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ずっと気になっていた。三山線について。2005年の秋、鶴岡への旅の途中、寒河江のチェリーランドの後、西川町に入り、国道沿いの酒蔵資料館で屋外展示されている電車を、まだ小さかった娘たちと眺めた。中に入れたような気がする。その2年後に、本の表紙をみて記憶がよみがえり、あれはかつて当地を走っていた三山線の車両と知ったのだった。(下記の記事をご参照ください。)自転車道などに転用されたらしい三山線のルート、また、終点の間沢駅跡はどうか、など気になっていたのだが、先日、ついに現地を訪問できた。山菜そばで有名で、お昼時に多数の行列ができていた出羽屋さんの道路向かいに、碑があった。その碑の南側にバス待合所(月山観光タクシー、月山観光開発などと標記)があって、脇で洗車(写真の軽自動車)している人に聞いてみた。駅は待合所の建物のある場所にあったのだそうだ。その方も、小さい頃の記憶としてにぎわっていたんだ、と。線路は、出羽屋さんの向かいの商店(黒坂商店、ヤマザキショップ)の南側(広いスペースで駐車場になっている)を手振りで示して、こう走っていたんだろうな、と説明してくれた。(上の写真の奥に見えるのが待合所。撮影地点付近がレール敷地になるのでしょう。)つまり、出羽屋さんに面した道路に並行する感じで(黒坂商店を挟んで)寒河江方面から線路が来て、現在待合所のある駅舎に繋がっていた。待合所の建物の北側は道路に面して広場になっていたから、駅前広場だったのだろう。その片隅に碑があるのだ。(写真では、待合所の右側になります。)事前に周囲を散歩してみた私が、山形銀行の裏に広いスペースがあって立派な石碑などありましたが、あそこも軌道跡ですか、などと聞いてみたら、何、どこだって、と逆に聞かれた。大きな道を寒河江方向に向かうと、並走していた軌道跡と思われる自転車道。酒造記念館に17年ぶりに立ち寄る。建物の中には、三山線の資料が展示。そして、屋外の電車はこうなっていた。かなり前に来た時に子どもたちと中に入った記憶がありますけど、と記念館の人に聞いたら、部品もなくて修繕むずかしい、しかし、500万円で買い手がついているのだそうだ。設楽酒造店の一声(ひとこえ)純米原酒を一本買った。帰宅後に飲んだら、とてもまろやかな味だった。■関連する過去の記事(西川町関連) 五色沼、志津温泉、清水と苔の西川町(山形県西川町)(2022年10月27日) 朝日軍道(2016年4月3日) 山形で一番寒い大井沢の「ゆきんこ祭り」(2016年1月7日) 出羽三山(2010年12月7日) 大井沢の大栗(10年4月13日) 山形交通三山線の電車モハ103(07年11月23日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日) 月山トレッキング(07年10月20日)■関連する過去の記事(山形と鉄道) 奥羽・羽越新幹線整備実現同盟(2022年10月17日) 長井線の踏切たち(2016年5月4日) 山形鉄道フラワー長井線に乗る(2016年5月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日)
2022.10.29
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紅葉も終わりかけた休日、西川ICを降りて西進、道の駅にしかわ(月山銘水館、水沢温泉館)を訪れた。施設の中に、「癒しの極 苔」と銘打ったコケの展示があり、そのわきの壁に、手書きで下記のような説明書きが貼られていた。西川町は水の豊かな空気の綺麗な町です。地名には、<水沢><大井沢><沢口><姥沢><岩根沢><間沢>等が有ります。水が豊富で冷涼な気候が多くの苔を育んでいます。また、町民の名字に志田さんが多く、人口当たり全国第1位です! 志田さんの名字の由来は植物の羊歯、シダからきています。西川町には、シダも沢山あります。ワラビ、ゼンマイもシダの仲間です。その後、月山湖で国道を北に入り月山方面に上り、弓張平公園を突き抜けて、志津温泉に足を延ばす。五色沼を眺めた。ほとりに看板があり、次のように説明がある。出羽三山信仰のみち「六十里越街道」における志津地区 戦国時代、最上義定・義光と庄内〔2字省略〕の抗争により、戦のための軍馬が六十里越街道を往還していました。また、最上氏と上杉氏の戦いにおいて、「上杉の庄内勢が六十里越から攻めて来て志津に乱入した」とされています。中世における志津地区は、庄内との交通の要所であり、食糧の中継地点だったと考えられます。 江戸時代に入り、平穏な時代となった慶長16年(1611)、行人が山賊に襲われる事件が起きました。領主最上義光は、現在の志津の地に番所を設け、番人を常駐させ治安の維持を図りました。番人は14名で、後の志津村14軒の起りとなりました。志津村の成立は、最上氏改易後の元和9年(1623)から寛永10年(1633)の間と推測され、寛永一揆「白岩目安状」には、志津村の名称があります。 本来、ここ志津は、湯殿山別当本道寺、大日寺の両寺が維持管理する休み茶屋としての役割を担い、大井沢口、本道寺口から登拝する際や、羽黒口から下山した行者らが、立ち寄ることが一般的でした。幕末後は、本格的に旅篭屋として機能することになり、出羽三山に向かう参詣の道中に位置し、庄内への取次場であることからも、出羽三山信仰の要所と考えられています。分校跡なのだろうか、街道から五色沼に張り出したようなエリアは、苔が一面を美しく緑を演出。多くの碑があるが、中でも新しい石碑は、「東日本大震災復興祈願 湯殿玄海古道登拝記念碑」とあり、側面には、「月山志津開村四百年記念行事 平成二十三年十月吉日建立」。「主催」として並んで刻まれている「西川町志津町内会 会長」と「月山志津温泉旅館組合 組合長」のお名前はいずれも「志田」さんだ。そのあと、道を降りて、国道に戻るすぐ手前にある路傍の黒いタンク「月山沢の湧水」に立ち寄る。町の中心部に向かい、西川町内(間沢)の出羽屋。行列ができていてものすごい人気のようだ。しばらく待って、旅館の中に通していただき、山菜そばをいただいた。■関連する過去の記事(西川町関連) 朝日軍道(2016年4月3日) 山形で一番寒い大井沢の「ゆきんこ祭り」(2016年1月7日) 出羽三山(2010年12月7日) 大井沢の大栗(10年4月13日) 山形交通三山線の電車モハ103(07年11月23日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日) 月山トレッキング(07年10月20日)
2022.10.27
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山形県内のあるイベントでブースが出ていた。グッズ(ウェットティッシュ)とともに、パンフレットをいただいた。以下に概要を書き出そう。(表紙)フル規格新幹線の早期実現を!やまがた創生の基盤となる 奥羽 羽越新幹線フル規格新幹線山形県奥羽・羽越新幹線整備実現同盟(裏表紙)皆さんの力を結集し 奥羽・羽越新幹線を早期に実現しよう!奥羽新幹線・羽越新幹線は、本県に新たな活力を呼び込み、将来に渡る自立的な発展をもたらす重要な社会基盤となるものです。本県の将来を担う若い世代のためにも、今こそ、地域が一丸となって、奥羽・羽越新幹線の実現に向けた道筋をつけていく必要があります。山形県奥羽・羽越新幹線整備実現同盟(事務局:山形県企画振興部総合交通政策課)(左下隅に、2020.02 とプリントされている。)(内容から抜粋)1 今こそ求められるフル規格新幹線・震災で再認識された日本海国土軸の重要性(東日本大震災で折れ曲った仙石線の車両が写真で紹介されている。)・地方創生の基盤となるフル規格新幹線(ミニ新幹線の山形新幹線は福島-新庄の在来区間で130kmしか出せず運休遅延も多い、と説明されている。)2 奥羽新幹線・羽越新幹線・奥羽新幹線(福島市-秋田市)、羽越新幹線(富山市-青森市)は昭和48年に全国新幹線鉄道整備法に基づき政府の基本計画に位置付けられたフル規格の新幹線構想。・フル規格によって見込まれる効果は、所要時間短縮、交流人口拡大、地域産業活性化、安全安定輸送。・(JR東日本の事故件数のグラフがあり、在来線(平成30年で1466件)に対比して、新幹線は圧倒的に少ない(平成30年で33件)と示されている。)3 奥羽新幹線・羽越新幹線の整備に向けて・期待される昭和48年組の整備(昭和47年に基本計画に位置付けられた路線=北海道、北陸、九州など=はほぼ完成に目処がついてきた。昭和48年に基本計画に位置付けられた路線=四国、山陰、東九州など=も次の整備を目指した取組が開始された、と説明されている。)・山形県では、オール山形の組織「山形県奥羽・羽越新幹線整備実現同盟」を平成28年に立ち上げた。奥羽・羽越新幹線ルートイメージ奥羽新幹線(福島市-山形市-秋田市)フル規格新幹線が実現すれば 東京-米沢 約1時間30分 東京-山形 1時間台 東京-新庄 約2時間30分羽越新幹線(富山市-新潟市-秋田市-青森市)フル規格新幹線が実現すれば 東京-酒田 約2時間40分山形新幹線の福島-米沢間のトンネル整備構想山形新幹線の運休遅延が多いこの区間に、JR東日本からは、全長約23kmのトンネルを整備する構想が示されている。本同盟では、将来のフル規格新幹線実現の足がかりとして、トンネル早期事業化に向けて取り組みを進めていきたい。サイト:奥羽・羽越新幹線整備実現同盟■関連する過去の記事 庄内と秋田の新幹線延伸構想(2015年4月14日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日)
2022.10.17
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先日、日本の精神医学のパイオニアで仙台出身の石田昇について記した(精神医学のパイオニア 石田昇(2022年8月21日))のは、秦郁彦の著作を読んでだったが、その出自などはわからなかった。阿曽沼先生の著作を読んでいたら、先生が丹念に調べた内容を記していた。■参考阿曽沼要『墓誌・碑文・古地図にかいまみる仙台の医学史』丸善出版サービスセンター、2010年■以前の記事(石田昇について) 精神医学のパイオニア 石田昇(2022年8月21日)石田昇は、東北大学医学部の前身である共立病院副院長であった石田真の子である。以下、阿曽沼先生の著作に基づき、概説する(整理と構成はおだずまジャーナル)。1 石田真(1837-1891)について仙台市若林区弓ノ町の大安寺に、天籟石田先生讃徳碑なる石碑がある。石田とは、中目齋と図って宮城医学校~共立(社)病院を創立し、副院長となった石田真である。天籟は号である。石田真は、伊達一世念西公以来の藩医、錦織即休の第六子として生まれ(天保8年)、同じく藩医の石田道隆(現在の東二番町小学校に屋敷があり、第一次宮城県立医学所が開校された)の養嗣となる。明治3年、藩命により中目齋先生とともに大学東校で西洋医学を修め、さらに米国人医師シモンズとヘボンに学ぶ。横浜で塩谷良翰(初代宮城県参事に内定)に説かれて帰仙し、中目とともに共立病院を創立(明治5年)、中目が院長、石田が副院長となる。地域医療の中核として共立病院の果たした役割は大きく、創立の年には白石に分局を設け、翌明治6年には、石巻、古川に分局を、松山、仙台河原町に出張所を設けた。明治12年に病院が公立(県立宮城医学校)となると勇退して自宅で開業。信望が厚く門前市をなす盛業で、中目齋とならび当時の二名医と称された。明治24年55歳で食道がんで亡くなる。遺言により山形仲藝が解剖した。弓ノ町の大安寺に葬られた。石田の居宅には梅樹が数十本あったので、香韻書屋と名付け老後は漢書に親しみ吟詠を楽しんでいた。石田真の先妻(石田道隆の次女ツネ、明治2年25歳で死去)との間には、息子の康(1863-1951、北海道庁官吏)と娘がいた。継室は佐藤氏娘(市子)で、六男一女をもうけたとあるが、長男が昇(1875-1940)、次男が基である。真が亡くなったときは昇が16歳だった。2 石田真と昇大安寺には石田家の墓が二つある。石田真一家の墓と石田昇一家の墓である。昇の墓には、昭和15年5月31日昇行年66とあり、従五位勲六等醫學士 興學院昇雲俊龍居士 と刻まれている。真が東京・横浜に西洋医学を志して勉強しに行ったのは、先妻ツネをなくした翌年の明治3年で、後妻市子との間の長男、昇は、当時長崎にあった第五高等中学校医学部を卒業し、東京大学医学部に入り、在学中にドン・キホーテを翻訳出版。東大精神科に入局後三年目には『新撰精神病学』を著した大変な秀才だった。シゾフレニーを精神分裂病と訳して日本に紹介したのは昇である。昇は、明治40年(1907)弱冠29歳で長崎医専初代精神科教授(第二代は斎藤茂吉)となり、大正6年文部省留学生として米国ジョンス=ホプキンス大学に留学した。ところが昇自身が精神分裂症(現統合失調症)を発症し同僚医師を射殺し終身刑となったが、結核を併発し、病状が悪化して日本に送還され、昭和15年松沢病院で亡くなった。石田昇が地元の仙台を離れて遠隔の長崎に行ったのは、多感な16歳の頃の父、真の死が関係していたのかもしれない。石田昇先生一周忌追悼会で斎藤茂吉が詠んだ詩鳴滝をともに訪いたることさえもおぼろになりて君ぞかなしき(注:鳴滝はシーボルトが蘭学を教えた鳴滝塾)■関連する過去の記事(疫病、民俗、感染症など) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)
2022.10.08
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