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短かった北国の夏も終わり、里はストーブを出し始めました。篝火にすだれも小屋にしまいこんで開けっ放しの縁側にも戸をたてました。庭の落葉が盛んです。水の中につけてあったくるみもすでに黒く、今日は作務で中身を取り出しているY君の姿がありました。 こんな秋真っ只中に一人庭でテントの生活をしている人がいます。先月得度したばかりのRさん。いつのまにか鼻をぐずぐずさせていました。 そして来月からその隣にもう一人もテントに暮らすことになりました。Hちゃん。なんとか不自由な暮らしから新しい発見をしてもらいたいという願いです。電気があること、温かいこと、自分の部屋があること、そんな当然の暮らしから一つずつ失ってさて工夫できるでしょうか。 そんなHちゃんの宿題を面倒みようと手を上げたのはOさんでした。Hちゃんとはまるで違うタイプです。「自分は最近コーヒーに依存しているような気がして、もう一杯飲もうかなあと思うときに飲むべきかやめるべきか何回も迷うんです。こんな自分でもいいんでしょうか。こんな自分を変えたいんですけれど…」何度も繰り返し話を聞きながら最後に落ち着くのはいつもそんな疑問です。ほめられても決して認めず自分はそんなことはないといいます。変えたい自分があって、こうあるべきという自分があって、そうならない自分がいて、いつも考えてしまうようです。ここにいて意味があるのだろうか、ぼくはこのままで成長するのだろうか… 夏真っ盛りの頃、和尚さんに灰をちょっぴりなめさせられて目を白黒させながらもじっと耐えていました。「ああ、やっぱり、なんともなかったです。」と、少々手荒い説法にも喜んでおりました。 得度式に涙したり、お話に感激したり、人一倍涙するOさん。「こんな自分でも必要なんです。」と私に続いて復唱していただくと、笑いながら「言ってるすぐから、はてなマークです。」とぽろり。まだリラックスしている時間でした。 誰だって、本来仏なりというお経通り尊い存在です。本当にそのままでいいということをじっくり感じてほしいとつくづく思います。 さて、季節の移り変わりに、またこの日記も続けて書いていきたいなあと思い起こしたところです。
2009.09.30
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庭の一角に見せ階段がありましたが、この度それを壊して見せ滝にすることになりました。そのために近くの川から石を拾い集めています。 石の魅力、そんなことを思うのも最近のことです。集まってきた石を眺めていると、かわいい子どもたちが遊んでいるみたいでこちらまで楽しくなってきます。 これまで随分長い間、人間ばかりみてきたなあと思わせられるひと時です。外見や物にはあまり興味がなかったのですが、ずっと心を追いかけてきました。これからは石や木や植物や、そんなものものたちから学んでいきたいと改めて思っています。 あの人は今頃どうしているかな、どんなことを見てどんなことを感じているのでしょうと考えたことはあっても、あの花はどんな呼吸をしているだろう、あの木はどんな風に雨に濡れそぼっているだろう、と思いを寄せたことがあったでしょうか。石をじっと手にとってじーっと感じたことがあったでしょうか。なんだか恥ずかしい話です。 このところ和尚様が話して聞かせたのもそんな静けさでした。化粧品のセールスで行き詰った女性に何か一言を頼まれて答えたときも、思い病気をかかえた女性に向き合ったときも、「立ち止まる」お話でした。 どこかに幸せを求めても追いかけてもそのようにならずくるくる回る人間たちよ、と。そこに対して、生まれる以前、男も女もない、多いも少ないもない、生きるも死ぬも超えたところからの境地を話してくださるのでした。 「己の無能さにいらだっているんだよ、それは。」と悶々と悩む青年にも、同じ話でした。 ここはただ石を拾って楽しむところです。 静かな雨音に幸せを見出すところです。 何もなくても、何もないただ存在を愛しむところです。 さて、どこまで歩けるでしょうか。 いいお話を聞いて感嘆しながら、今日も一日が暮れていきます。
2009.09.12
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このところ庭つくりの毎日です。 交代で川に行っては、石ころや流木を拾ってきます。それからお寺の敷地にお引越し。落葉松林に囲まれているのでなかなかアジサイも育たない庭とあって、最終的にシダ植物に頼ります。場所によって巨大なシダから葉の繊細なものまで、意外とシダもかわいいものです。 先日は藤のつるを見つけて持ってきては胡桃の木と朴の幹に巻きつけました。こんなところをリスが走ってくれたらいいのにねと笑いながら… と、偶然ですが次の日の朝、お粥の時間に猫がみゃ―みゃ―鳴きました。沈黙の時間ですので、どこかの障子に閉じ込められているのかなと思いつつも食に徹しておりました。しばらくしてその時間が終わり、猫の入り口から登場しました。見れば口に何かくわえています。「見せに来たんだ。」と誰かが言いました。 よくみるとリスでした。それは黄金といってもいいくらい美しい色をしていました。まだほんのり温かくて目も少し開いています。和尚様がすぐに抱っこして懐にいれました。そこに居合わせた皆も、その可愛らしさに手を添えました。 昨日庭の仕事をしていたときも、しっぽだけになったリスを見つけた人がおりました。「もしかして家族が探しに来たのかもね。」「歩いているときか、餌を口に運んだときにさっと猫が来るんだろう。」と想像します。「これは性だからどうにもならないけど、なあ。」と和尚様。 発案して猫に鈴をつけてみることにしました。 その後、ホームセンターで猫の首輪を買い、つけてくれた人がありました。が、猫はしずしずと歩いているので音がしません。ちょっと椅子から飛び降りるときにチィリーンとなるくらいです。効き目があるでしょうか。ちょっと心配です。 弱肉強食の世界に人間が手出しを出来ないのは百も承知ですが、リスをつかまえなくても食べ物がある飼い猫がリスを弄ぶことに納得できないのでした。 リスは大好きな胡桃と共に胡桃の木下に埋めました。 今、一番沢山くるみが落ちる季節です。 リスが走り回る庭は理想的ですが、猫もいるために、なんとも歯がゆい一幕でした。
2009.09.11
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古い友人から連絡があって、彼女のお母様が亡くなられたことを知りました。すでに四十九日が終わったそうですが、「百日って何のことですか?」と質問されました。 彼女は仏壇のない暮らしをしていて、お写真にそっと手を合わせるだけで供養と言うのはこんな感じでいいのかなあと感じているようでした。 ところで、私が托鉢の行脚をしていて鹿児島の同年代のご夫婦の家に泊めて頂いたとき驚かされたことがあります。そちらは建てたばかりの現代風の家でしたが、わずかなスペースに初めから仏壇を入れるようにへこんだ空間が設けられていました。そこにはどこから頂いたのか御札がぺたんと寝かせてありました。 旦那様は仕事から帰られるとまずそこに行き、夕ご飯の缶ビールを開けるとまずそこに持っていかれました。「昔からこうしているので、疑問も感じませんね。これが普通です。」と仰ったので、またびっくりしました。その地方に、またその家に伝わる教えでしょうか。こうしたものが日本人の心に浸透していたところが、どこで托鉢しても励ました頂いたことにつながっているように思いました。 そんなこともあり、ささやかでいいから友人にお線香や香炉を買ってほしいなあと思ったことを和尚様にお話してみました。そして自分なりに理解して友人に連絡してみました。「お母さんの写真に向かってもお母さんに上げているわけではなく、そのお母さん、またそのお母さんのお母さんと、先祖に供養していることです。人間の存在は自分一人で在るのではなく、動植物一切を含めみんなつながっていることを知るいい機会です。自分のためにお経をあげるわけではありません、というのを回向といいます。家に手を合わせる場所があるというのも、ぎすぎすした生活の中に大切なことです。ご飯を炊いたときに、まず一口でも仏様にお供えすることも、自分たちより優先するものがあるということは子どもたちにもいい教育になるチャンスですから、ぜひやってみてください。」 その後、友人から連絡はありませんが、どうしたことでしょう。 自分が育った環境にはそんなことが一つもありませんでしたから、大人になって改めて勉強させていただいています。
2009.09.04
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8月に入って一人の女の子と寝起きを共にすることになりました。 女の子はお菓子やお金を盗んで聞かれてもけろっとしていることや、朝起きてこないと一日中部屋に閉じこもっていたりマンガばかり読んでいる日が重なり、大人が一層本気になって態度をしめすことになりました。個人の部屋のドアも取り外されて暖簾をかけます。 私が部屋に行って布団を敷く頃は彼女はすでに寝ていますし、朝は仏様のお茶を入れるのに30分ほど早く起きるので、まだ真っ暗。同室とはいえ会話するのはほとんど全体の場です。 それでもたまたま他人の持ち物が机の上にのっていたことがあり、それから大人が何人かで彼女の机の引き出しやタンスを点検しました。 ゴミ箱からは持ち帰ったお菓子の包装やスプーンといろんなものが出てきます。 そしてタンスの引き出しあちこちから使用済みのナプキンやショーツがあり、異臭を放っておりました。それはとても不思議な光景に思えました。あと一歩歩いたらゴミ箱があるというのにどうしてナプキンがタンスに詰め込んでいるのでしょう。理解に苦しみます。 また今月も別の場所で同じことがありました。本人に問うと、トイレに捨てることが常識と分かっているのです。それでも部屋のタンスに詰め込んでしまうその訳を問うと押し黙ってしまいます。片付けるように注意すると慌てて箱ティッシュでくるむのでした。 ここは理解するというより、ナプキンはどこに捨てるのか教え込むことでしょうか。 自立自覚を主としている学びの里ですが、子どもには難しいなあと思わされています。
2009.09.02
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小学生3人を迎えての賑やかな夏も過ぎ、ようやく静かな毎日が戻ってまいりました。 もう外は秋の風。少し小高い丘にある里は、「そろそろストーブかな。」と真面目に話しております。 鹿児島からの子どもたちは夏休みも東北より長くて、まるまる一ヶ月過ごしました。始めは遊びに来ていた感じでしたが、途中から和尚様の指導の下、遊ぶときは遊ぶ、きちんとやるときはきちんとやるそのメリハリをつかまえたようです。 箸の持ち方に始まり、くるみ割りや庭仕事、洗濯、お菓子作り、そして坐禅と沢山の経験をして帰って行きました。もう帰るという頃、朝の読経の中に子どもたちの声がしっかりと響き唱和されて美しいものとなりました。「帰りたくないなあ。」という男の子。その合間に「お母さんに会いたいな。でもお母さんはさびしいって言わないけど。」と子どもらしい女の子。今日からまた二学期が始まったことでしょう。 庭の階段を無心に作るお坊さんに混じって「いつできるの。完成を見たいなあ。」と周りで走り回っていました。次に遊びに来るときはいつのことでしょう。階段は完成していることでしょう。そしてまた10年、20年たって階段が壊れたころに思い出して訪ねてきてほしいと思います。芽はいつ出るかわかりませんから… 最後の夜、何年か前に北海道で放送された「大草原の少女みゆきちゃん」というDVDを鑑賞しました。小学一年生から8キロの道のりを歩いて学校に通う女の子の姿に皆衝撃を受けました。家に帰ったら帰ったで家の酪農の手伝いが待ちうけています。そして父親の姿に今の教育に見当たらなくなった厳しさが映し出されていました。 つらいのは自分だけじゃない、世の中にはもっと小さな子どもでも頑張っている人がいると励みになったことでしょう。それがお土産です。 いよいよ庭の階段が出来上がりそうです。 今日はダンプで砂利が2台、砕石が1台届いたので、明日からは一輪車で道に運び始めます。当分力仕事の作務も続きそうです。 さあ次の訪問者はどなたでしょう。いつでもお迎えできるように、また庭整備に精を出していきましょう。
2009.09.01
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