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今回も、加藤さんの御著書をもとに、記事を書く。■加藤榮一『増補 仙台西部 宮城と秋保の歴史物語 仙山交流 関山街道と最上古道』 蕃山房、2021年松原医院は、昭和23年5月6日に広瀬村下愛子下原25-10に開院。院長は松原仁先生だった。広瀬村には、長い間、医者や医療機関がなく、待ちに待った開院だった。戦前は多くの家で、腹の痛みにゲンノショウコ薬草の湯薬、のどの痛みに焼き味噌ネギ、口の荒れに木ワタ、利尿にドクダミ、少々の風邪は梅干し湯、くるみ焼き味噌湯を飲み寝て休んだ。各家には富山の薬箱があり、腹痛、頭痛を治した。また、集落の中の家で作る家庭秘伝薬をいただくこともあった。重病の時は、八幡町のお医者さんを馬で迎えた。はじめて愛子に松原医院が開院し、松原仁先生は広瀬、大沢村の隅々まで往診してくださった。身近に病院があって、通院、入院(ベッド数18)が便利になったと村民は非常に喜んだ。(以上、加藤さんの御著作から。おだずま一部整理。)仙台市の住居表示対照表によると、下愛子(字)下原25-10は、現在の愛子東二丁目3-61、同3-63とされている(実施年月日H12.7.3、実施地区愛子東部地区)。国道旧48号(現457号)沿い、松原医院の場所だ。■関連する過去の記事 宮城の民間医療伝承(2011年09月04日)
2023.09.29
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大倉ダムの先にある定義山西方寺。その更に先に開けている集落が十里平である。美しい山間の桃源郷にもみえるが、開拓は苦難の歴史だった。■加藤榮一『増補 仙台西部 宮城と秋保の歴史物語 仙山交流 関山街道と最上古道』 蕃山房、2021年 から。なお、おだずま要約しています。『十里平』(元仙台市八木山校校長(ママ)佐藤達夫)を参照した十里平開拓の歴史。 戦後、樺太の残留者は昭和23年1月までに帰還した。宮城県は昭和22年樺太引揚24家族を受け入れ、広瀬村の農学寮に一時的に暮らした。十里平と愛子のうち、開墾すれば農業で暮らせるということで、十里平(西方寺奥の原野)に入植した。 十里平には営林署関係の家族4-5軒が住んでいた。昭和23年夏、12家族が荒野に入植。家族人数に合わせて1町5反、2町5反など割り当てられ営林署から借りた。笹小屋に住み、刈り払い、立木伐採から開墾に従事。食糧事情不安で毎日の収入もなく、焼き畑でようやく大豆、小豆、大根を収穫するが、米がなくて、山菜(ミズ)、栗、キノコなど主食にした生活は想像を絶した。 昭和23年笹小屋の大倉小学校十里平分校が設置。開拓者の生活改良のために、庄子長喜さんが村、県、国に陳情請願の苦労をしたもの。24年8月に開拓地の指定を受けて、1反歩に4千円の経費が出て、開拓は重労働であることから加配米を追加。その後、さらに15家族が入植。全部で27軒に1戸あたり3町歩の原野が与えられた。 昭和25年に引き上げ住宅は建坪6坪割り当てられたが、小さくて暮らせないと陳情して8坪と補助金が配布され、笹小屋から寒さをしのぐ住宅で暮らすことができた。昭和27年、県から貸金で赤牛を毎年2-3頭飼育した。堆肥もでき、ジャガイモ、大豆、トウモロコシ、麦など栽培効率が良くなった。道路はなく、森林鉄道(トロンコ線)を歩いて定義まで通った。 昭和35年一部の人が田んぼを耕作したら収穫良かったので、開田しようと、県に請願して1戸当たり3町歩をめどに許可された。36年、県に開田計画を請願して、国からの45%補助の残りは農林公庫から借金した。昭和36年12月には稲田に引く水を谷川からポンプアップするために電気が引かれ文明の灯がともる。 昭和38年に水田耕作は国の補助で行われ、ランプ生活からテレビや冷蔵庫の電気生活に。森林鉄道道路から開拓道路も整備され、自家用車を持つ新たな高原生活の誕生となった。 昭和44年、米の生産調整の減反政策で、転作に5割の補助金。離農者が転出し始めた。昭和46年十里平分校が廃校。 昭和48年には県の指導で休耕田を5割の補助金で牧草地に転換。稲田はデントコーン畑や牧草地に代わり、道路も整備されて本格的な高原酪農集落に。当時の集落民は14家族(おだずま注:お名前が記されている)。 Sさん(94歳女性)の話。樺太で生まれ結婚後、終戦を迎え、2年後に北海道から引き揚げ。宮城農学寮の引揚者住宅に住んでいた。著者(おだずま注:昭和10年生まれの加藤さん)は、実家が米の配給所で、国の決まりに従って精米7部つきを配給したが、ソ連の酸っぱいパンより黒いのでもう一度精米してくださいとSさんから声をかけられたことを覚えている。小学6年生だった著者の加藤さんは、精米の手伝いをしながら、敗戦後樺太での危険な生活や、帰国までの苦労話を真剣に聞いた。まもなく農学寮から十里平の開墾生活に入ったSさんは4人の子宝に恵まれ高原で力強く生きた。Sさんは、入植した70年前は27軒も家があり、大変な開墾を乗り越え、学校で運動会やお祭りもやって活気があった。定義まで道路もなくトロンコ道を歩くので体の弱い人は大変だった。若い頃から農作業が忙しく夫婦げんかの暇もなかった。町に住む娘の家に暮らせと言われても、70歳過ぎると町では暮らせない。自由なここの暮らしが良いんだよ、とSさんのお話。Sさんの孫が牧場主人の仕事に追われる一方、定義夏まつりなどを支えている。■関連する過去の記事(定義について) 定義(如来)をどう読むか(2023年09月23日) 定義は「じょうぎ」か「じょうげ」か(2012年6月17日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 定義森林鉄道(2011年9月11日) 定義如来西方寺(08年4月12日)■関連する過去の記事(朴沢、中山道など。朴沢も山あいの純朴な集落。) 国見峠と芋沢街道(2016年6月21日) 七北田川の源流 光明の滝(2015年9月14日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日) 中山道のむかし(09年3月23日)■関連する過去の記事(宮城県内の戦後の開拓) ノンちゃん牧場のいま(2016年6月4日) 栗駒耕英の開拓史(後編)(2013年12月31日) 栗駒耕英の開拓史(前編)(2013年12月7日)
2023.09.26
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以前記したこの問題(?)だが、地元に詳しい加藤さんの著作に解説されていた。■加藤榮一『増補 仙台西部 宮城と秋保の歴史物語 仙山交流 関山街道と最上古道』 蕃山房、2021年「定義」はジョウゲともジョウギとも発音する。著者をはじめ地元周辺の特に高齢者にはジョウゲが多いようだ。定義如来をご本尊としている極楽山西方寺(青葉区大倉上下一)に伺うとジョウギにしているとのことだ。ジョウゲはその住所〔おだずま注:上下〕からだという説もあれば、発音しやすいからだという説もある。ジョウギは文字を素直に音読すればという説のようだ。国道48号の案内標識には「定義 Jogi」とある。発音の出自は不明である。■関連する過去の記事 定義は「じょうぎ」か「じょうげ」か(2012年6月17日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 定義森林鉄道(2011年9月11日) 定義如来西方寺(08年4月12日)
2023.09.23
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自転車ヘルメットの着用率の都道府県ごとのデータが報道された。全国の警察が7月に目視で調べたものを警察庁が集計して、14日に発表したということだ。(警察庁サイトにはないようだ。)上位1愛媛59.9% 2大分46.3 3群馬43.8 4鳥取30.9 5山梨26.26佐賀23.4 7山口21.5 8茨城21.3 9石川20.7 10徳島18.4下位47新潟2.4% 46青森2.5 45秋田3.5 44大阪4.2 43福島4.342埼玉6.1 41兵庫6.2 40千葉6.4 39広島6.6 38福井6.8全国平均13.5%だが、最高が愛媛県59.9%で、最低が新潟県2.4%と、相当のバラツキがある。グラフを示せばいいのだが、取り急ぎ階級に分けると、0-<10(%) 23県(さらに、0-<5は 5県、5-<10は 18県)10-<20 14県20-<30 6県30-<40 1県40-<50 2県50-<60 1県という度数分布であり、地域差は顕著で、上位県は特異な背景を有するはずだと言えよう。客観的に比較できる調査なのかどうか気になるが、警察庁サイトには掲載がない。報道では、各県とも駅前で2か所、商店街やSCで2か所を選び、通行の多い時間帯に1か所最低200人、52,135人を調査したとある。いちおう、地域比較には耐えうるデータマスと思うし、地点によるバイアスもさほどないだろう。愛媛が高いのは2013年に関連条例を施行するなど取組が進んでいるため、ワーストの新潟、青森(2.5%)、秋田(3.5%)は雪の影響で普段から自転車を活用しているかどうかが影響した(共同)、全国3位の群馬(43.8%)は2021年に条例を施行し努力義務にしたり中高生の啓発を行った影響だ(読売)、トップの愛媛は教育委員会が主導して通学時の中高生の着用100%をほぼ達成しているが、最低の新潟は、町の人も理由はわからないが冬場乗らないからか、と言っている(NHK)、などの解説が報じられている。やっぱり、条例制定や学生通学時に徹底するなどの成果で明暗が分かれていると言えよう。東北各県のデータは以下。青森 2.5%岩手 7.6宮城 10.8秋田 3.5山形 8.9福島 4.3全体的に低位。やはり冬場に乗らない影響か。東北で高い宮城は条例施行の効果かも知れないが、それでも全国より低い。やはり学校での徹底が大きな要因になるのだろう。かくいう自分も4月から着用している。意外と高かったが、身の安全のためと割り切った。面倒くさい、髪型が崩れる、などの意見も実感として理解できるが、安全面の効果を説きながら着用が当たり前という雰囲気を作り出すことが肝要か。■関連する過去の記事 自転車利用の地域比較(2022年12月11日)
2023.09.15
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久々に、シリーズ仙台百景の続きです。神聖な場所です、皆さん気をつけましょう!■関連する記事(探訪記はこの記事をご覧ください。) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)■シリーズ仙台百景の過去の記事(こんな企画で100まで続くでしょうか) 旧代ゼミ前(シリーズ仙台百景 39)(2015年10月24日) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.10
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榴岡に残る仙台藩の大飢饉と供養の歴史。これまで何度も記事の基にしている木村孝文さんの『宮城野の散歩手帖』をもとに、探訪してきた。はじめに画像を紹介。木村さんの御著作の内容は後に記しました。まず、金勝寺だ。区画整理事業で昭和56年にこの場所(仙台市立榴岡病院の跡地)に移ったが、歴史は古く、永正元年(1504)南町に建立、政宗の時代に東十番丁に移転したという(2番目の画像の記念碑の文から)。サンプラザも建てられたこの地は、昭和55年まで、伝染病患者を収容する仙台市立榴岡病院だった。(参考記事:明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)、宮城野の今昔(07年5月30日))明治28年に仙台避病院として孝勝寺裏の伊達家の土地につくったという。孝勝寺は今でも大きなお寺で広い境内に五重塔がある。その東側(今でいうと宮沢根白石線の東側)は、明治にはまだ、かつてお殿様の狩猟や野遊びのフィールドだった宮城野原が広がっていたのだろうか。(サンプラザのすぐ南に隣接している。)(移転の経緯を伝える記念碑)記念碑金勝寺は 永正元年(1504年)5月仙台連坊小路瑞雲寺第六世中岳泉波大和尚が開山となり 仙台南町に建立し 其後仙台城下町割(伊達政宗代)の際仙台東十番丁(天神下)の地を賜り堂宇を移転したものである 此度仙台駅東第一土地区画整理事業により現在地に移転の指定があり早速檀信徒一丸となり多額の浄財を寄進され 昭和54年10月着工し 工期1年8ヶ月を圣(ママ)て本堂 庫裡 山門 鎮守堂及び墓地等の移転新築落慶をしたものである昭和56年5月吉日当山23世住職 法貫宗勝代(金毘羅堂。その左手(東)に宝篋印塔。そしてその前に、丙申殍氓叢塚之碑と刻まれた飢饉供養碑がある。)次に、宮城野通を挟んで、孝勝寺のある区画の反対側(北側)の位置に、徳泉寺がある。堂宇を抜けて寺西側の墓地エリアに出ると、建物を背にして西に面する形で、2基の飢饉供養等と解説板があった。(木村さんの著作では墓地北側に並立とある。)お寺にお邪魔して読ませて頂いたから、全文を以下に記します。丙申殍氓叢塚之碑(へいしんふぼうそうぼうのひ)天保7丙申年(1836)は仙台藩最大の飢饉で領内の死者は30万に達した。食を求めて仙台城下に殺到する流民のため藩では城下数か所に粥小屋を設置し粥を施してこれを救済した。榴岡天神下には徳泉寺、金勝寺の寺域に設けられたがこの二か所だけで2千7百人が死亡したという。死者は小屋の近くに施穴を掘って投葬しその上に立てたのがこの碑である。しかしその場所がどこであったか今は知る由もない。殍は餓死者、氓は流民、叢塚は散らばっているものを一か所に集めることである。碑は徳泉寺、金勝寺ともに二基ずつ残っているが、当時飢饉がいかに悲惨な事件であったかを物語る貴重な石造文化財である。徳泉寺次は、願行寺である。正門は、徳泉寺と同様に、宮沢根白石線に面している。木村さんの本では、この寺にも飢饉供養碑があるという。良く調べなかったがこれだろうか。願行寺と徳泉寺の間には、地下化する前の仙石線が走っていた。飢饉の供養碑にかかわる3つの寺をめぐったが、ついでに一つ。サンプラザの区画のすぐ西が、政岡公園(榴岡五丁目公園)。三沢初子の墓などがあるが、看板によるとここも孝勝寺の領分のようだ。■出典 木村孝文『宮城野の散歩手帖』(宝文堂、1999年)pp.32-356 金勝寺、徳泉寺の飢饉供養碑(榴岡五丁目9-12、榴岡三丁目10-3) 仙台サンプラザの南隣りに松風山金勝寺(きんしょうじ)がある。もと東十番丁、仙石線南沿いにあったのを昭和53年榴岡病院跡地に移転新築した寺である。山門の脇に”仙台第十三番観音”の石柱が建っており、本堂前左側に金毘羅堂が建立されている。この寺は曹洞宗で、連坊二丁目の瑞雲寺の末寺で、永正元年(1504)中岳泉波和尚が開山したと伝えられている。金毘羅堂の東側に北面して嘉永5年(1852)建立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。この塔の前に「丙申殍氓叢塚(へいしんひょうぼうくさむらづか)之碑」と刻まれた飢饉供養碑が2基建っている。丙申は天保7年(1836)、殍(ひょう、又はフ)は餓死、氓(ぼう)は流民のことである。叢(ソウ又はクサムラ)は一ケ所に集めることで、餓死した流民を一ヶ所に埋葬したところに叢塚を建てたのである。天保7年(1836)は天候不順と風水害により凶作となり、仙台藩最大の飢饉の年で損害高は91万5784石、領内の死者は30万に達したという。(「宮城県史」二、近世史所収) 藩では食を求めて仙台城下に殺到する流民の救済に努め、天神下では金勝寺・徳泉寺に粥小屋を設けたが、両寺だけでも死者は2千7百人を越えたという。これらの供養のため建てた碑である。碑の高さは1.52m、安山岩で1基は尖頭方柱で、側面には南山古梁の撰文(「宮城県史」17巻221頁)が刻まれている。碑文にある総管役の佐藤季明は助五郎と称し、大町に居住した太物商で相当栄えた家柄で、針生林蔵の協力も得て、自力も加えて流民の粥を施すなど窮民救済に当たったという。 徳泉寺は浄土真宗大谷派本願寺末で勝光山と号し、貞享3年(1686)関口宗因開山の寺である。ここにも金勝寺と同型同文字の飢饉供養碑がある。門の入口と西裏無縁塚の上に建っていたとのことであるが、今は墓地北側に2基並立してある。 なお徳泉寺の仙石線をはさんだ北隣りには浄土宗の願行寺(がんきょうじ)がある。ここにも飢饉供養碑が天保のもの2,天明のもの1と計3基ある。 願行寺は東九番丁の常念寺、宮町五丁目の清浄光院(しょうじょうこういん)(万日堂)と共に、仙台の三回向寺の一つといわれ、三年交代で大回向を修行した寺である。<注>1 宝篋印塔(ほうきょういんとう) 過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めた供養塔で、塔身の四面に金剛界四仏(阿閦(あしゅく)如来・宝生(ほうしょう)如来・阿弥陀如来・不空成就如来)の種子(しゅじ)(梵字)を刻んでいる。<注>2 南山古梁(なんざんこりょう) 江戸時代後期の代表的な禅僧で、寛政5年(1793)七代藩主重村に迎えられて瑞鳳寺14世を継いだ。詩書に優れ名声も高く、南山筆の石碑が領内に多く見られる。<コラム>仙台藩の三大飢饉 江戸時代半ばすぎから、仙台領内では冷害、風水害によって凶作が続き、減収によって「郡村土地ともに廃れる」状態になった。三大飢饉として、宝暦5年(1755)、天明3年、5年(1783,1785)、天保7年、9年(1836,1838)があげられる。宝暦、天明は50万石を超す減石で、天保7年は91万5千石を超す大凶作となった。天明の飢饉による餓死者は30万人を数え、城下では騒動まで起こっている。■関連する過去の記事(仙台市立榴岡病院、地域と感染症など) 感染症と人類の歴史(2023年08月15日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)
2023.09.08
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炎天下の小鶴、御立場、燕沢の訪ね歩き(下記の3記事です。)の最後に、あらためて眺めた比丘尼坂の道標をご紹介。 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)往古の東街道、また塩竈街道として芭蕉も歩いたこの坂です。さりげなく、石標が歴史を伝えています。比丘尼坂の伝説は、このブログのだいぶ前の記事(仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日))で多少触れました。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.05
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大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)に初めて行ってみた。比丘尼坂から岩切に向かう旧街道は何度か通ったことはあるが、(東仙台側から向かって)坂を上る途中、コミュニティバスのりあい・つばめ「小鶴1丁目(ぽれぽれ鍼灸整骨院前)」の辻から折れて、初めて入る道を登っていく。前回記事(小鶴城跡(2023年09月01日))、御立場町(2023年09月02日))の続きです。この後が、比丘尼坂(2023年09月05日)。なお、 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)も参照ください。■岩切市民センター岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」4ページ大須賀森(おおすかもり) 岩切、鶴ヶ谷七丁目、燕沢三丁目の境でカトリック墓地のあるところに展望台がある。昔と云ってもそう遠くない鶴ヶ谷団地が造成される前までは、陣笠山とも呼ばれ、その名の通り陣笠を置いた様な格好の良い山であったと云う。一連の丘陵地の東端に当り見晴らし良く、伊達藩時代「御野初狩(おのそめがり)」と云って(おだずま注:同資料64ページでは「御野始狩」と表記。前回記事参照)、毎年旧正3日(ママ、おだずま注:旧正月3日か)に鷹狩に名を借りた、練武の行事が行われ、こゝ大須賀森は標幟場(たつば)として使用されていた、物見の丘である。 藩主の本陣は案内の丘の上(現在東仙台一丁目、その前は御立場町一帯)、岩切の諏訪の森(八坂公園のあった山)、高森(岩切城跡)、相の馬坂(入生沢)、陣ヶ森(松森との境の山)、鳥居峯(青麻一の鳥居跡富谷街道の分岐点)、は仮想敵陣として大きな幟(のぼり)を立てた。幟を立てる場所が標幟場(たつば)であり仮想敵陣は追標幟場(おたつば)と呼んだ。いつの間にか藩主の立つ場所だから「お立場」と変わってしまっている様だ。 岩切小学校の遠足でよくこの大須賀森へ行ったものだと聞いている。今は削られて低くなり展望台が設置されているが昔はその展望台の頂上より高い山だったと云う。展望台の上に立つと仙台平野が全部目に入り海まで見通せる眺めの良い場所である。(↓上記資料の散策図です。)展望台だ。ちょっと古い感じはするが、しっかり現役。展望台から四方を望んでみた。まず、カトリック墓地の向こうに、新幹線と田園地帯。南方向。小鶴や東仙台駅方面か。西方向は、鶴ヶ谷の大団地なのだが、草木が繁茂してよく見えず。展望台を降りて、墓地の周りを歩く。とにかく暑い日だった。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.04
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前回記事(小鶴城跡(2023年09月01日))の続きで、御立場町を散策しました。なお、この続編が、大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)、比丘尼坂(2023年09月05日)です。■岩切市民センター岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」64ページ(御立場町から小鶴城跡へ)から(あとがきに、平成3年3月1日編集者伊藤敏、とある。仙台市岩切市民センター図書室にて)現在は東仙台一丁目と町名は変わっているが、つい最近までは御立場町であった。以前の表示の方が何となく歴史を感じ土地柄を連想させられて情緒もあると思うが。御立場は大須賀森の項に書いた様に御野始狩(別名戯動げどう)の時(おだずま注:同資料4ページでは「御野初狩(おのそめがり)」と表記。記事大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)参照)、藩主の立つ場所という意味からきているようだが、昔は標幟場(たつば)と云い目印の幟を立てた場所であった。実際に歩いてみると大須賀森よりは低い様だが、前面が開けてよく見えるし又、松原街道のすぐ上にあり交通の監視もよくできて大須賀森よりやはりこっちのようが藩主の居る本陣にふさわしいと感じた。今はもう全部住宅地となり眺望は全くきかないが、家と家の間から僅かに見える風景は実に素晴らしい。何か往時を偲ばせる物はないかと見て歩いたが何も見つけることはできなかった。町内を西から東へ縦走し小鶴城跡へ向かったが途中に珍しいお墓があるというので立寄ってみた。日蓮宗の円護寺である。珍しいのはお寺ではなくお墓である。手前半分は苦竹新田あたりの農家の人達のもので一般的な形態をしている。これは所々に散在していた古いお墓を東北本線布設の時ここに集合した共同墓地で(この由来を彫った碑が在った)何々家の墓となっているが、あと半分は円護寺のもので全部一様に「南無妙法蓮華経」と彫った棹石が並び、その台石に何々家と彫ってあった。日蓮宗では皆この形態をとっているのであろうが初めて見る我々には珍しく思われた。このお墓のある丘も規模は小さいが眺望はすごく良い所だった。御野始狩の時には標幟場の出先の物見の丘として使われたのだろうと想像しながら丘を降りた。(このあとの記載は、小鶴城跡に関わる。前回記事(小鶴城跡(2023年09月01日))の中に記しました。)上記資料の散策案内図を下に掲げる。下の画像は、「エトワール東仙台」の辻から南方向を見下ろしたもの。東北新幹線の高架の先に、仙台平野を望む。海抜28.8メートルとのこと。町内会の発足60周年記念。道は狭く一方通行になっている。タクシー会社(仙台第一交通)のあたりから丘陵(東仙台教会あたり)を見上げる。とにかく暑い日だった。県道(利府街道)まで上がって、資料(いわきりの息吹き)の散策地図の道を眺める。そばの前田屋、東仙台教会を挟んで道が進んでいく。私の記憶では、この画像正面の空き地(畑か)の辺りに、少し前まで「御立場パーキング」という縦型看板があったと思う。上の画像を撮ったのと同じ立ち位置(ガトーめぐろ付近)から、南東(東仙台駅方向)を見下ろす。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.02
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利府街道の小畑酒店の角から細い道に分け入る。東北本線「小鶴踏切」をわたり、小鶴城跡を探訪する。(関連記事 御立場町(2023年09月02日)、大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)、比丘尼坂(2023年09月05日))上の地図の細長い屋舗公園の入口に、スーッと高く新しい感じの標識があった。振り仮名は「こづるじょう」だ。側面の文書を読む。(以下)この城跡は仙台市の東部、宮城野区新田に所在し、標高10m程の低い丘陵地に位置する。『仙台領古城書上』には、小鶴村の「小鶴城」として「東西60間、南北36間」とあり、また、小鶴村『風土記』には「古館」として「竪38間、横27間」との記録がある。城の本丸は、屋舗と呼ばれる低地より少し西寄りにあたる伝上山というやや高い丘の上にあったと言われている。また、丘陵を取り巻く形に幅5mに及ぶ水濠があったと言われており、その名残が本丸跡の西側や北側にみられる。平成13年に西端部で発掘調査が行われ、堀跡などが発見されている。贈 仙台東ロータリークラブ公園の南が小高い丘で、ここが本丸だったのだろう。公園から北を望むと、東北新幹線と東北本線。■岩切市民センター岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」64ページ(御立場町から小鶴城跡へ)(あとがきに、平成3年3月1日編集者伊藤敏、とある。仙台市岩切市民センター図書室にて) 小鶴城跡と云うからさぞ木立があって遠くからでもわかる様な場所と思いながら歩いたが、それらしき物が見当たらず道端の小さな案内板を偶然見つけた。これがなかったら見過ごしてしまいそうだ。平地にポコンと盛り上がった饅頭のような小さな丘がそれであった。周囲はすっかり住宅に埋められて城らしき雰囲気はまるでなかったが頂上へ出ると平場があり作業小屋のような建物が一つあった。ここが本丸の跡とのこと。 この平場の北西側は杉林となっており、その中に小さな祠があった。熊野神社と云う。往古は水濠をめぐらせた平城で、高さ20m、東西200m、南北100mの規模で室町時代末期ごろ構築されたものと云う。 安永3年(1774)9月の風土記によれば、逸見丹波という人が館を構えたとある。昭和50年頃は水濠跡で蓮根の栽培が行われていたと云うから記憶されている方もあると思う。今その面影はない。 この城の南東側に小鶴池があった。今は埋められて資材置場や倉庫となっている。小鶴池の伝説は日本中どこにでもある伝説といわれており、昔の農村の形態を物語るものと思われる。 「小鶴池往古は當村沼新田の内桑木橋と申す所の東に在りしが明暦年中新田開発致し候」 古歌「千とせをはひなにてのみや過しけん小鶴の池と云いて久しき」藤原敏行朝臣 安永風土記より 小鶴城の北側を廻り帰路につく。ここは昔の水濠跡であろうか細長い公園になっている。名前は屋舗(やほ)公園だった。昔何があったのだろうと考えさせられる。 この小鶴城跡の地図を見ると古碑が二つあり、又、安永風土記を見ると経塚があることになっているが、どちらも見付けることができず残念だった。 経塚は風土記に「げっそう壇廻り9間、右は何年頃に御座候哉三浦げっそうと申人法華経壹部八巻埋候塚之由、即此処をげっそう壇又は経塚とも申来候事」と書いてある。廻り9間というからかなり大きい塚であったものと思われる。小高い丘の高い場所で、見上げた電柱の表示はこうだった。■小鶴ケ池(同上資料から) 朝日がよくさす丘の中腹に、大きな屋敷を構え、多くの田畑を持ち、大勢の人を使っている一人の長者がいた。たくさんの米を収穫し、その籾がらが小山のように積っているので、近所の人々はそれを糠塚と呼び、その屋敷を長者屋敷といっていた。この長者は欲が深く、人使いが荒く、世間からはおそれきらわれていた。此の家に、小鶴と云う女が働いていたが、或日主人に千刈の田を植えるようにと命じられ、自分の子供を背負いながら、夜明けと同時に田植えを始め、やっと千刈の田を植え終えたのは夕暮れであった。背中の子供に乳をやろうとおろしてみると、子供はすでに死んでいた。小鶴は悲しさの余り、ただ呆然として子供を抱いたまま、田圃道をあてもなく歩き廻り、一つの大きな池につきあたった。いつしか夜も更けて、空には明るく月が照り、池の水に小鶴のあわれな姿がうつり、その影を追うように小鶴は池の中に沈んで行った。 翌朝、近所の人々が池の水面に浮かんでいる小鶴親子の姿を見つけ、手厚く葬ってやり、この池を小鶴ヶ池、ここの部落を小鶴と呼ぶようになった。(岩切歴史ものがたり より)下の地図は、上記資料「いわきりの息吹き」の散策案内だ。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.01
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