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高橋克彦さんは藤原泰衡をどう描いたのか。改めて知りたくなって、本に接してみた。■高橋克彦『東北・蝦夷の魂』現代書館、2013年泰衡は長い目で見て、鎌倉幕府とは戦っても不毛な結果にしかならないと判断したのでないか。阿津賀志山の防塁は10万の頼朝軍を何日も凌げたのに、泰衡は一日でいなくなった。なぜか。一番の問題は頼朝が朝廷の命を受けている点だ。頼朝を討ち負かすことは、朝廷と源氏を相手に、とてつもなく長い戦いになる。平泉はどんなに頑張っても都に攻め上がる軍事力はない。長い目でそういう判断だったのだろう。戦わずして負けたのは弱腰だったからではない。入り込んだ20万の敵兵と戦えば、平泉や奥六郡が灰になる。それよりは自分たちが立ち去ることで国と民を守ろうという判断をしたのだろう。臆病だったのではなく、清衡の血の流れる泰衡の中には、ここは自分たち支配者だけの国ではないという思いがあったのだと思う。自分さえいなくなれば国土が無傷で残ると信じたから、戦いを放棄したのだ。阿津賀志山の後、退却を続けた泰衡だが、『吾妻鏡』では、平泉を立ち去る際に火を放つよう命じたため頼朝が入ったときは焼け野原になっていたとある。だが、中尊寺は残っていた。泰衡が焼いたのは、平泉の組織や金山の場所を記した書類を収めていた役所だけだったろう。金色堂の輝きが残っている限り、いつかまた蝦夷の手で新しい町が作られると泰衡は信じていたと思っている。泰衡は、自分は命令に従い義経を討った、討伐される罪は犯していないので御家人にしてほしいという内容の書状を頼朝に送ったが、これもまた陸奥を頼朝軍から守りたいという思いの表れだったのではないか。この書状に、返事を比内郡のあたりに送ってほしいと記したので頼朝軍が追捕に出るが、居所を書いたのは他の地域を荒らされないためだろう。泰衡が本当に卑怯者なら、隠れ場所をわざわざ知らせるはずがない。泰衡は、百年かけて平泉がこしらえた理想の人間だと思う。清衡が言葉で語った万人平等を、泰衡は体で現した。(同書から、おだずまジャーナルで若干の要約をしています。)泰衡の評価にわたる部分だけ記した。秀衡が義経を受け入れた狙い、頼朝による義経の扱いや平泉攻めの真意、などなど高橋克彦さんの見方には非常に興味をそそられるのだが、改めてまた。■関連する過去の記事 十三湊の信仰の山 靄山(2015年9月21日)(泰衡の見た靄山) 判官堂(義経神社)、白山神社、樋爪館(2012年10月28日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 平泉の終焉 泰衡の実像と義経北行の真実(08年5月26日) 聡明なる藤原第四代泰衡(08年5月19日) 生きよ義経 泰衡と月山神社(08年5月11日) 奥州藤原氏17万騎消滅の謎(08年4月29日) 平泉の優位性を考える(07年11月5日) 発進!平泉を世界へ!(07年9月30日) 都市平泉の予想図(07年1月28日) 平泉への道(06年1月11日)
2022.03.28
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インフラの視点から歴史や都市を解説する竹村公太郎氏の著作を読んで、当ジャーナルでは、家康の利根川改修事業は政宗の南下を防ぐという目的であったことを、前に記した。■出典 竹村公太郎『”地形と気象”で解く! 日本の都市 誕生の謎』株式会社ビジネス社、2021年■関連する過去の記事政宗が迫った家康の利根川東遷(2022年2月27日)歴史地形学への招待、という副題のように、政治や経済の論理で語られがちな都市づくりや歴史上の動きについて、下部構造やそれを規定する地形や気象から必然性を読み解いている。例えば、桓武天皇が平城京から移ったのは、盆地を囲む山の樹木が伐採されつくして水害に見舞われ、生活排水で疫病が慢性化したからである。京都も水道インフラや下水システムがなく、不潔で疫病が蔓延した。清盛が遷都を狙った神戸(福原京)は、背後に山が連なる傾斜地形で排泄物を自然流下させ、大河川がなく干潟で船が座礁しない良港を拠点に海運を制覇でき、街道の東西を抑えれば流人の流入も防げる地形にあった。その平氏を破った頼朝が拠った鎌倉は、山に囲まれて人口膨張を許さず、傾斜地形が排泄物を流下させ、由比ヶ浜の遠浅の砂浜は船団の急襲を防ぎ、さらには、中山道や房総半島を経て関東、東北に向かうルートの要衝にあり、三浦半島には横須賀や浦賀という良港がある。モンゴル軍が九州で敗退したのも、ぬかるんだ福岡の地形で騎馬軍団が進めなかったのである。同書からポイントを摘まんでみたが、だいたいこんな解説だ。仙台についても、極めてユニークなまちづくりとして、説明がある。広瀬川と七北田川による河岸段丘の上につくられ、20mから100mの標高。他の都市のような低平地の沖積平野ではない。広瀬川には堤防がなく洪水の心配がない。台地の上の仙台は、水害がない代わりに水不足に対処する必要があった。そのため、広瀬川上流から四ツ谷用水を引いた。芭蕉の辻の街路の中央に水路が流れている絵がある。生活用水や防火用水、また水車の動力にもなったが、重力で流れるこの四ツ谷用水が近代の仙台市の下水道の原型になっている。東日本大震災で電気や水道の止まった一か月間、下水道システムは見事に機能した。ポンプが動かなくても、仙台市内の汚水は自然重力だけで流下したのだ。見事な都市計画上の条件を生かした政宗だが、それは秀吉に学んだのではないか。秀吉は湿地に囲まれた上町台地の先端に難攻不落の大坂城を築いた。飲み水は地下水が豊富であり、排水は南北に延びる台地の東西に排水路を向ければ自然に流下できた。台地の地形を生かして、町を南北に配置し、排水路は東の大坂湾と西の河内湾に向かわせた。日本最初の本格的な下水道である「太閤下水」を建設。大阪市下水道局はいまでも現役として使用している。政宗が大阪の街づくりを学んだ証拠はないが、大坂をモデルにしたのではないだろうか。竹村氏は仙台について以上のように述べている。
2022.03.05
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