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以前、デジタル書籍の普及によって紙の書籍はかえって売り上げが伸びるけど、雑誌は苦しくなるのでは、という日記を書きました。誤解のないよう今日の日記で補足しますと、苦しくなるというのは「紙の雑誌」としての存続が苦しくなるのではないかということです。雑誌とひとくくりにするのはあまりにも乱暴なので、経済、法律、自然科学などの専門誌と週刊文春や週刊現代のような総合誌に分けてみたいと思います。総合誌については、記事をチョイスして保存することが出来ればデジタル化することによって「win-win」の関係が構築できると思います。紙を使わないことによって出版社は大幅にコストを削減できますし、ユーザーもその分安価に入手できます。必要な記事の切り貼り作業やスキャニングの手間が省ければ、ユーザーにとってますます魅力的なアイテムとなります。 次に専門誌ですが、書籍に近いものは紙の書籍として残るでしょう。私の知っている典型的な例としては、判例時報や判例タイムズのような雑誌はもはや時事判例集という書籍のようなものと同じですので、紙媒体としての価値があります。もっとも、この判例雑誌、置き場所に苦労することも否定できません。キンドルなどで定期購読しておいて、必要なときに引っ張り出せる方が個人的には便利です。そのための検索機能、切り貼り、印刷が簡単にできることが条件になるでしょう。いずれにしても、紙媒体の雑誌がなくなったとしても、一定条件を充たせば、デジタル化によって出版社もユーザーも「win-win」の関係に立ちますので、一番困るのは立ち読みで済ませている人たちだということになります^^; 新聞は微妙だと思います。たとえば、一家で一人だけが読む新聞である専門紙などは雑誌と同じように考えればいいと思います。現に、日経は有料デジタル配信をはじめており、デジタル配信への足固めをしています。ところが一般紙は難しいところがあります、家族のみんなが回し読みする訳ですからデジタルデバイスの中だけに留まっていたのではかなり不便かもしれません。新聞のデジタル化で忘れてはならないことは、一覧性を保持することです。今の新聞のサイズを想定すると、いくらキンドルやIPadの画面が大きいとはいえ短時間で一覧読みをすることは困難でしょう。また、これは雑誌にも言えることですが、バックが真っ白であったり画面が反射すると目が疲れますので、長時間読んでいても疲れない工夫がデバイスの方にも必要となるでしょう(この点はすでにキンドルはクリアしています)。
2010.04.27
日本社会特有のモノではないとは思いますが、日本ではとかく「ウチ」と「ソト」を区別したがります。「外人」という言葉がありますが、私はどうしてもこの言葉が好きになれません。「外人」というのは「ソトの人」であって身「ウチ」ではない、だから区別しなければならない、というような理屈がまかり通っているのではないでしょうか?一番厄介なのが組織なり職域の「ウチ」と「ソト」でしょう。よく、自分の会社のことを「ウチでは」と表現するのを耳にします。役所でも、「ウチの省」「ウチの課」という感じで、「ソト」と明確に区別しています。最近の若い人たちを見ているととても気の毒な気がしてなりません。 就職でも応募者はあくまで「ソト」の人たちなので「ウチ」とは明確に区別され、「ウチ」の人より何倍も有能な人物であっても「ソト」から「ウチ」に入るためのとても高い壁が立ち塞がっています。国家公務員の新規採用を4割減らすという記事を見ました。公務員というのは、この間の厚生労働省内の詐欺事件のように、正真正銘の刑法犯罪を犯しても懲戒解雇になりません。ですから、公務員数を減らすためには「ソト」から「ウチ」に入る障壁を高く高くしなければなりません。 法曹界も同じです。司法改革が揺れに揺れて、法曹界という「ウチ」に入るための障壁の高さが予測不能になってしまったことから、ロースクールへの応募者数が減少したそうです。組織や法曹のような職域が常に活性化し続けるためには、「ウチ」から追い出されるかもしれないという緊張感が必要ではないでしょうか?定期的に、最低限度の知識を有しているかどうかを試す更新性を採用すべきだという私の主張は、「ウチ」の内部者としてはタブーなのかもしれませんね(^^;)
2010.04.26
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入門ミクロ経済学私が通信で2度も(1回目はカセットテープで、2回目はDVDで)講義を拝聴した石川秀樹先生の新著が発売されました。講義のわかりやすさと先生の頭脳の明晰さには、いつも感銘を受けたものです。今回の新著は、ごくごく日常にあるような事例を取り上げて、ミクロ経済理論で考えるというものです。もっとも、そこはさすが石川先生。米国の経済学者がたくさん書いている書籍と異なり、しっかり式や図にわかりやすく落とし込んでいっていますので、国家試験などの対策にもなります。極めてわかりやすく書かれていますので初心者でも楽しんで読めます。また、経済学の知識がある程度ある人にとっては、具体的事例(例えば会社内の法務部が社内の公共財であるとか、同じコンビニチェーンの店が近くにあるのはどうしてかなど)を挙げての分析手法は目から鱗が落ちるはずです。超お勧めの1冊です。
2010.04.23
日本では、親が子供を虐待しているという自覚を全く持っていないのに、結果的に児童虐待になっているケースが少なくありません。まず、口頭での叱責など、子供に対してひどいしかり方をしたりする親御さんがあちこちで目立ちます。スーパーの中や商業施設の中で、周囲の人間が驚いてしまうような叱責をちいさな子供にしているお母さんを見かけたことがある人は、決して少なくないと思います。教育熱心な父母が、子供の試験の不出来や入学試験の不合格を厳しく叱責することも日常茶飯事です。 このようなケースは、ヴァーヴァル・アビュースといってれっきとした児童虐待なのです。子供が幼い頃から、父母や身近にいる人間が頻繁に厳しい叱責や攻撃的な言葉を発していると、子供の脳が特殊な発達障害を起こすことが多いのです。簡単にいってしまえば、コミュニケーション能力を司る部位に発達障害が生じ、「見ざる、言わざる、聞かざる」人間として成長してしまうのです。それはそうでしょう。人間の体というものは、他の動物同様、環境に適応できるように成長していくものですから、厳しい叱責やひどい言葉で精神を傷つけないためには、できるだけそのようなダメージを受けないように入り口であるコミュニケーションを司る部位を閉ざしてしまうのです。かつて、香山リカ先生のご著書で「最近のいじめの原因として、コミュニケーション能力の欠如が考えられる」というような趣旨の文章を読んだ憶えがあります。 要するに、親をはじめとする身近な人間の厳しい叱責や暴言が、子どものコミュニケーション能力の欠如を招き、その結果として「いじめ」が起きると考えることができるわけです。教育熱心で子どもを叱咤激励しているつもりが、実は子どもを虐待しているというのは何とも皮肉な話ですね。 また、ネグレクト、つまり子どもを無視することも日本では寛大に扱われています。欧米では、治安が悪いということもあり、一定年齢以下の子供を一人で家に残していたり車の中で待たせていると、すぐに警察に通報されることが多いそうです。治安という面もあるのでしょうが、子どもの健全な成長を社会全体で守っていこうという姿勢が窺われます。そう考えると、日本の「待機児童問題」なんて、おそらくネグレクトに厳しい欧米人からは想像もつかないのではないでしょうか。子どもは成長を止めて待ってくれません。可及的速やかに対処しなければならない未就学児童の問題が、政権交代がなされた今も解決されていないというのは、民主党政権の国民に対する信じられない背信行為です。国と自治体が休日返上してでも、すぐに「待機児童」をなくすよう努力することを強く求めたいと思います。
2010.04.22
前回の日記で、デジタル書籍の出現によってかえって紙の本が売れるようになること「ケータイ小説」を例に出して論じました。読まれた方によっては、「ケータイ小説」、百歩譲って「小説」は売れるようになるかもしれないけど、他の本はそうはいかないのではないか?と思われた方も少なからずいらっしゃったのではないかと私は思っています。そこで、いわゆるノンフィクション書籍について、私の考えを書いてみたいと思います。 まず、教科書や各種試験などのテキスト・参考書のような書籍は、間違いなく紙の本の方が売れるでしょう。切り貼り、書き込み、などは圧倒的に紙媒体の方が容易で効果的だからです。辞書も学習用であれば、電子辞書より紙の辞書の方が学習効果が断然高いというのが私の持論ですので、デジタル書籍に駆逐されることはないでしょう。 次に、一番駆逐されそうなビジネス書もかえって売り上げを伸ばすものと考えます。そもそもビジネス書というジャンル自体歴史の浅いものですが、強いてビジネス書を読む目的を絞り込んでみますと、書籍のエッセンスを吸収して仕事や学習に役立てることであると考えます。そうであれば、デジタル書籍で書籍のエッセンスを吸収してしまえばビジネス書の目的は果たしてしまうので、デジタル書籍によって真っ先に駆逐されそうな気がするのも当然でしょう。ところが、藤井孝一氏の「ビジネス選書サマリー」や土井英司氏の「ビジネスブックマラソン」などでビジネス書のエッセンスを紹介しているにも関わらす、紹介された書籍の売り上げが飛躍的に伸びているという現実から目をそらすわけにない来ません。速読してエッセンスを掴むのであれば、上記のような達人たちがまとめてくれたエッセンスで八割方目的は達せられるはずです。どう考えても、多くの人々が1000円以上も出して達人たちがまとめたエッセンス以外の内容を求めて新刊書を買うというのは、エッセンスの吸収と仕事や勉強への活用という目的だけでは説明がつきません。これは私にもわからないのですが、優れた書籍を形あるもので保有したいという人間の欲求が原因なのかもしれませんね。 一般の小説にも同じことが言えます。芥川賞受賞作は、1ヶ月待てば「文藝春秋」に全文掲載されますので、単行本を買う必要はサラサラありません。ところが、優れた受賞作は単行本がガンガン売れます。「文藝春秋」で全文読めるにもかかわらず…です。これも、コンテンツだけを考えれば説明のつかない現象です。 もっとも、私は雑誌はデジタル書籍によって駆逐される恐れがあると思っています。雑誌の利点は、最新の情報や記事を書籍よりも速く、しかも簡単に読めるという点にあります。そして、多くの雑誌は古くなってしまえば新聞紙と同じように捨てられる運命にあります。真の「永久保存版」といえるような内容であれば別ですが、そうでなければ人間の保有欲求に訴えられないのが今の雑誌の運命ですので、デジタルでサッサと安く読んでしまえば済んでしまう可能性が大きいのです。 さて、紙の書籍の明るい未来はあくまで私の仮説でありますが、みなさんはどうお考えになるでしょうか?
2010.04.21
最近、キンドルやIPadの出現によって書籍はデジタル化し、紙の本がせいぜい1割くらいになるという意見もあります。もっと過激な意見としては、紙の本がなくなってしまうという意見もあります。しかし、私は、デジタル書籍の出現によって紙の本はますます売れるようになると予想しています。その典型的な例が「ケータイ小説」です。携帯電話を含めれば、日本のデジタル書籍市場ははるかにアメリカを上回っているのです。そして、ここが肝心なところですが、「ケータイ小説」の読者が紙で製本された同じ作品を買うことによって、たくさんの紙書籍のミリオンセラーが出ているということなのです。つまり、読者はデジタル書籍でとりあえず面白いかどうかを探っておいて、すぐに手に取れるようにしておきたいものであれば紙の本を買うようになり、デジタル書籍は紙の本の販促材料として大いに役に立つはずです。紙の本に往生しているのは、私も含め、多くの書籍の置き場所に困っているごくごく一部の人たちで、ほとんどの人にとって紙の書籍はファーニチャーとしての役割も兼ね備えて一石二鳥でしょう。私は、個人的にはデジタル書籍が増えてくれるととても助かるのですが、スライド書架を10本以上も持っていて、それでも足の踏み場がない人間なんて一種の変質者かもしれませんね・・・もちろん私のことです(^_^;)
2010.04.19
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最近、痛ましい児童虐待が頻繁にニュースになっています。私自身、2年くらい前から、遅くとも5年以内にこのような事態に陥るであろうことを予測していました。その根拠は以下の通りです。2年前の時点で児童相談所の児童虐待認知件数はうなぎ登りになっており(35倍くらい)、人々の意識の変化を差し引いてもすさまじい増加であったこと。児童虐待には「虐待の世代間連鎖」というものがあり、自ら虐待を受けた人の約3分の2が自分の子供に対しても虐待を加えてしまうという統計があること。児童虐待と、パワハラ、モラハラ、はたまた「いじめ」などは基本的に同じ原因に根ざしている場合が多く、ハラスメントや「いじめ」が2年、いえそれ以上前から広く問題視されていたこと。このように、今日の児童虐待は「起こるべくして起こった」悲劇なのです。おそらく、今の状態を放置しておけば、児童虐待のみならず、DV などを含むハラスメントは近い将来飛躍的に増加し、一種の「恐怖社会」になってしまうものと予想されます。以前から「虐待の連鎖」の危険性に警鐘を鳴らしておられたのが「いやされない傷」を書かれた友田先生でした。私は友田先生のご著書を読んで、あまりの悲惨さに私は吐き気さえ覚えたほどです。ノンフィクションで構成して広く世に問おうかとも思いましたが、被虐待児童の人権を守る意味で、拙著「離婚裁判」を文庫化する際にフィクションとして盛り込みました。ささやかながらも私のレンタルDVDの印税を被虐待児童保護施設に寄付してきましたが、先日、児童相談所の仕組みをしって暗澹たる気持ちになりました。児童相談所の職員は地方公務員の人事異動で配置されるもので、人数的にも極めて少なく、人事異動がなされることから専門性も磨くことができず、しかも地方公務員になれるのは28歳までですから「意欲のあるなり手」にも門を閉ざしてしまっているのです。とかく日本のお役所は「あるべき家庭の姿」を想定しがちです。「あるべき家庭」では、親が子供を虐待するはずはなく、万一そのような事態が生じたとしてもごく一部の例外という発想です。しかし、現実の家庭内では、今現在も、命の危機にさらされながら「声を出すことさえできない」子供たちがたくさんいるのです。ひとつだけ例をあげておきましょう。かの秋葉原無差別殺傷事件の犯人も、ある意味被虐待児童だったと考えられます。これでも児童虐待は他人事と言えますか?離婚裁判
2010.04.15
時代に応じて言語が異なる意味を持つようになることは、よくあることです。私は言語学者でもその筋に詳しいわけでもありませんので、たくさんの面白い事例を挙げることはできません。ただ、司法修習生や弁護士として若干面白い経験をしました。まず、「○○殿」という表記は現在では敬称でなくなりつつあります。これは野口悠紀夫先生も指摘されていたことですが、主に目上から目下の人に対して用いるのが今日の慣行なっています。ですから、目上の人や目下であってもさほど親しくない人に「殿」を用いるのは失礼に当りますので注意が必要です。この「殿」を使いまくるのが役所なのです。検察庁や裁判所から来る宛名は必ず「殿」が付いていますし、他の役所も宛名に「殿」を使うことが多いと思います。役所がいまだに「お上」であることを如実に示すものとして「上申書」なるものがあります。これも慣例なのでしょうが、補足説明など文書の正式なタイトルが付けにくい時は概ね「上申書」というタイトルにしますし、役所の方からも「では、その内容を上申書で出して下さい」とさらりと言われます。上申書というのはまさに「お上」に対して「申上げる」ための文書ですから、便宜的に使っているとはいえ役所の「お上」意識の名残ですね。ちなみに、民間から役所に対する文書には「○○御中」と書きます。これは民→民でも同じですね。私たち弁護士も、対戦相手に対して内容証明を送るときは「殿」を使います。依頼者やお願いする相手に対しては「様」を使うのが通例です。たまに、同じ弁護士や友人。知人から「荘司殿」という文書が来ると思わず緊張してしまうのは一種の職業病でしょうか(^^;)
2010.04.12
文部科学省が法科大学院を評価する際、司法試験勉強に力を入れているとマイナスになるようですね。しかし、在学生としてはいわゆる三振をくらってはかないませんから、司法試験の勉強の方がモチベーションが上がるはずです。アメリカかぶれの大先生が導入した法科大学院制度。私が思いますに、当のアメリカでは卒業するまでにドロップアウトしてしまう人がたくさんいるくらい法科大学院での教育が厳しく、司法試験は州単位で受験するものでありましょう。法科大学院での落第がほとんどない日本とは、そもそも土台が違うのではないでしょうか?文部科学省の言っていることは、司法試験の勉強はさせてはならないけど司法試験合格者が少ないのもいけないという「アクセル」と「ブレーキ」を同事に踏めと要求しているようなものです。金融庁が銀行に、不良債権を減らすことを要求すると同事に中小企業融資を増やせというのと同じで、筋が通っていません。 ちなみに、先般、日弁連会長に選出された宇都宮先生は「司法試験合格者を1500人」に減らすと言っておられるようです。当然といえば当然のことでしょう。なぜなら、日弁連は、傘下の会員の利益を第一に考えるべきものであって、会員から多額の会費を取っておきながら会員の利益に反するようなことをすべきではないからです。それまでの司法改革で、日弁連が天下国家を論じるような態度を取ってきたことが不思議でなりませんでした。 もっとも、絶対に忘れてはならないのは、今現在、法科大学院生であったり司法試験受験生、はたまた法曹を目指している学生や社会人という、制度の変更に伴って人生そのものが変ってしまう恐れのある当事者の利益です。過去に三振をした人たちも含め、現在の当事者に不利益にならないような救済策をしっかり用意しておくべきだと私は考えます。学生や受験生を無視した議論が続けば、法曹界は学生や社会人からソッポを向かれ、有為な人材を確保できなくなってしまうのではないかと、私は大いに危惧しています。
2010.04.10
今日のネットのニュースを見ていましたら、民事再生法を申請した上場企業のうち、再上場を果たせたのは100社強のうちたった1社だと書かれていました。民事再生法申請が立て込んだ時期、実際に申請手続をしていた弁護士が「再生できるのは5%くらいだろうなあ」と言っていたのを思い出します。自己破産よりも費用がウンとかかる民事再生申請を会社が選択したのは、とりあえず立ち直る可能性をアピールすると同時に、経営者の事業継続への執着が強いためだと当時の私は思っていましたが、予想以上に厳しい結果でした。撤退する勇気と無責任な非難を無視できる精神力が、これからの企業経営者には欠かせない資質であることを実感しました。
2010.04.08
与謝野氏らが新党結成を急いでいるようですね。確かに、民主党の支持率が劇的に低下しているものの、旧来の自民党に期待する人も少ないでしょうから「新党」というのは参議院議員選挙前として「いい発想」だと思います。しかし、与謝野氏はかつての自民党の重鎮だったわけですから、自民党の凋落を招いた張本人の一人ですよね。新党という新しい袋を作ったとしても、中に入れる葡萄酒が凋落自民党の重鎮たちでは私たち国民はしらけるばかりです。現に、民主党を最もしらけさせているのが、旧政治家と言っては失礼ですが小沢氏でしょう。国民はしっかり見ていますよ。党という入れ物ではなくて中身の面々を。
2010.04.05
市販薬のネット販売の規制を合憲とした判決は、非常に理由不明瞭かつ「逃げ場を残した」不愉快極まりないものでした。まず、対面販売であれば顔色や様子がわかると書かれていますが、それならば病人本人が買いに来ない以上、薬局でも販売してはいけないことになります。つまり、本判決によれば、市販薬の対面販売においても本人以外に売ってはならないことにしなければ筋が通りません。そもそも、医師の処方箋のいらない市販薬は、誰がどのような薬をどれだけ買っても支障が出ないものに限定されているのです。1件の薬局でたくさん買えば目立ちますが、家族に頼まれて買いに来たと言って何十件も薬局を回れば、どんな市販薬でも無制限に買えてしまうのが実情です。そういう根拠で対面販売とネット販売を区別するのは、完全に論理破綻をきたしています。また、「その後の状況によって」云々のくだりは、明らかに控訴審で翻ったりしたときのための裁判官の自己保身がミエミエで、出世的良心に従って判決を書いたのではないかと非難されても仕方がないのではないでしょうか。若い法曹の質が落ちた云々言う前に、まずは「塊より始めよ」でありましょう。裁判官が不真面目なのかアホなのか・・・こんな意味不明かつ論理矛盾をはらんだ判決は久々に見ました(あくまで報道されている範囲内ですが)。
2010.04.02
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