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日々の生活の中に神様を意識し、誠実な歩みが出来る事は素晴らしいことです。私たちの人生には日陰はあるようで実は存在しないからです。すべての自分の人生の出来事には常に3人の証人がいるからです。一人目はまず自分自身、誰にも見られていないかと周りに注意をどれだけ払っても、自分がした良いことも悪いことも自分自身は知っているし真実な証言をすることが出来るでしょう。二人目はサタン(悪霊)です。聖書の中でサタンは訴える者としてモーセの罪を神様の前に訴えました。サタンはとても聖書や罪について熟知しており、合法的に私たちを責め、そして欺きます。3人目は神様です。どんな事も神様の前に隠すことは出来ません。私たちがしようと思う段階や、思いの中で犯す罪や失敗までご存じの御方です。そんな正確無比で絶対的な存在である神様が私たちを愛し、その愛ゆえに私たちを赦し、生かすために十字架と復活があります。そしてそんな偉大な御方が私たちの人生を開き共に歩んで下さるのです。パウロは自分が進むべき道を神様が開いて下さるように願い、祈り、テサロニケの人々に愛を神様が満ちあふれさせて下さるように祈り、永遠へと続く道に向かう自分自身が整えられるように祈りました。彼の地上での歩みは神様と共にあり、そしてそれが永遠へと続いていくものとなることを知っていたのです。生粋のユダヤ人であり、当時最高の師から旧約聖書、律法を学んでいたパウロが出した答えが神様と共に歩むこと、自分の人生に神様をお迎えすることだったのです。私たちも主と共に永遠に歩む者となっていきたいですね!
2012.07.30
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信仰はまず神様との縦の関係をしっかりするところから始まります。キリスト教は特にこの神様と自分の一対一の個人関係を土台として、そこから横の人間関係が始まっていく考えが強いと感じます。それはすべての人間関係の上に聖書的理解から始まるエッセンスを入れてより良いものとするためにまずそれぞれが整えられていくことからはいるのがベストだからかも知れません。ただだからといって行き過ぎた個人主義、自分だけよければほかはどうでもいいという自己中心とは違います。Iテサロニケ3章ではテサロニケの人々を励まし、信仰の不足を補うためにテモテが遣わされていくシーンがあります。私たちはひとりで完全なわけではありません。自分というカラーを神様によってしっかりと見いだしていき、そしてそれを人々とつながっていくことで、パズルのピースをつなげて大きな絵を完成させるようにそれぞれの時代に、また世代に置かれている神様の歴史を形作っていくのです。パズルのピースはひとつひとつ周囲と補い合うように作られています。どれが欠けてもその絵は完成しません。そういった考えを少しだけでも持つことで私たちは独りよがりではなく、自分らしくあること、調和すること、一致することを意識していくことが出来ます。主にあって自分らしく輝き、そしてお互い輝いていける人間関係、さらに神様にあって輝く人生を送っていきたいですね!
2012.07.23
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信仰ゆえの迫害は日本史の中にある天草の乱のような過去のものではなく、今の時代にあっても未だ多くの国々において日常的に根強く残っています。時として多くの犠牲者をも生じてしまっているのが残念ながら現状です。しかしそういった逆風の中にあっても全世界的な視点を持つときに確実に福音が前進していることを知ります。私たちは日本に住んでいると宣教の難しさは痛感しながらも、迫害を体験するというのは希です。しかし試練の中で信仰を落としそうになったり、またかつて持っていたような神様への情熱が薄れていったりすることは体験したことはあるでしょう。そういった逆風が吹いているような時にこそ信仰を見つめ直し、大きく成長出来るチャンスでもあります。また形式よりも本質を見つめることもそういった時にこそ出来るでしょう。信仰によって試練を回避する方法を身に付けようとするのではなく、試練を脱出する方法を見いだすことが出来るようになり、試練を糧に成熟していくことが出来るようにも成り得ます。生活の中であなたはどんな逆風を感じていますか?またその中にどんな可能性を見いだしますか?神様と共にその中を歩めているでしょうか?主はどんな時にも私たちを決して離れないと聖書の中で約束しておられます。それは逆にいうと見放されていると私たちが感じる瞬間があるということです。どんなどしゃ降りでも雲の上には青い空が広がっています。主を信頼して、忍耐し、約束の虹を見いだしていきましょう!
2012.07.16
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身体的成長や内的成長によって私たちの関心は大きく変わっていきます。子供の時に好きだったものでも大人になったら興味がなくなったり、またその逆もあります。そういった個人の移り変わりと時代の中での流行などで様々なものに興味を持ち、またその中でもまれてひとりひとりは成長してきたはずです。また興味を持つことがなくなり無関心になってしまっているケースもあるでしょう。イエス様を信じた時に私たちは永遠の命を与えられると聖書に約束されています。それはキリストと共に歩む命、永遠に続く命です。しかしそれは目に見えたり、常に実感出来るかというとそう感じることもあるし、とてもそう思えないこともあるでしょう。コロサイ3章2節には私たちのいのちがキリストと共に神様のうちに隠されていると書かれています。隠されているということは探し出す必要があるということです。キリストと共に神様のうちにとあるのですからキリストについて、また神様について私たちはもっともっと飢え乾きを持って知ろうとしていく必要があります。そこに私たちが本当に生きて輝くいのちがあるからです。神様を知る時にその愛の大きさを知ることが出来ます。宇宙よりも神様は壮大な御方だからです。キリストを知る時にその恵みと赦しの完全さを知ることが出来ます。そこに私たちの救いの道があり、私たちの生きるべき道があるからです。恵みによって生かされていること、そしてそこに素晴らしい価値があることを私たちはもっともっと知って、神様が愛して止まない自分をもっと好きになる必要があります。そうでなければ私たちは死んだも同然な生き方や否定的な生き方に走ってしまうからです。あなたには素晴らしい価値があると神様は言って下さいます。主の愛の内に、いのちの輝きを求め、そして見いだし続けていきましょう!
2012.07.09
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人生においてなにかやりたいことがあっても様々な事情で出来ていないことが多くあります。実際やりたいことだけをして生きている人というのはほんの一握りかも知れません。しかし私たちの想いというところを見ていくとその人が大切にしていることなどが多くあること発見します。実現不可能に思えるような夢も抱いていること自体がとても素晴らしいことですし、それに向かって今できることをしていたとしたらその人生は本当に輝いていると思います。私たちは日々こうした理想と現実とのギャップの狭間で葛藤したり、時には諦めてしまったりしながら時を過ごしています。そうした時の流れの中で自分の希望や夢が現実になる瞬間を物事の大きさは別として私たちは体験したことがあるはずです。先週のメッセージで愛の反対は無関心であると分かち合いましたが、私たちは自分の夢、希望に対して関心を持ち、そしてそれに注意深く自分の身の回りで起こる事象を結びつけて考え、思い巡らしているでしょうか?この夢と現実のギャップを埋める最高の素材は祈りです。信仰がそこに働く時に多くの可能性をそこに導くことが出来ます。神様から与えられる知恵や人間関係において不可能が可能になる瞬間があります。そして神様は私たちがしたいと願っていることを私たち以上にご存じです。信仰に立って、自分の夢、希望を神様に日々祈り求めましょう。私たちの想像を遙かに超えた形で応えて下さることに期待しましょう。また神様にある自由の中で自然体に歩みましょう。一つの物事に捕らわれ過ぎず主と共に歩む時に見つける過去の夢の実もあります。神様を信頼して、自分に正直にのびのびと歩んでいきましょう!
2012.07.02
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