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志津川湾は、歌津、志津川、戸倉を含む南三陸町の海全体。太平洋に直接面して強く影響を受けるとともに、深い湾の奥は穏やかで、世界的に貴重な自然環境が広がっている。志津川湾には、北海道沖を通過して三陸沖で東に向きを変える親潮(寒流)と、房総半島沖で蛇行する黒潮(暖流)の支流が到達する。さらに、対馬海流が日本海から津軽海峡を抜けて南下する津軽暖流も混ざり合い、多様性豊かな貴重な海となっている。昔から漁業はさかんで、「西の明石、東の志津川」と味の良さをうたわれるタコは、イシャリという道具を船から垂らしてとる。箱メガネをのぞいて長い竿の先のカギでとるウニ、アワビ。明治から始まった養殖漁業はノリが皮切りだったが、昭和30年代からワカメ養殖が始まる。マガキも主要な産品で、2017年戸倉地区のカキ養殖がASC認証取得。ホタテ、ホヤ、ワカメ。また、ギンザケは志津川湾が養殖発祥の地だ。ラムサール条約(正式名称は、特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)は、保全・再生と賢明な利用(ワイズユース)を目的とし、そのための交流・学習(CEPA)を進めることを大切とする。2018年10月18日、志津川湾が登録され、23日にドバイで開催された条約締約国会議で認定証が授与された。現在、日本には登録された湿地が52か所ある。宮城県では、伊豆沼・内沼、蕪栗沼・周辺水田、化女沼が登録されている。藻場(海藻の森や海草の草原のこと)は、多くの生き物の隠れ家や揺りかごとなり、また葉に住む小生物と一緒に海をきれいにし、生態系で大切な役割を果たすが、志津川湾では、200種以上の海藻と5種の海草が確認されている。コンブ場、アラメ場、ガラモ場、アマモ場など多様な藻場があり、マコンブとアラメの双方が見られる大変貴重な海である。環境省は国内の重要な自然環境を1000か所ほど選んで調査している(モニタリング1000)。志津川湾は全国で6か所の藻場サイトに選ばれている。毎年6月、椿島付近で生育状況を調査。南三陸ネイチャーセンター(南三陸町自然環境活用センター)では、2008年から調査に関わり、震災後、地盤沈下の影響で藻場が岸寄りにシフトしたことが明らかになった。志津川湾は、環境省が選定する「日本の重要湿地500」にも選定されている。また、細浦と折立海岸の干潟は、「宮城県の重要な干潟」に選定され、干潟からは多くの希少動物が確認されている。八幡川河口の松原海岸は、潮干狩りなどが楽しめる干潟だったが、50年ほど前、チリ地震津波の後に防潮堤が作られ、松原公園となった。2011年の東日本大震災津波で防潮堤が壊され、ふたたび干潟や磯を含む海岸に戻った。水鳥では、コクガンの重要な越冬地になっているほか、冬にやってくる渡り鳥は、マガモ、ヒドリガモ、オオガガモ、コガモ、シノリガモ、スズガモ、ホオジロガモ、クロガモ、オオバン。猛禽類では、ミサゴ、オオワシ、オジロワシ。■南三陸町発行の冊子「ラムサール条約登録湿地 志津川湾」(2021年3月26日改訂版)から
2023.08.25
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染色の歴史に関して、最高位の冠の色とされた紫が、紫根(紫草の根)からつくれらたように、茜(あかね)も草の根から染色するもので、茜草の根は、浄血、解毒などの作用があり古くから薬草として用いられたことも、紫根と同様だ。茜の根を細かく切って煮込むと、アリザリンという無色の成分が溶け出し、酸化してブラジレインという赤色の物質に変化する。茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王、万葉集)茜染めは、「岩手県が発祥で、飛鳥時代や奈良時代から利用されている、日本で誕生した染色法です。」(以上は、三澤信也『日本史の謎は科学で解ける』彩図社、2023年 を読んで書き留めたもの。最後の一文のカギ括弧部分は、記載どおり引用しました。)驚いたのは、古代に岩手県が発祥の文化、しかも宮中に関わる雅な染色文化が当時化外の地から広まったということがありうるのか、と。おそらく、私の誤解で、岩手が発祥というのは藩政時代の南部藩が奨励して特産物になった(南部絞り)ことを指しており、古代の染色技法としては西日本や畿内で存在したのだろう。魏志倭人伝にも卑弥呼からの献上物として記載があり、吉野ヶ里からも出土している。■関連する過去の記事 貴重な資源だった赤根沢の赤岩(2013年7月15日) 赤根沢の赤岩(今別町)(2013年6月15日)
2023.08.22
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上野の国立科学博物館で現物をみて感動に震えたのは、もう6年前。その隕石の故郷(第二の?)富谷で、残暑厳しい休日の昼、再開を果たすことができました。(このあと、本記事では展示・解説の内容を記させていただきます。)とみぷら移転5周年記念「富谷隕石」特別展示(3階富谷市民俗ギャラリー)。●【パネル】富谷市外にある貴重な文化財(2) 富谷隕石富谷市富ヶ丘3丁目に昭和59年(1984)8月22日午後1時35分。石のようなものが前ぶれもなく落下し、その石は、国立科学博物館による鑑定の結果、隕石と断定されました。富谷隕石は、ケイ酸塩鉱物が主な主成分(ママ)の「石質隕石」で、宇宙にあった時と同じ状態のきれいなまま発見され、落下後20数時間で専門家の手に渡ったことなどから、太陽系誕生の過程を知る資料として貴重な資料と(ママ)なりました。現在は、東京上野にある国立科学博物館で常設展示されています。(↑画像加工で所有者のお名前を伏せました。)●【新聞記事】(河北新報紙面。ちなみに隣の漫画はヒラリ君。Yさん所蔵)ゆく夏のロマン”宇宙の使者”/いん石二個(アメ玉大)落下/一つはパジャマの上に/宮城・富谷仙台近郊の住宅団地に22日午後、アメ玉大のいん石二個が落下した。一戸は民家の物置のトタン屋根に大きな音を立てて落下、もう一個は縁側に置いてあった女児のかわいらしいパジャマの上に音もなく軟着陸した。23日、現地で確認した国立科学博物館の村山定男理化学部長は「いん石が見つかるのは世界で毎年十例前後とまれな上、住宅地にたて続けに二個も落下したのは極めて珍しい」と驚いている。 いん石が落下したのは、宮城県富谷町富ヶ丘三丁目(おだずま注:記事には番地まで記載あるが省略)、会社員Aさん(注:記事には実名と年齢あるも伏せます)の縁側と隣のYさん(注:同前)の物置屋根。発見者の浅野さんの妻Bさん(注:同前)の話だと、22日午後1時35分ごろ、隣のYさん方で「物干しざおが落ちるような」物音がして十数秒たった後、縁側に足の親指ほどの円形の石が落ちてきた。生臭いような異様なにおいがしたので、Bさんはびっくり。夫のAさんが23日朝、仙台市天文台に知らせた。 同市天文台はいん石の専門家である村山部長に連絡。同日午後駆けつけた村山部長が二つの石を鑑定、いん石と断定した。 大きさは、一つは3センチ×2.8センチ×1.7センチ(重さ19.2グラム)。もう一つは2.3センチ×2センチ×1.5センチ(8.3グラム)。いずれも色は黒っぽく、一部灰色の部分が残っていた。黒っぽく見えるのは落下の際、空気との摩擦によって焼けたもので、本来の色はわずかに残っている灰色だという。 村山部長の話によると、落下したいん石が実際に発見されるのは、毎年、世界で十例ほど。国内では昭和十三年の岐阜県、三十三年の埼玉県、今年六月三十日の青森市松森に続き、昭和に入ってからわずか四例目。特に青森市に落ちてから二カ月もたたないうちに、同じ東北地方で発見されたことは「こんなことがあり得るのだろうか」(同部長)と驚くほど珍しい現象。しかも、今回の発見された二個はいずれも「宇宙にあった時と同じ状態のきれいなまま」(同)見つかっている上、落下後二十数時間という短時間の間に専門家の手に渡っていることから、四十六億年前にさかのぼるといわれる太陽系の生成過程を知る貴重な手掛かりになる。 東北ではこれまでに青森の一例のほか、秋田、岩手各一例、山形三例の計六例のいん石が確認されている。 命名は確認された地名をかぶせるのが通常で、今年青森市に落下したものは「青森いん石」と呼ばれていることから、今回の例は「富谷いん石」と命名されそう。 Bさんの話 / 異様な音に生後三カ月になる双子の姉妹が、目を覚まし泣き出してしまいましたので、落下の瞬間ははっきり覚えています。その直後に今後は縁側でしょう。本当にびっくりしました。(中略)落ちた黒っぽい石ころは子どもが外から投げたものと思いました。でも拾ってみると、冷たくて生臭いにおいがしたので普通の石ではないと気づきました。 いん石とは / (略)写真(落下した隕石(上)といん石が落下した縁側の前で、国立科学博物館の村山定男理化学部長に「所有権はあなたのものですよと」と言われ、ニッコリする発見者のBさん(宮城県富谷町で)(おだずま注:写真では、縁側の前でBさんが小さな子を抱いています。)(↑このパジャマが受け止めてくれた。何とも天文学的偶然。しかもど真ん中です。)●【パネル】富谷を騒がせた富谷隕石とは? 1984年(昭和59年)8月22日午後1時35分に富谷市富ヶ丘三丁目に、石のようなものが前ぶれもなく落下した。その石は、国立科学博物館の村山定男理化学部長が鑑定した結果、隕石であると断定された。 そもそも隕石とは、宇宙の惑星間空間に存在する固体物質が地球の表面まで落下してきたものである。そして、隕石は大きく3つに分類することができる。鉄隕石(略)、石鉄隕石(略)、石質隕石(略)富谷隕石はこの石質隕石にあたるものである。 宇宙から飛来する隕石は、通常は発見から分析・鑑定が行われるのに間に(ママ)時間がかかり、いつどのような形で落下したのか具体的に詳細が分かる物は、数少ない。また、落下して地球の大気に触れることで、分析・鑑定を難しくしてしまう。 そんな中、富谷隕石は、宇宙にあったときと同じ状態のきれいなままで発見され、落下後20数時間で専門家の手に渡ったことなどから、太陽系の生成過程を知る資料として、貴重な資料となった。●雑誌記事(おだずま注:出典記録忘れました。村山定男理化学部長の執筆のようです。)富谷隕石 8月22日11時ごろ、今度は(おだずま注:直前が青森の話題)仙台市天文台の小石川正弘さんから電話があり、隕石が落ちたようだというので、午後の新幹線にとびのって仙台へ向かいました。仙台市天文台の机の上には小さな隕石が二つおいてありました。思わず「こんなことあっていいの?」と大きな声を出し、小坂台長に笑われてしまいました。 天文台の小石川さん、千田さん、それに郡山からかけつけた藤井さん、岡田さんらと現地に向かいました。隕石が落ちたのは仙台市天文台から北へ10kmほどの黒川郡富谷町の富ヶ丘ニュータウンにあるAさん(おだずま注:実名を伏せます)のお宅です。大勢の報道陣のなかで奥さんから話を聞きました。8月22日13時35分ごろ、奥さんが庭に面した部屋で4歳のお嬢さんにカゼ薬を飲ませていたところ、バシッと竹ざおが落ちるようなはげしい音がしたので驚いて外を見ると、まもなく今度はぬれ縁の上に干してあった洗濯物の上に、黒い石がサッと落ちてきたのだそうです。拾い上げるとなま臭いにおいがしたそうですが熱くはなく、むしろつめたかったそうです。 外にいた隣の奥さんとなんだろうとあたりを見まわすと、ななめ隣の家の物置のトタン屋根にもう一つ黒い小石がのっていました。小石川さんたちの調査では、もう1軒隣りのプレハブ物置の屋根にキズがあり、これに当たってバウンドして隣りのこの物置の屋根の上にのったらしいことがわかりました。この時の音が初めに聞こえたのでしょう。 物置に当たった方の重さが8.3g、ぬれ縁に落ちたのが19.2gと、今まで日本に落ちたものでは最小ですが、全面に黒い溶融皮膜をかぶっているものの、明らかに大気中でいくつにも割れた破片の特徴をそなえているので、ほかにもかなり落ちていると思われます。しかし落下前の爆音も火球も見えなかったようなので、隕石の規模は小さかったと思われます。当日は台風10号が日本海を北上中で、空は曇って南風が強く吹いていました。 とにかく青森隕石は落下後2昼夜、富谷隕石は1昼夜あまりという新鮮な隕石を入手しました。いずれも泥もつかず水にもぬれていないので、もちろんサビなどはまったくありません。青森の破片などはあまりにもきれいなので、最初手にしたとき、どんな種類の隕石か一瞬とまどうほどでした。青森隕石は鉄の量の少ないグループ(シソ輝石球粒隕石)、富谷隕石は鉄分の多いグループの(古銅輝石球粒隕石)でした。 隕石には宇宙空間で宇宙線に照射されてできた原子核がいろいろ含まれていますが、半減期の短い放射性原子核は、落下後なるべく早くしらべなければなりません。今回の二つは日本での新記録で、目下研究中です。 同じ東北地方に2カ月たらずの間に、相ついで落ちたのは、本当に珍しいことです。写真 / 富谷隕石の落ちたAさん宅(左)、こんなふうに拾ったの・・・・・・と語るA夫人●星の手帖vol.26(1984年秋号)日本一ちっちゃな隕石落下/富谷隕石 去る6月30日午後1時50分ごろ、青森市松森の人家に隕石が落下したばかりというのに、わずか2か月もたたない8月22日に、こんどは宮城県富谷町の住宅団地内に2個の小さな隕石が落下、拾得されるという”事件”が起こった。青森市に落下したのが昭和33年埼玉県に落下したものから26年ぶりだったから、これはもう連続隕石落下事件といっていいほどのもの。「まさか」といいながらも相つぐ隕石落下に隕石関係者は口をあんぐりしたり、ほくそ笑んだり・・・。 写真(文字通り降ってわいたような”大事件”に団地内はウワサでもちきり、おおぜいの住人が事件現場にかけつけ、他にも黒い石がないかとあちこちさがしまわる姿が見うけられた。) 写真(隕石を見つけたBさん(左端)から落下の事情を聞く村山定男先生。拾われたからわずか26時間後。これほど早く専門家の手にわたった隕石の例はない。) 写真(住宅のぬれ縁にビシッというするどい物音をたてて落下した。周囲の事情から隕石は南東の方向から飛来したらしい。) 写真(「赤ちゃんの世話をしていたら、なにかが落ちてきた音がして、こうやってひろいあげました・・・・・・」。隕石の大きい方は縁側になった女児用パジャマの上に見事ソフトランディング。落下時の音のするどさに赤ちゃんもビクリと反応したとか。) 写真(隕石はこうして落ちたが、もし別の場所だったら発見されたかどうかわからない。)(↑民俗ギャラリーでいただきました。)■関連する過去の記事 神岡隕石を持つ人(2013年2月28日) 巨大隕石と東北(2013年2月16日) 気仙隕石(2010年2月15日)
2023.08.20
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前回の記事(下記)で、陸奥国川内(青森県むつ市)出身で、ロシアで種痘を学び本邦に導入した中川五郎治に触れた。関心を持ったので、五郎治について調べてみた。(下記文献、下記のサイト、などから。)■関連する過去の記事 感染症と人類の歴史(2023年08月15日)■参考とした文献 茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』2023年、KADOKAWA■松前町サイトの説明■函館市文化・スポーツ振興財団の説明■アイソトープ・ニュース723号(医療史跡)五郎治と久蔵■松木明知「本邦牛痘種痘法の鼻祖中川五郎治研究の歩み(上)」(日本医史学雑誌)中川五郎治(1768-1848)は、日本の種痘の祖とされる。陸奥国川内村(現むつ市)に生まれ、松前の商家に奉公の後、択捉島内で事業に携わる。択捉島のアイヌ人は松前藩に帰順しており、五郎治もアイヌ人の娘と結婚している。(五郎治の人物伝 =函館市文化・スポーツ振興財団サイトから)明和5年、陸奥国下北郡川内村(現・青森県川内町)で、小針屋佐助の子として生まれる。若い頃から蝦夷地に渡り、松前で商家に奉公し、寛政11年松前の豪商栖原庄兵衛の世話により漁場の”稼ぎ方“としてエトロフ島に渡る。働き手だった五郎治はやがて番人から番人小頭になる。文化4年、ロシア人・フボストフは船2隻を将いてエトロフ島を襲撃、番屋を荒らし、物資を奪い、番人らを捕えてシベリアに連行、その中に40歳になった五郎治もいた。シベリアの抑留生活は5年にもおよんだ。この間、逃げ出したり、捕えられたり、仲間に死に別れたりしたが、9年、突然、松前へ送還されることになる。というのは、フボストフらの暴行後、警備を固くしていた幕府の役人が、千島方面を測量に来たロシアの艦長ゴローニンを捕えて、松前に抑留した事件があり、その釈放を求めて日本に行く副艦長リコルドが、漂流民を連れて行くことになり、その中に五郎治が加えられることになったからである。イルクーツクを出発してヤコウツクに向う途中、商人の家に一泊した。その時、書棚に飾られていた本の中に種痘書を見つけ、興味を引かれるままその本を貰いうけた。5年の抑留生活でロシア語が読めるようになっていた五郎治は、この本で種痘が恐ろしい天然痘を予防することを知る。その時、幕命で松前に来ていた幕府の訳官馬場佐十郎がこの種痘書を見て驚き、早速翻訳して文政3年「遁花秘訣」(とんかひけつ)と題し、わが国最初の種痘書となった。30年後の嘉永3年には、利光仙庵の手で更に翻訳し「魯西亜牛痘全書」(ろしあぎゅうとうぜんしょ)と改題して出版された。五郎治は後に足軽となり、松前や箱館に勤務したが、文政7年天然痘が流行すると実際に種痘術を行ったのを始め、更に天保6年、12年など2度にわたって実施して多くの人々を救った。五郎治の実施した方法は天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘苗を男子は左腕に、女子は右腕に、それぞれ一箇所ずつ植えたといわれる。松前、箱館の土民は五郎治の施術を受けて難病を免れ得たものが多かった。五郎治はこの方法を箱館の医師白鳥雄蔵、高木啓策、松前藩医櫻井小膳等に伝え、白鳥雄蔵は秋田にいたりこれを藩医に授けたといわれる。弘化5年9月27日、わが国種痘術の創始者・中川五郎治は福山において数奇な一生を終えた。享年81歳であった。明治18(1885)年、72歳になる田中イクという老婆が11歳の時、五郎治に種痘してもらったという。逆算すると文政7(1824)年にあたり、五郎治がシベリアから帰されてから12年後になる。五郎治が種痘を施した最初を文政7年としても、長崎でオランダ医師モーニックが、始めて種痘に成功した弘化6(1849)年に先だつこと実に25年も前ということになる。(ゴローウニン事件について=松前町サイトから)幕府が松前藩を梁川に移し北方警備を強化している中、文化八年(1811年)千島列島などの測量を命ぜられたロシア軍艦ディアナ号が国後島沖にやって来ました。国後に上陸したゴローウニンら八人はたちまち捕らえられ、船に残った副艦長リコルドは南部藩と砲撃戦を行いましたが、オホーツクへ引き返しました。ゴローウニンらは松前に連行され、取り調べを受け、捕虜として抑留されることになりました。翌年には脱走を試みますが、失敗に終わり再びとらわれの身になっています。この文化十年八月にリコルドは、中川五郎治や6名の漂流民とともに国後に来て、ゴローウニンの釈放について交渉しましたが許されませんでした。たまたまそこへ高田屋嘉兵衛の観世丸が現れ、嘉兵衛と4名の水夫を伴ってカムチャッカに帰港し、ゴローウニンらとの交換を申し入れました。翌文化九年九月リコルド副艦長の指揮するディアナ号は箱館に入港し、ついにゴローウニンらは高田屋嘉兵衛と交換、釈放されました。この後しばらくの間、北方は平穏になりました。(中川五郎治の功績=同上)天然痘は古くから有効な治療法が見つからず、死亡率が高く非常に恐れられていた病気でした。その予防法である「種痘」を、ロシアから伝えたのが中川五郎治(1768~1848)でした。五郎治は南部藩領下北半島川内村の出身ですが、いつ蝦夷地に渡ったのかは分かっていません。やがて彼は、栖原屋庄兵衛の雇いになり択捉島の漁場で働いていましたが、ロシア船が襲撃してきたときにアイヌ語を覚えていたため、シベリアに連行され6年間のロシア生活を送りました。文化九年(1812)、五郎治が45歳の時「種痘書」を入手し医師について種痘方法を学びました。五郎治の最初の種痘手術を受けたのは、函館大町の商人田中正右衛門の母田中イクで、十一歳の時(文政七年 1824)だと言われています。五郎治の晩年の記録は明らかではありませんが、彼を通して渡ってきた種痘法はその弟子たちによって伝承されていきました。不治の病として恐れられた天然痘を治す種痘法は、当時の微妙な日本とロシアの国際関係がもたらした歴史的偶然の所産であったといえるかもしれません。当時の蝦夷地は、和人が持ち込んだ天然痘が猛威をふるっており、アイヌ人が山に逃げてしまい、開発のための労働力が不足していた。開発促進のためにも種痘が必要だった。五郎治の日本初の種痘接種とその効果を確かめた松前藩は、アイヌ人に対する集団種痘を実施し、流行を収束させることができた。松前公園には、没後150年の1998年函館市で日本医史学会が開催された際に建立された中川五郎治の顕彰碑がある。また、函館市の高龍寺に墓があるという。なお、松木氏(上掲論文)によると、名は「五郎次」の表記が正しい。■関連する過去の記事(旧川内町) 傘松(むつ市旧川内町)(2013年6月26日) 第一田名部小学校、第一川内小学校、第一田名部街道踏切(2013年7月5日)
2023.08.16
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記事の最後に記した文献に基づくお勉強により、感染症の歴史との関わりを。(構成と要約は当ジャーナル)1.病原体との共存●狩猟採集生活から農耕牧畜生活へ。人口が増えて定住。また、人手必要で人口集中。家畜飼養で動物との接触。 →エピデミック(流行)が発生。●通常は、特定地域のエンデミック(風土病)として出現 →流行繰り返して免疫機能働き収束。●しかし、人の移動が容易になると、エピデミックが出現。 →さらに、世界同時の感染爆発(パンデミック)も。●家畜との共存が進んだユーラシアは古くから免疫獲得。南北に細長いアメリカ大陸は免疫弱く、スペイン人征服者の天然痘持ち込んで被害(ジャレド・ダイヤモンド)2.アテネの病疫(b.c.5世紀)=記録に残る最古のエピデミック●スパルタ軍の侵入を拒んだが、城壁内に入った避難民から衛生状態悪化。3分の1が死亡(トゥキュディデス『戦史』)、指導者ペリクレスも感染死亡、無政府状態(扇動政治家)。スパルタに降伏。3.ローマ帝国の衰退=史上初のパンデミック●AD2世紀のパルティア遠征の帰還兵が持ち込む(アントニヌスの疫病。天然痘か)。●人口減少で経済衰退。五賢帝から軍人皇帝時代に。ゲルマン人の流入(→民族大移動へ)●疫病の不安により、ローマの神々から、新興宗教へ。 ←キリスト教=肉体の死を恐れるな。この世からの解放。●3世紀半ばには、キプリアヌスの疫病(アレクサンドリアで3分の2が死亡)。●ミラノ勅令(313年)でキリスト教迫害を停止4.漢王朝の疫病●2世紀後半の後漢で飢饉と疫病 →黄巾の乱(張角)で、動乱へ。●晋の統一後に(3世紀後半)疫病。洛陽の人口半減。匈奴の流入(永嘉の乱)。●東アジアでは、感染症への不安の解消の役割を担ったのが仏教。仏図澄による布教。漢人の僧釈道安。印度人鳩摩羅什が漢語に翻訳。5.日本最古の疫病=崇神朝の疫病●記紀にあり。崇神即位5年目、人民の半数が死亡。●大神(おおみわ)神社を建てて大物主(国つ神)を祀る。また天照大神を祀る伊勢神宮の起源など。=崇神(第10代)が、疫病を契機に神道を確立。●それに先立つ神武東征神話は、九州から大和への人の移動でないか。晋の疫病とも関係かも。6.東ローマ帝国 ユスティニアヌスの疫病(6世紀)●ナイル川河口から、ペルシアとコンスタンティノープルに流行。ペスト(腺ペスト)。帝国の人口半減。ササン朝ペルシャも疲弊。●インドから交易を介して流入したか(マクニール)。●両大国の中間のアラビア半島からムハンマドが現れ、イスラム国家を建設。(アラブ人は免疫持っていたのかも。)●なお、530年ハレー彗星接近(天変地異の兆し。また、冷夏もたらし飢饉で免疫力低下とも。)7.日本の状況●高句麗南下で百済が日本に救済求める。聖明王が欽明天皇に仏像と仏典を送る(仏教公伝)。→公伝の後に疫病始まった(日本書紀、敏達天皇の記載。天然痘か)。→物部氏(疫病を持ち込んだ仏教を受容せず)と蘇我氏(百済人を受容)の対立。8.エピデミックと政権崩壊(その1) =天平の病疫、長屋王の祟り●藤原四兄弟が権勢確保のため、長屋王に自害を強要=長屋王の政変(729年)●大陸では、半島統一した新羅と唐が対立、また、唐は則天武后の混乱から渤海が建国される。●渤海王が朝貢使節を平城京に送り、これを見た新羅から735年(天平7)に日本への朝貢を廃止の通告に来た新羅使を日本が追い返す。●同じ735年、太宰府管内で豌豆瘡(えんどうそう)が発生(続日本紀)。天然痘だろう。経路は新羅使なのか、遣唐使(734に帰国)なのか。●2年後の737年(天平9)には再び大宰府に「瘡のできる疫病」が流行(続日本紀)。おそらく麻疹(はしか)。前年(736)に、聖武天皇が新羅に派遣した使節が、待遇を受けられず無念の帰国途上の対馬で阿倍継麻呂が病死。都にもひろがり、病死者には舎人親王や藤原四兄弟(←長屋王の祟りとされた)。100-150万人(当時の日本人口の25-35%)が死亡との推計も。●聖武天皇は、減税(調の停止)、国分寺と国分尼寺の建立。その総本山として東大寺と大仏、法華寺。光明皇后の施薬院、悲田院。●なお、天平パンデミックと同時期にアッバース朝で流行。初代カリフが天然痘で死亡(754年)。前年に長安で玄宗皇帝を前に宴会で両国の遣唐使が同席している。9.同前(その2) =早良親王の祟り●仏教勢力の介入を嫌う桓武が藤原種継の進言で長岡京遷都を決定。これに抵抗する興福寺など奈良仏教勢力が、桓武実弟の早良親王を擁立。種継が何者かに射殺され、桓武は早良親王を流罪、早良は断食して憤死(785年)。桓武はさらに北の山背国に平安京建設を命じる(現地豪族の秦氏が協力)。最中に再び豌豆瘡(天然痘)が流行。桓武一族にも広がる。早良の祟りとして、崇道天皇を追号。さらに、平安京を守護する東寺西寺を建設。●(桓武の遷都に関しては下記の記事もご参考に願います。) 優れていた仙台のインフラ条件(2022年3月5日)10.祇園祭とケガレ思想●平安前期(貞観-延喜、859-923、清和-醍醐天皇)は疫病と自然災害(富士大噴火、貞観地震)の激しい時代。●まず、史上初の赤痢の流行(←平安京の排水の悪さか)。次いで、咳逆(しわぶき、日本三大実録)=史上初のインフルエンザ流行か。915年天然痘が流行。●災害と疫病を起こす怨霊を祀る「御霊会」が貞観5年(863)神泉苑で行われる。貞観11年(869)には、祇園(八坂)神社から神輿を出して全国の怨霊を鎮魂する儀式が始まる=祇園祭の起源。●血や死を忌み嫌う風潮が強まる。死穢(死が感染する)の思想から、嵯峨天皇は死刑を停止。死体放置させぬため、検非違使を設置。●菅原道真の失脚(昌泰の変、901年)を仕掛けた藤原時平の急死、醍醐天皇の親王らの死、清涼殿落雷(930)で、北野天満宮。●この時期(8-10世紀)は地球規模の中世温暖期の始まり。また、東アジアの地殻変動が活発な時期=貞観富士大噴火(864年)、貞観地震(869年)、十和田火山噴火(915年)、白頭山大噴火(926年か946年。→前者なら渤海滅亡(926年)を招いたのか)。→これらの火山灰が寒冷化と飢饉を招いたと考えられないか(867年から新羅でも疫病と飢饉、唐では黄巣の乱(875-)。)11.ハンセン病●感染力弱く大量死もないが、顔面や手足の変形が祟りや罪業の報いとみなされ差別や隔離が行われた。●日本では、延喜式(平安中期)で清められるべきケガレとして、白人(しらひと)が該当するとされる。他方で、光明皇后の救済や、忍性(1217-1303)による救済事業。●大谷吉継(秀吉政権の奉行、敦賀城主)が失明(ハンセン病説と梅毒説)。●明治期には、宣教師リデルが熊本に施設を設置。貞明皇后の下賜金で、らい予防協会。●明治40年らい予防法で隔離政策(光田健輔)、共同生活で断種手術も。昭和6年らい予防法改正(無らい県運動=放浪や在宅の患者をなくす)で、昭和15年熊本の本妙寺事件(患者集落に踏み込み施設に強制収容)。実際には収容を拒み放浪する患者も(松本清張「砂の器」)。●1943年特効薬プロミンの有効性が確認される。遺伝病も否定された。●しかし日本政府は隔離政策を続行。らい予防法廃止は平成8年。12.史上最凶の感染症、黒死病(ペスト)●1348年フィレンツェで流行(デカメロン)、ヨーロッパ人口の3分の1死亡=14世紀ペスト世界的流行(このとき港外に船を40日間待機させる→quarantineの語源)●中国(元朝末期)では3分の2が死亡(ペストか)→紅巾の乱で崩壊。●14世紀ペストパンデミックは、中世ヨーロッパの精神世界を一変。カトリック教会の権威失墜、ユダヤ人差別、死や骸骨を扱う絵画(メメント・モリ)、ラテン語から俗語の文学(ボッカチオ、チョーサー)、スコラ哲学から解放→科学革命、宗教革命へ。●ヨーロッパ最後の大流行は1665年ロンドン大ペスト。ロンドンの7分の1死亡。原因不明ながら隔離防護措置は認識された。患者出た家を1か月封鎖(家族外出させず)、経済に打撃、監視人や死体運搬人に日当支払い。翌1666年ロンドン大火(当時シティは木造家屋)でペスト終息。●1894年英領香港で発生、北里柴三郎とイェルサン(仏)がほぼ同時にペスト菌を確認。ネズミ等の体内に寄生し、ノミを媒介して感染。腺ペストが固くなり前身転移して黒紫色になり、さらに肺ペストに至ると数日で致死。感染率高い(飛沫)ので、移動制限が必須。●原生地は、ヒマラヤ山脈の風土病(有力説)=6世紀ユスティニアヌスのペストは、インド貿易船がエジプトへ。1894年香港ペストは、雲南に出兵した中国兵が持ち帰った。14世紀流行は大理国を滅ぼして帰還したモンゴル兵が持ち帰り、ユーラシア内陸交通のグローバリズムが前提条件になったか。13.新大陸と天然痘●ローマ帝国を衰退させ(アントニヌスの疫病)、天平の疫病もたらすが、人類の破滅的災厄は、大航海時代のアメリカ大陸(先住民に免疫なかった)。1492年コロンブスがハイチ来航、1518年同島で天然痘発生、先住民だけが感染し、人口25万人の大半が死亡 →西アフリカから奴隷貿易に。→マラリアなど熱帯性感染症がアメリカ大陸に。●コルテスが1519年メキシコ上陸、1521年アステカ王国(推定25万人)を滅亡させる。この間、天然痘がアステカを襲っていた。●1531年ピサロがペルー上陸、インカ帝国(推定人口600-800万人)の首都クスコに入城(1533年)する ←インカに天然痘が蔓延(スペイン人は被害受けず)。さらに欧入植者(麻疹など)とアフリカ奴隷(マラリアなど)が疫病持ちこむ。 →カトリックに改宗すすむ。●北米は小さな部族集団が分立。17世紀英仏が入植。天然痘が広がる。14.天然痘との戦い(免疫獲得)●天然痘はユーラシア大陸でも小規模な流行を繰り返し、人痘(微量感染で免疫)の接種が中国やオスマントルコで行われた。→自然状態の致死率30%(ペストに匹敵)が2-3%に。ヨーロッパでは人痘接種は忌避されたが、スチュアート朝(アン女王)に続くハノーヴァー朝(1714年)ジョージ1世の家族が天然痘に。モンタギュー夫人が人痘を広める。●安全性が懸念だったが、町医者ジェンナーが牛痘から安全な種痘法を開発。英政府が1840年公認(人痘接種を禁じる)。スペイン国王カルロス4世も採用、植民地中南米の人口減少にも歯止めに。●日本では承応2年(1653)、明から人痘が伝わるが普及せず。牛痘が英国の20年後に伝わる。ルートは2つ。(1)(蝦夷地経由)陸奥国の廻船問屋五郎治が択捉島に上陸したロシア兵に捕縛され、ロシアでジェンナー種痘法を習い、1812年(文化9)蝦夷地に戻る。和人が持ち込んでアイヌ人に天然痘が広がっていたが、日本初の種痘実施で効果。(2)嘉永1年(1848)長崎オランダ商館の独人医師モーニッケが佐賀藩主鍋島直正の依頼で牛痘接種に成功(←牛少ないので発症した子からワクチンをつくる方法)。緒方洪庵(大坂)などが広める。安政5年(1858)幕府が公認、神田お玉ヶ池(岩本町)に私営種痘所(のち幕府直轄の西洋医学所)。●慶応2年12月(1867年1月)攘夷派の孝明天皇(宮中で西洋医学禁じた)が急死。天然痘か。維新後、新政府も種痘を制度化(3度の義務化)。→明治42年種痘法。●昭和31年以降は日本国内で発生なし。なお、昭和49年度生まれまで、右肩に種痘受けている(昭和50年接種停止)。●1980年WHOは天然痘の世界根絶宣言。1984年米ソ各1か所で天然痘株の冷凍保存を合意。15.産業革命による新たな感染症(その1)=結核●産業革命により、農業に代わり都市部の工場雇用で人口の大移動。上下水道インフラ間に合わず、生活環境と労働環境が劣悪に。 →結核とコレラが蔓延する。●結核菌は、らい菌(ハンセン病)と近縁で、飛沫・空気感染で肺に定着。感染から発病に1-2年を要し、(家族間発症が多いことから)遺伝病と疑われ、差別も。顔色が青白くなる(白いペスト)。放置すると血痰や喀血、重症化すると結核性髄膜炎や脊椎カリエスに移行し、後遺症。正岡子規、樋口一葉、石川啄木、梶井基次郎、堀辰雄。●紀元前3千年の中国長江流域の広富林遺跡(上海市)、紀元前1千年のエジプト遺跡のミイラ、弥生後期の青谷上寺地遺跡(鳥取市)人骨などから脊椎カリエス痕が確認される。縄文人骨にはないことから、長江流域の弥生人渡来で、結核菌が列島に上陸したか。●清少納言「枕草子」で病の筆頭に(胸)。●14世以降ヨーロッパでの流行で集団免疫でき、近縁のハンセン病も激減したの説も。●産業革命以降に猛威。←大気汚染の影響(結核菌は紫外線に弱い)。日当たりと換気が悪いと感染広まる。日本でも明治期「国民病」に。●1921年仏でBCGワクチン(カルメットとゲラン)、1944年米で特効薬ストレプトマイシン(ワクスマンら)が開発。サナトリウム隔離収容(不治の病)から脱する。16.産業革命による新たな感染症(その2)=コレラ●コレラは、経口感染が特徴。←→ 飛沫・空気感染(ペスト、天然痘、麻疹)。飲食物が消化器官に達するのだが、大半のコレラ菌は胃液で死滅。クリアして小腸下部で増殖すると、下痢嘔吐。患者の排泄物吐瀉物が、手に触れ飲食物に混入して感染拡大に。●コレラ菌が腸管からナトリウム吸収を阻害するため、急激な脱水症状と低カリウム血症。重症化すると水下痢が止まらず数時間でチアノーゼ(血中酸素濃度減少)や血圧低下、痙攣や昏睡で死に至る。死亡率高いため、日本ではコロリとも。●もともとベンガル地方(バングラデシュ)風土病で、巡礼者によりインド各地に運ばれエピデミック。英の植民地支配で、19世紀に世界規模パンデミックに。1817年英領ベンガルで発生のコレラが、シンガポール、清朝広東港に上陸して感染拡大に。文政5年(1822)長崎に入港した清国船がもたらし(朝鮮経由説も)、西日本で猛威。1831年メッカで蔓延し、イスラム教巡礼者が世界に拡大。ギリシャ(オスマン帝国と独立戦争)、ロシア(ギリシャに援軍)、ドイツや北欧(バルト海交易)にも拡大。ベルリン大学のヘーゲルも落命(1831年)。英にも上陸し5万人死亡。1830年代には英領アイルランドの移民から米にもたらされ、西部開拓とともに天然痘やインフルエンザとともに、コレラも拡大し先住民の人口を激減。●医学界の論争。原因は、瘴気(汚染された空気)か(ヒポクラテス以来)、有害な微生物(細菌)か(19世紀新説)。←患者と直接接触なくとも爆発的に広まるので、瘴気説も優勢。→1854年ロンドンのコレラは1か月で616人が死亡。スノウ(疫学の父)は瘴気説を疑い、感染経路を徹底調査し、共同ポンプ井戸が感染源と特定。ポンプ付近で肥溜めの汚水が地中に漏出していた。→チャドウィック(公衆衛生の父)が上下水道の完全分離を働きかけ。→しかし原因物質は特定できず。センメルヴェィス(ハンガリー)がウィーン総合病院で、死体解剖に従事した研修医に助産立ち合い前の手洗いを徹底することで、妊婦死亡率を激減させる。また、外科医リスター(英、口腔消毒薬リステリンの名の由来)がフェノール(石炭酸)による消毒法で化膿を防止。→さらに顕微鏡の実用化で、パスツール(仏)が微生物の自然発生説を否定。→コッホ(独)は、炭疽菌(1876年)、結核菌(1882年)に次いで、コレラ菌発見に成功(1883年)。また、抗体の有無を確かめる試薬ツベルクリンを開発。→北里柴三郎(コッホ研究所で破傷風菌の抗血清を開発)が帰国後の明治25年、伝染病研究所と結核専門病院(土筆ヶ岡養生園)を設立。明治27年にはペスト発生した英領香港にわたり、ペスト菌を発見した。(1週間後にイェルサン(仏)も発見)●日本では、安政5年(1858)ミシシッピ号が下田に来航、乗員にコレラ感染者あり広がる。江戸(100万都市)で10-30万人が犠牲。狐狼狸(ころり)、虎狼痢(ころり)、箇労痢(ころり)などとも。開港後はコレラのエピデミックが外国人排斥に拍車。明治10年、マカオから長崎に入港の船でコレラ発生、九州に広がる。西南戦争鎮圧に徴兵され罹患して日本各地に帰還して、コレラ死者は10万人以上に。患者の隔離や移送をめぐり官憲と衝突するコレラ騒動が各地で発生(衛生問題が治安問題に)。●明治6年、内務省が発足。初代内務卿大久保利通は、衛生行政を文部省から移管して衛生局(内局)を設置。初代衛生局長は長与専斎。(後に、後藤新平、北里柴三郎も。)●明治19年、衛生局通達でコレラ予防のため石灰酸の消毒、患者の回復や死亡の後10日間出勤や登校を禁じた。日清戦争の帰還兵が遼東半島からコレラやチフスを広島(大陸派遣軍大本営)に持ち帰る。→似島に大規模な検疫所(石黒忠悳、後藤新平)。コレラとチフスの拡大抑止に成功。→日清戦争の経験から、防疫課設置、伝染病予防法(明治30年)。日露戦争で戦病死者を減少。17.インフルエンザ●19世紀後半から、顕微鏡により主要な感染症の病原体(細菌)が発見された。しかし、天然痘(種痘法確立したが)、狂犬病、小児麻痺(ポリオ)、黄熱、インフルエンザ、風邪の病原体は発見できず。●アフリカ植民地化の最大の障壁は、マラリアと黄熱。野口英世(黄熱で死亡)は、黄熱の病原体が細菌より微細で発見できず。1892年、ベイエリンク(蘭)は、細菌(単細胞生物)よりはるかに微細のウイルスを発見。ウイルスの構造がわかるのは1960年代。●ウイルスはDNAウイルスとRNAウイルスに分類される。(←→生物は細胞内にDNAとRNAの二種類がある。)●DNAウイルス =遺伝情報安定で制圧が容易。→天然痘(種痘法で撲滅)など●RNAウイルス =DNAコピーの際にエラー起こし変異しやすい。→インフルエンザ(毎年流行)、新型コロナなど。風邪症候群の3-5割はライノウイルスで、免疫力で自然治癒する。インフルエンザは感染力が強く、史上最悪がスペイン風邪のパンデミック(1918-19)で、感染約5億人、死者0.4-1億人。原因は第一次大戦での米陸軍基地から感染者を欧州戦線に派兵。●スペイン風邪は、横浜や神戸の商船から日本にも上陸。竹田宮恒久王、島村抱月、辰野金吾などが犠牲。マスクの習慣も始まる。■参考とした文献 茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』2023年、KADOKAWA■関連する過去の記事(仙台・宮城と感染症) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■(参考)関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■(参考)関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.08.15
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南蔵王の高原をわたる県道の傍にある。1945年3月10日未明に米軍B29爆撃機3機が不忘山に墜落し、米兵34人が落命。山頂から300メートルほど下ったところに、1961年に碑が立てれらた(不忘会建立と刻まれている)。その石碑を抱く不忘山を遠望できるこの地に、石碑の刻文を紹介しながら「不忘の碑」として1982年(昭和57)に作られたようだ。この広場の北の方には、開拓の記念碑がある。路傍のバス停の脇の石からは、清水が噴出しているのが、不思議だ。また、碑のある開けた広場の南側には、水分神社がある。そもそもこの広場が神社の境内なのかも知れない。また、この県道を南下した七ケ宿町の長老湖ちかくには、不忘平和記念公園がつくられ、不忘の碑(レプリカ)、世界平和の祈念碑が、2015年8月2日に除幕された。■関連する過去の記事(不忘の碑) 昭和20年不忘山にB29が墜落(2015年8月4日) 船岡と海軍火薬廠の歴史(その1)(2011年10月13日) 宮城県内の戦災はどうだったのか(06年8月2日) 藤井前市長の話(06年7月13日)(空襲の話)■関連する過去の記事(白石、蔵王など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) 白石の横丁を考える(2013年4月3日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 白石城の来場者が激増(09年3月12日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 蔵王の紅葉(07年10月15日) 蔵王三階の滝(07年10月14日) 白石の芝桜(07年5月14日) 白石湯沢温泉「やくせん」(07年5月13日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)
2023.08.11
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今日の仙台も猛暑だ。35度を下まわると穏やかに感じるほど異変の夏だ。そんな昼下がり、水の森の丘に佇む、明治15年コレラ流行の死者をまつる塚を訪れてきた。■関連する過去の記事 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日)(そのほかの関連記事は最後にまとめて記しています。)はじめて、水の森市民センターにお邪魔する。プールや児童館も併設され、夏休みの子どもたちも来ているようだ。明治のコレラや碑について、ホールに何も解説などはなかった。この市民センターは水の森公園のちょうど南端に位置する(昭和の頃はスケートリンクがあったと思う)。館を出て市道沿いの敷地の南角が、広い公園全体の南端であり、公園内の長い園路の出発点がある。車止めがされ、林の中に進んでいく散策路なのだが、そもそも古くは秀衡街道(別名を古街道、義経街道)と呼ばれ、伊達政宗公が七北田を通る新街道と七北田宿を整備するまでは重要な街道だった。江戸時代は新街道の大名行列を避けるため、そして戦前は難を逃れるため、戦後は買い出しや病院通いのため、人々は秀衡街道を往来した。(仙台市サイトの解説)(秀衡街道に関する当ジャーナルの過去記事は、最後に整理しています。)そんな秀衡街道だが、この辺は明治の頃は相当寂しく暗い峠だったろう。下の地図の赤い印の場所が、叢塚の場所だ。さっそく、散策路を進んでいく。阿曽沼先生の言うとおり(上記の前回記事です)、150歩ほど北進すると左手に叢塚が現れた。碑文は三面にわたって刻まれている(写真は一面のみ)。解読文は前回記事のとおりだが、目にすると、仙台に現実に起きた災禍の重みと、碑を建てて後世に伝えた意気に押される。(↑左が市民センター。市道から入っていく散策路の入口。往時の秀衡街道だ)(↑碑の左面の刻文)さらに緩やかに上り坂を進んでいくと、すぐに三叉路に出る。なお、東西の二本に分かれる散策路は、三共堤の外周をまわり、北のキャンプ場で合流するのだ。東(北に向かって右)に延びる園路が秀衡街道だろう。この三叉路の山側(北)斜面に、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」(コレラ塔)がある。276人の供養碑だ。吉岡方面からやってきて秀衡街道を仙台に向かう人は、この峠を経て、現在の荒巻小学校の方向へ降りて行ったのだろう。コレラ供養塔のある三叉路からは、住宅が密集する東勝山の風景を見下ろせる。秀衡街道を引き返して、市道から公園の散策路に入る地点に戻る。(↑秀衡街道が荒巻方面に下っていく。尾根沿いの山道だったろうが、今では陸橋だ)(↑同じ陸橋部分を、散策路入口地点から。市内中心部のドコモビルが見える)(↑公園散策路入口地点から、西側住宅地を望む。桜ヶ丘や中山か)(↑北に向かう市道は坂道を下っていく。右側が市民センター)(↑水の森市民センター。右側の園庭の奥の法面の上が散策路だ)■関連する過去の記事(仙台・宮城と感染症) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(秀衡街道などに関して) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■(参考)関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■(参考)関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.08.03
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敬愛する同郷の大先輩がみずから走査してまとめられた、古道と歴史に関する資料をいただいた。気仙沼街道は、気仙沼市新町から千厩を通り一関市花泉町金沢までの約42kmで、当時は千厩から一関に向かうには北上川を越えなければならず、川崎村の蛇行した浅瀬を使って弥栄を越えていたものとみられる。金沢宿に近い清水原はキリシタンが住んでいたとの記録がヨーロッパで見つかった。宮城県北部の涌谷や米川は藤原文化から伊達政宗の仙台領となり、九州から移住のキリシタンが活動し、地元の砂鉄や鉄鉱石と木炭で還元する「たたら製鉄」で栄え、蘭学等の草分けとして、ヨーロッパのトップクラスの文化と技術がこの地域に伝えられたと推測される。すなわち、金沢宿付近は、まさに伊達政宗が憧れた平泉文化の入口として構築された地域だった。主要な街道として使わていた当時、金沢宿から出発すると、最初の難関である長い上り坂に、前鹿野一里塚がある。春には雪をいただく須川岳が遠望できる。気仙沼方面からやってきた旅人は、金沢宿を一望し、石巻街道との合流地点を眺めて確認し、安堵して坂道を降りて行ったであろう。■関連する過去の記事 気仙沼街道(金沢-薄衣)のルート(2011年10月22日) 平泉繁栄の理由 北上山地の砂金(2023年02月19日) 平泉への道(06年1月11日) またまた「東北の街道を行く」(05年10月14日) 再び地図上で東北の「街道を行く」、各県の地図ランキング発表!(05年10月12日) 地図上で東北の「街道を行く」(05年10月10日)
2023.08.02
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7月21日、無着成恭さんが96歳で亡くなられたとの報道があった。いくつかの記事によると氏の経歴は以下だ。1927年本沢村(現山形市)生まれ。山形師範学校を卒業し、1948年山元村(現上山市)の山元中学校で「生活つづり方運動」に取り組む。51年、文集をまとめた「やまびこ学校」を出版し映画化もされる。53年駒澤大学を卒業し、明星学園に入り後に教頭。64年からラジオ「全国こども電話相談室」を30年間。教員を引退後は僧侶となり、大分県、千葉県で住職を務める。河北新報には(7月26日)、2000年秋に千葉県の福泉寺に無着さんを訪ねたという評伝の記事があった(生活文化部加藤健一)。個性の強いという先入観をもって対面したが、静かで穏やかな笑顔で接してくれたという記者のリード文があるが、いい記事だと思った。(記事から無着氏のことば) 子どもたちに自分の本音を書かせて真実を客体化してあげたに過ぎない。修学旅行に行けない貧しい子どもたちのために、やまびこ学校のクラス全員で杉皮を背負って金を稼いだが、そんなことができる時代の方がずっと幸せだ。自己中心を戒め、いつも自分の心を見据えながら生きることだ。昭和のその当時は、体制から解放された生徒中心の斬新で先進的な教育方法などと評価されたのだと思うが、現在の教育事情や家庭の問題などを考えると、子ども中心の本来の姿に立ち戻れと諭されているように思う。大人の押し付けた「幸福」や行き過ぎたパターナリズムを排して、裸の人間として子供たちをとらえよう。伸ばそう、と。私の小学校の頃の職員室には、「やまびこ学校」や「つづりかた兄弟」なる書物があった。半世紀も前の田舎では、今のような学力や個人情報など気にせず、おおらかに先生たちもやっていただろうと思う面も正直あるが、いや、先生たちも子どもの教育に全力で真剣だったのだ。これは偏狭な私見かもしれないが、教育や子育てをめぐって、本当に大事なことを置いてきぼりにしていないか、という気がする。山元中学校は2009年に役割を終え、地区公民館として、その敷地内にはやまびこ学校の記念碑が残るという。ぜひ、訪ねてみたい。■関連する過去の記事 ノンちゃん牧場のいま(2016年6月4日) 教育三県に数えられる山形県(10年3月11日)
2023.08.01
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