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出版業界でメシを食う方法(その二十三)話題を地獄の閻魔さんと親しくお付き合いをした後の話へ進めます。倒産劇の当事者なのに、出版社の経営相談や出版社のM&A(企業買収)の相談が私のところに集中しました。その経緯を紹介する前に、ある女性との再会のことを書いておいたほうが、出版業界の裏事情も分かりやすいと思います。今日の話は私の会社の倒産後半年ほどたってからのことです。(ゆりさ~ん! あんたの話だよ。勘弁してよね。出演料は払わないけどね)。ある日、道の真ん中で事業を続けることは出来たのですが、返品在庫を抱えていました。そんな時です。道でバッタリと昔の知り合いの男性と出くわしました。虫プロ(手塚治虫プロダクション)の元営業責任者のKさんです。お茶でも飲もうよと喫茶店に入って、彼の近況を聞きました。虫プロの倒産後、以前から付き合いのあった古書問屋に勤めているそうです。「オレも在庫を抱えて困っているんだ。協力してよ」「いいですよ。昔お世話になったんだし、出来るだけのことをしますよ」デッドストックの在庫を彼の勤める古書問屋に引き取ってもらいました。一週間ほどたって、「集金に来て下さい」と言われて出掛けて行きました。ある再会「もしかしてェー、○○出版に居た○○さんじゃないのーお?」紹介された古書問屋の女社長が叫びました。「そうだけど、会ったことあったっけ?」私は思い出せません。「山崎の娘ですよー、私。 山崎書店って覚えていない?」「エッ、山崎の親父さんの娘さん? じゃあ、ここが山崎書店?」一瞬、その時より二十年ほど前のことを思い出しました。窓もないような、汚いアパートの一室の情景です。今から三十年前の出来事当時私は出版労連の組織担当中央執行委員をやっていました。ある出版社の倒産事件で、労働債権充当分として在庫を確保しました。協定書を交わしたものの、その出版物を現金化しなければなりません。その時、会いに行ったのが「山崎の親父」さんです。「山崎の親父」さんは特価本を仕切っていました。特価本とは、分かりやすく言えば、大量に流出するバッタ本です。「こんなもんだな」。神保町の汚いアパートの一室です。在庫表と見本を見ながら親父さんが数字を示しました。「いやー、彼らの退職金としてせめてこれくらいの金額は……」意外と意外で、すぐに親父さんはこちらの言い値を了解しました。白髪の気難しそうな親父さんです。エッ、いいのって感じです。ニコリともせず、「分かった。いいよ。おい、出してやれ」今から三十年前当時のお金でも百万円以上でした。大金です。あれが、ゆりさんだったんだ出版業界には、表の世界と影の世界がありました。表の世界とは、出版社と出版取次と新刊本屋の世界です。影の世界とは特価ルートと呼ばれる古書の世界です。当時も今も、古書の世界の最大手は八木書店です。この八木書店に対抗していたのが山崎書店でした。八木銀行、山崎銀行と言う人もいました。今では上場する会社も増えてきましたが、出版は水商売と言われてきました。経営が不安定なので、当時は銀行も金を貸さなかったのです。資産は在庫だけです。銀行は担保として認めません。だから特価卸です。在庫を担保に金を貸してくれるのは古書問屋だけです。貸し金が焦げ付けば、担保の在庫を自分のところで捌くのが特価卸です。私が知る限りでも、著名な出版社が日参していました。資金繰りです。特価卸は古書としての値段を崩さないように一括で在庫を抑えます。そんな山崎の親父さんの娘が「ゆりさん」でした。でも当時は知りません。そういえば親父さんのところに女の子がいたなぐらいの記憶です。「エヘ、オレってそんなにカッコ良かったかなー」「あの時、お父さんが骨折していたので私が手伝っていたのよー」「学校休んで行っていたときに、○○さんが来たのよー」「へー、こんなに若い人が。それも名門の○○出版出身だって言うし」「だから覚えていたのよー」二十年も前の私との一瞬の出会いを、彼女は覚えていたのです。聞くと、数年前に山崎書店は倒産したそうです。親父さん、面倒見が良過ぎて、ある出版社の倒産で窮地に陥ったそうです。「しょうがないから私が代表になって新社を興したのよー」正直なところ、そんな昔のことはハッキリとは覚えていません。でもあのとき、汚い事務所に女の子が居たのは覚えていました。この再会がキッカケになって、行動を共にすることが多くなりました。二人であちこちの出版社の倒産劇に出演することになります。今日の日記も長くなってきたので、続きはまた明日。書きづらいんだよね。ゆりさんは時々オレの日記を見てるみたいだし、ついこの前、家賃が払えなかったときに「しょうがないわねー。相変わらずなんだからー」って振り込んでくれたし、それもまだ返していないし、その前にも借金があるし……。まあ、いいか。諦めてるよね、オレの破天荒ぶりは。
Jan 31, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その二十二)昨日の続きで、過去に書いた文章の抜粋を掲載します。これもまた読んで欲しいような読んでもらいたくないようなことなので、小さな文字でこっそりと掲載です。保険の契約書でも旅行や賃貸契約書でも、あまりじっくり読んでもらいたくない事項は小さな文字で印刷されているでしょう? あれと同じです。さらっと読んで忘れてください。倒産、そしてラストチャンス私にとっては、自分の出版社の二度の不渡りによる銀行取引き停止が、ある意味で、自分を取り戻すチャンスとなった。不渡りの原因は取引き先の倒産による連鎖であり、債権者の方たちからは私が不渡りを出して迷惑をかけたにもかかわらず同情の言葉さえもらった。しかし私は、自社の倒産の原因を、取引き先の倒産による連鎖倒産だなどと思ってはいない。事実そうではなかった。またそのように自分を誤魔化してしまえば、債権者の人たちに対しても無責任であり、自分に対しても甘過ぎる。本当の倒産の原因は、無謀にも事業拡大に突っ走り、日本型ともいえる借入れ金依存型経営に陥ったことにある。その必然の結果として、借入れ金も膨らみ、資金繰りに追われる日々を迎え、当然のごとく信用不安のある取引き先にも販路を広げて、これまた当然のように回収不能に陥ったに過ぎない。もう一つ恥を忍んで告白すると、その後一年ほどで、私の経営していたもう一つの会社も倒産させてしまった。一刻も早く本体である出版社を立て直したいと焦ったのが原因である。事業継続のための糧として商品仕入れに子会社を使い、この程度ならいいだろうと甘さを残したまま事業を続けた結果である。商品仕入れのための買掛け金も、借金と何ら変わりがない。周りの債権者が同情的だったことに甘えた結果が、再び倒産を招く原因となった。当時の関係者の叱責を覚悟の上で告白すると、金持ちは金を貸さない。安定した企業ほど不安定な企業と付き合わないのだ。『類は類を呼ぶ』のたとえどおり、青息吐息で事業再建に努力していた私に、再び仕事で協力してくれた企業は、小さなところが多かった。力がないのに無理をして協力してくれるものだから、その会社の資金繰りも悪化する。せめて手形でもあれば助かるのだがと泣き付かれれば、その原因が自分だけに断れなくなる。焦るものだから、仕事のほうも失敗続きだった。弱り目に祟り目で、ジタバタと喘いでいると、うろんな人物も寄ってくる。この時期の失敗談だけで本一冊にもなりそうだ。親切すぎるサギ師たち焦りは禁物と言うけれど、私が経営する出版社の倒産からもう一つの子会社の倒産までのほぼ一年間の失敗を思い出すと、自分でも「なんであの時?」と思うようなことを次々としでかしている。精神的にも完全に不安定になっていたのだろう。予想もしていなかった差押えが入って、入金がすべてストップするなどのアクシデントもあったのだが、それ以上に失敗が相次いだ。「大変ですね。でも社長なら立ち直れるよ。及ばずながら協力させて頂きますよ」と、近寄ってきた人たちがいる。「社長は企画力と営業力があるんだから、商品は私が引っ張ってきますよ」。前述のA理工の紹介が多かった。A理工の元社長から、「迷惑をかけた穴埋めに」とビデオ業者を次々と紹介された。あまり売れそうもない商品だ、とは思うもののほかに売る商品を仕入れる力もない。徐々に彼らからの仕入れ商品が増えてきた。そのうちに、「こんどの商品は売れセンだよ。でも手形でも切ってもらわないと仕入れがきつい」と言い始めた。「不渡りを出したのだから、そんなの無いよ」と言っても、「本体の会社は無理でも、俺の方で子会社の当座が開設できるようにしてあげるよ。すぐ手形帳も出させるから」と手際が良い。倒産した会社の関連会社が、それも代表者が同じで、一年も経っていないのに、そんなこと出来るのかと思っているうちに、H信用金庫から電話がかかってきた。「ご用意してありますので、必要書類を持って来てください」。キツネにつままれたような気分だが、商品仕入れのためにはやむを得ないだろうと当座を開設した。最初に引っかかったのは、P社というところだった。私の事務所へ来る時は、いかにも高そうな紀ノ国屋の包装紙に包まれた大粒のイチゴを持って現われた。「いやあ、皆さんご苦労様です。頑張りましょうね」。ニコニコしながらみんなに挨拶していたのだが、何度かの取引きの後、仕入れ代金の内金として渡した百九十万円の手形を持ったまま消えてしまった。自宅を突き止め、東大和というところまで尋ねて行ったのだが、奥さんが、むずかる赤ん坊を抱いて現われた。「またうちの人が何かやったのでしょうか。毎日、街金の人が尋ねて来るものだから、あの人、家に寄りつかないんです。一日に一度は電話はかかってくるのですが」赤ん坊の泣き声を背に、立ち去るしかなかった。奥さんには「いえ、近くへ来たものですから、居るかなと思って立ち寄っただけです」としか言いようがなかった。次に引っかかった件は、本当に腹立たしかった。売上げ伝票を見ていて気がついたのだが、スキー関係の二点のビデオの返品が異常に多い。出版流通ルートでは委託販売が基本なので返品は避けられないのだが、それにしても余りにも多すぎる。返品率が六百パーセントにもなっている。いくら何でもそんな馬鹿げたことが起こるわけがない。五百本ほどしか出荷していないのに三千本近い返品が返ってきたのだ。倉庫へ出向いて商品をチェックすると、ビデオジャケットの色がわずかに違う。海賊版だった。手立てをつくして販売していたところを付き止めた。全国でも一、二を争う大手のコンビニエンスストアで売られていたのだ。コンビニエンスストアの本部へ出向き、抗議と事情徴収をおこなったのだが、「うちは雑貨の卸問屋から仕入れたので一切責任がない。契約書もこのように整っている」次に卸問屋へ訪ねて行くと、コンビニエンスストアと同じような答えが返ってきた。しかし、そこで見せられた契約書の署名を見てショックを受けた。なんと私の会社の倒産の原因となった、前述のA理工の元社長の名前がそこにあったのだ。本人に連絡すると、「アレ、ばれた? ゴメン、金が無くってサア。でも儲かったら、社長のところへ版権使用料をもっていこうと思ってたんだ」。あっけらかんとしたものだ。返品の分はほかの売上げと相殺されるので、結局一千万円近い損害を被ってしまった。「損害の分だけでも穴埋めしてくれ」と言い続けたが、いまだにそのままになっている。ほかにも金額はそれほど大きくはないのだが、情けなくなるほど引っかかった。そのような『サギ師たち』に共通していることだが、最初はダマす気はない。あるいは、自分は相手のために良かれと思って仕事を紹介しているのだと、まず自分に言い聞かせてから話を振ってくる。誰しも「ダマそう」として寄ってくる人間には、態度にそれとはなしに表れるので、警戒心が働く。生まれつきのサギ師、天才的なサギ師は、自分をダマしてから近寄ってくる。その上で、最後になってからドンデン返しとなる。「ゴメン。仕方なかったんだ」という言い訳を何度聞かされたことか。「ダマすなら、アブク銭を持っている相手から取れよ」と言いたくもなるが、ハゲタカと同じで、弱っている人間の匂いを嗅ぎ付けて寄ってくる。ダマし盗られた分を取り返そうとすると、また引っかかる。焦って、心に隙間を作ることほど危険なことはない。今では、取り返すことを考えるより、彼らには近づかないようにしている。わざわざエサを、キツネの口の近くまで持っていくこともないだろう。
Jan 30, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その二十一)【初めて私のブログをご覧になる方へ】今日の話は内輪話です。今日の分だけ読んでも面白くもなんともありません。明日からまた元気に日記を書きますので、後日のご来訪をお待ちしています。後の話へ続けるために私のとんでもない失敗も書かざるを得ません。でも人間って、厭な思い出は自然と忘れようとするみたいです。事業に躓いたあと、自戒の意味を込めて書いた文章があります。『負けてたまるか -倒産そしてラストチャンスー』と称して書きました。その中から、倒産時の直後の経緯の分だけを掲載します。読んで欲しいような、読んでもらいたくないような複雑な気持ちです。だから小さな文字で、そのまま掲載しました。倒産へのプロローグ誰も電話に出ない。ほんの一時間ほど前には通じたのに、電話のベルが鳴り続けている。今日は六月五日、午後四時を回ったところだ。「仕手決済の資金が足りない。少しでも何とかなりませんか」と、電話をもらったのが正午前。「俺のほうも余裕がないよ」と答えると、「ほかを当ってみます」と電話が切れた。三時頃に電話を入れた時には、「社長はただ今銀行のほうへ出向いております」と事務員が答えてくれたのだが。「ちょっと出かけてくる」と声をかけ、クルマに飛び乗った。事務所のドアには鍵がかかっていない。ノックもせずに足を踏み入れると、応接セットにA理工の社長と幹部社員四人が座っていた。「社長。やっちゃったよ」。A理工の社長が上目使いに私を見上げて、テレ笑いを浮かべながらつぶやいた。「そうか」と答えるのが精一杯で、私もソファーに腰を降ろし、しばらくは灰皿の上のタバコが白い灰へと変わっていくのを見つめていた。A理工と取引きを初めてまだ二年にも満たない。それなのに、アッという間に抜き差しならない状況にまで陥ってしまった。最初にA理工の社長が、別のA社の名刺を持って現われたのは夕暮れ時だった。「御社のビデオの評判が良いので、ぜひ私の会社でも売らせて欲しいのですが」「御社では書店さんで売っておられるようですが、レコード店やビデオの専門店のほうが売れますよ」「書店以外の販路は、ぜひ私どもにお任せ下さい」私の会社が、書籍中心の出版物からビデオ部門へ事業を拡大してから三年が経緯していた。スキーなどの実用ビデオを始め、その後に手掛けたディスコダンスのハウツービデオの売り上げも伸び、レコード店など、書店以外のお店からも問い合わせが急に増えてきた時期であり、A社に販売依頼をすることになった。毎月売上げが伸びてきた。「私どものメインの仕事は、A理工でやっているビデオのダビングなんです」「こちらが私の本体の会社なもんですから、ぜひ仕事を出して頂けないでしょうか」ギブアンドテイクだとの申し出に、「それなりの売上げを上げてもらっているのだから」とA理工へ発注することにした。そのうちに、「社長のところの売上げがどんどん伸びるものだから、集金が追いつきません。支払いを手形払いに代えてもらえませんか」と頼んできた。ビデオ売上は、A社より私の会社へ支払われるが、最初は翌月に現金払いだったのが、三カ月サイトの手形になり、さらには四カ月サイトにまで延びることになってしまった。一方で、ビデオのダビング代は私の会社からA理工へ支払うが、当初から手形払いだったものだから、相手の社名は違っても、相互に手形を切りあうことになる。まるで融通手形と変わらないような状況になってきた。できるだけ相殺勘定にしようとするのだが、ズルズルと拡大するはめになる。もうこれが限界だと思ったところで、案の定、先方が倒産してしまった。「A理工はともかく、A社だけでも生き残れないんですか」「相互保証しているので駄目ですよ。すべてがパアです」期待もしていなかったのだが、予想どおりの返事が返ってきた。今日は金曜日、私の会社の仕手決済日は毎月十日なので、土・日を含んで五日しかない。今月の決済資金はA社の手形を割り引いて充当する予定だった。当面の決済資金が不足するだけでなく、今まで割り引いた分のA社の手形買戻しもある。「終わった」としか思えなかった。「あんた、何てことしてくれたんだ」倒産のドサクサの時に何があったのか、記憶に霞がかかっているようだ。周りの風景さえ映画のスクリーンを見ているようだった。世間から取り残され、一人雑踏の中に立ちすくんで、最後の審判を待っていた。それでもいくつか鮮明に記憶に残っている出来事がある。取引き先の破綻を知った直後、私が独立する前に働いていた出版社の会長に電話を入れた。ほぼ一カ月前、会長の紹介と保証によって、信用組合からの借入れをおこなったばかりだった。まだ一回目の返済もおこなっていない。「すみません。不渡りを出すことになってしまいました。申し訳ありません」。他に何を説明したのか覚えていない。「仕事は続けたいの?」「可能なら続けたいと思っています。そうでないとほとんど返せません」「事業の継続が出来るかどうかは、債権者の中で中心になる人がいるかどうかですよ」最後にこのような会話があったのを、かすかに覚えている。手形決済日まで後四日しかない。何はともあれ取引き先へ謝罪に回り始めた。そのうちの一社、印刷をお願いしている印刷会社へ出向いた時のことである。そこそこの規模の会社なので、いつもは課長さん程度にしか会ったことがない。社長さんにお会いしたいというと、取引き先が挨拶に見えた程度に思われたのだろう、ニコニコして社長が現われた。「実は、」と話を切り出すと、「あんた、何てことしてくれたんだ」と大声で一喝された。他の役員も呼ばれて、その場で社長に一気にまくし立てられる仕儀になった。「ウチは信用を第一にしている。受け取り手形が不渡りになるということは、ウチの信用そのものが傷つけられたことになる」私はただただ小さくなって頭を下げるしかない。ひと通りの話が終わってから、「あなたの釈明も聞きましょう」と矛先を向けられた。経過を説明し始めてまもなく、「エッ、まだ不渡りを出していないの!」こちらの説明がしどろもどろだったせいで、不渡りを出したので謝りに来たと思ったらしい。どうせ二日後に不渡りを出すので同じようなものだが、事前に報告に伺ったことで少しは気持ちが和らいだようだ。他の役員を退席させて、親身になって話を聞いていただいた。「事業継続できるかどうかは債権者の中で中心になる人がいるかどうかだ」との話を報告すると、「私も手を貸しますが、業界で知られている人のほうがいいですね」。他にどのような債権者がいるのか尋ねられた。私の会社が利用している物流会社の社長を、老舗の有名な出版社の社長が兼務しておられた。「あの人も苦労人だと聞いています。相談したほうがいいですね。必要なら僕も動きます」と言っていただいた。倒産したおかげで、日頃はお目にかかることもほとんどない、各社の社長さんに会う機会が、山のように押し寄せてきた。「辞めたほうがいい。再建するって大変なことなんだよ」老舗の大手出版社の社長さんに会っていただいた。ほかの債権者のところも回った後だったので、冷静さも出てきていた。同時に何としても事業継続を図り、再建したいという意欲も増していた。「倒産企業を立て直すなんて、いかに大変かは経験した者でなければわからない。悪いことは言わない。あきらめたほうがいい」「よほど有利な条件が整っていないと、再建なんて出来るものではない」大手の老舗出版社を立て直した人物だけに実感がこもっている。「再建を断念して、まだ若いんだから、一からやり直したほうがいいですよ」「負債を抱えて走ることは並大抵のことじゃないですよ」など、るる説得が続いた。経営者団体や作家さんたちの協会の会合など、予定がいろいろと入っていたそうだが、次々とキャンセルしながら長時間にわたって話を聞いていただいた。最後に、「わかりました。あなたなら出来るかもしれない。どこまで協力出来るかわかりませんが、僕で出来ることならやりましょう」と言っていただいた。その後、二度にわたって債権者集会を開くことになるのだが、債権者集会のまとめ役として前述の印刷会社の社長やこの大手出版社の社長などに、まさに負んぶに抱っこで助けていただいた。商品の卸し先、出版物の問屋であるトーハン・日販といった出版取次にも、これらの社長さんたちにご足労いただくことになる。顔触れが顔触れだけに、窓口担当者は大慌てで上司のところへすっ飛んでゆく。すぐに役員応接室に案内してくれ、役員を始め、部課長が勢揃いとなる。高齢で貫禄のある人たちに挟まれ、小さくなって座っている自分の姿を思い出すたびに恥ずかしくなる。最後の審判を待つような心境でもあったのだが。このこと以降、再建という難行苦行が始まった。失敗もこの倒産事件を最後にしたかったが、また繰り返すことになる。お世話になった人には申し訳ないが、出来の悪い子供は、何度も周りに迷惑をかけ、何度も叱られることによってしか成長しないようだ。ハイエナ銀行とポカポカ信金これも、不渡りを出す直前の話だ。私の会社はメインバンクをA銀行にしていた。A銀行へ事前の報告に行った。二日後に一度目の不渡りを出すと言った瞬間から行員の態度が一変した。中座してはまた現われて、次々と上司を連れてくる。幾度も説明を繰り返すのだが一向にらちがあかない。そのうちに、債権譲渡書なる文章を持ち出してきた。『期限の利益』を喪失するので、売掛け債権を借入れ金弁済に充当するために譲渡しろと言うのだ。ほかにも債権者がいるのに、そんなことは出来ない。ましてA銀行からの借入れ残の一億数千万円のほとんどに保証協会の保証や両親の家の担保が付いている。第一、まだ不渡りは出していない。期限の利益の喪失はこれからなのだ。印鑑はすべて持ってはいたが、これだけは絶対出来ない、他の債権者に言い訳が出来ないと言い張った。時間は刻々と過ぎていく。他にも説明に回らなければならない債権者もある。「社長のお父さんは、私どもの先輩ですよね。事業を再開するときには協力しますよ」言葉は優しいが、ともかく判を押せの一点張りである。私は、印鑑をテーブルの上に置き、「勝手に押すのはあなた方の自由です。でも私は、銀行の方が勝手に押したと主張しますよ」と開き直った。六時間以上が経過し、すでに午後の十一時を過ぎている。いつでも席を立つことは出来たのだが、態のいい軟禁状態だ。先方もさすがにこれではマズイと思ったのだろう。「それでは後日、改めてご相談しましょう」との一言で話は終わった。行員もほとんど退社している。最寄りの駅まで歩いて電車に乗ったところで、たしか『次席』とか言う名刺をもらった行員に出くわした。「社長、大変ですね」「私の立場では言えないですが、あれで良かったんですよ」と言葉をかけながら途中の駅で降りて行った。
Jan 29, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その二十)さて、そろそろ私の日記も地獄の閻魔さんにお目にかかる段階に近づいてきました。でもその話の前に閑話休題です。実は昨日、今度の私の本の見本が届きました。真っ赤な本二冊です。自分でデザインしたので表紙はイマイチです。私にはデザイン能力はありません。最初から分かってやっているんですけどね。時代の風を受け止めたい少し話が遡ります。自分の会社を始めたころの話です。ブックレットシリーズと名付けたスキーの本のデザインを考えていました。何かヒントはないかと本屋さんのスキー書コーナーをウロウロしていました。「そうか! 赤と白しかないんだ」スキー書のカバーの色合いです。オーストリースキーの影響で、かの国の国旗の色の本ばかりです。「じゃー、この赤と白をバックにすると何色が目立つかな」真っ黒なスキーの本を次々と作りました。スキー書なのに黒が基調です。目立ちました。スキー書コーナーの一角に黒い本の山です。本のカバーの色には流行があります。他の出版社は流行色を取り入れてデザインしています。私は常に、その年の流行色を背景にすると何が目立つかを考えました。流行には敏感になったたぶん今年はパステルカラーが流行りそうだと思えば原色を使います。流行を読むけれど、やることは逆を狙いました。デザイナーには散々文句を言われましたが目論見は当たったと思います。昨日の日記に書いたディスコダンスの流行。その前の本邦初のスノーボードビデオと本。ビデオの普及にいち早く乗ったスキービデオ。マウンテンバイクやパラグライダーの本も常に先陣を切りました。私をダンスブームの仕掛け人という人もいますが、流行に乗っただけです。実はその前にビリヤードブームがありました。いわゆるポケットビリヤード、ローテーションと呼ばれるゲームです。それまでは四つ玉と呼ばれるゲームがビリヤードの主流でした。プールバーと呼ばれる飲みながらビリヤードを楽しむ空間の登場です。本の形にまとめただけなんだけどプールバーの仕掛け人は、ある建設会社の社長ですオシャレ感覚を取り入れて、次々とプールバーを作りました。このプールバー、一時間、二時間待つのは当り前でした。またこの待っている時間が楽しいのです。お酒を飲みながらの観戦です。サーフィンは波を待ち、パラグライダーは天気を待ちます。期待しながら待つことの中にも遊びの大切な要素が含まれています。永岡書店という出版社からプールバーの本を作って欲しいと依頼が来ました。例によって二つ返事でOKです。当てなんてもちろんありません。おまけに、いくら探してもポケットビリヤードの本なんてありません。ビリヤードにはプロがいます。でもその当時は四つ玉だけです。それまで、ポケットビリヤードは、日本では商売にならなかったのです。「ビリヤードには変わりないんだろ」と四つ玉のプロを見つけてきました。しょうがない、オレが書くか……さすがにプロです。ポケットビリヤードでも軽々とこなしました。ところが文章は丸っきり書けません。しょうがないので、ともかく写真だけは押さえました。こうなれば一つひとつ聞きながら私が書くしか方法はありません。やっちゃいました。ビリヤードをやったことのない人間が書いたのです。これが飛ぶように売れました。続編も頼まれて仕上げました。「家を建てることが出来ました」著者の先生。ビリヤードのプロの人は感謝感激です。それくらいの印税が入ったそうです。でも書いたのは私です。私が手にしたのは編集費の百万円だけです。まー、いいですけどね。一瞬ですが私のビリヤードの腕もプロ並です。でも本が出来上がると、すべて忘れてしまいました。そうそう私が書いたこの二冊の本がそのあと出た本の基礎になったようです。私の表現方法がほとんどのビリヤードの本で使われていました。ちょっぴり気分のいいものです。自己満足だけですけどね。編集者の悲しい性(さが)なんでしょうかいつもそうなんですよ。マージャンの本を作るときも連戦連勝です。でも本が出来上がった後は、連戦連敗です。点数も数えられません。何をやらしても一夜漬け。戦が終われば頭は空っぽです。後日書きますが地獄の底から這い上がるために芸能本を手掛けました。でも芸能関係なんて、もともと興味はありません。歌手の名前も知りません。すべて一夜漬けの耳学問です。それでも本は売れてしまいます。やはり地獄の底で、アダルトビデオを次々と作ったこともあります。ビニ本も数多く手掛けました。節操なくありとあらゆるものを手掛けました。でも率直なところ見ても気持ち悪いだけでした。それなのにそこそこ売れます。大御所と呼ばれる大物演歌歌手の自伝も書きました。ゴーストライターです。でも一度も本人に会わず、取材なしで書き上げてしまいました。必要項目を書き出して、別の人間にテープ取材をさせただけです。疲れました。隠居と称したのもそのためです書くときはいつも本人に成りきります。女性の著者のゴーストもやりました。そのときは完全に女性に成りきっています。もちろん文章は女性言葉です。以前日記に書いた韓国の金大中元大統領の自伝をまとめたときも同じです。涙でグショグショになりながら獄中記や奥さんの死を書いていました。常に本人に成りきって書く。実用書でも自伝やエッセイでも同じです。不思議と成りきれるものなのです、当の本人に。実用書はともかく、文芸書や一般書まで書き始めたのはこの十年ぐらいです。そのことをご紹介する前に地獄の閻魔さんと出会った件を書かざるを得ません。十年ちょっと前のことですが、さてさて、どこまで書いていいものやら。つづく
Jan 28, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十九)見事な二日酔いで日記を書いています。行きつけの赤提灯で隣り合わせたお二人さん。秋田から出張で両国のホテルにお泊りの経営コンサルタントさんでした。ぜひご一緒にと次の店へ。そこで私はダウンです。お二人はもう一軒と出掛けて行きました。参った。秋田の人は酒に強過ぎます。そういえばテレビ番組も作っていた衛星放送WOWOWのスキー教室の番組です。こちらもタイアップです。制作費をWOWOWで出してもらって、出来上がった映像をビデオ化です。WOWOWは番組制作費を軽減でき、私の会社は安く商品が出来ます。初年度はヨーロッパで撮影して、翌年はカナダで撮影しました。ビデオとしてはそれほどヒットしなかったものの信用力は付きました。何しろ衛星放送のテレビ番組まで作っているのです。そんな時です。昨日の日記に書いた暖冬がやって来たのは。ビデオは嵩張ります。吹き抜けの大きな格納庫のような倉庫に山積みです。はしごを架けても登れないほどの返品の山です。翌年まで持ちこたえられるだけの資金はありません。一方で倉庫代はうなぎ上りに増え続けて行きました。「ディスコのダンスって決まったステップがあるんだっけ?」何にも知らずに作ってしまった「マハラジャってディスコ、行ったことがありますか?」「ラップって知っています?」「DJって分かりますよね?」「じゃあ、ヒップホップって聞いたことがありますか?」何も知りません。ディスコなんて行ったこともありません。「オレは知らないよ。でも面白いって聞いたんだ。作ろうよ」ようやくビートたけしのダンス甲子園が始まった頃です。スタッフを掻き集め、出演者を決めて一気に撮影開始です。「ディスコのステップAtoZ」「ISDステップカタログ」次々とビデオを作りました。これがバカ当りです。静岡でダンス甲子園の予選会があったそうです。「おまえらなー、このビデオでも見て少しは勉強してこいよ」参加者の下手さ加減に頭に来たビートたけしが叫んだそうです。「どうなっているんでしょうか?」って聞かれても静岡の本屋さんから電話が入って来ました。「ダンスビデオ各20本至急出荷して下さい」一時間もしないうちに、「すみません。各50本にしてください」翌日になって、「追加でまた各50本お願いします」定価3800円のビデオです。高額商品です。中学生ぐらいの子供たちが押し寄せ、その本屋さん大騒ぎだそうです。「何がどうなっているんでしょうか?」聞かれても答えようがありません。その本屋さん以外からも注文殺到です。スキーのビデオをどんどん潰してダンスビデオに吹き替えました。このビデオにもマニュアルブックを付けていました。わずか64頁の小冊子です。これがディスコのバイブルになりました。よし次はブレイククダンスだオリコンのヒットチャートのビデオ部門上位独占です。レコード会社やビデオ会社の名前の上に出版社名が並んでいます。私の会社です。そのとき初めてヒットチャートの存在を知りました。映画「ブレイクダンス」の出演者が日本に来ていると聞きました。このときには私の映像製作会社も立ち上げていました。「やろうよ、それ」と例によって調子に乗ってしまう私です。こちらも発売直後からオリコンのヒットチャートを独占しました。売上げはどんどん伸びていきます。売上げだけは……。出発点はスキービデオの大量返品です。銀行借入れも増えていきました。つづくそれにしても凄まじい二日酔いです。パソコンの画面がはっきりと見えません。頭ズキズキ、気持ちも悪い。ここまで一気に書き上げましたが後で見直さないとダメかもしれない。すみません。酔っ払いの日記です。途中ですがもう一度横になります。
Jan 27, 2005
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Jan 26, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十七)自分の出版社を作った後、本を売る方法もいろいろと発案しました。今日の話は今から15年以上前に出版業界で始めてFAXによる販売促進を行ったことの自慢話です。今では当然のことのようになりました。旧友現る「ワシ、いま東京におるねん。どや、儲かってるか?」小学校の時からの無二の親友、勝ちゃんから電話が架かってきました。東京支社の視察に来ていたようです。大きな会社の社長です。彼ほど波乱万丈な人生を送ってきた男もいません。小学校の時代、父親の会社の倒産で一家は夜逃げしました。でも彼は、夜逃げ先からこっそりと元の小学校へ通っていました。「友だちと別れとうないねん。大丈夫、ワシ、はしこいから」「捕まらへん。ワシ、そんなアホやない」こっそり小学校に現れては、いずこへともなく消えて行きます。「腹減ったー、おばちゃん、何か食わして-な」私が居なくても、私の家でちゃっかりと食事をしていきます。「あの子はいい子や。何をしでかしても憎めへん」勝ちゃんの境遇に同情していた私の母の口ぐせでした。「おっちゃん、おばちゃん。ワシなー」「いつか、座布団のようなビフテキを食うたるねん」いつも話題を提供しては帰って行きました。そんな月日も足早に過ぎ、小学校の卒業式です。「もう○ちゃんとも会えへんなー」、涙ながらに去っていきました。お前、なんでここにおるねん私は、中学校は越境入学です。大阪市内の中学校です。私が余りガラの良くない連中と付き合っていたので両親が決めました。同じ中学校に行かせたくなかったのです。中学校の入学式の当日です。遠く離れた新しい学校に、知っている友達はいません。そのはずでした。「○ちゃん、○ちゃんやんかー」「何でここにおるねん」わずか二週間ほど前に涙ながらに別れた勝ちゃんです。私と同じ制服と制帽です。八起商会偶然も偶然。彼の一家の夜逃げ先はこの町だったのです。中学時代も、私はケンカばかりしていました。不良グループともろにぶつかるのです。いつも止めに入るのが勝ちゃんです。小学校時代と同じです。彼らも勝ちゃんには一目置いていました。勝ちゃんの口のうまさは天性のようでした。高校を卒業して働き始めた彼に、社会の荒波が押し寄せます。学歴もない彼は、様々な商売を転々としたようです。会うたびに仕事が変わっていました。そのころ私はすでに東京です。彼の汚くて小さな事務所には「八起商会」と貼られていました。「ワシ、七回転んだからな。今度は八起き目や」相変わらず屈託のない彼が居ました。そして500人以上を抱える会社を興した「アホみたいに儲かるわー」「今度は札幌と仙台に支社を作るんや」まさしく晴天の霹靂、男子一日会わざればの言葉どおりです。大会社の社長になった勝ちゃんが現れました。「電話転送機」です。彼が開発させた商品がバカ当りです。同じ時期、東京ではチェスコムという会社が同じ機械を開発しました。大阪ではリレーフォンシステム。勝ちゃんの会社です。「かみさんがハラボテになったんや」「ほかに事務員おらへん」「自宅で電話が受けられるように電電公社へ行ったんや」「そんなんムリや言いやがるねん」「ほなら自分で作ったろおもてん」「大学の研究室におった友だちに、ちょこちょこと作らしてん」「でもな、後でこれいける思て特許取ろ思たらダメやねん」「電電法違反やて」「民間は電話転送はあかん言うねん」「でも調べたら、罰則規定があらへん」「ほんでやったろ思てん」この電話転送機は売れに売れました。東京のチェスコムは個人ユーザーを追いかけ、リレーフォンは企業です。勝ちゃんの勝ちゃんたるゆえん、資金が無ければアイデア勝負です。まずJAFに食いつきました。アイデアとセットです。夜は事務所の電話を拠点に転送して人件費大幅削減です。次にテレビショッピングに目を付けました。テレビショッピングの電話受けを一箇所に集中させたのです。テレビを見たお客さんは市外局番なしの電話番号なら飛びつきます。でも、大都市全部にそれぞれ数百人のオペレーターは配置できません。まず時間帯をづらしてテレビ放映します。北海道は10時、東北地方は11時、関東地方は12時………。各地域に転送機を数百台配置してあります。でも電話受けはほんの数箇所です。全地域がこれで網羅できます。このテレフォンサービスのためにテレワークという会社も作りました。「身体障害者の仕事を作りたかったんや」彼の母親は熱心なクリスチャンです。奉仕活動には熱心な人です。そして彼は苦労してきた母親に人一倍親孝行です。もう一度私の話です「メシ、食おうや」フラッと私の事務所に勝ちゃんが現れました。「おっちゃんとおばちゃん、どうしてる?」食事をしながらの話です。「いやー、ここんとこ資金繰りも大変で、帰ってないよ」「それにうちのスタッフ、スキー教師が多いだろ」「肝心のスキー書を売る時期に営業スタッフがいないんだよ」「ちょっとヤバイ状況が続いているよ。アイデアも出てこないし」「そおーか、ちょっとドライブ行こ。新しいクルマを買おたんや」ピカピカの高級車の助手席に乗り込むと走り始めました。首都高速から東名高速へ。「どこ行くんや」「おじちゃんとおばちゃんとこ、大阪や」「ええから、ええから。始発の新幹線で帰ってきたらええやろ」ちょっとのドライブが大阪です。「相変わらずやな、勝ちゃんは……、まー、いいけどね」閃いたー「ところでどう、仕事は?」「テレワークはうまくいっとおるけど、転送機はもうあかんな」「儲かる思たらNTTが自分で始めよったからな」「それに企業の間での連絡はこれからはFAXやで」「あれ便利やわ。何か考えてーな、儲かる方法」「FAXの電話帖ってあるの?」「そんなんあらへん。そのうち出来るかもなー」ここで閃きました。書店営業に使えるって。書店名簿に、FAX番号の載っていたのを思い出したのです。そのころはまだほんの少し、20店に1店ぐらい掲載されていました。翌日東京へとんぼ返りしてFAXに飛びつきました。FAX用のチラシを作って一軒づつ送信です。五百軒ぐらい送ったでしょうか。送った数だけ注文が飛び込みました。「ご案内有難うございます。いま御社の○○が売れています。……」丁寧な礼状の添えられた返信も数多くありました。パナソニックの開発担当者まで飛び込んできたまずはFAX名簿の拡充です。書店名簿にはほとんど載っていません。住まいの近くの奥さんたちにアルバイトを頼みました。「得意先名簿の整理をしています。FAX番号を教えて下さい」手当たり次第電話を入れてもらいました。八千軒近く集まりました。FAXが普及し始めた初期のころです。FAXのない店も多い時代です。調べてはFAXで注文書を送る作業が続きました。記憶させた番号へ次々とFAXを送る順次同報機能に目を付けました。ところが家電店を回っても、最大限でも三百件程度の記憶機能しかありません。パンフレットを次々と取り寄せました。ありました三千件ってのが。その頃で、一台二百万円以上です。三台注文しました。東京に二台、大阪に一台置いて全国一斉に配信です。もの珍しさもあって、山ほどの注文が飛び込みました。「どのようにご利用なさっているのか、聞かせて頂きたいのですが」パナソニックから電話が架かって来ました。開発したはいいものの、ほとんど売れていなかったそうです。そして今今ではFAXを使って書店さんへの販売促進をするのは当り前になりました。それどころかFAX公害と言えるほど書店さんにはFAXが飛び込みます。今では私はほとんどFAXを使わないようにしています。さまざまなビジネス書が出ています。成功体験やアイデアが紹介されています。その中からヒントをつかむのはいいことです。でもヒントだけです。それ以上でも、それ以下でもありません。人の成功例を真似しても、たぶん上手く行かないでしょう。人がやっていないから斬新でもあり、注目を集めるのではないでしょうか。知識ではない、知恵が必要なのだと私は考えています。今日は長い日記になってしまいました。それでも書くのに30分しかかかっていません。それだけ記憶に鮮明に残っていたということでしょう。勝ちゃんとのこと、後日談があります。十年少し前、私が地獄の底へ叩き落とされたときの出来事です。その後7年ほど経って備忘録のつもりで書きました。『負けてたまるか』の表題で書いた原稿の一部です。まだ本にはしていません。悪友あり、「おっちゃん。仕事頼むで」年老いた両親が住み慣れた家を追われ、大阪のビル街のど真ん中に住み始めた直後だった。住んでいるのは私の会社の大阪営業所に使っていた陽の当たらない1DKのマンションだった。その場所に住まわせることに決めたのも、そのすぐ近くに私の小学校時代からの悪友が事務所を構えていたので、何か事故があっても頼めるとの安心感からだった。私は自分のことに追われ、大阪へ出向く機会もどんどん減っていた。そのうちに親父から電話がかかってきた。「勝ちゃん、昨日来たで。堺の魚市へ行ったんやて。タコを持って来てくれたんやけど、そのままにしてたら朝起きたら台所を這いずり回ってたわ」嬉しそうに話している。その声を聞くだけでホッと安心する。そのうちに、「勝ちゃんから仕事を頼まれたわ。手伝ったろ思てんね」と言って来た。彼はテレフォンサービスの会社をやっている。その世界では大手に入るそうで大したものだ。その彼がやっている仕事の中に、大手新聞社の夜間や休日の電話受けがある。朝までに受けた電話のメモを本社まで届ける仕事だという。彼の事務所からその新聞社のある肥後橋まで、雨さえ降らなければ中島公園の緑のトンネルをトコトコと歩いて行けば、年寄りの足でも二、三十分もかからない。時給も交通費の分を足して二千円だという。大阪市の無料パスがあるので雨の日だって交通費はかからないのだが、ほかの人に頼めば交通費がかかるんだから気にするなという。さすがにここ一、二年は足腰もすっかり弱ってしまったので、その仕事も辞めたが、新聞社に出入りするための写真の入った社員証みたいなものを胸にぶら下げて、毎日通っていた。「ワシみたいな年寄りは、ほかには一人もいいひん」。チョッピリ誇らしげでもあった。その時は、ファックスもあるはずだし、パソコン通信でも十分なはずだ。今どきわざわざ毎日報告書を手渡すなんて、そんな話もあるのかと、あまり気にもしていなかった。すこし気持ちの余裕が出てくると、「アレッ、あいつ考えたな」と気がついて胸が熱くなった。そう言えば、「年寄りは、家にこもってしまうんが、一番良くないんやで」と言っていたっけ。
Jan 25, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十六)今日の日記も以前の分の再録です。私の中では、昨日の結城美栄子さんの件とセットです。いやはやそれにしても女性は凄まじい。行け行けドンドンの私の性癖に、自分の感性を信じる要素を加えたのは、このお二人かも知れません。人形作家、土田早苗さんの場合前述の結城美栄子さんの本を作ってまだ一ヶ月もしない時だった。私の会社に一本の電話が飛び込んできた。「あのー、初めてお電話するんですが。結城美栄子さんのビバ・サーカス」「そちらさんで作られたそうですね」「発売元の出版社に教えて頂いて、お電話したんです」「旭屋さんでこの本を見て、アッ、これだって思ったんです」「作って下さい。私のお人形さんの本」おいおい何なんだ、このオバサンは。ともかく私の人形の本を作って下さいの一点張りなのだ。売れる本の企画でないと取り上げられないと言っても、聞く耳を持たない。「分かりました。お役に立てるかどうかは分かりませんが」「いいですよ、ともかくお会いしましょうか」相手の話が延々と続きそうなので、やむなく会うことを承諾した。こちらの住所を言うと、三時までにはお伺いしますと言って電話が切れた。約束の時間よりは少々早く、高価そうな和服を着こなした女性が現れた。「私、土田早苗と言います。女優さんで同じような名前の方がいます」「私の土には点が付くんです」最初の自己紹介だけはまともだった。その後はビックリの連続だ。こんなのアリ?「旭屋さんで本を見て、ドキッとしたんです」「私の探していたものがようやく見つかったって」「私、お人形を作っています。市松人形なんです。創作人形です」「新幹線の中で、もう嬉しくって嬉しくって。興奮してしまって……」「えっ、新幹線で来られたんですか? どちらから」「大阪から来ました。宝塚に住んでいるんです」あいた口が塞がらない。旭屋書店って名前を聞いて渋谷か池袋の旭屋さんを連想していた。どうやら旭屋は旭屋でも、大阪の梅田本店だったらしい。「お気持ちは嬉しいんですが、私、人形は専門じゃないですよ」「たまたま結城さんの本を作っただけで……」この女性、私に最後までしゃべらせてくれない。「一目見れば分かります」「お人形さんの本で、あんなに素晴らしい本には出会ったことがありません」「ほかの出版社や編集の人にはムリです」「私、主婦の友社やNHK出版局などで何点か出しています」「でもあの本を見れば月とスッポンです」「私、見る目だけは誰よりもあると思います」押し切られてしまった経費もかかるし、売れないと商売にならないと言うのだが、「絶対売れます。それに私も千冊ぐらいなら買います」「みなさん私の本を欲しがっていますから……(延々と続く)」ともかく強気なのだ。そりゃ本屋で見ただけで新幹線に飛び乗るのだから、これは敵いっこない。買取り条件を確認して手掛けることになった。彼女の作品は、一体を作るのに一年ぐらいかかるという。それ以上の期間をかけている作品もあるそうだ。梶さんという新進気鋭のカメラマンに協力を仰いだ。スタイリストも結城さんのときと同じ小山織さんという人にお願いした。二人とも結城美栄子さんのお気に入りでもある。さてそれからが大変だった。土田さん、撮影場所は宝塚にある、立志伝中の人物の別荘を決めてきた。まず普通では立ち入れないところだ。次に彼女の主要作品の借り出しが控えていた。さらにビックリの連続そのときになって始めて知った。彼女の作品はびっくりするほど高いのだ。たかが人形のために札束を出す人がいるのにもビックリさせられた。今現在の人形の持ち主を聞くと、超資産家の名前が次々に挙がる。人形の借り出しの依頼は土田さんがしてくれた。でも、ほとんどが東京近郊にある。配送を日通に相談したら、とんでもない金額を提示された。保険金額も目が飛び出るような金額が提示された。それでどうしたかって? こうなりゃ自分で運ぶしかないでしょう。いい年をした私が、人形を抱きかかえて新幹線で大阪へと向かった。まるで金塊輸送をしているような緊張感で、トイレにも行けなかった。絶版になってしまったが『市松人形』という本が、そのときの作品である。某大富豪の別荘で、小雨に濡れガタガタ震え、撮影する人形を支えていた。私自身の仕事って、人形を抱きかかえて新幹線に乗ったことがメインだ。やっぱり半端じゃなかった彼女のアトリエにも足を運んだ。なるほど一体を作るのに一年以上かかるのも理解できる。高額な値段が付くことも納得できた。たとえば市松人形の着物自体がすべて手作りなのだ。それも反物の織りから染色、仕立てに至るまで全てが彼女の手を経ている。西陣へ潜り込んで染色を勉強したと本人も言っていた。彼女、四国の素封家の家で生まれ育ったそうだ。親戚の県知事も務めた人に孫のように可愛がられたとも言っていた。小さい時から本物だけを見て、本物だけに囲まれて生活してきたそうだ。人形作家、土田早苗さん。(ネットで検索すれば出てきます)お嬢さんと言うにはちょっとだけ年を経ていた。でも、本物のお嬢さん育ちの凄まじさを見せてくれた女性だった。前回この日記を書いた直後、連絡が入った。「ナタマメ狂想曲、見ましたよ」土田早苗さんだった。「エー、どうして?」「娘が見つけたのよ。両国のご隠居さんの日記を」「どう、私の見る目、間違っていなかったでしょう?」コロコロ転がるような土田さんの声が響いてきた。「また本を作って下さいよー」「いいですよ、ぜひ」今度は私も二つ返事です。ところでこの土田さんとの話も、今度の本『身も心も捧げた女は飽きられる』に収録しましたからね。この場を借りて事後承諾です。ダメだって言っても、もう印刷に回っちゃったからね。ゴメン。
Jan 24, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十五)今日の話は、昨日の日記に書いた水の江滝子さんから始まった「芸能人と趣味」の企画が打ち切られる原因になったある本の話です。シリーズとしては終わってしまったのですが、その後も人の輪はどんどん広がっていきました。この日記も前の削除された分の再録です。『身も心も捧げた女は飽きられる』にも載せました。結城美栄子さんの場合「ね、いいでしょ。私、ここにこれを入れたいのよー」結城美栄子さんは陶器の人形を作っていました。昨日書いた水の江滝子さんのときと同じ、芸能人と趣味をテーマにした本です。お年を召した方なら結城美栄子さんといえばピンと来るでしょう。昔はNHK三人娘の一人としてドラマの常連俳優さんでした。外交官の娘として育ち、イギリスのロイアルバレー団に所属したこともあります。アキレス腱を切ってプリマドンナへの夢を断念。演劇の道へと進みました。海外での生活が長く、劇団の入団テストの時に問題が読めなかったそうです。いちいち試験官に問題を読んでもらったというエピソードがあります。「ね、お願い。ここはこうしてくんない」ともかく注文の多い人なのです。彼女の作る陶芸の人形も異色なら、これほど注文の多い人も珍しい。これじゃ実用書じゃないよところが、私も男なんですね。上目づかいに大きな目で見上げられ、「ね、お願い」を連発されると、全部従ってしまうのです。気が付けば、彼女の独特の世界の作品集に仕上がってしまいました。これでは私が企画を持ち込んだ先の出版社の意向と余りにも違いすぎます。どうしようかと悩んでいると、「ね、お願い。ここもこうして欲しいのよ」と、さらに彼女の意向を押し付けられる始末です。お気に入りのデザイナーも自分で見つけてきてしまいました。哀れにも私には抵抗の術が見当たりません。彼女の持つ独特の世界への執拗なまでの執着、そして彼女の確信。大の男が完全に押さえ込まれてしまったのです。本が出来上がるまで、発注元の出版社に何も知らせず、本を仕上げました。まさしく詐欺行為。製作費はもらってしまって、支払いに使ってしまいました。半端じゃないんだよねその出版社の専務は「うーん!」と言っただけで黙ってしまいました。目の前にあるのは、私の企画書からは想像も出来ない代物です。でも、ハンパではない出版物でした。そりゃ私もそうですが、誰も一言も文句を言えない作品に仕上がっていました。売れるかどうかは別にして、出版人としては文句の言いようもないような。その本の書名は、「ビバ・サーカス(山海堂刊)」。この本を出したことで、私の企画したシリーズは一気に終焉を迎えました。企画書と丸っきり違う本を、相談もせずに印刷まで終わらせたのですから。もちろんご本人、結城美栄子さんは上機嫌です。お礼にご馳走をしたいからと、赤坂にある彼女のご自宅へご招待を受けました。当日私は、社内の美人スタッフ二名を引き連れて、彼女のご自宅へ伺いました。(当時私は面食いでしたから美人以外は採用しなかったのです)私だけじゃなかった「前の日からローストビーフを仕込んであるんですよ」彼女の言葉に誘われて行ってみると、エプロン姿のご主人が出てきました。「ウチの人、ローストビーフが得意なんですよ」あーあ、やっぱりね。ミュージシャンのご主人も、たぶんあの大きな目で上目づかいに見上げられて、「ね、お願い。大切なお客様なの」とか何とか言われて、気が付いたらおさんどんをやらされていたのでしょう。でも、仇は取りました。江戸の仇を長崎で。私、酔っ払って、彼女が焼いた自慢のお皿を割ってしまったのです。「しょうがないわね。○○さんは」の一言でご和算です。対処方法は簡単だった後日、彼女の個展にお呼ばれしたことがあります。今は別れてしまった家内と一緒に行きました。お腹が空いたので食事に出たら、結城さんも一緒に付いてきました。「ねえ、奥さん。私にご主人のスタイリストをやらせてくんない」「ねえ、お願い。見違えるようになるから」いつもの彼女の口ぶりです。誰にもノーと言わせないような。私の家内の答えは簡単でした。「ダメです。お断りします」「私がいくら言ってもダメなんですから」「ホント、いいかげんにして欲しいっていつも言っています」結城さん、黙ってしまいました。そうだこの手があったんだ。何か言われたときに、理詰めで説得しようと思った私がバカだったのです。魅力的な人ですよ。言うまでもないけど結城さんの意向を、「ダメです。企画と違います」と一言いえば、私は次の仕事も貰えたのです。簡単な話でした。でも凄いでしょう、結城美栄子さん。自分の信念と自分の感性、そして自分の世界をしっかり持った人です。私は今でも、彼女のハッキリとしたものいいに共感を覚えています。インターネットで一度「結城美栄子」さんを検索してみてください。彼女の世界を垣間見ることが出来ます。私も少しはお役にたったようです。結城美栄子さんの本で『芸能人と趣味』のシリーズは終わってしまったけれど、この本が新たな出会いをもたらしました。これも削除された前の日記に書いた分ですが、明日は人形作家「土田早苗」さんとの出会いを掲載します。このような様々な出会いがあったので、2月3日発売の『身も心も捧げた女は飽きられる』のネタにだけは不自由していません。さんざん振り回されましたからね、イイ女たちに。つづく
Jan 23, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十四)前に掲載して削除された日記を再録します。私がさまざまな芸能本を手掛けるきっかけが、今日の日記の水の江滝子さんとジャズ界の大御所、北村栄冶さんでした。お二人とお会いしなければ、その後の芸能本は出ていません。また、芸能ネタで世間を騒がせたさまざまな本も生まれなかったでしょう。この話も来月発売の「身も心も捧げた女は飽きられる」に収録しました。水の江滝子さんの場合「あの子? あの子は違うよ。姉さんの子だよ」「ここに住んでいたこともあるけどね」あの子とは、ロス保険金殺人で話題になった三浦和義氏のことだ。ちょうど私と水の江滝子さんが仕事をしていたころ、週刊誌が騒いでいた。三浦和義氏が水の江さんの隠し子だというのだ。確かに、三浦和義氏と水の江さんはそっくりな顔立ちをしている。「アチシ、アチシに子供がいたら、ハーフだよ」「たぶん金髪をして生まれてきたろうなー。それ以外に覚えはないねー」冗談とも本気ともつかない言葉が返ってきた。水の江さんの自宅の居間での話である。水の江さんと会ったのは、今から二十年ほど前。私が自分の出版社を起した直後だった。でも、私の出版社から水の江さんの本を出そうとしたわけではない。事業資金稼ぎのための苦肉の策として、水の江さんに協力を求めたのだ。会社を作った時の資本金なんて、三ヵ月もしないうちに底を尽いていた。よしそれならば、よその出版社に企画を売りに行こう。どうせなら、大物がいいでも、企画だけじゃ大した金にもならない。著名人を著者にでっち上げ、企画料、編集料、さらに印税のピンはねをしよう。私の頭には、このような悪知恵だけは、すぐに浮かんでくる。「著名人と趣味」の企画がいい。これならば編集料もガッポリとふんだくれる。さっそく水の江さんに電話を入れた。「なにー。聞こえないわよ。アチシは耳が遠いんだからね」「えっ、本の話! 聞こえないわよ。電話じゃダメよ。来なさいよ、こっち」突然、水の江さんの家に行くことになってしまった。「場所。エーとね。小田急線の○○駅で降りてね。タクシーに乗んなさいよ」「エッ、タクシー。分かるわよ、ターキーのウチで」「分かんなきゃ、三浦和義で騒がれている人んちといいなよ」こちらがせめて住所だけでも聞こうと思っているのに、プッンと切れた。ハイハイ、イイヨイイヨで話が進む小高い山の上というか、山の中に水の江さんの家はあった。「ハイハイ、ジュエリーデザインの本ね。イイヨイイヨ、手伝ったげる」話はどんどん進む。すべて二つ返事なのだ。「印税はほとんど払えないんですが」「イイヨイイヨ、任せるよ」すべてがこんな調子で進んだ。「これがアチシの作品。全部載っけてもいいよ」宝石箱というより、チョット大き目のカステラの箱みたいなものだ。「適当に選んでよ。アチシちょっと向こうで休んでいるから」ガラガラとテーブルの上に宝石を積み上げて、水の江さんが消えてしまった。あとに残ったのは、私とあまり綺麗じゃない犬二匹。結局、一時間近く水の江さんは席を外したままだった。ゴメン、汚い犬だと思ってた「アチシ、痛風なんだよ。ほら」見ると両手がパンパンに膨れ上がっている。「ほら、こっちも」両足も瘤状にゴツゴツと腫れ上がっている。「どう、使えそう?」「あのー、私は宝石はまったく分からなくて……」「ところでこれ、お幾らぐらいですか」「そうだねー。材料費だけで二億ぐらいかな……」「もしかしたら三億ぐらい使ったかな……」開いた口が塞がらなかった。後日、水の江さんに聞いてみた。初対面の人間にアレは無用心でしょうって。「犬が教えてくれるよ。それにあんた人を騙しそうにないしね」その時も傍らに、薄汚い犬が二匹いた。「これ、甲斐犬っていうんだよ。純粋種はもうほとんど残っていないらしいね」フーン。この犬が立会い人(犬)だったんだ。「この犬、人見知りすんだよ。あんたの膝で寝ちまったけどね」ホントは凄いんだよ、水の江さんってこの後、ライターを連れて足繁く、水の江さんのお宅へ伺うことになる。その間に石原裕次郎氏が亡くなった。テレビ局が水の江さんの家に押し掛けたこともあった。石原裕次郎氏を世に出したプロデューサーが水の江さんだったのだ。三浦和義氏、石原裕次郎氏の話題のたびに取りざたされた。でも、水の江滝子さんこそ大スターだった。と言っても、私の年でも知らないことだ。せいぜい、NHKの人気番組だったジェスチャーで見たぐらいだ。水の江さんが女性軍のリーダーだった。その時の男性軍のリーダーが故柳家金語楼さんだった。それと、女の六十分とかいう朝のバラエティー番組のレギュラーでもあった。それよりはるか以前の時代が、水の江さんの全盛期に当たる。戦前の松竹少女歌劇団の花形スターだったそうだ。さらには戦前の労働争議の歴史の中にも登場する。軍艦以外はすべてやって来たといわれる松竹争議の時の委員長。戦争勃発直前に、アメリカへ亡命。戦後日本へ着いた時は、群衆が押し寄せ、帰還した水の江さんを迎えた。男装の麗人余談だが、山口百恵さんの引退興行のときにこんなことがあった。偶然、会場近くを通りかかった。人、人、人の波が溢れていた。「凄いねー。これだけのファンが集まるなんて」私は傍らの編集部長に話しかけた。「そうかな。社長は知らないんだよね、ターキーの時はもっと凄かった」ターキーとは水の江滝子さんのことである。私も水の江さんの若い時の写真を見せてもらったことがある。昔の化粧なので私にはピンとは来なかった。でも、彼女には『男装の麗人』の異名があった。 なぜジュエリーなのか?そのターキーさんが話してくれたことがある。なぜジュエリーデザインを始めたのか。「コレコレ、これがホントーは一番高価なんだよ」ずんぐりと豆のような金の塊に、小さなダイヤモンドが光っている。「これはね、ブリリアンカットのダイヤを逆さに埋めてあるんだよ」「誰も気が付かないだろ。この中に大きなダイヤが入っているなんて」「女は力がないから、イザとなったら自分の体か宝石しか売り物がないんだよ」「戦争中、アメリカでイヤというほど味わった」「女は亭主をたぶらかしてでも、宝石ぐらい身に付けておかないとね」「イザというときのためだよ」水の江さん、ゴメンなさい水の江さんの本を手掛けたおかげで、ほかの芸能人との話もトントンと進んだ。ジュディーオングさん、アンリー菅野さん、結城美栄子さん、城戸真亜子さん。ジュディーさんだけは病気のために中止となったが他の本はすべて仕上げた。最初に芸能界の大御所、水の江さんの本を作ったことが良かったのだろう。「あんたねえー、芸能界だけは顔を突っ込んじゃだめだよ」「あんたには向かないからね」今も耳の片隅に、水の江さんの声は残っているのだが……。つづく
Jan 22, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十三)今日の話はまたまた寄り道です。昨日、再録するための日記を整理して思い出したことがあります。会社を始めて間もない頃、皇室を求人雑誌に登場させて、宮内庁からヒンシュクを買ってしまったのです。もう時効の話ですから、ちょっと書いちゃいますね。ちょうど求人難で、求人雑誌が次々と創刊された時代です。求人雑誌の巻頭インタビューに穴があいた「参ったヨー。どうしたらいいんだろう?」編集プロダクションの社長が相談に来ました。学生援護会で創刊が予定されている技術系の求人雑誌を請け負ったそうです。「巻頭インタビューはノーベル賞受賞者の江崎玲於奈さんを予定していたんだ」「急に帰国が延びたって電話が入ったんだ。もう間に合わないよ」「江崎さんに代わる人なんて思いつかないよ。助けてよ」例によって、ひらめきました。これは知名度と意外性で勝負だって。「三笠宮智仁殿下じゃダメかな。意外性で迫ろうよ。俺のほうで話を付けるよ」「智仁殿下は身障者問題に熱心なんだ。身障者と技術と仕事で行こうよ」「出来るわけないよ」とは言われましたが、即行動開始です。実は、私が作ったスキー書を皇宮警察でまとめ買いをしてもらっていました。身障者スキーの普及に熱心な三笠宮智仁殿下のご紹介です。ほら、出来たじゃない昨日の日記に登場したTさんが三笠宮邸に足しげく出入りしていたのです。ワープロに飛びついて、一気に巻頭インタビューの企画書をまとめました。あとはTさんに届けてもらうだけです。日にちがありません。「エーっ」と絶句するTさんを説き伏せて三笠宮邸へ行ってもらいました。思ったとおり、三笠宮智仁殿下の快諾は得られました。身障者問題を創刊号の巻頭に取り上げることに興味を示されたそうです。「インタビュー? 俺やだよ。それはキミの仕事。俺には別の出番があるよ」「あとは、そっちでやりなよ。スキーだとか趣味の話なら俺がやるけどね」編集プロダクションの社長に押し付けて高みの見物です。出ました。学生援護会の技術者向け求人雑誌創刊。バッチリです。巻頭インタビューは当初の予定頁数を増やして8頁オールカラーです。三笠宮邸の応接室での、三笠宮智仁殿下の写真がドンと出ています。やっちゃったよ。ゴメンなさい「叱られちゃったよ。求人雑誌に皇室を登場させるとは何事かって」Tさんがボソーっと現れました。「誰から?」「宮内庁の人」「それで、智仁殿下は?」「いやー、殿下は、この企画は大変有意義だったって喜んでいたよ」「じゃー、いいじゃない」「宮内庁にはゴメンなさい、自粛します。もうしませんと言えばいいよ」「何なら、詫び状でも、謝罪文でも俺が書いて持っていくよ」「たぶんそんな話が出てくると思ったんだ。俺の出番かもね」「いいの、いいの。創刊号って一回だけだから」「あれ、じゃあMさんは最初からこうなるの読んでいたんだ」「まあね。でも智仁殿下に迷惑を掛けるわけにはいかないからね」「だから俺はインタビューに行かなかったんだよ」「もしもの場合は誰かが責任を取らなきゃいけないだろ」「智仁殿下の知らない人物でないとね。迷惑が掛かるから」調べてはいませんが、求人雑誌に皇室が登場したのは、これが最初で最後ではないでしょうか。その後、宮内庁からは何も言って来ません。私の出番はなくなりました。もっとも皇宮警察からのスキーの本の注文は途絶えました。自己弁護のために書き加えておきますが、身障者への雇用の道を開くために大変有意義な巻頭インタビューでした。一円の儲けにもならなくて、お得意さんを減らしたお話です。多いんですよ、この手の話が私には。つづく
Jan 21, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十二)以前の日記で読んで下さった方には申し訳ないんですが、このあと4~5日、前に削除されてしまった楽天日記を再録します。来月発行の「身も心も捧げた女は飽きられる」にも収録しました。「私が出会ったイイ女たち」として数人の女性のことを書きました。あまり最近のことや若い女優さんとのことは書くのが難しいので年配(失礼)の方の話題に止めました。野際陽子さんの場合場所はJR線飯田橋の駅ビル。ラムラと名付けられた建物に、コージーコーナーって喫茶店がある。一番奥の目立たない席に、私とTさんが座っていた。Tさんは今から十数年前まで、芸能プロダクションの社長をしていた。事情は知らないが、俳優で実質オーナーのCさんと揉め事があったらしい。いつも私の事務所で遊んでいたのだが、俳優さんが次々と相談を持ち込む。Tさん、人がいいものだから、すぐ相談に乗ってやっている。そのころもミュージシャンとの関係が取りざたされた女優の相談に乗っていた。彼女もまだまだ売れっ子。スターとしての絶頂期の真っ只中にある。「私、関係がないんです。それなのにテレビと週刊誌に追い回されて」一生懸命慰めていたTさんだったが、突然、彼女たちの結婚が発表された。「あちゃー、一番騙されたのはオレだったのか」「中学生の時に見つけて、それからズーっと面倒みてきたんだけどなー」「相手の男もすげえ人気があるから、心配だよ。うまくいくのかなー」そんな話をしていた頃だ、野際陽子さんに会ってくれないかと頼まれたのは。その時からすでに、十年以上が過ぎてしまった。だからこれは十年以上昔の話なんだ。野際陽子さん颯爽と登場「あちゃー、あれだもんな野際さんは」入口のほうを振り返ると、おりしもモデルのような女性が登場した。まさに登場したという表現がピッタリなのだ。帽子にサングラス、風もないのにスカートの裾がフワリとひるがえっている。野際陽子さんと知らなくても、男性も女性も振り返ってしまう。多分このときすでに六十歳ぐらいだったんじゃないだろうか、「お待たせ。Mさんですよね。お噂はかねがね」「Tさんが余計なことを吹き込んでいるんでしょ。野次馬です、私」一通りの世間話が終わるころ、もう一人の女性が現れた。青春時代のルームメイト今日の主役はこの人なんだ。「ご紹介しますね。私のパリ時代のルームメイトなんです、彼女」「今はフランス人と結婚してベルギーに住んでいるんですよ」「もと向こうの航空会社のスチュワーデス。私の友だちなんです」野際さん、そしてTさんを介して彼女の原稿は預っていた。そして読み終えていた。「わざわざ申し訳ありません。面白くなかったでしょう。私の原稿なんて」「でも日本を離れていると、ついつい書きたくなるんですよね。日本語で」「向こうでの生活が長いものですから、日本のことは分からなくて」「野際さんぐらいしかいなくて、ご相談できる人が」「相談に乗ってよ。ダメならあんたのこと書いちゃうよって脅したんです」この原稿ではムリだった。たとえ自費出版でも大幅に書き直しが必要だった。「なるほどねー。私、日本を離れ過ぎていたのね。発想があちら風なんだ」「そうよ、あなたは外見は日本人でも、中身はどっぷりヨーロッパの人よ」「なによ、あなたもパリに住んでいたころは青春を謳歌していたじゃない」青春時代に戻ってしまった女性二人の掛け合い漫才が始まってしまった。「ねえ、社長さん聞いて下さいよ。野際さんってすごくもてたんですよ、向こうじゃ」「かっこいい男の子を次から次へと見つけてくるんだから。ほんと天才ね」「あなたこそモテモテだったじゃない。いい男たちをはべらしてさ」「いっそのこと、パリの思い出って本にしたら。野際さんも登場させて」とTさんが合いの手を入れる。「うん、だったら書くこと一杯ある。野際さんの話ばっかになっちゃうけど」「やめてよね。私に仕事が来なくなるーう」二人で暮らしたパリのアパートの話が次々とはずんだ。そして、大変身この時お会いしてからわずか一年で野際さんのイメージがガラリと変わった。またその後、野際陽子さんがドラマに出演する機会が多くなった。子育てを卒業したのと、イメージが大きく変わったことが理由のように思える。私が出会った頃は、まだまだ綺麗な中年女性を売り物にしていた。ところが「マスオさんのお母さん」のイメージが登場すると、180度転換した。いまやキャラクター俳優となった野際さんしかいない。女性は変身する。雰囲気から見栄えまで。上手く伝えられないが、ほんのわずか一年で、サナギが蝶になった。うーん、表現が適切でないな。蝶が何になったのかな。本当に適当な言葉が見つからない。テレビの中に存在感を増した野際陽子さんがいた。私が出会った時よりも、もっと輝いているように見えた。つづく今日の日記に登場したTさんで思い出したことがあります。またまた確信犯で仕掛けちゃった出来事です。明日はそれを書こう。
Jan 20, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十一)昨日は二日酔い(三日酔い)で日記をパスしてしまいました。復活です。さて、さまざまな出会いがありました。私ってホント、運がいいんですよ。今日は自分の出版社を始めて一年後ぐらいの時期のお話です。ただ酒とただメシ「おばあさん。あそこへ座っていて下さいよ。私が持っていってあげますよ」三浦雄一郎さんが主宰する三浦ドルフィンのパーティ会場です。立食パーティの席で、似つかわしくないお婆さんがおろおろしていました。盛り上げられた料理が上手く取れないようです。ポロポロこぼしています。私はガツガツ食べて、グイグイ飲んでいました。ほかにやることもなかったのです。知った人は一人しかいません。冒険家で尾崎啓一という人がいます。偶然知合いました。「ただ酒とただメシが食えるから一緒に行かない?」フラリと私の事務所に現れて引っ張り出されました。三浦雄一郎さんも来ると言うし、遠目でも見たいと思って付いていきました。会場に入ると尾崎さんは自分の知り合いを見つけて行ってしまいました。やることもなく、会場の後ろのほうの隅でパクついていました。今度はお爺さんが現れたお婆さん、だいぶもうろくしているようで、話が噛み合いません。でも私から離れません。一生懸命何か話しています。少ししかない椅子を二つ確保してお相手をしていました。「済みません。見つからなくて探していたんです」今度はお爺さんの登場です。この人はしっかりしているみたいです。「完全にボケているので、フラフラ行ってしまうのです」「ご迷惑をお掛けしました」「ダメだよ。あっちに居ないと」「あっちへ行こう」とお爺さんが声を掛けてもお婆さんテコでも動きません。「ここでいいんじゃないですか」。もう一つ椅子を探してきました。このお爺さんいい年なのに、まだスキーをやっているみたいです。来月スキー場がオープンすると楽しそうに話しかけてきました。「テイネはいいですよ」「あれ、行かれたことはないんですか」何、このお婆さん雄一郎さんのお母さん「それではここで、我が三浦ドルフィンの会長からご挨拶を頂きます」司会者の声が一段と大きくなりました。「ご迷惑ついでに、婆さんをもう少し預かって頂けますか?」お爺さん、トコトコと行ってしまいました。そのまま一段高い壇上へ。何、あのお爺さんが三浦敬三さん。そうするとこのお婆さんは……。「ねえ、お婆ちゃん。お婆ちゃんは雄一郎さんのお母さん?」お婆さん、何にも答えずにお鮨をパクついています。大きな拍手で三浦敬三さんの挨拶も終わりました。「助かりました。だめなんですよ、こいつ。あなたが気に入ったみたいで」その後また、敬三さんとの会話が続きました。「ところであなたは、どういう人ですか? お会いしたことないですよね」「はい、ただ酒を飲みに来ました。こういう者です」私の本を作ってもらえませんか?「そうですか。出版をされているんですよね」「私ね。撮りだめた写真がいっぱいあるんです」「写真集を作ってもらえませんかね?」今度は前に書いた奈良原一高さんのときのようなヘマはしません。「まず見せて頂けますか?」そのような会話をしているときに三浦雄一郎さんが近寄ってきました。「この方に、お世話になっているんだよ。ボクも母さんも」「そうですか。有難うございます。どうぞゆっくりしていって下さい」「一度ぜひ、ドルフィンの事務所にも遊びに来て下さい」帰りに尾崎さんに話したら、ビックリ仰天です。「敬三先生の写真集なら、ドルフィンでも買い上げるよ」「○○さんって不思議な人だね。必ず手ぶらでは帰らないんだから」敬三先生が現れた約束の日に三浦敬三さんが私の事務所へ見えられました。タバコを買いに出たらバッタリです。「どうぞどうぞ、こちらです」。エレベーターのボタンを押しました。「いや、社長さんはどうぞエレベーターで」敬三先生はとことこ階段を上がっていきます。しょうがない、私も階段です。3階に事務所はありました。打ち合わせが終わると、敬三先生これから御茶ノ水へ行くとのことです。「ちょうど私も御茶ノ水へ行きますよ」と一緒に出かけました。「こっちです」。敬三先生、違う方向に歩き出しました。「駅はこっちですよ」「いえ、お茶の水はこっちです」私の事務所は飯田橋です。敬三先生、2駅歩くつもりです。まあいいかと歩き始めたのが運のつきでした。早いんです、歩くのが。そのときすでに80歳くらいです。当時、私は40歳くらいです。その私が駆け足です。11月なのに、著名なビンディング会社に着いたときには汗ばんでいました。つづくこのことがきっかけになって三浦ドルフィンの本も手掛けるようになりました。杉山進スキースクール、ナイスク(オーストリースキー教室)についで著名なスキー教室は網羅です。その後には当時著名だった浦佐のスキー学校の「浦佐の特講」なんて本とビデオも手掛けました。請負で、スキー雑誌も手掛けました。また各実用書出版社のスキー書も手掛けました。おかげでスキーの本を作るならあそこと業界内では知れ渡りました。でも私にとってはスキー書は全体の仕事量の3分の1程度です。
Jan 19, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その十)スキーがらみの話が続いてしまいました。もちろん他にもいろいろやっていたのです。でも、ついでですからスキーに関わる話を書いてしまいます。楽しかった出会いの話です。そして、どん底の時期のある日の出来事です。「スキースクールは杉山進さんとこだけじゃないよ」「ナイスクって知ってる? オーストリースキー教室って?」「日本で一番古いスキー教室だよ。蔵王や志賀など全国にあるんだよ」「規模からいっても、やはりナイスクだよ。知らなきゃモグリだよ」以前私が働いていた会社の同僚が口を尖らせて話しかけてきました。「よし、そこへ一緒に連れて行ってよ」。例によって即断即決です。翌週には、オーストリースキー教室の鹿島槍校に入っていました。私のスキーはヘタッピーですから、下から二つ目の班です。以前の会社の同僚は一斑です。最初からダンチの違いです。でもそれは昼間のこと、夜のお酒の席では、やっぱり私です。ここの校長先生が面白い。伊藤先生と言いました。本職は大工さんです。スキーの技術をさまざまな例え話で解説してくれるのです。話の面白さにつられ、「よし、それ本にしましょうよ」と突撃です。「いやー、私よりも、もっとヘンなのがいますからご紹介しますよ」ナイスクの東京事務所と、ある人物を紹介されました。スキー場から帰った日に、その足で事務所に出向きました。スパイにされちゃった紹介された松尾喬さんが出て来ました。名刺には代表とあります。「あれ、松尾さんは社長さんですか」「ええ、ついでに社長もやっています」もろカウンターパンチです。とぼけた人です。すぐ意気投合してしまいました。「あのー、鹿島の伊藤校長から電話が入っているのですが」「もしもし、松尾です。何?」「うん、それはきっとスパイだよ。うちの運営方法を探りに来たんだよ」「さすが、とーさん(伊藤校長先生の愛称)見る目があるよ」「うん、本を作りたいって。ナニナニ、なるほどねー。うん、間違いないね」「それがきっと手なんだよ。注意しとくよ」「ところでちょっと代わるね」「もしもし、伊藤先生ですか。私、スパイの○○です」「スキー場ではお世話になりました。またスパイに行きますので宜しく」「………はあ………どうも………」。伊藤先生、言葉が出ません。スキーって遊びだよ。楽しい本を作ろうよこんな出会いから、本を作ることになりました。あとはハチャメチャです。「民間療法 フツーのスキー」って本です。名前のとおり、とぼけた本です。私が独立する直前だったので、前に働いていた出版社で出しました。「スキー界って、体育会系なんだよね。遊び心が足りないんだ」「お金払ってスキースクールに入って、それでしごかれたんじゃ馬鹿みたい」「やーなんだよね。○○さん、一緒に遊ぼうよ。楽しい本を作ってよ」丸っきり松尾さんのペースです。話がポンポン出てきます。「あなた学生運動やってたでしょう。代々木系でしょう。ほらね、やっぱり」「代々木系は、クソ真面目で頭もいいのが多いけど、ちょっと固いんだよね」「ちょうどいい。ボク、三派系で軟弱だから足せばいいんだ。二人でやろうよ」この調子で私が独立する前も、そして独立してからも付き合いが続きました。その後の松尾さんとのエピソードは、ゆうに本一冊分ぐらいはあります。さてここで、それから十年ちょっと後の文章を転載します。私の事業が躓いた直後の松尾さんとの会話を書いた文章です。浮き沈みの多い私の人生で最悪の、地獄の底へ叩き落とされたときの話です。……… こんなこともあった。志賀高原や蔵王のスキースクールやテニススクールを運営する会社の社長でMさんという人がいる。不思議なキャラクターを持つ人で、頭も切れるが口八丁手八丁でいつも圧倒されている。彼の会社の仕事の一環として何冊か本を書いてもらっていた。支払いをズルズル延ばしていたので、倒産時には印税など三百万円以上の債務が溜まっていた。そのM社長に呼び出された。恐縮しながら訪ねて行くと、喫茶店へ連れ出された。「ボクのこれから話すことに、絶対ダメとは言わないでよネ」と前置きして、「ボクからの提案は三つある」と切り出した。「一つ、ウチのおたくへの債権を放棄することに異議を申し立てないこと」「二つ、今ウチの会社で仕掛かっている本が出せるなら、印税はおたくの会社に再建資金としてカンパさせてもらうこと」「最後の三つ目は、もし夜逃げするなら、家族揃ってボクの紹介するところへ行くこと。出来るだけの面倒は見させてもらうよ」「本当にいいんですか?」「ウチの会社が出版などの仕事を始めることが出来たのは、○○さんのおかげだと思っているんだよ」三つ目の提案の夜逃げだけはお断りしたが、債権放棄と新刊の印税をカンパしてもらうことについては、好意に甘えさせてもらった。………ちょっと最後は暗くなったかな。明日は三浦敬三さん、三浦雄一郎さんとの出会いを書こおーっと。これまた偶然なんですよ。同じ頃、堀江謙一さんとも出会ったんだけど、何があったか忘れてしまったなー。女優の川口晶さんとのことなどいろいろ関係していたはずだけど……。まあ、いいや。どうせあの人、すぐ居なくなるんだもの。今も太平洋の真っ只中でしょう。ついていけないよ。海の上じゃね。帰って来るまでには思い出すだろう。
Jan 17, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その九)さて自分の出版社が出来た頃の話です。資金不足の私は他の出版社の企画・編集請負をやりながら自社の本を作っていました。資金作りの方法は、以前この日記にも書いた俳優さんたち有名人の本や、スキー雑誌の出版社から別冊の丸ごと請負です。自社の企画はスキー書を中心にアウトドアスポーツ全般へと徐々に広げていきました。私は緩斜面の帝王ですシーズン中はスキー場に入り浸っているのに私のスキーは初心者並です。理屈だけは頭に入っていても、体が反応してくれません。杉山進さんのホームゲレンデ、奥志賀高原でいつもゴロゴロしていました。スイスイじゃないのです。ゴロゴロです。みんなの滑りを見ているだけです。スキーのインストラクターの人たちやスキー場関係者は挨拶に来ます。「ご苦労様で~す」「お世話様で~す」「コンニチワー」誰もが丁寧に挨拶していきます。「ご苦労様で~す。先生~っ、私のスキーはどうですか?」「いやー、上達されましたね。いいんじゃないですか」私に声を掛けてきたのは指揮者の小澤征二さんです。最初は、てっきり私をスキーの先生と思っておられたようです。それも他の先生たちが丁寧に挨拶するものだから、大変な人物らしいと……。「誰も知らなかったよ、そんな人」子どものスキーの本を作ろうと私の息子をスキー場へ連れていきました。自分の息子ならモデル代のギャラはかかりません。息子たち二人は、まだ小学生でした。私と小澤征二さんや杉山進さんが雑談に花を咲かせていました。「このオジさんはね。小澤征二っていって凄く有名な音楽家だよ」息子たち二人も横でジュースを飲んでいました。一週間ほどして東京へ帰ったときの話です。「お父さん、ボク、恥かいちゃったよ。小澤征二なんて有名じゃないよ」「誰も知らないよ、そんな人。友だちに知っている人いなかったよ」世界の小澤さんも子供たちにかかっては形無しです。子供たちは喜んではくれなかったものの、いろいろな人と出会いました。当時、杉山さんのロッジ、スポーツハイムは一流人の溜まり場でした。一冊の本と武藤さんと小澤さん小澤征二さんと仲の良かった人に武藤さんという方がおられました。当時、日本鋼管の取締役・社長室長をやっておられました。温和な、なかなかの人物です。奥志賀に別荘を持っていました。日本で始めての高層ビル、霞ヶ関ビルを設計した方の息子さんです。お父さんは東大名誉教授で大成建設の副社長でした。私は以前、建築の本を作っていたので、お父さんのことは知っていました。「ボクが翻訳するから、ゲオルグの本を出版してもらえませんか」ゲオルグ・ヘルリグレ、オーストリーのデモンストレーターです。杉山進スキースクールにも客員教師として滞在していたことがあります。打ち合わせで呼ばれた日本鋼管の役員フロアーに降り立ちました。「お待ちいたしておりました。ご案内させて頂きます」半端じゃありません。ホテルなんてもんじゃありません。さすが超一流企業の役員フロアーです。秘書の女性も飛びっきりの美人さんたちです。それも一杯。絨毯はふかふか。これじゃ歩きにくいぐらいです。役員応接室への電話私と武藤さんが話をしているときに秘書の女性が電話を取次に来ました。「小澤先生からお電話が入っておりますが、いかが致しましょうか」「いいよ、こっちへつないで」「ヤァー、いま○○さんも一緒なんだよ。小澤さんも来ればいいのに」「えー、そう。そのメーカーの板は小澤さんには堅過ぎるよ」「だめだよ、それも。ほかにどのメーカーの板があるの?」「ダメだね。よければ、ボク行ってあげるよ。選んであげるよ」「えーっ、ウクライナ。何この電話、ウクライナから」「じゃーダメだ。適当でいいんじゃない。滑れればいいんだろ」小澤さん旧ソビエトで演奏の合間にスキーをやろうと思ったみたいです。「どおりで、電話が遠いと思ったよ。まったくもー」武藤さんと小澤さん。いつもこんな調子でした。運転手付き役員専用車で原稿が届く私の事務所の前に黒塗りの高級車が止まります。役員専用車です。降りてくるのは日本鋼管の美人秘書さん。「武藤から言いつかってまいりました」封筒の中身はミミズが這ったような字で書かれた原稿4、5枚だけ。こんなラリーを繰り返し、本が出来るまで一年はかかりました。ゲオルグの本が出来てまもなく、武藤さんは亡くなりました。まだそれほどの年でもありません。喉頭ガンでした。たぶん自分で分かっておられたのでしょう。あとで考えると言葉のすみずみに余命の少なさが滲んでいました。小澤征二さんが奥志賀高原で森のコンサートを開きました。私は女房を連れて出かけました。前の日はスポーツハイム泊まりです。「やりましょうよ、前夜祭」。小澤さんが声を掛けてきました。ハーブ奏者を中心に同宿の演奏家が集められました。10人ぐらいです。観客と演奏家の数はほぼ同じです。もちろん小澤さん指揮です。でもその場にはもう、武藤さんの姿はありませんでした。つづきます。
Jan 16, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その八)今日は独立後、取次口座を開設するために取ったウルトラCの話です。実はその後、「もう二度としないで下さい。もう勘弁して下さいよ」と出版取次の担当者から泣き付かれました。だからこの方法はナイショです。でもすでに20年ぐらい過ぎたので時効です。会社の歴史を作っちゃえ実績がないと取次口座を開設してもらえない。昔も今も同じです。こんなとき、一瞬にして悪知恵が浮かぶのが私です。それに、たぶん出版取次の反応ってそんなものだろうと覚悟していました。まずは会社を作ったとき、○○書房っていかにも古そうな社名にしました。会社創立後2ヶ月ぐらいでも、この社名を印刷した名刺は効果を発揮しました。名前が一人歩きしてくれるのです。「知っていますよ。老舗じゃないですか」「いい本出しておられますよね。私も買ったことがありますよ」社歴1~2ヶ月。自社出版物ゼロの時期での話です。「えー、まー。地道にやっています」「そうですか。ありがとうございます。ぜひまた買ってやって下さい」我ながら、なかなかの役者ぶりです。どうせなら出版点数を増やしてしまおう大して資金もなくて始めた会社です。二点も本を出せば財布は空っぽです。「この本、分けちゃおうよ」突然、ひらめきました。よし、これで行こうって。200頁ぐらいの本として準備してきたものを、三冊の本に分冊です。1冊の本を作る費用で、最低2冊の本が出来上がります。実績を作るには、まず出版点数です。もう一つ別な要素も念頭にありました。「ブックレット・シリーズ」と名付けました。当時、ムックという言葉が出来ていました。マガジン・ブックの略称です。「いいよ、うちはパンフレット・ブックだよ」「パンクじゃヘンだからブックレットにしようよ」またまた私の造語です。この言葉も一人歩きを始めました。この頃、他にもいろんな言葉を作りました。今でも結構通用しています。エッヘン。今じゃみんなブックレットって言っているよ「ビックリしたよ。まさか○ちゃんが作った言葉だと思わなかった」ブックレットシリーズが出始めて半年後、大手の出版社から電話が入りました。「うちで出す時事問題の小冊子のシリーズ名を考えていたんだ」「本屋で見かけて、これだって思ったんだ。うちの企画にピッタリだよ」「使わせてもらいたいんだ、ブックレットの名前。どうかな?」「別にいいよ。商標登録したわけじゃないから、自由に使ってよ」このころになって、ようやく出版取次の口座が取れました。その決め手になったのが、このブックレットシリーズです。この本のもう一つの要素です。定価が安く設定できるのです。来月私が出す本と同じでカバーも付けていません。経費削減です。最初はスキー関係の本です。チューンナップの本です。「ワクシング」「エッジング」など工程別に80頁にまとめました。神保町を狙えでもまだ取次口座はありません。「神保町と新宿だよ、重点は。一点突破、全面展開だよ」本屋さんとの直接取引きです。スキー用品店の多い場所を狙いました。予想どうりです。三省堂神田本店のベストテン入りです。それも実用書部門の1位から3位まで独占です。3点しか出版物がなかったので、それ以上はムリでした。なぜそれが可能だったか?過去のデーターでスキー書の売れる本屋さんを全て把握していたのです。それぞれの書店担当者も、以前から私と面識がありました。さらにもう一点、定価が安かったこともあります。ちょっと考えれば分かると思いますが、ベストテンは売上げ冊数です。売上げ金額ではありません。私の頭にひらめいたのは実はこのことでした。すぐに本屋さん向けの注文書を作りました。三省堂書店売上げランキング1~3位独占と大きく書きました。その注文書をもって手当たり次第、本屋さん回りです。「済みません。まだ取次口座が開かれていないんです」「開設されたらすぐ納品しますからお願いしま~す」うづ高く積みあがるほど注文書が溜まりました。さて、出版取次との戦闘再開です出来たばかりの出版社であることは変わりません。でも既に出版点数は5点です。実績です。三省堂の売上げランキングも独占です。これも実績です。それにも増して取次担当者がショックを受けたのは注文書の山です。これでは口座を開設しないと、本屋さんのクレームが取次へ殺到します。「これじゃ確信犯ですよ。勘弁して下さいよ。やり過ぎですよ」いろいろ言われましたが、急きょ3日後には口座が開設されました。「こんなやり方、絶対教えないで下さいよ。たまったもんじゃない」さんざん文句は言われましたが担当者の目は笑っていました。
Jan 15, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その七)今日こそ独立するところまで話をもって行きたいのですが、はてさてどうなりますことやら。行くへ知れない旅にてござんす。寄り道も勘弁してやってくだせえ。それでは隠居の思い出話にお付き合いくださいまし。「チューンナップ」と名付けてしまった「スキーの修理と調整」「スキーの点検と整備」このころまでのスキー用具の本の名前です。何かダサいのです。三浦敬三さんたちには申し訳ないのですが、そのように感じていました。「海外でどのように呼んでいるか調べて下さい」ところがこれもピンと来ません。「スキー・スープアップ」でした。「オレ、決めたよ。チューンナップ・スキーで行こう」英語に弱い私ならではの命名です。イメージだけで決めちゃいました。私の勤めていた出版社でモーターレース雑誌も出していました。クルマの雑誌にチューンナップの文字があったのを持ってきただけです。「おかしいよ、それ。クルマは法規制があるから「調整」なんだよ」「スキーは性能向上だから、やっぱりスープアップだよ」「いいから、いいから。オレ、決めたんだもん。チューンナップ・スキー」本場ヨーロッパまで「チューンナップ・スキー」と呼ぶようになったこの本は売れました。定価も高く付けたのに次々重版です。同時に「チューンナップ」という言葉が広がっていきました。スキー用品店にも「チューンナップ引き受けます」の看板が立ち並びました。杉山進さんに、せめて「スキーチューンナップ」にすべきだと指摘されました。いえ、チューンナップのほうを強調しましょうよと押し切りました。他の人には「本場ではチューンナップって言うんだよ」とウソの報告です。このころ、世界のスキー市場の中での日本の購買量は群を抜いていました。今度は言葉が一人歩きです。海外でもチューンナップと呼ぶようになりました。元々は楽器の音を調整するという意味だと後で聞きました。独立して出版社を起こした後の資金稼ぎが、スキー雑誌の編集請負です。チューンナップの特集や別冊を次々と作りました。まあそれは後の話です。今では「スキーの点検と整備」なんていう人はいません。さらば昔の仲間たちそこでまた、昨日も書いた印税の支払い問題です。スキーの本が次々とまとまるに連れ、またもや会社と著者の板ばさみです。それも今度は著者といつも一緒なのです。スキー場じゃ逃げられません。ちょうどそのような時のことです。「今晩ヒマか? ちょっと一杯どう?」ある会社役員が声をかけてきました。「○クン、今度○さん(会社役員)が辞めることは聞いているよね」「欠員ができるんだよ。キミを役員に推薦したいんだけど、いいよね」「良くないですよ。オレ、いやですからね、役員なんて。冗談じゃない」理由は二つです。一つは著者との板ばさみです。解決出来ないくらい印税の未払いが溜まっていました。それに私は元とはいえ労働組合の委員長です。やはりスッキリしません。この話。女房にはナイショにしました。言えば、給料が上がるってだけで、引き受けろって言われてしまいます。その代わりに、「そろそろ会社を辞めるよ」と言いました。退職、そして創業私を「役員に」って言ってきた役員は真っ青です。そりゃそうですね。その翌日に辞表が出されたのですから。「いやー、そのこととは関係ないですよ。前から考えていたんです」一応はそのように言っておきました。その役員も、自分の立場があるので、私との話は黙っていました。学生時代に入社して、17年間勤めた会社を飛び出したのです。とにもかくにも、出版社を一つ立ち上げました。急ぐ必要があったのです。今まで出版点数だけは毎月多かったので、フリーの人を使っていました。女性が多かったのですが、彼女たちの仕事もなくなります。事務所を借りて、以前働いていた会社の机や椅子を借りてきました。前の会社の役員さんたちは最大限の便宜を図ってくれました。出版取次の口座も必要です。前の会社の専務が同行してくれました。出版取次に口座を開設社歴100年の老舗の出版社の専務で営業本部長です。その人物が「ぜひ彼のために口座を開設してやってくれ」と頭を下げるのです。出版取次も軽々には扱えません。それでも話はなかなか進みません。「実績が……」「キミね。彼の実績は、ボクの会社の本を見ればハッキリしているだろう」「いえ、出版社としての実績が……」「おかしいんじゃない。キミね、新しい会社に過去の実績があるわけないだろう」「でも、実績が……」押し問答の末に口座開設は先延ばしです。そこで一計を案じました。例によって超ウルトラCです。新しい会社の実績を作ってしまったのです。その話はまた長くなりそうなので、明日にします。
Jan 14, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その六)2回程度で終わらせるつもりだった話がなかなか終わりません。この際だからもうしばらく昔話に付き合って下さい。今日の話は20年ちょっと前のスキー場での出来事です。スキー場の夜はふけてこの年の参加者も200人以上はいました。夜のパーティもいつしかディスコパーティに切り替わっていました。30代半ばになっていた私は、もう親父扱いです。「それじゃ、○さんのは盆踊りだよ」なんて冷やかされて踊っていました。「今晩は」と声を掛けてきた女性がいます。小学館の女性編集者でした。「あれ、○ちゃんも来てたの?」「うーん、私は仕事よ」テレビ情報の週刊情報誌の副編集長をやっている女性です。聞くと、奥志賀高原まで取材に行くそうです。カメラマンなどスタッフを引き連れていました。「ワールドカップの取材よ」「それが何で志賀高原なの? 場所が違うんじゃない」確か日本で始めてワールドカップが開催された年です。「奥志賀にスキー用具の整備やワクシングの先生がいるのよ」「ワールドカップの舞台裏ってテーマでまとめようと思って」「明日の予定なんだけど、みんなに会いに来たのよ」ヒマを持て余していた私です。若い連中にはもう付いて行けません。「オレも連れて行ってよ。面白そう」杉山進さんとの出会い、そして林壮一さん翌日の昼近く、奥志賀高原のスポーツハイムというロッジに着きました。杉山進さんはスキー界の大御所です。確か現在は、SIA(職業スキー教師協会)の会長です。取材が始まりました。実演をするのは林壮一先生です。当時、林壮一さんは奥志賀のスキースクールの主任でした。エッジの調整、ソールの研磨、ワクシングと手際よく撮影です。一通りの取材と撮影が終わりました。そうなると、でしゃばりの私は黙っていられません。「あのー、私、スキーが上手くならないんですが道具のせいですかね」「ありますよ、そういうことって」林壮一さんとの掛け合い漫才のような会話が延々と続きました。帰ろうと思ったら、もうバスもありません。「すみません。タクシーを呼んでもらえますか?」「ムリですよ。呼んでも来るまでに2時間はかかりますよ」「いいですよ。ボクがクルマで送って行きます」またまた一冊、本の企画がまとまった送ってもらうクルマの中での話です。「今日説明して頂いたようなことの本は出ていますか?」「三浦敬三先生と土方先生の本ぐらいかな。ちょっと古いけど」「何で古いんですか?」「スキー用具ってどんどん進歩しているでしょう」「整備のやり方も変わっていくんですよ」その翌日の夜行バスで東京に帰りました。帰着は翌朝です。そのまま会社へ直行です。「明日、取材に行きます。志賀高原へ。スキーの本を作ります」「えっ、スキーに行ってきたんじゃないの」編集部長の常務は目を白黒させていました。こんなときの行動の速さだけは誰にも負けません。林壮一さんに電話して、ロッジも確保してもらいました。夜行バスも確保して、その足で志賀高原にユーターンです。出迎えた林壮一さんは大喜びです。初めての自分の本が出来るのですから、当然と言えば当然です。でも杉山進さんはそうでもありませんでした。失礼ですが、堅実かつ着実を絵に描いたような性格の方です。忙しいこともあって、なかなか時間をとって頂けません。しょうがないので昼間はスキーで遊び、夜は飲んでいました。オジサン、写真集なんて売れないよスポーツハイムはスキーヤーズベッドです。私と同じ部屋にあと二人の人が同宿していました。お一方はいいお年のようです。毎晩三人で雑談に花を咲かせていました。「ボクの写真集を出したいんだけど」お爺さんが話しかけて来ます。「売れないですよ、写真集なんて」「ムリ、ムリ。止めたほうがいいですよ」そんな話をしていたときです。「杉山校長が、ぜひお出で頂きたいと言っているのですが」あれどうした風の吹き回しだろうと、いそいそ出かけました。校長室にはワインと料理が用意してありました。杉山校長と並んで、くだんのお爺さんが座っています。「いやー、あなたが奈良原先生とお知り合いだとは知らなくて」めったに笑わない杉山進さんがニコニコしています。とんでもないお爺さんだったのだ「私がオーストリーに行っていたとき、お世話になったんですよ」杉山進さんは日本人で初めてオーストリーの国家検定に受かった人です。聞くと奈良原さんという方は世界的に有名な写真家でした。日本人の海外旅行が制限されていた時代に欧米で活躍されていたそうです。奈良原さんから、面白い人がいますよと言われて私を呼んでくれたのです。もうここまで来れば一気呵成です。トントン話は進みました。それにしても奈良原一高さんを知らなかったとは恥ずかしい。帰ってから何冊か写真集を買い漁りました。朝日新聞社や岩波書店から何冊も出版されていました。「写真集なんて売れないですよ」「止めたほうがいいですよ」奈良原さんも人が悪い。教えてくれないんだもん。ニコニコしながら私の話を聞いていたんですよ。続きます。ここまで来ると、読んで下さる人の顔色を覗っていられません。書かせて下さい。お願いしま~す。
Jan 13, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その五)昭和30年代から40年代にかけて実用書の出版社が次々と出来ました。その多くが理工学書専門出版社で編集を経験した創業者によるものです。理工学書の図表などビジュアルに紙面を構成する編集技術が実用書に活かされたのです。私が働いていた会社の先輩が創業した実用書出版社も数多くありました。行政改革前夜特に土木は親方日の丸です。官庁の発注工事がほとんどです。それまではお役所回りをして、工事誌などを請け負うだけでいい稼ぎでした。詳しくは書けませんが、官庁の推薦文一枚で売上げは十倍にもなります。あるとき国鉄の内部資料を本にしたことがあります。工事指針解説です。本が出来上がる寸前になって著者を誰にするかという話題になりました。「○○総裁の息子さんがいいんじゃない。そろそろ著作ぐらいもたせないと」それまで私は、著者ってのは書いた人と思っていました。「売れるよー。業者は争って買うよ。登録業者には俺がすべて連絡しとくよ」確かに売れました。信じられないぐらい。注文のない業者には「おたく、もううちの仕事は止めるの?」と電話が入ります。ちょうど引越しの最中なので段ボール箱5個分なんて注文までありました。本の注文を冊数でなくてダンボール箱の数で受けたのはこのときぐらいです。調子のいい私は、ちょっとやり過ぎだとは思いながらも流れに乗っていました。行政改革の波そのような土木や建築の工学書や資格試験の受験参考書を作っていた頃です。土光さんという経団連の会長が中心となって行政改革が進められました。国鉄の民営化をはじめ、さまざまなうねりが出版社にも影響を及ぼしました。仕事は半減なんてものではありません。壊滅状態です。年商は大幅ダウンです。私は他人事で「当り前だよ。今までがおかしかったんだ」とうそぶいていました。でもそればかりも言っておれません。次の仕事を探さないと。そこで実用書です。今までの編集技術の応用です。さまざま提案しました。どうせなら楽しいもののほうがいいだろうと趣味の本に走りました。自分の欲しい本の企画書を書くのですから、こんなに楽なことはありません。私の課は、資格試験の受験参考書と趣味の本の編集部になってしまいました。釣りをやってみたいなと思えば釣りの本です。やりたい放題です。企画調査名目で遊び歩きました。常務を巻き込んで温泉巡りもしました。印税が払えないそこそこの著者を見つけるものですから、売上げも伸びてきました。ところが印税支払いが追いつかないのです。どんどん貯まり始めました。官庁や大学の先生たちは印税が遅れてもまずクレームを付けてきません。本を出すことで学者としての箔がついたり出世できるのです。「いやー、出してもらったことだけで十分だよ」と言ってくれます。ところが趣味の本は、著作を唯一の収入源にしている人も少なくありません。電話が架かってきます。「どうなってんの? 払って下さいよ」経理に言ってくれ、会社に言ってくれと言っても当然納得しません。「ボクはキミから頼まれたから書いたんだよ」と言われてしまいます。そのような著者と会社の板ばさみ状態が続いていたときのことです。志賀高原にスキーに行きました。ご招待を受けたのです。私が始めた出版スキー祭典の10周年記念のイベントでした。毎月「第一回」をやろうよ話がまた10年前に遡ります。出版の青年組織の議長をやっていた時です。労働組合の暗い雰囲気に反発していました。「楽しいことやろうよ。そのための組織だろ」これが私の口ぐせでした。「歴史は今から始まるんだよ」なんて調子に乗って言っていました。「第一回スケート祭典」「第一回歌声祭典」「第一回キャンプ祭典」……。「第一回」と銘打って次々とイベントを仕掛けました。「ゴルフ祭典」も企画したのですが、「お前、何考えてんだ」でポシャンです。「スキー祭典」も「けが人が出たらどうする」など中執会議で激論でした。「死人が出たら、あんた責任が取れるか」とまで言われました。確かにその頃は、まだスキーはブルジュアの遊びと見られていたのです。労働組合とは関係のないものと思われていたのです。押し切りました。それもスキー場を貸し切ってしまったのです。将来の独立のきっかけになるなんて思ってもいなかった竜王小丸山スキー場。小さなスキー場です。丸ごと借りてしまったのです。夜行バスを何台も仕立てて乗り込みました。こんなイベントは前代未聞です。町長さんまで挨拶に見えられました。リフトだって貸切です。初心者が多かったのでスキー教室は満員です。当時はナイター設備はありません。それでも夜もリフトを動かしました。リフト乗り場にたいまつをワンサカ用意しました。そこそこ滑れる人はたいまつを持って滑走です。滑れない人はふもとのロッジからお酒を呑みながらの見学です。ご近所の農家で杵と臼を借りてきて、餅つき大会もやりました。あとで、スキー場が監督官庁から厳重注意を受けたと聞きました。夜中にリフトを動かしたことがばれてしまったのです。このようなイベント(事件かな)をやった十年後のことです。ちょっと長くなって来たので残りは明日にしますね。
Jan 12, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その四)悪いクセですね。書き始めたら止まりません。でも私のやってきたことって、タネを明かせば単純至極な話ばかりです。コロンブスのタマゴって言って下さる人もいますが、それほど奇想天外な発想でもありません。まー、ここまで書いてきたのだから、書いちゃいましょう。私のブログを読んで下さる人が減らないかと不安なんですけどね。幾らでも企画が出てきた理由意外に思われるでしょうが、私が最初に手掛けたのは土木・建築の専門書です。たまたま入った出版社が土木・建築の専門書に強かったのです。でも私は、法学部出身です(それもほとんど勉強しなかった)。最初は本当の専門書、土木工学だとか浮体構造物なんて本を手掛けました。そのうちにより現場に近い本を作りたくなったのです。大学の先生よりも工業高校やゼネコンの人たちと話すことが多くなりました。ちょうど様々な管理技士制度が出来た時代です。そちらも手掛けました。「土木施工管理技士」「管工事施工管理技士」「下水道技術検定」などなど。先ずはその試験問題と解答集を出しました。毎年の分です。これを、毎年一番新しい問題と解答を付けて、一番古い年度を削るのです。ほぼ過去三年間の問題と解答が、毎年新刊として出せます。作業的には一冊の本の3分の1の新原稿だけです。それも最初の年は1級・2級と分かれたランクも一冊にまとめます。年度を経てくると級ごとに分冊です。ほらこれで出版点数は倍になります。このようなことは、どの出版社も考えます。事実、類書がどんどん出ました。でもそれだけじゃダメなんだよねこのような手抜きは私の得意とするところです。私の作った本が売れたと聞いて、同じような本を出した出版社は多数あります。でも軌道に乗ったのは私の手掛けたシリーズぐらいでした。二つ理由があります。一つは著者の問題です。私は先ず、試験を行う機関の関係者を監修に持ってきました。権威付けです。次に工業高校の先生など、出来るだけ多くの先生方に解説を頼みました。出来上がった本を、教科書採用してもらうためです。まー、よく飲み歩きました。著者打ち合わせの名目です。でも打ち合わせなんて何も必要ありません。ただ飲むだけです。その場にほかの先生たちを呼んでもらいます。一冊の本を作るのに十人くらいの先生を巻き込みました。著者の数に比例して教科書採用はどんどん増えました。今もそうですが、授業の進め方や子供たちのことに悩む先生は多いのです。私は愚痴の聞き役と、先生たちを慰めたり、励ましたりでおおわらわでした。でもいつの間にか、はるか年下の私に相談してくる先生方が増えました。受験者数と本の売上げは比例しないここで一番大切な問題は、印刷部数です。受験者数と読者数は一致しません。当然です。潜在受験者がいます。この数字をどのように読むかが要点です。試験によっては受験者数の六倍の本が売れたこともあります。このことは同業他社も気が付いたようです。気付くのは時間の問題と私も思っていました。それでも私の弾く数字とは大きな落差があったのです。過去のデーターを持っているのは私だけではありません。他社も同じです。問題はデーターの読み方です。本屋さんごとの配本のバラつきをどのように読み込むかです。ある本屋さんは、品切れになっても補充しません。ある本屋さんは、多く注文し過ぎて売れ残り、返品します。データーに残るのはその最終的なトータル数字だけなのです。やっぱり現場百遍なんですよ前年の数字よりもっと多く配本すべきなのかどうか。これは本屋さんの状況を掴んでいないと分からないことなのです。そのようなこともあって、私は本屋さんを徘徊していました。さらに毎年本屋さんに「おたくの適正部数はコレ」って指示していました。だって本屋さんは一年前の試験直前期のことなどほとんど覚えていません。そのうち本屋さんから「何冊入れようか」と電話が架かるようになりました。ベースの数字は著者の先生方の採用で固めても、あとは店頭勝負です。受験書は販売期間が短いので、一発勝負です。数字の読み違いは大量返品にも、時にはチャンスを逃すことにもなります。このような土木や建築に関する様々な受験書を作りました。数十種類にのぼりますが、それぞれほぼ三年で適正部数まで調整しました。あとは遊んでいても本は売れてゆきます。ロスはほとんどありません。実は私が20年以上前に作った本が、いまだに改定を重ね、売れています。昨日書いた、負けた勝負を覚えているのがプロだって話。このような継続性のある企画を追いかけたことが出発点です。でも同じようなことは単発企画でも失敗は次に活かせると確信を持ちました。※分野の偏った本の話なので参考にはならないと思います。明日は一般書・実用書を手掛けることになった訳をご紹介します。そしてスキー書がきっかけになって独立した訳も書きたいのですが、そこまで行けるかどうか……。
Jan 11, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その三)今日も昨日の続きです。その前に一言。昔話ってどうしても自分に都合よく書いちゃうものです。私も実際のところ成功よりも失敗の数のほうが多かった人間です。でもまあ人間の記憶って良く出来ているもので、都合の悪いことはほとんど覚えていません。話半分ということで読んで下さい。事実ではあるんですけどね。企画会議の後で編集部に移って三年ほど過ぎた頃の企画会議の後の話です。毎月、編集者全員が企画を持ち寄る会議が開かれていました。その日も私の企画は四本ともGOサインが出されました。「社長。ちょっと待って下さいよ」エレベーターまで社長を追いかけました。社長と専務が立ち止まりました。「ちょっと、えこひいきが過ぎるんじゃないですか」「俺や○さんの出した企画はいつも通って、何で他の企画はダメなんですか」「返ってやりづらいですよ。俺たちは」その頃、私の手抜きは極限まで達していました。企画書なんて、タイトルと著者名と判型・頁数、印刷希望部数を箇条書きです。ほかの編集者は、企画の趣旨や内容骨子など事細かくまとめてあります。それなのに、私が見ても遜色ない企画書がボツになったり、継続審議です。私が二日酔いの頭で適当に書いた企画は全部通ってしまいます。あと二名ほど、いつも企画が通る編集者はいました。でも二十名はいるのです。プロとアマチュア「ここじゃ何だから」と社長室へ連れて行かれました。「キミは、将棋の大山名人って知っているか?」「彼が言ったんだ。負けた勝負を覚えているのがプロ棋士だって」「キミは自分の作った本が売れ残ったらどうする?」「ほらな、キミや○君は必死で売ろうとするだろ。忘れないだろ」「でも他の編集部員はどうだ。そんな本ありましたっけって調子だろ」「売れたときは鬼の首を取ったように大騒ぎするけどな」「売れなかったときは営業が悪いだの、宣伝が悪いだの、よう言ってくれるよ」「どんな企画かじゃない。誰が企画を出したのかが問題なんだ」「どの企画を採用するかなんてバクチみたいなもんだよ」「企画書どおりに出来上がるとも言えないしな」「結局は勝率の高い編集者に賭けるしかないんだよ」「だったら企画会議って何ですか」「必要ないな」と社長がつぶやき、その翌月から企画会議はなくなりました。代わって進行調整会議と名付けられました。進行状況の報告だけの会議です。せっかくの企画提案の場を奪ってしまったようで、みんなには悪い気がします。ただ一面では、その社長の言ったことは当たっています。私も本屋さんは渡り歩きました。毎月の売上げ推移もチェックしていました。ある時、三省堂書店の本店で名刺の束を見せられました。「○さんの名刺はこんなにあるよ」店員さんが私の名刺を引っ張り出しました。担当の店員さんやアルバイトさんに渡した名刺です。「それとほら、この人もお宅の会社だよ」私と同じ会社の編集部員の名刺を見せられました。それも数枚ありました。「お宅の会社って変わっているね。営業の人は誰も来てないよ」もう一人の編集部員の名刺は、私と同じ、いつも企画の通る編集者でした。辛いけど、自分の失敗作だけは忘れられません。採算も気になります。私がかろうじてプロの編集者たり得たのは、その程度のことでした。自慢話は適当にしとけって言われそうですが、もうちょっとだけ続きます。
Jan 10, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その二)昨日の日記の続きです。でも昨日の日記よりちょっと年代を遡ります。私が出版社に入って一年とちょっとの頃、事件が起きました。事件ってのは大げさですが。給料が三ヶ月続けて遅配になったのです。今日は、私が生意気になった訳を書きます。「私の履歴書」ではないんで、思い出すままです。「エッ、俺が委員長」60年代の後半です。学生運動が盛り上がった時代です。ご多分にもれず私もその一員でした。70年安保直前です。ベトナム反戦運動もありました。すぐ神輿の上に乗ってしまう私です。そんな時に、給料の遅配が続きました。私の勤めていた会社には労働組合がありました。ユニオンショップ制(社員全員が組合員)でした。組合員数約60人、ほとんどの組合員が家族を抱えています。それも一時の給料遅配ではないのです。大騒ぎになりました。そんなとき組合大会が開かれました。私は学生集会のために欠席しました。翌朝会社へ行ってみると、「○君、キミが委員長に選ばれたからね」「何それ? 俺、立候補してないよ」「誰も立候補しないから、無差別投票で一番票の多い人が委員長となったんだ」当時私は21歳、最年少組合員だったのですやらざるを得ません。でも私のおっちょこちょいはそれに止まらなかったのです。その半年前に、出版業界全体の青年組織の議長も引き受けていたのです。学生運動に青年運動、さらに労働組合運動の三足の草鞋です。一日24時間じゃ足りません。もちろん仕事もしています。さらに学生です。要領と手抜きを覚えたのも。このような背景があったからです。走り始めました。まずは給料遅配問題の処理です。乱暴でした。組合の闘争資金の積み立て金を配っちゃいました。そこそこ歴史のある組合だったので闘争資金積み立てだけは豊富でした。猛烈な反対はありましたが、背に腹は代えられません。一方で、会社側に迫って幾つかの協定書を取り交わしました。それが何と、売掛金と在庫の譲渡契約を含むものだったのです。優先債権である労働債権の担保を確保したのです。会社の首根っこをがっちり押さえて、ストライキ解除です。みんな働き始めました。翌々月からは給料も出るようになりました。先ずは一件落着のはずでした。馬鹿は死ななきゃ直らないその翌年、またまた馬鹿なことを引き受けてしまいました。私の取った売掛金や在庫で労働債権の担保を確保する方法が一人歩きです。経営破たんした会社や、しそうな会社の労働組合が真似をし始めたのです。私の作った協定書を元に、あちこちの経営で交渉が行われるようになりました。そんな時です。出版労協(現出版労連)の副委員長たちが訪ねて来たのは。「中央執行委員に立候補してくれ」。これまた晴天の霹靂です。結局は引き受けてしまいました。最年少中執です。これで四足の草鞋です。仕事も含めると五足の草鞋です。もう、自棄のやんぱちです。23歳でした。それぞれ何とかこなしましたが、全部中途半端は否めません。でも勉強になりました。多くの出版社の状況を把握しました。それぞれの経営を、裏口から覗くことが出来たのです。テレビ局、新聞、印刷、広告、映画産業など他産業のことも知りました。もう一度、昨日の日記の時代へ戻ります編集部へ移って半年ぐらいで自分の編集部(課)を作ってもらいました。今日の日記に書いたようなこともあって、私を使いたい人はいなかったのです。山ほど企画書を書いて、「さー、やらせろ」と会社に迫りました。その翌月から、私ともう一人のスタッフで毎月三冊の出版です。ほかの編集部員は一年で二~三冊です。誰も文句を言えません。そのころまだ、出版労連中央執行委員と自分の会社の組合委員長でした。方法は簡単です。余計な仕事をしないのです。みんなが一頁一頁、印刷の指定をしても、私は幾つかのパターン指定だけです。誤字脱字には注意するものの、簡単明瞭を心がけました。印刷現場を知ることが出来たがゆえの手抜きです。そのほうが印刷職人さんたちがやり易いことを体で感じていました。実務を軽減した分、企画を追いかけました。毎月一点の雑誌の別冊と単行本二冊です。楽勝でした。ヒマを持て余して、いつも喫茶店で遊んでいたくらいです。実はこのころ手掛けていたのは土木・建築の技術書でした。またまた明日へと続きます。ゴメンね。
Jan 9, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その一)出版社に勤めたい。編集者になりたい。そのような方たちからメールを頂くようになりました。その方法を一言では言えないものですから、私の場合どうだったのかを書いてみます。すでに長い年月が過ぎ去りました。参考にもならないかも知れませんが、興味のある方は読んでみて下さい。編集者って?「どうすれば、編集者になれますか?」よく聞かれる質問だけど、うーん、答えづらい。どのような本の編集をやりたいかでも変わってくるし……。著者の書いた原稿を本の形にまとめるのが編集者だけど……。形だけの問題でもないし……。そりゃ様々な分野の知識があったほうがいいけど、それだけでもないし……。しょうがない、自分を振り返ってみよう。ただし、B級の編集者ですからね。私は。こんな私でも編集者が務まったというお話です。私が編集者になったきっかけ最初は、本が好きだから出版社に入っただけの話です。それも学生時代に、アルバイトのつもりでした。そのまま社員になりました。根が無精者の私です。卒業が決まっても就職活動をサボっていたのです。最初の仕事は「商品管理」でした。何のことはない倉庫番です。まー、生意気盛りでしたので、編集や営業にケチばかりつけていました。そのうち、そこまで言うのなら編集をやってみろと異動になりました。でも誰も仕事は教えてくれません。冷ややかなものです。あいつ生意気だからお手並み拝見ってところです。本が出来るまでの工程も、それこそ校正記号一つ知らなかったのです。最初に手掛けた本ドンと原稿を押し付けられても、何からやればいいのか分かりません。皆が帰った夜中に、先輩編集者の棚にあった原稿と本を引っ張り出しました。「うん、このように指定すればこのように組みあがるんだ」見よう見まねどころか山勘で原稿に朱を入れて印刷屋さんに渡しました。バッチリです。見事に、私が思った以上の出来栄えでした。でも何かおかしいのです。まさに私が思った以上に良く出来過ぎなのです。翌日、印刷屋さんの営業マンにこっそりと訊ねました。「あれ、誰か手伝ってくれたんですかね」「いえ、指定して頂いたとおりですよ。何もしていません」印刷屋さん今晩は印刷会社の営業マンは何も答えてくれません。でもそんなはずはないのです。その日の夕方、印刷会社を訪ねました。「あのー、この本をやってくれた現場の方に会いたいんですが……」私も一応は、得意先の人間ですから丁寧に応対してもらいました。でも現場の担当者は遠慮なんて一欠けらもありません。「何? あれお前さんがやったの。ひでーなんてもんじゃなかったぞ」「しょうがねーから、勝手に組み上げといた。文句ねえだろ」「余計な指定なんて入れずに、原稿のまま寄こしゃいいんだよ」「知ったかぶりして赤字を入れられちゃ迷惑だ。勉強しなおせよ」「済みません。新人なもんですから、教えて下さい」「誰が? 冗談じゃないよ。それくらい自分で考えろよ」「だから、印刷の工程を教えて欲しいんです」授業料は一升瓶「馬鹿言うな。俺は渡りの職人だ。そんなことやってられるか」「何ですか、その渡りの職人って?」「おめーなー、それさえも知らないのか。潰れるよお前のいる会社」「渡りってな、活字を何本組み上げて幾らって、出来高払いの職人だ」「だから俺は、おめーと話しているだけで大損なんだ。もう帰ってくれ」「済みません。じゃあ隅っこで見させて下さい。見るだけならいいでしょう」「まったくもー、邪魔したらただじゃおかないからな。勝手にしろ」私は、ポケーっと二時間ほど作業を見ていました。それからこっそり抜け出して一升瓶とお寿司の折り詰めを買ってきました。もしかしたら印刷の職人さんになったかも「おめーもよ。いい根性してるよ。おもしれーか。見てるだけで」コップ酒が効いたのか、十人ほどいた職人さんたちの笑い声が響き始めました。「よっしゃ、あんちゃん。自分でやってみろ。先ずはヒロイだ」活字を一本一本、棚から拾い出す植字という作業です。その日から三週間ほど、毎晩出かけて行きました。次には組版という作業です。拾った活字を一頁に組み上げる作業です。「おめー、出版なんてちんけな商売やめちまえ。印刷の仕事を教えてやるよ」「いい金になるんだから。腕のいい職人になれば遊んで暮らせるぞ」結局は、一番最初に会った口の悪い職人さんが全てを教えてくれました。以上は、今のオフセットの前の時代。活版印刷全盛の頃の話です。一番難しい表組みや何段にも重なった数式さえも組めるようになりました。編集へ異動して一ヵ月後、ベテラン編集者より私のほうが印刷通になりました。まず行動を起こすこと、それが編集者の基本かもしれません編集の技術を覚える方法は簡単です。見ればいい、やればいいだけです。私の場合、仕事を覚えるための出費は一升瓶と折り詰めの寿司代金だけです。それも、私はちゃっかりと残業料を請求したので、自腹は痛んでいません。先入観を持たないことも編集者には必要なことのように思います。私は出来るだけ編集仲間とは距離をおきました。書店さんや営業のスタッフとは年中飲んでいてもです。出版技術を覚えるためにエディタースクールに入ったことはあります。でも三日目には辞めてしまいました。印刷現場がどうなのかは勉強しましたが、それ以外には興味はありません。人それぞれですから一概には言えません。著者や新聞記者連中や雑誌記者連中とは、今も付き合っています。それと本屋さんや出版取次の人たちとも。しばらくはダラダラと昔話でも書きますかね。読んでも面白くないでしょうが、ちょっと思い出にひたってみます。☆今日書いたのは後楽印刷という印刷屋さんでの思い出です。飯田橋駅から歩いて7~8分のところにありました。今から十数年前にその印刷屋さんも潰れたと聞きました。あの職人さんたちどこへ行ったのだろう。私より30歳くらい年上の人たちが多かったので、生きておられるとしても、いい年です。急に懐かしくなりました。今、私があるのも、この時出会った職人さんたちのおかげです。お鮨を折り詰めにしてもらったお鮨屋さんは、確か「金寿司」と言いました。まだあるのかな。美味しかったな、あのときのお鮨。
Jan 8, 2005
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今、気がついたのです。ブログって見てもらうよりも、見るものだって。何で、こんなこと気がつかなかったのだろう。「オレが、オレが」が多過ぎました。伝えたいことは山ほどあります。でも、その前に、相手のことを知らなくては。本作りで、読者が大切だと書きながら、肝心なことを忘れていました。ブログって双方向なんですよね。ゴメンなさい。一つでも多くのブログを見て、理解する努力をしてみます。飲みながらだけど、これだけは勘弁して下さい。よっしゃ、ブログ散歩に出掛けます。その前に、ちょっと一杯、引っ掛けに行ってきます。……… お詫び ………足跡がペタペタ付いちゃって、何だろうって、来られた方もおられると思います。悪気はないので念のため。今日はランダムにあちこちとホームページを覗いています。物好きな親父の足跡です。ゴメンなさい。書き込みは必要ないですよ。何でだろう?ランダムにあちこちのホームページを散歩して気が付きました。1 何で同じホームページへ何度も行くんだろう。2 各ページの足跡に、何で同じネームがあるんだろう。私もホームページを次々覗くので、人のことは言えないですけどね。でも、ちょっと変だし、気になりますね。追伸やっぱり、凄いですね。皆さんのブログ。私みたいに文字だけってないですね。そのうちまた、挑戦してみますよ。デザインに。でも、いつのことになるやら。期待するだけ無駄ですよ。誰も期待していないか……。
Jan 7, 2005
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本の定価を考える本の値段は高いか、安いか「そりゃ、安く作れば自費出版する人は喜ぶの当り前だよ」「でも誰も買わないよ」「高すぎるよ、本の値段」「今どき、コーヒーは180円だよ」「昼メシだって、500円玉を握り締めて行くんだよ、サラリーマンは」「昼メシと一緒にしないでよ」「一週間前の昼メシ、何食ったか覚えてないだろ」「本は残っているよ」「ぜい肉より、知恵をつけてよ」「それに日本は欧米より、三割は安いんだよ、本代」行きつけの赤提灯でホッピーを飲みながらの、店の親父さんとの会話です。私が、自費出版はもっと安く出来ると言ったら、口を尖らせました。ヒマがあると手当たり次第、本を読んでいる親父さんです。比較すると安いはずなんだけど飲み屋の親父さんへ言ったように、確かに欧米より安いのです。日本の委託販売制度と印刷会社の競争が背景にありました。日本人の活字好きも、出版文化の底辺にありました。先日、これからの出版文化を考えるという論文に目を通しました。良心的に現状を憂い、出版の将来を真剣に考えた内容です。その中にも、欧米に比べて我が国は本が安すぎると書いてありました。作家が潤わず、出版社も苦しい。本屋さんも大変だ。その原因が、本の定価の安さに起因していると言うのです。私は、一面では当っているけれど、大切な問題を忘れているような気がします。パイの大きさの問題本の定価を上げ、パイを大きくして、みんなで分けるのも一つの方法です。でもその前に、本の需要を増やして、パイを大きくすべきではないでしょうか。逆に、本の定価を下げる努力をして、需要を増やすことも考えられます。でもここで抜き差しならない問題が出てくるのです。本屋さんの利幅の問題です。本が売れて、本屋さんの手元に残るのは、約二割です。駅前や商店街、商業ビルなど地代・家賃の高いところに本屋さんはあります。家賃が高いところへ持ってきて、先日も書いた万引き被害です。アルバイト、パートといえど、従業員を配置しなければなりません。そのような状況下で商品単価が下がったとしたら、もう採算は取れません。せめて本屋さんの利幅が定価の三割はないと事業維持は難しくなります。もしかすると出版人なら誰もが分かっている問題です。でも誰も口にしません。言うだけムダと思っているのです。専門書はもっと高く、一般書はもっと安く初版で3000冊を超える本は今よりももっと定価を安く出来ると思います。一方で、小部数の専門書の定価は安すぎます。これでは専門書の出版社が次々と経営危機に陥るのも当然です。500冊の本と3000冊の本の印刷代の違いはせいぜい倍になるくらいです。大きくは製本代と紙代の違いがあるくらいです。固定経費、編集経費などはまったく同じです。専門書の出版社は、一般書の定価付けに影響されて値段を抑えすぎです。ムリして印刷部数を増やして、原価率を下げようとしています。読者の値ごろ感を考えると仕方ないのでしょうが、やはりムリがあります。お約束は出来ませんが、そのうちワンコイン本に挑戦します来月出す私の本を例にあげてみます。1000冊印刷して定価980円。原価率39%です。これをもし3000冊印刷したとします。そうすると原価率は18%です。自分の本ですから、私の場合は著者印税と編集費を除いてあります。それを計算したとしても、余り変わらない数字が出てきます。印刷部数が変わるとこれほどまでに、原価率が変わってくるのです。もし来月出す私の本を初版3000冊としたら、定価500円でも十分です。極端な例だったかも知れません。印刷部数が増えればリスクも増大します。でもこれほどまでの、印刷部数による違いがあるのです。※ 今日の日記を読んで頂いて、一度本屋さんの店頭で本の定価を比較して見て下さい。専門書の出版社がいかに頑張っているかご理解頂けると思います。本の定価をもっと下げ、本を買いやすくする努力をしながらも、専門書の出版社が生き残る道、併せて本屋さんの経営が安定する道を考えていかなければならないと思います。
Jan 5, 2005
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本は背中で売るという話百里の道も九十九里が半ば先にベストセラーの怖さを紹介しました。常に返品のリスクを背負った、委託販売が出版販売の基本です。詰めの甘さは、取り返しのつかない損害をもたらします。出版では『売れたけど儲からなかった』ことが多いのです。売れていれば売れているほど、慎重にならざるを得ません。市場在庫(店頭の売れ残り)を予測する能力が問われます。とはいえ、販売のチャンスも逃がすわけにはいきません。ある程度はリスク覚悟で本を送り込むことになります。そこで問題になるのが最終的な実売率です。私は『仕上がり率』と呼んでいます。この数字、返品率と同じように捉える方が多いようです。ところが、返品率の高い本、イコール実売率が低いわけでもないのです。ちょっと頭の体操ですこれまたタネを明かせば、簡単な話です。本屋さんに1000冊の本を預けたとします。500冊返って来ました。当然、返品率は50%です。その返品で返って来た500冊の本を、もう一度本屋さんに預けました。今度は250冊返って来ました。返品率は50%で変わりません。でも、作った本に対する売れた率(実売率)は75%なのです。これでお分かりでしょう。返品率と実売率は、連動しないのです。本屋さんや出版取次は、販売効率から考えると、返品率が大きな問題です。ところが、出版社にとってはこの実売率こそ最大の問題です。実売率は直接、費用対効果と連動します。返品率を下げ、実売率を上げる方法もちろん返品率が高ければ、出版社も経費がかかります。それでも一冊でも多く売るために店頭に並べてもらう努力をします。少しでも返品率を抑えながら実売率を上げるのが出版営業の根幹部分です。本の商品寿命が短くなりました。以前だと返品率が高くても、四、五回回転させればほぼ売り切れました。今では、二回転もさせれば、商品寿命が尽きてしまいます。その段階の売れ残りは、すべて死に在庫となります。デッドストックです。本の販売が、短期決戦型になってしまったのです。当然、ロスは大きくなります。実売率が下がってしまうのです。今まで以上に、余分な部数を印刷しないことも求められています。でもただそれだけでは、販売のチャンスを逃しかねません。売れていても売れ残る今では棚に差し込まれた本は売れないと言われています。確かにほとんどの本は平積みでないと売れません。平積みとは、何冊かの本を積み上げて売る方法です。平台と呼ばれる新刊コーナーのような平積み陳列重視です。どの本屋さんも本棚を減らして、平台を増やしています。だからどの出版社も表面の表紙のデザインに工夫を凝らします。問題は平積みで売れ残った場合です。10冊の本を平積みして2、3冊売れ残ったとします。当然、本屋さんは新しい新刊と入れ替えます。もしその本がそのまま返品されたとしたらどうでしょう。それだけで、20~30%の返品率です。売れた本でさえ20~30%の返品率なら、全部合わせばその倍にはなります。これでは出版社は大赤字です。採算が取れません。返品率を下げ、実売率を上げるには、もう一工夫必要です。背中で本を売ることの大切さ平積みだけだと、よく売れた本にも関わらず、結構な返品率です。そのまま出版社に返品されたとしたら返品率はドンドン上がります。さらにそれが売り時の峠を越えていれば、すべてデッドストックです。売れるけれども返品率を上げるのが平積み販売の特徴なのです。でも本屋さんは、売れていた本ならば、残った分は棚に陳列します。このとき露出するのは『背表紙』なのです。本を棚に差したとき見える本の背中です。もし、10冊配本された本が平台で7冊売れただけなら、返品率3割です。ところが棚に置いてから、たとえ1、2冊でも売れたとしたら。一気に返品率は、1、2割まで下がります。最後のフィニッシュを決められる本にするには、まさに『背中』です。『背表紙を軽視する編集者は、出版販売が分かっていない』ここまで言い切っても過言ではないと思います。誰もがあまり気にしない背表紙です。意外と意外で、そのような些細なことが大きく影響するのが出版と言えます。※いけない、いけない。またちょっと小難しくなってしまいました。反省ー。まー、出版業界にはこんなこともあるんだ程度に思っておいて下さい。
Jan 4, 2005
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辛口書評大歓迎!両国の隠居の ないしょ話身も心も捧げた女は飽きられる男と女の勘違い本の中身、タイトル、デザインなど、忌憚なく書き込んで下さい。※この本は、まさに私の独断と偏見に満ちています。ズバリ、ご批判のほどお願い申し上げます。
Jan 3, 2005
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辛口書評大歓迎!ちょっと本を作っています38万円で本ができた個人出版がおもしろい本の中身、タイトル、デザインなど、忌憚なく書き込んで下さい。※81頁3~4行目、「いぎたない」は「意地汚い」の方言です。私が下宿していたお寺の住職(知恩院の長老)の口癖をつい使ってしまいました。「○ボン、いいか人はな、自分の欲を抑えんとあかんのや。一番の身近な欲は食欲や。食い物にいぎたなーなったらあかんえ。まず自分の食欲を抑えることを覚えんとあかんで」雀百までですね。こんなところで遙か昔の住職の口癖が出てしまいました。
Jan 2, 2005
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本の企画を考える(番外編)突っ走っては来たけれど常に時代の先頭を走り続ける。誰よりも早く。今から30年ほど前より、10年近く前までの私の出版理念でした。成功したことも、失敗したことも数多くあります。それでも自分ではそれでいいと思っていました。予想が外れたときは、時代がオレに追いつけないのだと嘯いていました。若さゆえの驕りがあったように思います。「チャンスの女神には後ろ髪がない」昨日書いたこの諺が頭に染み込んでいました。いわば強迫観念にも似た衝動が私を突き動かしていました。もちろん、今でも後悔はしていません。全力疾走で時代を駆け抜けて来たからこそ、さまざまな経験ができました。ただそこに累々たる屍骸が転がっていることも事実です。私の家族と、共に闘ったスタッフ、取引業者の涙とため息も残されています。それが出版事業なんだと言い切るには、余りにも多すぎた犠牲です。なぜもう少し、客観的に自分を見つめられなかったと思います。今、脳裏を駆け巡る思い今日の日記は、今年の私への諌めです。「チャンスは追いかけるな、待ち伏せするものだ」これも昨日の日記に書きました。これが私の今の到達点です。時代の先を行くことは出版人なら当然です。時代の先陣の風を受け、夢に向かって挑戦する。この思いは未だに、微動だにしません。ただし、現実に出版する本と時代の乖離だけは見つめなければなりません。「時代より一歩前じゃ出過ぎ、半歩前に出たぐらいの本でないとだめだ」最近ではそのように思っています。抽象的ですが、本の企画を考えるときの一つのポイントです。でもこの「半歩前に」がとてつもなくむつかしいのです。出版企画を考える多くの編集者の悩むところです。アンテナはブログ方法は一つしかありません。まずは時代より一歩も二歩も先へと進むことです。そして、時代を待ち伏せします。時代の半歩前のタイミングを見計らって、戦闘開始です。十分な態勢、最高のタイミング、さらに最適なシチュエーション。天のとき、地の利、人の和。まさに古来からの戦術どうりです。そのためにはアンテナを張り巡らさなければなりません。私にとって、今やブログがその役割を果たしてくれています。私のブログのアクセス数が多いのは足跡を辿って来られる方が多いからです。別にアクセス数を上げるためにやっているのではないのです。暇があれば、一つでも多くのブログに目を通したいと努力しています。そのことで世相の動きを捉えようとしています。情報過多の時代です。それも作られた情報が氾濫しています。人の心の襞を垣間見させてくれるブログは、貴重な生の情報です。今日もまた、ネット散歩に出かけます。※ やっぱり元旦だから、ちょっとネット散歩をさぼっちゃった。それと少し酔っ払った。いいよね。明日からだよ、明日から。(23:00)
Jan 1, 2005
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