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下記文献で、津軽岩木山信仰についての章を読んでいて、これまで当ジャーナルで何度も取り上げてきた靄山(もや山)にまた「出会う」ことができた。文献による説明は次のようなものである。■八木透『日本の民俗信仰を知るための30章』淡交社、2020年(2版)(初版2019年)(おだずまジャーナルでだいぶ要約しています。) 津軽平野の中央に聳える独立峰の岩木山は、秀麗で津軽富士とも呼ばれ、富士山同様に山自体がご神体として崇められてきた。山頂には岩木山神社の奥宮が祀られている。 岩木山神社は別称「お岩木さま」「お山」「奥日光」とも呼ばれる津軽国一宮で、宝亀11年(780)に山頂に社殿を造営したのが起源とされる。延暦19年(800)に坂上田村麻呂が社殿を再建したという。寛治5年(1091)神宣により東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺と称したのが現在の岩木山神社となっている。 旧暦の八朔(8月1日)に五穀豊穣と家内安全を祈願して集団登拝する行事は、お山参詣あるいはヤマカゲと呼ばれ、一説に鎌倉時代に始まったというが、現在のように形式化したのは江戸中期と考えられる。当時は、8月1日だけは一般の人は入山できず津軽藩主のみが登拝するものであったという。明治には一般の人によるお山参詣が盛んになったといわれる。 お山参詣は昭和59年に国の重要無形民俗文化財に指定され、向山、宵山、朔日山と3日間にわたり行われる。 ところで津軽地方のほとんどの地域から岩木山を臨むことができるが、鉄道開通以前は、実際に参詣が困難な地域では、それぞれ地域の山を模擬岩木山として参詣する習俗があった。 例えば脇元地区の模擬岩木山は、通称「モヤ山」と称される標高152mの円錐形の小高い丘である。山頂には脇元岩木山神社が祀られている。この山は、鎌倉時代より津軽三千坊のひとつとされ、修験者の信仰の山として崇められてきた。近世以降は脇元岩木山神社として、旧暦8月1日に岩木山神社と同様の祭礼が行われるようになり、遠方からの参詣者が増加したため、一時期、岩木山神社の遙拝所と位置付けられたこともある。 なお、地元では、モヤ山が姉で、岩木山が妹、と伝えられている。■関連する過去の記事(靄山に関するもの) 十三湊の信仰の山 靄山(2015年9月21日) UFOと東北(2015年5月31日) 小泊地区と銘菓ごんげんざき(2013年6月8日) 市浦からライオン岩(小泊)へ(2013年6月7日) 大石神ピラミッドと新郷村の旅(2012年8月19日) 大湯環状列石とストーンサークル館(2012年8月21日) 黒又山(2012年8月20日)■関連する過去の記事(十三湊) 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十万都市だった十三湊(2014年4月29日) 十三湊遺跡(2013年7月16日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日)
2022.05.30
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男鹿半島で大晦日(昔は小正月の1月15日)の夜にナマハゲとよばれる鬼たちが家々を訪問する。ナマハゲは神の側面と恐ろしい鬼の側面の両面を兼ね備えた存在で、来訪神とよばれる民俗神である。日本では、ナマハゲ以外に岩手県のスネカなど、多くの来訪神の行事が伝承されている。来訪神とは、一年の節目の日に、異界からやってくる神を意味するが、実際の行事では村の若者や子供たちが様々な面を被り仮装して神に扮して家々を訪れる。ナマハゲは「ナモミハギ」が語源と言われる。冬の間に仕事せずにいろりに当たっていて、膝や手の甲などが低温やけど症状になった状態を火斑(ナモミ)といい、ナモミをはぎ取るの意味がナモミハギである。怠け者を戒めるのがナマハゲの語源ということになる。ナマハゲの起源を示す伝承として3種の話が伝わる。(1)漢の武帝が連れてきた5匹の鬼が悪事を働くので、村人たちは鬼たちが一晩に千段の石段を築けば自由を許し、できなかったら村から出ていくという条件を出した。鬼たちは夜明けまでに999段を完成させたところで、物まねのうまい村人が鶏の鳴き声を上げ、鬼たちはやむなく負けを認めた。以来、村人たちは騙した鬼から祟られないために年に一度ナマハゲの行事を行うようになった。(2)異邦人の船が男鹿半島沖で難破し、その異邦人が山に住み着き、夜な夜な村に下りてきてナマハゲになった。(3)修験の道場とされていた男鹿三山に住む荒神様が、怠け者を叱るためにやってくる。(1)(2)は異文化の移入をイメージさせる話で、しかも大陸からの伝来を示唆するもの。ナマハゲ起源伝承に大陸文化の痕跡が見え隠れするのは、大変興味深い。一方で、岩手県(大船渡市など)に伝わるスネカは1月15日夜に家々を訪問して、冬に閉じこもりがちな子どもたちを戒め、健やかな成長を願う来訪神行事である。地域の青年たちが鬼とも獣ともつかない恐ろしい形相の面をつけてスネカを演じる。語源は、ナマハゲ同様に、脛(すね)にできる火斑をはぎ取るという意味といわれる。スネカに関する伝承では、難破船からの異邦人説、交易船が三陸沿岸に伝えた説、など起源は定かでないが、おそらくナマハゲの影響を強く受けていると考えられる。そもそも来訪神行事は太平洋沿岸には少なく、日本海沿岸に多く伝えられているが、この分布域も考えるべき問題か。ナマハゲもスネカも、怖い性格と、新年に幸せをもたらす性格とを併せ持つ来訪神である(来訪神の両義性)。柳田国男や折口信夫の学説では、日本の民俗神は基本的に客人神(まろうどかみ)が本来の姿だったといわれている。来訪神はまさに客人神である。現代の日本人は神とは幸せをもたらすものと信じているが、このような信仰が古くからあったかどうかは疑問であり、おそらく日本人の古い神の姿は、ナマハゲなどの来訪神のように二つの性格を持っていた可能性が高いと思われる。日本人はこの神の性格の両義性を受け入れ、都合の悪い面を無視したり拒絶したりすることのできない心性を有していたようだ。何か悪いことが起きるかもしれないという戒めにも似た心情を持ち合わせながら幸せを願うという信仰があるように思う。このような神や仏に対する両義的な意識が日本の基層信仰の中にあり、来訪神行事の中にその一側面が垣間見えているのでないか。■出典 八木透『日本の民俗信仰を知るための30章』淡交社、2020年(2版)(初版2019年)(おだずまジャーナルで要約しています。)■関連する過去の記事 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2022.05.29
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ひさびさに人口重心を考えてみます。■関連する過去の記事 仙台の人口重心はズバリここです。(2009年7月2日) 東北各県の人口重心はどこか(2009年6月27日)平成29年8月に、総務省統計局が、平成27国調に基づく人口重心を発表しています(資料)。総務省統計局のサイトには、各県や各市町村の人口重心も解説されています(該当ページ)。青森県(東経)140度55分17.33秒(北緯)40度42分38.86秒=青森市大字駒込字深沢(H22国調に比較しての移動 東南東の方向、481m)岩手県 141度17分28.18秒 39度30分28.55秒=紫波郡紫波町佐比内字砥ケ崎 西北西、686m宮城県 140度57分23.16秒 38度20分21.50秒=宮城郡利府町沢乙字大沢西 西南西、931m秋田県 140度16分15.17秒 39度42分21.54秒=秋田市河辺三内字飛沢上段 西南西、166m山形県 140度09分43.74秒 38度24分56.99秒=西村山郡西川町大字吉川 南東、390m福島県 140度27分03.73秒 37度24分39.91秒=田村郡三春町大字鷹巣字西之久保 西南西、1393m移動距離の長さは、福島県が全国1位、宮城県は第3位です(第2位は鹿児島県)。やはり東日本大震災の影響です。宮城県の人口重心は、PC画面で座標を打ち込んでみると、グランディ21(総合運動公園)のテニスコートの北端あたりのようです。10年前(下記)の同町しらかし台から、だいぶ仙台方向(西)に動きました。福島県も西方向へ。これは沿岸部の減少の反映ですね。各県を見ると、重心の所在市町村が10年前と変わっているのは、岩手県で、大迫町(現花巻市)から西北に進んでいます。盛岡市及び以南の県央部に引っ張られているのでしょう。山形県の人口重心は↓ココでした。以下は参考として、以前の記事に記した平成17国調の人口重心(カッコは前回平12国調からの移動)です。青森県 青森市大字駒込(南東 259m)岩手県 大迫町内川目(西 473m)宮城県 利府町しらかし台(南西 540m)秋田県 秋田市河辺三内(西 226m)山形県 西川町大字海味(南東 359m)福島県 三春町鷹巣(東南東 129m)
2022.05.24
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山口県阿武町が新型コロナ臨時特別給付金の総額約4千6百万円を、4月8日に誤って一人の町民の口座に全額振り込んでしまった問題。この町民(電子計算機使用詐欺の疑いで逮捕)は誤送金を知りながら、私的に消費してしまった。町では、4月8日のうちに金融機関からの指摘を受けて、容疑者に金融機関から町に戻す「組み戻し」の手続きを要請し、一度は容疑者に同意されたが一転拒否された、という。金は、19日までに34回にわたり国内の決済代行会社の口座などに出金された。町が容疑者に接触できたのは21日で、もう戻せないと言われた。以上が事件の概要だ(河北新報記事による)。他のメディア報道と町の広報により経緯を整理すると、次のようだ。・4月1日 町は口座情報をフロッピーディスクで銀行に提出・4月6日 振込依頼書を銀行に提出→振込依頼書は本来必要がないものだった→振込依頼書の一番上に記載があった容疑者のメガバンク口座に全額が振り込まれた(容疑者の口座しか記載されていなかった、との報道もある。)・4月8日(金)9時50分 山口銀行阿武支店(町の指定金融機関)から誤振込ではないかと連絡→すぐに町から組み戻しの依頼をする→容疑者口座のあるメガバンク宇部支店から容疑者に電話したがつながらない旨を、山口銀行阿武支店から町に連絡される→町から容疑者に連絡するが連絡がつかない。そこで、町職員(面識ある職員)が職場に行ったが不在。次に自宅に行ったら自宅にいた・同日11時 副町長が事態を把握し、すぐに山口銀行阿武支店に行って相談。「銀行同士でどうにかならないか」→銀行「本人が行って申請していただかないとどうにもなりません」・同日11時過ぎか 町職員が容疑者に一緒に銀行に向かおうとする。容疑者は風呂に入るため1時間かかるとして、12時30分頃出発(自宅から銀行は2時間ほど)・14時30分頃 メガバンク支店に到着。容疑者「今日は手続しない」※町の広報では、本人、会計管理者、職員1名が役場の公用車に同乗して支店まで移動したが、駐車場で下車、支店玄関前で「やはり今日は手続しない、後日公文書を郵送してくれ」と求められた、交渉の甲斐なく支店窓口は営業終了時間を迎えた、公用車での帰途は本人から途中で降ろしてくれと求められ物別れになった、としている。・町は、メガバンクに容疑者への払い戻しを行わないよう依頼する公文書を速達で送った・4月9日(土)10日(日)にも町は容疑者と連絡をとっていたとされるが、12日に弁護士と相談する旨の説明があったので、それまで様子を見ていた※町の広報では、10日(日)本人から知人弁護士と相談すると電話連絡あり。11日から12日まで複数回訪問するも会えず※この間の金の移動 8日67万円、10日250万円、11日 900万円→しかし容疑者から連絡がない・13日(水)容疑者の母親に連絡して説得を依頼(4月8日から18日まで 34回にわたり出金。オンラインカジノに使ったと供述している)・〔町広報による〕14日(木) 母親、副町長、職員1名が、勤務先で本人と面会したが、役場の非を述べ弁護士と話すとの一点張りで話にならず。同日夜、町議員に状況説明・〔町広報による〕15日(金) 町顧問弁護士と相手方弁護士が話し、相手方から「近日中に母親立ち合いの元本人が組み戻し手続きを行うので、日時が決まったら知らせる」と連絡あり・15日夕方 記者会見で町長がお詫びと経緯説明・4月21日 町が容疑者に接触。もう戻せないと言われる※町広報では、20日まで連絡待ったが音沙汰ないので、21日(水)訪宅、車はあるが呼びかけても一切応答なし。夕方、屋外で喫煙していた本人に偶然接触できたが、本人から「金は動かした、もう戻せない、犯罪にあることはわかっている、罪は償う」と発言あり・5月12日 町が返還を求め提訴(町議会臨時会で可決)・5月18日 容疑者逮捕・〔町広報による〕23日(土)から25日(月) 東京都で関係先銀行等の調査法律上の問題(民法では不当利得、刑法上はどの時点で着手か、欺罔の点は電磁的記録物に関する1987年刑法改正で対処か、などなど)も深めたいのだが、さしあたり最も気になるのは、町の対応だ。銀行から知らされるまで気づかなかったことはもちろん重大で、じゅうぶんな点検と今後の予防対策を講じるべきだが、ここでは、起きてしまった事案への対処を考えたい。危機管理対応はどうだったか。4月8日午前からの対応で、全額費消される最悪の事態をどうして防げなかったのか。まず、山口銀行から連絡を受けた町は、なじみの山口銀行の町内支店に任せるのでなく、直接メガバンクの宇部支店長に町長が電話すべきだった。「本人に手続きしてもらわないとどうにもならない」ということになっているが、約款や法令でどうなっているかはともかく、せめて出金実行のまえに容疑者に確認のため連絡をとるなどの対応は、コンプライアンスにも反しまい。そして、当の本人に対しては、職員が複数で出向いて、スマホで出金操作しないようピッタリとそばに張り付く。トイレの際はテーブルにでも置いてもらう。自分の金でないことはわかるのだから、一刻も早くその状態を直すよう本人も協力することは理解するだろう。町の誤振込は平に詫びて、一円でも私用に使ったら詐欺罪ですよ、とにかく協力してください、というしかない。町は、悪気を起こさないと信用したのかもしれない。しかし、問題は容疑者が善人か悪人かではない。かりに一切手を付けずにいてくれる善人だったとしても、大枚の公金が一私人の口座にあることを一刻も早く是正しなければならないことは変わらない。この問題の本質を、町職員や町長は本当にわかっていた(いる)のだろうか。町の広報には、「強制権を持たない町としては、忸怩たる思いの中で、可能な限りの手段を講じ、一方で金融機関の預金者保護の高い壁がある中、口座の動き等の証拠の調査に多くの時間を要しました。(中略)町としても最大限の努力をして参った...」とある。報道による町長の説明ぶりでは、不幸が重なったとか、金を戻してくれればいいのだ、という認識が感じられる。それはそうだろうが、一番重要な問題は、危機対応力だ。今回の事案では、発覚した後の対応である。普段接しない(であろう)メガバンクが絡んで壁があったとか、土曜日曜が入ったとか、事情はさまざまあっても、乗り越えられない事情とはいえないだろう、と当ジャーナルは思う。大きな地震、風水害、大事故、そして今回のような特殊な事件。頻繁にあることではないが、いつ起きるか分からないという意味で非常に身近だ。他人事と笑ってはいられない。■関連する過去の記事(危機管理的な記事、不当利得のからむ事件など。ほかにもありそうですが。) 福島県で実弾入り拳銃トイレに置き忘れ(2015年6月7日) 盛岡で5億円(2012年8月10日) 青森警察署の事件を再び考える(10年8月24日) 警察署留置施設の脱走事件を考える(10年8月23日) 爆破予告で臨時下校(08年11月1日) 1万円封筒事件を考える(07年7月12日)(仙台市役所ほか) アニータ騒動の青森と山形(07年2月2日) 忘年会中止脅迫を考える(06年12月20日) 私のヒヤリ・ハット体験(06年4月7日)(山形県公文書紛失事件) 自宅に百万円の札束!(06年5月3日)
2022.05.22
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切妻屋根の日本の住宅では、入り口を切妻側に設けるのが妻入り、屋根の棟と平行な面に出入り口を設けるのが平入りと区別される。子どもに家の絵を描かせると、東京の子は屋根を三角に書いて玄関を書く妻入り住宅を、京都や大阪の子は屋根の面を横に平行に書いて平入住宅になるという。実際に調査すると(コンクリート住宅などを除き)、田園調布では妻入り78%(平入り22%)、帝塚山では平入り70%(妻入り30%)だった。本来日本の住宅は妻入りが基本で、縄文時代の竪穴住居にさかのぼる。屋根が地表面まで葺き下がっている竪穴住居では、出入り口は雨に濡れない三角面の妻側に設けられた。やがて屋根が柱で盛り上げられて平側に壁ができると、平側に出入り口を設けることが可能となる。しかし、雨や雪の多い日本では妻入りが都合がよく、岐阜県白川郷の合掌造りのように、豪雪地帯では妻入り住居が多く、北日本や北海道は現在でも平入り住宅はほとんど見かけられない。新潟県の出雲崎は、海岸段丘と海岸線の間に、日本最大の妻入りの家並みが、3.6kmにわたって続いている。北前船の寄港地として、さらに北国街道の宿場町として栄えた出雲崎は、今でも街道に面した家屋はほとんどが妻入りで、それ以外でも新潟県の海岸地方には妻入り住居が多い。豪雪地帯に加え、日本海の冬の強風を受ける面を小さくするため間口を狭くして、海岸線と直角の向きに縦長の家を建てたからである。これに対して、住宅が密集する都市部では、隣家との間隔が必要となる妻入りではなく、隣家と屋根を接続させ境界に空間を要しない平入り住宅が発達する。上方では平入りの商家が町屋と呼ばれる家並みを形成した。平入りの町屋が残る城下町や宿場町は全国各地にみられるが、東京では江戸中期以降は大規模な敷地と屋敷間口をもった大店(おおだな)と呼ばれる商家が増えて町屋は少なくなる。火事が多かった江戸では、類焼を避けるため、平入り住宅が上方ほど普及しなかったのだろう。■宇田川勝司『謎解き日本列島』ベレ出版、2020年 から
2022.05.14
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日本三大美人の筆頭とされる秋田。秋田に美人が多いとされる根拠について。■宇田川勝司『謎解き日本列島』ベレ出版、2020年その1 雪国で日照時間が短く、紫外線が少ない → 美白の肌その2 古来北アジアと交わり、ロシア人の遺伝子を受け継ぐその3 桃山時代末に水戸から移封された佐竹氏が旧領内の美女をみな連れてきたその1については、ニッポン美肌県グランプリ2018(ある化粧品会社)では、1位島根、2位秋田、3位石川、4位富山。雪国に美白の女性と言えそうだが、秋田は今回の2位が過去最高で、ナンバーワンではない。その2は、秋田の人だけに他地域にはないヨーロッパ人類似のDNAが検出されることが根拠というが、ロシア人が太平洋岸まで進出した(おだずま注:原文ママ)のは17世紀以降で現実性に欠ける。その3の連れ去り説は、同様の話が各地にみられる。そもそも秋田には本当に美人が多いのか。まず、1952年から開催されているミスユニバースの日本代表や入賞してモデルや女優として活躍している約100人の出身地は、最多は東京の19人、青森、宮城、福島があるが、秋田はない。美容関連の会社による女性体型メリハリ度ランキングでは、秋田県は44位。さらに、女子中高生の肥満度調査では全国1位だ。では、確証がないのになぜ秋田美人というのか。明治の終わりころに秋田には銅などの鉱山が多くあり、歓楽街には芸者など多くの女性が働いていたが、秋田を訪れた文人たちが秋田美人と呼んだことが、どうも始まりらしい。秋田が日本一の美女と名高い小野小町の生まれた土地ということもあって、以後、秋田美人という言葉が広く定着したようだ。秋田美人とは、ミスコンに出場するスリムな美人ではなく、純日本的な色白のポッチャリ型の女性をいうのだろう。なお、人口当たり美容院数は全国第1位で、女性の美意識は高い。(以上)------------引用とはいえ、女性の容姿をことさらに言い立てるような表現があることはご容赦ください。そもそも女性だけに結びつけて美人という表現や考え方自体が、問題なのかも知れません。上記に紹介した中で非常に興味深いのは、秋田には他地域にないヨーロッパ型DNAが検出されるという指摘。かつて記事にも書きましたが(なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日))、男鹿半島には大柄で色白の女性がみられるといいます。なまはげは秘密結社として世界の古代社会に普遍的にみられる文化と言われますし、他方で、なまはげの起源には漂着したロシア人が関係しているという見方もあるそうです(秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日))。また、鬼とは、ロシア人など外国人がモデルだったという説もありますね。三大美人の筆頭、などという現代の軽い物言いのように見えて、実はわれら東北人が古来世界と交流する中で形作ってきた精神文化の基層をなす一部だったりするかも。言いすぎですが。■関連する過去の記事 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2022.05.11
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宮城郡利府町は、いまやイオンの巨大商業施設の町のイメージだが、住みよい地だったのだろう縄文の遺跡、古代の多賀城の経営や合戦を交えた中世の城郭、里山の神社たち、下っては芭蕉も詠んだ近世の情景、などなど、往古のゆたかな歴史をたたえる里だ。■出典 「時をこえて今に残る 利府町の埋蔵文化財 ~地中からのメッセージ~」利府町教育委員会1 縄文時代の遺跡■六田遺跡(ろくだ。総合運動公園の北、沢乙温泉の手前あたり)砂押川、榎川による浸食で形成された丘陵平坦部の集落跡。県総合運動公園用地造成工事に伴う調査の結果、縄文時代前期の竪穴住居跡12棟など多数の遺構が見つかった。住居跡や隣接する沢を中心として、縄文土器や石器が多数出土。土器の年代から縄文時代前期(約8000年前)の集落跡と判明。生活に伴う石器(石鏃、石錐、石箆(へら)、石匙、石斧など)のほか、玦状耳飾も出土。■浜田洞窟遺跡海水の浸食による天然の洞窟を利用した遺跡。東北大学の発掘調査が行われており、縄文時代晩期と弥生時代の遺物が出土している。また、付近から貝塚も見つかっている。2 古墳時代の遺跡■郷楽遺跡(ごうらく)三陸自動車道建設工事に伴う発掘調査で丘陵頂部に4基の円墳が見つかった。大きさは12から27mで、6から7世紀の古墳群。一号墳の周溝からは大量の埴輪(朝顔形埴輪、円筒埴輪)が出土。朝顔形は県内に出土例が少なく、保存状態も良好。その他、須恵器や装身具(切子玉、棗(なつめ)玉、管玉)等も出土。■川袋古墳群3基の円墳がみつかっている。一号墳の横穴式石室の形態や出土遺物の年代から、7世紀代に作られた古墳群。石室内部から、直刀、馬具、刀子、帯金具などの鉄製品がまとまって出土した例は県内でも少なく、保存状態も良好。■八幡崎B遺跡古墳時代の溝跡がみつかり、堆積土からは赤彩された土師器(高坏、壺)や須恵器(𤭯(はそう))などが出土。全容は把握できていないが、周溝墓に伴う溝跡の可能性。■菅谷横穴墓群7世紀の初めころから作られ始めた墓群で、横穴の総数は100以上といわれる。東北学院大学などによる学術的な発掘調査が行われ、39基がみつかった。土器(土師器、須恵器)、装身具(勾玉、管玉)、鉄製品(直刀、刀子)等が出土。土師器、須恵器には、東海地方の特徴を有するものが含まれ、交流があったと思われる。■【コラム】菅谷不動尊横穴墓群が位置する丘陵の麓。平安時代、藤原景昌が蝦夷の亡霊を鎮めるために紀州高野山から分霊したのが始まりといわれる。火焔を背負った3mをこえる不動尊像が祀られる。社の裏に湧き出る清水は眼病に効くといわれる。3 奈良・平安時代の遺跡■春日窯跡群東西約2.7km、南北2.1kmの広大な範囲に及ぶ。硯沢窯跡、大沢窯跡、春日大沢瓦(ママ)窯跡、春日大沢B窯跡、春日大沢C窯跡、大貝窯跡、中倉窯跡などによって構成されていることがわかっている。春日窯跡群の存在は古くから知られ、天保13年(1842)から安政4年(1857)に書かれた『仙台金石志巻之二、名蹟一之下、壺碑下』に初見。これまで三陸自動車道建設工事に伴う発掘調査の結果、多賀城創建期から多賀城Ⅳ期にかけての瓦、須恵器、炭窯跡が多数見つかり、古代の一大生産拠点であったことが明らかに。■硯沢窯跡春日窯跡群の西端に位置。これまで三陸自動車道建設工事、春日PA建設工事に伴う発掘調査で、奈良時代(8世紀前半)の須恵器窯跡・炭窯跡や平安時代(8世紀末~9世紀)の瓦窯跡・炭窯跡など多数の生産に関わる遺構がみつかっている。須恵器窯跡や失敗した製品の捨て場である灰原からは、多数の須恵器が出土。器種は、坏(つき)、高台坏、鉢、蓋、高坏、壺、甕、円面硯など。須恵器の中には「宮城郡」と刻書された須恵器があり、形態や製作技法から奈良時代(8世紀前半)のものであり、そのことから既に宮城郡が設置されていたことがわかった。硯沢窯跡の西端に、県内では数例しか確認されていない平安時代の火葬墓が1基みつかった。骨壺には頸の部分が意図的に割られた須恵器長頸壺(ちょうけいこ)が利用されていた。蓋は須恵器坏が用いられ、倒位で埋納されていた。炭窯跡も数多く、その中の2基は「横口付木炭窯」と呼ばれる特殊な構造の窯で、国内最北の発見。通常の登窯(のぼりがま)式の炭窯は斜面に対して垂直に構築されるが、横口付木炭窯は斜面に対し平行に構築され、複数の横口が設けられるのが特徴。県内では山元町で同様の炭窯跡があるが発見例が少なく貴重な調査成果。大量に生産された木炭は製鉄に用いされたと思われる。■大貝窯跡宅地や公共公益施設造成工事に伴い発掘調査。平安時代(8世紀~9世紀前半)の須恵器・瓦窯跡18基、炭窯跡10基、竪穴住居跡9棟など多数の生産に関わる遺構が見つかった。瓦窯跡の構造は半地下式登窯で底面には転用された丸瓦が階段状に並べられ、焼台が形成されていた。多賀城政庁に係る窯跡は大沢窯跡、硯沢窯跡でも確認されていたが、大貝窯跡の調査により改めて春日・赤沼地区が多賀城政庁と強い係りをもつ重要な地域であったことがわかっている。窯跡に隣接して竪穴住居跡も見つかっており、位置関係から作業場の役割を担っていたと思われる。住居跡内の竈(かまど)には構築材として瓦が用いられており、瓦窯跡工人(こうじん)と係わりのある住居跡と考えられる。■郷楽遺跡標高60mの丘陵頂部、陸奥国府多賀城から北に2kmの地点。三陸自動車道建設などに伴い、これまで6次にわたる発掘調査の結果、奈良から平安時代(8~10世紀)の竪穴住居跡、掘立柱(ほったてばしら)建物跡などが多数みつかり、土器など多数の遺物が出土。この時代は、郷楽遺跡の主体をなす遺構群が形成された時期で、竪穴住居や掘立柱建物が連続して築かれていたと考えられる。奈良時代(8世紀中~後半)の竪穴住居跡の竈の暗渠排水施設から転用された瓦が出土。また、住居跡内からは多数の須恵器のほか、馬具、刀子、鉄鏃などの鉄製品も出土し、国府多賀城と深い係わりをもった人々の集落と考えられる。竈の暗渠から多賀城政庁内編年Ⅱ期にあたる刻印のある丸瓦が出土した。この特徴をもつ瓦は仙台市小田原窯跡群や多賀城政庁以外に知られず、それらとの関連が考えられる。刻印には、「伊」「占」「田」などの種類がある。■八幡崎B遺跡舌状丘陵の頂部に位置。東北新幹線建設工事や県立利府支援学校建設工事などに伴う発掘調査の結果、飛鳥~奈良時代(7世紀後半~8世紀初頭)の竪穴住居跡や平安時代(9世紀)の竪穴住居跡などがみつかっている。各遺構からは、土師器、須恵器などの土器類が多量に出土。8世紀初頭の住居跡出土遺物には「関東系土師器」も含まれ、当時の人や物の流れをうかがうことができる貴重な史料である。■館ヶ沢A遺跡(利府城跡に裏から向かう道路の北側)西から東に延びる沢の東奥端に位置し、丘陵麓の南斜面に位置。町営墓地用地造成工事に伴う発掘調査で、竪穴住居跡1軒や土坑、溝跡がみつかった。住居跡の床面からは多量の炭化物が出土したことから、火災にあったと思われる。住居跡内からは土師器のほか、鉄製品(鍬先)や砥石も出土した。遺物の年代や堆積土から、9世紀末から10世紀初頭頃の住居跡と思われる。■熊野堂遺跡(保健福祉センターの南、沢乙東団地あたり)北側の南向き斜面に位置。土地区画整理事業に伴う発掘調査の結果、竪穴住居跡7棟、掘立柱建物跡30棟、埋設土器遺構などが見つかっている。これらからは土師器・須恵器などの土器類が出土。土器の年代から飛鳥~平安時代(7世紀後半~9世紀中頃)の集落跡と考えられている。9世紀の埋設土器遺構から、土師器甕の中に灯明(とうみょう)痕跡がある土師器坏や皿が収められた状態で出土している。■菅谷の穴薬師道安寺の南にあり、菅谷横穴墓群の一つにあたる。1基の横穴墓が改良され、横穴壁面に刻まれた「磨崖仏」(まがいぶつ)である。岩切東光寺の磨崖仏(宵のお薬師)、菅谷の「夜中のお薬師」、七ヶ浜町湊の磨崖仏(暁のお薬師)が「三薬師」と数えられ、いずれも9世紀に慈覚大師円仁によって一夜のうちに造られたと伝えられる。現在は前面にお堂が設けられ安置されている。4 鎌倉~江戸時代の遺跡■伊沢家景の墓伊沢家景は平安時代末から鎌倉時代にかけての御家人。文治3年(1187)、源頼朝の家臣であった北条時政に文筆の能力を認められ推挙され、戦場に出る武士ではなく文筆に携わる吏僚として頼朝に仕えた。建久元年(1190)、前年の奥州合戦の後の混乱に乗じた大河兼任の乱が鎮圧された後、源頼朝によって初代「陸奥国留守職(るすしき)」に任命され、多賀国府に国衙在庁の長官として赴任してきた。『留守旧記』によれば、この時家景に随行してきたのは、宮城・村岡・芳賀・佐藤・南宮・笠上氏などであるといわれる。その後、家景の子家元以降も代々陸奥国留守職を世襲したため、役職名から留守氏を名乗るようになった。墓碑は長い年月の間、土中に没していたと言われたが、文政2年(1819)、倒れていた石が墓碑であったことが判明し、当時の水沢領主留守村福(むらやす)が墓石を建て直したと伝えられる。■板碑(いたび)鎌倉時代から江戸時代に盛んにおこなわれた死者の追善供養のために建立された平たい石の卒塔婆をさす。室町時代以降になると民間信仰と習合し、多人数が結集して、月待供養や庚申供養などの刻銘のある板碑が全国的に建立された。鎌倉時代、利府町内には数多くの板碑が建立された。延慶の碑、菅谷の碑、染殿神社の板碑群など。○菅谷の碑(穴薬師の近く) 梵字:アン(無量寿如来) 造立:正応2年(1289) 高さ:1.5m、幅:0.75m○延慶の碑(県道利府街道沿い、神谷沢) 梵字:ア(大日如来) 造立:延慶3年(1310) 高さ:1.2m、幅:1.5m■菅谷横穴墓群13世紀になると、再利用されている。一部の横穴墓の中から10cmほどの扁平な河原石が大量に見つかった。その中の数点には細字漢字でお経が墨書きされた「写経石」が含まれていた。その1つには、「弘安六年庚未九月六日、摩謌摩耶経下巻」と書かれているものもあり、中世に修行信仰の場所として横穴群が再利用されたことがわかった。■十三本塚十三塚や十三本塚は、全国的に分布する民間信仰による塚であり、一般的に13基の塚で構成され、塚の直径は10m以下のものが大部分。作られた目的は、十三仏信仰に由来するといわれるが正確にはわかっていない。利府町には、十三本塚、十三塚の地名がそれぞれ残るが、現在では塚の一部が現存するのみである。■大貝窯跡大貝窯跡では中世の製鉄炉跡や鍛冶炉跡などの製鉄に関連する遺構が多数見つかっている。県内の製鉄関連遺跡の調査例は少なく、非常に重要な発見となった。製鉄炉跡の周囲からは炭窯跡もみつかり、製鉄炉跡に伴うものと思われる。一部の窯の煙出施設において板碑が転用されていたことから、少なくとも板碑の普及する13世紀末以降の炭窯跡と考えられている。また、そのことから、製鉄炉跡も概ね13世紀末以降であると思われる。■大沢窯跡三陸自動車道建設工事に伴い発掘調査。その結果、江戸時代(17世紀中頃)の瓦捨て場が見つかっている。これは瓦窯跡に伴うもので、中からは、瑞巌寺で見つかった刻印瓦と同じ「太田市兵衛」の刻印のある瓦が見つかっている。瑞巌寺は伊達政宗によって17世紀中頃に再興されており、再興に係わる瓦を付近で焼いていたと考えられる。大沢窯跡の近くには、瓦焼場という地名が現在も残り、昔から瓦の産地であることを想像させる。■岩切城跡仙台市岩切と利府町神谷沢にまたがる中世の山城。城跡は標高106mの高森山を中心に尾根を平らに削り、平場を造り出し、空堀、堀切などで構成されている。岩切城は留守氏の居城といわれるが、構築年代は正確にはわからない。動乱の激しくなった南北朝時代の初めころに築かれたと推定される。正平6年(1351)には岩切城を舞台に激しい合戦が行われている。岩切城は規模が非常に大きく、保存状態も良好なことから、東北地方の中世史を考える上で重要な遺跡として、国の史跡に指定されている。■利府城跡標高88mの自然地形を利用した山城。岩切城跡と同様に山を削り平場を造り、そこに施設を設けた守り重視の館跡。利府城が築かれた時代は正確にはわかっていないが、留守氏の家来であった村岡氏が築いたと考えられている。その後、戦国の時代を迎え留守氏内部に家督相続問題が起き、永禄12年(1569)留守氏の血筋を守る立場に立った村岡氏は、伊達政景(晴宗の三男、政宗の叔父)を養子に迎え、伊達氏勢力下にあって留守家安泰を図るべきとする伊達派と対立した。この時、村岡氏はこの城にたてこもり戦ったが敗れて滅亡したといわれている。永禄13年(1570)に政景は岩切城から利府城に移り、地名を村岡から利府に改めたといわれる。また同時に、村岡城とよばれていた城名も利府城となった。留守政景は天正18年(1590)に、伊達政宗から黒川郡大谷に隠退を命ぜられるまでの約20年間本拠地とした。その間、政宗の右腕として活躍したことは有名である。
2022.05.07
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連休の良く晴れた日に角田市内から足を延ばして訪れた。高蔵寺、旧佐藤家住宅や水車、庭園などを包むように農村公園がよく整備されており、そのままに優しく歴史を伝えてくれるようだった。白石に通じるR113を通ったことはあるのだが、高倉(西根)の旧道沿いの集落、高倉川の桜並木(散っていましたが)も初めてゆっくり眺めることができた。■勝楽山高蔵寺〔パンフレットから〕819年に徳一菩薩が創建したと伝える。寺は三方が山に囲まれた清閑なところにあり、境内の杉や裏山のカヤ林は数百年を経た古木で他にない特異な景観を呈している。かつては大門坊、入りの坊、清水堂の三坊を有して栄えたときのことが奥羽観跡聞老誌や安永風土記に詳しく記されている。阿弥陀堂は宮城県最古の木造建築で、平安時代の治承元年(1177)に建立と伝えられる。平安時代の建造物は全国で現在26しか残らず、阿弥陀堂では7か所だけ、東北では平泉の中尊寺金色堂、福島県白水の願成寺阿弥陀堂とともに現存する数少ない貴重な文化遺産である。 間口、奥行きともに9.3mの茅葺の御堂の中には、嵯峨天皇御宸筆「高蔵寺」の額、古い阿弥陀如来像、小さな仏像などが保存されている。阿弥陀堂は明治41年特別保護建造物の指定、昭和25年には堂内の阿弥陀如来像とともに重要文化財に指定されている。■阿弥陀如来坐像(本尊) 阿弥陀堂の本尊で、藤原秀衡とその妻が作らせたと伝えられる。像高2.7mの寄木造り来迎引摂印の尊像で、現在はほとんど漆黒色だが昔は金色に燦然と輝いたと言われる。床の上に直接据えられた蓮華座に安置され、飛雲光背を合わせると全高5m18cmあり、一部補修はあるが、当時の姿のまま8百年来、地域の信仰を集めている。 眉目が切れ長く豊麗で、その表情や布の襞の表し方は平安時代の優美な感じから鎌倉時代の力強さへの過渡期の作風。 平成28年には、94年ぶりに京都で5年間の修繕を行った。■破損した素木の阿弥陀如来坐像 堂内に安置されているもので、左胸部が朽損し右腕を失っているが、当時の寄木法がよく観察され、お顔は本尊より古風な柔和な彫り。衣文の彫刻なども浅くおとなしい作風。■旧佐藤家住宅(国指定重要文化財) 江戸時代中頃に建てられた仙台藩領の中規模農家の典型的な建物。間口14.8m、奥行き7.8mで、建坪約35坪の直屋(すごや)様式、屋根は寄棟造りの茅葺き。天井は煙出しのためと藩の禁止令のために設けられず、太く荒削りの柱は鳥居造という古式の構造。 旧佐藤家は車屋の屋号を持ち、古来修験者が住んでいたと伝えられる。もとは高倉川下流1kmほどの高倉字新町佐藤源氏の所有だったが、昭和46年市に寄贈された。同年国の重要文化財の指定を受け、昭和47年高蔵寺境内近くの現在の場所に移築された。 住宅には自由に入ることができ、土間、囲炉裏、古い戸棚、農機具など、近い昔の生活の一端が感じられた。 編集長の幼少の頃の岩手県の実家も茅葺のこんな家だった。昭和40年代の改築の前の記憶がある。邸内から縁側にでて佇み、しばらく庭を眺めていた編集長だった。■今回の角田訪問の関連記事 高蔵寺、旧佐藤家住宅(角田市高倉)(2022年5月5日) 旧氏丈邸(角田市郷土資料館)(2022年5月5日) 角田と鉄道の歴史(2022年5月1日)
2022.05.05
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角田の大地主、旧氏丈(うじじょう)邸を訪れた。よく晴れた連休の昼間、地元の方が中心のようだが割とお客さんもおられ、ちょっと昔の手の込んだ木造家屋を味わっているようだった。3月16日の地震のために庭の塀はすべて倒壊し、屋敷の中も被害を受けており、その状況が大型ディスプレイで説明されていた。座敷の畳に座ってみたり、廊下をゆっくり歩いてみたりした。なお、遺跡出土の考古資料や石川氏関係資料を展示している展示室(もとの米蔵)は地震のためだろう閉鎖されていた。■氏家丈吉(加登丈、かどじょう)について〔資料館でいただいた資料から〕 初代氏家丈吉は天保10年(1839)本家(氏家清吉)の次男に生まれ、慶応年間に現在地に分家したようである。店蔵(一階二階とも開放され、二階は角田の歴史が展示されている)、文庫蔵、母家、表門(角田要害から移築)は初代により建てられた。明治21年角田の大地主13人中4番目、伊具郡内に59町6反521歩もの田畑を所有。明治26年町税納税は本家氏家清吉に次いで2位である。 二代目氏家丈吉は慶応2年(1866)山形県生まれ、角田町会議員、郡会議員、角田製氷社長などを歴任。新座敷、奥座敷、米蔵等は二代目によって建てられた。昭和8年宮城県内で16番目の多額納税者。本家氏家、加川とならび角田町三富豪の一人に数えられた。 三代目氏家丈吉は明治27年生まれ、昭和17年に父の死で襲名。書画刀剣に造詣深く、仙台藩の書画の鑑識に長じた。農地解放直前の昭和22年3月、140町9反104歩を所有していた。■氏家本家について 本家の氏家は、代々清吉を名乗り、屋号は加登清(かどせい)。4代目が仙台に進出し、七十七銀行頭取に就任、その子栄一、孫照彦も同銀行頭取を務めた。 本家は現在資料館の駐車場となっている隣地にあった。七十七銀行の角田支店長は就任すると必ず、分家のここに挨拶に来るのだそうだ。〔資料館職員の方の話〕。■旧氏丈邸の建物 初代と二代目が建築した建物を昭和60年に角田市が譲受した。平成3年市文化財。 座敷は床柱をはじめ良質な材を多用し、奥座敷、夏座敷(北側)など、日常の喧騒を忘れさせる静謐な時間が往時から今に至るまで流れているようだ。浴室は大正期のモダンな雰囲気を漂わせる。石灯籠が配された庭を窓越しに臨むのだが、ガラスには微妙な歪みがあるのが職人技の証拠。3月の地震では、八角時計が落ちるなどしたが、建物の基本部分やガラス戸などはほとんど壊れなかったようだ。(資料館の前に、河川敷の菜の花畑に行ってみた。晴天の下、蔵王を背景に撮りました。)■今回の角田訪問の関連記事 高蔵寺、旧佐藤家住宅(角田市高倉)(2022年5月5日) 旧氏丈邸(角田市郷土資料館)(2022年5月5日) 角田と鉄道の歴史(2022年5月1日)
2022.05.05
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東北本線の敷設に際して白石-大河原-船岡ルートに負けてしまったことは、白石市史など白石サイドの文献には当たっていたが〔下記の過去記事リストをご覧ください〕、角田市側の見方も知りたかった。この点も含めて、馬車鉄道や軽便鉄道の開通に努力してきた近代角田の鉄道の歴史について整理した。連休に訪れた角田市郷土資料館(旧氏丈邸)の店蔵の2階の展示にあった解説が役に立った。■角田と鉄道〔市郷土資料館の解説〕 鉄道開設期には煤煙が稲や桑に悪影響を及ぼす等の理由で嫌悪されたこともあった。このことが角田のその後の発展にとってマイナスになった。明治20年に上野-仙台間の鉄道が開通したが、福島-仙台間のはじめの予定線は、丸森-仙台経由であった。阿武隈川水運との関係や平坦な地形による工事の難易度からこのルートが計画された。ところが地元の熱意は稀薄で、鉄道敷設株も集まらなかった。そのため、予定を変更して勾配の急な白石方面に路線が決定した。 ところが、鉄道が地域の発展に刺激を与えることが認識されると、角田にあっても鉄道敷設の要求が生じた。そこで、明治32年に角田馬車鉄道を開通させた。また、大正6年には角田軌道株式会社をつくり、軽便鉄道を走らせた。しかし、軽便鉄道は経営困難におちいり、水害もあって、その役目をバスに譲った。その後鉄道敷設は昭和43年の丸森線開通まで待たなければならない。このような鉄道に関する出来事は、現在の我々に多くを示唆してくれる。※年表風に 明治32年8月 角田馬車鉄道 槻木-角田間が開通。翌年、角田-館山(ママ)間開通。 大正2年8月 大洪水、江尻の堤防が寸断される。川蒸気船はこれ以来、運転中止となる。 大正5年10月 角田馬車鉄道株式会社が角田軌道株式会社と改称。馬力から蒸気となり、角田-槻木間を運転する。 大正6年6月 30人乗ボギー式客車(軽便鉄道)を角田-槻木間に運転する。 昭和9年10月 省営バス白中線(白石-角田-丸森-中村-原釜)が開通する。 昭和29年10月 人口規模において宮城県最大の新角田町が発足する。※掲示されていたものから○(掲示されていた写真)角田馬車鉄道初荷風景 新丁の高橋精米所 大正3年 (同)江尻閘門を行く馬車鉄道 ラッパを鳴らして合図としていた○時刻表(角田馬車鐵道株式会社 明治33年7月20日改正)〔漢数字で縦書き〕 上りは舘山(ママ)發が4本、角田發が6本、その6本が槻木着のようだ。例えば、もっとも早いのは、5時角田發(上野行接續)が6時40分槻木着。舘山發は7時10分(上野行接續)をはじめに午後6時10分發(角田6時50分着止とある)まで。角田發槻木行は午後6時發(7時40分着)まで6本で、初めの2本(5時發、8時10分發)が上野行接續と付記される。 下りは、槻木發が6本。朝は7時10分から。最後の2本(6時10分發と8時20分發)には上野下り接續と付記されている。角田發(舘山行)は4本。6時發(舘山着6時40分)から、午後5時20分發(舘山着6時)まで。 時刻表の隅には、「途中」として 木沼、櫻、江尻、小坂、等ノ各驛發着ハ馬匹ノ都合ニヨリ5分乃至10分ノ遅速可有之ニ付時間凡そ10分前ニ駐車塲ニテ御接受ケ被成下度候 とある。(以下は当ジャーナルの整理) 角田・丸森の鉄道の歴史は、明治32年の角田馬車鉄道(槻木-角田)に始まる。33年に丸森町舘矢間まで延伸。その後、大正5年に蒸気機関車を導入し、角田-舘矢間の間は馬車鉄道として残ったがやがて廃止。昭和4年に営業廃止。 国鉄丸森線は昭和43年に槻木-丸森間が部分開業。もともと、改正鉄道敷設法(大正11年法律第37号)の別表に記された予定路線〔下記リスト中の記事を参照ください〕では、「27 福島県福島ヨリ宮城県丸森ヲ経テ中村ニ至ル鉄道及丸森ヨリ分岐シテ白石ニ至ル鉄道」とされ、内陸部の東北本線福島、白石から丸森を経て海岸部の常磐線中村(現相馬)を結ぶ横断線だった。しかし、戦後東北本線福島-白石間の急勾配を緩和するために第21項の2の槻木-丸森間が鉄道敷設法予定線に加えられ、当初の横断線の構想を縦断線に変更。この予定線変更の経緯では、急勾配を抱える東北本線白石ルートとの争奪戦再燃の面もあったようだが、結局白石ルートが支線化どころか複線化・電化されて決着する。 東北新幹線の計画に際して角田側が誘致に動いたかどうかは私は聞いたことがない。(戦後の角田と白石の関係は今後の当ジャーナルの検討課題です。) 昭和61年7月(国鉄分割民営化に先立ち)第三セクターの阿武隈急行線として開業し、昭和63年に電化及び福島までの全線開通を果たした。■今回の関連記事 高蔵寺、旧佐藤家住宅(角田市高倉)(2022年5月5日) 旧氏丈邸(角田市郷土資料館)(2022年5月5日)■関連する過去の記事(角田に関するもの) 郷土を開いた高山善右衛門と県内の主な開墾地・干拓地(2013年5月1日) 阿武隈急行の輝かしい「日本初」(2012年10月7日) 大槻義彦先生と宮城(09年7月8日)■関連する過去の記事(鉄道敷設など)●特に角田に関するもの 仙台駅の位置について(その10)新幹線長町駅?(2021年11月14日) 昭和47年仙石線新田踏切事故(続)(2021年10月19日) 新生富谷市はなぜ「駅なし鉄道なし」なのか(2016年10月10日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日) 仙山鉄道 3つのルート(2015年2月13日) 小原新道と白石人車軌道(2014年8月8日) 松山人車と白石人車軌道(2014年8月7日)●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日) 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その1)(2013年4月19日) 仙台駅の予定地について(その9)(2012年5月23日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) 仙台駅の予定地(その8)(2011年9月26日)●やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日)●東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日)●大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2022.05.01
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