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伊賀市図書館での「郷土の歴史夜咄会」算額を奉納した「喰田庄右衛門」に行ってきました。算額とは数学主に幾何学の問題を奉納して解いてみろとか私はこんな難しい 問題を解いたと誇る時などに神社に奉納したもので伊賀上野菅原神社 にも奉納されていた算額が2010年に拝殿が焼失した時に持ち出され難 を逃れたということですが未だにお目にかかれません。これが焼失前に撮られたもので喰代屋庄右衛門奉納となっていて金具付で額縁枠付金文字彫刻の豪華なものでした。私は先年のブログ「伊賀菅原神社奉納算額」で、この蝙蝠堂門人、喰代屋庄右衛門と 喰代の永保寺に算額を奉納した東町の広出庄兵衛がいて江戸時代に何人も数学を 勉強していた人がいたことに感心していましたがこの講座での北出楯夫さんは同一人物ではないかとということでした。これが永保寺に奉納された算額を写した物で現物は今は読みとれないそうです。天保十五(1844)年とありますので菅原神社の算額、嘉永七(1854)年は十年後ということになります。 最初の問題と菅原神社に奉納された算額の4問目の問題と5問目と5問目 がほとんど同じですので同一人物の可能性が高いのではないでしょうか。「算術を教える喰田包信夫婦像」公表された十名の門弟を前にして包信とその妻ひてが算術を教えている絵 、この人が蝙蝠堂門人、喰代屋庄右衛門で俗名が包信だったとしています。 蝙蝠堂とは誰か、北出楯夫さんは津藩の人ではないかとということでした。 村田佐十郎という関流算学者でこの人が伊賀に一時居住したのではないかということでした。記録は残っていないようですが。 天保十三年の東町の家並図には名前はなくこの明治初期之地図には喰代屋庄右衛門の名前が付箋の付いているところに。
2018年02月11日
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かたりべの会で天正伊賀の乱のきっかけになった丸山城に行ってきました。 天正元年(1573)北畠具教(とものり)は婿養子の北畠(織田)信雄へ、 正式に家督を譲ります。このとき具教は、隠居城として伊賀に丸山城 の建築を試みますが、信長の反対などから工事は中止となりました。 天正2年(1574)織田信長・信雄父子は、北畠家を急襲。具教(とものり)を殺害 天正4年(1576年)十一月北畠具教(とものり)の死後弟、 具親(ともちか)が伊賀に逃げ込み蜂起しましたが敗走しました。 翌天正5年(1577年)5月 伊賀守護 仁木友梅、長政を伊賀衆、追放 そして天正6年(1578年)10月25日織田方が建設中完成間近の 丸山城を 伊賀衆が襲撃、焼失。 信長が伊賀を忌み嫌うようになったのはこのように、隠れ住んで勢力 回復を計れる地で伊賀衆自身も権力を嫌う理解不能な抵抗勢力だった からだと思われます。 息子の織田信雄は守護の丸山城襲撃に激怒、信長の許しを得ず個人的 な手柄を立てようと伊賀を襲います。 天正七年1579年9月15日 第一次天正伊賀の乱 そもそも丸山に城を築いた後では攻略が難しいと考えた伊賀衆は道を挟んだ向かいの岡にあるこの 無量寿福寺より監視、攻撃をきめた。 その無量寿福寺から見た丸山 丸山城跡の碑から少し降りた所に伊賀衆と織田方、両方の供養碑が 町井邸書院 書院とは、書斎とかを指すようですが庄屋として藩の役人を接待した 記録があるので客室としても使われていた模様です。 町井家は市街地のはずれの現在の木興町で豪族として城郭を構えてい ました伊賀12人衆の一人でしたが町井左馬允は第二次天正伊賀の乱 で島ヶ原の富岡忠兵衛に撃たれました。 これは島ヶ原勢が織田方に従って抵抗しないので攻撃しないという 条件を織田方が呑む代わりに町井家を襲えと町井左馬允の弟子、 富岡忠兵衛に命じました。その結果、弟子が師匠を襲うという悲惨 なことに成り町井城郭は焼失しました。 江戸時代に入りこの地に移り住んだようですが天正伊賀の乱で抵抗し た豪族で名字が残っている家はほとんど無く唯一と言っても良いと思 います。 息子の町井清兵衛(18歳)が数km西の比自山で戦ったという 記録が残っていますがこの人の子孫なのかどうかは、はっきりしません。 上野市駅前の芭蕉像の作者大西金次郎氏の生家にもおうかがいしました。 大西金次郎(徹山)は明治37年にこの家に生まれ教員を経て大阪に出て 成功、二科展会員になりました。 上野市駅前の芭蕉像は昭和38年、芭蕉270回忌に建立です。
2018年02月09日
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