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今朝のNHKニュースでやっていた。バブル期に建てられた巨大観音像の対策が各地で問題になっている。石川県加賀市で1987年に建てられた73メートルの観音像が出ていた。当時は金ピカだったそうで、建立した会社社長さんの当時の映像。また、静岡県や淡路島の事例も。淡路島の場合は、相続する者がなく国有化され、国が9億円をかけて今年5月に解体撤去した。高崎経済大学の津川康雄名誉教授が解説しておられて、画面に移された日本地図では、25メートルを超える観音像15体の位置がドットされていた。東北は3つ。岩手の沿岸部は釜石大観音、宮城は中山の観音様だろう。そして福島県は会津地方に点が示されている。●釜石大観音(釜石市) 1970年、48.5m 明峰山石応禅寺●仙台天道白衣大観音(仙台市) 1990年、100m 双葉綜合開発、新界山大観密寺●会津慈母大観音(会津若松市) 1986年、57m ツルカメ建設、祈りの里会津村
2023.06.30
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今朝のNHKニュースでやっていた。バブル期に建てられた巨大観音像の対策が各地で問題になっている。石川県加賀市で1987年に建てられた73メートルの観音像が出ていた。当時は金ピカだったそうで、建立した会社社長さんの当時の映像。また、静岡県や淡路島の事例も。淡路島の場合は、相続する者がなく国有化され、国が9億円をかけて今年5月に解体撤去した。高崎経済大学の津川康雄名誉教授が解説しておられて、画面に移された日本地図では、25メートルを超える観音像15体の位置がドットされていた。東北は3つ。岩手の沿岸部は釜石大観音、宮城は中山の観音様だろう。そして福島県は会津地方に点が示されている。●釜石大観音(釜石市) 1970年、48.5m 明峰山石応禅寺●仙台天道白衣大観音(仙台市) 1990年、100m 双葉綜合開発、新界山大観密寺●会津慈母大観音(会津若松市) 1986年、57m ツルカメ建設、祈りの里会津村
2023.06.30
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戦国時代の書状は、いわば現代の私文書。公文書にあたる文書(もんじょ)が、例えば、誰かの権利を保証するために、書式が決められ年月日と印判(判子)が捺されるものであるのに対して、書状の用途は多様で、公的な内容も私的な内容も書かれていた。電話やメールのないこの時代は、相手に使者を派遣する場合に、書状を持たせるのが普通だった。書状には、自分が書いた証明として直筆で花押(サイン)をするのが通例。(公文書ももともとは花押を用いたが印判が普及していき、反対に書状に印判が捺される場合もあった。)相手の手元に直接伝わる書状には、気持ちを伝えるための大変細かいルールが定められていた。それが御書礼である。書札礼(しょさつれい)ともいい、書状の書き方である。具体的には、文言はいうまでもなく、紙の種類、折り方、封の仕方、署名の仕方、宛先の書き方など多数のルールがある。家格や身分の上下、実際の力の強さなどさまざまな要因で、微妙に書札礼が使い分けられていた。伊達稙宗は、分国法の塵芥集を制定し、はじめて奥州守護に補任されるなど、伊達氏が戦国大名として発展する基礎を作った人物だ。ところで、稙宗の父尚宗は、文亀3年(1503)に越後守護上杉房能の支援を求めて同国人の中条藤資に書状を送った。このとき、守護上杉氏の家格が高いのは当然として、伊達氏と中条氏はともに国人で本来同格だが、尚宗は中条氏に対して「被官同然」、つまり家臣に対する書札礼で書状を認めた。これを知った上杉房能は「はなはだもって口惜しい」「上杉は大名である。伊達は国人に過ぎない」と怒りを表した(中条文書)。稙宗が受け取った書状には、古河公方足利高基の重臣である簗田高助が稙宗に対して「忠節を尽くしたので、御書礼を改めて(古河公方が稙宗に)書状をお書きなされます。今後ますます忠節を尽くしてください」というものがある。稙宗の忠節の礼に、古河公方が今まで以上に丁寧に書状を書くと、簗田が伝えたのである。当時、古河公方は書札礼を恩賞の一つとして用いていた。いかに書状の書き方が重要であったかが、わかる。伊達稙宗と子の晴宗は、天文11年(1542)に伊達天文の乱をひきおこし、天文17年の和睦成立まで激しく戦ったが、もともと仲が悪いわけではなく、天文6年ころには、稙宗と晴宗がそれぞれ高野山の観音院に宛てて、贈り物に対する返礼についての同日付でほぼ同内容の書状を送っている。ここで、稙宗は観音院から「水原」をもらった礼を述べているが、水原は、杉原(すいばら)の当て字で、当時武家が珍重した紙である。室町初期に成立した『書札作法抄』には、「武家に対しては杉原紙でなければ文を書いてはいけない」と記されており、貴重な贈答品でもあった。親子で書状を送っているのは、子の晴宗が政治的な活動を開始していたものとして注目される。書状の末尾には「詳しくは〇〇が申します」という形で、書状の内容を補足する家臣の名前が書かれることが通例で、こうした役割の家臣を取次(とりつぎ)といった。稙宗と晴宗はおなじ中野親時を取次として書状に記載している。晴宗は天文の乱が終結すると家臣に対して恩賞を与えている。土地はもちろんだが、中には、古河公方と同様に、家臣に対して書札礼を改めることを恩賞として用いた場合もあった。伊達家内部でも、家格に基づく書札礼が細かく定められており、自身の書札礼の格が上がることは極めて重要だったから、恩賞となりえたのである。晴宗の子の輝宗の書状では、仮名書きの書状が注目される。一般に仮名書きは女性宛の消息に使用されることが多いが、輝宗は家臣に対して用いている。これが政宗にも継承されたという。政宗の場合は、書状や印判状などの文書は現在4500点ほどが知られる。少なくとも4人の祐筆(曾根四郎助、石田(大石)長門、武山修理、大和田重房)がいたとされるが、しかし、直筆文書も1400点以上が確認されており、他の武将と比べて割合が格段に高い。書状は、一般的に年号を書かずに日付のみを書くのが当時の習わしだった。このため、文面に書かれた政治状況や花押の形状から年次を判断することになる。■佐藤貴浩『「奥州の竜」伊達政宗 最後の戦国大名、天下人への野望と忠誠』KADOKAWA(角川新書)、2022年 から
2023.06.14
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徳仙丈山。5月の晴れた日に、気仙沼川の登山口から登りました。向かう途中に、ちょうどラジオの石丸謙二郎の山カフェでツツジの海という読者の声を取り上げていた。(勉強の成果は、画像の後に。)(以下、気仙沼市のパンフレット2021.3から)標高711mの徳仙丈山の最大の魅力は、ツツジの大群生を散歩気分で満喫できること。ツツジの面積は約50ha、本数約50万本。野鳥の宝庫でもある。気仙沼側にある徳仙奥入瀬では、清流のせせらぎも。■深紅に染まる名山 5月中旬から下旬には50万本のヤマツツジやレンゲツツジが全山を深紅に染めあげる。 登山口は南北に二か所。北の気仙沼登山口からは、つつじが原を見渡す第一展望台。さらに第二展望台から眼下には、ツツジと太平洋の紺碧が織りなす雄大な風景が迫る。その先は、人の背丈を超すほどのつつじ街道を通って山頂へ。 本吉側からは、まず駐車場そばの長命清水でのどを潤し、のんびり作業道コースと尾根道コースから道を選らぶ。 どちらからも山頂には40分ほど。360度の絶景が待っている。視界を遮る高木がないため、東にリアス式海岸が続く太平洋、大島、南に金華山、北東に五葉山、西に栗駒山、北に室根山、大森山を一望。また、自然保護を願い登山者の労をねぎらおうと、樹齢1000年以上のツツジを御神体とする石造りの徳仙丈山神社も建立されている。 昔、屋根葺きや農耕馬用の採草地だったことから、山焼きが行われ、その火防線は現在の登山道の一部。山焼きや伐採など多くの試練を耐え抜いたツツジ。その成長の陰には、本吉側の「徳仙丈山つつじ保存会」、気仙沼側の「徳仙丈の自然とつつじを守る会」とその意思(ママ)を継いだ「徳仙丈のつつじを愛する会」の長年にわたる保護活動の尽力があった。 気仙沼側には、清らかなせせらぎの徳仙奥入瀬があり、大きな岩を抱いた「岩抱きけやき」をはじめ美しい風景が点在する。■ツツジの名所になったワケ 徳仙丈山には大正初期から昭和25年まで銅を採掘した徳仙鉱山があり、火入れや山火事跡は萱や牧草地として利用されていた。現在の登山道の一部は火防線として明治につくられたもの。その後幾度も山火事や植林事業を経て、厳しい自然環境に耐え、山頂一帯が黒野牧(くろのぼく)という土がツツジの成長に適していたことなどから、自生のヤマツツジの大群落となったといわれる。昭和51年に気仙沼側の故佐々木梅吉氏ら、同年に本吉側の故須藤隆氏らにより撫育や保護事業が開始され、以後双方の住民による地道な活動によって、現在の徳仙丈山が日本屈指の名所となった。 日本一のツツジの山と言われる徳仙丈山だが、30数年ほど前はツツジの株も小さく地元でさえもあまり注目されることはなかった。昭和51年、当時の気仙沼市議、故・佐々木梅吉氏は、山に咲くツツジに魅了され仲間とともに下草やツツジに絡まるツタを刈る作業をしながら、撫育管理の必要性を訴えた。この作業により草木の陰となっていたツツジは大きく成長し鮮やかに山を彩るようになり、後に市も草刈りや歩道の整備などを行った。佐々木氏は有志による「徳仙丈の自然とつつじを守る会」を結成し、昭和53年に第1回つつじ祭りを主催。その意思(ママ)は現在「徳仙丈のつつじを愛する会」に引き継がれ、つつじ祭りの開催や自然保護活動が行われている。 昭和51年、当時の本吉町議、故・須藤隆氏は「本町の貴重な財産であるつつじの保護」を議会に求め、ツツジの魅力と山の整備を町に訴えながら、自ら草を刈り、ツツジの生育に適した環境づくりを行った。昭和56年からツツジの保護活動が町の事業として開始され、昭和63年に「本吉町徳仙丈山つつじ保存会」を結成、平成元年に第1回徳仙丈山つつじ祭りを主催、現在までつつじ祭りや下草刈り、ツタ刈りなどの活動を行っている。 二人の先人の熱い想いと、それに共感した地域の人々の地道な活動が市や町を動かしてきた歩みが、徳仙丈山のツツジが全国に名を馳せる礎になっている。
2023.06.01
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