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穴太衆積み石垣群 穴太積の石垣、伊賀上野城高石垣も穴太積で 藤堂高虎が近江の出身で穴太衆を束ねていました。また甲良町出身で すので寺社大工の甲良大工も束ねていました。 天守閣と石垣造りの名人とうたわれました。 西教寺にある明智光秀の墓 西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。 天台系真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山でです。 開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もあるが判然とせず、室町時代、 中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛が入寺してから栄えました。 真盛上人(しんせいしょうにん)は伊賀市の西蓮寺で亡くなっているので 後土御門天皇、尊盛法親王と共に供養塔があります。 芭蕉の句を横に明智光秀と夫人の 煕子(ひろこ)さんとの像 坂本城主となった明智光秀は西教寺の檀徒となり復興させました。 その妻を讃えた芭蕉の句碑 「月さびよ明智が妻のはなしせむ」 (寂しい月明りのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう)。 芭蕉が奥の細道を終えて 伊勢の遷宮参詣をした時に詠んだ句です。 この二人の娘が細川ガラシャで子孫の細川護煕さんの煕は煕子さんから だと思われます。
2018年03月18日
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圓満院門跡門跡とは皇族・公家が住職を務める特定の寺院のことです、 天皇家の次男三男を僧として迎え万一に備えたお寺のことで 圓満院は長久元年(1040年)に後朱雀天皇の支援を受けてこの地に新 しい寺を創建し「圓滿院」と命名したと記されています。 庭園 宸殿の南側にある庭園は、国の名勝及び史跡で、室町時代の造りとさ れ中央に細長く池を掘り、建物と池の空き地には白砂が一面に敷きつ められ、池の背後には自然の地形を生かした築山があり、池の中には 鶴島・亀島が浮かび、高く巨大な石橋が架けられています。 玉座からの庭園、天皇からの目線でしょうか。 宸殿 元和5年(1619年)に2代将軍徳川秀忠の五女・和子(東福門院)が 後水尾天皇に入内した際に禁裏に造営されたものと伝わる。その後 正保4年(1647年)になって和子所生の明正天皇によりこれが円満院に 下賜されて同地に移築されたもので、明治35年(1902年)には国の 重要文化財に指定された。間取りは南北2列の計6室からなり、北西に 位置する一の間には後水尾天皇が座ったと伝わる御座もある。各室に は狩野派による障壁画が描かれていたが、今日見られるものは複製で、 原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されている。 和子は「かずこ」でしたが、入内に際し濁音を忌み嫌う宮中の慣習 にしたがい、「まさこ」に改めたといわれます。 和子が入内する際には、藤堂高虎が自ら志願して露払い役を務め、 宮中の和子入内反対派の公家たちの前で「和子姫が入内できなかった 場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切 ったと言われます。 狩野派による障壁画の間、御座、玉座の隣の間。 玉座、御座、後水尾天皇がお座りになったというこそです。 境内にある大津絵美術館、の大津絵 大津絵はお土産として庶民のものでした。 同じ美術館内の円山応挙の絵画、レプリカです。 競売問題2009年5月、重要文化財に指定されている宸殿など建物9棟と庭園など 土地約1万4000平方メートルが大津地方裁判所によって競売にかけら れ、約10億6700万円で滋賀県甲賀市内の宗教法人に落札されていたこ とが判明した。この競売にともない、同年8月20日には円満院の所有権 をこの宗教法人に移転する法的な手続きが完了した。文化庁は「異例 の事態」とコメントしている。 何か由緒のある寺院なのにどこか俗ぽいのはこのあたりにあるのでしょうか。 義仲寺にある芭蕉の句 「大津絵の最初の筆は何仏」
2018年03月18日
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仁王門(重要文化財) 正式には園城寺(おんじょうじ)といいますが、天智、天武、持統の 三天皇の産湯に用いた井戸があったことから「御井の寺」と呼ばれ、 いつしか「三井寺」と通称されるようになりました。 阿行、吽行の金剛力士像が在ります。 釈迦堂 仁王門を入ってすぐ右手に、南面して建つ比較的に簡素な造りの堂です。 室町時代初期の建築です。 「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれて おり、 この堂も食堂の様式を伝えています、 現在は清涼寺式 釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。 光浄院 住宅建築の源泉となった書院造の代表的遺構です。 金堂(国宝) 三井寺の総本堂 現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたもので、 三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇っています。 また本尊弥勒菩薩もここに安置されています。 榊莫山の筆 「三井寺の門たたかばやけふの月」芭蕉が義仲寺の月見の句会で詠ま れた句碑(縦80cm×横2m)が、樹齢一千年と伝える「天狗杉」と向かい合うように台座に据えられています。 榊莫山は伊賀市の出身で芭蕉没後三百年を記念し建てられました。 一切教蔵(重要文化財)の堂内の一切教を納めた回転式の八角輪蔵 一切経を安置するための堂です。 天井にも絵が描かれていました。 八角の千鳥破風の屋根が。 三重塔 徳川家康により慶長六年(1601)に寄進された。もとは奈良県、比蘇寺の塔 で室町時代初期の建築。予定にない訪問で知らないことだらけでした。
2018年03月17日
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義仲寺 研修旅行で多くの人数で訪れさして頂きました。 俳聖句碑 「行春(ゆくはる)をあふみ(近江)の人とおしみける」 琵琶湖を峠を越えて初めて目にしたときの感激を押さえ気味に詠んだ 句です。この感激が最後は近江の地に眠りたいという一因になったの でしょうか。 「翁堂」 伊賀市の蓑虫庵にこれを模した芭蕉堂がありますが、この翁堂の方が 洗練されているように感じました。 翁堂内部、左右に臨終にも立ち会った僧でもある丈艸(じょうそう)、 弟子の去来の木像を安置している。 天井に伊藤若沖の四季花卉の絵が描かれていました。 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 芭蕉の辞世の句、 「なほかけ廻る夢心」との案もあったようです この句を詠んだ翌日に芭蕉は落柿舎で詠んだ 「清滝や波に塵なき夏の月」を改作していました。辞世が 「枯野をかけめぐる」では、現世への妄執が気になったためでしょうか。 清滝は死を前にしての芭蕉の清浄な心境でふさわしいようにおもいますが。 芭蕉翁墓 丈艸の筆といわれる芭蕉翁の文字が刻まれている。 三角なのは意味があったのでしょうか。自然石ということを強調され たのでしょうか、戦後発見された伊賀市の弟子、服部土芳の墓も三角 でした。 木曽義仲の墓、「義仲公墓」 平家を京都から追い出したのは義仲てすので江戸時代初めは後に追放 された義経よりも人気があったともいわれています。 芭蕉もそうだったのかどうか、更級日記で木曽を訪れても義仲の句は 一句も詠んでいません、史跡も訪れていません。 唯一、富山と石川県境にある倶利伽羅峠で 「義仲の寝覚めの山か月かなし」 だけです。
2018年03月16日
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膳所城跡公園に建てられた、大手門 膳所城は、関ヶ原合戦の翌年の慶長 6年(1601)、廃城となった大津 城に代わり、家康の命によって交通の要衝であるこの地に築かれたも ので藤堂高虎の縄張りで、湖水を利用した天然の堀を周囲に巡らし、 水上の攻撃に備えて様々な工夫が施されて、本丸、二の丸は琵琶湖面 に突き出していた美しい水城でした。 「湖上の浮城」と称され、天守閣の礎石が常に小波に洗われていたと いうその美しい景観が偲ばれます。 天守閣跡、湖上を埋め立て城閣が建てられたので湖の中にあるような 感覚になったことでしょう。 藤堂高虎は翌年1602年(慶長7年) 伊予・今治城を海上に建てた のはこの膳所城の経験が生かされたと思われます。 石垣が残っています。今治城の土台を「犬走り」で築く元でしょうか。 鴨が多く生息していて逃げませんでした。 史跡自体が琵琶湖、湖上に突き出た景観です。
2018年03月16日
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研修旅行で滋賀県大津市に行ってきました。 まず芭蕉が奥の細道の旅の後4ヶ月滞在した、幻住庵です。 幻住庵に登るせせらぎの道、とくとくの清水から溢れた水が「せせらぎ」となって流れている。 芭蕉が滞在中毎日水を汲みに来た、とくとくの清水、「幻住庵記亅に 「谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」 とある清水。 芭蕉句碑 「先ず頼む椎の木も有り夏木立」 の句、「幻住庵記」に詠まれているのはこの句のみ。 その句碑の後ろに椎の木が大木になっている。 幻住庵です。 幻住庵の中 幻住庵記の陶碑 「ー時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ」 (幻住庵記)現代文訳ある時は、仕官して生計が立てられることを羨み、また、一たびは仏 籬祖室(ぶつりそしつ。仏門)の戸を叩こうと思ったこともあったが、 結局は道筋の知れない風雲に身を責めこの仕官の時は、藤堂藩侍大将、藤堂新七郎家に仕えていた時のこと だと思われ、仏門の戸を叩こうと思ったのは仕えた新七郎家の子息、 良忠(蝉吟)に死なれ江戸へ出るまでの7、8年のモラトリアムの時期の ことだと思われます
2018年03月16日
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