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将来的に様々な不安要素の多い時代。そんな時に新約聖書の黙示録を曲解した終末論などが巷で流行ったりします。確かに大変な事態が起こることは記されています。しかしそれ以上に再臨によって起こる不思議なことや素晴らしいことはあまり表に出てきません。簡単にいうとイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れていることでいつ死んだとしても天国に行けること。また再臨の時まで生きていたら空中で主と会うことが聖書の記しているシンプルな事柄です。シンプルなことをややこしく書いてしまったり、それを避けるためには~と思い巡らしてしまうのが私たちの弱さや理屈っぽいところです。ひとりひとりの誠実な歩みの延長線上にある終末は終わりというよりも永遠のいのちに向かう入り口のようなものかも知れません。大切なことはどこまで信じていたら救われるとか教会にどれくらい行ってたら大丈夫?とかこんな罪を犯したことがあるからダメだろうか?と聖書が語っているシンプルなところから脱線して悩むよりも信じたら信じたらしく歩み、そして失敗しても愛し赦して下さる神様に信頼して前に進むことです。主にあって愛し合い主にあって歩む時に私たちの価値観、人生観は大きく変わります。どういうことをするにしても主にあってすることが大切です。その意識ひとつで私たちがキリストに根ざし、そこから恵みと愛と赦しを受け成長していくことが出来るからです。体験以上に聖書の語っていることを理解できる方法はありません。どんな時にも主を信頼して歩んでいきたいですね!そして今できるベストを尽くしていきましょう!
2012.09.24
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宝くじや賭け事など一攫千金を夢見る人は多いと思います。お金自体はあればあったでそれは喜ばしいことだと思います。またお金があれば出来ることも多いのも確かです。しかし自分で働き、コツコツと生活していくことの大切さを聖書は教えています。それがベースとなるものであり、継続して生きていくためには大事なことだからです。自分で働いてということの中には当時の背景を考えれば自分で水を汲みに行き、自分で作物を育て、また加工調理するという側面も多く含まれていると思います。それはその人自身がお金を払えばなんでも思い通りになるという楽が出来るという面とは逆であり、自分の生活を自分で支えるライフスタイルです。今の時代はお金を払えば衣食住全て簡潔することが出来ます。しかしお金がない場合でも生きていけるバイタリティをどれだけの人が持っているかというとそれはまた別問題になります。いきなり明日からサバイバル生活を強いられることは早々ないと思いますが、自分の生活を堅実に設計し、与えられているものの中からやりくりすることも私たちには大切なことです。消費が拡大していく社会構造になっている現代において自分にとって必要か不必要か見分けることも大切な生活力になると思います。消費を恐れるあまり必要なものまで見えなくなっているケースもあるでしょう。神様に土台を据え、堅実にその人生という家を建てあげていきましょう。
2012.09.22
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クリスチャン生活の中で大事な要素として賛美というものがあります。この賛美ということばは聖書の中に93回用いられており、最初にこのことばが登場するのはアブラハムの息子イサクのために花嫁を捜す旅に出たひとりの僕が主の前にしるしを求めリベカと出会った時に初めて登場します。しかしそれ以前に,まず創世1章は,宇宙的広がりを持った創造の賛歌として書かれています(ヨブ38:4‐7,箴言8:30,31)そこからレビ記で一回、申命記で2回使用され、歴代誌、そして詩編でダビデなどによって多く用いられました。新約聖書では,マリヤ,ザカリヤ,御使いたちの賛歌で始まり(ルカ1,2章),王の王,主の主なる救い主への賛美で終結しています(黙示録19章)また賛美を通して奇跡的な御業が伴うなど賛美が非常に重要な位置を占めています。聖書の中で見ていくと出エジプト15章において戦のために戦勝歌を担当する部隊が編成されていたりダビデの治世においてI歴代6章では賛美専門のグループが形成されています。またイスラエルの賛美の中に住まわれる神様という臨在の溢れるところとして、またタンバリンと踊りでとあるように全身を用いて喜び踊る賛美などが記されています。この賛美は歌とは大きく異なるものです。歌は情景やある出来事に対する心情を表現したものですが、賛美は神様に対しての感謝や礼拝の心、そして喜びや魂からの叫びであり祈りとしての面を強く持ち合わせています。礼拝の心を持って日々の生活の中で賛美し、主の臨在の中を歩む者となりましょう。
2012.09.10
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なにか事件の真相が分かる時に明るみに出るという表現を用います。また逆に不正がそのまま隠されまう時には闇や夜ということばやそれにつながる表現が多様されます。この昼と夜という対照的な表現は昼はいい人だけど夜は悪い人とかそういう人間の二面性を著しています。夜は周りになにかあっても良く分かりませんが昼間はしっかりと見ることができます。私たちはしっかりと物事を見て、そして堅実に歩む必要があります。闇雲に突き進んで傷だらけになるのは非常に痛みを伴います。また闇は私たちを惑わします。自分の中にある苦いものや痛いものを一時的に見えなくしてくれるからです。まるで泥酔している人が分別をなくしているように一時的にすべての責任から解放されたかのような錯覚を与えてくれるかも知れません。そういった自己逃避的な生き方から最近では脱法ハーブ等の乱用でいのちを落とすケースまで出ています。いくら合法であっても間違った使い方をすればいのちを落とす危険は私たちの周りにはいくらでもあります。それを正しく認識し扱ったり、拒否したりする意志を私たちは持たなくてはいけません。自分の人生の責任をしっかりと持ち、昼間のような生き方を堂々とするべきです。後ろめたい生き方には恐れや自暴自棄が伴ってきます。しかし昼間のように堂々と生きる時にそこには自信や恵みが伴います。またそういった生き方から築き上げられる人間関係は本当に素晴らしいものです。目を覚まして主にあって堅く立っていきましょう!
2012.09.03
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