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私の家の左隣30mほどはなれて町のグラウンドがあった。野球があるたびに板塀を越してボールが飛んできた。軟球だったが、私はそういうボールを草むらから発見して、20個以上持っていた。私は野球が好きで、自分のユニフォームを持っていた。母の手製だった。ズボンの脇や半袖の上着の袖口や襟元に赤い細いラインが刺繍されていた。母がどこからみつけてきたのか、胸に竜のワッペンまでついていた。それを着て、子供用の赤バットをもって、周囲には同年輩の男の子の遊び相手はいなかったけれど、私は大得意だった。 物のない時代だったので、私の洋服は洋裁学院に仕立ててもらっていた。そんな縁で、羽幌港祭りのとき羽幌映劇で開催された『ニューモード・ファッション・ショー』に出演を依頼されたこともある。女の子と手をつないで、「おーてて、つーないで」の曲にあわせてステージを歩き回った。楽屋でおとなの女性モデルたちがほとんど素裸で全身化粧しているのでびっくりしてしまった。私は彼女たちにモテモテだったのだ。ショーが終わってから写真館で写真を撮った。いまそれを見ると、ダブルのスーツを着ている。 私はまだ学齢に達していなかったが、小学校のグラウンドの前はT字路になっていて、その近くに洋服店があった。ある日、母とその店に行くと、そこの息子が先日ギャザ鋏で指を切ったのだと聞かされた。店先の框(かまち)にそのギャザ鋏があった。刃が獣の牙のように禍々しく光っていた。私は、指がポロリところがっているような幻想にとらわれた。 その洋服店の前を通って学校と反対側のつきあたりに製麺所があった。私の家から3町(約340m)ほど離れていたらしい。私はしばしば使いに出された。粉を持参すると饂飩をつくってくれた。それも戦後まもない時代のせいであったろう。製麺所とはいえ、粉の蓄えが十分あったわけではないのだ。店から奥の仕事場がわずかに見えた。仕切り戸のすぐ後ろに、機械から出てきた饂飩がカーテンの縁飾りのようにたれて、綺麗に干してあった。私はそれが面白かった。饂飩屋へのお使いが好きだったのだ。 家の裏に独立して物置小屋があった。その横にかなり大きな(と、思っていたが、実際は1間半×1間くらいだった)鶏舎もあり、ひよこが数十羽いた。物置小屋は中にはいって引き戸を閉めるとほとんど真っ暗になった。明かり取りの窓がなく、わずかに板壁の隙間から外の光が洩れるだけであった。そこには壊れた防毒マスクやら日の丸が染め抜かれた兵帽などが、ごちゃごちゃと木箱に投込まれていた。私には宝物がつまった箱のようで、なかなかお気に入りだった。とりわけゴム製の防毒マスクに有頂天になった。目の部分がまるく刳り貫かれ、口は象の鼻のように長い筒が伸びてその先端に水筒のようなものがくっついていた。奇怪で、滑稽でもあるその形が私の気にいったのである。 ある日、近所の女の子と一緒にいつものようにガラクタを引っぱり出して遊んでいた。そのうち女の子がパンツを脱いで床の上に坐り、脚を投げ出した。私はびっくりしたが、その内股やふっくりした陰部に触れてみた。私は女の子が自分と違っていることを不思議に思った。なんだか恥ずかしかった。誰にも言ってはいけないことのように思った。ただ一度の秘密の遊びである。
Oct 31, 2005
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これまで思い出すままに私の子供時代のことを書いてきた。私の記憶の特徴は、もちろん霞みがかかっている部分も多いが、まるで映画を見ているように非常にあざやかに脳裏というか目の前にというか、後頭部と鼻先の間に映像がうかびあがるのである。時にはそこはかとなく匂いもよみがえってくる。それは胸をかきむしられるような切なさをともなっている。私はもはや60歳の男ではなく、私の鼻先にはその当時の自分がいまにも飛び出しそうに思い出の光景をみつめているのだ。また、同時にもっとずっと高い中空に、もうひとりの自分がいて、要するに三人の私がその光景をみているのである。私の記憶は視界全体を一気にとらえているようだ。映画的というのはそういうことだ。 たとえば川上村の千曲川の川原がうかんでくると、陽にさらされた堰堤が見え、石ころの川原にカワラナデシコの可憐なピンクの花が見える。その葉はすこし白っぽいみずいろがかった緑だ。石ころのあいだに何やら焼跡が見える。芋煮会でもしたのだろうか。川原におりてゆく土手道の際に野ばらが咲いている。ヘビイチゴもある。土手をはさんで反対側に里芋畑がひろがっている---- 私の最初の記憶は1歳のころのものだ。といってもこれは興味深い思いだし方をしている。4,5年生のころに夢を見た。私が家の前の天水桶で遊んでいると、隣家の小母さんが呼んだ。「これをお母さんにもっていってちょうだい」と、丸い笊にいれたワカメを手渡された。私は小走りに家に帰り、それを母にさしだした。----そんな夢を見た。あまりなまなましかったので、朝、すぐに母にその話をした。すると母は、それは事実だと言った。私がまだ1歳のとき、私の生誕地である静岡県伊豆の家でのことだと。そして、「その笊は、いまでもある」と、もう使わなくなった用具をいれてある台所の天袋からそれを探しだしてきた。 この夢にあらわれた事実に引き摺られるように、私は別の光景が頭にちらつくので、それも母に確認してみた。家の近くらしい小川で母らしい人がしゃがんで何かやっているのだった。----母は、「あなたのオシメを洗っていたのよ。ウンチをしたのでね。あなたのウンチが流れて行くのが悲しくて洗濯しながら泣いていたのよ」と言った。 これらを記憶というのなら、私の最も古い記憶ということになる。 この日記を読んで下さっている方は、私たち一家が随分いろいろな地方を転々と住み替えたとお思いであろう。父が戦地から帰ったのはまだ終戦前のことだった。父の職場復帰とともに、遠く離れて札幌に暮していた祖父母を家作をたたんで呼び寄せた。家族がばらばらに暮すことの不安からだった。しかしそのために、終戦後も、父の転勤のたびに一家がぞろぞろとくっついて回ることになったのである。 昭和22年6月より26年6月まで、つまり私が2歳から6歳まで、私たち一家は北海道の羽幌町に暮した。私の記憶はこの時点から鮮明になってくる。といっても、2歳ころのものはまだ映画的ではない。部分的である。羽幌町では3度家を替えているが、最初の家は町役場の隣だった。このとき父は一時、住友金属鉱山株式会社を辞職して、羽幌町の役場に勤めたのである。さきに書いたように、家族がばらばらになることを怖れた(おそらく祖父母が)ために、転勤が多い鉱山会社を辞め、祖父母の故郷に比較的近い羽幌町にやって来たのだと思う。 役場の隣の家は、私の記憶にはただ本通りに面した玄関の様子がうかぶだけだ。たぶんこの家で祖父母は亡くなった。そのためかどうか、それとも弟が生まれるので家が手狭になったためか、通りを挟んですぐ向いの家に引越した。私は部屋のなかから窓の外をながめ、『あの子はだあれ』という童謡をくちずさんでいる。 三番目の家に移ったときは4歳くらいだったろう。まもなく私は仮名文字を覚えた。人からお土産にもらった文字板で覚えたのだ(*)。いろはの「い」の文字は「犬のい」というように、表にはエナメルで彩色した犬の絵がえがかれていて、裏には「い」文字が焼きつけられている。いまでもこんな玩具があるのだろうか。文字を覚えてから、そのころ創刊された集英社の児童雑誌『おもしろブック』を定期購読するようになった。連載されていた山川惣治の『少年王者』を愛読した。 (*)おそらく羽幌炭鉱で働いていた人たちではないかと思うが、ときどき町に出て来た。自前の弁当持ちだった。その人たちが野天で昼食を摂っているのを見かねた両親が我家に招き、茶を出して食事をしてもらっていた。その弁当は握飯だったが、子どもの目にも赤ん坊ほどの大きさなので私はびっくりした。イロハ積木はこの人たちが日頃の御礼にと、プレゼントしてくれたのである。(後日記) 鰊の漁期に、私は父母につれられ知り合いになった漁師の家に手伝いに行った。当時は近海に鰊が押し寄せるようにやってきていたのだ。父はゴム長靴に銀色の鱗をいっぱいくっつけて、漁師たちと発動機船に乗り込み、沖合いに出ていった。私は浜で砂山をこさえたり、穴を掘ってじくじくと水が湧き出てくるのを面白がっていた。そうやって父たちの帰りを待っていると、やがて船が網を曵いて帰ってくる。浜の小母さんたちは掛け声をかけながら、網やら船やらを砂浜に引揚げる。途端に祭りのような騒々しいにぎわいになる。漁師の小父さんが私の目の前に青いおおきなヒトデを放ってよこし、私をおどろかせた。私はそんな賑わいや罵声にも似たひとびとの掛け声が面白かった。そういう人々のなかに母の姿を記憶していないが、おそらく漁師の家で大漁祝いの宴会料理の世話でもしていたに違いない。一日の仕事がおわり、家のなかは笑い声につつまれた。その笑い声と、そこに必ずあった濁り酒の一升瓶などがよみがえってくる。
Oct 31, 2005
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昨日は、ほぼ丸1日の完全休息。しばらく休筆していた別館の『映画の中の絵画』を書き、この日記用のコラージュを掲載して、それだけで終わり。テレビを見たり、寝転がって本を読んだりしていた。 猫のリコが遊んでくれと寄ってくる。寝転んだまま腹のうえを右から左へ、左から右へ、ハードル越えをさせる。「リコ、さあポン!」といいながら指で示すと、リコは私の腹のうえを跳ぶのである。何回か繰り返して、その後は、赤ん坊をあやすように両脇と尻をささえて「高い高い」とやる。この猫は甘えるときにほんの少し舌を出す。舌を出し、喉を鳴らしながら、高い高いを2,3度すると、満足して一人遊びにでかけて行った。私はまた本を読みはじめる。 そんなわけで日替りコラージュに寄せられたコメントへの返事もしないでいた。シルフさん、ちゃれさん、良次さん、どうもありがとう。見て下さるお客さんにもお礼を申します。今日も午後には新しいのを掲載します。 ところで休みながら考えた遊びなんだけど、私のこのページを使ってみんなで『コラージュ展覧会』してみようかなって。 誰でも参加OKで、コラージュ作品を私宛のメールで送ってもらう。うまい、へた、一切関係なし。切り抜きを素材にしてもよし、落ち葉や布切れを混ぜ合わせてもよし、出来たものに手描きを加えてもよし。条件はコラージュであることだけ。それをこの日記に掲載するわけです。もちろん期日限定ですけどね。この企画について御意見があればお寄せ下さい。まだ思案中です。
Oct 30, 2005
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今日から10日間、トップに日替りでコラージュ作品を掲載しようと思います。といっても、これはまァお遊びです。毎日、新聞にたくさんの折込み広告がはいっていますが、それを素材にしてみます。広告を切り抜いて、糊貼りし、私の感覚を表現できるかどうか。そんなゲームです。 シルフさんのサイトは、彼のコラージュ作品の展示場ですが、このところ本業のビジネスが忙しいようです。作品制作もままならないらしいので、それでは私が鬼の居ぬ間になんとやらで、コラージュをつくってみようというわけです。シルフさんとは全然ちがう私のスタイルがだせればお慰みです。 シルフさん、私の辛口評に対する仕返しをしてもいいですよ。
Oct 28, 2005
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1990年の半ば頃、私は取材のため弟の運転する車で、山梨県の笛吹川上流に日帰りで出かけた。が、途中で天候が悪化して下山を余儀無くし、その帰途、弟の提案で川上村梓山に行ってみたのである。私たち一家が住んでいた当時から37年経っていた。 村役場の立派な建物の前を過ぎ、やがて秋山に到ると、見覚えのある場所に小学校が見えた。川沿いの土手道も桜並木も昔の面影をのこしていた。校舎は新しい。橋のたもとに車を止め、土手道を50mほど歩き、ふたたび戻って正面玄関にむかった。日曜日だったので、人の気配がなかった。玄関の位置はほぼ昔と同じ、しかし建築デザインは現代のありふれた学校建築のひとつに思えた。私の教室があったあたりの前庭に、川上犬の小屋があった。貴重種として保護育成されているのだと説明書きがある。運動場をながめ、そのはずれ、昔冬にスケートリンクとなった田圃のあたりを見やった、それから近くの山の手を。----その山への入口で、秋の一日、樋口先生に引率された私たちは何かを観察したことを思い出した。先生が杉か桧の丈高いまっすぐな幹の上のほうを指差している姿が朧げにうかんできた。 学校のちょうど川向、本道脇の少し高いところにあった郵便局は、昔のままの場所にあった。そして局の前、道路より一段低いところに昔は文房具や雑貨を売っていた商店があり、バスの停留所だった。店の前に櫟(イチイ)の木が一本あった。秋になると赤い実をつけた。私は櫟の別名である〈オンコ〉と言っていたものだ。そのほぼ同じところに現在はコンビニエンス・ストアーが建っていた。ただし出入口は昔とは表裏が逆だ。というのも郵便局前の道路のほかに、いわば昔の雑貨屋の裏手に立派な広い道路がつくられており、こちらが本道らしかった。そしてこの新道を建設するにあたって区画整理がおこなわれたのであろう。木村医院があったあたりも大体の見当はつくものの、家並がまったくちがうのである。 梓山との境の坂道もおおきく変っていた。坂のふもとにあった同級生のA君の家はどうしただろう。昔は崖上から本道脇に、崖にへばりつくように細い急な坂道があった。学校への往来に私たちは、本道より近道なその急坂の細道を通っていた。私は、嵐の日に、崖下から吹き上げる風にあおられて唐傘がいきなりオチョコになり、吹き飛ばされそうになったことがあった。その坂道もいまやあるのかないのかさえ判然としなかった。 車は、学校帰りに桑の実を採って食べた山に沿って、回り込むように梓山に入った。 「あっ、墓地だ」 私は右手を指差した。そしてたちまち我家のあった辺りを通過した。 おそらく弟にはイメージの記憶がないのだろう。言葉で組み立てられた記憶だけなのにちがいない。車窓の景色に感慨がおこらないらしい。徐行するでもなく健蔵君の家があったところを過ぎ、白木屋旅館の前を通過し、橋を渡り、そこでUターンした。 私は今晩中に東京に帰り着かなければならなかったから、黙って弟の運転にまかせていた。白木屋旅館が同じ場所で営業しているのを、懐かしく眺めた。私たち一家がはじめてこの村にやってきたときに宿泊した旅館である。 ふたたび我家のあった場所にもどってきた。辺りはすっかり変り、こぎれいな住宅が建っている。バスの発着所だった広場はなくなり、そこにも住宅があった。川上村はいまでは高原レタスの生産で名を馳せている。その成功が、建ち並ぶ住宅の外観にうかがえた。千曲川の、昔よく遊んだ川原のあるとおぼしきあたり、かつては遠くに見えていた山が、いまは手入れをしないのか鬱蒼としてすぐ目近に迫っていた。子供の身体と大人の身体の差かもしれないが、村がいやに狭く感じられるのだった。 Tさんの家だったところは、私が好きだった大木も観音像もなかったが、建っている母屋や物置のたたずまいに昔の面影があった。 「ちょっと止めて。----降りてみよう」 私は車を降りると、足早にその家の玄関前に行ってみた。表札にTとある。やにわに私はガラス戸をあけた。 「ごめんください」 なかにいた老人と奥座敷の壮年の男性がこちらを見た。 「突然失礼します。私は37,8年前に向いの家に住んでいた山田というものです----」 すると奥の炊事場にいたらしい女性が、 「タダミさん?」 と言った。 自分の名前がよばれたので、一瞬茫然とした。まったく予期しないことだった。 「はい、そうです」 女性は奥から姿をみせ、 「窓から見え、----見かけない人だったので」 走りでてきた子供に、「ばあちゃん呼んで来て、早く!」 私が突然立ち寄った経緯を話すと、そのひとは、Tさんの嫁だと言った。 「私はこの村の出身ではないけど、小学校は同じ。タダミさんより2,3年上だったけど、おぼえていますよ」 「私たちはたった2年間しかいませんでしたのに。しかも37,8年も前のことを」 「タダミさんのことはおぼえている」 奥座敷の壮年の男性が、当時6年生か中学生だった「お兄さん」だった。あの頃、「お兄さん」たちは山のなかでパラシュートが落ちているのを発見した。それには小型の機械がくくりつけられていた。戦後まだ7年目のことだったから、その見なれぬ物体は危険な爆発物か軍事品ではないかと子供は思った。「お兄さん」たちは相談のうえ、山二の主人のところに持っていった。私もついていった。中庭に面した廊下で山二さんはその機械を見ていたが、それが気象庁の飛ばした気象用ラジオゾンデであると言った。気象庁へ送りとどけなければならないと。私たちは爆弾でなかったので、すこしがっかりした。----しかし、「お兄さん」はこのことを憶えていなかった。そして代って自転車にまつわる話をはじめたが、こんどは私がそのことを忘れていた。 私は時間が消し去ってしまったものを、お茶とともに飲み干した。 帰りぎわに「お兄さん」はダンボールにレタスを詰めて持たせてくれた。 私は樋口先生の消息をたずねたかったが、ことばには出さなかった。 その日からすでに15年が過ぎている。
Oct 27, 2005
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光男さんは私が1年生のとき3年生だった。本来なら4年生だったはずだが、身体が不自由だったので就学を遅らせたのだった。脊椎彎曲症だった。しかし光男さんは頭脳明晰、福々しい丸い顔にいつも笑みをうかべていた。彼の家族はみな光男さんが大好きなようだった。「光男は仏様のようだ」と言っていた。 私も光男さんが大好きだった。よく家に遊びにきてくれた。縁側に腰掛けて脚をぶらぶらさせ、飴を舐めながら、いろいろなことを話した。ある日、やはりいつものように縁側に腰掛けながら、光男さんはこんなことを言った。 「僕はおおきくなったら、家を出るつもりなんだ。手に職をつけて、こんな躯だから、坐ってできる仕事をしながら独りで暮すんだ」 「どんな仕事?」 「裁縫かな----」 光男さんははにかむように微笑した。 私は8歳のこの日のことを忘れはしない。そして光男さんを。写真はないけれど、その顔や姿をいまでも鮮明に憶えている。 いま、これを書いているうちに、モニターが曇ってきた。涙がわいてきてしまった。ちょっと手を休めましょう。 光男さんにはピピちゃんと呼ばれていた妹がいた。私より1歳下。ピピちゃんの入学式の日の朝、紺色の真新しいセーラー服を着て我家にやってきた。手に赤飯を詰めた御重を持っていた。お祝のおすそわけ。母に御重をわたして、嬉しそうに駆けていった後ろ姿がよみがえってくる。 ピピちゃんは立派な雛人形を持っていた。代々つたえられてきたものらしく、いわゆる享保雛のような風格があった。享保雛というのは徳川吉宗の時代(1716-1734)につくられたもので、人形史のなかで突出した工芸性を有している。私は縁先からその段飾りをのぞき見て、あまりの見事さに打たれてしまった。 また光男さんや男の子たちのために、端午の節供に庭に建てられた鯉幟や鐘馗像が描かれた幟も昔のもので、とても大きな立派なものだった。鯉幟は一匹が2間半はあったかもしれない。 古色がついた物の美しさや、工芸美というようなことを、私は初めて感覚でとらえ、認識したのである。 光男さんとピピちゃんの家の節供飾りがきっかけとなって、それまであまり身近すぎて気にも留めなかった自分の家の古道具にも目がゆくようになった。たとえば黒漆の弓と、鷹の羽の美しい矢が20本ばかり揃っていた。弓は矢擦りや千段巻きに赤漆の籐が巻いてあり、奥の間の長押にかけられてあった。ときどき父は弦をかけて私と弟にみせてくれた。私は篭手(こて)をはめて、ボクシングのグローブ代りにあちらこちらの柱をなぐりつけて遊んだものだ。 この弓は昭和24,5年頃、父が甲武信鉱山に転勤になる前の居住地、北海道の羽幌町で、大相撲の巡業があり、弓取式に使わせてほしいと請われ貸したことがあった。おそらく戦災で、そのような式に使用する弓が失われていたのではあるまいか。後にプロレスラーとして活躍する力道山もその巡業に来ていた。 さて、ある夜のことピピちゃんがやって来て、「牛乳風呂をたてたのでお入りにおいでください」と招かれた。私は出かけ、湯舟にまんまんと湛(たたえ)られた真っ白い牛乳風呂につかった。クレオパトラではあるまいし、後にも先にもこんな風呂にはいったことはない。子供だから贅沢という意識はないのだが、甘い香りのなかで陶然とした。 光男さんの家の裏山の木立のなかに良い香りのする茸がたくさん生えていた。私は両手いっぱいの茸を採って家に持ち帰った。母が、「これは椎茸だけど、どこにあったの?」と聞いた。私は裏山の場所を指した。「椎茸は農家の方が栽培しているものなの。これは、よそのおうちのものよ」 あんのじょう、Iさんのお爺さんがおこってやって来た。母は平謝りしていた。結局、その椎茸はもらってしまったのだが、私はどうも赤ん坊のころから椎茸が大好きだったらしく、ニックネームが「シータちゃん」と「チョンコ」と、ふたつあった。 茸で思い出した。この裏山をのぼりきったところは、潅木の林を拓いて畑になっていた。そのはずれに伐採木の太い根方が掘り起こされないままになったいた。根が張り過ぎていて手のほどこしようがなかったのだろう。その株にクリ茸がこんもり生えた。私はこれも採ってしまったのだが、こちらは叱られなかった。 また、村の人たちと一緒に落葉松(からまつ)の林にナメタケを採りにいったことを思い出す。私はカピをもらいに行ったときの竹の背負籠を背負って行った。落葉松の林の光景が切り取られたように、いま、目の前にうかんでいる。 家族がみな出かけ、私ひとりが留守居をしていると、友達が2,3人遊びに来た。家のなかでワイワイ遊んでいたが、私はさきほど雑貨屋さんから届けられたばかりの変り玉飴(舐めていると赤や緑や白に色変わりする小さな丸い飴。マーブル飴)の箱を持出した。30cm四方、厚さ10cmほどの、いわゆる卸売り用の菓子箱である。菓子屋ではこの箱からガラス壜やケースに移して計り売りしていた。我家では、私と弟のおやつ用にまとめ買いしておく習慣になっていた。その日も、母が注文しておいた変り玉が入荷したので、さきほど私が受けとったばかりであった。私は箪笥の抽出をひっぱりだして階段状にすると、左腕には飴がぎっしり詰まった箱を抱え、抽出の上にたちあがり、花咲か爺さんのように部屋中にばらまいた。色とりどりの丸いちいさな飴が畳のうえをころがった。友達は歓声をあげて拾い、ポケットにつめた。みんなのポケットはみるみるふくらんでいった。私は嬉しくて笑いながら、飴玉をばらまきつづけた。部屋中が花畑のようだった。 「山田くん、これ、もらっていいの?」 「いいよ。みんな持って行っていいよ」 私は箱がからっぽになるまでまきつづけた。 母が帰宅したときは友達も帰ったあとで、空箱だけが部屋のまんなかに置いてあった。私が「すごくきれいだったよ!」と自慢げに報告すると、母は叱るのも忘れて呆気にとられていた。
Oct 26, 2005
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1年生の夏休みの最中、弟と押入の上の棚からとびおりて遊んでいたときのこと。私はとつぜん股間に激烈な痛みがはしって蹲った。 秋山の木村医院で診てもらうと、陰嚢水腫と診断された。陰嚢に水がたまる病気で、注射器で一時的に水を抜き取ることはできるが、また再発するだろうということだった。木村先生は、ちょうど夏休みなのだから手術しなさいと、岩村田の井出病院を紹介してくださった。 井出病院の院長先生ご一家は、奥さんも息子さんも医師ではなかっただろうか。名医として名高かった。 私は手術室まで歩いて行き、まる裸になると自分で手術台によじのぼって横たわった。口の上にマスクのようなものが吊され、ゆっくり数をかぞえるように言われた。麻酔薬が滴下され、その臭いが鼻腔をみたし、私は意識を失った。数はずいぶん長くかぞえていたらしい。 意識が回復したとき、私は病室のベッドに寝ていた。蒲鉾型の金属のおおいが身体のうえにかぶせられ、上掛蒲団の重みを軽減していた。股間をつつむ油紙の臭いが鼻を衝いた。 麻酔薬によるいわば〈不自然〉な眠りは、その後長い年月、無気味な夢として私の無意識を支配した。病気の熱にうかされると、きまって自分の指が巨大化する夢をみた。その巨大な指の爪を、小さな私自身が、プッチンプッチンと切っているのだ。そのときの気分が麻酔で眠らされたときの気分と重なっていた。 こうして1年生のはじめての夏休みのほとんどを病院のベッドですごした。母と弟が同じ病室につきそい、私は少年雑誌の懸賞に応募したり、院長先生に注射器の扱い方をおそわったり、病理学標本室をみせてもらったりしていた。ガラス壜にホルマリン漬けした奇形胎児の標本や、手術で摘出したさまざまな病的器官がずらりと並んだ棚のあいだを巡り、先生の説明を聞きながら、私は一種の感動につつまれた。私は医者になりたいと思った。この思いは強く、周囲に口外するようになり、中学生時代も胸に抱きつづけていた望みだった。高校生になって、ゆえしれぬ深い孤独感にとらえられ、その獄のなかでいつかしら芸術的表現だけが自らの支えと気付くまでは----。 病院の食事時間は、給食係がチャイムを「(↑)ドミソド~。(↓)ドソミド~」とスローテンポで鳴らしてしらせ、しばらくすると配膳用の台車が病室にやってきた。入院するまでは毎日のように山野を遊びまわっていたのが、日がな一日ベッドにいるのだから、このチャイムの調べは待ちどおしかった。 その後いろいろな場所と機会に、チャイムの同じ音階を耳にしたが、いつもちらとこの病院の食事時間が胸をかすめた。 ある日、夜中にふと目をさますと病室に母と弟の姿がなかった。ベッドから起きだし、病院のなかをあちこち探してみた。しばらく玄関にたたずんでいると、二人が看護婦さんといっしょに帰ってきた。町でアイスクリームを食べてきたのだという。私は食べ物をうらやましく思うことなどなかったのに、この時ばかりはひどくうらやましかった。自分がおいてけぼりにされたという思いがあったのだろう。 退院が近いある日の午後、私がウェーファーの添えられた上等なアイスクリームを食べさせてもらったのは言うまでもない。 ちなみに当時川上村にはアイスクリームは売っていなかったので、私たちが食べるとしたら、汽車旅行のさいに、駅のプラットホームで買って食べるのがせいぜいだった。制服制帽の売り子がアイスボックスを駅弁のように胸にかかえ、「えー、アイスクリン、えー、アイスクリン」と呼びながらプラットホームを小走りしていた。1cmほどの厚さの四角いおとなの掌大の経木箱に入って、たしかアルプス山脈が描かれた空色の紙につつまれていた。現在の種類も豊富な濃厚な味にくらべると、一層淡白といってもいい味だったが、それだけに今それと同じものを口にすれば、忘れがたい〈懐かしさ〉を感じる美味さにちがいない。 私の手術痕は、陰茎の左脇に長さ4cmくらいだった。抜糸のとき、私はいったいどのように行うのかと、半身を起し、興味津々で先生の手許を見ていた。なんのことはない、鋏で糸の結び目をプツリプツリと切り、ピンセットで一本づつ抜き取っておしまいだった。でも、一瞬だが、たしかに肉のなかを糸が抜けてゆく感覚があった。 退院して自宅にもどってからは、しばらく戸外で遊ぶのをひかえていたかもしれない。健蔵くんや清忠くんなど、ともだちが家に遊びにきた。私は濡れ縁に立って、半ズボンの裾から手術の痕をみんなに見せた。まるで自慢でもするかのように。 そんなわけで初めての秋の運動会は、クラスの全員が出場しているときに、私はたった一人で1年生の控えの蓆(むしろ)にすわっていた。取残されているという気持はまったくなかった。いつも休み時間に教室で本を読んでいるのとさして変らなかった。観客や全校生がぎっしり円形にとりかこむなか、ぽっかり空いた席に澄ました顔でいる子を、みんなはどう見ていたのだろう。しかもプログラムが、お母さんとペアになって『お馬の親子』の遊戯になると、その子はさっさと席を立って父兄席の母のもとへ行き、いっしょにみんなの輪のなかに参加したのだから。----母があとからあきれていた。(つづきはまた明日)
Oct 25, 2005
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樋口先生が教えて下さったのは鱗粉転写法だった。 展翅板で乾燥させた蝶の鱗翅を丁寧に4枚に切りわけ、アラビヤ糊(当時市販されていた液状糊)を塗りひろげた2枚の和紙でそれぞれの鱗翅をはさみこむ。すっかり乾燥してから、明かりにかざしながら翅のかたちに切り抜くと。鱗粉が転写された表裏8枚の翅ができる。それを台紙に貼って、蝶の形状を復元するのである。 蝶の標本をつくるようになってから、私はどこにでかけるにも捕虫網を携えるようになった。梓山や秋山ばかりでなく、母につれられて御所平や信濃川上に行くときも、バスのなかで補虫網を握っていた。 山の畑で、潅木のあいだをゆるやかに飛行する〈アサギマダラ〉を捕えたときの光景----。また、村の墓地の前の道端で〈ウスバシロチョウ〉を捕獲したときの光景。 ----その蝶は路端に咲いたアザミの蜜を吸っていたのだ。透明な翅をした奇妙な蝶だった。鱗粉が剥げ落ちた標本には不向きな個体かと思ったが、思うより素早く網が掬い採っていた。そしてこの蝶が本来透明な翅をしていることを知るのだが、私は鱗粉転写するにあたって、のちのち悔むようなことをしてしまった。白い和紙では、透明感がわからないだろうと思い、オレンジ色の紙を使うことにした。しかし結果は大失敗。単にオレンジ色の翅にしか見えないのだ。しかたなくこの奇妙なしろものを台紙に貼り、採集記録のラベルを添えた。代りの個体を採集するまでの一時しのぎと考えた。でも、その後ついに〈ウスバシロチョウ〉を採集する機会はなかった。 この小学1年生のときにつくった標本は、八総鉱山へ転校してから採集したものを追加して、52年後の現在も手許の大きな櫃のなかに残っている。オレンジ色の〈ウスバシロチョウ〉も! こうして自然科学への関心をもちはじめた私に、樋口先生はもっと多くの機会を与えてみようとしたのかも知れない。食虫植物の群生地に連れて行ってくれたり、6年生の理科の課外活動に1年生の私をいれてくれた。 6年生はそのとき草木染めの研究と実験をやっていた。私は単独で蘚苔植物の標本をつくることにした。普通の植物標本よりやっかいだったけれど、それでもたちまち種類を増やすことができた。父のあとについてカピを連れて坑内も探索した。たしか70余種にのぼった梓山一帯の蘚苔類標本は、その年、長野県小学生科学コンクールで受賞した。先生が応募してくださったのだ。標本はコンクールからもどると、請われてそのまま学校に寄贈した。 私は日々のできごとや自然観察などを絵日記として書き留めていた。学校の宿題ではなく、私が自発的におこなっていたことで、これを毎日樋口先生に見せていた。朝、登校すると提出し、下校時に返してもらう。先生は赤インクでかならず感想を書いてくれていた。1行のときもあれば1ページにおよぶこともあった。家庭内のよろこびを書けば、「タダミさんのうれしい顔が目に見えるようです」とか、----いまでも鮮明に思い出す記述は、月の暈(かさ)の観察に対する科学的な解説だった。それは虹ができる仕組みについての説明におよび、霧吹きで虹をつくって実験してごらんなさい、と結んでいた。私は弟と一緒に虹をつくって遊んだ。 私はたぶん何でも樋口先生に見せたかったのだろう。絵日記ばかりでなく、絵や書き取りの練習帳まで、家でやったことは残らず提出していた。こんな子はクラスで私ひとりだったが、先生は面倒な顔をみせたことがなかった。ちょこまか動き回る33人の1年生を相手に、先生の労苦はたいへんだったであろう。それに加えて、私という特異児童がいたのだ。 私は家に帰ると捕虫網を片手に山野をあるきまわり、学校帰りに秋山の透ちゃんの家に寄り道して、その後はたいして知りもしない森のなかの道を長い時間かけて帰宅するような子供だった。けれども学校では、休み時間に級友と運動場で遊ぶことはほとんどなく、たったひとり教室に残って本を読んでいた。学級文庫として講談社の絵本が全册そろっていて、私は『百合若大臣』などに夢中だった。学級文庫を読破し、先生に「ぜんぶ読んでしまいました」と、他の本を催促するかのように言うと、樋口先生は私を正面玄関横にあった図書室に連れて行った。 私はいまになって樋口カエ子先生の教育を驚きをもって回想する。先生は私を一度も否定したことがなく、また強制したことがない、悠揚迫らず私の興味と関心がむくところの環境を整え、あらたな扉を開く手助けをしてくださった。私が人生最大の出会いと思うゆえんである。(つづきはまた明日)
Oct 24, 2005
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昭和27年4月、私は川上第二小学校に入学した。 私の教室は正面玄関に向って右側一階の一番はずれ、生徒通用口のすぐ左だった。通用口の右は講堂である。私の教室の真上は音楽室。スタンド型ピアノが一台据えられてあった。 入学式当日、式が終わって教室に入った。私の席は黒板に向って右はじの前から3,4列目だった。教科書が配られ、それを開いたときのなんともいえない嬉しさを憶えている。そして名前を呼ばれたときの嬉しさ。----私の名前は読みがむずかしいので、その後の転校先や上級学校で、はじめから正しい読みで名前を呼ばれたことがない。まちがった呼び名を私はいつも自ら正し、そういう教師たちを迂闊な人物だと判断した。もしかしたらその批評の基盤には、はじめての日に正しく私の名前を呼んでくれた樋口カエ子先生が存在していたかもしれない。 私は名前の処遇については厳格である。幸い60年間、私は一度も名前を呼び捨てにされたことはないが、もし呼び捨てにされたら、それが誰であろうと返事をしないであろうし、それ以前に「無礼者!」と一喝するであろう。私も、かつて一度たりとも、人様のお名前を呼び捨てにしたことはない。人の名前というのは物名とちがって、人格に由るしか根拠がないのだ。呼び捨てにするということは人格を否定するに等しい。こういう認識を私はごく幼いころに自ずと得ていたのだった。 さて、運動場の片隅に木製の雲梯(うんてい)が据えられていて、そのそばを小川が流れていた。入学してまもなくの頃、その小川のそばで歯磨きの稽古をしたことを思い出す。 ----何かおおきな事件を記憶しているというのではない。変哲もない日常の一瞬間が、フワリと朧に浮かんでくる。あるいは部分的にくっきりあざやかな映像として。 教室のうしろの壁の腰板に、児童の人数分の唐傘が備品としてずらりと並べて掛けられていた。全学年の教室に備えられていたのかどうか分らないけれど、このような教室備品を、私はその後どこの学校でも見たことがない。しかし私の記憶はその珍しさのためでもなさそうである。つぼめられた唐傘の茶色の整然とした並びが、美しく目に浮かぶ。 ----上級生の女の子が私を音楽室に連れて行き、壁の腰板のちいさな節穴に目を押しあてて、「のぞいてごらん」と言った。私がのぞくと、思いがけない光景があった。眼下に人の姿が見えたのだ。 そのまぼろしのような人影を、私はその後、おりにふれて思い出した。 二階の音楽室の正反対にある教室はなんの部屋だったか忘れたが、一年生は使用したことがない。ただ一度、学芸会か何かのおりに通りかかると、その部屋からレコードの音楽が聞えてきた。並木みちこの『りんごの唄』だった。 学芸会で音楽劇『春がきた』をクラス全員の出演でおこなった。枯れ野原に雪が降り、やがて雪が消え、緑が芽吹いて春の女王がやってくる。花が咲き、蝶が舞う。 私は雪の子だった。運動着の白ずくめの衣装、頭に運動帽にふわふわな綿を縫い付けて冠った。「ちらちらゆ~き、ちらちらゆ~き、もっと降れもっと降れランランラン」と歌いながら、一番最初に登場する。そして何かセリフのやりとりがあって、遠くから聞えてくる春の歌声とともに、雪の子たちはステージ上に飾り付けられていた枯れススキの茂みをくるりと回して退場する。ススキの裏側には緑の草が生い茂る切り抜き絵が描かれていた。春の女王は、たか子さんだった。花たちや蝶をひきつれて登場した。花たちは頭にチリ紙を成形して霧吹きで彩色した冠をかぶり、蝶は身の丈ほどのおおきな翅(はね)を背負っていた。蝶を演じたのは男の子で、いまでも顔を憶えているのだが、名前を思い出せない。 じつは練習の初めのころは、私が蝶の役だった。途中でたくさんセリフのある雪の子に交替させられたのである。ところが衣装ができてみると、雪の子はいかにもつまらなく、蝶の翅はとても美しくりっぱにできていた。腕を開閉すると翅も開いたり閉じたりするのだった。彼が腕を動かしてためしているのを、私はうらやましく見ていた。 蝶といえば、ある日の理科の時間、先生が窓際に机を寄せて、その上に一台の顕微鏡を据えた。先生はプレパラートをのせてレンズを調節してから、私たちに順番にのぞくように言った。私が見たのはまるで万華鏡のような絢爛たる色彩の世界だった。小さな矢羽根が整然とならび、きらきらと七色に輝いていた。 「蝶の翅です」と先生は言った。「鱗粉といいます。ウロコの粉という意味です。魚のウロコのようでしょう。私たちの目には気付かないけれど、蝶の翅の表面はこんなふうになっているのですよ」 ----詳しい経緯は忘れたが、たぶんこの時の衝撃にも似た経験が起因して、私は樋口先生の指導のもと、蝶の採集標本をつくりはじめる。もちろん正規の授業ではない。(つづきはまた明日)
Oct 23, 2005
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我家の向いのTさんの家には本道に面した巾10mほどの畑のはずれから二股に分れた私道を行く。その二股の根元におとなが二抱えもするような大木があった。何の木だか忘れてしまったが、丈は低く、主幹は2m50もなかったかもしれない。まるで不格好な掌みたいに、てっぺんに細い枝を何本も突き出して、こんもりとした葉叢を成していた。私はこの木がなぜか気になっていた。好きだったのかもしれない。幹のふもとに、たぶん馬頭観音ではなかったかと思うのだが、石像が祀られていた。 引っ越しした年の二百十日に、一晩中、大嵐が吹き荒れた。我家の周囲は他家にくらべて何もないガランとしたところだったので、道路や隣の広場をおおきな音を轟かせながら風が通り抜けてゆくのが聞えた。例の大木からも葉叢を打鳴らす音がしていた。----翌朝、私はその木が葉を散らせてほとんど丸坊主になっているのを見た。 当時、川上村地方の冬の積雪はほとんどなかった。だから子供たちがスキーをする光景を見かけたことがない。とはいえ寒さは文字どおり凍てつくばかりの日がつづき、池や沼は厚い氷におおわれた。子供たちはスケートや氷上用ソリで遊ぶのである。小学校の運動場横の田圃が、水を張られてスケート・リンクになった。市販されているスケートに乗っている人、自分でつくった竹スケートに乗っている人。氷上用ソリというのは、接氷面に竹や、大抵は直径3ミリほどの鉄線を取り付けた、おしりがのっかる程度のおおきさのもので、両手に錐状のストックを持って漕ぐのである。そのストックは長さといい形状といい、大工道具の錐にそっくりだった。 私もソリを持っていた。父がだれかに頼んで作ってもらったのだ。ほんとうの大工さんが作ったらしく、きれいに鉋掛けされ面取りされたソリだった。 我家の裏手、つまり隣家の食堂と我家の物置とバス車庫の背後一帯は、高さ1間ほどの急斜面の窪地で、ちいさな沼だった。そこにも氷が張り、私はひとりでそのアイス・リンクでソリ遊びをした。普段はなんだか底無し沼のような感じがして、遊ぶのを禁じられていた場所だった。 山二旅館の裏に水車があった。そこからお爺さんと娘さんが住む家の裏をとおって製材所まで、大きな樋が架かっていた。沼のあたりで高架になっていたが、当時はもう樋は使われていず、高架になるところで朽ち果てていた。昔、製材所で使用する水を運んでいたのだろう。朽ちた樋はいかにも危険だったが、私はよじ登ってその中で遊んだ。ときどきちょろちょろと流れる水が、高いところから沼のはずれに落ちていた。それが冬は太い氷柱(つらら)になってぶらさがった。 昭和27年が明けて、健蔵君の家の向いの土蔵脇の裏山に設けられた小広場で、村の青年が中心になって正月飾りを焚く「ドンド焼き」がおこなわれた。私にとってそれは〈村落共同体〉の伝統行事を目近で見るはじめての経験だった。遠巻きながら村の子供たちにうち交じり、夜の闇を赤くそめる炎に顔をあぶられていた。 2月に入って、私と弟は母に連れられ新潟の伯父伯母の家を訪れた。母は妊娠していて、出産のための滞在だった。そしてこのとき、私は母の妊娠の事実をまったく知らなかったのだと思う。伯母の家に着くと母はまもなく入院し、私たち兄弟は伯母の家に残された。伯母には5人の子供がいたので、たぶん賑やかだっただろうが、私には家裏の沼や円形のテーブルを据えた応接室の様子がぼんやり思い出せるだけだ。 ある日、弟の手を引いて病院をたずねて行った。二階のまるで旅館の和室のような部屋に、蒲団をのべて母は寝ていた。私たちが障子戸をあけると、母は寝たまま顔をこちらに向け、「来たの----」と弱々しく言った。私たちは部屋に入って、寝床の横に坐った。すると母が盆の上のカルピスをさして、飲むように言った。 枕許の飾り物ひとつない床の間に、新聞紙の小さな包みが置いてあった。 「あれ、何?」 私は聞いた。 「赤ちゃんよ。死んでしまったの。見てごらん」と母は言った。 私は新聞紙を解いた。重なった何枚かの新聞紙をあけてゆくと、やがて血が滲んだ新聞紙の塊がでてきた。そして、べったり張り付いた紙をそれ以上取り除くことはできそうになかった。私はまたそれを包み直し、床の間に置いた。 この場の私の記憶はこれだけで、その余のことは何も憶えていない。後日母の言うことには、あの包みのなかの小さな遺体は伯父が火葬場にもって行ったそうだ。そして、申しわけ程度の骨を持って帰ったのだが、じつは胎児の遺骨は完全に燃え尽きてしまい何も残らなかったので、別な遺骨をしるしばかりにもらってきたという。母は「そんな見ず知らずの人の遺骨を持っていることはできない」と突き返すと、伯父はまた火葬場へ返しに行ったのだった。 この新潟滞在中、母の退院後のことだが、4月になると私は小学校に入学するので、その準備のためにデパートへ買物に行った。ランドセルや金釦が付いたダブルのブレザースーツや学帽を買ってもらい、それらを身に付けて写真室で2枚の写真を撮影してもらった。1枚は私ひとりで。もう1枚は母と弟と一緒に。
Oct 22, 2005
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昨日、昭和26年半ば過ぎから28年9月末まで私たち一家が暮した長野県川上村梓山にふれた。ちょうど私の就学年令に一致していた。そのためもあろうが、この村で過した2年間は、私にとってとても大きな意味をもっているように思う。樋口カエ子先生との出会いが最も幸福なことである。私は自分の持っている可能性を、樋口先生によって引出されたと思っている。私の手許には今も、小学校1年生の正月に先生から頂戴した年賀状が残っている。また、八総鉱山へ移転する際にくださった折畳み式の2.5倍のルーペは、私は画業に使いつづけているのだ。 そんなわけで、事のついで、記憶がうすれないうちに川上村での事を書いてみようとおもう。読んでくださる方には、面白くも何ともないことだが、勘弁しておつきあいください。 私たち家族----両親と私と弟の4人が入居したのは、一戸建ての社宅で、山二という旅館を営んでいた人の持ち家だった。私たちは到着したその日にこの家に入ったのではない。たしか1,2日間、近くの白木屋旅館に宿泊した。たぶん荷物の片付けがすんでいなかったのだろう。 この家は、6畳と8畳の二間に4畳半ほどの台所、浴室、トイレ、そしてやはり4畳半程度の土間の物置が付いていた。居室二間は鍵状に濡れ縁がめぐっていた。家そのものも一間丈の板塀が鍵状にめぐらされていた。 1坪弱の玄関の三和土(たたき)は板張りだった。この三和土には〈秘密〉が隠されていた。3尺巾、厚さ3寸の板は、1枚1枚はがすことができた。するとぽっかりと半間丈の穴蔵が口をあけた。いわゆる室(むろ)。たぶん戦時中に食糧を保存していたのではあるまいか。防空壕ということはないだろう。あるいはたんに畠作物の越冬用貯蔵庫か。----いずれにしろ、私はこの穴蔵の存在にいたく想像力を刺激されたのだった。頭のなかで物語が生まれては消えていった。 門に向って右手はちょっとした広場で、バスの発着所。裏手に車庫があった。当時、バスはまだ木炭車で、うしろに円筒形の竃を背負っていた。その竃に詰める円形の座布団のようなものが、オイルのドラム缶が並んだ車庫の隅にころがっていた。煤にまみれたそれは、棕櫚の皮の固まりのようでもあり、毛髪の固まりのようでもあった。 バスは梓山のこの広場を始点に、秋山、井倉、御所平を通って国鉄の信濃川上駅前までおよそ15kmの区間を結んでいた。 広場の奥のつきあたりに、お爺さんと娘さんが暮す小家があり、広場右手は畑。そこからは山二旅館の敷地だった。山二さんは本家と別家があり、旅館は別家のものだった。本家はすぐ隣に屋敷をもち、近くで製材所を営んでいた。旅館はそのころもう営業していなかったのではなかろうか。中庭を囲んでぐるりと建物が建っていた。道路に面した部分は昔風な長屋門で、そこに鉱山労働にたずさわっていたMさん一家が住まいしていた。Mさんは住友金属鉱山の正規の社員ではなかったが、たぶん甲武信鉱山の閉山を見越した人員整理により、さきに父が転勤していた八総鉱山にほぼ同時期にやってきた。Mさんには私より3歳年上の澄子さんがいた。八総鉱山でのこと、ある日、澄子さんが我家に遊びにきて、私が描いた蝋燭の焔の絵をみて、もっと厚塗りをして立体的にしてみたらどうかと提案したことがある。 Mさんとは反対側、つまり広場の畑側の角にふたりの姉弟が住んでいた。姉はそこで床屋を営んでいた。弟はたぶん中学生だったのではないかと思う、電気工作が好きで、パン焼き器を作ったといって私に見せてくれたことを思い出す。いわゆるトースターではない。練り小麦粉のパン生地を焼き、パンをつくる器具である。当時我家にも直径25cmほどのリング状のパンを焼く器具があったが、それは火にかけて焼くものだった。都会はいざしらず田舎町ではパン屋などなかったし、戦時中はそうした器具で自家製のパンを焼いていたのである。電気パン焼き器というのは、大層新しい着想だったのではあるまいか。四角い箱のなかにニクロム線の電熱器が仕込まれていた。もっともこの電気パン焼き器が実際に使用できたかどうかは知らない。 我家の向い、道路と畑越しにTさんの家、その手前、我家のはす向いがIさん、隣はしばらくして小さな食堂を店開きした。Iさんの家から2,3軒先に同級生のたか子さんの家、その向いが山二本家の製材所。そこから先は数十メートルでゆるやかな上り坂になり、となりの聚落秋山に到る。梓山も秋山も梓川に添ってひらけていた。甲武信岳に源を発する千曲川は、梓山聚落のなかほどで金峰山にふたつの源流をもつ梓川と合流していた。このあたりの流れはゆるやかで、広い川原もあり子供たちの水遊びの場所だったが、坂の道路際は唯一の切り立った崖だった。崖下に急流の白い波濤が見えた。坂の右手前の奥まったところに墓地があった。早春、墓の周囲に福寿草の黄色い花が咲いた。 山二旅館の前を通り、梓山聚落に深く入ってゆくいわばとばくちで道路はひとこぶの小さな坂を上り降りする。右側の石垣の上に土蔵が建ち、左手に二人の同級生の家がならんでいた。健蔵君と清忠君の家である。 引越してすぐの頃だったが、私たち三人とほかに一人二人が健蔵君の家の庭先で遊んでいた。すると誰かが蛇をみつけたのだ。清忠君が棒切れでその胴をすくいあげた。そして道路の方に走りだした。みんながあとを追った。おりしも土蔵の前の坂を大きな籠を背負った行商人がのぼってきた。清忠君はその人に向って、棒の先にぶらさがった蛇を投げつけた。いや、ただ道路の方に放っただけかもしれない。しかし、蛇はものの見事にその人の目の前をかすめて飛んだのだ。その人は驚いただけでなく、子供たちに愚弄されたと思ったにちがいない。烈火のごとく怒りが爆発したのである。----清忠君はじめ私たちは、さんざんお説教されたのは言うまでもない。 この坂を左に回り込むように下ると、梓川にかかる橋が見えてくる。橋の手前、右側に白木屋旅館、左側に同級生の四五六君の家。彼の家は当時の周辺の家々とくらべると、どことなくモダンな感じがしたように憶えている。二階部分がガラス戸をめぐらしていたように記憶するから、それから受ける印象だったかも知れない。紺色のスーツにオープンシャツの白い襟を出した服装をしていることがあった。しかしその洒落た服に、白い体操用の帽子をアミダにかぶっていた。その帽子がお気に入りだったのかもしれない。 橋の手前の白木屋旅館のわきを川沿いにまっすぐ道路がはしっていた。奈々子さんの家はその方面ではなかったか。そして、父の会社の鉱山事務所もその道を通って山深くはいって行くのである。思い出すと随分な距離を父は歩いて通勤していたことになる。そして愛犬カピも。 父が亡くなって火葬場で骨上げするとき、火葬場の職員がうたうように父の骨が太くて重く、普通のひとより量が多いと言った。そして入りきらない骨を積木ゲームのように工夫しながら押しこめた。そんなに父の骨が丈夫だったのは、きっと毎日の長い通勤距離の歩行や、探鉱現場視察のための山歩きに起因するのではないかと、私は思ったのだった。 さて、橋を渡ってすぐ左は運動場のような広場で、奥に二階建て木造の公民館があった。二階は仕切がないだだっぴろい部屋で、たぶん講堂だったのだろう。映画も上映された。美空ひばりの『悲しき口笛』や『牛若丸』、そして『お茶漬の味』や『馬喰一代』などを観たのは、この公民館の講堂でのことだ。一度、上映中にフィルムが燃え出した。きっとまだ一部の映画はセルロイド・フィルムを使用していたのかもしれない。映写機が煙につつまれたので、横手の階段から逃げ出した人もいた。が、たいていの人々はうしろを振り返って、驚きながらも事のなりゆきをながめていた。私もそのひとりだった。スクリーンに向って右側中ほどに坐っていたが、立ち上がって、消火作業を見ていた。その後どうなったか記憶にないが、おそらく大過なかったのだろう。 広場の隣、道路に面して雑貨屋があった。梓山地区でただ一軒の商店だったように思う。狭い店内に商品が積まれ、店の奥は一段高く畳敷きになって、いわゆる帳場だろうが、そこにも商品が山積みされていた。窓がふさがれて、薄闇がただよっているような感じだった。3月か4月だったろう、その薄闇のなか、畳の上に大きく立派な鯉幟が黒地に銀色の鱗をきらめかせてひろげられていた。胴巾半間もありそうな布染めの鯉は、からだの周囲を部屋の闇に滲むように溶け込ませていた。その光景が不思議な美しさで記憶に残っている。(きょうは、ここまでにします)
Oct 21, 2005
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櫻井淳さんのサイトで、ここ数日、可愛い犬の写真を掲載している。かなりの老犬だということだが、とてもそうは見えない。まだ世慣れぬ無邪気な幼顔をしている。この写真を見ながら、私は私のカピを思い出しているのだ。小学1年生の頃の飼い犬だから、52年もの昔のことだが、街で狐色の姿のいい小型犬に出会うと、その犬のことがチラと胸をよぎる。人間のことは名前さえ思い浮かばなくなっているのに、カピのこととなると、私はいまだにこころのどこかでその姿を探しているのだ。 そのころ私たち一家は、長野県川上村に住んでいた。そこに住友金属甲武信鉱山があった。甲武信鉱山は昭和12年に露頭が発見されて稼行し、戦後、昭和24年に住友金属鉱山株式会社が所有権を取得した。父が赴任したのはその2年後で、まだ探鉱の最中だった。じつはこの鉱山はそれから更に2年後の昭和28年頃までに、埋蔵量が稼行しても採算が合わないことが判明した。そのため父は、次の赴任地、八総鉱山へ転勤することになる。我家が川上村にいたのはわずか2年ばかりの間だった。 私の愛犬カピは、父の会社の事務員をしていたアッチャンの家からもらった。私が子供用の竹編みの背負籠を背に、生まれたばかりの子犬をもらいに行った。アッチャンの家は農家だった。表口から裏口まで土間が通じていて、外光のなかから屋内に入ると、一瞬目のまえが真っ暗になった。トンネルのように裏口の向うに光がふりそそいでいた。 子犬は裏庭にいた。狐色の芝犬だった。私は子犬を背負籠にいれてもらい、驚かさないようにそっと、しかし急いで1kmほどの道のりを帰ってきた。カピという名前をつけた。当時、ラジオドラマの『家なき子』が放送されていた。エクトル・マロー原作の『家なき子』である。そこに登場する犬の名前をもらうことを、私は初めから決めていたのだ。 カピは利口な犬だった。一度、父が事務所につれて行ったことがある。それからは、夕方になるとカピは家を出て、遠い道のりをひとりで事務所まで父を迎えに行くようになった。どのくらいの距離があっただろう。1里(約4km)はあったにちがいない。父の終業時間を見計らい、自分の歩行時間を見計らって、カピは家を出るのだった。 ちなみに川上村は、川上犬として知られる純粋稀種の産地である。優秀な猟犬と定評がある。現在ではTV放送されることもあり、比較的一般に知られているようだが、当時8歳の私は川上犬のことを耳にしていてもそれにはまったく関心がなかったと思われる。父が『犬の飼い方』という青い表紙の本を買ってきて、私もそこに載っている写真を見ていたけれど、私にとって犬はカピだけだったのだ。 我家にはカピのほかに猫のチョマコがいた。これは山二本家からもらってきた。真っ白い日本猫で、名前の由来は私の赤ん坊時代の呼ばれ名チョンコである。チョンコでは可哀想だからと、すこし変えてチョマコにしたのだ。誰が可哀想だったのだろう。私だろうか、猫だろうか。どうも猫だったような気がしたものだ。 おもしろいことに、カピとチョマコはとても仲良しだった。赤ん坊の頃からともに育ったので、犬猫の区別がなかったのだろうか。ついぞ喧嘩したことがないのだ。いつも一緒に遊んでいた。 昭和28年9月末、先に書いたように、私たちは八総鉱山に移転した。カピは檻に入れて、私たちと同じ列車の貨車に乗せた。ところが会津若松を過ぎ、荒海駅に降り立ったとき、駅員がやってきた。そして、カピが東京・八王子で何かのひょうしに檻が開いて、貨車から逃げたと告げた。捜索をしてはいるが、国鉄としては大変な不手際を謝罪したいというのだった。私たちは茫然としてしまった。もう捜せはしないだろうと思った。 こうしてカピは私のもとから姿を消した。可哀想なことをしてしまったという思いが、いつまでたっても私の胸を離れない。 現在、私は八王子の近所に住んでいる。この地に家を持ったとき、「ああ、昔、ここでカピが列車からいなくなったのだ」と思ったものだ。散歩しながら狐色の犬に出会うと、ふとカピではないかと、こころのなかで「カピや!」と呼んでいる。52歳のカピに出会わないかと----。バカなはなしである。
Oct 20, 2005
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別館の『映画の中の絵画』で『薔薇の名前』をとりあげたのは彩飾写本について書くためだった。映画の小道具としての彩飾写本はじつにみごとにできていた。初公開時のパンフレットによると、二人の絵師たちが6ヵ月かけて再現した。実際に金色の葉の装飾がある古い羊皮紙を使用したらしい。この映画の道具類はみなそのようにしっかりと作られたようで、教会堂の椅子や写字室の机はオークの古材を用い、三段重ねの吊り燭台は重さ1トンもあり、これは撮影後、修道院に寄付されたそうだ。 私が面白くてワクワクしたのは、謎の八角塔。文書館の迷路の塔である。このセットはチネチッタ・スタジオに構築され、高さ30メートル、5階建ての塔だというからすごい。セット・デザインを担当したのはダンテ・フェレッティ。設計図に1週間、それから小さな模型をつくって検討し、建設には3ヵ月を要したという。 映画は、画面に映っているものすべてが作品表現である。近景であろうと遠景であろうと、またどんな些細なこともすべてが表現されたものである。だから、さまざまな担当分野でこういう職人技が発揮されると、画面の存在感が全然違ってくる。私は繰り返し見て、あっち見たりこっち見たりしながらいろいろなことを発見し、映画表現を楽しみながら貪欲に味わう。 『薔薇の名前』の原作は、周知のように世界的にヒットしたミステリー。この小説のように〈塔〉が登場するミステリーをちょっと思い出してみよう。塔はなにやらいつも謎めいていて、人の想像を怪しく誘うようだ。(1) 江戸川乱歩『幽霊の塔』(2) 横溝正史『三つ首塔』(3) 同 『呪いの塔』(4) 鮎川哲也『積木の塔』(5) 小林久三『蒼ざめた斜塔』(6) G・K・チェスタトン『背信の塔』(7) F・W・クロフツ『無人塔』(8) P・D・ジェイムス『黒い塔』(9) ディクスン・カー『ヴァンパイアの塔』(10) 同 『黒い塔の恐怖』 もう思い出さないかしら----、そうだ、ミステリーではないけれど、(11) サド『ロドリグ、あるいは呪縛の塔』(12) ウィリアム・ベックフォード『ヴァテック』(13) アレクサンドル・デュマ『鉄仮面』 次は、昭和30年頃の少年少女雑誌に掲載され、たしか東映で映画化されている。御記憶されている方はおありかどうか。あるとしたら、私と同年代の方でしょう。(14) 北村寿雄『オテナの塔』 このくらいで止めにしておこう。 サドの『呪縛の塔』を私は絵に描いている。1971年の作品。H72cm×W52cmの墨一色のペン画である。塔そのものを描いているのではないが、日本ファッション連盟が主催した公募展で選外佳作になった。『ロドリグの橋』というタイトル。ファッションとはまったく関係ない作品だったけれども東京松坂屋デパートに展示された。私の習作時代である。色絵具の材料学的研究をはじめた頃で、色を使うことに怖さを感じ、パレットからこの色を捨てあの色を捨て、結局、黒のニュアンスだけで描いていた。描くエネルギーは爆発的で、紙を貼ったB2パネルを、紙も破れる勢いで一日一点作っていた。そんな思い出が『呪縛の塔』にはある。 『ヴァテック』はゴシック小説のなかでも珍書というべきもので、作者のベックフォードについては、かの詩人バイロンをして「アルビヨン(英国)の最も富裕なる公子」と歌わしめるほどの巨万の富みを有する伯爵家の御曹子。幼いころから古典の造詣が深く、『ヴァテック』は愛読書だった『千夜一夜』の影響のもと、23,4歳のころに3日4晩で書き上げてしまったといわれる。物語は天にとどかんばかりの高塔のいただきで始まる。 大予言者マホメット(ムハンマド)は神の名代として、教王ヴァテックの摩天楼建設という不信な乱行をご覧になって宣せられる。 「かれの塔は天の秘密をみきはめやうといふ暴慢をきはめた好奇心の烏滸(おこ)のさたである。かれがいかにあがいて見たところで、おのれの運命が知れやうはずはないわ!」 (矢野目源一訳) 「始めて塔の一萬一千の階段をのぼって、下界を眺めたときには王の心の驕(おごり)は頂上であった。人が蟻と見え、山脈は貝殻のやう、都城はさながら蜂窩(はちのす)である。この高さにのぼることが出来たといふのも、みんな自分の手で成就した自分の偉大さであると考へると王は気が遠くなるほど嬉しいのである。」 (同上) ここにはバベルの塔の伝説(『創世記』第2章1節-9節)が映されているのだけれど、バベルの塔が実在したかどうか、あるいは実際的に歴史的背景があるのか否かは、学問的にも昔から研究されてきた。ティグリスとユーフラテスの間には、数千年にわたって実際に使用された巨大神殿塔が存在したことが分っている。古代スメールや新バビロニアの楔形文字文献にはこれらの神殿に関する詳細が記されていて、現在では建設当初の姿をほぼ完全に復元することができるという。 バベルの塔伝説は絵画史上にもたくさんの作品を残している。なかでもオランダのボイマンス美術館所蔵のピーテル・ブリューゲル(1526?-1569)の『バベルの塔』は群を抜いてすばらしい。幸いなことに1993年から94年にかけて同美術館から東京のセゾン美術館に貸与され、私もまぢかでその実物をみることができた。 じつは私はこの展覧会よりちょうど10年前、1984年11月14日に起筆して26日までかかって『バベル・キューブ』と題した作品を製作した。この画廊の回顧展Part2のコーナーに展示してある。株式会社新日軽のPR誌のために描いたものだ。背景にバベルの塔を置き、現代建築を象徴するオブジェをだまし絵で描いた。カナダの『スタジオ・マガジン』というグラフィック・アート誌の年度賞をもらった。 さらに、1989年はエッフェル塔が建設されて100年目にあたっていた。私はふたたび新日軽の『COMPASS』誌に依頼されて塔について思いをめぐらし、次のような短文を書いた。 「1989年はエッフェル塔が建設されて100年目に当る。建築現場の永遠の足場のようなこの塔は、精神性と物質性とが拮抗するあやうい中間で、天を指向するよりは脚を踏ん張って地上に結びつく方を選んだ。ゴシックへの些少の郷愁をその身に漂わせながら、鉄鋼による巨大構造の可能性を未来に向ってアピールして、世紀の境目に建つモニュメントになりおおせた。以後、20世紀は、無意識の領域にまで及ぶ精神の葛藤や心理的な空間造型を建築に託すことをやめた。建築は全面的に実利性を目指し、不可能を知らない技術が、神々の去った遥かな天の高みに向ってオフィスや住宅を積み重ねる。現代建築史は光速で記されて行く。人口の極みを尽した《理想都市》が創られ、すでに光を失って廃墟と化した。人々はささやかな思い出を埋める場所を求めて四散した。魂はつくづく素朴である。我々は次の世紀の入口にあって、語るべき建築についてあらためて考えなければなるまい。」 新日軽『COMPASS』誌、1989年 というわけで、塔に託される夢は、いまやミステリー小説のなかにしかないのかもしれない。 そういえばジャン=ジャック・アノー監督の『薔薇の名前』には----『呪縛の塔より ― ロドリグの橋』 紙に墨、ペン 1971年
Oct 19, 2005
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2,3日降りしきっていた雨がようやくはれた。冷たい雨で、母の居間では早々と電気カーペットをいれた。猫たちが濡れ縁にうずくまって雨をながめ、からだが冷えると母の部屋に行ってカーペットに寝そべっている。 午後4時半頃、仕事部屋の窓が突然のようにモーブ色に染まった。灰色の雲の彼方に夕陽が沈んでゆく。一番下の猫がやってきて机に向っている私の膝のうえに坐った。顔を見上げながら、御飯の催促。「はいはい、ちょっと待って、ちょっと待って」、私は生返事をしながら仕事の手を動かす。猫は膝のうえで伸び上がって、胸にすがりつくようにして右手で私の頬に触れる。「わかった、わかった、いまあげるよ」 手を止めてたちあがり、キッチンに行く。おや、猫の缶詰の買い置きがすくない。明日の午後までもちそうにない。とりあえずの缶詰をあけ、皿にとりわけてやりながら、「ちょっと外出してくるよ」と家人に声をかけた。 玄関の廂のあたりに蔓をのばし、たった一輪咲いていたピンクの薔薇が、冷雨のためにすっかり散り落ちていた。西空はまだモーヴ色が残っている。 住宅街を歩いていると、そちこちに柑子の黄色い実が目につく。黒ずんだ厚い葉むらのかげに点々と丸い黄色がのぞいている。モーヴ色の空の下になかなかシックな配色だ。『徒然草』だったかしら、薮柑子に目をとめる描写があった。私が薮柑子を知ったのはその一節からだった。 1時間ばかりの散歩ついでに猫の缶詰などを買い込んで帰宅すると、それでも汗だくになっていた。シャワーを浴びて汗を流し、下着を全部とりかえて、キッチンで水をいっきに飲み干した。
Oct 18, 2005
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お類は七十になるかならぬ頃に、親しい十三人の同輩が、それぞれ美しい迦陵頻伽の羽毛の外套を着て、つぎつぎに自分を追い越し、たったひとり置き去りにされる夢を見た。 迦陵頻伽という鳥は、法話で聞き知っているだけで、実際に見たことはない。けれども夢のなかでお類は「ああ、迦陵頻伽の羽だ」と思った。五彩に輝く外套の裾を軽やかにひるがえして、佇み見送るお類に気づいているのかいないのか、皆、足早に遠ざかって行くのである。美しいが淋しい夢であった。 その日から十数年経ったいま、現実はその夢のとうりになっていた。降る年ごとに、ひとりふたりと、夢に見た順序で他界へ旅立って行ったのだ。 見てはならぬ夢を見てしまった。知るべきではないことを知ってしまった。・・・縁先の日だまりに独りつくねんと坐り、涙も涸れた目頭を拭うのである。 友達は、もう、隣村の今井さんだけであった。十三番目の友達である。 先々月、横田さんが亡くなったとき、通夜の席で、今井の若夫婦が、 「あとは、うちの爺ちゃんと、お類婆だけだわね。・・・どっちが先やら」 と、小声で言いあっているのを、お類は小耳にはさんだ。耳が遠いと思い、そうきめつけているので、小声とはいっても老人を憚っているわけではない。今井老人の盃を持つ手が、恐れたように震えていた。 「夢のとうりだよ。みな夢のとうりだよ」 数珠をつまぐりながらお類は呟いた。 人間、誰もが年をとる。それを忘れているのではない。横田老人は八十三歳だった。八十三歳の死をひとびとは当然のごとく受け入れた。受け入れて、悲しんだ。皆、こころから亡くなった人を悼んでいるのである。しかしそのこころの片隅に、手がかからなくなってほっとした気持があることも、また真実なのであった。あからさまに表われることは多くないかもしれない。表われそうになると押し込めてしまうこともあるだろう。 「横田さんは幸せなお人じゃった。極楽往生じゃ、極楽往生じゃ」 と今井老人は、お類に言うのだった。 「それに較べて、お勝さんは・・・」 「いいえ、そんなふうに思い出すのはやめましょう」 お類は今井老人の思い出をやさしくとどめた。「誰が悪いのでもないかもしれませんからねえ」 お勝さんは、横田老人の前に亡くなっていた。 中風で、這いずりながら失禁するので、野良仕事に出なければならない家人達は、つきっきりでいることもできず、別棟の、いまは使っていない物置小屋に老人を移し、錠を降ろしてしまった。裏の玉蜀黍畑で寝ているところを、大騒ぎのすえに見つけたこともあったからであろう。 それまでは、寝床の枕許に洗濯石鹸の大きな空缶を置いて、用事があれば、麻姑の手でそれを叩くようにしていた。お勝婆さんの世話をするのは、たいてい孫たちの仕事だった。空缶の音がすると、子供たちは遊びを途中でやめなければならなかった。聞こえないふりをしていると、いつまでも鳴り止まない。老人の力が次第に抜けてゆき、ほとんど聞き取れないぐらいに弱々しい音が、間遠に、果てもなく執拗につづいて、子供のこころにいたたまれない不安な影をおとした。そして、子供たちが駆けつけても、老人は、自分の用事が何であったかを忘れていた。あるいはただ枕許にいてくれ、と言うだけだった。・・・子供たちの遊びは家の周囲から、空缶の音が聞こえる範囲から、遠ざかっていった。 朝、家人達が出かけるときに、丼鉢に盛った飯と菜を置いてゆく。死ぬまでの三ヶ月、そうしてほとんど誰にも会うことがなかった。お勝さんは、飯を喉につまらせて、丼鉢のなかへ顔をつっこんで死んでいたのだった。 お類は、お勝さんが物置小屋に閉じ込められたと聞いて、一度だけ、横田さんと今井さんとを連れだって、様子を見に行ったことがあった。 そんなところを見るのは嫌だと言うふたりを無理に連れ出したのは、お勝さんは、十一番目のひと・・・。 ふたりが、後日あらぬことを言われるのを恐れるので、直接訪ねて行くことだけは止め、物置小屋を見おろせる裏の小山に登った。 足場の悪い細い山道を三人の老人は一列になって、杖をつき、息を切らしながら、長い時間をかけて登って行った。 しかし、小屋は軒下に明かり採りの小窓がひとつあるだけで、中の様子をうかがうことはできなかった。鶏が二羽、三羽、小屋の周囲で餌を啄んでいるのが見えるばかりである。 三人はただ黙って、小一時間も立ちつくしていた。 もう帰ろうという頃になって、 「お勝さんじゃ。そら、お勝さんの手じゃよ」 今井さんが指差す方へ、お類と横田老人は足を止めて振り返った。 「どこに? 今井さんや、どこにだね」 「そら、あそこじゃよ、小屋の右下の隅っこの・・・見えんかね。腰板が朽ちて、そら・・・鼠に喰われたように・・・破れているでしょうが」 「ああ。ああ、破れとるね。破れとるが、・・・手は見えんよ。・・・ねえ、お類さんには見えるかね」 「ええ。・・・いいえ」 お類は首をふった。 おおかた今井さんは何かを見間違えてそんなことを言っているのだろう。そう思った。 するとその時、腰板の穴から、すっと手が出てきた。そうして、何かを招いてでもいるかのように、地面を叩いた。 「あっ」 と、お類は息をのんだ。 まさしくそれはお勝さんの手だった。 「どうかね、お類さんには見えるかね」 横田老人は、眼下の小屋に喰い入るように顔をさし出しながら、もう一度言った。 「いいえ」 お類は、強く、はっきりこたえた。 「見えんでしょう?」 安心したように横田老人は言って、「嫌なことを言うもんじゃないよ、今井さん」 不快そうに頬をゆがめながら横田老人はお類を振り向き、目顔で、 (今井さんは、ひょっとすると危ないのじゃないかねえ) と言った。 お類は何もこたえなかった。 そして、横田さんの方へではなく、今井さんの方に目顔で合図した。 (このひとには、もう、何も仰言っちゃいけませんよ) 秋風の頃である。 火鉢に手をかざしながら、お類は閉てきった障子戸の下だけ硝子を嵌め込んだ窓から、ぼんやり庭を眺めていた。 物音といえば、鉄瓶の湯のたぎる音だけである。 しかしお類にはそれさえ耳に入らない。ただぼんやりと坐っている。今井さんでもやって来ないものかと思っている。たったひとりの茶飲み友達なのに、ここ十日ばかり顔を見ていない。近頃では、足許が危ないからと、家の者が出してくれないのだと言っていた。 「何を言っているんですよ。自分からどんどん歩くようにしなくてはいけませんよ。まだまだ目も耳も達者なんだし、そうそう年寄り扱いされて、若い者の言うことばかりも聞けませんよ」 そう、お類は少し強く言ってやった。 門の方で、草履の足音がした。 今井さんの足音である。 (やっぱりやって来た。十日も顔を見ないでいたのだもの、今日あたりは、きっとやって来ると思ってましたよ) お類はにっこり笑って、急いで白くなった炭火をおこした。 硝子越しに、老人の姿が見えた。 杖をつきながら、うつむき加減に、ゆっくりゆっくりやって来る。 杖が小石に躓いて、小石がころころと転がる。 (ほらほら、足許に気をつけて) 玄関の方へまわるらしい。いつもの茶鼠のもんぺが、たいそう懐かしく思えた。 しばらくしたが、老人の訪う声がない。 (裏庭に盆栽でも見に行ったのだろうかね) お茶の仕度をしながら、お類の気持はまるで恋人を待つかのようである。 二十分経った。今井老人は来ない。 (嫌だよ、あのひとは。ほんとに何をしているのだろうねえ) お類は待ちきれずに立って行き、障子をあけた。 秋の陽はもう沈みがちであった。庭の紅葉が夕陽に映えて、燃えるようにお類の目を射た。それはあたかも、あの夢のなかの迦陵頻伽が赤や黄に輝く翼を重ね合わせて、たそがれの空にいっせいに飛び立ったかのようだった。 「今井さんや。・・・お爺さんや」 お類の呼ぶ声に、今井老人の返事はない。------------------------------------------ 上に書いたのは、私の祖母の思い出に創作を加えたものです。書く前にチャールズ・ラムの詩を読んでいましたところ、‘The Old Familiar Faces’(懐かしき顔)の最初の一節にこうありました。 I have had playmates, I have had companions In my days of childhood, in my joyful school-days; All, all are gone, the old familiar faces. 中学生程度の英語ですから、あえて訳しません。これを読んでいるうちに、祖母が友人知人に先立たれ、たった一人生き長らえたと話していたことを思いだしたわけです。昨日書いた、伯父に腰を治療してもらった頃ですが、やはり14,5年ぶりに祖母が我家にやってきました。そして、「タダミさん、たっしゃでいなさいよ。私はあと3年しか生きられない。もう会えないからね」と言ったのだった。そのとき私はいろいろ祖母から聞き書きをしたのである。そして、それが祖母との最後の対面であった。
Oct 17, 2005
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前日書いた北海道の羽幌町に住んでいたのは昭和22年から25年までだった。羽幌映劇の火災はいまでも憶えている。私の家からは随分遠かったのだが、玄関脇の座敷の窓からは空を焦がす火焔が見えた。といっても窓は父や、そのころ我家に逗留していた伯父、そして下宿していた高校生の三人の大人達が占領してしまい、私はその脚の間から首をつっこんでかろうじて見ることができた。 ところでその伯父だが、たしか戦地から復員してきて間もなくの頃で、奇妙な小型の機械と、乳鉢や何やら薬品らしきものを携えていた。白い琺瑯引きのようなその機械は、どうやら低周波マッサージ機らしかった。そして乳鉢と薬品で膏薬をつくっていた。伯父は鍼灸師の免許をもっているらしかったが、じつは伯父の存在を知らしめていたのは伯父の手の力だった。当時私はそんな言葉を知らなかったけれど、いまなら「気巧術」、あるいは「手翳し治療」と言うことができる。患者さんの患部のうえ4,5cmのところに掌をおき、そのままじっと5分から10分ほどかざしている。ただそれだけである。1週間も通えば、たいていの患者はけろりと治ってしまうらしかった。 伯父はこの〈術〉を、戦時中にあるロシア人から伝授されたのだと言う。その驚異的効果を発揮したのは苫小牧の王子製紙の工場が空襲され、ひどい火傷のケロイドを負っていた人を治療したときだったようだ。そうして幾人もの人を救った伯父は、とうとうその術を施すことが職業になってしまったのである。 こんにちのようにテレビ等で伝えられるような気巧師や、その種の不可思議をやってみせる術師の風貌を想像しないでいただきたい。伯父は人のよいのんきな田舎の爺さんという感じだった。人柄もそのとうりである。ひとが何か神秘を感じて、そのことを問うたとしたら、おそらく伯父は目をパチクリさせたに違いない。神秘だとは全然思っていなかったのではなかろうか。 とはいえ、私は5歳そこそこだったけれど、伯父の職業がとてもいやであった。長じるにおよび、現代医学の何たるかを知り、自らも一時医学を修めようと本気に考えていたので、ますます伯父の存在を怪しむようになったのだ。5歳で伯父と別れてから、その後長い間、私は一度もあったことがなかった。ほんとうに嫌だったのである。 ところが、大学1年の夏休みに、私自身が伯父の施療を受けるはめになった。思いもかけないことだった。 中学3年生のとき運動会の練習時に、棒倒しの味方の棒が私のうえに倒れてきて腰を強打した。そのときはすでに親許をはなれて暮していたので、病院にも行かずすましてしまった。高校生になって体育で柔道を選択したが、その練習中に少し痛みを感じるようになり、次に大学に入ってフェンシングをやった。すると左腰に激痛がはしった。私は根が気丈なのか、それでもそのまま夏休みまでもちこたえた。夏休みに帰省の汽車旅行中に、ついに立ち上がれなくなってしまったのである。駅に迎えに来た父の車に這いながら乗って帰宅した。大学病院に行ったが、骨に異常はなく、したがって治療する必要がないと診断された。これには驚いてしまった。現に目の前に歩行困難な人間がいるのに、治療することはないとはいったいどういうことか。 母が伯父に連絡した。2,3日して伯父がやってきた。14,5年ぶりの再開だった。すぐに施療が始められた。私はまな板のうえの鯉状態。いわれるままに俯せになった。伯父は私の腰のうえに手をかざした。触れてはいない。伯父の顔をぬすみ見ると、無言で目をつむっていた。しかたがないので私も目をつむった。そのうち患部が不思議なやわらかい温かさにつつまれだした。春の日射しを浴びて、とろとろと居眠りするような感じなのだ。ひねもすのたりのたりかな----そう、私は実際にいつのまにか眠ってしまっていた。 「はい、きょうはこれまで」と言う伯父の声に目をさました。そんなに長い時間ではなかった。10分程度だったろう。のちに聞いたところ、一日一回10分。患者は5人くらいが限度なのだそうだ。伯父自身が疲労困憊してしまうらしい。 伯父は10日ほど我家に逗留し、私の治療に専念してくれた。私は治ったのである。そのご、最悪の状態は免れている。終日絵の制作をし、それが1ヵ月2ヵ月に及ぶと、すこし不安が兆すけれど、そういうときは長距離のサイクリングで腿と脹ら脛を鍛え直すことにしている。 伯父にはそのご再び会うこともなく、ずっと以前に亡くなった。しかし伯父の手の不思議な放射熱は記憶のなかに残っている。
Oct 16, 2005
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近所に一般にはちょっと珍しい植物を鉢でたくさん栽培している方がいる。いまは道路際に曼珠沙華の鉢をならべている。もう花の盛りは過ぎて、花が枯れかかっている。曼珠沙華という名は、俗名で、正しい和名はヒガンバナという。この植物は道端や墓地や畑の側の小川の堤などにごく普通に見られるが、おもしろいことに人気のないところには生育しない。有毒植物なのだが、人なつっこい植物である。私は栽培したことはないが、栽培はただ一点を注意すれば意外に簡単である。その一点とは、植え替えをしてはいけないのだ。ほったらかしにしておかなくてはいけない。植え替えをすると花を咲かせなくなってしまう。もしうっかりそれをしてしまうと、たぶん7年くらいは花を咲かせないだろう。無精者にはとても都合のいい植物なのだ。私にはピッタリなのだが、なにしろ植え替えがだめなので、どこからも移植できない。だから先の近所の家では、移植後、7年以上じっと待っていたのでしょう。えらいものです。 このヒガンバナは、じつに不思議な花で、地下にラッキョウのような鱗茎があるのだけれど、ここから一本の茎がのびてきてお彼岸の頃にあの花火みたいな真っ赤な花を咲かせ、それが10月末頃に枯れると、こんどは緑の葉がでてくる。葉はだいたい3月頃まで勢い良く繁って、その頃に枯れる。多年草だから、これを繰り返すのだ。 植物学者の牧野富太郎によると、有毒植物だけど鱗茎から澱粉を採って食用にした地方もあったらしい。また、方言の名前が50種類以上もあるのだという。 私は、ヒガンバナ、曼珠沙華、両方を呼びならわしてきた。でも、曼珠沙華というと、5歳頃に見た芝居のテーマソングと思い出が重なってくるのである。 北海道の羽幌町に住んでいたときのこと。羽幌映劇という劇場が火災になり、その後まもなく再建された。再建後にいろいろな催しがおこなわれ、私もファッション・ショーのモデルになったりした。そんな一連の催しのなかにその芝居があった。タイトルは忘れたが、テーマソングは憶えている。しかも唄えるのだ。ただひとときの歌をその場でおぼえてしまい、55年経っても忘れないのだから、歌の力はほんとうにすごい。 赤い花なら曼珠沙華 オランダ邸に雨が降る 泣いて別れたジャガタラお春 未練の出船にアアア鐘が鳴る ララ鐘が鳴る 散歩の途中で近所のお宅の曼珠沙華を見ながら、私はこごえで口ずさんでいた。
Oct 14, 2005
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ここ数日、この日記を書く時間がじゅうぶん取れないでいる。別館の『映画の中の絵画』も気になる。こんどはどの作品をとりあげようかと、仕事をしながらちらちら頭をかすめるのだ。そんなときに思い出したことがある。 もうずっと以前のこと、ヴィム・ヴェンダース監督の『まわり道』が銀座の映画館でリヴァイヴァル上映されていたので見に出かけた。私の座席は中央通路の左側で、後ろから10列目くらいであった。映画が終わって私は立ち上がった。そして後ろを振り返ったとき、私のうしろに坐っていた外国人女性と目があった。彼女はまだ坐っていたから、私がすこし見下ろし、彼女は見上げるようなかたちになった。とたんに私は「あれッ!?」と驚いた顔をしたに違いない。その女性は私の驚いた顔を見つめながら「ふふッ」というように微笑した。思わず私はスクリーンの方を振り返った。それからまた彼女を見た。彼女はまだ笑みをうかべていた。 ハンナ・シグラ! たったいま『まわり道』に主演していた彼女。私は後ろから来た観客におされるようにそのまま出口に向った。誰も彼女に気がついていなかった。いや、彼女はハンナ・シグラではなかったのか? 西ドイツきっての国際女優が、たった一人で日本の映画館に自分が出演した作品のリヴァイヴァル上映を見に来ることがあるだろうか? ハンナ・シグラの来日を報じている新聞を、私は見ていない。 それにしても、私の驚きに対する彼女のあの悠揚迫らぬ微笑はなんだったのだろう? それは長年私の気持をはらさない思い出なのだ。ハンナ・シグラの微笑だったと、言い切れないもどかしさ。いったい彼女は誰?
Oct 13, 2005
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きょうは、私のアメリカ女性作家シリーズのための装幀を臨時に展示いたします。
Oct 12, 2005
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北海道の石狩から獲りたての秋鮭を頂戴した。それで夕食はこれを焼いておろし醤油でいただくことに衆議一決。鮭の腹にはいっていた筋子は醤油漬にする。 簡単ですからイクラの醤油漬の作りかたをお教えしましょう。 腹から丁寧に取り出したら、卵胞(薄い膜、皮ですね)を包丁でまんなかを縦に切り開きます。このとき、下側の膜を切らないように注意してください。笊か金網ボールに卵をつぶさないように丁寧にほぐしてゆきます。粒をバラバラにするわけです。終わったら、40゜Cくらいのお湯をふりかけます。熱湯では駄目ですよ。ぬるま湯より少し熱い程度です。これで生臭さを除くのです。熱湯だと卵が煮えてしまいますから、そうならないように温度を加減してください。ひたひたにかぶるくらいの生醤油につければおわりです。酒などは入れないほうがいいですよ。生醤油が一番。半日くらいでおいしいイクラの醤油漬ができあがります。 焼き鮭はおいしかった。なにしろ獲りたて産地直送で頂戴したのだから、その味は格別。Iさん、ありがとうございました。 ところで、みなさん、私はこれで料理が上手なんですよ。レシピなしで200品くらいは作れるのです。中学生のときから親許を離れて一人暮しをしていましたが、自炊をしていました。そのころから料理をしているのですから、ちょっと年期がはいっています。正月の御節料理は弟の家庭の分まで私がつくるのですよ。大晦日に私の家にみんなが集まりますから、帰りに持たせてやるのです。嫁さんも楽できますでしょう? 正月三が日くらいキッチンに立たないでいいですよ。クリスマスがすんだら乾物などの買い出しに出かけ、28日ころから作り始めます。家人が就寝してしまってから、ひとりで夜中にキッチンに入っての作業です。 絵を描くのと料理とは、意外に似ているのですよ。味のイメージを頭に描いて、材料の下準備をして、出来上がりまでのシステムをきっちり作って、手早く正確に仕事をすすめていきますね、ほんとうに似ているのです。科学的思考と感覚を同時にはたらかせるのも同じです。 絵の才能があるかないかは、料理をしてもらうとわかる。ナ~ンテね。
Oct 11, 2005
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私一人が遅い昼食をとっていると、テーブルの向いに坐った母が、「オーターローって、いまどうなっているの?」と尋ねてきた。 「なに?」 「オーターロー」 「なんのことだろう、オーターローって」 私は母の言っている意味がつかめずにいると、母はこごえで歌いはじめた。 オーターローは屍(かばね)の山よ 運命いかに、あーあーフランス 運命いかに、あーあーフランス 「ああ、分った。ウォータールーだね。あるいはワーテルローともいう。ベルギーのブリュッセルちかくの古戦場だよ」 「いまでもあるのかしら」 「そりゃあるよ、地名だもの。ウェリントン将軍率いるイギリス軍とブリュッヘル率いるプロイセン軍が協力して、ナポレオンの軍隊を撃破した戦場だから、たぶん名所旧跡になっていると思うけど。いったいどうしたの」 「小学校に入ったころ習った歌を思い出したのよ」 「そういえば、初めて聞く歌だね」 「だって、思い出したことがなかったもの。80年近くになるよ、習ってから。----78年か」 「どうしてまた、急におもいだしたの」 「知らない。突然思い出して、唄えたんだもの」 しばらくして弟がやってきて、「昔ならった英語のフレイズも思い出してたよ」と言った。「発音はおかしいけど、ちゃんと意味がとれて、まちがいなく英語だった。このごろよく思い出しているよ。兄さん、おばあちゃんの母親の妹が松前藩の国家老の家に養女に行った話知っているかい」 「いや、親戚だということは知っているけどね」 「そのことを思い出していたよ」 「おばあちゃんから聞き取りはしておいたけど、その話はしてなかったなあ」 「おじいちゃんが亡くなった時、葬儀にその人が来ていたのを見ているのよ」と母が言った。「真っ白い頭で、やさしい顔をしたひとだったことを憶えている」 母はべつに老人ボケではない。視力がなくなった目で、私の蔵書から選んだ小説を毎日たいへんな勢いで読破している。読み終わった本をノートに記録していて、どうやらここ2年ばかりの読書量は200册を超えたらしい。読み終わると、「さあ、おわった!」と言う。私は本棚を物色して6,7册わたすのだ。「あら、どうもありがとう、うれしいわ」などとテーブルの上に積み重ねている。 そんなふうだから、幸いなことに頭はしっかりしている。そのぶんは手がかからないので、私はせっせと本をはこんでいるのである。 その母がここ数日のうちに、かつて一度も思い出したことがないらしい記憶をつぎつぎとよみがえらせている。ところが妙なもので、夕食後、ふと思い立って、「さっきの歌、もう一度唄ってみてよ。書き取ってみるから」と言うと、「何の歌?」と聞き返したのだ。 「ウォータールーが何とかかんとかと言っていたでしょ」 「はて、なんだろう」 「ナポレオンの戦場の歌だよ」 「あら、もう忘れたしまった。なんだったろうね。突然思い出して、また忘れてしまった。いやだわねェ、ちょっと待ってちょうだい」 そうして、テーブルにうつむいていたが、メロディーが思い浮かんでこないらしい。メロディーが浮かばないと、詞も思い出さないらしい。 しばらくしてからようやく「オーターローは屍の山よ----」と唄い出した。「これで全曲かどうか分らないわね。この詞の前にまだ何かあるのかもしれない。でも思い出すのはこの部分だけだわ。へんなものねェ。----どうして思い出したんだろう。78年も前に習った歌を」
Oct 11, 2005
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数日来、庭の草むしりをしていた母が、「裏に蝦蟇(ガマ)が住みついている」と言った。こぶしを握って眺めながら、「これより大きいから、ただの蛙じゃないわね」 母が裏と言っているのは、我家の裏がブロック塀と建物のあいだが半間余の幅の通路になっているのである。普段あまり往来しないので、雑草が繁ってしまっている。我家では猫がたくさんいるので、除草剤を撒かない。夏のおわりちかくなると、草の種が落ちないうちに草むしりをするのだが、今年はズボラをしていたら、見るにみかねた母が庭いじりのついでに、何日か掛けてきれいにしていたのだった。除草剤を使わないので、蝦蟇も住みつきやすかったのだろう。 昔、八総鉱山にいた小学生のころ、ある夜、物置きの片隅に蝦蟇がいるのを見つけた。ずいぶん大きなヤツで、体長15cmくらいあったかもしれない。 「だめだよこんな所に住みついては」などと言いながら、「さあ、もう帰りなさい」と戸を開けた。蝦蟇はしばらく喉をひくひくさせていたが、黙って見ていると、そのうち戸口を出てそのまま裏の草むらに入っていった。 物置きと言っても、家族や御用聞きが出入りする裏口を兼ね、風呂の焚口や石炭置場もある四畳半ほどのスペースだった。昼間はガラス戸を開けっ放しにしておくこともあった。夏の夜に開けておいても蚊がはいることもない。高山なので、蚊がいないのである。 そんなふうに裏口をあけていたので、翌日、遊びにでようとすると戸口の敷居の上にまた蝦蟇がいた。のそのそと入ってきた。私と蝦蟇が真正面にむきあった。「また来たのか?」と私は言った。そして家のなかに向って「きのうの蝦蟇がまた来てるよー」と声をかけた。「お礼に来たのでしょう、きっと」母がこたえた。 「さあ、自分のウチにお帰りよ。また遊びにおいで」 蝦蟇は私を見ているようだった。それからゆっくり踵を返し、戸口を出て草むらに姿を消した。 それ以前に『妖術ガマ仙人』というタイトルだったか、忍術映画を見ていた。市川右太衛門か大友柳太郎か、いまは記憶がうすれてしまったが、出演していた。口に秘伝の巻物をくわえて、胸前で印を結べば、ドロドロと太鼓が鳴って煙のなかに巨大な蝦蟇が出現した。そんな映画をおもしろがって見ていたので、自分の家の物置きに蝦蟇がいたのが愉快だった。お礼に来たのかどうかは分らないが、なんだかそんな感じがしないでもなかった。こちらの言うことが分っているようなソブリだった。 母に昔の蝦蟇の話をしたわけではないが、たぶん母もおぼえていることだろう。居間の座卓でむかいあって坐り、新聞に目をおとしている私が聞いていないと思ったのか、母はもう一度最初から「裏に蝦蟇が住みついている」と話しはじめた。
Oct 10, 2005
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先日予告した花輪莞爾(はなわかんじ)氏の『悪夢百一夜』は、そのタイトルどおり101の短篇小説を収載している。花輪さんは、その一つ一つの題名の下にワン・ポイントの挿画を入れてほしいとの御注文だ。101点のカットを描くのは、注文するほうは簡単に言うけれど、描く方としてはなかなか大変なことだ。何が大変かというと、絵柄を一定水準でそろえなければならない。101点を一貫するテーマが必要だ。ワン・ポイントで小説の邪魔にならずに、しかしきっちり存在を主張しなければならない。そういう諸々の問題をすべてクリアしなければならないのである。 しかしこういう無理難題が、じつは私は大好きなのだ。もしかしたら花輪さんはそこを承知で、平気な顔して言ってくるのかもしれない。 そんなわけで私の頭のなかはいまや狂乱のお祭り騒ぎ。と、お思いかもしれませんが、ちゃんちゃんと仕事をこなして、残り11点のところまで漕ぎ着けました。きょうはその一部をご覧いただきましょう。下に4点掲載しました。こんな絵を101点描くわけです。-----------------------------------
Oct 9, 2005
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我家の今日の夕食は牡蠣鍋。宮城県荻浜港産の牡蠣だそうだがふっくらとしておいしかった。 牡蠣はカレンダーでRのつく月に食べるという。先月から始まっているわけだが、我家では今日が初お目見えだ。私は牡蠣が大好き。鍋もいいし、フライもいい。だけどやはり殻をこじあけて、レモンを絞ってかけ、生ですするのが一番好きだ。パリで食べた牡蠣は本当においしかった。シャブリを飲みながら、1ダースくらいわけなくいけてしまう。店の前にオヤジさんが牡蠣の箱を積んで、その場で食べさせてくれる。殻がまるいのや、長いのや、種類があることをパリで現物を見てはじめて知った。ニューヨークのセントラル・ステーションにもオイスター・バーがあって、ここは有名だ。 ことし初めての牡蠣といえば、釈迦楽さんの日記で〈初物〉談義をやっていた。訪問者のコメントにあったが、〈初物〉をめでるのは日本の食文化のおもしろいところだ。食味もさることながら、たぶんに縁起かつぎもあるのだろう。諸外国にも〈初物〉を食べることを喜ぶ文化はある。 フランスの人たちはアスパラガスの季節到来をよろこぶ。当地にながらく住む人の話だと、初物を求めに市場へこぞって出かける姿は、見ていて楽しいものだそうだ。アスパラガスは精力の強い植物で、ヨーロッパでは昔から大切な食品とされてきた。アスパラガスを茹でる特別な鍋がある。立てて茹でるのがもっとも大切だから、筒形のいくぶん長い形をしている。立てて茹でると、アスパラガス独特の栄養素であるアスパラギンサンが崩壊しないのだそうだ。八百屋さんでも、アスパラガスは立てて売っていましょう? お気付きですか? とても成長が早いので、寝かせておくと頭のほうがどんどん曲って立ってくるからです。 アスパラガスは、切らないで一本をそのままの形でバターソースでたべるのが、ヨーロッパ文化圏では伝統的な食べ方だ。とても大切な食べ物なので、切らないのだと聞いたことがある。そういえばアスパラガスを食べている光景を描いた絵が、意外なほど多いのだ。みな手掴みで先のほうから口にいれている。御夫人が食べている姿は、世の男性諸氏にはエロティックに見えるらしく、それを暗示する絵が多い。詳しく申し上げなくとも、おわかりですね? フランスではサクランボも初夏をつげる嬉しい食べ物だそうだが、これは日本もおなじですね。フランスと日本では値段にずいぶん違いがあるのだけれど。 ところで〈初鰹〉を愛でる江戸の風習は、武士の間から始まったのだ。このことについては『慶長見聞集』という本に出てくる。勝負に〈カツ〉という縁起かつぎがはじまりで、武家では何か門出の祝いがあると酒の肴に鰹を食した。 江戸の魚河岸は、日本橋の北側数丁四方に定められていて、毎朝、漁師の船が日本橋まで堀をのぼり、最初に江戸城に魚を届けた。つぎに武家屋敷に売り歩く。残った魚を庶民に売ってもいいことになっていた。流通事情が現在とはまったく異なる制度下にあったので、〈初物〉に対する庶民の喜びは格別であったことが推測できる。 映画やTVドラマで見る食卓と、現実の食卓はまったくちがっていたのである。 日本の映画やTVドラマは、それなりの考証はしているのだが、史実を再現してスタンダードを作っておくということをしてこなかった。ほんとうなら、NHKはそういう仕事をしておくべきだと私は思うのだが、いかがなものであろう。 昔、私が子供のころの映画は、武家のお内儀は〈おはぐろ〉をちゃんとしていたものだが、最近は全く見たことがない。着物の着付けからしてちがう。いまから見ると、庶民などはもっとしどけない、引き摺るような着方だったようだ。幕末ころの写真を見るとわかる。 イタリアのTV局が、かつて『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』を制作してスタンダードにし、イギリスには『シャーロック・ホームズ』がある。娯楽作品できちっとしたものを作っているのだ。NHKが知らないはずもなかろうが、どうも他に範をもとめるのが嫌いなようだ。それでワリをくうのは国民なのだが。 近年のNHKの時代劇のセットは細部まで素晴らしい出来のものが多い。館ひろし氏が主演した『物書き同心いねむり紋蔵』(1998)は、館氏もすばらしかったが、セットがそれまでのTV時代劇にはなかったのではないかと思われるほどすばらしかった。しかし、そこまで再現できるのに、史実に迫ろうという気概をもってつくられた時代劇にはお目にかからない。 話が脱線してしまった。 〈初物〉がうまいか否かということと、それを愛でる心とは、たぶん必ずしも同じではないのだろう。私はそれを珍重するほどではないが、食文化から季節が感じられなくなった今日、できるだけ〈初物〉を意識して食卓にのせている。気分がすこし変るだけで、おいしさもまた変るようだ。 さて、あしたは何をいただこうか。
Oct 7, 2005
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昨日のシルフさんの日記を拝見すると、通勤電車のなかで見かけた女性の点描がおもしろかった。その女性は片手にジュースの缶を持ちながら本を読んでいたらしいのだが、その姿が艶っぽかったのでシルフさんは見るともなく見ていたらしい。そして気がついた。彼女が手にしているのはジュースではなく、酎ハイの缶だと。 酒に強いのか顔色にはでていなかったとシルフさんは書いているが、シルフさんが「艶っぽい」と感じたのは、たぶん彼女にアルコールが入っていたせいもあろう。 しかしジュースだと思ったのが酎ハイだとなれば、艶っぽさを抜きにしても、ちょっとその女性に対するこちらの見方が変ってくる。言葉はいらない。ただなんとなく目がはなせなくなってしまいそうだ。 じつは私もつい先日、電車のなかで向いの席の女性をずっと眺めていたのだ。年の頃は24,5。黒いスーツを着て、アタッシュケースを膝においていた。外商担当のセールス・ウーマンか。 何か仕事のことでも考えているのであろう、完全にひとりの世界にひたりきって、目は宙に浮いていた。両方の手で耳の後ろから肩先にたれた髪の束を、ひねるように弄っている。 私は彼女から視線をはずすように少し顔をそむけ、しかしときどきチラと見やりながら、いつもの癖で頭のなかで彼女をスケッチしていた。すると彼女は妙なことをはじめたのだ。無心にもてあそんでいた左右の髪の束を顎の下で、まるでスカーフを結ぶように結んでしまったのである。黒髪は男の顎髭のように彼女の喉元にたれさがった。そのまま小首をかしげながら夢想にふけっている。 私は笑いをかみころすのだが、おかしくて腹がこきざみに震えた。顔をそむけて遠く窓外などに目をやっても、目の端に彼女の〈顎髭〉が入ってくる。顔だちの整った美人だから一層おかしい。可愛いのだが、上向きかげんに宙に浮かべた目をときどきパチクリさせると、私の腹はまたまたブルブル震える。 そのうち彼女はまた無心にその結びを解き、しばらく手櫛で梳いていたのだが、いったい何を夢想していたのでしょうかね。まァ、ヤリ手のセールス・ウーマンの人知れぬ可愛い一面を見たような気がしたことだった。顎の下で髪を結んだ姿では、ちょっと肖像画にはしにくいのですがね。
Oct 6, 2005
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いまこれを書く前に、ほかの方々のホームページを訪ねて楽しませてもらった。それぞれ仕事を持って忙しいだろうに、まあ、よくお書きになっている。感心してしまいます。いろいろな研究をしていたり、創作をしていたり、身辺雑記とはいえ実に観察がゆきとどいていたり、このブログ・ワールドはびっくりしてしまいますね。これを称して「お宅族」などと言うひとがいるとしたら、まったくの偏見か誤謬ですね。日常生活の幅が全然ちがう。何しろ広い、ブログに表現することで深さがでてきている。たぶん見知らぬ他人とはいえ、コメント等のやりとりは、一種の「優しい」批評だから、その批評に耐えるものを無意識のうちにも作ろうとしておられる。面白くないと思ったら、サッと引き上げてしまうからだろう。もちろん私が訪ねてみたなかには、目的を見失って、ほとんど病的にキリキリ舞いをしている人もいた。また、顔をあわせることがないから、いちど自分の意識のタガをはずすと、とめどもなく他人に辛辣になってゆく一面も垣間見えた。 ブログというメディアは、精神を解放し、日常の閉塞感を打破してゆく可能性を多分に有すると同時に、一方で、まったくその逆の人間環境を、それを使用する当人がしらずしらずのうちにつくりあげてしまう可能性も否定できない。 私がこのメディアを利用するようになって3ヵ月が経過した。私としてはまだ何かできるかも知れないとは思っているが、いまのところ残念ながら内心では遊びの域を脱してはいない。絵を描くという〈遊び〉ともちがうので、その齟齬感が悩みといえば悩みである。
Oct 5, 2005
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このところ奇妙な話ばかり書いているけれど、いまも書きはじめた途端に思い出した小説がある。川端康成の短篇、『弓浦市』だ。川端康成自身らしい主人公の家にある婦人が訪ねてくる。会ったおぼえがない婦人だが、彼女のほうは「弓浦市」で親しくしていただいたと言う。そういわれれば、そうだったような気がする。しかし婦人が帰ったあとで、調べてみたが、「弓浦市」などというところは何処にもなかった。---と、詳しい話は忘れたが、なんでもそんなような話だった。 さて、もうだいぶ以前のこと、ある農家のそばを通ったときだった。なにげなく歩いていた私は、「あっ」と立ち止まった。とても懐かしいにおいがしたのだ。化粧漆喰を塗っていない、泥と藁を混ぜただけの土壁からそのにおいは漂っていた。日なたの土壁のにおい。 私は幼年時代に住んでいた家の納屋のにおいを思い出したのだ。その納屋は土壁ではなく普通の板壁であったが、土間だった。たぶんその踏み固められた土間のにおいが、いまこの農家の土壁のにおいと似ていたのだろう。普段嗅ぎ馴れてはいないにおいだっただけに、不意を突かれたような感じがした。 プルーストの『失われた時を求めて』は、マドレーヌ菓子の匂いに呼び戻された記憶にはじまる壮大な物語である。私のにおいの記憶は残念ながらそのような物語を紡ぎ出すにはいたらなかったが、もしかすると匂いは、記憶因子として非常におおきなものなのかもしれない。 自分の体臭に気付かないのは、嗅覚はもっとも早く順応し、麻痺してしまうからだが、回遊魚が生まれ故郷の川に帰るのは、そこの水の匂いを記憶しているからだと言われる。この場合、なぜ嗅覚は麻痺してしまわないのだろう。魚類ばかりではない。多くの動物は、視覚や聴覚より、嗅覚をもっとも頼りにしている。アザラシの赤ん坊は目が見えなくても母親をさがしあてる。これは自分の母親の乳のにおいを憶えているかららしい。乳のにおいに絶対的な個性があり、その記憶は、けっして揺らぐことはないのだ。記憶に生存のすべてがかかっているということだろう。 人間には幻臭ということがある。実際にはない臭いを幻覚的に嗅ぐのである。愛情関係が破綻すると、たいていの場合女性のほうだが、相手の男の匂いが悪臭的に鼻につくようになる。たぶん第三者には感じない匂いを強く感じるのであろう。一種のヒステリー症状である。 そのような場合以外だと、幻臭というのは危険な徴候でもある。老人性痴呆にもときに幻臭があらわれることがある。分裂症の一症状としてそれが現れる場合もある。 ----こういう状況をみると、嗅覚というのは人間の場合も他の動物同様に、生命存続の問題と非常に関連が深いと言えるかも知れない。 古代エジプト時代の発掘品のなかにあった香水瓶がまだ香りを残していたというのはロマンチックだ。しかしルネ・クレマン監督の映画『危険なめぐり逢い』では、少年誘拐犯を錯誤させるために香水が使われていた。 横溝正史に『香水心中』があり、ガストン・ルルーに『黒衣婦人の香り』がある。 カリギュラ帝はかつて愛人だった受刑者を密室に閉じ込め、香りたかい薔薇の花で埋めて窒息死させたというが、事実かどうか。 それにくらべると古代中国のほうは、もっと直截的で凄まじい。〈ギ〉という刑罰がある。鼻ヘンにリットウと書く。いわゆる鼻斬りである。人間の五官から嗅覚を奪ってしまうのだ。こういう刑罰を考えつく想像力がすごい。 チーズの香りに愛しのジョセフィーヌを思い出したのはナポレオン。事実かどうかって、そんなこと私が知るわけがないでしょう。相手がジョセフィーヌですから。
Oct 4, 2005
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デジャ・ヴュ(deja vu)って御存知だろうか。日本語では既視感と訳されている。一度も経験したことがないのに、以前に経験したことがあるような感じがすることを言う。錯覚なのだろうが、単に前にもこんなことがあったというだけではない〈なまなましさ〉をともなっている。 私はかつて一度だけ、そのような〈なまなましい〉デジャ・ヴュを経験した。 高校3年生のときだった。私は学校の演劇部から演出を依頼された。依頼されたというのは、私は正式には演劇部員ではなかったからだ。後に演劇活動に貢献したとして学校から賞状をもらったが、学校側もなにか勘違いしていたのであろう。 それはともかく私が選んだ戯曲は、よほど注意深く全員が役割を果さなければ出演者に危険がおよぶものだった。戯曲のなかにそのような危険が書き込まれていたのではなく、劇場の構造上の問題がおおきかった。戯曲には「一本のロープがぶらさがっている。男が首を吊ろうと、ロープの輪のなかに首をいれる。するとロープは上からどんどん垂れてきて、ついに男は地面につっぷしてしまう。ロープは垂れつづけ、男のうえにとぐろを巻く」と書かれていた。 そのロープをステージ上に仕組むためには、ステージの上方およそ15mのところにある金網から吊り下げなければならないのだった。そして、初めは固定された位置にぶらさがっているものを、やがて俳優の動きに従ってスムーズに床まで伸ばし、ステージに腹這いになった俳優のうえにとぐろをまくまでロープを降ろしつづけなければならない。もし俳優が首をいれた状態で、ロープが途中で引っ掛かったら大事になりかねなかった。 部員たちは私を信用していると言い、15mの上からロープを操作するという唯一の方法をやる気でいるのだった。私はその15m上方の金網にのぼってみた。ステージの人間がやけに小さく見えた。しかも真上から人間を見ると頭しかみえないから、目標を定めるのが容易でないこともわかった。私は私で、みんながアンサンブルをもって迅速に役割をこなしてくれることを信用するしかなかった。 公演当日、私は舞台全体をよく見渡せ、例の金網にいるスタッフと私との連絡に走りまわるスタッフが待機しやすい2階袖の照明室に陣取った。 全員にスタンバイのサインを発し、私はステージを見下ろした。幕は客入れのときから開いていて、空舞台が眼下にひろがっている。そのときだった、私は昔どこかでこれと同じことをした、と非常になまなましく感じたのである。ぼんやりした記憶ではなかった。なにか肌触りさえある空気の流れや、どよめきや、劇場の振動のようなうなりが、もうすでにどこかで経験したことだった。まもなく、スタッフの一人が金網のところから連絡事項をもって駆け込んで来るだろう。そして私の指示をもってまた駆けてゆくだろう。私は眼下にひろがる光景をまるで思い出を反芻するように見つめた。懐かしさにみちた、実に不思議な光景だった。そしてそれは時間の進行とともに未知をひらいてゆくというのではなく、私にとって知らぬこととてない、ただ思い出をたどっているような感覚だった。 「ぼく、すでにこれと同じ経験をしているよ」と、私はかたわらの人に言った。彼は、何を言っているのだというように私を見た。そして、「山田君は何度も頭のなかで準備していたから、本番になって、そう思うんだろう」と言った。 なまなましい既視感を拭い去ることはできないが、このときの彼のことばは、おそらく真実をいいあてているかもしれない。たしかに私は危険を回避するために、裏方のシステムを何度も頭のなかでシミュレイションしていたことは間違いない。しかしあの〈肌触り〉はどう説明したらよいのだろう。〈体感〉と称している感覚のなかには、現実にはないことを身体に実感することがあるということだろうか。 とはいえ、私とはまったく性質が異なるデジャ・ヴュを経験している方があるだろう。その話を聞いてみたいものだ。 私には他にふたつの解決できないでいる光景がある。それはふたつとも町の光景である。はっきり見えるのに、そこがどこであるかまったく見当がつかないのだ。私の記憶はときに人を驚かすようなこともあるのだが、幼少年時代のことなぞ実に鮮明に映像としてよみがえってくる。よみがえってくるというよりも、映写機を作動させればいいというぐあいなのだ。事の次第を思い出すばかりでなく、その周囲の風景的な全体像。たとえばそのとき、道端に露草が咲いていたとか、マルハの鮭缶の空缶がころがっていたとか、どんな服そうだったとか、人がどんな表情をしていたとか。なぜそんなことが何十年も記憶されているのだろうと、自分ながら不思議になることがある。だから自分が住んでいた場所は、どこもはっきり道筋を憶えている。 ところが、夢のなかにまででてくることがある二つの町が、なぜそんなに私を考えこませるのか分らないのだ。そのうちのひとつの町は、町ひとつといってよいほど広範囲に頭に浮かんでくる。沢山の道筋を私は歩いている。表通りばかりではなく、ほとんど畑しかないような裏通りも歩き、あげくにバスに乗ったりする。もっとも頻繁に眼前に浮かぶのはある広場である。右手に市街がひろがり、かなり幅の広い通りが2本あって、右側の通りはすこし低く広場からゆるやかな坂になっている。私はそこを自転車で走ったりしているのだ。 これはデジャ・ヴュとは違う。私には現実にこの町が存在するのかどうかさえ分らないのだから。しかし思い出すと懐かしさを感じる。その感じは、身体いっぱいにひろがるのだ。なにか私がまるごと懐かしさのなかにくるまれているようになる。 私は、あまりセンチメンタルな人間ではない。この日記でも昔のことばかり随分書いてきたが、それは必ずしも郷愁や懐旧ではない。どちらかというと、一種の過去の清算である。それをできるときにやっておこう。忘れてしまうかもしれないので、憶えているうちに書いておこう。そんな気持である。これからの作品制作のために、自己を科学してみようとも考えている。自分自身をすこしばかり辛辣に眺められるようになったかも知れないともおもっているのだ。 私はこのふたつの町がどこであるか、知るときがくるのだろうか。
Oct 3, 2005
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前回の〈瓜二つ〉に対して、いつもお読みくださっている釈迦楽さんとちゃれ3さんからコメントを頂戴した。釈迦楽さんは「この話、これでおわりか」とおっしゃり、ちゃれさんは怖い思いをしたらしい。私としてはあの話はあれで終りにしてもよかった。しかしどうやら真相を書いたほうがよさそうである。 ずいぶん前の日記に古書のことや蔵書のことを書いた。そのなかで、神田の古書店のショー・ウインドーに、小林剛著『俊乗房重源の研究』の初版本が飾られているのを見つけた、という話をした。そのときは急いでいたので、探していた本であることを確認しただけ。3日後にふたたび出かけて行ったら、一足先に売れてしまった、と。〈瓜二つ〉はその同じ日のできごとだった。 俊乗房重源(1121―1206)という人は、はじめ京都の醍瑚寺で密教を学び、その後、法然上人の教えを受けて浄土信仰に転じた。業績として一般にわかりやすく言えば、平重衡(たいらのしげひら)に焼かれた東大寺の再建をし、また、兵庫県の神戸電鉄粟生線の小野駅の近くにある浄土寺を創建したことで知られる。浄土寺浄土堂(通称、阿弥陀堂)は国宝に指定されている。 私は重源のイメージ喚起力とその実現力に非常に関心をもっていた。浄土寺浄土堂はいわゆる双堂である。双子の建築なのだ。現在の境内の様子は創建当初とはことなるのだが、かなり正確に推測はできる。境内中央にあり、いまは二つに別れている池は、元来ひとつの池で、その南北に引いた線を中心軸にして東西の線上にシンメトリカルに薬師堂と浄土堂が建っている。西の浄土堂は阿弥陀三尊をまつり、極楽世界。東の薬師堂は俗世界をあらわしている。昔はおそらく池に橋が掛けられていて、俗世間と極楽浄土を結んでいたであろう。お彼岸の夕刻、阿弥陀三尊の背後の蔀戸(しとみど)を開けると、夕陽が射し込み、朱に塗られた類例のない複雑な結構の堂内を真っ赤にそめあげ、そのなかに黄金の阿弥陀三尊が赫奕(かくやく)として浮かぶのである。 時間、場所、建築構造、三尊像----これらが緻密にデザインされて、現実の空間に彼岸のイメージを実現しているのだ。しかも私が思うに、重源は、極楽浄土と俗世界を双子のように対に考えているのである。ここがおもしろい。二つの堂は外観はとても簡素で、鏡に映したようにそっくりなのだ。しかし方や浄土堂の内部は『観無量寿経』に表現された極楽そのものなのであった。 ポポロ広場の双子教会がどのようなイメージで建立されたか、残念ながら私は知らない。しかし私には重源のイメージに匹敵するとは思えないのである。 ----買いそびれてしまった本からこんなことを思いめぐらしながら、私は駿河台の坂をのぼり、お茶の水駅に向った。 電車はさほど混んでいなくて坐ることができた。ふと視線を感じて前を見ると、私と同年輩の頭の薄くなった男がこちらを見ていた。たぶん私は夢想にふけっているように、ぼんやり宙を見つめてでもいたのだろう。奇妙な奴だと思われたにちがいない。私は目をつぶった。四谷で車内は混雑してきた。私は次ぎの新宿で電車を乗り換える。 ところが四谷を出ると私はどうやら眠ってしまったらしい。なんとなく遠くで「新宿」と言っている声がしていた。降りなければ、降りなければ----そう思いながら、眠りは深くなっていった。 私が電車のなかで出会ったドッペルゲンガーは夢だったのかとお思いでしょう? 馬鹿にした話じゃないかと。 そう、夢だったのですが、しかしその夢をとりまく現実はもうすこし複雑なのです。まあ、聞いてください。 新宿を乗り越してしまった私は、夢のなかで、プラットホームで見かけた旧友の姿を追って、車内の人ごみをかきわけて移動した。30年近く音信不通だった友人だった。若い頃、群れをつくって盛り場を飲み歩いたものだ。気取った言い方をすれば、我が青春のシュトゥルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang;疾風怒濤)時代だった。その時代の終末は、お互いにまったく別々の道への旅立ちとともにやってきた。連絡は間遠うになり、ついに消息がなくなった。私は旧交を温めるとまではいかなくても、一言声をかけたいと思った。もちろんそれは夢のなかでだ。私はその人の後ろに立って肩をたたいた。 「山田さん、山田さん」 私は肩をたたかれて、ハッと目をさました。 「しばらくでした----」 聞き覚えのある声だった。見上げた私の前に、男が立っていた。それはお茶の水で私の前に坐っていた人だった。 「S君、ですか?」 「そうです。しばらくでした」 「お茶の水で、私を見ていたでしょう?」 「山田さんだと気がついたのですが、もしかしたら人違いかと思って----なにしろ30年ぶりですから」 「いやー、私も、どこかで会ったことがある人だと、ちらりと頭をかすめたんだけど、考えごとをしてたもんでまさかS君だとは思わなかった」 「お互いに昔とは面変りしてしまったから」 「君、頭ずいぶん薄くなったじゃないか」 「それを言わない、言わない」 「君に肩をたたかれるまで、じつは君の夢を見ていたんだ」 「?」 「それとも君に声をかけられて、その一瞬に見た夢なのだろうか」 「邯鄲みたいじゃないか」 「面変りしてわからなかったけど、声はまったく昔と変っていないよ。声だけ聞けば、電話でも君とわかる」 まさに一瞬のあいだに見た夢だったのだ。「山田さん、山田さん」と旧友が肩をたたき、その聞き覚えある懐かしい声に、新宿で乗り過ごした思いが重なり、降りなければ降りなければという気持が、友人の姿をさがして車内の人ごみをかきわけさせ、私が友人の肩をたたいたつもりが事実は友人にたたかれ、私の名前を呼ぶ声ではっと目をさます直前に、私自身のドッペルゲンガーを見た。しかも私はずっと重源の双子の建築のことを考えていた。それが真相だ。 自分自身に出会った人は死期が近づいているという。この説もどこまで真実かわからない。私は絵を描きながら心のうちで生死について考えてきたけれど、さいわい私はまだこうして生きている。
Oct 2, 2005
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