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世界は、大量の積み木じゃないかなと私は思う。 ある時はその一片一片が集められ、家になったり今年咲く花になったり、私になったりする。そして何か振動でバランスを失うように、ばらばらと積み木は形をなくす。 でもその一片一片は、始めから最後まで増えもしないし減りもしない。ただ形を作ってはまた崩れることを永久に繰り返しているのだろう。浜に寄せる波のように… 出来た形に果たして意味があったのかなかったのかは、誰が知るだろうか。でも人はそこを生きていくのだと思う。
2009.02.27
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鈴の音を聞いて自転車で駆けつけてくれたおじちゃんがおりました。といってもすでに80歳目前だそうですが。 「山頭火知ってるか?俺は同郷で先輩後輩なんだ。」 そんな話から始まりました。 「あれは大酒飲みで大馬鹿者だな。でも俺はあいつ以上に変わり者だ。乞食も半年やったけどな。~あいつが求めたものわかるか?安住の地だよ。それが大事だと観音経にも書いてある。乞食(こつじき)してお金やお米をもらっても宿に断られたら野宿だからねー。」 ふんふんと聞いておりましたが、気になって一つ質問してみました。 「おじさん、乞食してよく今の生活に戻って来られたね。」 すると、即答でした。 「天命よー。」 両手を上げて 「お任せするのみだ!まあ7~8割が天命で、1割が健康かな。」 元気よく笑うおじさん、歯があまりありません。どんな苦労をなさったのでしょう。最後にこう言われました。 「俺は毎朝本を読むんだけどな、あんた『二十四の瞳』知ってるか?あれ読んでみ、人生観変わるから。俺はもう、何回も読んだが、読み始めると、終わりまで、涙が、止まら、ないん、だ。」 もうその場で涙ぐんでおじさんは目をこすりました。 たくさん書物を読まれているらしくいろんな偉人伝を語って下さいましたが、おじさんの生きた姿が一つの説法みたいでした。
2009.02.25
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この大きな石橋の下に仏様はいた。そしてその周りに、無数の石が積み上げられてあった。 その広がりに私は目を奪われてしまった。これが人間の切なる思いか、と。 もしかしたらあの橋の下が三途の川に見立てられていたのかもしれない、そう思ったのはだいぶたってからのことだった。
2009.02.23
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2009.02.22
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とある小さな町で托鉢していた時のことです。何屋さんだったのか忘れてしまいましたが、一目で見渡せる程のお店にお客さんはおりません。 お経を上げていると中からおじさんが出てきてチャリチャリンと入れて下さいました。 「私は信仰心がないんでね。」 と言いながら。 それは少しさびしく思いました。 最近長い夜の中で『歎異抄』を読む機会を頂きました。訳のついた易しい一冊です。 その中の、悪人善人という言葉が心に残りました。人は生きているうちに自分のことをいい人間だとか罪ある人間だとか判断しているなあと思いました。 悪いことはしていないのに何故不幸がやって来るのと思ったり、大したことはしていないからこの程度だとか。 公園でエサを探して歩く鳩に善も悪もないように本来は人間も、言ってみれば無色透明のように思います。 でも本の中では悪人と自分で捉えている方が謙虚だと言っているような気がしました。 でもまた最後に、自分で考えをめぐらせないことが自然(じねん)である、それが阿弥陀仏の本願だと読みました。 私自身、信仰心があるのやらないのやらよくわかりません。 ただちょっと町の人の言葉に反応してしまいました。
2009.02.21
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私にとって日課である托鉢も、初めて見てびっくりする人もいらっしゃるようです。 今日の町で出会った若い店員さんはどうしたらいいかわからなかったらしく、一緒になって自分のお店を拝んで下さいました。 また同じ町のことです。お稽古バックを両手で持った髪の長い女の子が、親しげに近寄って来てこう言いました。 「かさこ?」 私は一瞬何のことかわかりませんでした。それから思い浮かんだのがかさこ地蔵です。 自分がサンタクロースになったような気分でした。そんな風に皆さんに夢を届けられたらどんなに素敵でしょう。 「お坊さんだよ。」 と、私は答えました。
2009.02.18
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飲み屋街の細い路地の角に立っておりました。何台か通り過ぎた後に渡りかけたら、向こうから来た白いバンが右折して危なくぶつかるところでした。スピードを緩めるだろうと思っていた私は突然の出来事に心臓がドキドキしていました。 車はそのまま走り去り、私も何事もなかったかのように托鉢を続けました。 日常はいろんなことが転がっています。おかげで今ここにいることを強く認識させられます。こうして無事に一日を終えられることは本当に有り難いです。 どのくらい前のことでしょうか。ある美容室の前に立っていたら中から出て来られたのは年配の女性で驚いたことがあります。お茶を頂いて話をお聞きすると、74歳とのこと。私は一生を美容師として皆様の髪を切らせてもらうという、今年の年頭の所感を見せてくださいました。 「年寄りだからって、昔風の美容室は嫌なの。何でも新しいものが出たら買い換えるの。あのドアノブだって素敵でしょう?」 「苦労は沢山しなさい。とにかく前向きに、今はつらくてもきっと開かれる時があるからね。」 だんだん励まされておりました。 今が青春と笑っておられたおばあさん。ここまでにいろんなご苦労をなさったのだろうなあとしみじみ思い返します。 どれもこれも財産です。見えないところで支える、"今"物語です。
2009.02.16
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2009.02.14
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とあるアーケードだった。 いつものように托鉢している私を、マクドナルドのお店から不思議そうに見ている小さな女の子がいた。 ちょうど立ち去ろうとしたところに、お母さんが女の子の手を引いて出てきて、二人で入れてくれた。 その続きを歩いていた。 気づいた時には背の高い男の後ろ姿が前にあった。そして自動販売機のおつりのところに手を入れて、すぐに角を曲がって消えて行った。 顔はわからなかったが、髪が伸びていたのは覚えている。手ぶらだった。 しばらく暖かい日が続き体も緩んでいたところに、今日は手のかじかむ一日だった。 みんな寝るところはあるのだろうか。 同じ空気を吸って生命の重さは等しくとも、生きる厳しさはそれぞれに与えられたものだなと感じさせられた。
2009.02.13
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足の甲に刻み込まれた草鞋の紐あとも年を越してだいぶ色褪せて来ました。季節が移り変わっております。 今度は少し踵が切れ始め、シワに土が入ってしまいます。 ちょうどそんな日、市場の服屋さんがお茶を入れて下さいました。そして話の流れから、アカギレやしもやけ、ハンドクリームまで下さいました。 「肌きれいね。」 と言われて 「何もしてないんです。」 と答えましたが、顔用の保湿までありました。でもいじり過ぎないのがいいと思います。 昔の私ならいらないものは断ったでしょうが、今は何でも頂きます。 自分に必要のないものを受け止める余裕がありませんでした。でも自分の考えばかりではないのだなあと思います。 町を歩くとあちこちに転がっている温もりに驚かされます。歩き始めて公園のベンチやトイレの有り難さ、春の匂い、百円の重みに気づきました。 まだまだ元気です。私はそろそろ橋を渡ろうとしています。
2009.02.10
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2009.02.09
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えらい剣幕で怒られたことがある。 「あなたさっきも托鉢に来たでしょう。お布施したのにあれじゃ足りなかったってことですか?そんな問題じゃないですよね。ちゃんと修行してください。」 それは二階の美容室で入り口が二つあることに気がつかない私は、ひたすらお経を上げていたのだった。 托鉢する時には同じところに立たないように気をつける。頭の中に地図をたたき込んで歩くのだが、角を三回くらい曲がると迷ってしまうこともある。この看板は見たような気もするし、さてな…。 間違った後は謝るしかない。そんな時は少し落ち込むけれど、どうやって元気になるのだろう。また歩いていると、いつの間にか新しい出会いが降ってきて、今度はそちらに心を奪われているような気がする。 それで一日が終わると、ああ今日もいい日だったなあと嬉しくなる。私の"いい日"というのは細かく見ると、あまり当てにならないかもしれない。 でもそのくらいの塩梅が程良い充実感になって日日是好日が支えられている。
2009.02.08
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2009.02.07
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しばらく心に引っかかっていた言葉がありました。 それはスポーツ万能だった男性が体験からこぼした一言でした。 「自信のない奴は、自信のない動きするんだよな。」 と。彼はサッカーをやっていたために、その試合上で気づくことが多かったのでしょう。 「パスするのが早かったり…」 自分と等身大になるというのはどこの世界でも難しいのだなあと考えさせられます。自信があり過ぎても無さ過ぎても判断を誤ってしまいます。 風に揺れる柳のように風なのか柳なのか分からないところまでたどり着けるでしょうか。 私にもいくらか残っていた不安がそんなことを思い出させました。
2009.02.06
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この姿は苦しみでしょうか、楽しみでしょうか~
2009.02.05
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とあるスクエアのお店の前に立って、托鉢しておりました。 しばらくすると若い女性がにこにこしながら戸を開けてこう言いました。 「私はエホバの証人の、クリスチャンなんです。だから、あの、良かったらこれ読んでください。」 と逆に薄いパンフレットのようなものを渡されました。 托鉢が終わってからそれを開いて見ました。題して、すべての苦しみはまもなく終わる、です。 どう考えても神の予言とか死者が生き返って苦しみがなくなるとか信じられない私です。やはり人は苦しみから逃れようとして宗教に入るのでしょうか。だからこそ苦しみから逃れる時をうたい文句にするのでしょうか。 私は苦しみから逃れる為にお坊さんになった訳ではなく、何かの為になったのでもありません。だから今でも、苦しくて楽しい、表裏一体のように思って毎日を過ごしています。 しかしまた自分を確認する、いい機会でした。
2009.02.04
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