全3件 (3件中 1-3件目)
1

伊賀市の法花断層見学に行きましたが実際は竜王山登山になりました。応感神社の本堂横裏からの登山口応感神社の応感とは素戔男尊(スサノオノミコト)の尊称で仏教由来の用語のようです。ここから第二展望台まで1500mの登山道です。潜り石象の鼻岩、そう見えますか犬戻岩115m地点、高さ10mで3つに割れた大岩昔この岩から大蛇が出てそれを見た犬が後戻りしたという伝説から名付けられたそうです。ジョ―ズ岩確かにそう見えますが護摩岩入口から540m地点この岩のすぐ下を通るので 一番迫力があります。この岩々は花崗岩で伊賀の山々は下層に花崗岩があり山々が隆起した時に花崗岩がむき出しになりその後伊賀盆地が古代琵琶湖になった時花崗岩の石英が溶け出し「まさ土」になり長石、雲母が溶けて粘土になり焼き物に適した土になりました。地滑りした地点現在は地滑りを見逃さないよう番号を付け木枠を設置して分かりやすくしています。ここが断層地点かと思いましたら地滑りの跡で断層自体はこの下で神社の階段の始まりの場所のようで今は、はっきりしないそうです。第一展望台からの展望入口から970m地点島ヶ原地区がすぐ近くに、間に山があり道がないのでこんなに近いとは感覚が違いました。竜王山三角点標高361,7m、山としてはハイキングの高さですが道は思ったより険しく距離よりも疲れました。第一展望台のすぐ西側にある三角点初めは見逃して通り過ぎました、まだ登っているように見えたのですがここが頂上ということです。竜王とは 仏法を守護して密教では雨を祈る本尊とするそうです竜が水を吹き出しているように見えるということでしょうか。途中竜王ノ池と言われる池もありおかげでこの地区は水には困らないそうです。第二展望台からの展望正面に遥かに伊賀一の標高957,6mの尼ヶ山が見えました。花之木断層は奈良県月ヶ瀬から法花を通り大野木地区までの活断層で北側が隆起し南側が落ちた断層崖が北東から南西にのびています。
2018年10月14日
コメント(0)

島ヶ原本陣跡大和街道の要衝、藤堂藩の宿場町として寛文ニ年(1662)には大和郡山藩主が泊まられたとの記録があります。大和郡山藩といえば、寛永十一年(1634)には、郡山藩指南役であった荒木又右衛門と同じ郡山藩指南役だった河合甚左衛門との仇討ち助太刀同士で討ち会ったという因縁があります。仇討ちの日は河合一行は、島ヶ原、松屋という宿屋に宿泊という記録があるのですが郡山藩とはその後も関係良好だったようです。本陣とは大名かそれにつぐ格の武士が宿泊するところでその本陣がそのまま残っているのはそれも個人邸として残っているのは大変珍しいと思います。大和街道と本陣跡大和街道は東は現在の亀山市関町の関所から東海道と別れ伊賀に入りこの島ヶ原から加茂を経て奈良に入り最後は生駒山を越えて河内までの道だそうです。鸕宮神社うの宮神社は奈良、二月堂の修二会(しゅにえ) の行法の時、参道下の岩石が裂け鵜が二羽飛だちそこから清水がこんこんと湧き出たとの 東大寺二月堂の修二会の行法がお水取りと言われるようになった由来により二月堂の修二会と正月堂の修正会が同じ行法厳修であるとのことで正月堂の南にこの神社が設けられたとのことです。125段の石段この石段を登りきったところに社殿があります、椎、杉、檜、馬酔木の木が繁茂しています。伊勢神宮を遥かに拝む神宮遥拝所山菅八幡神社には合祀された、うの宮神社に向かって拝む遥拝所がありましたがその拝まれている、うの宮神社には伊勢神宮に向かって拝む遥拝所がありました。
2018年10月10日
コメント(0)

関門大師の名前もある北向不動明王、 観世音菩薩大和街道 奈良 笠置鍵ヤ辻 伊セ 至ルとあります。その道を挟んで北側にある、山菅八幡神社一村一社令により明治41年(1908)神社、うの宮神社に合祀されたそうですがその令自体が村を 鎮守している社を廃するのは 無理があったので全国でも残っている社も多くあります。1914年までに全国約20万社のうち7万社を取り壊して一村一社を推進したそうです。この地から、うの宮神社を遥拝するのが良いとされこの形になったようです。関所跡、昭和10年頃まで形跡があったようです。「山上に鉄砲を多く仕掛け防ぎを強く致し置くものなり」と幕末の書にあります。文久年間(1861-1864)に設けられたそうですが幕末まで関所がなかったとは考えられないのですが場所が変わったという事でしょうか。幕末の天誅組の乱や鳥羽伏見の戦いと時には多くの藩士を出したそうですが京都、奈良には藤堂藩が 飛び地領を五万石持っていて伊賀が城和奉行を置き担当していたので藩士が泊まりこみで警護に当たっています。二本杭伊賀と山城国の国境にある二本杭、江戸幕府が生保元年(1644)に藩域図を差し出すよう命じたことから国境争いが起き、決着まで三年をついやし五回も江戸へ出て老中の前で対決していて、国境が定まった後二本の杭を合わせ杭されたとあり、国道が北側に出来た時、一旦国道に移つされましたが二本杭なのに一本ではということでまた二本になったそうです。「従是東伊賀国」これより東伊賀国「従是西大和国」これより西大和国
2018年10月06日
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1


