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トランプは9日、対米貿易赤字が大きい国に対する「相互関税」について報復措置をとらない国に対しては90日間、この措置を停止する、と発表した。一方、スターリニスト中国からの輸入品への追加関税については、さらにもう一段上げ、125%に引き上げると発表、スターリニスト中国に対しては一段と厳しい姿勢をとっている。 日本にとって、24%の高率の「相互関税」はひとまず見送られたが、すでに発動されている10%の基礎「相互関税」はそのまま適用される他、自動車の25%関税もそのままだ。 今回の判断は、ベッセント財務長官やラトニック商務長官などと検討を進め、同日朝に決めたと記者団に明らかにした。
2025.04.10
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モンブラン(モンテ・ビアンコ)やマッターホルン、グランド・ジョラス、デンテ・デル・ジガンテなどを観望し、神々しさに打たれたが、いつまでエルブロンネ展望台に留まっているわけにはいかない。◎様々な高山植物が開花 僕は、30分余りで下りのロープウェイに乗った。時刻は11時30分だった(写真=パビリオン駅が接近!)。 集合場所の途中のパビリオン駅に着いた。ここで、高山植物園を観るつもりだった。その後、ここのレストランで昼食である。様々な皿のうち、前菜とメインの2皿をチョイスする。 まず植物園を見学。美しい高山植物が植えられている。ただ花の名は分からない。一部に学名が欧文でふられたものもあるが、和名はかいもく見当がつかない。しかしこのうちいくつかは、その後のハイキングで目にした(写真)。◎遠くに見えたアイベックスは造り物 エーデルワイスの鉢植えも売っていた(写真)。ここでは栽培して、希望者に販売しているのだ。日本人はスルーするしかない。日本国内には生きた植物は持ち込めないからだ。 昼食は、そろそろ肉やパスタに飽きてきて、ほとんど感動もなく終わった。 食事後、少しだけ外に出た。目の上をロープウェイが登っている。 その下の岩の上に、黒い人影と動物の姿。動物はアルプスアイベックスだ(写真)! しかし少し観察していても全く動かない。こんなに人の多いところにアルプスアイベックスが出てくるはずはないから、造り物だろう。 ちなみに今回の自然観察ツアーでは、生きた野生動物を1回も見られなかった。観光客の10組に1組は、イヌを連れているから、野生動物は出てくるわけもないのだ。◎V字谷の底に広がる街を俯瞰 レストラン外からの下界の眺望も良い(写真)。氷河期の氷河の削ったV字谷の間にエントレベスの街が広がっている。 ここも散策路になっていて、時間のある健脚者なら下の街まで上り下りできるだろう。ちなみにパビリオン駅のある所の標高は2137メートルだ。(この項、続く)昨年の今日の日記:「旧ユーゴ3カ国周遊(15):スプリトのジャガイモいっぱいの昼食とディオクレティアヌス宮殿」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202508040000/
2026.08.04
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コーニュのドタバタから、アオスタの街まではすぐだった。◎自由行動でも添乗員さんが市街の案内 アオスタに着いたのは、午後5時ちょっと過ぎ。快晴で北イタリアは高緯度地帯なので、午後5時はまだ真昼の感覚だ。暮れるのは、夜の9時半頃になる。 これから8時頃まで自由時間だ。この旅で初めて夕食が付いていない。アウグストゥスの凱旋門からのサンタンセルモ通りの両側にはレストランやカフェが軒を連ねるている。食べる所には不自由しない。 しかしコーニュのロープウェイまで案内してくれた添乗員さんは親切で、僕たちをもう1度、アオスタの名所案内に誘ってくれた。◎サントルソ参事会教会を観る バス駐車場から歩いて、まずアウグストゥスの凱旋門に行く(写真)。それから前日のようにサンタンセルモ通りを西に向かってちょっと歩く(このあたりのことは8月2日付日記:「北イタリア、アオスタ、ドロミテ周遊(4):古都アオスタに入ってローマ時代の遺跡をめぐる」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202608020000/を参照)。 通りをすぐ右折し路地を入ると、正面にサントルソ参事会教会に出合う(下の写真の上)。教会の境内に、この教会のシンボルでもある堂々たるホダイジュの木が柵で保護されている(下の写真の下)。 ボダイジュは、シューベルトの歌曲「泉にそいて繁る菩提樹 慕いゆきては……」の『菩提樹』で有名だ。ヨーロッパの公園や街路樹によく植えられていて、僕は12年前のエストニアで満開の花をつけたボダイジュの木を観て以来だ。 サントルソ参事会教会(下の写真の上)は、回廊以外は無料で、回廊には確か6ユーロ払って入った。回廊の柱には、様々な彫刻が施されているが、それを1つひとつ撮っていられなかった。だが中庭の緑の芝生(下の写真の下)は、目にしみるように鮮烈だ。◎ローマ劇場は外から 古都アオスタには、ローマ時代遺跡の他に、中世の遺構も良く残っている。 「シニョーリ・サンクティ・ウルシの塔」(写真)は、13世紀中頃の中世遺構だ。この地方の有力貴族サントルソ家の住居兼見張り塔だったという。 僕たちは次々と石造遺構を巡回していく。 そして紀元1世紀頃に建てられたローマ劇場に回る(写真)。高さ22メートルの高い壁が現存し、それが劇場遺構の象徴となっている。僕たちの訪れたつい2週間ほど前に修復が終わり一般公開されたが、間もなくタイムアウトになるので中に入るのは断念した。(この項、続く)昨年の今日の日記:「羽に似たクレストにサルのような尾、2億4700万年前『奇跡の爬虫類』が見つかる」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202508060000/
2026.08.06
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NHKのBSプレミアム『英雄たちの選択』の8月19日「衛生国家への挑戦~3人の先覚者たち~」を観て、強い違和感を覚えた。この回は、むろん武漢肺炎パンデミックの最中に、幕末から明治、大正にかけての先人の防疫の闘いを紹介するものであった。◎緒方洪庵、「天然痘の治療に革命を起こした」? 『英雄たちの選択』シリーズはだいたい毎回観ているのだが、今回、取り上げられた3人のうち、明治初期に防疫に力を尽くした長与専斎、日本の衛生力の高さを示した後藤新平は異論は無いとしても、天然痘(疱瘡)の治療に革命を起こしたと紹介された緒方洪庵はミスキャストだろうと感じたのだ(写真=左から長与専斎、緒方洪庵、後藤新平)。 むろん幕末の偉才を育てた適塾の創設者である緒方洪庵の幕末日本の蘭学・蘭方の発展に尽くした功績は否定しない。間違いなくその名は、当時も今もビッグネームである。 しかし洪庵を「天然痘の治療に革命を起こした」として取り上げるのは、明らかに見当外れ、不適切である。◎京・大阪から離れた田舎の町医者、笠原良策 むしろ幕末の天然痘の治療に革命を起こしたとして紹介さるべきは、幕末の福井藩の町医だった笠原良策(後、白翁)であろう(写真=笠原良策とその墓所)。当時の政治と学問のセンターだった京・大坂から離れた地の、それも町医者風情だったために歴史に埋もれている。 だが笠原こそ、日本で最初に牛痘法の意義に気づき、その痘苗入手に奮闘した医家だった。 彼は、当時は主流だった無理解な漢方医と藩役人の妨害とサボタージュを乗り越え、バタヴィアからオランダ船によって持ち込まれた牛痘苗を京都の蘭方医の日野鼎哉の所まで行って苦難の末に福井藩内に持ち帰り、民衆の無理解という障害にめげず、私財を投げ打って領内諸地域や府中藩、加賀藩など北陸の近隣諸藩に種痘を広めた功績者であった。 洪庵は、種痘を組織的に展開したことに功績はあったが、笠原良策が後述する京都で得た痘苗を彼の好意で分けてもらったに過ぎず、笠原良策の先駆的業績には一歩も二歩も譲るのだ。◎熱意で藩主・松平春嶽を動かす ちなみにバタヴィアからオランダ船によって牛痘苗がもたらされ、長崎のオランダ商館内で初めて日本人の小児に種痘が実施され、その種を継いで幕末日本で笠原、そして緒方洪庵によって広く実施されるようになったのは嘉永2(1849)年だったが、笠原はそれ以前にも持ち込まれた牛痘苗で何度も牛痘法を試しながら失敗している。 苗の保存用の凍結保存装置もなかった時代だから、それも無理もなかった。思い詰めた笠原は、バタヴィアより近い清国から痘苗を輸入しようと福井藩主の松平春嶽(写真)に上申、願いは春嶽から幕閣最高位の阿部正弘に伝えられ、承認を受けた。この間、春嶽への上申でも、下級役人に握りつぶされ、春嶽に取り上げられるまで2年も要している。◎致死率最大5割、未開村落を崩壊させる 現代の世界では、天然痘は根絶されている。1977年にソマリアの青年を最後に自然感染の天然痘患者は報告されておらず、3年後にWHOは地球上からの天然痘の根絶を宣言した。それから30年、現代人は天然痘の怖さを知らない しかし根絶されるまでは、天然痘は恐るべき流行病として人々から恐れられた。致死率は3~5割に達し、流行地では屍の山を築いた。治っても、失明や醜い疱瘡痕を残し、その人の人生を暗転させた(写真=体中に水疱瘡が出来た子ども)。 例えば1663年、開拓時代のアメリカで、人口約4万人のインディアン集落に大流行があり、数百人の生存者を残したのみで全滅したと言われる。さらに1770年のインドの大流行では300万人が死亡したという記録もある。医学史上、有名なジェンナーによる種痘が発表された1796年、イギリスでは4万5000人もが天然痘で死亡している。◎近世日本に恐れられた天然痘の唯一の予防策種痘が北辺の蝦夷で 日本でも、渡来人の移住が盛んになった6世紀には早くも朝鮮半島から持ち込まれた。 その後、日本でも何度も大きな流行があった。「独眼竜」の奥州の伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも、疱瘡(天然痘)によるものだった。 江戸時代にも何度も波状的に流行し、一度、流行すればなすところはなく、ただ患者の出た家を閉鎖したり、集落全体をロックダウンしたりするしかなかった。 笠原良策や緒方洪庵がオランダを通じて知ったジェンナーによる種痘法は、天然痘予防の最良の方策だった。 ただ、実は嘉永2年に日本で初めて種痘が行われる25年も前に、北辺の蝦夷でロシア経由で伝わった種痘が初めて行われていたのだ。(この項続く)昨年の今日の日記:「なぜアメリカ大陸に新世界ザルはいるのか①:ヒトは舟で島へ? ならサルは……」
2020.09.22
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ソノーニョ村から国境を越えて再びイタリアへ。今夜の宿泊はローマ時代に創建された古都アオスタで、スケジュール表によると、5時間ものドライブになる。 ただEU規制で、ドライバーは2時間ごとに20分休憩をとらないといけないので、2回、ドライブインに寄って、それがトイレタイムともなった。◎有料トイレ用の1ユーロ硬貨集め 以前にも書いたことがあるが、ヨーロッパでは1ユーロ硬貨が必須だ。公衆トイレ(ドライブイン付設のトイレでも)に1ユーロがほぼ要るからだ。たまに無料のトイレに当たると「ラッキー」と思ってしまう。以前――30年~40年前――、若い頃に盛んにイタリアに行った時、有料トイレはほとんど無かったように記憶している。 だから僕たちの最大の関心事は、ともかくもユーロ硬貨を溜めることだった。空港のエクスチェンジでも硬貨はくれないからだ。 そのため最初のトイレでは、添乗員さんに1ユーロ、借りる羽目になった。その晩の夕食でビールの支払いに10ユーロ紙幣を使い、ユーロ硬貨を釣りにもらって返したが、歴戦の添乗員さんもあまり持ち合わせはないようだった。◎古都アオスタのアウグストゥスの凱旋門 さて古都アオスタに入った。 ヨーロッパは夜も9時半くらいまで明るい。だから6時半でもまだ強い日差しが射していて、僕たちは添乗員さんの案内で、ホテルに入る前にアオスタ旧市街を散策した。旧市街には、ローマ時代の石造の遺構が、あちこちに残っている。 まず見せられたのは、アウグストゥスの凱旋門だ(写真)。紀元前25年、街が創建された時に、時の初代ローマ皇帝アウグストゥスに献げられた門だ。ちなみに今月8月は英語で「August(オーガスト)」という。このアウグストゥス(Augustus)の名前が由来だ。元老院が彼の栄誉を称え、それまで「第6の月」を意味していた「Sextilis(セクティリス)」という呼び名を改めたのだ(古代ローマの暦では3月が年の始まりだったため、8月は「第6の月(Sextilis)」だった。それを皇帝の名に改めたのだから、アウグストゥスの強権ぶりと権威の高さが憶測できる。 門の前の公園にも、アウグストゥスの像が建っている(写真)。しかしこの像は、かなり新しく建てられたもののようだ。 凱旋門を起点に、西にまっすぐな道、サンタンセルモ通りが1本走る。道の両側にはレストランやスーベリアショップの建ち並ぶ(写真)。◎ローマ時代の遺跡プラエトリア門をくぐる 150メートルほど進むと、石造のプラエトリア門をくぐる(写真)。この門も、アウグストゥスとほぼ同時期に建造された。 僕たちは、翌日もこの通り周辺を自由行動する予定なので、添乗員さんはだいたいの土地勘を僕たちに持たせたかったようだ。 1841年完成の新古典主義建築の旧市庁舎まで行き(写真)、引き返すことになった。中には州の模型や歴史的人物の彫像などが飾られているという。 そこからは、少し離れたバス駐車場まで歩いた。元の場所ではバスは駐車していられないらしい。◎山々に夕陽が当たって橙色に輝く 近くの山並みに夕陽が当たって山々は橙色に輝いていた(写真)。明日も、天気は良さそうだ。エントレベスまで行き、ロープウェイを乗り継ぎ、モンブラン(イタリア名はモンテ・ビアンコ)を拝むことになっているからだ。この旅の3つの目玉(エントレベスのモンテ・ビアンコ観望、チェルビニアのマッターホルン遠望、ドロミテ山群の遠望とハイキング)の1つである。(この項、続く)昨年の今日の日記:「旧ユーゴ3カ国周遊(14):青い狭い水道渡る美しいペリェシャツ橋を観て、世界遺産スプリトへ」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202508020000/
2026.08.02
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福井県立恐竜博物館で、恐竜と言えば巨大、という偏見があるから、獣脚類でも大型種だけ観てきたし、写真撮影ももっぱらそれだった。◎大型獣脚類に幻惑され、小型獣脚類の観察がおそろかに しかし獣脚類には、もちろん小型の種もいる。例えば映画『ジュラシック・パーク』に何度も登場する「賢い」小型肉食恐竜ヴェロキラプトルだ。 ただ大型種に幻惑され、小型種を1つひとつ確認するのを怠った。 大型種の足下に並べられた小型獣脚類の一覧を、写真だけでもご覧いただきたい(写真)。この中にヴェロキラプトルがいるのか、どうか。◎ゴビ砂漠で見つかったヴェロキラプトル対プロトケラトプス絡み合い化石 しかしヴェロキラプトルの化石は、別のところで見つけた。2頭の小型恐竜がお互い絡み合いながら化石化した珍しい骨格で、草食の角竜の1種、プロトケラトプスをヴェロキラプトルが襲って格闘している化石だ(写真)。白亜紀後期の化石だ。 ヴェロキラプトルの鋭いカギ爪がプロトケラトプスの頭部にくいこんでいる。それから必死で逃げようとしているプロトケラトプス。戦いの最中に、激しい砂嵐に襲われて、瀕死の両者は脱出できずに砂に埋もれたのだろう。 モンゴルのゴビ砂漠で見つかった化石である。◎これより古い白亜紀前期に小型肉食哺乳類が草食恐竜を襲った これを観ていて、どこか既視感があった。待てよ、どこかで見たような……。 思い出した。恐竜同士ではないが、アナグマほどの大きさの小さな肉食哺乳類が、これもイヌほどの大きさの小型草食恐竜を襲い(それでも肉食哺乳類の3倍もある)、絡まり合った姿で化石化したシーンの研究報告が今年あったのを。 肉食哺乳類はレペノマムス・ロブストゥスで、襲われた草食恐竜は、プシッタコサウルスだ(写真=23年8月13日付日記:「1億2500万年前の草食恐竜を小さな肉食哺乳類が襲う一瞬を留めた化石の発見」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202308130000/を参照)。 こちらはヴェロキラプトル対プロトケラトプスの時代より古い白亜紀前期だ。 いずれにしても、珍しい化石があるものだ。ちなみに人類と獣が絡んだ化石は、少なくとも僕には記憶がない。昨年の今日の日記:「大西洋の荒波打ち付ける断崖の上に三重の石壁を積み上げた3000年前のドン・エンガス遺跡」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202211180000/
2023.11.18
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ヨーロッパの初期ヒト族の化石の発見は、これまでイベリア半島に限られていて、アフリカにほど近いジブラルタル海峡周辺からアフリカのヒト族がヨーロッパに植民したと考えられている。◎140万~110万年前のヒト族中顔部発見 その古いヒト族は、スペイン北部、アタプエルカ山中のシマ・デル・エレファンテ(ゾウの洞窟)TE9層で2007年に下顎骨の一部と数本の歯が見つかり、これが最古とされていた。それ以前の1994年にに見つかっていた同じアタプエルカのグラン・ドリナ洞窟TD6層(写真)の頭蓋がホモ・アンテセソールとされており、これが90万~80万年とされる。 このほどシマ・デル・エレファンテの140万~110万年前と年代推定されるTE7層から発掘されていた(下の写真の上=発掘中の一こま)ヒト族の中顔部(下の写真の下)についての研究結果がスペインの研究チームによりイギリス科学週刊誌『ネイチャー』5月12日号で報告された。 その結果、この化石ATE7-1は、 これまで同定された西ヨーロッパ最古のヒト族の顔面となった。◎ホモ属系統では原始的 顔面中部の形態的特徴の大半は、ホモ属系統では原始的で、近くのグラン・ドリナで見つかっていた年代的にやや若いホモ・アンテセソールで認められる進歩的な面は見られない。さらにATE7-1標本は、180万年頃のドマニシやほぼ同時代の他のヒト族より鼻歯槽骨領域が派生的である。そうした特徴を根拠にすれば、TE7層出土のこの新発見の中顔部は種未定のホモ・エレクトス類似種とするのが合理的と研究チームは結論付けている。 シマ・デル・エレファンテとグラン・ドリナの両下層から得られた考古学、古生物学、古人類学の情報から、前期更新世末にヨーロッパの人類集団に何らかの入れ替わり現象が起こったことを推定させるという。昨年の今日の日記:「木星の第1衛星イオの火山活動、太陽系初期から続いていたことが判明」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202404280000/
2025.04.28
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昼食後に僕たちは、次の見学地のコーニュに向かった。◎白いグラン・パラディーソ山を遠望 コーニュは、アオスタの南、アルプス山麓にある標高約1500メートルの高原で、1922年にイタリアで最初に指定された国立公園という。 コーニュの街は、人口1400人程度と小さいが、冬はスキーリゾート地としても賑わう。むろん夏は、風光明媚な景観をあてこんでやって来る観光客も多い。 僕たちは、駐車場でバスを降りて公園に向かって歩いた。公園には、アルプスアイベックスを象った標識板が立っていた(写真)。 他に立つものに、2つの大戦の戦没者の慰霊碑がある(写真)。ここからも出征し、戦没した兵士たちがいたのだ。 公園から、2つの山の向こうに横たわる標高4061メートルの白いグラン・パラディーソの山容を遠望した(写真)。◎ロープウェイに乗る 公園の向こうは牧草地になっていて、早くも牧草が刈り取られて牧草ロールがいくつも転がっている。 ただコーニュの見所は、ほぼここだけ。あと自由時間は市街地のお土産屋などの見物だが、街中を少し歩くとロープウェイの乗り場がある。 少ししか時間がないが、それに乗って、街を一望できる地点までいくことにした。添乗員さんが先頭だから、大丈夫だろうと達観した。ちなみにここのロープウェイは旅程表に含まれていない。料金12ユーロ(13ユーロだったかもしれない)を払って、乗り場に急ぐ。しかし3つ連結のゴンドラは目の前で行かれた。◎時間なくロープウェイは「乗っただけ」 次を待った。時間は、あまりない。添乗員さんがチケット売り場の人に尋ねたら、ゴンドラを降りて10分も行くと、素敵なビューポイントがあるとのことだったが、とてもそこまで行けない。中途半端な所で下界の写真を撮って、やってきたゴンドラに乗り込んだ(写真)。 降りた所で慌ただしく下界の写真を撮って(写真)、やってきた下りのゴンドラに乗り込んだ。事実上、ロープウェイに乗っただけのツアーだった。 しかし下に着いた時は、もう集合時間になっていた。それからは、添乗員さんを先頭に走った。添乗員さんを含めて9人のパーティーのうち、7人が来ているから走らなくともよさそうだが、来なかった夫婦連れ2人は待たせることになる。やはり走って誠意を示す必要があった。◎この時の遅刻は旅でただ1度の遅刻となった 僕たちゴンドラ組みは7分ほど遅れて集合場所の駐車場に着いた。 ちなみに僕たちのパーティーは優秀で、ホテルからの出発時間も、観光地での集合時間にも常に時間前に全員が集まった(全員と言っても8人だが=後に6人になる、その理由は後述する)。この時の遅刻が、このツアーの唯一の遅刻となった。(この項、続く)昨年の今日の日記:「旧ユーゴ3カ国周遊(16):『クロアチアのロダン』作の巨大なグルグール・ニンスキ像」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202508050000/
2026.08.05
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インティワタナ(日時計)の見学を終え、北側へメイン広場沿いに、また東に向かう。左側、すなわち北側斜面は、石を積んだ居住区が広がる。 ここで改めて気がつくのは、花崗岩のむき出しになった岩場をうまく設計に取り込んだタワンティンスーヨ帝国の知恵である。◎岩に稀少な野生のチンチラ 例えば、上の写真だ。高さ7~8メートルはありそうな巨岩をそのままに、その上に比較的に小さな石を積んで建物を造っている。この花崗岩の巨岩も利用しようとしたらしく、中央を上から下に一直線の亀裂が走っている。ただ奥行きも厚いため、うまく割れなかったので、利用を諦めて、そのまま礎石にしたと思われるのだ。 ガイド氏が、「チンチラだ」と注意を喚起する。遺跡の岩場に、リスに似た動物がいる(写真中央)。アンデスの岩場に棲むネズミ目のチンチラだ。 チンチラは、もともと岩場で草だけ食べて生きている動物だけに飼育しやすく、最近はペットとして飼育されるようになっているらしい。銀灰色できめの細かい毛が珍重され、かつては高級毛皮を採れる動物として乱獲された。 ペットショップには縁がないので、チンチラを見たのは、これが初めてだ。まさかマチュピチュ遺跡で野生のチンチラを見られるとは、思ってもいなかったことだ。◎「天体観測用」の水盤 北側斜面に設けられた「技術者の居住区」とされているエリアの広場に、花崗岩の岩をくり抜いたお盆状の遺構が2つある(写真下)。 遺構には、水が張られている。石臼とも、天体観測用の水盤だと言われている。天体観測用説に従って、水が張られているが、水に映る太陽や月、星の動きを観測したのだとされている。 タワンティンスーヨ帝国の生産基盤は、マチュピチュ遺跡でも約45度の北斜面にびっしりと設置された段々畑で明らかなようにジャガイモとトウモロコシの農耕だった。そのため、遺跡内にインティワタナ(日時計)やらこの天体観測用の石や後でも述べる「太陽の神殿」など、関連した遺構がやたら多い。農業にとって季節の変わり目を適格に予測するのは重要だったので、いくつも作って予測に役立てていたのだろうか。昨年の今日の日記:「信濃路自然歩道を白糸の滝まで」
2012.07.21
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眼鏡橋の見学を終えると、バスはヴェルザスカ渓谷の細い道の最奥部の小さな村、ソノーニョ村に行った。人口は100人足らずという(写真)。◎村はアニメ番組の主人公の出身地 伝統的な石造りの家や小さな店が並ぶ絵本のような村だ。日曜日のせいか、狭い通りに露店がずらりと並ぶ(写真)。冷やかしにのぞいてみるが、ほとんど食指を動かすものはない。 僕は知らなかったが、ソノーニョ村は1995年にフジテレビ系列で放送されたアニメ『ロミオの青い空』の主人公ジョルジョ(ロミオ)の故郷だという。日本のファンの間でも聖地として広く知られているとか。 ただ足の便はかなり悪い。バス便はあっても少なく、訪れていた観光客は、マイカーで訪れる人がほとんどで、公共駐車場は村全体の車を収容できると思われるほど広い。◎小さな村に立派な教会とパン焼きの女性 小さな村なので、端から端まで歩いても10分もかからない(写真)。 その小さな村に教会と花が供えられた墓地がある(下の写真の上と中央)。教会は尖塔も備えている。中もなかなか立派だ(下の写真の下)。人口100人足らずでよくぞ維持できていると不思議に思う。 村の真ん中辺りに、パン焼き窯があり、タトー入りの1人の若い女性がパンを焼いていた(写真)。後で添乗員さんが1つ買って、昼食時にみんなに切って分けてくれた。 焼きたてなのにとても堅い。これまでもこの後も、1日3度の食事にパンは食べたが、すべて堅く、日本の柔らかいパンと全く異なる。歯の悪い高齢者はどうしているのだろうか、といぶかった。 ところで夏でもあることもあり、イタリアの若い女性たちにタトーを入れている人たちが多いのに驚かされた。ざっと見て、10人に1人は、腕から脚まで何らかのタトーを入れている感じだ。◎ハエの多いレストラン ソノーニョ村でたぶん1軒しか無いと思われるレストランで昼食を採った。ここで食べたピザは美味かったが、払っても払っても寄りついてくるハエがうるさく閉口した。村の中に、ヒツジを飼っている家があり、たぶんそこで発生したものだろう。 ソノーニョ村では昼食を含めて約1時間20分ほど、ノンビリとした一時を過ごした。(この項、続く)昨年の今日の日記:「またしても石破政権、野党に譲歩しガソリン税の旧暫定税率廃止を決める;地球温暖化に拍車をかけるガソリン使用奨励策」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202508010000/
2026.08.01
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動揺する韓国大統領の文在寅は、内外で二進も三進も行かなくなっている。 外では、大統領選の公約で、当選後も必ず口にしてきた対北朝鮮との対話路線は、北朝鮮ならず者集団の相次ぐミサイル発射と水爆実験で、完全に破綻した。 そうかと思えば、国連安保理制第9次裁決議の後、国連総会で各国首脳から北朝鮮ならず者集団へ非難の放火を浴びる中の21日、文在寅政権は国際機関を通じて北朝鮮に計800万ドル(約9億円)の人道支援を行うと発表し、メディアと保守系市民からの批判を受けている。◎左に右に動揺を繰り返す反日文在寅 そもそもそれ以前から、対北朝鮮へなされた様々な「対話」の呼びかけは金正恩から無視され続けている(17年7月30日付日記:「韓国の従北派大統領、文在寅、北朝鮮ならず者集団への必死のすり寄りも無視され、惨め;北朝鮮、またもICBM発射」を参照)。 昨日の日記でも述べたが、いわゆる「徴用工」問題でも、自身のイデオロギーを貫けず、結局は「日本への請求権無し」と元に戻り、国内の反日左派から反発をかった。 「市民団体」と自称する様々な反日左派グループが、従北派の文在寅を大統領職に就けたため、文在寅は無理筋と分かっても、彼らと手を切れない。だから、動揺を繰り返す。 しかも韓国では、憲法より上に立つという「国民情緒法」という成分法にもない最高法規があるとされているから、なおさらだ。「国民情緒法」という目に見えない「法規」で、時の警察も司法も行動を縛られる。◎「徴用工」像の違法建設も放任 2年前の日韓外相交渉で決着したはずの日本大使館前の公道に違法に設置された「慰安婦」像もがいまだに撤去されていないのもそれだし、先に韓国最大の財閥サムスンの実質的トップの李在鎔に懲役5年の実刑判決を出したのも同じだ。国民が財閥に嫌悪感を持っているから(そのくせ自分や子弟は、サムスンに入社させたいと誰もが願っている)、罪状認定もいいかげんで、実刑を科した。 先の「徴用工」問題では、自称「市民団体」が、ソウル中心街の竜山駅前広場に徴用工像(写真)を勝手に建てた。駅前広場は国有地であり、ここへの建設は違法である。 管理する鉄道施設公団は、建てた「市民団体」に8月末までの撤去要請文を送ったが、当然に無視され、今もそこにある。日本なら、外交問題になりかねないとして法廷に撤去の仮処分を申請し、強制撤去するだろう。◎「徴用工」像建てた過激左派労組は日本の過激派中核派とも連携 実はこの像を建てたのは、従北派で過激な左派労組とされる民主労総(全国民主労働組合総連合)など2団体だ。民主労総は、保守政権時代、過激な労組活動を行い、しばしばストを打ち、生産活動を妨害する。 この姿勢は筋金入りだ。 そのため、日本の過激派中核派と友好的に交流している。中核派の機関紙「前進」にはしばしば自派の動労千葉の活動と共に民主労総の活動やアピールが掲載される。 それどころか、互いに日韓間を往来して交流している。例えば昨年11月、ソウル市街を埋め尽くした朴槿恵大統領弾劾集会に、中核派は動労千葉などの身分で参加している(写真)。◎来日し中核派の集会でも挨拶する民主労総 民主労総も負けていない。昨年11月6日、中核派が企画した全国労働者総決起集会(日比谷野外音楽堂)では、韓国から民主労総の代表35人が来日し、壇上で「朴槿恵と安倍を倒せ」と気勢を上げた(写真)。 ちなみに民主労総は、中核派のようなちっぽけな団体ではない。組合員約70万人を抱える韓国の第2のナショナルセンター(全国組合組織)である。加盟労組員トップの労使協調路線を採る韓国労総(韓国労働組合総連盟)が約80万人であることを考えれば、左派の民主労総の影響力は大きい。 こんな連中が支えている文在寅政権なのだ。 少なくとも文在寅が大統領でいる限り、日韓友好などあり得ないだろう。昨年の今日の日記:「エチオピア紀行(70):安全のためのガードすら無い、足もとツルツルの岩の教会;追記 ノーベル賞候補に日本人」
2017.09.24
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ミャンマー大地震の直後の3月31日、政府の作業部会は、南海トラフ巨大地震の被害想定を新たにまとめ、発表した。◎慄然とさせられる大被害 それを見ると、30年内に80%の確率で起こるとされる南海トラフ巨大地震の予測被害の大きさに慄然とさせられる(図)。 南海トラフ地震が襲う東海から九州の沿岸域を中心に149市町村で震度7を観測し、太平洋側の広範囲で3メートル超の津波が到来する(写真)。 これによって被る被害は、想像を絶する。 まず揺れや津波によって受ける建物やインフラなどの被害は、224.9兆円と想定された。その他の生産・サービス低下で生ずる被害が45.4兆円、道路や鉄道、港湾などの途絶・機能停止の影響が22兆円、経済被害は合計で292.3兆円という。 また人命被害も大きく、死者は最悪のケースで29.8万人と推定される。◎世界ワーストワンの東日本大震災の被害の6倍 イギリスの保険会社エーオンの調査では、1900年以降の全世界の自然災害による経済被害のトップは、日本の東日本大震災(2011年)の49.8兆円、2番目が阪神大震災(1995年)の32兆円だった(図)。つまりワーストワンとワーストツーがいずれも日本だが、前記推定では、来たるべき南海トラフ地震は、東日本大震災の6倍、断トツの被害となる。 ちなみにこの想定被害総額は、同日に承認された2025年度予算の2倍を大きく超える。◎名目GDPの半分に近い想定被害 問題は、いつその未曾有の大震災が起こるのか、起こったら日本は、立ち直れるのかという深刻な疑問だ。 予算の2倍を超える大被害は、日本の2025年の名目GDP629兆円の半分に近い。 どこから復興費用を捻出するのだろうか。それでなくとも24年12月末時点の国債残高は1317兆6365億円に達している。これ以上、借金はできないだろうし、無理に国債発行を増やして復興予算を確保しようとしても、償還に不安が先立つから誰も購入しようとしないだろう。 つまり衰退する老大国日本は、ひょっとするとその時点で「ジ・エンド」かもしれない。◎バラマキ止めて少なくとも毎年10兆円程度の積立を始めよ そんな確実に迫る危機を前に、政府与党も野党もノーテンキに高校授業料無償化や課税最低限160万円上げ、高額療養費の本人負担増の先送りなどを決めている。 本来なら、最低限10兆円程度の積立を毎年始めなければならないだろうに。昨年の今日の日記:「初期ヒト族は142万年前頃にヨーロッパ内陸部に植民していた」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202404020000/
2025.04.02
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悪路を青ナイルの滝に向かう途中、現地ガイド氏の判断で寄ったエチオピアのごく普通の農家では、まさにインジェラを焼いているところだった(写真)。これから、朝食なのだ。 ◎家は一間きり、炊事と食事は戸外で 写真でも見られるように、エチオピアの農村では、一間きりの掘っ立て小屋の中に台所はない。どこでも調理は外で行い、その場で食べる。掘っ立て小屋の中は、子だくさんの家族の寝室だけだ。 インジェラを焼いている目の前で、未舗装の道を車が埃をあげて走っている。水道もない。日本人が食べたら、腹を下しそうだ。 思いがけないエチオピアの庶民の暮らしの一端を垣間見ることができた。◎30キロの道を1時間半もかかる悪路 バハルダールのホテルを出発して約1時間半、悪路の旅は、終点になった。小さな集落が、「青ナイル滝」(Blue Nile Falls)の観光拠点になる。 ちなみに青ナイル滝は、バハルダールの下流30キロの所に位置する。それに、車で1時間半かかった。未舗装の悪路のせいである。これが、他の幹線のように舗装されていれば、たった30分で着くのに。 さっそくどこからか子供たちが集まってきた。例によって「ペン」、「ペン」である。8時半を過ぎた時間なのに、学校に行くそぶりが見えない。 ◎汚れたシャツ、裸足の子 世界最貧国で、人口急増の国だけに、エチオピアは初等教育にも行き届かない。農村部では、半数が未就学児という(16年2月4日付日記:「エチオピア紀行(4):『少年』国家エチオピアの子供たちに未来は期待できるのか、現実の傷ましさ」を参照)。 汚れたシャツ、そして裸足の子もいる(写真)。おそらく未就学児か。 ただ教室不足のエチオピアでは、普通は授業は、午前部と午後部の二部制なので、午後部の子供もいるのかもしれない。 ◎インフォメーションのトイレは不潔度最悪 インフォメーションのような汚い建物があり、そこで青ナイルの滝の出発前にトイレを済ませた。入って、後悔した。猛烈に汚く、悪臭。途上国とはいえ、外国人ツーリストも来るのだから、もう少し清潔にしていればよいのに、と思った。 僕たちは、青ナイルの滝に行く途中、畑の中でエチオピアで初めての青空トイレを経験したが、そちらの方がよほど清潔だった。 昨年の今日の日記:「バルト3国紀行10:美しい大聖堂と1枚の絵、そして「カルネアデスの舟板」と『蜘蛛の糸』;紀行」
2016.05.07
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9日、政府の情報収集衛星を載せたH2A41号の打ち上げに成功した。衛星は軌道に乗った(写真)。これでH2Aロケットは、43回連続して成功したことになる。 また今年の年末に、小惑星「リュウグウ」の探査を果たした「はやぶさ2」が地球帰還を果たす。リュウグウに接近し、成功裏に着陸し、表面の狙った個所に人工クレーターをつくり、再着地して地球への軌道をたどる。◎世界で4番目 こうした精密誘導技術は、日本が宇宙開発国になってから半世紀で到達した。 日本が最初に宇宙開発国になったのは、1970年2月11日の人工衛星「おおすみ」(写真)の打ち上げ成功、でであった。 1957年のソ連のスプートニク打ち上げに遅れること13年で、ソ連、アメリカ、フランスに次ぐ、4番目の人工衛星打ち上げ国=宇宙開発国になった。この時、先を行くアメリカは巨大なサターンロケットにアポロ宇宙船を載せ、飛行士を月に送っていた。 それに比べれば、実に細やかなものだった。◎4回失敗、通信は15時間のみ、重さはたった23.8キロ また「おおすみ」は打ち上げ成功まで、4回も失敗しているし、ぶじ衛星軌道に乗せても通信も15時間ほどで途絶した。成功したと言っても、軌道は当初計画と違った離心率の大きな長楕円軌道となり、設計上のミスから電池損耗が予定より早く進んだのだ。 今の水準で言えば、全長約1メートル、重さは23.8キロのおもちゃに近い衛星だった。 H2A機の43回成功や「はやぶさ2」の大活躍などを思えば、僅か半世紀前とはいえ、昔日の感が深い。 そんなわけで、「おおすみ」の電波運用は早々と打ち切られたが、その後も光学観測により存在が確認されていた。◎ただ1カ国、純粋民間衛星 もし「おおすみ」が誇れるとしたら、それまでの先輩国家の人工衛星が軍事用のミサイルの転用であったのに対し、「おおすみ」は一切の軍事転用もなく、純粋に衛星打ち上げだけの科学技術で人工衛星となったことだ。 この伝統は、その後の「はやぶさ」と「はやぶさ2」で受け継がれている。 なお「おおすみ」の名称は、もちろん打ち上げ基地があった大隅半島に由来する。昨年の今日の日記:「エチオピア紀行(143):ティグレ族の典型的な家庭を訪ねる、土間一間きりで炊事は外」
2020.02.13
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人は誰でも失敗する。しかし人がサルと違うのは、ただ直立二足歩行をしているからではなく、失敗を学び、その原因となった結果を教訓として2度と同じ過ちを繰り返さないことだ。◎「5・10(ごと)日」を控えた3連休直前に ところが去る15日から起こったみずほ銀行(写真=内幸町の本店)のシステム障害は、大震災後の不安な世情にさらに金融不安を起こしたことで罪深い。そのうえ、みずほの大規模システム障害はこれが2度目だけに、さらに罪深い。 ある派遣社員が嘆いていた。18日の金曜日に給料が振り込まれると思ってATMで記帳してみたら振り込まれていなかった、と。記帳を試みた銀行はみずほではない。ところが給料支払先がみずほフィナンシャルグループに属するみずほコーポレート銀行であったらしい。 かくてその派遣社員の別銀行の口座に給料が振り込まれていなかったという次第だ。 18日は、商売で俗に言う「5・10(ごと)日」に当たる20日の直前の平日である。中小・零細企業では、18日に得意先から支払いがなければ金策に窮しただろうし、逆に支払先に届いていなければ信用問題になっただろう。 「もうこんな銀行とは取引しない」と怒り心頭の人たちがいたことは想像にかたくない。◎3行統合直後に続く2度目の過ち みずほは、3連休を利用して必死に復旧に取り組む一方、ATMを休止し、顧客に店頭で現金を10万円だけ手渡せるように、3連休中も店を開けたという。 しかしその後遺症は、火曜日も残り、一部は水曜日にまで尾を引いた。 理由は、ある特定の店(本店の可能性がある)に震災被害への義援金振り込みが集中し、当日に処理しきれず、そこに翌日の振り込み業務が重なり、パンクしたものらしい。 しかしお粗末である。なぜならそのような事情は、他行、すなわち三井住友銀行も東京三菱UFJ銀行でもあったはずだからである。1人、みずほだけがパンクしたのは、油断があったからだ。 冒頭で人は2度過ちを犯してはならないと書いた。 今から9年前の2002年、第一勧銀、富士、興銀の3行が統合し、みずほフィナンシャルグループが出来、個人・中小企業向けのみずほ銀行が発足した直後も、大規模なシステム障害を起こした。その混乱は、1カ月近くに及んだ。 これで3行統合を主導した3行のボスが3人、引責辞任した。 今回も、東日本大震災という大危機の時に、震災被害と直接関係しないシステム障害を起こしたことは9年前の失敗から学んでいないことを露呈した。 いずれ金融庁から厳しいお沙汰があるだろうが、みずほ銀行の西堀頭取の辞任は不可避だと思う。グループの他の首脳も、なにがしかの責任をとらされるだろう。◎社会的責任の希薄さを表す低株価 現代の銀行は、ほとんどすべてがオンラインで相互接続されている。1つの銀行のシステム障害は、他行の利用者にも迷惑をかける。そしてビジネスの世界では、重要な信用問題にまで発展しえる。 その自覚が薄かったとすれば、やはり3メガバンク最下位もむべなるかな、というところか。 ちなみに3メガバンク株のうち、みずほが一番株価が安い。昨日の終値は、148円である。それでいて期末配当は6円を予定している。手数料を考慮しなければ、配当利回りは4.05%である。普通ならありえない安値に放置されている。 さらに言えば、配当落ちで翌日にその分だけ下落するのが普通だが、来週月曜日にもしこの値段で買い、翌日の配当落ち日にこの値段で売れれば、最低単位100株で買っても、1万4800円で600円の配当がもらえるのだ。 そんな美味しい話があるのも、みずほ銀行の親会社に当たる同フィナンシャルグループの体質に問題があるのでは、と疑ってしまうのである。昨年の今日の日記:「日本郵政再国有化の暴挙から見える『第2の国鉄』化の暗澹たる近未来」
2011.03.25
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南アフリカ共和国、ケープタウンの東南、大西洋とインド洋を画す海岸を見下ろせるフェルンクルーフ自然保護区にワイルドフラワーを観に行ったのは、もう3年前だ。あいにくの雨模様で、晴れていれば青い海を望めただろうが、海は鉛色だった(写真)。 ◎「人類の揺り籠」 この海岸沿いにさらに東に行けば、現生人類の残した遺跡がある、と思ったが、ツアー旅行ではそんな自由はない(写真)。 南アフリカは、最初に猿人化石が見つかった「人類の揺り籠」の地だが(猿人化石の大量出土したステルクフォンテインは、その一帯の産出地とともに世界遺産「人類の揺り籠」に登録されている)、その後にもっと古い、情報量の膨大な化石群が東アフリカで産出し、実際の「揺り籠」の地は、東アフリカに移った。 ◎最初の現代人的行動の証拠は南アフリカから しかしまだ「揺り籠」は残っている。それどころか、最近の調査からここは「現生人類の揺り籠」だった気配が濃厚になっている。現生人類は、今から20万年前頃に古型のホモ・ハイデルベルゲンシスの中から分岐進化した。化石記録にはっきりと証拠を残すのは、19.5万年前のオモ・キビシュが最古である。 ところが現代人的な行動の証拠は、南アフリカから集中的に発見されている。現在のところ、現生人類の揺り籠は、南アフリカが最有力である。 現生人類がそれまでの古型人類と異なるのは、彼らに至って初めて象徴化が行われるようになったからだ。 その証拠の、最も充実しているのが南アフリカなのである。 ◎ピナクルポイントの13B洞窟 ケープタウンから東に300キロほど行った、大西洋・インド洋岸に面したモッセルベイ市の南のワイルドフラワーで有名な海浜にピナクルポイントがあるが、この海岸にはたくさんの海食洞窟が開口している(写真)。 そのうち20カ所ほどは、現生人類の居住が確認されていて、ここの1つのピナクルポイント13B洞窟では、アリゾナ州立大など国際チームによって最も集中して調査されている(写真)。 象徴化の前提は、大きな脳を養える安定した食資源だ。13B洞窟の発掘調査で、16.4万年前頃には主に貝の海産資源を利用するようになっていた。 ◎MIS6の氷河時代の人類適応 当時の地球は、19.5万~12.3万年前の「海洋酸素同位体ステージ(MIS)」6という氷河期だった。乾燥化して荒原が広がり、人類が利用できる陸上動物の資源が細ると同時に、海退で眼前に広大な岩の浜が広がっていたので、そこから容易に貝を採捕できるようになっていた。 そうした厳しい自然環境は、すでに脳を十分に大きくしていた現生人類に宗教などの象徴化行動の発展を促しただろう。 ◎KRM、ブロンボス、そして 海産資源の利用は、近隣の遺跡の調査でも実は早くから注目されていた。最初にそれが注目されたのは、ここからさらに300キロ東方のクラシーズ・リヴァー・マウス(KRM)洞窟群で、ここの1洞窟から10数万年前近くに暮らした人類が貝の採捕を行っていた貝殻の層が残されていた。研究者を驚かせた人類最古の「貝塚」の形成が分かったのは、1960年代後半である。 その後、ずっと西方、ピナクルポイントの西約50キロのブロンボス洞窟でも、7万年前頃には海産資源の採捕と同時に、オーカー板への抽象的記号の線刻やビーズ製作などの多様な現代人的行動の開花が確認された。 ◎MIS6のオーカー、細石刃技術、石器の加熱処理 さて、そのピナクルポイントである。ここは、アリゾナ州立大人類起源研究所の古人類学者カーティス・マレーンの率いる国際チームが発掘しているが、前述の氷河期MIS6(19.5万~12.3万年前)の地層から象徴化行動のための顔料の製作と使用が見出されている。オーカー(酸化鉄)を削って粉に引き、それを身体装飾などに用いられたのだろう。 それは、人類にとって初めての美意識、あるいはアイデンティティーの表象だった。 さらに世界最古の細石刃技術も確認された。それは、すでに南部アフリカ各地で確認されているハウスソンズ・プールト文化の最古のものであった。ちなみにヨーロッパでは、細石刃技術はずっと新しい中石器時代にないと現れない(日本では縄文時代草創期にわずかに先駆ける旧石器時代末に出現する)。 さらに考古学者を驚かせたのは、石材の制約を乗り越えるための石器の加熱処理が世界で初めて行われていたことだ。これも、ヨーロッパでは上部旧石器時代にならないと現れない。 ◎シルクリートを加熱処理して良質の石器原材化 この頃のアフリカの石器文化はMSA(中期石器時代)だったが、南アフリカ海岸部ではMSA技術に適した石材に恵まれなかった。最適な石材は、東アフリカでは黒曜石、ヨーロッパならフリントだったが、これらきめの細かいガラス質の石材が南アフリカにはない。そこで、最古の現生人類は、細粒性に乏しく石器材料には向いていないが入手しやすいシルクリート(珪質礫岩)を、一定の手続きで火の中に入れて加熱処理をすれば良質の石器材料になることを発明したのである。 必要は発明の母、と言うが、それも知性の発達があってのことだ。この頃、現生人類は、次にこのステップを踏めばこうなる、という先見性を発達させていたのだ。 ◎MSAの先駆的試みは途絶える 象徴化と先見性を備えたテクノロジーを発達させていた南部アフリカのMSA人は、明らかに言語も発達させていただろう。 しかしそれでも、その現代的行動の走りははかないものだった。その後、激しく気候の変動する気候環境のせいなのか、この現代人的行動は廃れる(あるいは小集団に細々と受け継がれた程度だったかもしれない)。中東を通じ、ヨーロッパなど旧世界各地に拡散するまで、10万年近い時間を要したのである。 昨年の今日の日記:「バルト3国紀行43:エストニア首都タリンに入る;世界遺産旧市街の城壁に達する」
2016.09.09
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先週末の2日、日経平均は終値で2万円台回復した。2015年8月以来、約2年ぶりである。◎ニューヨーク堅調、雇用統計もまた堅調 前日の1日、ニューヨーク市場のダウも3カ月ぶりに史上最高値を塗り替えていた(写真=ニューヨーク株式市場のビル)。出遅れ感著しい日本も、ニューヨークの後押しを受けてやっと2万円台の大台乗せである。 さて日経平均をバックアップしたアメリカの株価は、2日も続伸した。2日に発表された5月の雇用統計の堅調さで利上げがいっそう確実になったことで、景気の持続性を好感した(もっと裏にはポスト・トランプの期待感があることは、5月28日付日記:「市場が歓迎するトランプ氏退陣と政権内リーク合戦でついに最高中枢のクシュナー氏がロシアゲート事件に浮上」で述べた)。◎「雇用を」とアジるトランプ氏を嘲笑う雇用逼迫状態 その雇用統計である。アメリカの経済統計で、マーケットが最も重視する統計だが、5月の失業率は4.3%と前月よりさらに改善した。実にITバブル末期の2001年5月以来の低水準である。 FRBが完全雇用と見るのは4.7%で、それさえも下回る。探せば必ず仕事が見つかるという完全雇用よりも超完全雇用と言うべきで、むしろ求人逼迫の状態に入りつつある。 つまりトランプ大統領が金科玉条とするアメリカに雇用を取り戻すなど、とっくに達成されているのだ。 したがってアメリカに雇用を取り戻すという名のもとに進められたTPP脱退、1日のパリ協定離脱も、アジテーション・プロパガンダ(アジ・プロ=宣伝扇動)に過ぎない。歴史上、アジ・プロを多用し、民衆を扇動して政権を掌握し、さらにそれを体外膨張手段に使ったのは、ヒトラーとスターリニストどもなので、トランプ氏もその列に連なったことになる。◎時価総額世界5位までもナスダックのIT企業が占める さてニューヨークの株式市場に戻ると、実は主にオールドエコノミー企業で構成される指標のダウの史上最高値更新よりずっと早くに先駆けて史上最高値を振り替えていたのは、主にIT企業で構成されるナスダック市場である。2日も、ナスダック総合株価指数は上昇し、6305.80の史上最高値を連日で更新している。 ナスダック構成銘柄は、時価総額世界ベスト10の5位まで独占する。1位:アップル、2位:アルファベット(グーグルの持ち株会社)、3位:マイクロソフト、4位:アマゾン、5位:フェイスブックである。 すべて新興のIT企業で、かつての1位のオールドエコノミー筆頭のエクソンモービルはやっと7位に入るに過ぎない。時価総額もアップルの半分以下である。◎アマゾン株、20年で500倍! この中で注目されるのは、前にも紹介したアマゾンだ(5月18日付日記:「アマゾン株、ロケットの飛翔ような値上がりで、創業者のベゾフ氏は持ち株のたった0.2%を売っただけで1000億円! 宇宙ビジネスに投資」を参照)。 同社株は、去る30日、ついに1株1000ドルをつけた。同社がナスダック市場に新規株式公開したのは20年前の07年5月である。当時は1株2ドルにも満たなかったという。 それが20年で1000ドル、500倍である! この時、小遣いを出して100株(当時の為替は1ドル=120円前後だった)も買っていた投資家は、2ドル×100株×120円で2万4000円程度の投資が、今は1000ドル×100株×110円(1ドル=110円で換算)1100万円にもなっている計算だ。◎神様も見通せなかったアマゾンの大化け まさにアメリカン・ドリームである。この時、アマゾンに投資できた人は、将来を正しく見通せた異能の才の持ち主だったと言える(もっとも今も待ち続けているかどうかは分からないが)。 神様と万人の投資家から尊敬される「オマハの哲人」ことウォーレン・バフェット氏は、「分からないものには投資しない」を信条としてきた。したがって氏が経営する投資会社のバークシャー・ハザウェイは、アマゾンに投資しなかった。それを今、バフェット氏は悔いているという。 もっともそのバークシャー・ハザウェイでも時価総額は堂々の6位で、IT企業に劣後するけれどもエクソンモービルより上なのだ。バフェット氏が偉大な投資家であることは、論をまたないだろう。昨年の今日の日記:休載
2017.06.04
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最近では人生100年時代とよく言われるが、明治から大正にかけて平均寿命は40歳ちょっとだった(図)。 そう言うと、当時の人たちは50歳まで生きられなかったのか、と誤解される。そんなことはない。平均寿命とはゼロ歳児の平均余命だから、乳児死亡率を減らせば平均寿命は延びる。◎平均寿命の急上昇のなぜ 明治・大正時代は、乳児死亡率が高く、それが平均寿命を押し下げていたのだ。日本は戦前まで、多産多死社会だった。田舎の農家では、10人近く子どもを産んで、そのうち3、4人は早くに死に、成人に達するのは半分ちょっとということがよく見られた。 さて図を見ていただきたい。今から約100年前の大正10(1921)年、平均寿命が落ち込むが、大正14(1925)年に急激に上昇している。 これは、この頃に乳児死亡が急減したことを物語る。何があったのか? 先日、ある冊子を読んでいて、そのかげに東京市長を務めた後藤新平(写真)の英断があることを知った。◎上水道の塩素殺菌を始めた後藤新平 後藤新平は、台湾総督府の民政長官や外相、内相も務めた器の大きい政治家だった(「大風呂敷」とあだ名された)。関東大震災時は東京市長の任にあり、復興の大業を担った。災害に強い街造りのために道路の拡幅などに尽力した。 彼は、東京市長時代、ようやく普及し始めた上水道の水道水の塩素殺菌を始めた。雑菌の大量に含まれた生水が、乳幼児の死亡率を高めていることに気がついた後藤は、大正10年に日本で最初に東京市の水道水の塩素殺菌を始めた。彼は、医師でもあり、ドイツのコッホの研究室に留学し、細菌学の研究で博士号も受けている。 この効果は、東京市での乳幼児死亡率を劇的に低下させ、それが全国に広がった結果が前記の平均寿命の急上昇をもたらした。◎豪腕で用途の無くなった毒ガスを転用 塩素殺菌は、今日では常識だが、当時はそうではなかった。 しかも使われたのが、毒ガス兵器として開発された液体塩素だった。 液体塩素は、現・保土谷化学工業がシベリア出兵に際して使用する可能性があるとして当時の陸軍から製造を依頼されていたものだ。ところがシベリア出兵はすぐに終わり、製造した毒ガスとしての液体塩素の用途が無くなった。 それに目を付けたのが、外相を務めたこともある後藤新平である。細菌学者でもある彼は、陸軍の反対を押し切って、毒ガスを民生用の水道水殺菌に転用した。これには、様々な妨害もあったはずで、押し切るにはかなりの豪腕が必要だったに違いない。後藤新平は、その政治力と実行力を持っていた。◎台湾民生局長でも手腕も 後藤新平は、明治31(1898年)から8年半、台湾総督府の民政長官も務め、悪疫のはびこる台湾を清潔な環境の地に変えることに注力した。台湾が、武漢肺炎の防疫に世界で最も成功した国とされる遠因は、後藤の事績もある。 毒ガスも用途によっては人類の福祉に役立ち、単純な反植民地主義の偏向思考は過去の日本の業績を歪めることを、後藤新平の成功は物語っているのである。昨年の今日の日記:「選挙目当ての争点化狙いの『老後2000万円』、当たり前の指摘を騒ぎ立てる野党とマスコミの愚劣さ」
2020.06.13
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またしてもお決まりの野党の離合集散劇だ。 立憲民主党と国民民主党はえんえんと合流協議を続けていたが11日夕、ついに事実上吸収される国民民主党代表の玉木雄一郎が、記者会見で自党の分党を発表し、自身は立民に合流しないことも表明し、合流協議からおりた(写真)。◎相も変わらぬ離合集散劇、またしても 要するに国民民主党を分党し、立民行きを希望する議員と国民民主に残る議員に分かれようというもの。若手を中心に前者が多いが、保守系や選挙基盤の強い有力者は国民民主党に残留するとみられる。 旧民主党以来のお家芸である内輪の足の引っ張り合いの再現だが、相も変わらぬ離合集散の笑劇でもある。しかしこの笑劇は、衆院解散の近いことを野党の立民と国民民主が確信したことを示している。 強大な自民党に対して、ひ弱な野党、特に立民と国民民主は、危機感を抱いていた。 安倍首相は、武漢肺炎の対応の不手際で不支持率が支持率を上回っている。ところが安倍首相の基盤の自民党は支持率はむしろ上昇気味。危機の時の与党、という歴史の示すとおりの展開となっている。◎5%+1%は20%にはならない だから安倍首相の不人気に、立民などは乗り切れない。相変わらず支持率は一桁、ほぼ5%近辺だ。国民民主の場合は、維新にも離され、1%前後の矮小政党だ。 5%と1%が合流しても、自民に肉薄する20%など成りようもない。 合流新党は、野党では右から上げ潮の維新、左からは一時の勢いは失速したものの山本太郎のれいわ新選組に挟撃される。合流したところで、新鮮さがまるでないから(元の鞘に収まるだけ)展望が開けるわけではない。 だから玉木は、合流を拒んだのだろう。もともと合流しても、事実上の吸収だから、合流新党で枢要のポストを得られるわけではない。◎分党は旧民主党以来の党資金などを受け継げるメリット 自身の選挙区の香川2区では、抜群の強さを誇る。何しろ4回連続、小選挙区で勝ち上がっているのだ。立民の衣を借りないでも、自分は楽勝で当選できると踏んでいるのだ。 そのうえ分党して、自らが国民民主党を引き継げば、旧民主党以来の党資金や中央、地方の組織、地方議員の多くを政党資産として受け継げる。特に党資産は潤沢で、政党交付金の仕組みなどから、資金は立民を大きく上回り、2019年夏の参院選を経た現在でも約50億円の「貯金」があるという。 逆に立民への合流組は、裸一貫で立民に「転がり込む」。多くは、選挙に弱い比例復活組で、立民にとってメリットは乏しい。枝野にすれば、荷厄介な弱小軍団を大量に面倒を見なければならない。◎末は自民入りか むしろ玉木は、もっと先を見ているのだろう。それは、長島昭久氏や細野豪志氏、そして桜井充氏のように、いずれは自民党に入ることだろう。 それには立民など左派に加わるのはマイナスでしかない。 立民などの左派は、万年野党で無責任に言いたいことを言ってるだけで飯が食えるけれど、中にはそうではない人たちもいる。 政治家である以上誰もが、大臣や与党要職に就き、国政に関与したいはずだ。旧民主党の若手のホープだった玉木も、もう51歳。そろそろ腹をくくらねばならない所に来ている。 自民党は、そうした人士を磁石のように引きつける。よその党出身者で修羅場をくぐり抜けて鍛えられた議員を受け入れて多様性を高める自民党は強いわけだ。昨年の今日の日記:「ネズミ4題(その3):かつてサイほどの大きさの巨大種もいたテンジクネズミ科、アフリカから南米への漂着で適応放散」
2020.08.18
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僕の好きな画家の1人に、マルク・シャガールがいる(写真=33歳のロシア在住時)。 特に好きなのが、恋人共に空を飛ぶ「町の上で」(写真)。この絵は、以前、箱根のポーラ美術館で見たことがある。多くの画家の絵がそうであるように、僕の観た絵は、写真の「町の上で」と微妙な違いがある。しかしすべて同一モチーフの絵である。◎ロシアのユダヤ人、ポグロムによる迫害 僕の深読みだが、これにこそシャガールの鬱屈した青春時代が投影されているように思われる。 なぜならシャガールは、現在はベラルーシの当時帝政ロシア領であったヴィテブスク生まれのユダヤ人だったからだ(写真=ヴィテブスクのウスペンスキー大聖堂)。 帝政ロシアは、「諸民族の牢獄」とも呼ばれるほど、多数派民族のロシア人の下に、多くの少数民族が従属させられていた。その中でも、ユダヤ人の地位は低かった。 なまじ商業にたけていて、金を儲ける者たちもいたから、貧しい主要民族のロシア人はもとより、多数の少数民族からも嫉まれ、ことあるごとに集団的に襲われた。 「ポグロム」と言うが、権力者も貧しい庶民の不満のはけ口、矛先に、反ユダヤ感情をたきつけ、ユダヤ人を集団で襲わせ、迫害した。◎城柵で囲まれたゲットーで暮らす ポグロムは、今で言うジェノサイドに他ならないが、その集団的襲撃に備えるために、そして権力者にとっては統治しやすいように、ユダヤ人集落の周りには、城柵、城壁が設けられた。 「町の上で」には、その木柵を恋人と共に脱出していくかのように飛ぶシャガール自身が描かれている。それは、逼塞した自らの環境から、迫害の無いどこか自由な国に飛んで行きたいという心からの希求だったのだろう。 なお「町の上で」の城柵は木柵で、ロシアはこれが多かったらしい。2014年夏にポーランドに行った時、古都クラクフの旧ユダヤ人ゲットーのカジミエシュで、今も残る石壁を見たことがある(写真)。◎戦争で翻弄された前半生 シャガールは、1987年の7月7日生まれだが、彼がやっと「諸民族の牢獄」のロシアから脱出したのは、1910年、23歳の時である。パリで5年間暮らすが、第1次世界大戦の重い社会状況から抜け出すためなのか、1915年にロシアに戻る。しかし祖国もまた、対ドイツの大戦中だった。 再びパリに脱出するが、ここも安住の土地ではなく、ナチ・ドイツのパリ占領が迫ると、アメリカに亡命。 そして第二次大戦後にパリに戻り、最終的にフランスに落ち着くことを決めてフランス国籍も取得している。◎アウシュヴィッツのガス室に消えた子どもたちも シャガールは、才能に恵まれた芸術家だったから、世界を転々としながらも生き長らえることができた。 多くの名も無きユダヤ人は、最悪の場合、アウシュヴィッツなどのガス室に消えている。僕は、7年前の7月、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡(写真)と博物館を観て、幼い子どもたちもここで殺されたことに涙ぐんだ。 殺された子どもたちの中には、将来、シャガールのような優れた画家になる者も、アインシュタインのような世界的物理学者になる者も出ただろう。 そうした古い記憶があるから、第二次大戦後にパレスチナに建国されたイスラエル(写真=エルサレム。オリーブ山から観た神殿の丘)は周りのアラブ世界の中で突出して強いのである。昨年の今日の日記:「長崎・五島、世界遺産の旅①:海辺に建つ構成資産の小教会を船でめぐる」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202012020000/
2021.12.02
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中世志海苔古銭の展示コーナーは、博物館で最も入り口に近い一等地にある。それが、この博物館の最大の目玉であることを示す。◎新しい洪武通宝は13枚だけ、永楽通宝はゼロ 解説パネルによると、2004年からの5年計画で実施された保存修理により、実に38万7514枚もの古銭が確認された(写真=珠洲焼大甕に入っていた古銭約6500枚)。 38万枚余の古銭のうち、最も古いものは前漢の時代の紀元前175年初鋳の四銖半両で、新しいものでは明代の洪武通宝(1368年初鋳)だ。実に約1500年間にわたって作られた銭(ぜに)が網羅されている。ただ、中世後期に国内で大量に流通する明の銭は洪武通宝が13枚だけで、1408年初鋳の永楽通宝は1枚も含まれていなかった。 明銭は、商業の盛んになった中世日本で大量に輸入、流通していた。それなのに、洪武通宝が13枚だけしかなかったのは、収納に使われた大甕の制作年代とも考え合わせると、古銭大量埋納が1370年頃だったらしいことを強く示唆している。◎志海苔海岸産の昆布を畿内に移出 そしてこの時代に近くの高台で志苔館(写真)が営まれ、築いたのは道南十二館の1つを支配した小林氏である。 小林氏は、志海苔沿岸産の昆布を大量に京・大坂方面へ移出し、巨大な利益を得ていたと思われる。越前焼と珠洲焼の大甕の存在は、越前・能登が交易中継地として深く関わっていたことを示す。 ちなみに高田屋嘉兵衛たちが廻船した北前船は、まだ行われていない。それ以前の中世に、早くも京・大坂との太い交易ルートが開かれていたのも驚異的だ。◎アイヌとの緊張漂うなか、財宝を埋納して忘却されたか なお志苔館は、文献などから、長禄元年(1457年)のコシャマインの戦いで陥落したとされている。長年の倭人によるアイヌの収奪が戦いの遠因となっており、14世紀末には志苔館の小林氏を取り巻く環境は緊張していたはずだ。この緊張した環境で、蓄えた銭の大量埋納=デポが行われたのだろう(写真=志苔館と古銭出土地)。そして志苔館の陥落で、デポの存在も忘れられたのだろうか。(この項、続く)昨年の今日の日記:「掛川花鳥園を観覧(上):人気の鳥が放鳥されて身近で観られる;ハシビロコウ、オオハシ、ケア、ヘビクイワシetc.」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202206170000/
2023.06.17
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南米パタゴニアに野生化したウマで、巻き毛のウマ(アルゼンチン・クリオージョ種)がいる。◎20年前の偶然の出合い 世にも珍しい巻き毛のウマは、今から500年ほど前の16世紀に、コンキスタドールが入植のためにはるかスペインからパタゴニアにやって来た時に持ち込んだウマの子孫だ。曲折をへて、珍しいウマがある獣医の保護を得て、ある程度の個体数にまで増えた。巻き毛のウマは、その獣医のもとに現在、40頭ほどいる(写真=巻き毛のアルゼンチン・クリオージョ種)。 今から20年ばかり前、リオネグロ州のソムンクラ高原で、獣医ヘラルド・ロドリゲス氏は静かに草を食む1頭のウマを見つけた。乾ききったこんな陸の孤島にウマがいるだけでも奇妙なうえ、ロドリゲス氏がそれまでに見たどのウマとも違っていた。巻き毛だったのだ。◎最初の出合いから20年で40頭に 当初ロドリゲス氏は、そのウマは病気になっているか、汗をかいているだけだと考えた。しかし、ガウチョ(南米のカウボーイ)が驚くべきことを教えてくれた。干ばつや火山の噴火などで個体数が激減する前は、このような巻き毛のウマがよく見られたというのだ。 このウマに夢中になったロドリゲス氏は、売ってもいいよ、というガウチョの誘いに「イエス」と乗った。妻のアンドレア・セデ氏も同じで、すぐにこのウマと心を通わせた。 その時、巻き毛のウマの群れを作りたいという夢が2人に生まれた。約20年経った今、ロドリゲス氏とセデ氏の元にいる巻き毛のウマは、40頭に増えた。この品種で唯一の群れだ(写真=アルゼンチン・クリオージョ種の茶色い巻き毛と白いたてがみ)。◎500年前に入植してきたコンキスタドールの持ち込んだヨーロッパ馬が起源 なぜアルゼンチン、パタゴニアに巻き毛のウマがいるのか。 この巻き毛のアルゼンチン・クリオージョ種からは、パタゴニアの自然史の興味深い面が垣間見える。 チャールズ・ダーウィンがビーグル号で南米を航海した時、この地域の動植物を綿密に記録したが、巻き毛のウマはダーウィンの目すら逃れていた。このウマの噂は聞いていたものの、ダーウィンはついに見つけられなかったのだ。 1535年、スペイン人征服者「コンキスタドール」のドン・ペドロ・デ・メンドーサは、一部が現在のアルゼンチンに当たるリオ・デ・ラ・プラタ地域に植民地設立の任務をたずさえ、入植者と兵士、そして100頭のウマを連れて大西洋を渡った。そこには、作業用のウマも、スペインの都市カディスの厩舎から連れてきた高級軍馬も含まれていた。◎パタゴニアの自然に適応し、3.6万頭にも ところが6年後の1541年、この地域のブエノスアイレス入植地が、植民地支配に抵抗する先住民部族によって焼き討ちされ、破壊された。スペイン人たちは、12頭~45頭のウマを含む所有物を捨てて逃げ去った。ところが置き去りにされたウマたちは生き延び、アルゼンチンの広大な草原パンパを自由に走り回ることになった(写真=パタゴニアのパンパ)。 もともと草食動物のウマたちは草原環境に適応し、驚くほど数を増やした。40年後にスペイン人たちがこの地に戻ってきた時、豊富な草の食料と広大な平原といった好条件が整っていたためウマは爆発的に増えていて、推定で3万6000頭ほどになっていたのではないかと考えられている。それらの野生化したウマの群れは、「バグアレス」と呼ばれた。 しかし、それだけではなかった。そこには巻き毛のウマがいた。スペインでは見られなかった特徴だ。◎野生化しただけでなく一時は広く飼育 スペインから新しく持ち込まれたウマは、以前に持ち込まれていてやはり野生化していた野ウマと交配し、「クリオージョ」が誕生した。このウマは、野生化しただけでなく家畜としても広く飼われ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部で広く見られるようになった。 巻き毛ウマが初めて文献に現れたのは1739年のことで、スペインの探検家カブレラとソラネットが、アルゼンチンとブラジルの野生のウマの中に、巻き毛の個体のいることを書き残した。スペインの博物学者フェリックス・デ・アザラも、1801年にパリで出版されたパラグアイの四足獣についての著書に、巻き毛のウマのことを記している。◎ダーウィンも観ることがかなわなかった「幻のウマ」に 観ることは叶わなかったが、チャールズ・ダーウィンも1868年の『家畜と栽培植物の変異』で、自然淘汰の例として巻き毛のウマについて書いている。ダーウィンはこれを、無作為な変異、今で言う遺伝的浮動で南米の新たな環境でたまたま定着した結果と考えた。ただし前述のようにダーウィンが実際に南米を訪れた時は、野生環境でそのようなウマを見つけることはできなかったので、彼は巻き毛のウマは消滅してしまったと考えたようだ。 一方で、さらに伝説的な起源があると考える人もいる。地元の言い伝えには、コンキスタドールがやってくるずっと前、テンプル騎士団(フランスのカトリック騎士団で、人里離れたソムンクラ高原に聖杯を運んできたとも言われる)の騎士たちが巻き毛のウマに乗ってやって来て、この地域にそのウマを持ち込んだという話もある。歴史的な裏付けはないものの、この説は根強く、巻き毛のウマの神秘性を高めることに一役買っている。◎これまで確認されたことのない遺伝子変異 ロドリゲス氏とセデ氏は、ウマの血統を特定するため、何年にもわたって複数の国際団体に連絡し続けたが、返ってきたのはいつも同じ「南米には巻き毛のウマはいない」という返答だった。 そんな状況が一変したのは、国際巻き毛ウマ団体(ICHO)の調査部で副議長を務めるミッチ・ウィルキンソン博士に連絡が取れ、同氏が訪れてきた時だ。ウィルキンソン博士の仲介で、アメリカ、テキサスA&M大ウマ遺伝学研究所でDNAサンプルを確認した結果、既知のどの品種とも違うことが分かった。他の巻き毛のウマと異なり、このウマの遺伝子変異はこれまで確認されたことがなかった。 最終的に、ロドリゲス氏とセデ氏のウマは、「アルゼンチン・クリオージョ」の品種に分類された。数世紀前に持ち込まれたスペインのウマの直系の子孫だ。 パタゴニアにいる巻き毛のウマは、近代ヨーロッパの品種とは完全に無関係で、遺伝的にはガリエゴやガラーノといったイベリア半島北部のポニーとつながりがある。ただし、これらの体高は約142~162センチと、パタゴニアの方が少し大柄だ。◎厳冬に生き延びるうえで適応的メリットか 巻き毛であることに適応上のメリットがあるかどうかについては、まだ推測の域を出ない。前出のテキサスA&M大学のウマ遺伝学教授、エルネスト・ガス・コスラン博士によると、厳冬に生き延びるには巻き毛は有効だというダーウィン時代からの仮説はあるものの、その証拠はないという。検証にはさらにデータが必要だ。 巻き毛のウマの群れを作りたいというロドリゲス氏とセデ氏の夢は、このウマを後世に残すことに変わった。しかし、最初の夢の実現も簡単なことではなかった。 運がよければ、年に1頭か2頭、仔が産まれる。しかしよいエサを与える資金がなかったので、冬に備える食料が十分でなければ、乳が出ずに仔が死んでしまうこともあったという。◎パタゴニアの過酷な自然 この過酷な環境を生き延びるのは、簡単なことではない。肥沃なアルト・バレ地域にはナシやリンゴの果樹園があるが、川を渡れば、パタゴニアのこの地域の全く別の側面を目にすることになる。そこには木も山もない。ただ石、石、石の世界だ。 夏は容赦ない日差しで30℃以上になる一方、冬はマイナス20℃まで下がり、厚い雪に覆われる。貴重な水は、雪が解けて出来た小さなラグーンでしか見つからない。 巻き毛ウマを後世に残せるかどうかは、経済的な問題にかかっている。変異が見つかり、パタゴニアの巻き毛ウマの遺伝子型が明らかになれば、その情報を使って最適な交配相手を選ぶことができる。昨年の今日の日記:「世界の選挙(2):イラン大統領選、決選投票で改革派のペゼシュキアン氏当選、イラン国民の切なる願い実るも今後は多難」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202407080000/
2025.07.08
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内閣府と海洋研究開発機構(JAMSTEC)は2日、小笠原諸島・南鳥島沖の水深約6000メートルの海底からレアアース(希土類)を含むとされる泥の引き揚げに成功したと発表した(写真)。 泥を引き揚げた地球深部探査船「ちきゅう」は15日に清水港(静岡市)に戻る予定で(写真=清水港停泊中の「ちきゅう」)、帰港後に泥の成分を分析する。2028年度以降に見据える産業化へ向けて、採算性の検証や精製技術の開発に役立てる。◎泥に含まれるレアアースは6種類以上が検出済み 探査船は1月12日に清水港を出航した後、同17日に南鳥島沖の試掘予定海域に到着した。探査船から「揚泥管」という長さ約10メートルのパイプ約600本をつなぎ、水深約6000メートルの海底に下ろした。海底に採鉱機(写真)を設置し、泥と海水を混ぜた後、揚泥管を通して回収した(図)。30日から回収作業を実施し、2月1日未明に最初のレアアース泥の引き揚げた。 南鳥島沖ではジスプロシウムやネオジム、ガドリニウムなどの6種類以上のレアアースを高濃度で含む泥が見つかっている。このうちジスプロシウムやネオジム、サマリウムはEVを動かすモーター用などの高性能磁石に使い、イットリウムはLEDや医療機器向け超電導体の材料になる。ガドリニウムは原子炉を制御するシステムなどに使う。◎来年には1日350トンの海底泥の回収実証へ 探査船が帰港した後にJAMSTECなどの研究施設で泥水の成分や海底で得たデータを分析する。泥からレアアースを実際に精製できるかも試みる。 今回の試験採掘は内閣府の大型研究開発プロジェクト「戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)」の一環で実施されている。SIPは今回の結果を踏まえ、来年27年2月に大規模な実証試験を計画する。 1日当たり350トンの泥の回収能力を実証する。27年の試験開始までに、南鳥島に泥から海水を抜く脱水処理をする施設を建設する予定だ。持ち帰った泥からレアアースを精製して、28年度以降の産業化へ向けた知見を蓄える。◎掘削と精製の技術確立が課題 レアアースは世界の生産量の7割をスターリニスト中国が占める。日本は、2024年時点で63%をスターリニスト中国から調達しており、南鳥島沖で採掘できれば、経済安全保障上の利点が大きい。 ただ、産業化に向けた課題は多い。大きな課題の1つは掘削と精製の技術の確立だ。掘削について、泥水の状態で海底から引き揚げる時には石油開発の分野の技術を応用する。 海底に置いた採鉱機を遠隔操作でパイプに接続するなど、深海底でのリモート操作が難しいとされる。資源エネルギー工学が専門の九州大学の山田泰広教授は「深海底での重量物の複雑なオペレーションも技術的に難しい」と話す。◎採算性も課題 泥からレアアースを精製する技術については、陸上の鉱石を精製する技術を応用できるとみている。レアアース泥は陸上の鉱石と異なり、放射性物質やヒ素などの有害物質をほとんど含まないため、産業廃棄物などの処理工程が少なくなる利点もあるとされている。ただ海底の泥に含まれるレアアースを精製した例は、これまでほとんどない。 レアアース泥は、海底に堆積した魚の骨や歯を構成するリン酸カルシウムにレアアースが取り込まれた結果、出来たものだ。そのため、レアアース泥の精製にはまずカルシウムを取り除く必要がある。 最大の問題が採算性とされる。南鳥島は東京都心から約1950キロ、レアアース泥が眠る場所は水深約6000メートルで、掘削に必要な装置や船の運用に多額の費用がかかる。SIPの石井正一プログラムディレクターは「水平移動(東京からの距離)と垂直移動(水深)に最もコストがかかる」と話す。前出の山田教授は「今回のプロジェクトに期待しているが、採算が合わないと資源開発はできない」とみる。◎国際社会の理解も必要に 一方、採算性が低くても自国でレアアースを生産できる技術を持つこと自体に、経済安全保障上の意味があるとの見方もある。石井氏は「資源を把握し、採れる技術を確立する。緊急事態のための供給ルートを確保することが、経済安全保障で求められている」と強調する。 海洋鉱物資源の商業開発に関する国際ルールはまだない。開発を進めるには国際的な理解を得る必要もある。国連組織の国際海底機構(ISA)は資源や生態系の保護を踏まえて海底の開発に関わる規則の策定を目指している。 ISAのレティシア・レイス・デ・カルバリョ事務局長は25年11月に来日し、SIPや外務省などを公式訪問した。ISAは今回の調査について、探査船ちきゅうを「最高水準の装備だ。日本の基礎的な科学研究と技術は、南鳥島沖の試験を確実に進めるだろう」と評価している。昨年の今日の日記:「砂漠並みの降水量の少ないシベリア、その上空に被さる冷たい乾燥したシベリア高気圧が日本列島に豪雪をもたらす」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202502060000/
2026.02.06
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今、世界の耳目を集めるホルムズ海峡(地図)は、南北2方向から2つの大陸プレートが衝突している。◎壮大な景観が造られた北方のザグロス山脈 ホルムズ海峡の付近を眺めたり、どちらかの海岸近くを歩いたりすれば、大陸の衝突の痕跡をありありと見ることができる。 北側では、地殻がプレートの力で圧縮され、せり上がったせいで、イラン南部のザグロス山脈の壮大な景色が生まれた(写真)。この山脈では、砂岩、頁岩(けつがん)、石灰岩などの堆積岩が層を成している。アレン博士によると、石灰岩は硬く、浸食にも強いので、何キロにもわたって1枚の石灰岩の上を歩ける場所もあるという。 この一帯は、岩塩氷河(流れる岩塩)や岩塩ドームでも有名だ。このような地形は、大陸が衝突して地層が歪み、地中深くから岩塩が押し上げられると生まれる。アレン博士によると、岩石氷河(隙間に氷などがある舌状の岩屑堆積物)のように、実際に斜面を流れ落ちるような岩塩を見ることができる場所もあるという。◎今も北進するムサンダム半島 ホルムズ海峡の南側にあるムサンダム半島(写真)は、オマーンの北東沿岸に沿って延びるハジャル山脈の端にある。サール博士によると、この山脈は主にオフィオライトで出来ている。 9500万年前~6000万年前、白亜紀後期に大陸が衝突した時に、テチス海の海洋地殻やマントルがアラビアに押し上げられたものだ。そして、ペルシャ湾を造り上げたのと同じプレートの力によって、ムサンダム半島は東に傾き、まるで海峡を閉じるような形になった(写真=プレート衝突で傾いた剥き出しになった岩盤層)。 地質学的なスケールにおいてだが、ムサンダム半島は現在も活発に活動している。サール博士は同僚とともに2014年に発表した論文で、ムサンダム半島が今もザグロス山脈に向かって北に移動し続けていることを示した。◎大陸衝突で蓄積された膨大な石油、天然ガス 注目に値するのは、大陸の衝突によって、この一帯に膨大な石油が出来たことだ。 アレン博士によると、ユーラシアと衝突する前の数億年間、アラビアプレートの表面は浅い海面下にあった。そのため、石油や天然ガスの形成に必要な岩が蓄積されていった。 やがてプレートが衝突すると、石油や天然ガスの貯留層がアラビアプレートの北側の地下に閉じ込められた。現在で言えば、イラン、イラクなどの湾岸地域、そしてシリアの一部に当たる地域だ。 中東の凄いところは、その圧倒的な埋蔵量だ(写真=サウジアラビアのガワール油田、推定埋蔵量1700億バレルと世界最大の油田だ)。アレン博士は、広大な地域のあらゆる場所で、長い間にわたってそれが起きたので、埋蔵量は膨大だ。大規模に採掘しても、数年で枯渇してしまうようなことはなく、何十年も持続するほどという。◎やがては閉じるホルムズ海峡、1000万年後だが しかし、そうして掘り出した石油や天然ガスを世界に運ぶには、まずムサンダム半島が突き出している場所、すなわちホルムズ海峡を通過しなければならない。それに目を付け、世界経済を混乱させているのがテロ国家イランなのだ。 先に述べたように、ムサンダム半島は対岸のザグロス山脈に向かって今も移動し続けている。だからホルムズ海峡は、徐々に閉じていく。ただ完全に閉じるのは、早くても今から1000万年も後のことだ。その頃、人類は今も生き残っているか分からない。昨年の今日の日記:「タリフマン=トランプが率いるアメリカと関税交渉始まる、安倍首相との約束が破られた果てに」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202504190000/
2026.04.19
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翌日、ミラノの朝は好天だった。朝、散歩代わりにミラノ・マルペンサ・ホテルの中と周囲を歩く。植えられていたアジサイらしい花はほとんど終わりに近かったが、白い花だけ満開だった(写真)。 出発となってホテルの玄関に出たら、やってきたバスは小型バスだった(写真)。後に分かるが、北イタリアの細い山道を走る時はカーブでも楽々、対向車とすれ違えるが、4時間近い長時間のバス行では、かなり疲れた。◎スイスに入国、初めての訪問 最初の旅では、ちょっとだけだが、スイスに入る。スイスはEU非加盟だが、シェンゲン協定加盟国なので、イタリアからは(その逆も同じ)ノンストップで国境を越えられる。ゲートもバーも何も無い。ちなみにスイスには、僕は初めての入国だ。 イタリアで2番目に広いマッジョーレ湖を左に見つつ(写真)、やがてその国境を越え、スイス領に入る。 出発して約2時間、約100キロのドライブで、最初の観光地のヴェルザスカ渓谷に着いた。スイス南部ティチーノ州に位置する、美しいエメラルドグリーンの清流の流れる渓谷で(下の写真の上)、ここラヴェルテッツォ村の渓流上に伝統的な石造りの二重橋「ポンテ・デイ・サルティ(跳躍の橋)」(下の写真の下)が架かる。◎美しい渓流と二重の石橋 日曜日でもあって、好天に誘われてたくさんの観光客が渓谷の岩の上で日光浴したり、渓流で水泳したりしている。 僕たちは渓流沿いに歩いて跳躍の橋に向かった。橋は17世紀に架けられた美しい石橋で、今も観光客や村人に利用されている。 橋の向かって右側のアーチの下は深みのようで、若者たちが相次いで橋上からエメラルドグリーンの川に飛び込みをしている。だから「跳躍の橋」なのだ。その度に歓声が上がり、拍手が送られる。◎飛び込みに勇気が要りそう 橋の上に立つと、川面まで10メートル近くありそうで、飛び込みにはちょっと勇気が要りそうだ。上流方向の先に石造の教会が建つ(写真)。 次に行ったソノーニョ村も人口が100人足らずの小さな村なのに、立派な石造教会があった。村人たちの昔ながらのカトリック信仰の深さが偲ばれる。(この項、続く)昨年の今日の日記:「旧ユーゴ3カ国周遊(13):暑さと疲れでもう動けず、カフェレストランで旧港をボンヤリ眺める」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202507310000/
2026.07.31
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