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「情報局」は1940年12月6日~1945年12月31日の間存在した。 情報局総裁は外務官僚出身者が多い、例外は終戦前後に総裁を務めた緒方竹虎(元朝日新聞社副社長)と下村宏(元朝日新聞社副社長、元日本放送協会会長)。◇「情報局」/ウィキペディア(抜粋) 情報局は、1940年12月6日に発足し(第2次近衛内閣)、戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に、内閣情報部と外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課、以上の各省・各部課に分属されていた情報事務を統一化することを目指して設置された日本の内閣直属の情報機関である。 国内の情報収集、戦時下における言論・出版・文化の検閲・統制、マスコミの統合や文化人の組織化、および銃後の国民に対するプロパガンダを内務省・陸軍省・海軍省・大本営陸軍部・海軍部などと並行して行った政府機関である。「内閣情報局」とも呼ばれるが、公式名称は「情報局」である。・任務および組織 国策遂行の基礎たる事項に関する情報蒐集、報道および啓発宣伝 内務省警保局の検閲(日本における検閲参照)業務の引き継ぎ。 新聞紙その他の出版物に関する国家総動員法第二〇条に規定する取締と処分(掲載の制限または禁止) ラジオなどの放送無線、電話による放送事項に関する指導及び取締 映画・蓄音機レコード・演劇・演芸の国策遂行の基礎たる事項に関する啓発宣伝上必要なる指導および取締 総裁-次長の下に第一部(企画 - 情報収集、調査)、第二部(報道 - 新聞、出版、放送)、第三部(対外 - 宣伝、報道、文化活動)、第四部(検閲)、第五部(文化 - 映画、演劇、芸術等)および官房を置いた。 第四部と第五部は統合、簡略化され、1944年には戦時資料室(国内動向と敵国動向の調査)を置いた。 内閣情報部所管の「新聞雑誌用紙統制委員会」(1940年5月設置)による用紙の割り当て・配給統制を通じて、全国の新聞社・出版社に対して影響力を行使し、記事の内容への介入など言論統制を図り、今に至る「一県一紙」を目指す新聞統制を指導した。 1942年には各県の新聞はほとんど一社に統合され、現在の新聞社はこの際の統合をルーツとする会社が多い。──〓勝手に独断と偏見〓 清沢洌に「日本思想界の独裁者」と呼ばれた鈴木庫三(1942年4月に情報官ではなくなる)の人物像の断片。・「新東亜建設と融和事業/鈴木庫三陸軍少佐」/中央融和事業協会機関紙『融和時報』第164号(1940年7月1日) 之[新東亜建設]がためには満州や支那に対しても融和同化の皇道精神を以つて臨まねばならぬことになる。 是に於いて国内の情勢を顧みるに、日本国内の融和は果して名実共に完成して居るかどうか。 未だにくだらぬ迷信や感情に捕はれて同じ血を分けた同胞を差別視する様な馬鹿者は居らぬか。 歴史的にみるも数学的にみるも、日本民族は過去3千年の間に、天孫民族を主流として完全に血液の連鎖ができて居るのだ。 又我国史を精査すれば半島や支那民族との血液の連鎖もある。 之程明瞭な証跡があるのにくだらぬ迷信や感情に支配されて居るのは、大国民の態度でもなければ文明人の態度でもない。 一日も早くかかる謬見を捨てて真の融和を完成し、半島に及び台湾に及び満洲、支那に及ばねばならぬ。─「言論統制/佐藤卓己」p10~ 軍人の多くが酒・芸妓等の宴会接待を喜ぶ傾向を示し、言論出版界は彼らの御機嫌を伺い利権を得る、鈴木庫三は之には批判的であった。 しかし軍と言論出版界の関係が饗宴を当然とした上での関係で、其れを否定することは困難だったようだ。 また、この時代に於ける日本人の天皇家を中心とする選民思想は建前あるいは本音で一般化され其れを前提に考えると上記の鈴木庫三の主張はまともに思える。 この時代、天皇制を否定する者は共産主義者の中でも一部だったと推測する。 この時代に於いて言論出版界が鈴木庫三に対して行なった事に関し言論出版界は嘘も方便的な言い訳を行なっている、鈴木庫三著『世界再建と国防国家』朝日新聞社刊(1940)があるようだが、朝日新聞社は素晴らしい内容だとは敗戦後には主張しないだろう、むしろ出版せざるをえない状況だったの主張になると推測する。 鈴木庫三を「日本思想界の独裁者」と主張するのは、国民総懺悔ではなく全ての責任を少数に押し付け自分達は被害者の主張になる。
2015.09.21
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・鈴木庫三(1894年1月11日 - 1964年4月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。戦時中、情報局情報官として言論統制を行っていた人物として知られる。清沢洌曰く、「日本思想界の独裁者」。─(「ウィキペディア:鈴木庫三」より)・清沢 洌(1890年2月8日 - 1945年5月21日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。─(「ウィキペディア:清沢 洌」より) 終戦の3ヶ月前に亡くなった清沢洌は「戦争日記(暗黒日記)/清沢洌」にて、清沢洌及びその周辺では「赤(共産主義)」≒「平等」の意として使われている、彼らの様なエリート層(知識階級)には「平等」を嫌っている者がおり無知な労働者と知識人には上下関係が必要と考えている。 戦中亡くなった人の日記は編者がいじらなければ、戦後の言い訳や編集が入ってなく貴重。◇「清沢洌の戦争日記(1942年12月9日~1945年5月5日)/作成者: 石井彰文」よりの抜粋<1943年>・6月18日:嶋中雄作君の話し。 近くの奥さんが交番に呼ばれ、「女中を使うなどは賛沢だ。明地(ママ)があったら、産業選手(ママ)に貸してやれ、掃除などしなくてもすむだろう」といったという。 右のような話しから見ても、社会の根底に赤化的流れが動いていることを知り得る。<1944年>・3月21日:先頃、避難荷物の検査があった。その検査官は、出入りの大工梅村であった。我等の隣組長を従えて、挙手の礼をして「よくできました」と讃めて行ったそうだ。 ワイフは「今までは、勝手口から出入りするのにも遠慮しましたのにね」という。<1945年>・4月20日:沖縄戦が景気がいいというので各方面で楽観説続出。株もグッと高い。沖縄の敵が無条件降伏したという説を僕も聞き、瞭も聞いてきた。中には米国が講和を申込んだというものがある。 民衆がいかに無知であるかが分る。新聞を鵜呑みにしている証拠だ。それは東京のみではなく地方でもそうらしい。・4月28日:正宗白鳥氏を訪う。・・・無知の農夫や労働者が、高い闇相場の金をとって、しかも王者のように威張り通す。・5月1日:。「どうしてドイツは頑張れなかったろう」と、どこでも不思議な問題として話しあっているそうだ。 新聞が、常に優勢らしく伝えるので、一般人にはそれが分らなかった。そして突如として現出した事件のように思うのだ。・5月2日:坂本氏(坂本直道:元満鉄パリ出張所長)のところに寄る。また、たまたま鳩山一郎氏あり。ティータイムに御馳走になりながら、ここでは極めて愉快に話す。 鳩山氏は「赤」が中心になっているといった。坂本君と共に「赤」を極端に嫌っている。 坂本君は東郷茂徳氏が外相になる前に立ち話しをしたことがある。東郷は戦争終結にソ連に期待しているようであった。ソ連をして口をきかせるために、樺太をかえし、共産党の公認等を条件とすれば充分だろうといったという。 坂本君はこれが反対で、もし左様なことをすれば、岡野(野坂参三の別名)の如き共産党員が乗り込んで来て、国内を滅茶苦茶にするだろうといった。──底本:橋川文三編『暗黒日記』〓勝手に独断と偏見〓 「今までは、勝手口から出入りするのにも遠慮しましたのにね」、ここから知識人の平等を主張する大衆に対する怒りが伝わってくる。 現在に於いて「ポピュリズム」が「大衆迎合」として使われる場合がある、使う人は自分達は大衆ではないの意識があって使うのだろう。 「清沢洌の戦争日記」からは戦前戦中に於いて特権階級や知識人等のエリート層(言論界・マスメディアを含む)は大衆を下に見て大衆と接しているように思える。 彼らは平等や基本的人権の尊重を望んでいたのだろうか、雰囲気的な優位な立場や既得権益を放棄する者は少数派と理解している。 しかし敗戦のような問題が発生すると大衆の責任を主張し自分達は加害者にもかかわらず被害者ズラをする、最も被害が出ているのが大衆であるにも係わらずだ。 芥川龍之介の友人が自分達も大衆だと言ったの記憶がある、私は自分を大衆の一人と言えるんですよ偉いでしょうと主張している感があり、自分達は大衆の上位が前提の主張と感じる。 陸軍の兵士は軍の中では多数を占め農民出身者が多かっただろう、陸軍は天皇の下に於ける日本人の平等を目指していたのだろうか、そして知識人やマスメディアは其れを「赤」として反発していたのだろうか。
2015.09.06
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