな市井のアナーキーさから発したものだ。空前の大ヒットをとげた、いしいひさいちが、昨今構えてしまいもはや往事のエネルギーを衰弱させてしまったが、亜流も、同様に迷走しているとみえる。やくの論なら、そのまんま自殺行為というものではないか。亀田父子、あるいはあの三兄弟は、どうせ全国化するようなお品ではない。それを、いまどき良いも悪いもパワフルで、あぶないキャラクターが欠乏しているという時代相に、TBSがあやかりに入ったというだけの烏雄の一種だ。木曽義仲の再来か、むかしから京に上洛しては三日天下という素性のしれぬ時の氏神のようなものが、帰去来しているが、その手のたぐいと大差ない。それを、もともと折り込みずみでレアものを楽しむという感覚だったのか、と思いきや、奴らの下品さ大衆的規模でものみな腹を立てているらしい。そちらの方が、よほど驚かされる内容だ。よくよく、お考えになられよ、ご同輩。大阪の下町、天下茶屋界隈のストリートファイターが世界タイトルマッチまで辿りついたのである。通天閣と、坂田三吉の街なのだ。あれで有頂天になるのはわかったことだ。亀田父こと、亀田史郎などむかしは、あの地域でならした愚連隊だろう。後援に、広域のバッチがつくほどなのだから、素性はみえみえではないか。早い話、「じゃりんこチエ」の実写版のようなものなのである。アニメのじゃりんこチエが良くて、実写版でテツのカリカチャー同然の亀田史郎が、テレビで吼えてなにがまずいのか、と自分ならば思う。むかし、雄琴に四年制大学卒のソープ嬢がいると噂になったとき。マスコミが一斉に、騒ぎ立てたことがあった。現役の大学生が、なんとソープランドで、公然と売春するのか、という論である。まちがってはいけない。戦後ならば、悲惨な境遇の売春婦だったかもしれないが、いまは豊かになって近代的なビジネスモデルとして産業化、おまけに往年のパンパンがソープ嬢だ。しかも、ソープ嬢が苦学して、ついに四年生大学へ学士を目指すという時代が、来たのである。これぞまさしく、美談というべきだ。亀田父子など、ひとむかしまえの大阪ならばせいぜい愚連隊か、ヤクザの鉄砲玉で終わる人生だろう。それが、ボクシングとカタギに負けず劣らずの努力の果てに世界タイトルにも手を伸ばせるまでになったのだ。立派な美談である。あまり大阪をとおりいっぺんに、かいかぶるのはやめなはれ。
2006年08月09日
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村上一郎が、日本刀で自刃した1975年。衝撃を受けたなどと言うものは、ほとんどいなかったかもしれない。たしかに、戦前と戦後を結ぶ無限に近い飛躍に翻弄され続けた大多数国民は生活から瞬時も眼をふれることなく記憶の底にすら澱をなすこともなく今日にいたっている。村上などに比べれば、ボードビリアンのようでもあった三島由紀夫は復古的な意味合いからではなく、どのようにでも加工できる思想シンボルとして、いよいよアマルガムのように再起をしそうな勢いだが、おそらく眞摯に戦前的な日本の帰去来を追い求めた村上がふたたび平成に再評価されて着目されることは、なさそうに思う。今朝方も、楽天ブログ内で「敗戦時、戦争犯罪人の戦争責任を日本国民が問うことがなかったことを、かえすがえす残念である」との論旨を述べているものをみかけた。なるほど、「戦後の名」をもって、戦争責任を無邪気に諮ればそのような無造作な正拳突きになるのかもしれない。だが、その脚部たるや、極東軍司令部の文化政策や、昭和天皇の汚れ役、そして村上らの戦中派世代にみられるような日本の近代を静かに見つめ続けた精神からすればあまりにも、お手軽な「いいとこどり」が過ぎると思わずにいられない。いや、他ならぬ自分自身が村上の一連の著作に出会うまで蒙に凝り固まっていたように、思われる。いま、我々の国では年間1万人もの規模の交通事故死者を生じているが、その遥か凌駕する規模での自殺者を、すなわち3万人以上の自殺者を数えている。シートベルト違反を言いつのり、果ては自家製制限速度違反などという罪科や、ことさらに駐停車を咎めだてで国民から白昼堂々と金員を巻き上げる警察などという組織の頂上が、その裏で国民の税を飲食に私するなど日常茶飯。はたまたさきの岐阜県知事に至っては、県知事在職中からみずからの組織機構の内部に、公金着服とは聞こえが良いが泥棒集団としての見事な整備がなされていたとの実情。掌握していたと臆面もなく報道を前にして述べるに至っては、この国の戦後という代物が、いかほど国民にとり擬制であったかは、明々白々ではないか。検察しかり、社会保険庁しかり、大蔵財務官僚、外務省、およそ天皇の官僚公務員なるものが、組織ごと見事に反国家的な寄生虫であると姿を晒して、なお無告の国民はその怒りの声すらあげられぬという「この国のかたち」の末期的なることよ。1960年代の後半から1970年代にかけて、日本の文学者や文学研究者、思想(史)家にとって最も刺激的で、喚起的な、それ故に危険な匂いのする言葉は、「土俗」または「土着」という言葉だったと思います。これらの言葉は「近代」に対する対義語として使われ、近代以前から、場合によっては古代からずっと続いている日本人の習俗や心性を意味しました。また、近代以後においても、近代化の影響が届かなかった領域を意味しました。また、もし日本の近代化を主導してきた人たちを知識人と呼ぶとすれば、これらの言葉は民衆、または大衆を意味し、合理的な知性に対しては非合理的な情念を意味する場合もありました。この簡単な紹介でも分かるように、これらの言葉を自分の思想表明のキーワードとして使った人たちは、その言葉のなかに、戦後の民主的な改革が、しかし結局日本の社会構造を全面的に組み替える民主主義革命にまで至らなかったことに対する批判を託していました。彼らの批判は、戦後の改革をリードしてきた知識人に向けられ、さらに近代日本における知識人のあり方に対する批判、日本の近代化そのものに関する批判的な研究へと発展していきました。 言葉を換えれば、その人たちが「土俗」とか「土着」とかと呼んだものは、戦後の民主的な改革を推進しようとした人たちによって、近代化の立ち遅れた部分と貶められ、改革をはばむ保守的・反動的な政治勢力の温床として、ネガティヴにしか評価されませんでした。その意味では、近代主義的な知識人から啓蒙と改良の客体としてしか扱われてこなかったわけです。それを客体の位置から解放し、主体性を復権し、そこから変革のエネルギーを引き出すこと、それが彼らの共通のモティーフだった、と言えるでしょう。 2002年4月19日於、UCLA 亀 井 秀 雄三島由紀夫が、その足元で日本の土俗的シグナルに身震いするほど恐懼していた事。あの深沢七郎の「風流夢譚」の影の評価者が、ほかならぬ三島由紀夫その人だったことからも想像に難く無い。いまの2ちゃんねる右翼らに、その程度の現代史俯瞰がそなわっているだろうか。『中央公論』1960(昭和35)年12月号いまやタレント高見恭子のおやじというぐらいにしか記憶されていない高見順であるが、実はこんな腐れ戦後に雪崩を打ってゆくさまを予言的に言及していたとすら思える作品を多数著している。高見順の秀作「いやな感じ」を、通過せぬ戦後民主主義の軽薄なるはある意味、水が低きにつくがごとく必至だ。そう思える。
2006年08月09日
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三島由紀夫の自害が、あった年。事件直後真っ先に購入した書籍は、村上一郎「北一輝論」だった。ご存知のとうり、北一輝は、あの2.26のドサクサに始末されてしまった国家社会主義者だ。多数の国民は、その存在すらも戦後に至るまで知らなかったかもしれない。実は、ご親切に、2.26の渦中に叛乱軍将校らに資金支援の話をいれていて、まんまと盗聴されており銃殺される羽目に陥る。(※後日、このNHK報道内容が虚偽であったことがNHK番組作成者により暴露される)松本清張のように蛇蝎のように毛ぎらいする人がいるのかと思えば、一方でマッカーサー軍司令部の虎の巻、カンニングのネタがほかならぬ北一輝の著作だったとされる。密かに流れる風評は、噂にさほどの相違もないあたりだったらしい。北一輝が、叛乱軍将校に向けて著した日本的な革命維新の御作法は、まんまとマッカーサーらが懐に秘めて、さっさと実行しちまったというのが実態だとしたら、歴史の皮肉としか言いようが無い。村上一郎東京生まれ。栃木県宇都宮市育ち。1943年東京商科大学(現一橋大学)卒業後、短期現役士官として、海軍に入隊。主計大尉として終戦を迎える。戦後は、吉本隆明、谷川雁らとともに雑誌『試行』の編集などをした。1975年、武蔵野市の自宅で日本刀により頸動脈を切り自殺。 三島由紀夫の壮絶な死が影響を与えていたことは、想像に難しくない。享年54。墓所は小平市の小平霊園。『北一輝論』は三島由紀夫に高く評価された。二・二六事件を肯定する面では、三島由紀夫と同様か、またそれ以上である。が、三島由紀夫の二・二六事件観は、あくまで忠誠心の発露、至純の精神への感銘にすぎないが、村上一郎はその理念にまで、心を及ばせていた。二・二六事件の失敗、滅びを前提にする三島由紀夫と異なり、二・二六事件がもし成功したら、歴史は変わっていたと、肯定論を更に進めて考える。死に際しては思想的立場が大きく異なる丸山眞男からも悔やみの手紙が寄せられた(『磁場』の臨時増刊村上一郎追悼特集号に掲載)。内田信也(内田汽船設立者)や窪田四郎はおじ。石野信一(大蔵省事務次官や神戸銀行頭取を歴任)は従兄。その北一輝を挟んで、三島由紀夫とも親交のあった村上一郎は、市谷に当日即座に足を向けたと日本読書新聞に書いていた。この村上一郎は、以前から不思議な関心があり、読んではいたが、その動機に嗅覚がはたらいてただちに「北一輝論」を取り寄せた。日本共産党に、もう少しで入党しそこなった三島由紀夫と違い村上一郎は、すでに日本共産党の活動歴もある。しかし、その著述から読み解けるものは、当時の現代っ子世代である自分らには、眼がくらむようなものが多々あった。私が、村上一郎の「北一輝論」を読み始めた時期。周囲の新左翼系の友人たちや、民青の連中は、大いに馬鹿にして、やめとけと揶揄した。しかし、村上一郎の「北一輝論」と、とりわけ注目をすべき重要著作としては「日本軍隊論序説」を、退けることはできないと考える。両著は、日本の戦後が、あえてことさらに忌避したためにいかに畸形な精神構造となり果てたかを逆照する。それだけの力が、一連の著述にはあるように思えた。少なくとも、三島由紀夫の作品や評論からは、ストレートに発せられた事がない精緻な思考遍歴があり、ようやく戦前について輪郭が見えてきたような思いが湧いたものだった。すでにあれから、30年ほどの時間が経過したのだ。2・26事件当時、東京湾上で密かに山王ホテル、国会議事堂に向けて主砲の照準をあわせ続けた戦艦長門
2006年08月08日
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「西洋砲たとえ吾が艦を砕くも、日本刀能く彼の頭を断つ」同年輩の浅田次郎が、三島由紀夫にいたくご執心だったことは彼の古い作品を読んでいると分かった。たしかに、彼と同級生ぐらいの年代のわれわれには、三島の存在感は特別だったという気がする。浅田は、一度だけ路上で三島由紀夫と遭遇したこともあったらしい。憧れの三島に、生涯にただ一度出会いながら、三島に嫌そうな顔をされたという体験告白を読んでいると、あの時代の空気を思い起こされて懐かしい。浅田は、学校を出てから自衛官を経験していて、その時代に市谷の襲撃事件で、悲喜こもごもあった人たちとも遭遇していると記していた。楯の会に斬りつけられて負傷をした方などから、直接教練を受けたという。浅田の眼に映った市谷の襲撃事件とは、一体何事だったのだろう。あまりにも、素朴かつシンプルな事を確認するようだけれども三島が切腹し、壮絶な自害を遂げたあの市谷陸上総陸上自衛隊東部方面総監部とは、ほかならぬ極東軍事裁判の法廷なのだった。このシンボリックな意味を、当時地方の学生だった自分らが瞬時に理解していたとは思えない。ただ、新聞紙面に踊る当代一流の「知のアイドル」とでもいうべき存在であった三島由紀夫の突然の他界、何ゆえかの動機でふたたび帰らぬ旅路へ踏み入れたのだという喪失感だけがあったように思う。市ヶ谷台変遷小史明暦2年尾張徳川光友公が上屋敷を築いた。明治7年京都兵学寮が移転され昭和12年陸軍士官学校本部として1号館を建設。昭和16年大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部が置かれた。昭和20年極東国際軍事裁判の法廷として使用。昭和35年から陸上自衛隊東部方面総監部陸・海・空自衛隊幹部学校として使用。平成12年5月から防衛庁が移転してきた。
2006年08月07日
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実は、正直に告白すれば広島長崎の原爆投下について80年代後半まであまり意識した事がなかった。その意味が理解できるようになるには、自分自身の成長が必要だったのである。ひとつには、原爆投下の事実を、左翼同士の闘争の具に貶めてきたという現実もある。いわく原水禁、かたや原水協と声だけはデカイが始末におえないオヤジらが毎年言葉をタバコの煙のように消費し続けてきたからだ。二 極東国際軍事裁判について1 日本が受諾したポツダム宣言には、「戦争を起こした人間を裁く」とは一切書かれていない。また、弁護団の一人であった清瀬一郎弁護士は、「(ポツダム宣言の時点において)国際法のどこを見ても先進国のどこの法律でも『平和に対する罪』『人道に対する罪』という戦争罪など規定していない。だからA級といわれる戦争犯罪などは存在しない。もしあるとしたら、その管轄はどこにあるのか」と質問しているが、これに対してウェッブ裁判長は「いまは答えられない。あとで答える」と述べている。すなわち、「平和に対する罪」「人道に対する罪」に該当する「A級戦犯」とは、極東国際軍事裁判当局が事後的に考えた戦争犯罪の分類であり、法の不遡及や罪刑法定主義が保証されず、法学的な根拠を持たないものであると解釈できるが、政府の見解はどうか。2 「A級戦犯」が法学的に根拠を持たないとすれば、「A級戦犯」はそもそも戦争犯罪人に該当しないと解釈できるが、政府の見解はどうか。3 日本政府は、昭和四十一年に、極東国際軍事裁判の裁判官の一人として、同裁判の判決を全面的に否定したインドのパール判事に対して勲一等瑞宝章という、他の極東国際軍事裁判経験者には与えていない高ランクの勲章を与えているが、これはいかなる理由であるか。「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書/質問第二一号 野田 佳彦(民主党) 平成十七年十月十七日提出昨今話題の、A級の意味を問う投げかけがすでに1946(昭和21)年時点でなされていた。民主党野田議員が小泉内閣に対して質問を行った「A級戦犯」についての論旨は、東條英機元首相の主任弁護人清瀬一郎氏の論旨を踏まえてのものだと思われる。このブログにもリンクいただいている姫路の春霜堂さんのブログでも紹介されている。清瀬一郎氏は、のちに自民党三木派に所属して衆議院議長を務めるなど、保守系政治家となられたがもともと治安維持法に反対されたり、小作争議に奔走されるなど、日本の良心ともいえるリベラルな立場で超歴史的な視点で堂々と占領軍支配下の極東軍事裁判で弁舌を振るわれたものらしい。ちなみに東京帝国大学主席卒業の伝説の秀才だ。清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年7月5日 - 1967年6月27日)は兵庫県飾磨郡夢前町(現、姫路市)出身の弁護士、政治家、法学博士である。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。当裁判所は連合国が発したポツダム宣言の第10条を根拠として設置されたものであり、ポツダム宣言は「降伏文書」によって確認受諾されたものであるから、日本のみならず連合国もポツダム宣言の条項に拘束されている。即ち当裁判所は、同条項に規定されている以外の戦争犯罪人を裁判する権限はない。極東国際軍事裁判所条例には、「平和に対する罪」「人道に対する罪」という明文があるが、連合国にこれらの罪を裁く権限がなければ、連合国から権限を委任された最高司令官はやはりその権限がない。ポツダム宣言が発せられた1945年7月26日当時、連合国および日本において、戦争犯罪とは何と考えられていたか。その当時、世界各国で知られていた戦争犯罪は、戦争法規、慣例を犯した罪ということである。「平和に対する罪」、即ちその戦争の性質がどのようなものであっても、戦争を計画すること、準備すること、始めること、および戦争それ自体を罪とするということは1945年7月当時の文明国共通の観念ではない。実は、このなにかと軍事裁判の論理をもって、「人道に対する罪」でアメリカの原爆投下関係者を裁こうという提起をされている人たちがいる。すぐる2006年7月16日、広島である。司会は、被爆者問題に長年関わっている舟橋喜恵実行委員(広島大学名誉教授)。開会あいさつを坪井直共同代表(日本被団協、広島県被団協)が行った。経過説明をこの法廷の提唱人でもある田中利幸共同代表(広島市立大学広島平和研究所教授)が行い、三人の判事団が紹介された。レノックス・ハインズ教授(米国、ラトガーズ大学法学部、国際法・刑法、国際民主法律家協会〔IADL〕終身国連代表、フィリピン国際民衆法廷判事)、カルロス・ヴァルガス教授(コスタリカ、コスタリカ国際法律大学法学部、国際法、国際反核法律家協会副会長)、家正治教授(姫路獨協大学法学部、国際法、国際機構論、神戸市外国語大学名誉教授、日本国際法律家協会副会長)の三人はいずれも国際法に関する権威である。 判事団指揮の下で開廷した。起訴状を検事団長の足立修一さん(広島弁護士会)がパワーポイントを使って読み上げた。足立さんの熱意がなければこの法廷は実現しなかった。共同謀議者たる被告人九人、実行行為者たる被告人十一人(双方に重なっている被告人がいる)。計十五人の被告人について、次の二つの罪名と罰条を掲げている。第一に、通常の戦争犯罪(極東国際軍事裁判所条例第5条ロ)、第二に、人道に対する罪(極東国際軍事裁判所条例第5条ハ)。 次に、アミカス・キュリエ(法廷助言人)意見として、大久保賢一さん(埼玉弁護士会)が米国政府の立場=原爆投下の正当化の論理を中心に非常に鋭く述べた。そして、争点整理、立証計画説明を経ていよいよ立証に入った。 証人の宣誓後、最初に、「被爆の影響」について、鎌田七男さん(広島大学名誉教授)がパワーポイントを使い証言した。尋問は、秋元理匡さん(千葉弁護士会)。鎌田さんは、一九六二年に広島大学医学部付属病院被爆内科助手を皮切りに広島大学原爆放射能医学研究所(原医研)に長年勤務され(1985年同教授、1997年同所長)、二〇〇〇年の退職まで三十八年間幸い転勤がなく、それゆえ被爆者臨床データを途切れることなく誠実に追究され、学問的には第一人者であり、共著に「原爆放射線の人体影響1992」がある。現在、広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園園長でもある。原爆放射線の人体への影響を簡潔詳細に証言した。直接被爆、外部被爆にのみ絞った証言である。それゆえ現在闘われている原爆症認定集団訴訟の攻防点からすればオーソドックスな証言である。被爆の影響について、語られている鎌田七男さんは、先日こちらでも話題にした。「被爆の爪あと」の冒頭でご紹介した方だ。実は、自分自身は、極東軍事裁判などなんの関心もない。あんなものは、最初から論理でも、なんでもないのは自明だ。昭和天皇を魔界転生させたヤクザのけじめ、おとしまえなのだと以前にも述べた。むしろ痛烈なのは、静かに淡々と語られている鎌田七男広島大学名誉教授の述べる低線量被爆の身体に与える影響の論考の方だ。実は、これまで微小な放射性物質や低線量被爆は、健康に害がないとか、むしろ健康に良いなどという噴飯もののデマゴギーが流されてきた。染色体異常は、高レベルの汚染にとどまるものではなく、環境中の放射性降下物の微粉塵雰囲気下で着実に進行すること。そして、異常を生じた染色体は、それ自体が放射線を放たないまでも生理メカニズムのレベルで皮下組織内で、周辺の細胞組織に異常の連鎖を生じさせるなどの実証を続けてきた。これは、あの市川定一埼玉大学名誉教授などの提唱と符合する。実は、被爆者の規模においてはアメリカの核実験進行下で参加したアメリカ軍兵士が広島長崎の被爆者の規模に準じる、もしくはその規模を凌駕する可能性すらある。
2006年08月06日
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紅衛兵という凶暴なテロ集団が、中国全土を跋扈していた。まさしく、ビートルズが世界を席捲していたあの60年代である。当初は、毛沢東の私兵としての上からの煽情と謀略的な動員によるものであったが、次第にその暴力の連鎖は、とめどなく。暴力そのものを目的とする暴力の回路を開き、ついに中国全土に虐殺の渦を巻き起こす。昨今、2ちゃんねる右欲諸君が浅い反撃を中共に対して繰り広げているのが愚かしくてならない。靖国神社などというレベルの低い国家神道を擁護しようなどとするから、いつまでもあやつらの正体を捕捉しかねるのだ。自分らの高校時代、校門の前に大阪府警のパトカーが常駐するという事態が、何週間も続いた。いうまでもなく中国で吹き荒れていた紅衛兵運動の火の粉。飛び散り、飛び散って健常な授業など到底成立しない事態が、幾週間も続いた。冒頭の写真は、同じ頃。66年9月、黒龍江省省長であった李範伍が頭髪を刈り上げられ、糾弾をこうむっている映像だ。なんのことはない、当時日本の都市部の公立高校などや国公立大学で同じ風景が、カーボンコピーのように頻発していた。海の向こうのこととしてではなく、極めて身近な出来事だったのである。先年、他界した義弟も当時極左の高校生活動家として、所属する公立高校長を、この李範伍と同様に虐待を実行し、のちにその咎を一身に受けて退校させられている。実のところ、実行犯らはその後ぬくぬくと進学し、サラリーマン社会に溶け込みまんまとしらをきって、まもなく定年を迎えようとしていることだろう。しかし、この国における紅衛兵の亜流らが起こした真似事と中国本土で実行されたそれとは比較にならない熾烈さと残虐さであったことは、ほどなく露呈する。当初、毛沢東らの政権側から仕掛けたクーデターとして始まった「四旧打破」(すなわち旧思想旧文化、旧風俗、旧習慣)などという観念的であいまいなアラ探し、所詮はいいがかりの一方的な申しつけに始まったものが、次第にエスカレート。ついには「四類分子」(地主、富農、反革命分子、悪質分子)という直接攻撃に熾烈さを加味するや、いわゆる造反行為は、単なる一揆的なものから大量虐殺の様相を呈しはじめる。66年8月には、北京南部地域ですでに集団虐殺が始まっている。共産党県党委員会が、すでに統制できる事態になく制止することもなせぬまま、現場へ駆けつけても、暴徒とも暴力集団ともつかぬ、当然無抵抗な農民に対する一方的な暴力行為がくりひろげられて、その凶器は釘つきの棍棒や家畜用のムチなどで、おもに標的となったものは、土地所有権利書等を保有している、などという本来ありえない事由を「隠匿」などとして、狼藉する粗暴なものが大半であった。その攻撃対象は、地方の富裕層にとどまらず疑心暗鬼に陥った、密告などから下層農民ですら攻撃目標となり、果ては老人や子どもに至るまで、財産目録を提示しない、などとの理由で棍棒、鉄棒で殴打されている。子どもの中には指をなくし、ちぎれるまで容赦なく打ち込まれていたという。死体は、累々と積み重なり一部息の残っているものは、なおシャベル等で痛撃をされ、絶命にいたってから屋外に運びだされる。その様を目撃した県党委員会は、のちに「那個年代中的我們(あの年代の我ら)」遠方出版(張連和、者永平編)などに描写している。参照毛沢東に権威づけられ、紅衛兵らの挑む敵は人間の「類」とはみなされず、「牛鬼蛇神」だと蔑まれた。つまり、「人」にあらず、「もののけ」なのだというわけだ。この恐怖は、現場のすさんだ狂気を味わった人間にしか理解できぬだろう。虐殺の現場では、被害者を庇護するものなど、存在しないのだ。庇護するものは、それすなわち「もののけ」なのだから。ほかならぬ、日本でも当時、水の入っていないプールに胴上げされてほりなげられた高校長や、教頭は珍しいことはなかった。寒中に水の中にほりこまれた教職員などは幸いである。しかも、当時の中国共産党中央政治局委員に予定されていたほどの実権者でありながら、国務院公安部長、謝富士などは北京公安局拡大会議において、平然と「撲殺には賛成できないが、人が悪人を憎む気持ちは制止しがたく、これをあえて止めることはできるものではない」と、事実上の容認宣言を行うのである。公安(警察)は、むしろこの紅衛兵活動に庇護、すべからく情報提供者として側面支援すべき、というぐらいの声明であったとされる。 「文化大革命十年史」この結果、謝らの声明が引き金となり66年8月後半から9月1日。悲劇は、始まった。まさしく、この8月こそが彼ら中国本土で引き起こされた中国人同士による紛れもない「大虐殺」の40周年記念日なのである。大興県各地で、意図的にながされた公安情報(警察の手引きという意味だ)により、その数22世帯、80歳から生後40日みたない嬰児まで325人が撲殺された。その連鎖は、とどまるところを知らず、阿鼻叫喚の黙示録世界さながらに中国各地全国に伝播するところとなり、ついには1529人を数えるまでになる。殺されぬまでも、罪とがなく公衆の面前で引き回され三角棒を頭上に、肉体への脅威、精神への度重なる恫喝で心に異変を来たすまでの拷問が続く。日本における、いわゆる全共闘運動とはこの流儀を「成功事例」として、さっそく模倣踏襲したものに過ぎないとすら自分は、思っている。中華人民共和国における、国内騒擾や内乱鎮圧、そしてそれに連なる虐殺や粛清など尨大な規模である。このような書籍に記録されているような紅衛兵による狼藉など「氷山の一角」に過ぎない。
2006年08月05日
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「制空権を得たものが戦争に勝利する」 という時代になっても、旧来の 「巨艦主義の幻想」 を捨てられず、戦艦大和という無用の長物を、巨費を投じて建造してしまったことに関して、当時、日本海軍の中でさえ、「万里の長城、ピラミッド、戦艦大和は、世界の三大バカ」 と言うものが少なくなかったらしいのだ。確実に迫り来る自分たちの死に、それなりの意義が欲しいと願う青年たちの激論は、艦内で殴り合いの喧嘩にまで発展し、それを収拾したのは、哨戒長臼淵大尉の次のような言葉だったという。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。俺達はその先駆けとなるのだ」あまりにも悲しすぎる意義である。こんな落としどころのない馬鹿話が他にあるだろうか。H17.02.17 世界三大無用の長物としての戦艦大和庄内拓明の「知のヴァーリトゥード」自分は、ニフティーでうろうろしていたらあの庄内拓明氏が、楽天ブログやるというので、どんなものか興味を持って始めたというのがいきさつだ。数ケ月で取り潰しになるという予想で始めたが、いまだに楽天に潰されていないのが奇跡的だという説が多い。以前、ニフティーでフォーラム取り潰しにあって楽天で★★になるかと思いきや、なぜか、15年秋ぐらいから3年ぐらい続いてしまった。もともと一年以内で削除か、潰される予定だったので、むちゃくちゃなスタイルで来たが、いまだに楽天が潰さない理由が分からないという風評が耳に入ってくる。まあ、いま流行りのネット右翼でもないし、左翼経験もないという団塊世代の落ちこぼれ。とりあえず言えば、北米奪還インデオは待つのだ二千年!派の私。その反米愛国趣味による放言ブログにはだから、気持ちに余裕の無い人たちはあまり読みに来ないのかもしれない。ここの処、せいぜい一日300アクセスぐらいの低徊である。しかし、あの太平洋戦争を、お間抜けに負けてしまったのかが先週来不思議でならない。戦艦大和など、どうかんがえてもプラモデル屋を儲けさせるために造ったにしては、国費の蕩尽ぶりは、さしもの社会保険庁もくびを傾げるほどの底なし脱線無駄遣いであった。酒場で、酔っ払って宇宙戦艦ヤマトがなっていた世代が、もう企業社会の中堅なのだろう。アホらしくて話にもならない。奴らの大半は、反米=左翼という図式が、頭の中を巣食っているらしい。これでは、まともにこの国の先行きを占うこともできよう筈がない。少しは、アメリカに本気で勝利するというような大計を謀ってみてはどうか。戦闘機でも、零戦は神格化されているのか、批判的なことを口にすれば袋叩きに遭いかねない。しかし、まさしく零戦開発式プロジェクトがこの戦後にも臆面もなく徘徊しこの日本を今なおアメリカの属国同然の地位に押しとどめているのである。もともとは昭和初期に、欧米に追いつけと独自開発路線を志向し、「航空技術自立計画」として名機九十六式艦上戦闘機を生み出すという流れがあった。ところが、非科学的な海軍上層が、空母搭載可能で、時速500キロを越え、高速化を果たしながら2600キロの航続距離、欧米の戦闘機を上回る格闘戦能力、など矛盾だらけの要望を開発側にぶつけ、現実には1000馬力程度のエンジン開発段階で、ありえないUFOのようなものを要求したのだ。このお間抜けな精神が、あの戦艦大和、武蔵、信濃を世に送り出したのだから、まともな戦争にならないのは想像がつくというものだ。撃墜王、坂井三郎はそんな零戦に250キロ爆弾を搭載して敵艦体当たり攻撃、いわゆる神風攻撃を編み出した海軍の作戦憎んでいたらしい。とても舵が取れるものではなく、攻撃以前に海中に不時着してしまうのが大多数だった。1942年零戦整備にあたった海軍少尉、高仲顕は「エンジン、機銃、無線などの個々の要素技術がお話にならないほどお粗末、率直に言って劣悪な中で、零戦の成功は奇跡的だった」と、述べている。しかし、その奇跡的成功とは初期型モデルに、最大最適化されたものであったために、それぞれの見劣りする要素技術の不備を補うための部分改良は、すべてその名に値せず、まったく改良刷新を拒む、停滞的なプロトタイプだったとの謂いである。つまり、零戦は、所詮原型の二十一型にはじまり終戦に至るまで二十一型に終わるという構造だった。自分が名著「大空のサムライ」(坂井三郎著)を読んで、なにがショックだったと言ってあの零戦の二十ミリ機関砲が、まともに使えたためしがなかったという箇所だ。なんとあの撃墜王坂井三郎の赫々たる戦績は、仰天!非力な7ミリ機銃で実現しているのだという。弾が重くて当たらない。しかも、照準器なども不備で、狙って当るものではなく引き金をひけば全弾命中する距離をつめての戦績だったのだという。そちらの方が、はるか神技のようである。それならば、はずして置けばよかろうに。なんの見栄で使えぬ機関砲が着いていたのか。要するに工業製品としていえば、「最適妥協案」Optimaizationというのだそうだ。なにが胸を張って自慢ができるものであろうか。他ならぬ設計技師、堀越二郎、曽根嘉年らがみな一様に認めていることだ。つまり、組織としての海軍は、もう戦争を始める以前にその指導思想で欧米には遥かに及ばぬところで、ふんぞり返っていたのである。つまり、戦艦大和とは、そのような連中が、つくった世紀の大恥。日本人の恥部のようなモーニュメントだったのではないか。
2006年08月05日
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紅衛兵という凶暴なテロ集団が、中国全土を跋扈していた。まさしく、ビートルズが世界を席捲していたあの60年代である。当初は、毛沢東の私兵としての上からの煽情と謀略的な動員によるものであったが、次第にその暴力の連鎖は、とめどなく。暴力そのものを目的とする暴力の回路を開き、ついに中国全土に虐殺の渦を巻き起こす。昨今、2ちゃんねる右欲諸君が浅い反撃を中共に対して繰り広げているのが愚かしくてならない。靖国神社などというレベルの低い国家神道を擁護しようなどとするから、いつまでもあやつらの正体を捕捉しかねるのだ。自分らの高校時代、校門の前に大阪府警のパトカーが常駐するという事態が、何週間も続いた。いうまでもなく中国で吹き荒れていた紅衛兵運動の火の粉。飛び散り、飛び散って健常な授業など到底成立しない事態が、幾週間も続いた。冒頭の写真は、同じ頃。66年9月、黒龍江省省長であった李範伍が頭髪を刈り上げられ、糾弾をこうむっている映像だ。なんのことはない、当時日本の都市部の公立高校などや国公立大学で同じ風景が、カーボンコピーのように頻発していた。海の向こうのこととしてではなく、極めて身近な出来事だったのである。先年、他界した義弟も当時極左の高校生活動家として、所属する公立高校長を、この李範伍と同様に虐待を実行し、のちにその咎を一身に受けて退校させられている。実のところ、実行犯らはその後ぬくぬくと進学し、サラリーマン社会に溶け込みまんまとしらをきって、まもなく定年を迎えようとしていることだろう。しかし、この国における紅衛兵の亜流らが起こした真似事と中国本土で実行されたそれとは比較にならない熾烈さと残虐さであったことは、ほどなく露呈する。当初、毛沢東らの政権側から仕掛けたクーデターとして始まった「四旧打破」(すなわち旧思想旧文化、旧風俗、旧習慣)などという観念的であいまいなアラ探し、所詮はいいがかりの一方的な申しつけに始まったものが、次第にエスカレート。ついには「四類分子」(地主、富農、反革命分子、悪質分子)という直接攻撃に熾烈さを加味するや、いわゆる造反行為は、単なる一揆的なものから大量虐殺の様相を呈しはじめる。66年8月には、北京南部地域ですでに集団虐殺が始まっている。共産党県党委員会が、すでに統制できる事態になく制止することもなせぬまま、現場へ駆けつけても、暴徒とも暴力集団ともつかぬ、当然無抵抗な農民に対する一方的な暴力行為がくりひろげられて、その凶器は釘つきの棍棒や家畜用のムチなどで、おもに標的となったものは、土地所有権利書等を保有している、などという本来ありえない事由を「隠匿」などとして、狼藉する粗暴なものが大半であった。その攻撃対象は、地方の富裕層にとどまらず疑心暗鬼に陥った、密告などから下層農民ですら攻撃目標となり、果ては老人や子どもに至るまで、財産目録を提示しない、などとの理由で棍棒、鉄棒で殴打されている。子どもの中には指をなくし、ちぎれるまで容赦なく打ち込まれていたという。死体は、累々と積み重なり一部息の残っているものは、なおシャベル等で痛撃をされ、絶命にいたってから屋外に運びだされる。その様を目撃した県党委員会は、のちに「那個年代中的我們(あの年代の我ら)」遠方出版(張連和、者永平編)などに描写している。参照毛沢東に権威づけられ、紅衛兵らの挑む敵は人間の「類」とはみなされず、「牛鬼蛇神」だと蔑まれた。つまり、「人」にあらず、「もののけ」なのだというわけだ。この恐怖は、現場のすさんだ狂気を味わった人間にしか理解できぬだろう。虐殺の現場では、被害者を庇護するものなど、存在しないのだ。庇護するものは、それすなわち「もののけ」なのだから。ほかならぬ、日本でも当時、水の入っていないプールに胴上げされてほりなげられた高校長や、教頭は珍しいことはなかった。寒中に水の中にほりこまれた教職員などは幸いである。しかも、当時の中国共産党中央政治局委員に予定されていたほどの実権者でありながら、国務院公安部長、謝富士などは北京公安局拡大会議において、平然と「撲殺には賛成できないが、人が悪人を憎む気持ちは制止しがたく、これをあえて止めることはできるものではない」と、事実上の容認宣言を行うのである。公安(警察)は、むしろこの紅衛兵活動に庇護、すべからく情報提供者として側面支援すべき、というぐらいの声明であったとされる。 「文化大革命十年史」この結果、謝らの声明が引き金となり66年8月後半から9月1日。悲劇は、始まった。まさしく、この8月こそが彼ら中国本土で引き起こされた中国人同士による紛れもない「大虐殺」の40周年記念日なのである。大興県各地で、意図的にながされた公安情報(警察の手引きという意味だ)により、その数22世帯、80歳から生後40日みたない嬰児まで325人が撲殺された。その連鎖は、とどまるところを知らず、阿鼻叫喚の黙示録世界さながらに中国各地全国に伝播するところとなり、ついには1529人を数えるまでになる。殺されぬまでも、罪とがなく公衆の面前で引き回され三角棒を頭上に、肉体への脅威、精神への度重なる恫喝で心に異変を来たすまでの拷問が続く。日本における、いわゆる全共闘運動とはこの流儀を「成功事例」として、さっそく模倣踏襲したものに過ぎないとすら自分は、思っている。中華人民共和国における、国内騒擾や内乱鎮圧、そしてそれに連なる虐殺や粛清など尨大な規模である。このような書籍に記録されているような紅衛兵による狼藉など「氷山の一角」に過ぎない。
2006年08月04日
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あの911航空機テロが、こともあろうにチェミニー副大統領の謀略的指導の下に実行されたものだ、などという凄い話がアメリカで流れているらしい。私は、謀略史観は大歓迎だ。強者の論理で、メデア垂れ流しのどこがまともなのかとすら思う。むしろ歴史のイフを追う姿勢は、健常なジャーナリズムの萌芽だという気がする。謀略史観に、頭ごと持っていかれているプロ市民たちとは慎重に一線を画しながらテレビ報道や雑誌を斜めにみるスタンスは、これからの時代にはむしろ必要だという風に考えるからだ。アメリカは、個人的には好きな国なのだが国政レベルは、でたらめで卑劣かつ犯罪的な国だと確信している。母親が、殺されかけたから言うのではないが、自分が記憶する物心ついた時代から、今の今まで人殺しの連続ではないか。こんな国が、同盟国だということ自体が、恥かしい。加えて、そんなアメリカに仕掛けられ挑発され、うっかりと過剰反応のあげき雪崩れてしまったあの太平洋戦争で、勝てないまでも負けないという闘いを組み立てられなかった日本という国が、なんとも脳挫傷みたいな国家であり情けないと思うわけだ。しかも、おびただしい犠牲の上に今日の平安が築かれているというのに、勝手に一億総懺悔などと十羽一からげで昨今戦争犠牲者の話題にすらまともに耳を傾けないという風化の仕方が気がかりでならない。そんなこんなで、「自作自演国家アメリカ説」周辺は平和ボケの脳機能改善に最適だと思って、愉しんでいる。9-11の謀略が展開された際、SSは朝の9時03分にDCを地下にある大統領司令室へ連れて行ったと報告されている。1 このことはSSが遅くとも9時03分までに諸々の命令を発することのできる権力中枢の側近に含まれていたことを確証している。後に示すように実際にはもっと早かったことはほとんど確実であるが。かつて対テロリズム・アドバイザーだったリチャード・クラークは著書「すべての敵に対抗して」(Against All Enemies)の中で、「SSはFAAのレーダーで見えるものがすべて自分たちにも見えるようになっているシステムを保有していた」と書いている。キーン委員会(9-11委員会としても知られる)は我々に、9-11の命令系統は複雑なクモの巣のようであったと信じ込ませようとしているが、実際にはSSが大統領と副大統領の命令を空軍の戦闘機パイロットたちに直接伝える権限を有していた。29-11の朝について記録するために空軍によって委託された本「アメリカ上空での空中戦」(Air War Over America)には、以下のように記述されている。FAAはオーティス空軍基地にコンタクトをとり、11便はマンハッタンに進路をとっていたが8時30分までにはその機影の信号が失われたと彼らに知らせた。3 このことはSSがその時刻までには、あるいはそれからほどなく権力中枢にいたことを示している。なぜなら、彼らはFAAのレーダー画面をリアルタイムで見ることができ、FAAは外部の軍と接触しているからである。遅くとも最低8時45分までには、実際はもっと早かっただろうが、SSが決定権のある権力中枢にいたことは間違いない。彼らは11便の自動応答装置(Transponder)が切られた8時15分以降には権力中枢にいた可能性が高い。In my book I make several key points:1. I name Vice President Richard Cheney as the prime suspect in the mass murders of 9/11 and will establish that, not only was he a planner in the attacks, but also that on the day of the attacks he was running a completely separate Command, Control and Communications system which was superceding any orders being issued by the FAA, the Pentagon, or the White House Situation Room;2. I establish conclusively that in May of 2001, by presidential order, Richard Cheney was put in direct command and control of all wargame and field exercise training and scheduling through several agencies, especially FEMA. This also extended to all of the conflicting and overlapping NORAD drills -- some involving hijack simulations -- taking place on that day.3. I demonstrate that the TRIPOD II exercise being set up on Sept. 10th in Manhattan was directly connected to Cheney's role in the above. 4. I also prove conclusively that a number of public officials, at the national and New York City levels, including then-Mayor Rudolph Giuliani, were aware that flight 175 was en route to lower Manhattan for 20 minutes and did nothing to order the evacuation of, or warn the occupants of the South Tower. One military officer was forced to leave his post in the middle of the attacks and place a private call to his brother - who worked at the WTC - warning him to get out. That was because no other part of the system was taking action.5. I also show that the Israeli and British governments acted as partners with the highest levels of the American government to help in the preparation and, very possibly, the actual execution of the attacks.""There is more reason to be afraid of not facing the evidence in this book than of facing what is in it." あの有名な田中宇氏のメールマガジンも毎週のように几帳面に送られてくる。個別に小さな事実関係を当たっていると、今回の一連のアメリカの動きに異様さを感じるのは無理からぬものがあろうと思う。大日本帝国の暗号を、まんまと解読してFBIが駐米大使館に張りついている程の国が、なにしろ平気で真珠湾攻撃を実行させという御国柄なのである。しかも、航空母艦だけはハワイから遠のけて・・・思い起こせば昭和天皇は、1941年11月30日ほかならぬ実弟の高松宮殿下から、帝国海軍が太平洋戦争の損得に自信を抱いておらず、勝てるという確証をなにももっていないのだと耳うちされており、その証拠に開戦前の重臣会議を順延させておられる。また、酷い話だが開戦を決議した御前会議の時点でも、まだ真珠湾攻撃の予定日を軍令部から外務大臣すら知らされていなかったという笑えない話。つまるところ、奇襲攻撃しか緒戦の勝利を演出できないと考えた、永野軍令部総長や伊藤軍令部次長らが、重臣らにも流さなかったと東郷外務大臣が執拗に宣戦布告なしの開戦に猛反対したという。にもかかわらず、その模様すらアメリカが把握していた可能性が高い。2001年10月7日、パキスタンのムシャラフ大統領が、軍の諜報機関であるISI(統合情報局)のマフムード・アーメド局長ら3人の軍首脳を解任した。マフムードが解任された理由は、彼がオマル・シェイク(Umar Sheikh)という男を通じて、911実行犯の主犯格だったとされるモハマド・アッタにテロ資金を送金していたことが、FBIの調べで明らかになったからだった。FBIはインド当局からの情報をもとに、ISIのマフムード長官がアッタへの送金を指示していたことをつかみ、パキスタン側に圧力をかけたという。2003年3月27日 田中 宇 マフムードらの解任自体は、世界中で報じられたが、その理由は多くの記事では「マフムードらがアフガニスタンのタリバンと親密な関係だったから」となっている。私自身も、そういう趣旨で記事を書いた。2003年3月27日 田中 宇 ところが、インドとパキスタンのいくつかの新聞は、解任理由について、はっきりと「マフムード将軍の指示で、911実行犯のアッタに10万ドルが送金されたことが分かった」と書いている。マフムード将軍らを頂点とするISIは、もともと組織的にタリバンを支援しており、タリバンとアルカイダは一心同体であった。つまり、パキスタン当局であるISIは、タリバンを支援していただけでなく、911事件の黒幕でもあったことになる。 2003年3月27日 田中 宇 パキスタンの「カラチ・ニュース」によると、マフムード長官は911事件が起きる一週間前の9月4日からワシントンを訪問し、CIAのテネット長官のほか、国防総省やホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)の要人たちと相次いで会合を持った。マフムードはこのころ、3カ月間に2回、ワシントンを訪問しており、それまでISI長官の訪米はめったになかっただけに、大きな緊急の課題があるのではないか、という憶測がパキスタンの新聞にも載った。 2003年3月27日 田中 宇BBCによると、FBIは911事件が起きるずっと前の1996年ごろから、WAMYがテロリストを支援している可能性があるとして、WAMYとアブドラ・ビンラディンについて調べを進めていた。ところが捜査の結果が出る前に、アメリカ政府の上層部からFBIに対して横槍が入り、捜査は途中で打ち切られてしまった。 2002年1月24日 田中 宇アメリカがタリバンと交渉している間は、FBIがオサマ・ビンラディンやアルカイダに対する捜査を進めないようにさせていた。FBIのテロ捜査の最高責任者だったジョン・オニールは、この措置に抗議して、昨年7月に責任者の座を自ら降りた。 2002年1月24日 田中 宇2001年6月にはドイツの情報機関BNDが911のテロを察知して米当局に通告し、9月の事件発生直前には、イランとロシアの情報機関などが米当局に対して警告を発している。ケイマン諸島では、ラジオ局のリスナー参加型の生放送番組に911の発生を警告する電話がかかってきて放送されたりした。これらの警告を、アメリカ政府の最上層部はすべて無視したのだった。 2002年1月24日 田中 宇被爆の爪あと殺人実験場イラク人は、戦争で死ぬためには生まれてこない捜せるのだろうか7月30日守山空襲
2006年08月04日
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白血病発症率は通常の3倍 投下当日の入市被爆者 原爆投下後、家族を捜す目的などで2週間以内に爆心地付近に入った広島の「入市被爆者」の中で、投下当日の8月6日に入市した男性の白血病発症率が、通常よりも3倍以上高かったことが4日、分かった。鎌田七男・広島大名誉教授が同日、長崎市平野町の長崎原爆資料館で開かれた「原子爆弾後障害研究会」で発表した。 鎌田名誉教授は「白血病発症への放射線の影響を否定できないことが分かった」としており、今後、放射線と別のがんとの関係を解明する鍵となりそうだ。 調査は、一九七〇―九〇年の間に広島大原爆放射線医科学研究所などで診察を受けた、広島への入市被爆の白血病患者百十三人について、入市時期別に検討した。 このうち、六日に入市被爆し発病時広島市に住んでいた男性は十五人だった。全国の白血病発生率を年齢構成別に広島市の人口に当てはめた場合、白血病が起きるのは四・三六人という計算になり、少なくとも三・四四倍高かった。女性も二・六六倍に上った。 また、六日に入市した白血病発症者の染色体には切断などの異常が多いことも判明した。 (長崎新聞2006年6月5日)1983年8月6日(朝日新聞)原爆投下、市民殺りくが目的米学者、極秘文書で確認原子爆弾が広島に投下されてから6日で38年。これについて米最高首脳はこれまで「軍事目的に限定して使った」(トルーマン大統領回顧録)としてきたが、実は「日本への原爆投下の目的は一般市民を大量殺りくすることにあった」とスタンフォード大の米歴史学者が極秘文書で確認、近く出版する本で発表する。また広島、長崎に「米人捕虜がいる」と英国情報部などが警告したのにもかかわらず、米政府はこれを無視したという。(パロアルト<米カリフォルニア州>菊地特派員)スタンフォード大歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は、原子爆弾が日本に投下されたとき、まだ小学生で、辺りの人々が「これで戦争が終わった」と喜んでいるのを記憶している。しかし、スタンフォード大で歴史学を専攻するうち、なぜ人々が原爆投下を単純に受け取っているか、について疑問を持ったという。あのころドイツが降伏し、日本だけが世界を相手に戦っていたのになぜ原爆を使わなければいけなかったか、についてである。この疑問を解明するため米軍事外交文書を研究するうち、“歴史の偽り”を発見したという。同教授が入手した極秘文書によると、1945年7月31日、原爆投下についてスチムソン米陸軍長官を囲んで最高会議が開かれた。その際ノーベル賞学者のE・ロレンス博士(サイクロトロンの発明者)は「科学者としては原爆を直接日本に投下したくない。まず米国の砂漠などで世界の代表者を呼び、公開の場でその威力を見せるべきだ」と主張した。しかし、他のメンバーたちは「もし原爆が不発だったら世界の笑いものになる。ともかく日本へ投下しよう」と主張して決定を見たという。投下地点の選定については、「軍事施設のみという科学者の主張に米軍側が強く反対し、結局、民間人を大量に殺りくすることが決定された」としている。人類初の原爆は“効果半径”約1.8キロ。同教授の入手した米空軍史(部外秘)によれば、「その火の玉を広島の住宅密集地、商業地区に投下せよ」との命令が出ている。投下時間は午前8時15分。「これは工場労働者が仕事を始め、市民の子どもたちが戸外に遊びに出る時間帯。米軍はまさにそこを狙ったのだ」と同教授。しかしトルーマン大統領はその回顧録で「原爆は非戦闘員の婦人、子どもを避けて、軍事基地だけに限定して使った」と書いている。この広島原爆で護送中だった米人捕虜23人が死亡した。この事実は1945年10月9日、国際赤十字が確認したが、米当局は公表を避けているという。同教授によれば、それは、原爆投下の直前、米国は英情報部から「広島に米人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視したからだという。米戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎には米人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電した。しかし投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人の米人捕虜は助かった。同教授はトルーマン大統領の内政、外交政策について研究を続けるうちに、あるときふと、「広島で米兵捕虜も爆死しているのではないか?」という疑問を抱き、政府や軍に当たったが答えは得られなかったという。しかしその後、ワシントンの国立公文書館で「極秘」扱いを解かれた兵士らの「軍歴書」の中に、「ヒロシマで戦死」との記述を見つけ、米兵捕虜被爆死の事実を確認した。とはいえ、軍歴書は、乗機を撃墜され捕虜になって広島で死んだ、としているだけで、それが原爆によるものであることにはまったく触れていない。その遺族らも、被爆死どころか広島で死んだことすらも知らされておらず、日本上空で撃墜され戦死、あるいは戦傷死したものと信じていた。政府が秘密にしていた理由について同教授は「米国民の大半が支持した原爆投下で米兵が殺されていたとなれば、世論は批判にかわり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」といっている。バーンスタイン教授はこれらの新発見を基に近く「核軍縮への道」(仮題)という著書を出版するが、「米外交文書の公開は軍事機密に関しては特に厳しい。1978年に資料要求したものが最近やっと数点入手できたほどだ」と語っている。(注)原爆の投下目標として検討された都市は東京など16都市があり、最後に広島、小倉、長崎の3目標に絞られた。8月9日の第1目標は小倉だったが、天候その他の条件が悪いときは長崎に投下すると決まっていた。
2006年08月03日
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● 戦没者の慰霊 小泉純一郎です。 長かった梅雨もようやく明けて、真夏の青空がひろがる季節になりました。 私は、今年も、8月6日に広島の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に、8月9日には長崎の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列します。 私は、総理大臣に就任以来、毎年必ず、広島と長崎の式典に参列して、原爆の悲劇を二度と繰り返してはならないという思いで、原爆の犠牲となった方々に哀悼の意を表明してまいりました。 そして、毎年6月23日には、衆議院予算委員会に出席のため行けなかった平成15年を除いて沖縄を訪れ、沖縄全戦没者追悼式に参列してまいりました。 戦後60年にあたる平成17年6月には、第二次世界大戦末期、日本側約2万2000人、アメリカ側約6800人が戦死した硫黄島を訪れ、硫黄島戦没者追悼式に出席し、あわせてアメリカ側戦死者のための「将兵の碑」に献花し、激しい戦闘で亡くなった日本とアメリカの兵士たちを追悼しました。(中略) 二度と悲惨な戦争を起こしてはならない、そして、今日の日本の平和と繁栄は、戦没者の方々の尊い犠牲の上に築かれている、この思いは、私の政治家としての原点でもあります。私は、この思いを抱きつつ、今年も広島と長崎の式典に参列し、そして8月15日の全国戦没者追悼式に参列します。やぱり、8月15日の靖国参拝は出来ないんだ。
2006年08月03日
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教育勅語朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ明治二十三年十月三十日 御名御璽朕 惟 フニ我カ皇 祖皇 宗 國 ヲ肇 ムルコト宏 遠 ニ徳 ヲ樹ツルコト深 厚 ナリチンオモうにワがコウソコウソウクニをハジむることコウエンにトクをタつることシンコウなり我カ臣 民 克ク忠 ニ克ク孝 ニ億 兆 心 ヲ一 ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハワがシンミンヨくチュウにヨくコウにオクチョウココロをイツにしてヨヨソのビをナせるは此レ我カ國 體 ノ精 華ニシテ教 育 ノ淵 源 亦 實 ニ此 ニ存 スコれワがコクタイのセイカにしてキョウイクのエンゲンマタジツにココにソンす爾 臣 民 父母ニ孝 ニ兄 弟 ニ友 ニ夫 婦相 和シ朋 友 相 信 シ恭 儉 己 レヲ持シナンジシンミンフボにコウにケイテイにユウにフウフアイワしホウユウアイシンじキョウケンオノれをジし博 愛 衆 ニ及 ホシ學 ヲ修 メ業 ヲ習 ヒ以 テ智能 ヲ啓 發 シ徳 器ヲ成 就 シハクアイシュウにオヨボしガクをオサめギョウをナラいモッてチノウをケイハツしトクキをジョウジュし進 テ公 益 ヲ廣 メ世 務ヲ開 キ常 ニ國 憲 ヲ重 シ國 法 ニ遵 ヒススンでコウエキをヒロめセイムをヒラきツネにコクケンをオモンじコクホウにシタガい一 旦 緩 急 アレハ義勇 公 ニ奉 シ以 テ天 壤 無窮 ノ皇 運 ヲ扶翼 スヘシイッタンカンキュウあればギユウコウにホウじモッてテンジョウムキュウのコウウンをフヨクすべし是 ノ如 キハ獨 リ朕 カ忠 良 ノ臣 民 タルノミナラスカクのゴトきはヒトりチンがチュウリョウのシンミンたるのみならず又 以 テ爾 祖先 ノ遺風 ヲ顯 彰 スルニ足ランマタモッてナンジソセンのイフウをケンショウするにタらん斯ノ道 ハ實 ニ我カ皇 祖皇 宗 ノ遺訓 ニシテ子孫 臣 民 ノ倶 ニ遵 守 スヘキ所コのミチはジツにワがコウソコウソウのイクンにしてシソンシンミンのトモにジュンシュすべきトコロ之 ヲ古今 ニ通 シテ謬 ラス之 ヲ中 外 ニ施 シテ悖 ラスコレをココンにツウじてアヤマらずコレをチュウガイにホドコしてモトらず朕 爾 臣 民 ト倶 ニ拳 々 服 膺 シテ咸 其 徳 ヲ一 ニセンコトヲ庶 幾 フチンナンジシンミンとトモにケンケンフクヨウしてミナソノトクをイツにせんことをコイネガう明治二十三年十月三十日 御 名 御 璽 ギョメイギョジイスラムの教えってなものは、どんなものかとばかりに「コーラン」を読んでいると意外や意外なかなか面白い。どう考えてもまともなことばかり書いてある。それで、ふと気になってわが「教育勅語」たらは、一体どういうんだべさ、と気になってきた。実は、自分らの世代はいきなり教育勅語は悪いもので、眼に触れただけで眼がつぶれるぐらいにあしざまに言われて育った。その流れで、神秘主義はあかん。やっぱりカントや、デカルトや、と教えられてきたように思う。最近、たまゆら1/fさんのお友達のカトマンズ在住の人たちが頑張って異文化の中で逞しく日本人を押し出してくださっているのをまのあたりにして、ちょっとヒンズーやイスラムの教えを勉強してみようと、いう気が湧いてきた。まっさきに驚いたのは、イスラム神秘主義は、自分の気分に、メッチャ重なるところがある。腐れ坊主や聖職者など叩き出して、ただひたすら神の御心と一になり、自分が神の名か、神が自分の名か、とみまごうばかりに修行したらそらあ多分よほどええ世の中になるのんちゃうか、と思うわけだ。その構造を、わが国で相似形に投射するといきなりこの教育勅語の気分は、シャキッっとするところがある。 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。あいだに、合理主義者とか前衛党とかを外しいきなり天皇の赤子で、国民一人一人のといめんが天皇直結だったら。国民は、こんなアメリカの手先の東大法学部星条旗万歳官僚に血を吸われなくても余程居心地のいい日本になるはずだという気分がある。三島由紀夫も、たしか天皇制は歓迎しない、と言っていた。つまり、彼は中世から近代までの天皇制は、さほど宜しくない。特に、宮内庁などがアメリカから皇太子に昭和天皇の懇願とはいえ、クエーカー教の家庭教師をあてがうみたいなしょうもない仕組みを扶助するためにゾロゾロくっついていることを心底不快だ、と言っていた。いまどき、外務省や宮内庁、財務官僚がアメリカの手先だというのは、さすがに小学生でも聡い子は気づいている。もともと宮内庁など取り巻きの役人など本来ならば天皇が、野っ原でいきずれの女性と青姦して、ばかばか子どもをつくっちまうような時代にこそ必要があった職責だろうと思う。一夫一婦制になって、アメリカの手先でしかない宮内庁など、あってもなくてもいいような存在でしかない。天皇家に、おおらかに継承者の子胤が絶えないようにしようと思えば、まず宮内庁や外務省を解体するのが一番だと思う。さっさとスタッフサービスを呼べばよい。ようするに、教育勅語の精神というのはそういう事なのではないか。
2006年08月02日
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自分らの年代は、ほんとうにつまらない視野閉塞な教師らに無理やり振り分けられて面白くなかった。知りたい事は、見事に身銭を切って自学自習するしかなかったように思う。しかも図書が、およそ戦前の代物が大半で、手に入ればまだしも幸運、旧かなづかいで平気で店頭に並んでよしとされていた。文庫本など、岩波と角川ぐらいのものでそれも絶版だらけ。認識には、まず先立つ金を稼がねばならなかった。もっとも、この時代の急変ぶりからすればあの教師たちにも気の毒な面もある。到底常人で予想できるような社会変化でもなかったからだ。今、書店で学生時代に読みたかったが入手不可能だった書物がずらりと壮観で並べ立てられており、この時代のディレッタントが、つくづく羨ましいかぎりだ。教師連中も、たいていが左翼か、はたまた根拠を示さぬ怪しい教壇の「たて社会」がもたらしている言説。教義垂れ流し型が多く、分析力も観察力も、まったく感じられない低レベルなご託宣が大半だったと思う。自分らガキにもわかるようなでたらめを平気で言うのが、真面目くさって教職やっていられた。あれで紛争が起きなければ不思議というものだ。そこをまた、左翼に散々利用されている。とかく、まっとうな認識というほどのものは育成もなされず、健常に芽生えようがなかったのではないか。そんな気がする。ひとつ、思い出すのは神秘主義は、アカンという教師がいたことだ。いや、いたなどというようなものではなく、あれが時代の当然の要請だったのかもしれない。多分誰に質しても良く似た意見だったのだろう。いわく、合理主義が「ええんや」と、いうわけである。神秘主義は、なぜいかんのか。誰も、腑に落ちるような言説を聞いたことがなかった。とにかく、あんなのはいかん、というわけだ。経験的に、神がかりというのは、狐が憑いているのか、犬神がついているのか、よくは分からないがとにかくアカンらしいという気分は、あった。だが、神秘主義と、狐つきとそもそもなんらかの関係があるのだろうか。なんの実証もないのだから笑える。最近、イスラム神秘主義というものは、ちょっと話が違うと思った。アッラーフは全知全能で唯一絶対であり、すべての超越者である。特にイスラム教では、生みも生まれもしない存在とされ、親も子供もいない。兄弟宗教であるユダヤ教やキリスト教では、「唯一神=創造神」と解釈されるが、イスラム教のみは然にあらず。他の一神教との大きな相違点である。 また、アッラーフは目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語るとされている。そして、姿形を持たない、意思のみの存在であるため、絵画や彫像に表す事はできない。イスラム教が偶像崇拝を完全否定しているのも、このためとされている。ようするに、聖職者とか坊主とかがのさばっていることについての強い嫌悪感が神秘主義者にはあるようだ。つまり、神と自分自身のあいだに媒介をするようなサムシングを設けて、ロクなことがないと痛感したイスラム教徒の中に、それならば自分自身だけで神を体感しよう。神と対話をしようという契機を抱いたらしい。それりゃあ、神がかりとは相当違っている。神の名を問いただしたら、名前を聞けた。その名は私の名前だった、というのだから痛快だ。金を巻き上げて、勿体ばかりつけている坊主には、もう騙されないぞという気分がそこにはある。僧院も、寺院も保有しないという。あるのは信仰者たち集まる集会所だけなのだとい。なかなか徹底している。実は、みな知らないのか意識しないだけで合理主義というのは神をたっぷり内部に宿した思想だ。あのデカルト(大陸合理論の祖)の書物をよく読んでみられるといい。彼の著述に、「高邁の心」という言及がある。ようするに自分が言っていることは、正しいのだという神がかりな信仰があるのだ。それがなければ何も始まらない、と他ならぬ合理主義の元祖がそのように言っている。日本人というのは、なぜかお仲間にのりうつる人が多い。その仲間、村、会社、教団に見事に憑依して、狐が憑いているのと大差ないことを平気で人前で言えるようになるのを、好んでいるのではないか。実は、法律などあっても、無くてもいいような社会だ。誰も、法律そのものを信じているわけではない。法治国家などとは、本当は少々違う。この国の実態とは、人治国家というあたりか。
2006年08月01日
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