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天の父なる神様がどのような御方であるかを私たちが知る時に、私たちはより寛容であり、忍耐強くならなければいけないと思えるようになるでしょう。私たちがまだ神様を知らなかった時、知っていつつ背を向けていたとき、また背いていた時でさえ変わらず愛を注ぎ、期待し忍耐しておられる神様、その想いと比べると私たちは短気で自分勝手な振る舞いが多いと反省せざるおえません。しかしだからといってそこで諦めてしまうのでしょうか?私たちは高い目標を知るからこそそれに向かって前進し続けることが出来ます。もし極めたと思ってしまったらその瞬間から前進はありません。登り切った山はあとは下るしかないからです。そうして見ると信仰生活は頂上の見えない登山のようなものかも知れません。しかしその登山は神様と共に歩む楽しいものです。どんな時であっても主と共にいることが出来ることは最高の経験を私たちに与えてくれることでしょう。最高の父であり最高の指導者であり最高のパートナーである御方が傍にいてくれるのです。そしてそんな神様は私たちに仕えるためにイエスキリストとして地上に来て下さり私たちの罪のために十字架にかかって下さいました。そんな神様を私たちはこれからのイースター(復活祭)までの期間どういう想いを持って見上げ、受け止め、共にいることを望むでしょうか?主を少しでも知る者として、神様の思いに応える者でありましょう。
2012.03.29
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コロサイ3章18-25節には夫婦間、また親子、主人と奴隷などの人間関係のあり方について書かれています。妻は主にあるものにふさわしく夫に従うように、そして夫は妻を愛するようにとあります。そして子供たちにはすべてのことにおいて両親に従うように、そして親に向かっては子供を気落ちさせないようにおこらせてはならないとあります。このすべての関係は主に対してするようにお互い仕えあうようにと結ばれていますがどちらかが相手がよくしてくれるからといって甘えてしまったり、また高ぶってしまっては成り立ちません。私たちはどこか無意識に見返りを求めてしやすいものです。ですから人間的によくしてあげてるという意識があると相手が十分に応えてくれていないと感じてしまいいつしか不満を持ってしまいます。主に対してするようにと書かれていると私たちはどういう風に仕えるでしょうか?もちろん最善を尽くそうと努力するでしょう。しかし私たちのそういったかんばりは長続きしないことも多いのではないでしょうか?自分が本当にやりたい分だけ出来ていないとそのうち痛感するようになります。そうするとそれでもどんな時も受け入れていて下さるイエス様の愛にふれることになります。そうすることによって私たちはより相手を尊敬し、遜ることが容易になります。感謝の気持ちが湧いてくるのです。そしてさらにみことばに従って従うことが出来、愛することが出来るように変えられていくのです。主にあって素晴らしい人間関係を築き上げていきたいですね!
2012.03.24
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東北を震災から一年が経過しました。現在でも多くのボランティアによる復興への働きが継続しています。また先日は仙台において希望の祭典が大々的に行われ世界中から多くの人々が東北のために祈りと賛美を献げました。多くの知人がそこに集っていく様子を見聞きする中で復興へと思いを寄せ祈りに覚えました。震災時も多くのクリスチャンボランティアが世の光地の塩として素晴らしい働きと共に現地で被災された方々に希望を与えてる素晴らしい証しも多くあります。その根底にあるのは信仰から来る行動であり、マタイ5:16にあるようにどんな時にも私たちと共にいて助けて下さるイエス様の姿を連想させるものです。信仰とは学問ではありません。私たちの生き方そのものです。もちろん正しい聖書的知識は私たちを成熟へと導いてくれる素晴らしいものです。しかし信仰に基づく行動は私たちの知識を体験にし、信仰をより生かし輝かせ、自分だけのものではなく人々と信仰にある喜び、希望を分かち合う力強いものであり、痛みや涙を覆うあたたかい愛に満ちた品性を生み出す原動力になります。ヤコブ3:2にある通りその過程では私たちは失敗もします。しかし失敗を経験したからこそ、そこからくる思慮深く配慮に満ちたことばを私たちは得ることが出来るのです。日本はまだ多くの痛みを覚えている国です。私たちはその痛みを覆い。主にある希望を示し続けることが出来る存在として、ひとりひとりに与えられているタラント(賜物)を生活の中でも生かしていきましょう。
2012.03.17
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成人式や新年には和服を着た若い方達を多く見かけます。でも自分で着付けを出来る方は少数派ではないでしょうか?でも200年前ならきっとほとんどの方は自分で和服を着ることが出来たと思います。それはそれが当時の当たり前であり文化であったからです。現代で手近な例をあげるとネクタイを自分で何も見ずに締めることが出来るのは普段つけている方か自分でつけた経験がある方です。何も見ずに、教えられずにすぐにネクタイを締めることが出来る人はそうそうおられないでしょう。そういった着付けは最初違和感があるでしょうしなかなかうまくいかないものです。鏡を見る度に形が崩れていないかと見ることでしょう。しかし慣れてしまえば別にどうということはなく、特別に緊張したり意識せずに日常的に行う当たり前のことになります。聖書が教えている心の着付けは神様に愛され、選ばれていることを知り、そして同情心、慈愛、謙遜、柔和を身に付け、忍び合い、赦し合いなさいと教えています。そしてこれらの上に愛を着けるようにと書いています。この愛によって腰に帯を締めるように自分の品性を結ぶことが大切です。帯がなければどんなにきれいな着物を着てもばらけてしまい締まりも何もないでしょう。そしてキリストの平和が心を満たすようにと。形が整うとホッとすることと同じように心の着付けをし、平和に満たされて歩むことが私たちの慌ただしい日常にあっても本当に大切です。エレガントな振る舞いは心を華やかにしてくれます。さらに心にきちんと着付けをして、愛によって結ばれて生活するならばそれはどんなにかステキな空気を運ぶことでしょうか。キリストにあって紳士、淑女でありたいものです。
2012.03.05
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最近フェイスブックのほうが主になってきてブログがちょっとおろそかになってますが元気にしております。地域ではインフルエンザがまだまだ流行しているようでうちの子供達もインフルエンザかと思うくらいの高熱が何日も続いたりしましたがどうにか守られています。感謝
2012.03.04
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