全7件 (7件中 1-7件目)
1
新型コロナでマスク着用の緩和(3月13日)が行われたが、その後も外出時に常にマスク着用という人が6割にのぼる。そして、都道府県別では、広島県が72%と割合が最高だ。これは、第一三共ヘルスケアのネットによるアンケート調査(資料資料)。3月17日から19日に実施。全国で4,700人が回答。概要はこうだ。・マスク着用ルール緩和後も、61.6%は外出時に常にマスクを着用・理由で最も多いのは「感染が不安」(52.1%)で、「慣れてしまった」45.9%、「花粉症などアレルギー対策」40.6%、「周りの目が気になる」28.7%などと続く。・なお、女性では「素顔見られたくない」(26.3)、「メイクが面倒」(26.6)も。・着用率が最も高い都道府県は、広島県。最低は奈良県。 1位広島県(72.0%) 2位岐阜県(70.1) 3位愛知県(69.9) 45位佐賀県(60.3) 46位福岡県(60.1) 47位奈良県(56.4)・緩和後の変化では、「外すことが増えた」は20.8%にとどまり、「変わらない」が70.8%と多い。都道府県別で「外すことが増えた」や「常に外すようになった」の回答率が最も高いのは沖縄県。 1位沖縄県(32.0%) 2位佐賀県(31.0) 3位大阪府(29.0) 43位群馬県・島根県(15.0) 45位秋田県・岡山県(13.0) 47位広島県(11.0)・依然、感染対策(手指消毒、手洗いうがいなど)を実施しているのは鳥取県。「変わらない」や「頻度が(やや)多くなった」の回答が88.0%である。 1位鳥取県(88.0) 2位神奈川県(87.0) 3位広島県・島根県(86.0) 41位石川県・三重県(72.0) 43位宮城県・大阪府・岐阜県・千葉県(71.0) 47位福井県(66.0)マスク着用行動は、感染症だけでなく、周りの目など社会的な要因もあろうから、複合的に考えるべきなのだろう。もう慣れた、メイクが面倒、なども面白い。もし、マスクを外させる政策を考えるなら、各要因の寄与度や相互関係を考えるのだろうか。クロスセクションでどれだけ「地域性」が分析できるのか分からないが、広島が、マスクを着用する人多い、外すように変化した人もいない、感染対策も変わらない、の三拍子そろって「保守的」だと有意に言えるなら、相当に興味深い事象だ。わが東北では、秋田と宮城が「変化した」方で登場だ。
2023.04.27
コメント(0)
近代日本の工業化を担った鉱山の労働者の間で「友子制度」があったそうだ。鉱山跡を探訪する猪木武徳氏の珠玉の歴史紀行を読んでいて、知った。■猪木武徳『地霊を訪ねるーもうひとつの日本近代史』筑摩書房、2023年同書によると、友子制度は次のようなしくみ。・鉱山労働と生活につきものの事故、病気、失業などによる経済的困窮を防ぐ相互扶助の組織・親分・子分の契りを交わす(友子結盃式)・子分は(多くの場合)3年3か月10日の間、親分の家で生活・親分と子分は何事があっても互いを守る掟・万が一掟を破れば全国の鉱山に除名が通報される・この組織は全国ネットワーク・友子は親分の紹介で全国の鉱山で働くことができた・交際金という積立金制度で見舞金等を賄った・親分の死亡では子分たちが共同で墓碑を建て友子の共同墓地に葬った・友子制度は徳川家康「金銀山 定式山例 五十三箇条」が原点とされる・村串仁三郎『日本の鉱夫ー友子制度の歴史』(世界書院)に詳しい猪木氏の本によると、阿仁町の阿仁郷土文化保存伝承館に、友子制度に関する資料が展示されている。また、大仙市協和荒川の大盛館(民俗資料展示館)には友子制度の下で出された自坑夫免状(1931年)が展示されている。鉱夫が新たに友子に加入する際には、盃を交わす取立結盃式が行われ、各人に友子の掟などを記した免状が配られた。友子には、独身で全国の鉱山を渡り歩く「渡り坑夫」と一つの鉱山に定着して妻子を持ち親分の許で働く「自坑夫」がいた。荒川鉱山は自坑夫が中心だった。過酷で危険を伴う鉱山労働における組織的秩序を保ち、他方で労働力の移動や家族の扶養などにも配慮した仕組みが考えられていたのだ。ちょっと飛躍かも知れないが、古代から伝わる日本社会の「しきたり」の知恵と繋がるかもしれない。奇祭や結社などとして残るものもあるが、我々は、古くから現代に至るまで、助け合う社会を形作ってきたのだ。■関連する過去の記事(鉱山関係) 平泉繁栄の理由 北上山地の砂金(2023年02月19日) 大谷鉱山(気仙沼市)(2021年5月4日) 鹿折金山(2021年5月3日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月24日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) 岩手の製鉄と雨宮敬次郎の地域開発(10年2月20日) 白石湯沢温泉「やくせん」(2007年05月13日) 金華山と涌谷を考える(2006年12月17日) 東北の飲泉地(06年7月18日) ハンダの名の由来 桑折町(2010年8月7日)(半田銀山)■関連する過去の記事(奇祭、習俗、結社など。他にも記事リストご覧ください。)(奇祭など) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)(来訪神、結社などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 尻屋の共産部落(2015年2月6日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.04.23
コメント(0)
今朝、新聞を広げて思わずあっと声を上げた。あの双子だ!■関連する過去の記事 a half of twins = a twin ?(09年8月29日)(角田出身の双子が大相撲入入門)河北新報記事(4月16日朝刊とうほく面)。挑発的な見出しとともに、二人の写真が載っている。斉藤ブラザーズ 宮城凱旋 / 角田出身・悪役双子レスラー全日本プロレス 23日、仙台大会「満足させてやるから見に来い」「チョップ100発 つぶす」記事によると、斉藤ジュン(36)とレイ(36)の双子の兄弟。角田市出身で母が日本人、父が米国人。高校から約7年間を米国で過ごし、高校時代はアメフト州大会で優勝。09年から約8年間大相撲出羽海部屋で修行。引退後、20年12月全日本プロレス公開入門テストに揃って合格、2021年後楽園ホールでデビューし、悪役レスラーで人気急上昇。23日の全日本プロレス・チャンピオンカーニバル仙台大会に出場を前に、河北新報を訪問して取材を受けたようだ。ハーフという言葉の使い方が気になって、前回の記事を書いてからもう14年が経っている。おぼろげな記憶だが、ほかの報道で亘理町の出身(親が在住の意味だったかも)とするものがあったと思う。今回の記事ではハーフの語は使っていないが、河北新報オンラインでは、【動画】悪役レスラーは双子でハーフで元力士/「斉藤ブラザーズ」が宮城で凱旋試合となっていた。「双子のハーフ」と書かないのは、私の14年前のブログを河北新報さんが気に留めてくれたからである(はずはない)。それはどうでも良いとして、私もこの動画を見た。斉藤兄弟、大人になったな(昔を知っているわけではないが)!様々な経験を経て、堂々宮城に凱旋だ。がんばれ、ふるさとを大いに盛り上げてほしい。
2023.04.16
コメント(1)
文化庁が昨年始めた地域の食文化の認定制度「100年フード」に、37府県70件が追加認定された。産経新聞記事(4月6日)によると、東北関係では14県28件が選ばれた。・青森県 八戸せんべい汁・岩手県 南部鼻曲がり鮭の新巻鮭・宮城県 ほや雑煮・秋田県 横手やきそば・山形県 笹巻、むきそば、山形芋煮、酒田のラーメン、蔵王温泉ジンギスカン・福島県 山都そば、うにの貝焼、ラジウム玉子■文化庁100年フードのサイト山形の芋煮は、しょうゆ味の村山地方に対して庄内はみそ仕立てと味が異なる。しかし、芋煮のルーツは中山町である。江戸時代県内を南から北に流れる最上川を伝って、内陸部から米、紅花、青苧などが酒田経由で京都や大阪に運ばれ、帰路には砂糖や干し魚、衣類、ひな人形などの上方文化が運ばれた。元禄7年(1694)に荒砥に通じるまでの舟運の終点は、長崎湊(中山町)で、そこで船荷の積み替えが行われ米沢方面へ運ばれた。荷揚げや荷待ちの間に船頭や商人が川岸の松の枝に鍋をかけ棒鱈と里芋を煮て食べたのが芋煮会の発祥とされる。(以上、産経の記事から。)■中山町観光協会の説明日本三大芋煮という言葉を聞いたことがある。山形、島根、愛媛だ。島根は津和野町、愛媛は大洲市。山形はもちろん中山町だが、3市町が連携して東京でイベントをやっているそうだ。
2023.04.07
コメント(0)
中央の視点による東北開発が具体的にどう進んだのか。三度目になるが、岩本先生の著作から。■岩本由輝『東北開発120年』人間科学叢書22、刀水書房、1994年■関連する過去の記事(岩本由輝著作) 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日)(岩本由輝) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日)(岩本由輝)■関連する過去の記事(東北後進論) 白河以北一山百文の意味の変化(2023年04月04日) 明治政府の焼き付けた東北後進論(2013年8月19日) 「二束三文」と東北(2012年8月11日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日)■関連する過去の記事(三島通庸、野蒜、安積疏水。ほかにも記事ありそうですが。) 土木県令三島通庸と市立病院済生館(2013年1月6日) 野蒜築港跡を考える(2015年5月18日) 安積疎水を考える(06年12月19日)1 三島通庸(みちつね)の土木県政1786年(明治9)8月初代山形県令となった三島通庸は、県政の主眼は道路とばかり、新道の開鑿や旧道改修に乗り出す。伝統的に西廻り海運と最上川で大阪との経済的つながりの深かった山形県を、首都東京と仙台に結び付けることを策したもので、中央集権的強権政策の一環であったが、このとき、自動車交通以前の山形県の基本的な道路体系ができあがる。1878年7月イザベラ・バードは、すでに現高畠町津久茂から新庄までの立派な道路(国道13号の原型)ができていたことを証言している(日本奥地紀行)。三島の最初の着手は、76年11月起工の栗子新道。東京に至る最短コースとして2つの隧道を掘る難工事で80年10月竣工。同年12月には新庄から秋田県に至る道路にもつながる。81年には第二回奥羽巡幸が行われたが、9月22日秋田県境まで出迎えた三島は面目躍如。天皇が福島に向かう10月に3日に開通式が行われた万世大路は栗子新道への取付道路だった。山形仙台間は、笹谷、二口、関山のいずれも難工事の3路線が検討されたが、78年起工の野蒜港に最短距離の関山峠越えが適当と判断され、80年関山隧道の掘鑿を伴う関山新道工事が始まり、82年6月完成。ところで三島の土木県政は強権発動で地元民の意見や不満を顧慮しなかったから、多くの人の怨嗟の的となったことは否定できない。福島県令に転じた三島は福島事件で鬼県令の悪名を呈するが、山形県でも関山新道の費用徴収をめぐって反対運動が組織された。しかし、山形県の場合、自由民権派の開明社の機関紙「山形新聞」も好意的で、また、三島には県内各地から留任要請が出された。2 野蒜築港大久保利通の東北開発構想は、1878年5月の大久保暗殺後体化、11月に工事着工。最も重要な港口の工事は79年7月に始められ、内務省土木局長石井省一郎を監督に、早川智寛(のち仙台市長)が築港主任。技術を面を担当したのはファン・ドールンを主任に数名のオランダ人。工事は順調だったようで、82年(明治15)10月第一期工事落成式が挙行。第二期工事は、外洋の波浪を防ぐため宮古島(ママ)の東端に防波堤を築いて吃水7mの大型船碇泊を可能にすること、宮古島(ママ)と野蒜の間の連絡路建設、などであった。かし、84年(明治17)秋の台風で内港東側導流堤が流失。85年内務卿山縣有朋が再建判断の調査を行わせたが、結果は否で、68万3千円を投じた野蒜港は放棄、もとの寒村に戻った。失敗の原因は、場所の選定や設計の誤りが指摘され、また、松方緊縮財政が最大の理由と言われるが、台風以前の74年1月の「野蒜市街地計画方之義ニ付伺」にあるように、(大略)借地出願の者少ないなど地元の理解は進まず、建築家屋も転売の動きなど慨歎の至りであり、米価金融閉塞状況だとはいえ、こうした状況が主原因である。地域の経済進展や後背地との関連が顧慮されることの少なかった野蒜港の維持発展は、台風被害がなくても困難だっただろう。当時の巨大プロジェクトの早産的悲劇をみる思いがする。3 安積疏水の明暗安積開墾は3つの段階と3つの地域に分けて進められた。(1)1873年(明治6)、福島県の手で始められた旧二本松藩士の入植による、大槻原南部(2)74年、郡山で富商たちが結成した開成社の出資で進められた大槻原中北部(3)78年から政府事業として展開された五百戸移住による、対面原から広谷原にかけての開墾このうち、主流は第3のもので、78年から82年にかけて旧久留米藩士141戸を筆頭に、旧高知藩士105戸、旧鳥取藩士69戸、旧二本松藩士56戸、旧会津藩士30戸、旧棚倉藩士28戸、旧松山藩士18戸、旧米沢藩士13戸、旧岡山藩士5戸、計465戸約2500人が入植。士族授産である。この3つの開墾を推進したのが、旧米沢藩士で県官を務めた中条政恒である。孫が中条(のちの宮本)百合子。安積開墾の最大の難点は水に乏しいこと。そのため立案されたのが大久保利通の建議による猪苗代湖疏水の開鑿である。設計はドールンとするのが定説だが、実態は助言だけで、内務省勧農局御雇の山田寅吉が設計主任として詳細な設計書を提出している。なお、山田の配下で実測設計活躍した新渡戸七郎は、三本木原開墾を推進した盛岡藩士新渡戸伝の孫で、稲造の長兄。79年(明治12)10月起業式が行われた安積疏水は、数十の隧道、樋を架する大工事だが、82年10月延長52kmの幹線水路と78kmの分水路が完成、通水式を行った。83年残された工事が全部終了。安積、安達、岩瀬3郡に潅漑し水不足解消に貢献している。ところで、1905年(明治38)、法制局参事官柳田国男は、安積開墾の帰趨について記すに、(大略)最初各地の藩士をまねたいた時は保護が厚かったが、保護が止むとたちまち衰微し始め、郡山地元民に売却するなどして町に移住したり、元の土地で小作するなどの状況。士族授産の帰結が、少数地主の形成と、貧しき人の群れの創出であったことを伝えている。
2023.04.06
コメント(0)
河北新報2023年4月3日(ワイド東北)で、東北大学災害科学国際研究所の川内淳史准教授(東北近現代史)に聞いたという記事。東北の侮蔑後とされた「白河以北一山百文」は、最近の研究によって意味合いが時代によって少しづつ変化してきた過程が明らかになってきたという。概要は以下だ。(記事の文中には、川内氏の見解(持論)などと随所に断りがあるが、以下では省いた。なお、記事の署名はコンテンツセンター小沢一成さん。)1.近事評論の寓話文献に初めて登場したのは、雑誌「近事評論」の明治11年(1878)8月23日第148号。福沢諭吉の門弟だった旧熊本藩士で自由民権運動に共鳴した林正明が書いたとされる。記事は、西南(薩長)の地図の上に並べた人形は飛ぶように売れるのに、白河以北に並べた人形は誰も顧みようとしないという寓話。時代が変われば売れるようになると慰められた人形売りが泣き止み、白河以北一山百文と叫んだという内容。。2年後の同誌第277号は、東北人士を人形になぞらえ、薩長藩閥政府の下で西南優位の状況を覆絵層としない無気力を批判し奮起を促す狙いだったと記述している。2.天恵薄き地意味合いが変わったのは20世紀に入った頃。明治三陸大津波(1896年)や大飢饉(1905年)などで、東北=「天恵薄き地」という認識が広まった。これを理由に東北振興の機運が高まっていく。東北人を発奮させるためだった「白河以北一山百文」が、天恵薄き地の認識が広まる中で、東北全体を指す言葉に意味がずれていった。3.薩長発信との認識昭和に入ると薩長新政府が東北に投げかけた「罵倒語」との認識が登場し始める。1930年出版の「総合ヂャーナリズム講座Ⅲ」に、「一山百文とは明治維新の変革に政権を握った薩長が、東北を侮蔑した呼称で(中略)あざける意味が含まれていた」との記事。昭和三陸津波(1933年)や昭和東北大凶作(1930-34年)に見舞われ、さらに戦時体制の強まる中で、同じ日本にも関わらず差別的扱いを受けたとして国家を造った薩長に不満が向けられて、「白河以北一山百文」に結びついたのではないか。4.司馬遼太郎の推理と影響一方で、戊辰戦争で薩長の司令官が攻め込んだ際に「白河以北一山百文」と言ったという俗説がある。司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」が一番古い記述とみられる。1972年の連載を収録した「街道をゆく三」の冒頭部分に「『白河以北、一山百文』といったのは、戊辰戦争を戦って会津城を攻め落とした長州軍の士官の一人であったであろう」とある。司馬一流の推理とみられるが、意味がずれていく中で生まれたものと推量される。司馬の影響で、以降こうした認識が広まった。■関連する過去の記事 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 明治政府の焼き付けた東北後進論(2013年8月19日) 「二束三文」と東北(2012年8月11日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日)
2023.04.04
コメント(0)
東北開発の端緒は、中央集権的な体制のもとで進められた。前回に続き岩本先生の著作から。■岩本由輝『東北開発120年』人間科学叢書22、刀水書房、1994年■関連する過去の記事 東北という呼称の初現ー「東北」の形成(2023年03月26日)戊辰戦争と明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により、幕藩体制は崩壊したが、この時点でもまだ東北開発は具体的な日程にはのぼってこない。しかし事実上失職した武士に仕事を与えねばならないから、各地で思い思いに士族授産事業が開始された。中には、藩政時代から引き継がれたものもあった。盛岡藩勘定奉行新渡戸伝が安政2年(1855)から着手していた三本木原開拓事業や、同藩の大島高任が安政3年に建設し出銑に成功していた釜石の洋式高炉がそれである。釜石は、明治7年(1874)工部省鉱山寮釜石支所が置かれ官営釜石鉱山となる。また、政策面で注目されるのは、明治3年(1870)11月13日から17日にわたり、涌谷町にあった登米県庁に民部大丞渡辺清が、陸前陸中陸奥の各藩県の地方官を集めて三陸会議を開き、検地検見の施行と貢米輸送、藩県行政の規則、商品流通、土木工事の調査の件などについて諮問したことである。この会議の結果を踏まえて東北地方にも中央集権体制が築き上げられていくことになる。緊急の課題だった武士の扶養の一方策が、帰農だった。戦国末期の兵農分離で農業から離れた武士を再び農民に戻すというのである。弘前藩は明治3年10月、帰田法を推進し、一定面積以上の土地を保有する地主の土地を強制買い上げして武士に配分したが、武士の大部分は帰農せず土地を小作させたが、小作料だけでは生活できなかったから、土地は再び商人や高利貸しに集中されるようになり成功とは言えなかった。中村藩では、明治4年8月に土着法という形で、447戸の城下町武士全員を旧藩内137村に実際に帰農させた。土地は一町歩以上を持つ農民から買い取り、抽選で配分した。米沢藩では旧藩主上杉茂憲(もちのり)が東京移住に先立ち6千人の士族に当座の生活資金を与えるとともに、士族就産基金と共有財産を下げ渡した。これを管理運営する士族義社が、大正5年に両羽銀行(現山形銀行)に合併するまで金融事業を行った。もっとも、基金を元手に織物や漆器の生産を始めた生産社はたちまち失敗(解散)。また、士族義社も製糸業に手を出して裏目に出て、解散の危機に直面した。旧新庄藩では、舟生源右衛門らが明治8年から秩禄処分で交付された金禄公債を磁器や亀綾織に出資し、たちまち元も子もなくした。帰農を開墾の形で進めたのが旧鶴岡藩だった。士族授産事業の多くが痕跡を留めていない中で、松ヶ岡開墾場は、現在も225haの農場として経営が続けられている(松岡農業協同組合)ことは注目に値する。明治5年6月に、旧鶴岡藩士約3千人を30組の開墾隊に分けて進められた。桑苗を植えて、明治8年から生糸生産を開始し、士族授産の実をあげた。しかし、きれいごとだけではなく、脱走した者が絞殺されたり、酒田県が旧藩から継承した種夫食(たねふじき)貸米を開墾費用に不当に流用したことから農民が償還を要求して立ち上がった(ワッパ騒動、明治6年11月)。三島通庸が同年12月に酒田県令に着任したのは、騒動対策と同時に旧鶴岡藩士の県政の専横を抑えるためでもあった。明治6年3月には、安積開墾が始まり、旧二本松藩士19戸が入植する(開墾本格化はもう少し後)。また、明治3年2月以降、仙台藩支藩の亘理、白石、岩出山、角田各藩の北海道開拓(大地の侍)は帰農の一形態であり、同年閏12月の会津藩の削封と斗南藩転封は帰農というより流刑だった。東北開発が政府の政策として具体化する契機となったのは、明治9年(1876)6月から7月の第1回奥羽巡幸である。巡幸を演出した内務卿大久保利通が、天皇出発の10日ほど前の5月23日東京を出発し、巡幸コースより広い範囲で東北各地を巡視したことが端緒といえる。大久保は、東北の未開発資源に着目し、東京を首都とする明治国家の後背地とすることを目論んでいた。明治9年、大久保は、内務省に授産局を置き士族授産と殖産興業を実現しようとしたが、明治10年西南の役勃発で計画は中止。役の平定後、明治11年3月6日太政大臣三条実美に、建議書(一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺)を提出。その方法については、こう述べた。・第1等の方法は、移住を望む華士族に開墾地や物品を給貸する。1万3千戸を目標とする。・第2等の方法は、所在地の近くを開墾する華士族に官有荒蕪地を貸与する。・第3等の方法は、資本金350万円を内務省に備え、各地方固有物産の保護改良、運輸の便宜などに必要な資本に給貸する。この第3等の但し書きで、運輸ノ便ヲ開クカ如キ漸次各地ノ形状ニ従テ挙行スヘキモノ百端アリト雖モ中ニ就テ尤モ其ノ較著ナルモノ七トナス、として、その七つの開発構想を挙げる。・其ノ一 宮城県下野蒜開港 35万円・其ノ二 新潟港改修 31万円・其ノ三 越後(清水越ト云フ)上野運路ノ開鑿・其ノ四 大谷川運河ノ開鑿(茨城県)・其ノ五 阿武隈川ノ改修 同川を修浚シ更ニ運河ヲ疏鑿シテ塩釜ノ内海ニ達シ以テ野蒜ノ新港ヲ合スルヲ得ハ福島地方ノ便利ヲ得ル・其ノ六 阿賀川改修・其ノ七 印旛沼ヨリ東京ヘノ運路大久保は翌3月7日には三条に建議書(原野開墾ノ儀ニ付伺書)を送り、前日付けの第1等の方法に関して、安積開墾と疏水の具体的な提案を行っている。さらに、3月18日、大蔵省に訓令して起業公債を募集することとし、5月大蔵省は起業公債証書発行条例にもとづき、第一国立銀行と三井銀行に内国債募集事務を扱わせることを発表。18件のうち、新潟を含む東北7県に直接かかわるものが9件(全体費用総額の31%)である。9件のうち、猪苗代湖疏水費を除くと、5件が港湾と道路など交通関係、3件が鉱山関係(阿仁鉱山、院内鉱山、油戸炭山)であることが、大久保の東北開発の姿勢を象徴している。しかしこの大久保の積極姿勢が、戊辰戦争以来くすぶっていた東北の不満を懐柔することになった。その意味でこの投資は藩閥政府にとって安い買い物であった。大久保はこの計画を打ち出して間もない5月14日に暗殺され、この中央集権国家による上からの東北開発計画の実現は、後継者に委ねられることとなった。
2023.04.02
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1

![]()
![]()