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昨日と今日(26日)は暑かったですね。そして、今日は釜石市で35.6度というニュースでびっくり。昨日(25日)も釜石はフェーン現象で気温が上がり、35.0度に。岩手県内で今年はじめての猛暑日だったそうです。岩手県内の今日は、一関市でも35.3度で観測史上6月初の猛暑日とのこと。なお、東京都心でも、6月の猛暑日2日連続は初めてです。そもそも、昨日25日に、国内観測史上、初めて6月に40度超(40.2度)の最高気温が群馬県伊勢崎市で観測されました(同市は今日も36.8度と二日連続全国トップ)。猛暑の週末でしたが、明日以降も高温のようです。仙台は月曜、火曜と... あれあれ一週間すべて真夏日の予想ですね。
2022.06.26
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古来、ひとびとは感染症や病気をおそれ、神仏や習俗を頼みにして必死に戦ってきたのだろう。伝承や地名にその痕跡もあるだろう。■畑中章宏『医療民俗学序説 日本人は厄災とどう向き合ってきたか』春秋社、2021年この本から、東北に関する事柄を集めてみた。○疫病への対処 伝承を基として、ある人物の名前を書いた札を戸口に下げて除災を願う習俗は多くみられる。 京都の祇園社では、子の額に朱印を押す。二戸市では、流行病は爪から入るといった。○疱瘡除け 疱瘡は致死率が高く、治癒しても痘痕が残り、予防接種が普及するまでたいへん恐れられた。疱瘡にかかると、疱瘡神を祀る疱瘡祭が行われた。江戸では、嬰児が罹ると、幣帛を立て赤飯を供えたりして祈る。仙台で1月14日に行われる「ちやせご」は、子が晴れ着を着て7軒をまわり餅をもらう行事で、疱瘡が軽く済むといわれた。○風土病 つつがむし病は、菅江真澄『雪の出羽路雄勝郡』(1814年)に湯沢市の記述で記されている風土病で、越後では大流行した。湯沢市や横手市などの雄物川流域にはケダニ神社(地蔵)が残る。出羽三山開祖の蜂子王子が病気を起こす虫を退治した故事にちなみ、大晦日の日に羽黒山でおこなわれる松例祭では、恙虫をかたどった大松明を焼き捨てる。○疫病と年中行事 2月8日と12月8日は、事八日(ことようか)といい、関東を中心に、一つ目一本足の疫病神を退散する行事が各地で行われた。福島県塙町では、2月8日と2月10日にはニンニク味噌やネギをこしらえ、臭いで疫病神が入らないようにした。○花火と祭り 隅田川の花火大会は江戸時代流行したコレラの退散祈願が起源である。それどころか、日本の祭りのほとんどが、疫病災害を含む災害を除くため、また災害の死者を弔うためといっても過言でない。青森のねぶた祭も、疫病の退散祈願が目的だった。■関連する過去の記事(感染症など) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日)
2022.06.08
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幅広く日本の民俗信仰を概説した下記著作を読んで、さいきん幾つか記事にしておりました。ここで、すでに記事にしたほかにも、同著に記された東北関係のものを、当該の行事の意義と合わせて、抜き書きしてみます(項目だてなど当ジャーナルで構成)。■八木透『日本の民俗信仰を知るための30章』淡交社、2020年(2版)(初版2019年)■関連する過去の記事(上記著作をもとにした最近の記事です。) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日)○裸踊り 罪や過ちを悔い改める年末の仏教儀礼が「悔過」(けか)であるが、悔過を目的とした新年の行事もあり、修正会(しゅしょうえ)や修二会(しゅにえ)と称する。中でも特に悔過に相当する儀礼が裸踊りである。京都の日野法界寺の裸踊りが著名。東北の奇祭として知られる奥州市の黒石寺(こくせきじ)蘇民祭は護符の入った蘇民袋を奪い合う。他に、岡山県西大寺の会陽、大阪市四天王寺のドヤドヤなど。 裸は精進潔斎した姿であり、裸で押し合いながら激しく足踏みするのは、修験道の影響を受けた「反閇」(へんばい)の所作で、地中の悪鬼を撃退する意味がある。○愛宕神社と火の神 愛宕の名の社は全国1500を超えるといわれるが、総本宮は、大宝年間に修験道開祖の役行者と白山ゆかりの僧泰澄によって開かれたとされる京都の愛宕山の山頂にある愛宕神社。主祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)と火神である迦遇槌命(かぐつちのみこと)で、火伏せの神と尊崇されている。愛宕山は早くに神仏習合を整えたと考えられ、白雲寺(明治の廃仏毀釈で廃寺)が愛宕山の実権を握ってきた。中世には多くの修験者が愛宕山に住んだことから天狗(愛宕権現太郎坊)と考えられた。また、本地仏の勝軍地蔵が祀られて(廃仏毀釈で大原野金蔵寺に移される)、戦国武将たちに信仰された。 遠野の某家で失火の際に、大徳院の和尚の懸命の消火で大事に至らずに済んだ。翌日、火元の家の者が大徳院に礼に行ったところ、和尚はじめ誰一人火事を知らない。それで、これは愛宕の神が和尚に化けて鎮火してくれたのだと人々が大いに感謝したという。(柳田国男『遠野物語拾遺』第64話)いつ頃の話かはっきりしないが、遠野では古くから愛宕が火伏せの神として篤く信仰されてきた。また、神が和尚に化けたのも、神仏混淆の時代の愛宕信仰の姿を彷彿とさせるようで興味深い。○鬼女伝説 数ある鬼伝説の中で、女人が鬼と化す背景には2パターンがみられる。1つは嫉妬や妬みから鬼と化し、他は自らの過誤による衝撃や後悔、懺悔により人間の精神を保てなくなる例である。 前者の代表は信州戸隠山の鬼女紅葉。しかし、退治に向かった平維茂と争ったとされる鬼無里村(現長野市)では紅葉は医薬や文芸に秀で施しを行う貴女と伝えられるという。 また、紀州の安珍・清姫伝説。奥州白河より熊野に参詣に来た若い僧安珍(あんちん)が宿を借りた紀伊国真砂の庄屋の娘清姫が、安珍を気に入り夜這いをかけて迫るが、安珍は帰路に立ち寄ると嘘をつき立ち去る。清姫が追跡して安珍に追いつくが、別人だと嘘を重ねて逃げられ、激怒した清姫は蛇身に化けて日高川を渡る。道成寺の梵鐘の中に逃げ込んだ安珍を、鐘に巻き付き火を吹いて鐘ごと焼き尽くし、日高川に入水して果てる。 第二の例では、安達ヶ原の黒塚の伝説。京の公家屋敷の乳母として奉公していた岩手という女性は、5歳になっても口がきけない姫を救う一心で、胎児の生き胆が効くという易者の言葉を信じ、生まれたばかりの自分の娘をおいて旅に出る。奥州安達ヶ原(二本松市)で岩屋を宿とし標的を待つと、長い年月が経って若い夫婦が宿を求めてきた。身重の女が産気づき夫が薬を買いに出た機会に、岩手は出刃包丁で女の腹を割いて胎児の肝を抜き取るが、女の身に着けたお守りから、京を立つ際に残した我が娘と知り、精神に異常をきたし、以来旅人を襲う鬼婆に化すという伝説である。 鬼とは、必ずしも絶対悪の対象ではなく、常に両義的、可変的な存在である。人間の持つ醜さや弱さが反映しているのではないか。○節分と鬼 節分とは、もとは立春、立夏、立秋、立冬の節目だが、最も重視される年頭の立春を意味するようになった。今日の豆まき行事は、平安時代の宮中の「追儺」(ついな)に由来するという。追儺は中国伝来の行事で、「鬼やらい」ともよばれ、大晦日に邪鬼を払うことを目的とした。いまでも大晦日に豆まきを行う地域が残る。 吉田神社の節分祭は、平安時代宮中で行われたものを再現しており、大舎人が黄金四ツ目の仮面で方相氏(ほうそうし)に扮し、大声を発しながら舞殿をめぐり、最後に殿上人が桃弓で見えない邪気を追い払う。やがて見えない疫鬼の存在が忘れられ、恐ろしい形相で邪気を払う役割の方相氏じたいが鬼とみなされるようになった。 豆まきでは「福は内、鬼は外」が普通だが、「福は内、鬼は内」と唱える地域の例が、霊峰岩木山麓の弘前市鬼沢である。鬼を御神体とする鬼神社が農業の守護神として信仰を集めている。伝説では、岩木山から下りてきた鬼が痩せた荒れ地をせっせと耕し始めた。村人から農業用水の必要を訴えられると、鬼は姿を消したが、翌朝には一筋の水の流れが作られていた。その水はいかなる旱魃でも決して枯れなかったという。 この鬼は岩木山の山の神だったのか、あるいは、土木技術を持った山の民や石工が、後に鬼に譬えられた可能性もあるだろう。
2022.06.04
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鬼剣舞というと、ある映像が脳裏に残っている。それは、乱舞する「鬼」がドンと目の前に一升瓶を置いて、緊張感の高い声で「北上の酒、オニケンバイ!」と叫ぶ、テレビCMのラストカットだ。小学生のころ見ていた。たぶん、地元の芸能の誇示と映像作品としての美も追求したのではなかったかと思う。酒のCMといえば、岩手川も懐かしい。岩手誉、関山、酔仙、などなど、子どもながらに銘柄が頭にスンナリ入っていた気がする。それはともかく、鬼剣舞は全国にも有名なのだ。下記の本にも書いている。■八木透『日本の民俗信仰を知るための30章』淡交社、2020年(2版)(初版2019年)(以下引用)東北地方、特に岩手県には京都から伝わったとされる種々の念仏踊りがみられる。例えば北上市の「鬼剣舞」は関西でも著名であるし、紫波町の「犬吠森(いぬほえもり)念仏剣舞」は、大傘の踊りをともなった風流豊かな念仏踊りとして知られている。(引用ここまで)念仏踊り(踊り念仏)とは、災害や疫病で多数の死者が出た場合などに、その鎮魂のために、強く地面を足踏みすることで死者の荒ぶる怨霊を鎮めるものである。4月に行われる京都の今宮神社の摂社の疫(えき)神社の祭礼である「やすらい花(やすらい祭)」では、赤と黒の長い髪をもつ4匹の鬼が、鉦や太鼓をたたき激しく跳びかいながら、春に蔓延する疫病を鎮めることを目的とする。また、この祭りの一番の特徴は、春の草花で飾られた大きな傘であり、花傘、風流(ふりゅう)傘と呼ばれる。この中に入ると厄をのがれられると伝えられてきた。やすらい花の起源は久寿元年(1154)とされるが、そもそも今宮神社のある京都市北区紫野は、近隣の船岡や蓮台野(れんだいの)とともに平安時代からの葬地であった。正歴5年(994)の疫病の猛威ははげしく、人々は門戸を閉ざし都大路の路上から人影が消える事態となり、紫野船岡山で盛大な御霊会が営まれた。御霊会は、非業の死者が未練や恨みから疫病を振りまくとの思想から、その荒ぶる霊魂を歓待し慰撫して都の外に送る仏教儀礼である。このときの会では、最後に、御霊たちの依代である幣帛(へいはく)を神輿に移して難波の海まで送ったといわれる。やすらい花の花傘の花は人々が持ち帰り、病の時に煎じて飲んだという。また、鬼の履いた草履をまつりの途中で自分のと履き替えてもらい、鬼の草履を玄関先に吊るしておけば疫病除けになると信じられている。■関連する過去の記事 ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日)
2022.06.02
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