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我が国の精神医学の草創期に残る人物に、仙台出身の石田昇がいる。■参考 秦郁彦『病気の日本近代史 幕末からコロナ禍まで』小学館、2021年1 石田昇について東京大学で最初の西欧医学の精神病を講じたのは、ベルツ博士(1879年)とされる。ドイツに留学した榊俶が初代の精神科担当教授となり(1886年)、その一番弟子の呉秀三が1897年引き継ぐ。呉は多くのすぐれた弟子を育てた。三宅鉱一、森田正馬、斎藤玉男、下田光造、斎藤茂吉、内村祐之などだが、出色の一人が石田昇(1875-1940)である。石田は、仙台藩御典医の家系に生まれ、旧制二高を経て明治37年に東大医学部を卒業、呉教室の助手と巣鴨病院医員を兼ね、多彩な才能を開花させた。まだ医学生の時代に、セルバンテス『ドン・キホーテ』の翻訳出版、小説(雄島浜太郎の名)などを発表していたが、31歳で大著『新撰精神病学』を刊行して注目された。好評で版を重ね、石田は最新の研究成果で増補改訂を加えた。特に難治とされた早発的痴呆の研究に取り組み、また、第6版(1915年)で最初に分裂病の訳語を採用して定着させた。(なお、精神分裂病は2003年から統合失調症と改称。)治療の実践面でも、明治40年に長崎医学専門学校精神科教授として赴任すると、開放病棟、作業療法を試行するなど実績を上げた。そして、大正6年(1917)末、呉教室で7年後輩の斎藤茂吉を後任に迎えて、アメリカ留学に向かった。後述の事件のあとは、大正14年(1925)12月日本に送還、松沢病院に入院し、回復せずに昭和15年5月死亡する。医学者の間で半ばタブー視された石田を、精神医学の先駆者として再評価したのは、呉の後任の三宅鉱一、内村祐之に続く第五代の秋元波留夫教授(在任1958-66)であり、その定年退官を控えた最終講義の場だった。その後、長崎医大の中根允文教授が石田について明暗両面の業績を著書にした。2 石田の起こした事件1917年単身渡米、ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学に籍を置き、近在のプラット病院精神科に通っていた。1918年11月に、同じ下宿からニューヨークに移った小酒井光次(衛生学者、また不木の名で推理作家)に宛てて、同じ病院の医員が自分を妬んで排斥しようとしていると絵ハガキを出している。その一か月後のことである。石田は、同僚のドイツ系米国人医師ウォルフをピストルで射殺した。1919年3月の最終評決は、犯行の30分前でさえ正気でない兆候は全くないという病院長の証言を採用して、有罪、第一級殺人罪で終身刑。石田は裁判官から抗弁を問われ、気が付くと拘置所にいた、夢を見ているようだった、と落ち着いた口調で陳述した。秋元は、この陳述ぶりから、犯行直後に自身の異常を自覚するまでに回復し、正気に戻ったと推定するが、長くは続かなかった。獄中手記では、医師を撃ったのは自分でなく計略に与した多数の米国人だ、などの記述がみられ、中根は典型的な妄想型統合失調症の病像と結論する。後日の松沢病院の日誌(本人からの聞き取りか)には、看護婦長が自己に恋着す、しかるにドイツ系米人が右看護婦長に執心し、日米間を離間せんとすと考え(なお当時は日独は交戦中)、ついに恋敵、国敵たると思惟する同人を短銃にて射殺、とある。石田は州立刑務所に収監され、その後州立精神病院に移される。大正14年(1925)12月、5年間の獄中生活を続けていた石田は、松沢病院で呉博士の治療を受けるため、出獄を許され、郵船横浜丸で帰国する。当時の新聞記事には、夫人は郷里仙台で病気静養中で、弟某氏その他ニ三のさびしい出迎え、とある。出迎えた弟とは、13歳下で東京地裁次席検事(現在でいう特捜部長。おだずま注、当時は検事局が裁判所に付置されていた)の石田基のことだろう。鬼検事として知られたが、陸軍機密費事件を捜査中の1926年怪死(松本清張の著作がある)をとげる。1935年から松沢病院に勤務し石田の主治医となった秋元は、医学生の頃石田の主著を読んだのがきっかけで精神科医に進んだのだった。その頃、病室で重い病状の石田をみるたび、偉才を迷妄なる一肉塊に変えてしまう分裂病とは何者か、との思いにとらわれたという。松沢病院に移された石田には、恩師の呉秀三などが面会していたが、ジャーナリズムが石田を伝えることはなく、1940年、肺結核でひっそりと死亡。3 (若干)日本の精神医療の歴史1に記載のようにベルツ博士に始まる東大の精神科で先駆者たちが育てられた。東大の教授は、精神科専門の東京府立巣鴨病院の医長や院長を兼ねる慣例となった。巣鴨病院の前身は、宮内省下賜金を基に開院した府立癲狂(てんきょう)院(明治12-22年)だが、他にも、江戸期以来の座敷牢や、不備な民間経営の私立癲狂院で療養する場合が多かった。この時期に耳目を集めたものとして、旧相馬中村藩主の子爵相馬誠胤(ともたね)が狂人として軟禁された座敷牢を、錦織剛清が救出しようと訴訟合戦になった(相馬事件)。明治16年から10年紛争が続き、病死した相馬が毒殺でないことが判明して決着。この時期は、欧米でも精神病学は未発達で病名や分類も確立していなかった。病院の呼称も、癲狂院から、明治20年代に精神病院に。脳病院と名乗るのが流行した時期もある。明治36年に斎藤紀一が創設、養子の茂吉(歌人)が継承した私立青山脳病院は昭和20年空襲焼失までこの名で通した。我が国の近代精神医学のパイオニアは、東大精神科と巣鴨病院を30数年主宰した呉秀三だろう。病者の人権、福祉向上も重視し、収容施設の整備増設を政府に献言した。最大の課題は患者収容力の拡大と効果的治療法の開発だったが、約15万人の患者に対して精神病床は官公立1千、私立4千に過ぎず(大正7年呉論文)、大多数は私的監置(座敷牢)と民間療法に頼っている。昭和15年に2万5千床に増えたが、終戦時一気に4千床に転落。松沢病院(1919年に巣鴨から移転)では患者の半数が栄養失調で死亡した。
2022.08.21
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日本では国会や地方議会を軸とした議論と採決による政治過程というものが、議会メンバーを選定する選挙制度の浸透を含めて、いちおう根付いていると思う。欧米やアジア各国と比較して、政治社会学的に、日本人に馴染んだ制度化や受容がなされてきた面もあると感じる。しかし、江戸時代の都市や農村社会の社会学的な状況をひきずった明治維新の時代には、いきなり会議をせよ、意見を述べよ、などと言われても、それこそ混乱の極みだっただろう。以下、三村昌司「日本の議会事始め」(歴史科学協議会編『知っておきたい歴史の新常識』勉誠出版、2017年)から要点を当ジャーナルで整理(小見出しも一部当ジャーナル)。(日本における議事機関の始まり)議会制度の始まりとされるのは、慶応4年(1869)5月の貢士対策所である。これは、広く会議を興し万機公論に決すべし(五箇条御誓文)の趣旨にのっとり、貢士と呼ばれた構成員が各藩から出すと定められたが、人材不足もありうまく機能しなかった。そこで、洋楽に通じた若手官僚の神田孝平、津田真道、加藤弘之を中心に改めて制度設計を行い、公議所という議事機関が創設され、その議員たる公議人は選挙でなく各藩内で家老クラスが任命された。また、過半数でなく5分の3以上の賛成で可否が決まる点も現在と異なる。それでも、西洋の制度を参考に、様々な意見をもった人が一堂に会して討論し、多数決で可否を定め、そのプロセスと結果を公表するという議事機関はそれまでの日本にないものだった。(江戸時代との関係)そもそも江戸時代は、代表者が公的な場に会して討論して、その政治的意思決定を公開にするということはなかった。幕末に海防問題が浮上すると、幕府が大名以下に諮問したことはよく知られているが、あくまで諮問であり、一堂に会して多数決するものではなかった。諸藩でも同様で、藩主への意見は直接藩主に提出するものであって、公開の場で討論するという発想はなかった。とはいえ、政治的な問題を討議する経験がいっさいなかった訳ではない。幕府の意思決定にかかわる数人による討議は勿論あっただろうし、江戸時代の民衆は非常に多様な要望書や建白書を幕府や藩に出すのだが、そのような要求を作成する過程で人々が討議することは当然あっただろう。ただ、村の寄合では結論が出るまで話し合って最後に責任者が決をとったという。多数決の原理はなかった。近世と近代で異なるのは、一堂に会した場で多数決によって意思(おだずま注:原文は意志)を決し、そのプロセスを公開することだった。(公議所の実態 - 硬直的な「評論」と根付かない多数決)公議所は明治2年(1869)3月7日に初めて開かれた。公議所は討論をどう制度化していったのか。「公議所法則案」では、「各議員は議案を受け取ったら持ち帰って、熟考の上評論を加えて、次の会議の日に持参して議員の前で読み上げるべし」「そのとき、質問するものがあればそれに答えるべし」と定められている。佐倉藩の公議人であった依田学海は、「人々の論ずるところが多すぎて聞くに耐えない」「数が多すぎて読むのに不便」と日記に記した。学問のある家老クラスを集めたことで「評論」は集まっただろうが、逆に議事の実効性を欠いたようだ。また、公議所議長秋月種樹は、「冗長になり場合によっては罵詈を主とするものもいる」と述べている。ただ、そのような公議人の強硬な態度は必ずしも個人の資質によるのではなかった。「評論」は藩の公式見解であり、他者や公議人個人が簡単に曲げることができない性質だったからだ。ある公議人は「100人いてもはいはいというだけならば、1人の士が率直に意見を述べるのに劣る」という中国の故事を引きながら、多数決を改めるべきとする内容の建白書を出している。しかし、それでは参加者相互の妥協点を見つけることはほとんど不可能になる。すなわち、質問や討論の意味がなくなり、異なる意見への罵倒につながってしまうのだ。この点は、廃刀論をめぐって最も先鋭化した。当時公議所議長心得の森有礼が提出した廃刀論に対して、多くの公議人が激憤し、森や賛成派公議人の命を狙ったのである。このような行為は、武士の矜持から出たとのみ理解するのは一面的だ。先述のように、公議所で表明される「評論」は他と妥協しえない性質を持っているから、自分の意見に従わせるためには、究極は暴力に訴えることになったのだ。(地方ではどうか)明治に入って各地の地方民会(地方議会)はどうだったか。木更津県会は、明治5年(1782)にはじめて開催された。議員は複選制で選ばれた者と官吏から任命された者の2通り。議事の様子は、やはりうまく機能しなかった。最初の県会の様子を翌年振り返った藤田九万という官吏議員の記録によると、「知事のルールが不備のため、発言は私語のようであり、大声で罵詈に類するものもあり、ほとんど議会としての体面がなかった」という。権令として県会を開催した柴原和も、初県会の様子は「集会談話場にすぎなかった」と4年後に振り返っている。翌6年、木更津県が合併した千葉県では、千葉県議事条例という詳細な議事のルールを作成した。議事進行の円滑化を図ったと思われ、議長から番号を呼ばれない限り議員に発言権がないと定められ、私語や罵詈の抑制が図られた。また、議員の意思が選挙区の意思であるとして(*)、議員個人の発言の裁量を認めた。これは、議員個人に個人的な意思の存在を認めることで、公議所のような非和解的な対立を防ごうとしたと考えられる。(*)おだずま注:議員の意思は選挙区の意思との面を強調すると(憲法学でいう法的代表、命令的委任とか)、論旨の議員の裁量を認める趣旨には接続しにくいと感じるが、ここは、議員個人に託された「評論」に拘泥せず、選挙区(地域)にある多様な意見を代議人個人の裁量で踏まえて発言するべき(政治的代表、自由委任)との趣旨であろう。しかし、討論の経験の少なさはすぐに改善できるものではなかった。県令の柴原和は地方官会議の場で、明治7年開催の県会では出席県吏の能弁に多くの議員が雷同してしまったと語っている。また、同年千葉県のある大区で開催の民会の様子について、千葉県会議長が「議事がどういうものか分かっていない」「私語雑話を思い出す」と語っている。(討論の経験の積み重ね)それでも、地方民会の経験を積むことで、少しづつ公の場での討論や多数決の原理になじんでいったと思われる。もちろん、議場における野次や罵声はどこでもあったし現在もある。しかし、議員個々の意思を認め討論による妥協と多数決の承認の可能性を開いた意味は大きい。現在の感覚では、政治的意見が異なるからといって暴力で屈服させるのは許されないし、私語や罵倒はよくないという感覚もある。それは、明治に入って積み上げてきた討論の経験の延長線上に位置づけられるといえよう。
2022.08.13
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