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お客様へ 7月28日の夜、この遊卵画廊のコメント欄に奇妙な書き込みが連続して行われているのを見ました。誰かと誤解しての嫌がらせなのか、私に対するストーカー行為なのか。いずれにしろ、さっそくしかるべき所に連絡し、私はこの書き込みとアクセス記録を証拠としてMOに保存して行くことにしました。 ここをお訪ねになるお客様は御不快と思いますが、証拠保全のため削除しませんので、よろしくお願い申しあげます。 なお、この人物を特定することができたと報告がありました。常習的だということで、なおこのまま証拠を保全いたします。かさねがさねの御不快をおわびいたします。---------------------------------------------- きょうは制作途中の絵をいったん中止し、それまで住んでいた世界から抜け出して頭をからっぽにするため、終日片付けものなどをして過す。夕方、ノンストップ戦のためにすこし足腰を鍛えなければと、アップ・ダウンのある道を5kmほどウォーキングする。からだをしっかりしておかないと、絵がフヤケテしまうのだ。 しかしこの時期が、正直言って、一番不機嫌なのだ。どうしようもなく不機嫌だ。話しかけられたくない、触られたくない。しゃべりたくない。----そんな状態が何日つづくか分らないが、やがて諦めににた気持とともに、ワサワサと、そうぞうしく頭のなかをうごきまわっていたイメージの断片が、はっきり姿を見せる。カチッと鳴るのだ、何かが。とたんに、ムクムクとエネルギーが湧いてくる。「ありがとう」私はこころのなかで言って、机に向う。 長期の仕事だと、いつもこんなぐあいだ。 でも、ウォーキングしながら、いままでやったことがない執筆方法を思い付いた。可能かどうかちょっと試してみなければならないが、どうだろう? きつい仕事だけれど、楽しみもみつかったぞ~。
Jul 31, 2005
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お客様へ 28日の夜、この遊卵画廊のコメント欄に奇妙な書き込みが連続して行われているのを見ました。誰かと誤解しての嫌がらせなのか、私に対するストーカー行為なのか。いずれにしろ、さっそくしかるべき所に連絡し、私はこの書き込みとアクセス記録を証拠としてMOに保存して行くことにしました。 ここをお訪ねになるお客様は御不快と思いますが、証拠保全のため削除しませんので、よろしくお願い申しあげます。---------------------------------------------- 小説家の某氏から今秋出版を予定している小説集のために、50点の挿画を制作してほしいと連絡があった。 50点! 今秋!!?? ギェ~~(もう一つ)~! 1日1点づつ幻想を紡ぎ出してゆかなければならない計算だ。 ま、いっか。脳の老化防止にはこのくらいのことをやらなきゃな。 よし、俗念雑念を打ち払って、起筆のエネルギーを溜めるためにコンセントレーションだ!
Jul 30, 2005
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お客様へ 28日夜、この遊卵画廊のコメント欄に奇妙な書き込みが連続して行われているのを見ました。誰かと誤解しての嫌がらせなのか、私に対するストーカー行為なのか。いずれにしろ、さっそくしかるべき所に連絡し、私はこの書き込みとアクセス記録を証拠としてMOに保存して行くことにしました。 ここをお訪ねになるお客様は御不快と思いますが、証拠保全のため削除しませんので、よろしくお願い申しあげます。---------------------------------------------- 先日、わが家の猫たちの初代の母猫、クロの長女出産の話を御紹介した。それを読んでくれた古くからの友人が、メールをくれて、猫たちの写真を送ってほしいと言ってきた。それでとりあえず3,4点選んでいたら、クロの写真も出てきた。 その写真のクロは利口そうな可愛い顔をこちらに向けているのだが、左の目が全体に緑色で目の中に光彩がない。フラッシュライトのせいも少しはある。しかし、じつはあの出産から数年たって、原因不明の大病に陥った。そのときの高熱によって、水晶体が溶けてしまったのである。 きょうはその話を書いてみよう。 急に食欲がなくなり、風邪をひいたかと思っていたら、たちまち骨と皮になってしまった。発汗のため毛は濡れて、文字通りボロ雑巾のようだった。あわててダンボールにタオルケットを敷き、自転車にのせて近くの病院に運んだ。獣医は一目見るなり危惧をかくさない。脱水症状がはなはだしく、とりあえず点滴をすると言った。しかしその針がやせこけたクロの腕にはなかなか入らなかった。クロの呼吸は異常に早く、診察台の上で介添えさえ必要なく、濡れた黒い泥のかたまりのように横たわっていた。呼吸の動きがなかったら、まさに何か得体のしれない物体だった。 「おきのどくですが、今晩一晩もつかどうかだと思います。体温がどんどん下がっています。」 「そうですか。わかりました。私、このまま家に連れて帰りますが、私がやれるかぎりの手をつくしたいと思います。先生、私に必要な器具をおかしください。また、先生がこれとお思いになる薬をください。それから、今晩もったら、次はどうしたらよろしいでしょう。」 「朝と夕方、1日に2度ここへ連れてこれますか?」 「もちろん、まいります」 医師は、保温器やエリザベス・カラーや栄養剤、解熱剤、そのほか必要なものを貸してくれた。 「クロ、お家に帰るよ。クロは強かったものね。治る、治る。」 医師はダンボールや医療器具をかかえた私を、不思議なものが通るように、自ら玄関のドアを開けてくれた。 私は自室の床に私の寝床をつくり、枕許にクロが入ったダンボールをおき、24時間の看護が始まった。クロは一晩もった。二晩もった。已然として危篤状態がつづき、私はクロの両目の水晶体がへっこんでいるのに気がついた。医師に報告すると、高熱のため溶けてきたのだと言う。体熱で目がとけてゆくのを、私は初めてまのあたりにした。 しかし、クロはほんとうに強い猫だった。「危機を脱出したかもしれません。私には、奇跡的としか思えません。あなたの精神力のように思います。」 半月ほど経って、医師は言った。 「あの子は、生きたかったのです、きっと」 とはいえ、クロの体力は、まだ立つことさえできなかったし、骨と皮のような様子も変りがなかった。熱が下がったので、目の融解はとまった。右目は中央部に白い斑点ができ、左目は完全に濁ってしまっていた。後年、私は、クロの右目が見えているのかどうか気になったものだが、こればかりは、聞いて答えが返ってくるものでもない。 私とクロとの二人三脚の闘病は、じつに3ヵ月におよんだ。マグロの刺身や牛肉をすりつぶして、指で喉に押し込んでやる。溶き卵や牛乳を注射器で飲ませる。時間をかけ、ゆっくりゆっくり。もちろん喉に入れようとすると、牙で私の指を噛む。私の指は傷だらけだった。絆創膏をまきつけてもやはり穴があく。それでもクロにそれだけの力がでてきたのだと私は思った。 クロがすっかりもとの体格をとりもどしたとき、医者は讃嘆の声をあげてくれた。「私たちは、しばしば飼い主と動物の深いきずなを感じる例に出会いますが、クロちゃんの場合はまさにそれです」と。 昔からの友人へ送る写真のなかに、クロの一枚は入れなかった。だって、クロだって女の子だもの、左目がライトで緑色に光った写真なんて、イヤだよね?
Jul 29, 2005
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今夜、この遊卵画廊のコメント欄に奇妙な書き込みが連続して行われているのを見つけた。誰かと誤解しての嫌がらせなのか、私に対するストーカー行為なのか。いずれにしろ、さっそくしかるべき所に連絡し、私はこの書き込みとアクセス記録を証拠としてMOに保存して行くことにした。 ここをお訪ねになるお客様は御不快と思いますが、証拠保全のため削除しませんので、よろしくお願い申しあげます。
Jul 28, 2005
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もう何度繰り返し見たかわからない小津安二郎『東京物語』、また昨日も見てしまいました。ついつい最後まで見てしまったというところだ。 新聞を見ていたら、BSでそれを放映するとあった。この映画のヴィデオを持っているのだが、山のような中に埋もれていて、整理もしていないから探し出すのも大変。仕事もしなければならないし、DVDに録画することにした。 上映開始。DVDの録画も開始。 冒頭の尾道の港。 おや、蓮實重彦氏が指摘していた桟橋のカットが無いゾ。映画の最後のカットと合わせ鏡のように対になっているカットだから、冒頭部分が無いとマズイんじゃないの? 物語は進行する。 この尾道の平山家は、お寺の境内にあるのかしら、居間の窓外に石仏が並んでいるなァ。 東京の長男の家。平山医院。義理の両親の上京を待ちながら立ち働く三宅邦子の後ろ姿は、みごとに主婦の腰つきだ。う~ん、いいねえ。 と、こんなふうに画面にくぎづけになって、なかなか仕事場に引っ込めない。 それにしても小津の描く子供はいつも同じだなあ。子供に陰影をつけると、話が妙になるだろうから、わざとやっていることなんだろうな。小栗康平の『泥の河』のような子供だと、やっぱりマズイわなっ。 原節子が登場すると、がぜん凄みがでてくるな。二重三重の陰影をもったこころのうちを、ただ「いいえ」「いいえ、いいんです」なんていうセリフだけで表情に表現してしまう。あの笑い、おおきな目、いや凄いのなんのって。こういう女優は、いまどきの学芸会みたいな幼稚な芝居をやっている女優と比べると、もう国宝だね。腕が意外に肉付きがいいんだね、でもそれが畳に手をついたりするとき、肩や背中や、とにかく全身で矛盾した複雑なこころのうちを表現してしまう。ああ、すきだな~、こういう演技の極地みたいなのをみていると、私は涙ぐんでしまうよ。 原のアパートに一泊した東山千栄子が、原からお小遣いをもらうと、「いけん、いけん、あんた、こんなことしちゃ、いけん」と言う。その東山の表情も、ちょっとやそっとで演れることではない。そのシークエンスで、東山が戦死した息子の遺影を飾ってくれていることに礼をのべると、原のうつむきながら少し横をむく睫に、孤閨をかこつ若い女の、口に言えない怨嗟がかげる。いやー、ゾッとするうまさだ。 東山は急逝し、葬式もおわり、ガランとしてしまった家のなかに、ぽつねんと坐る笠智衆。ゆるゆると団扇をつかいながら、その目はどこも見つめていない。この映画のなかで、それまでどの場面でも見せなかった、笠智衆の虚ろな光を失った目。小鼻のわきから口許へかけての肉が疲労でそげているぞ。 この作品のすばらしさは、俳優たちの鬼気迫るような表情のすばらしさだ。あらためて思いました。すっかり自分の仕事を忘れて見入ってしまいましたよ。
Jul 27, 2005
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台風7号の影響で、終日、雨。猫たちは庭へ出れないのでつまらなそう。ときどき、遊んでくれと鼻でつっついていた。 さて、私がドアを塗り直したと書いたら、シルフさんがいま彼のサイトで展覧会をやっているポール・デルボーやマックス・エルンストがやったように、ドアに絵を描いたのかと想像されたようだ。 いやいやシルフさん、それは違います。そればかりかわが家には、どこにも私の作品を飾っていません。御近所でも画家の家と知っているかたは少ないでしょう。もちろん仕事場の壁には、絵を乾燥させるための沢山のフックがぶらさがったレールがとりつけられているし、部屋のなかにも廊下にも作品が山積みになっている。だけど来客の目につくところには、1点も置いてない。まして玄関ドアに私の絵など。 私が存じあげているある人気小説家は、一般客にはいろいろな職業に身をやつして対応している。いちいち正体をあかしていては、たぶん仕事にならないほど煩わしいことが起るからだろう。私はべつにそれにならったわけではないが、戸外でじっくり観察したいこともあるし、第一に家族に危害がおよぶことを防がなければならない。そういう理由です。作品を人目につく場所においていません。 大屋根を葺き替えてもらった屋根職人の若い親方が、ときどき点検に立ち寄ってくれる。見回りがおわると、「最近の作品をみせてください」と玄関の上がり框に腰をおろす。1時間ばかり玄関がミニ・ギャラリーなる。---そういうことは、あるのですがね。 ところでDIYに関してシルフさんのお父上はどうやら筋金入りらしい。私は職業柄、指先仕事はたしかに器用。だけど家の大修理は、そのまえに一つ話があるのだ。 じつは大修理なんて考えずに、玄関の壁紙の張り替えを専門業者に依頼した。完成したと知らせてきて、60万円也の請求書もとどいた。出かけて、ドアをあけたとたんに怒り爆発。とてもプロの仕事ではなかった。これなら張り替えないほうが断然ましだ、とそういうデタラメな仕事をしている。私はそれが何であれ、専門技能者がきちんとした‘金を取れる’仕事をしないと許せないのだ。 「あの仕事には代金を支払えません。見にいらっしゃい」と、責任者に電話した。いついつまでは時間が作れないと言うから、「作れたらおいでなさい」と言って、私はその仕事を全部ひっぱがし、材料をしこたま買い込んで来て自分で張り替えをはじめたのだ。後日やってきた責任者は、「以前こういう仕事をしていらしたのですか」と言うから、「今回、初めてやったことです」と応えた。「代金はいりません」「そうしてください」 ----こういうことなんです。大修理計画はそこから始まったというわけ。 プロを称するひとがプロの仕事ができない。これはここ20年ばかりの間に、わたしはいろいろな局面で見て来た。たとえば製本の現場でこんな経験をした。高価な本なので、布で装幀することにした。一般の方にちょっと説明すると、本というのは沢山の専門職がかかわり、多くの行程を経てできあがるのです。作家と編集者と印刷所があればできあがるものではない。ここで全部の行程を説明する余裕はないので、製本の工程だけをかいつまんでお話ししましょう。ページ数が決定すると、実際に使用する紙(本紙という)で、中身が真っ白な見本を製本します(束〈つか〉見本という)。紙の表紙の場合は、装幀家が表紙用の本紙の厚さを計り経験でやるので、束見本には表紙はついていません。しかし布装の場合は、加工所に本布を使って表紙だけの見本を作らせます。そうしてさまざまな視点でチェックします。 さてここから話を本筋に戻すのですが、最近では本の売れ行きがかんばしくないせいか、製本会社がどこでも布を扱える高度な技術者をおいているというわけでもないのだ。その事実を私は知らなかった。布装をやれるというから、その会社に発注した。ところができた見本を見てびっくりしてしまった。布目はよじれ、表紙板はゆがみ、とてもプロの仕事ではない。高価な本としての値段もそれではとても付けられない。大きな仕事だったので、その会社のオエライさんが来ていた。不出来を説明すると、現場に研究させるという応え。このかたも何も分かっていないと私はわかった。 布装というのは特別な技術がいるのだ。というのは布にはバイヤスといって、布目に対して対角線に力を加えると、布が伸びてしまうという性質がある。だから表紙板に正確に布をおき、糊代を均等の力で裏にひっぱりのりづけしないと、表紙がよじれてしまうのだ。もしそれを本体に接着すると、時間の経過にしたがい本そのものも捩じれてくるおそれがある。 この布に対する感性とそれをあつかう技術は、見よう見まねで修得できないのである。会社がそのシステムのなかで職人を時間をかけて養成していかなければならないのだ。まさに「文化」の問題だ。 物の生産現場でいつのまにか起っている、本当のプロフェッショナルが不在という事態は、かつて50年前に日本の第1次産業が無惨に崩壊していったように、いま第2次産業も崩壊しつつある証しかもしれない。私の取越し苦労であろうか。
Jul 26, 2005
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ウィキについて調べはじめ、とりあえずインターネットで情報収集していたら、海外に家の修繕について情報を掲載している人がいた。それで今日は、ウィキをそっちにおいて、じつは私自身が2年間かけてほぼたったひとりで、わが家の修繕をしたことを書く。 箇条書きにしてみよう。以下の順番でやりました。 1、小屋根、窓廂のコーキング(水洩れ等を防ぐ目止め) 2、1階8畳の居間の床板の全面的張り替え。ついでに根太に防腐処置をほどこす。 3、全室の柱や梁を灰汁抜きし、サンダーで研摩。 4、全室の壁の塗り替え。 5、玄関の内装を変える。 6、1,2階の廊下、天井の壁紙張り替え。 7、私の仕事場の壁紙張り替え。 8、同じく仕事場の壁面2カ所に腰高の書棚を作る。 9、浴室の壁の塗り替え(3度塗りする)。 10、浴室のタイルの張り替え。 11、キッチンの天井の塗り替え。 12、玄関ドアを塗り替え(新品が高価だったため。しかし大成功)。 13、庭の一部をレンガとコンクリートで20cmほど高くして、2棟の大型物置を設置。ふえすぎた本の倉庫とする。 14、年をとって足許が危なくなった両親のため、門から玄関までのアプローチを重量ブロックを|=|の組み合わせにして敷き詰める。コンクリートで塗り固めなかったのは水はけをよくするため。 以上が私がやった仕事。この後、畳み屋さんに入ってもらい、最後に大屋根を葺き替えて終了。 もちろん画業をしながら、また、シック・ハウスにならないよう材料をしらべながらだったので、およそ2年かかった。費用は専門家に頼むのの何十分の一。 ところで、ここからが私の本当の自慢。私のこの仕事、その道のベテランの職人さんが見にきて、舌をまいてくれた。特に壁紙の張り方は寸分の狂いもなく、浴室のタイルもみごと、「こんな腕をもってるなら、いますぐにでもウチの会社に来てほしい」とは、おせじでも嬉しいじゃないですか。「あ~あ、商売あがったりだ」「イッヒッヒ」 フランスやアメリカでは、自宅の改装はたいてい自分でやってしまうそうだ。フランスに長く住んでいた友人が言っていた。 みなさんもいかがですか、自分でできるところが結構ありますよ。
Jul 25, 2005
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このところしばしばお名前を出させていただいている釈迦楽氏だが、氏が御自身のサイトでお書きになっているから、ここで私がふれても怒りはしないだろう。 釈迦楽氏の御母堂方のお祖父様は、堀川寛一氏とおっしゃる。このお名前をうかがって、私は「おやっ」と思ったのだ。私の記憶にそのお名前がゆらゆらと揺らめいているのだ。しばらくして、はたと思いあたった。昔、私が内村鑑三について少し調べたことがあった。そのとき関係書誌のなかに見かけたのが堀川寛一、そのひとである。私の記憶に間違いなければ。いや、間違いない。それで、その旨を釈迦楽氏の日記のコメント欄に書き残したところ、釈迦楽さんから御返事をいただいた。やはり、そうであった。私の脳みそもまんざらでもない、と独り悦にいった。 お祖父様は群馬県の安中の御出身だそうだ。それでわかった、内村鑑三とは、新島譲ともども同郷なのだ。 私の連想は、そこからまたふっ跳び、安中市にある東邦亜鉛の安中製錬所に思い到った。カドミウム汚染など、一方では公害問題をかかえてはいるが、たしか堀川氏がお若かった昭和10年代始めに創業されたころは、時局とあいまって日本のおおきな基幹産業だったはず。 そんなことを思ったのは、じつは今年の3月に87歳で亡くなった私の父が鉱山関係者だったからだ。亡くなるちょうど5ヵ月前、私は父が最後に関係した鉱山での生活のことを回想記に執筆した。それは、まったく父の死を予想してのことではなく、むしろ自分自身のためであった。しかしそれには、鉱山そのことを述べずには何も始まらない。小学生だった私の記憶の領域を超えてもいる。私は病床でうとうとしている父を起しては聞き書きしたのであった。その鉱山の鉱山学的な事実は、当時そこに勤務していた約1500人の社員のうち、3人ぐらいしか知らないだろうと父は言うのだった。私が書いたものをプリンターで印刷し、簡易製本して父に渡すと、鉱山学用語の使い方の誤りなどを指摘し、それでも面白がって読んでいた。たぶん父が生前最後に読んだものが、その私の回想記である。 いまになると、聞き足りなかったことが出てきている。たとえば父も鉱毒問題で苦慮していた。そのころはまだ「公害」という言葉はなかったが、安中など、他の地での現実化した問題をどのように受けとめていたのか。ちょっと聞いておくべきだった。 私の父の話は、堀川寛一氏とは関係ないのだが、安中の御出身だと知り、なんとなく思いがぐるぐるめぐっているのである。
Jul 24, 2005
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昨日、ネットを使ってインタラクティヴ絵描きの方法はないかと書いたら、釈迦楽さんと詩流不さんから、さっそく興味深い御教示があった。さっそくそれに従って調べ始めている。 これはアートの側面からみると、improvised art(即興芸術)ということになろうか。参加者はおのおの何等かの準備をしていたとしても、出来上ってゆく過程は即興的である。とても面白いことだ。 しかしこれは、私自身がこれまで長い間採って来た作画法とは、まるで正反対の方法。そればかりか、個人の意志が制限されるというよりも、完成作品が発信するであろう主張としては、個人はほとんど意味を成さないに違いない。ネットで形成された心身をともなわない「多重な人格」が表われるのか? アートの概念が変るだろう。 ウーン!!
Jul 23, 2005
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この遊卵画廊を開設当初からご覧くださっている方はお気づきかもしれないが、このサイト・コンストラクションは、じつは二人で同時にやっている。大阪でシルフ氏が、東京で私が。シルフ氏は私の資料をたくさん所持してのうえだが、意志の疎通はメールとこの私書箱を使っている。お互いに信頼しないとできないことだ。ときどき私はまるで星新一氏のショート・ショートの1篇みたいに、「オーイ、そっちのPCの前のひとーッ」と深い深い穴のなかをのぞきこみながら呼び掛けているような錯覚に陥ることがある。すると、遥か彼方の暗い穴のそこからも、「オーイ、そっちのPCの前のひとーッ」と呼んでいるのである。 何かを創りあげるために、こんな感覚をいままで味わったことがない。不思議なと言う以前にもっと語ることばを探さなければならないが、とりあえず不思議な感覚なのだ。 そうこうするうちに、ふと、このシステムを使って、インタラクティヴ絵画はできないだろうか、と思い始めた。つまりパスワードを共有するひとたちが、毎日かわりばんこに絵を描き足してゆくのである。昔シュルレアリストたちが、パリのキャフェにたむろしながら、紙ナプキンなんぞに描いて遊んだ、あのPC版というわけだ。 最初に描いたひとは下の部分をほんの少しだけ見せて、残りは伏せてしまう。次のひとは、その少し見えている部分に描き足す。そしてまた隠して、3番目のひとに渡す----。さいごに全体を開けてみる。 絵によるチャットみたいなもの。ただし同一画面をスクロールするわけ。 PCをランでつないで、同じペインティング・ソフトを使用してならできるだろう。そうではなくて、このブログを使えないかと考えるわけです。 どなたかうまい方法を思い付いたら、教えて頂きたいものです。
Jul 22, 2005
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昨日、櫻井氏の写真で見た新美南吉ゆかりの家の狐面のことを書いたところ、釈迦楽氏から知多半島は狐が棲息しているのだという教えをいただいた。『ごんぎつね』を書いた新美南吉にとって、狐は身近な存在だったであろうとおっしゃる。 おふたりによって、私が10年前に狐信仰を研究したときに気がつかなかった、ひとつの大きな証拠を得ることができた。点としてちらばっていた事柄が、いっきに線で結ばれた。 どんな点が結ばれ、何が明らかになったのか? 新美家の狐面 ― 知多半島に狐が棲息 ― 知多半島の常滑窯(土)― 狐の土性(陰陽五行説)― 名古屋近辺の張り子狐のみやげもの ⇒ 土徳の化身である狐を信仰 と、こういう点と線である。 狐はその色合いから土と結びつけられ、土の象徴動物である。農耕の民にとって最も恵みと福をよぶ土が、狐信仰に向っていくのだが、陶工にとっても土は命、恵みと福をよぶものであることは言うまでもない。陰陽五行説において、土はどのように生じるかを見ると、それはまるで窯のなかで焼き物ができあがる過程そのものだ。「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ----」 知多半島中部に平安時代末期(12世紀)には開窯されていたとみられる常滑焼きである。その周辺のひとびとは、身近に棲息する狐を招福の使者として篤く信仰したのだ。 これが私の確信である。櫻井さん、釈迦楽さん、ありがとう。 閑話休題。 先日、わが家の猫たちのことを書いたが、きょう、私はとてもめずらしい光景を見たので、ちょっと書いておこう。 夏のカンカン照りが嫌いではない私は、せいぜい熱射病に気をつけながら、元気なジイちゃんよろしく自転車で遠出をした。運動のため、7年ぐらい前からつづけている、1週間に1度の行事。きょうは途中で、猫のトイレの砂を買い、菊の苗のための土を買い、鼻歌まじりにペタルをこいでいました。ほんとに元気なジイちゃんなんだ。 すると目のまえを御夫人が、やはりタウン自転車に乗って交差点を渡ってゆく。その背中になにか小さな白いものがくっついている。何だろうと私は思い、なにしろ好奇心が旺盛なものだから、ついでにその女性の顔も見てやろうと、ちょっとスピードをだした。 近づいてびっくりしました。なんと、子猫なんですよ、その白いものは。子猫が女性の背というか肩というか、手綱もつけずにのっかっているのです。私はとっさに、古い映画だけど『ビルマの竪琴』を思い出した。物売り婆さん(北林谷枝)の肩にオウムがとまっていたでしょう。「ミズシマー、ミズシマー、イッショニ、ニッポンニ、カエロウヨー」って鳴いて。まるでその婆さんみたいに、猫を肩にとまらせていたのだから、これには驚いた。 長年たくさんの猫を飼ってきて、いろいろな人が語る猫の習性とやらが、あまり当てにならないことを知っているが、とても用心深いことは確か。それが街路で動くものにのっかって、風をきって移動するなんて! イヤー、おもしろい光景を見ちゃった。私は家に帰って、わが家の猫たちにハッパをかけましたよ、「寝てばかりいるんじゃない!」
Jul 21, 2005
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この遊卵画廊をときどき訪ねてくださる櫻井さんのサイトにアクセスしたら、昨日の日記に、童話作家新美南吉がこどものころ暮した養家の写真を掲載されていた。そのなかに、狐の面が掛けてある家の内部の柱を撮影した1点があった。それはおそらく張り子の面であろう。 土俗的狐信仰は、遠く「日本書紀」にすでに現われているのだが、現在では京都の伏見稲荷大社と愛知県の豊川稲荷大社の二流におおもとを置くといってよい。 櫻井さんが撮影した面は、もとをたどれば伏見人形に発して、後に江戸時代の明和年間(1764~67)に住吉大社の社頭でも売られるようになり、さらに名古屋にも紙張り子として伝承された、そのいずれかの系統に属すものだろう。写真から判断すると、比較的最近のものかもしれない。だとすると、この南吉養家のあたりでは、いまでも脈々と福の神の使者としての狐信仰が生きているのかもしれない。 私はもう10年以上前に、象徴と図像学研究の一環として、日本の狐信仰とその図像について短い論文を書いた。近い内にそれをこの画廊の論文アーカイブに展示しようと思っている。今日のこの日記のタイトルを「あら、不思議!」としたのは、じつはその論文執筆を準備していたほんの数日中に起ったことである。 みなさんはこんな経験がおありだろうか。 狐にまつわる新聞記事や、さがしていた資料が、つぎからつぎと目の前にあらわれたのだ。新聞記事は、今の今のことでしょう、これはびっくりしますよ。いくらなんだって、狐にまつわる事件がそんなに起ることなんてないでしょう? そればかりでない、東京都内のデパートの屋上には大抵お稲荷さんが祀られていると知り、カメラを持っていきなり訪ねたら、なんとも親切な応対で写真を撮影させてもらった。断る会社は1社もなかった。まるでスーッと門が開いてゆく感じ。 まだまだあります。東京都の中央図書館に資料をさがしに行った。司書に相談するため、前の相談者の話がおわるのを待っていました。で、開架式の書棚にしょざいなげに手をかけた。指先が本にふれたので、ちらと目をやると、なんとなんと、狐関係の本なのです。 私の論文はずんずん書き進み、編集部から与えられた原稿枚数をオーバーしそうになってしまいました。ここをはしょり、あすこもはしょりして、妙な苦労をして入稿したのです。 みなさん、どう思われます? あら、不思議!、ね? 櫻井さんの写真をみて思い出したことです。
Jul 20, 2005
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1945年(昭和20)5月14日生れの私は、先日60歳になった。その響きがおもしろくて、このところやたらと60歳を吹聴している。 民俗学的な事象を研究していると、「生れ清まわり」ということばと、それに附随する行事や儀式はどうしても避けて通れない。いまこの遊卵画廊の論文アーカイブ第4室に入力している一件も、そのことがおおいに関りがある。つまり一般には「還暦」といわれていることだ。人生、いくつまで生きられるか知らないが、そのサイクルのひとつの節目を60歳とみて、ここから人生を再スタートさせるという意味合いをふくんでいる。 「生れ清まわり」ということばは、人生を不浄のものとみなし、穢れた身をみそぎして、清らかにうまれ変るという考えを表現している。日本固有とまではいいきれないのだが、私はこういう考えがまったく性にあわない。ずいぶん人間存在をみずから卑下し、おとしめ、なめきった考えだと思うからだ。つまり私という人間のなかに、いわゆるこれまでの世界が考えてきたような「宗教」性が、たぶんまったくないからであろう。 私は、人間をいじましい醜い存在だとは全然思わない。他のあらゆる生物が、生きて行くための固有の美しさをそなえているように、人間もまた、とても美しい。 私は自分の作品のなかで、ほとんどファッションを扱わない。男も女も全裸である。絵描きとして、たくさんの裸体を見つづけてきたが、人間はほんとうに美しい。なんの無駄もない。それは当然なのだ。あらゆる生物の、その形態と構造が必要十分であるように、人間もなにひとつ不要なものはない。みなさん、あらためて、つくずくとご自身の肉体を観察してごらんになるとよろしい。すばらしい構造をしていることに感嘆されるはずだ。指の1本1本から、その筋や関節や、それをとりまく筋肉の流れや。 ----昨日の日記で図鑑のことを書いたが、図鑑でそだった人達は、生物の美しさ、物の美しさが良くおわかりになるはずだ。なぜ、人間図鑑がないのだろう? まあ、そのかわり古今東西の画家や彫刻家たちが、せっせと数千年も人間の美を追求してきたのだろう。 そんなわけで、わたしは自分の60歳を楽しんでいる。 とはいえ、世の中、私のように考える人ばかりではないことも現実なのだ。友人たちが会社の定年を迎え、一線をしりぞくと知らせてくる。50年も会わなかった小学校の同級生から、還暦祝賀会の案内状がとどく。あるいは、ポンと肩をたたかれて振向くと、昔の仲間がちょっと気がつかないほど面変わりして立っている。なんだか60歳になったとたん、いままでとは違うネットが、できつつあるのである。
Jul 19, 2005
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暑いけれどしばらくぶりに晴れ上がった一日だった。私は真夏のカンカン照りが嫌いではない。 小中学校はもう夏休みに入ったのだろうか。家のなかにいても近所の子供たちの遊ぶ声が聞えてこない。庭の木々の葉叢をかすめて、キアゲハが舞い、しばらくするとクロアゲハがやってきた。いずれも夏型にはちがいないのだが、まるで春型のように少しこぶりだ。 すでにこの日記でもちらりとふれたが、わたしの小学生時代は夏休みといえば蝶や植物をさがして一日中、山野を歩きまわっていたものだ。いま私の仕事場の手近な書棚に、7册の古い図鑑がおさまっている。手をふれると箱がボロボロと崩れそうだ。50年前、私が子供のころに使っていた図鑑類である。いや、じつは現在もたまに仕事の調べものに使用している。 その中に、保育社の横山光夫著『日本蝶類図鑑』がある。奥付に昭和29年7月20日刊第二刷とある。初刷は同年6月1日である。つまり刊行後およそ1ヵ月半で増刷されたわけだ。 図鑑類、しかも決して児童図書ではないこのような専門書が、こんなに短期間で増刷されたということは、とてもすごいことなのだ。現在私は、出版界のはしっこに身をおいて仕事をしているから、それがよくわかる。戦後まだ10年にならず、物資も豊かとはいえず、良質の書籍を誰もがこころまちにしていたのかもしれない。それにしても大変な売れ行きだったことは間違いない。 この図鑑、じつはその後、名著として蝶類愛好家や読書人のあいだで知られるようになる。この遊卵画廊にお越しの方で、ご存知のかたはいらっしゃるだろうか。あるいはお持ちの方は。 記述が科学的でありながら、ロマンチックな香りがする。小学3年生の私でも、著者のロマンチズムにこころをときめかせていたのだ。たとえばウスバシロチョウの記述は次のように始まる。 「あげはちょう科の中では姿も色彩も、名のように[しろちょう]にまぎらわしい種類である。氷河時代の遺物といわれるこの蝶は、北海道では平地に、南に進むにしたがって高地に棲息する。云々」 私は、長野県の高原の路傍のアザミの花かげでこの蝶を採集した。いまでも忘れない。その光景が、まったく色褪せることなく目の前によみがえる。私は、透明な翅(はね)のこの蝶を目にしたとき、標本にするには不適当な鱗粉が落ちてしまった個体かとおもったのだった。それでも採集して、そのとき所持していた図鑑ではよくわからず、2年後に正体を知ることになる。「氷河時代の遺物だって!」 しかもこの蝶の食草が、なんとアザミなのだった! あるいはアカシジミについて横山氏はこう書く。 「本種近属の22種をゼフィルスと通称される。ゼフィルス(Zephyrus)というのは[そよ風]の意でこれらの習性をよく現わしている。云々」 アカシジミを採集したときも、まさに横山氏の説明のとうりだった。ある夕方、ヒラヒラと風に舞う小さな落ち葉のように、屋根のあたりから軒下へ降りてきたものがある。当時の私の習性で、「アッ」と思ったときには裏口に駆け込み、すばやく網を手にしてもどった。オレンジ色の小型の蝶が[そよ風]のように、私の目のまえに舞い降りた。その瞬間、網は蝶をすくいとっていた。それがアカシジミだった。このとき初めて出会い、その後ふたたび見ることがなかった蝶である。同属近種のウラナミアカシジミは何度も見かけたが、アカシジミはこれ一度だけであった。 イタリアのウフィツィ美術館のボッティチェリ作「ヴィーナスの誕生」は、だれでもご存知。その画面、向って左側に衣をそよがせながらヴィーナスに息を吹きかけている青年がいる。それがゼフィルスだ。 私は横山氏の記述を何度も何度も読み返したものだ。 私の作品のなかに登場する蝶たちは、60歳の私をそんな子供時代に誘うのである。【画像追加:2021.11.01】
Jul 18, 2005
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今日は日曜日だけど、学校でなにかあったのだろうか。私の前を教諭らしき男性と小学校3年生くらいの男の子ふたりが歩いている。小学生たちは手提げバッグをリュックサックのように背負っている。交差点で先生が「じゃあな」と分れて、さきに道路をよこぎり駅へとむかった。「バイバイ」男の子ふたりは小走りに住宅街へと入ってゆく。先生は道路の向う側で、「気をつけて帰れよ」と声をかけた。すると男の子が「ウ~ン、ちょっと無理かもしれない」と言ったのだ。もうひとりも振り返りながら「無理無理」と駆けてゆく。 私はおもわず笑ったが、「えッ?」という気持もある。ちょっと無理かもしれないって、おいおい君たち、それは一体どういう意味だい。 先生は彼らの返事にはとんちゃくせず、もう背をむけて歩いている。私は三人をかわるがわる見やりながら、おかしいけれど、ちょっと恐くなってその場に立ち止まってしまった。
Jul 17, 2005
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昼間せっせと仕事をしたので、ちょっと休息。さきほどまでBS2でスピルバーグ監督の『ロストワールド;ジュラシック・パーク』を観ていた。 それで思い出したのだが、私の昔の仕事に『恐竜図鑑』というのがある。書棚を見てみたがみつからないので、倉庫に入っているのだろう。 昔の原稿台帳で調べると、いまから33年前だ。1972年のちょうど今頃、7月13日から20日まで、『別冊少年マガジン』に原始恐竜を18ページ分、モノクロで描いている。他にも何人かのイラストレーターが分担執筆した。『恐竜図鑑』は同じ講談社の児童出版局から、この『別冊少年マガジン』のイラストレーションを再使用して刊行されたのだ。私の最初の単行本である。 シルフ氏はどうやら恐竜が好きらしく、自身のコラージュ作品群にひとつのカテゴリーを形成している。しかしよもや私にそういう「過去」があることはご存じなかろう。 さて映画『ジュラシック・パーク』はすでに何度も観ているけれど、あらためて気がついたのは、前作より様々な思想が、明確に登場人物のキャラクターに割り振りされているのだということ。そして、スピルバーグ初期作品に共通してみられた彼のまるでオブセッションのような追跡強迫のストーリー展開だが、過去の映画作品へのオマージュのような一面があると、私は思った。『キングコング』、『ゴジラ』。それにTレックスが人間を銜えてふりまわすところは『恐竜100万年』か。『失われた世界』は映画はもちろん、そもそものコナン・ドイルの原作小説ともども、言うまでもない。 恐竜は現実に存在した生物にもかかわらず、いまだ研究途上にあるのみならず、その色彩などおそらく永遠の謎を秘めている。そのため人間の夢の象徴でもあるのだが、今日、映画を観ていて非常におもしろかったのは、その夢を懸命に破壊しようという強烈な意志もまた、もうひとつの人間の夢だということだ。 映画のなかでもそれはセリフとして明言されている。つまり『白鯨』のエイハブ船長をプロトタイプとするハンターの姿がそれだ。アメリカ文学の創造になる、孤高の人物。それはフランス文学におけるサドとはまったくことなる裏階段を昇ったのだ。サドはキリスト教に対峙して、神の顕現を熱烈に待った人間である。しかし、エイハブは、おのれのなかの「業」に対峙していた。それはおそらくキリスト者の知らない巨大な闇なのではあるまいか。 私の映画観は、ストーリーに注目すると『八月のクジラ』のようなのがお気に入りだ。しかし『ジュラシック・パーク』を何度も観るたのしみは、やはり細部の凝りかただ。たとえば救出組み3人が島に到着して最初に恐竜に出会うシーン。左のデジタル・カメラを構えている男の目の表情。実にすばらしい。また、サラ(デミ・ムーア)と娘が寝ているテントに母Tレックスがやってくる。叫びをあげようとする娘の口をサラが塞ぐ。恐怖の娘の左目からおおきな涙が落ちる。その落ちる涙のすばらしさ。 サラやケリーが必死に掴まる1本のロープ、そこをトレーラーがズドンと抜けて断崖を落下してゆく。遥か下の水のなかで炎上するトレーラー。ウ~ン、御見事! まだまだある。小型恐竜が川のなかをピョンピョン群れをなして人間にとびつく。水しぶきが上がり、川辺のシダの葉がゆれる。----まあ、どうやって撮影したかと思わずにはいられないシークエンスだ。意外に長いんだ、1カットが。カメラが切り替わっていない。そして画面のすみずみまで厚みがある。こういう映画って美術がほんとうに重要だ。 堪能しましたゼイ!
Jul 16, 2005
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末弟が贈物を送ってくれた。受取った家人が、「あら、死んだお父さんの名前になっている。どうしたことかしら」と、居間のテーブルのうえに包みを置いて、届け先伝票をつくずくと見ている。 ミステリーに「死後の手紙」というモチーフがある。差出人が亡くなったのちに、その人の手紙が配達されるというものだ。しかし死んだ人へ配達されたものはどうすべきか。 父は今年3月に亡くなった。たぶん弟の手帳かコンピューターの住所録には、データがまだ消されずに残っているのだろう。父は私と同居していたから、欄が一段間違ったのだろう。 「言っておきましょうか」「いいよ、いいよ、そんなこと」「お仏壇におそなえして、と言うことかもしれない----」 近所のスーパーマーケットに行ったら、盆供養のための小さな野菜籠が売られていた。昔はわが家でも盆になると大きな祭壇をつくり、灯籠を飾り、茄子や胡瓜に割り箸で脚をつくって牛馬にみたて、沢山の供え物をした。その日は、私が、早朝から野原に桔梗やオミナエシや山百合をとりにでかけた。供花として大瓶に飾るためだ。小学生の私は、学校から帰宅すると毎日のように、山野を歩き回り、蝶や野草の採集にあけくれていた。どこにどんな草花が咲いているか、私はよく知っていた。だから盆になると母は、「さあ、いってらっしゃい!」と、某TV番組のチンパンジーとブルドッグのお使いみたいに、早朝の野原に私を追いやるのだった。 父が病床から眺めていた庭のバラが、いま、今年三度目の花を開いている。あすはそれを手折って、弟の贈物にそえて供えてやろう。
Jul 15, 2005
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いまこの日記を書き始めた私の周囲に4匹の猫たちが、それぞれ思い思いの格好で寝そべっている。昼間遊び疲れて、ちょっとお休みか。ほかの3匹は、まだ遊んでいるのだろう。そうです、わが家には7匹の猫がいるのです。初代からかぞえて4代目のひ孫たちです。 ブック・カバー選集の第1回目の作品をアップした。その中の『猫鏡』に描いた3匹の猫。一番奥にいて立ち上がって振向いているのが、そもそもの母猫「天才クロ」です。手前が娘猫で、左が長女。 なぜ天才クロかと言うと、私とはほぼ完璧に「ことば」でコミュニケーションをとっていた。私のそばにやってきて顔を見上げながら「ニャー」と鳴く。私はクロの目をみながら、「外に行きたいの?」「---」「ごはん?」「---」「牛乳?」「おしっこ?」「ニャッ!」「そう、おしっこがしたいの。じやあ、トイレに行こう」 クロはさきに駆け出し、立ち上がってドアをあけ廊下を走る。 これが牛乳だと、冷蔵庫の前に走って行き前脚をそろえて待つのだ。外出しようとすると玄関まで見送り、「お留守番、お留守番。いいこだね」と言うと、すごすごと引き返し、廊下の中ほどに坐ってこちらを見ている。 こんなふうなコミュニケーションが取れるようになったのは、先に紹介した長女の出産がきっかけだった。 陣痛がはじまって産箱のなかでいきんでいる。しばらくして羊膜がすこし見えた。「さあ、クロもうすこしだ。がんばりなさい」 励ましながら見守っていたが、まだ幼かったためか産道がひろがらないらしかった。1時間が経過、2時間が過ぎ、もう精根つきたようにぐったりしてしまっている。そのうちまたいきみだしたと思ったら、破水してしまったのだ。私は「クロちょっと見せてごらん。大丈夫、大丈夫、手伝ってあげるから、がんばるんだ。クロは強い強い」などと言いながら、膣口に指をいれてみると、なんと逆子ではないか。細い脚が指にふれた。 「クロちょっと待っててね、大丈夫、きっと助けてあげるよ」 私は洗面器を用意し、石鹸水をつくり、手指に塗って、再度膣口に指をいれて細い脚をつかみ少し引出した。するとかなり外に引っ張り出すことができた。しかしクロは痛がって胎児の脚を半分そとに出したまま産箱を飛び出し、私が仕事机にしていた座卓の上に横たわった。しばらく激しい呼吸をしていたが、やがてすこし眠った。 「クロ、がんばるんだ。ウーンと言ってごらん」私は自分で「ウーン」と言ってみせた。するとクロは「ウーン」と、いきんだのだ。「そうだ、そうだ。クロはおりこうだ。ウーンだよ」 そのたびにクロは「ウーン」とやり、するうちに胎児が半分くらいでてきたのだ。私は、赤ん坊はもしかしたらもうチアノーゼを起しているかもしれないと思った。破水してからもかなりの時間が経っていた。そしてその時だった、クロが叫びをあげて座卓をとびおり、近くのドア際に駆け寄った瞬間、ストンと赤ん坊が落ちたのである。私は急いで取り上げ、口や鼻のまわりの粘液をふきとった。赤ん坊は生きていた。 しばらくして産箱の中にもどったクロは、いままでのことはすっかり忘れたように甲斐甲斐しい母親ぶりを発揮していた。なんだかそれまでの幼い感じがすっかりなくなっているようだった。そして、それ以来だった、私と「ことば」でコミュニケーションがとれるようになったのは。 この長女はひとりっこだったせいか、「ミー、ミー、ミー」鳴いて、母親の懐にもぐりこんでいた。それでミミと名付けた。 成長したミミもちょっとめずらしい特技を持っていた。外の窓廂のうえにいるミミに、「ミミ、おいで」と下から両手をのばしてやると、なんと立ち上がって、前脚をこちらに伸べてまるで人間の赤ん坊のように私の両手のなかにからだを預けるのだ。はじめ私はただ御愛そうのように両手を差出していたので、これには驚いてしまった。家人を呼んで、ちょっとした騒動になってしまったのだった。 この25年以上にわたって、クロの子孫たちがわが家をにぎわして来た。それはまた、沢山の猫たちの生涯を見てきたと言うことだ。しかもなぜかみな、私の腕のなかにやってきて息を引取った。最後の力をふりしぼって、私の仕事部屋にやってきて、私に抱かれて死んでいった。私は一晩中、死んだ猫の頭を「いいこ、いいこ」と撫で付け、翌日火葬場に運ぶのだった。 さきほどまで寝ていた4匹が何処かに遊びに行き、代って別な猫たちが帰って来て、書棚のうえでうとうとしている。
Jul 14, 2005
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きょうは忙しく、『ジェダイの復讐』も残念ながらおあずけ。けれども、この作品には、どうしても検討したいシークエンスがある。ほかでもないルークが父親ダース・ベイダーの遺体を火葬に付すところ。このシークエンスはこの作品がキリスト教から切り離されて成立していることを意味している。おそらくそうだ。これは私にとってとても興味ある問題である。ぜひ日をあらためて、この日記で考えてみよう。 さて、この遊卵画廊もシルフ氏の奮闘のおかげで、ようやく当初の計画通りのスタイルが実現しつつある。私もシルフ氏も、ものをつくる人間だから、こういうサイト・コンストラクションでもついつい、これもやろう、あれもやりたいと欲がでてくる。どんなコンテンツにしたらお客様に楽しんでいただけるだろうと、そういうことが常に頭にある。 きょうもシルフ氏は、新しい企画を提案してきた。シルフ氏が私にインタヴューをして、それをひとつの独立した部屋に掲示したいというのである。 私は面白がりやなものだから、即座に承知して、あまつさえ、それじゃあ現在進行形で行きましょうと再提案。さっそくフリーページにその部屋を設けた。ぜひご覧ください。そして、お客様で、もし御質問でもあればどこかに書き込んでください。たぶんシルフ氏がうまく質問として消化してくれるでしょう。私も何を聞かれるかと内心、戦々兢々としてまっております。毎日いくつかお答えしてゆきます。答えに行き詰まったら、そこに秘密があると思ってください。あッハッハ。
Jul 13, 2005
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この遊卵画廊をたずねて、スターウォーズの記事にコメントを残してくださった釈迦楽さんが、「山田さんは職業がら、個々のショットの絵としての美しさに注目されるのですね。なるほど!」とおっしゃる。それであらためて、映画的記憶を探ってみた。 私の最も早い、しかも映像として明瞭に記憶にのこっているのは、美空ひばり主演の2作品。昭和24年の家城巳代治監督『悲しき口笛』と昭和27年の『牛若丸』だ。昭和26年から27年にかけてのことだから、『悲しき口笛』は2,3年遅れて掛けられたようだ。 問題のショットだが、これは断然『牛若丸』の映像が強く記憶にのこっている。美空ひばりが牛若丸を演じたのは無論だけれど、二役で少女の役もやっていた。鞍馬山の山道をふたりが手をつなぎ駆けて行く。その走り方が、まったく同じだったのがひどく印象的だった。白黒映画だからだけれど白い水干(すいかん)に袴すがたの牛若丸と少女のうしろすがたは、50有余年経った現在でもくっきり目に浮かんでくる。この作品、美空ひばり映画としては話題にならないものだが、ヴィデオがあるのだろうか。私の記憶が間違いないかどうか、ちょっと確認したいところだ。 同じようにワン・ショットの印象ばかり強く鮮明で、タイトルやその他のシーンはすっかり忘れてしまった映画が2本ある。これまで随分調べたが、いまだにタイトルがわからない。2本とも洋画で、日本で公開されたのは昭和30年代の前半である。 1本目は、西部のカウボーイたちが、たくさんの牛を追って旅をしている。と、川にさしかかる。一頭の牛が群れから離され、川の中に追いやられる。するとたちまち川面が波立ち、はげしく飛沫がおどり、なんとピラニアの大群がその牛に喰らいついているのである。その一頭を犠牲にして、カウボーイたちは急いで他の牛の渡川を敢行したのだ。犠牲の牛は断末魔の悲鳴をあげながら、たちまち白骨化してゆく。スクリーンいっぱいに、その過程がありありと映し出された。まさに息をのむシーンだった。そのせいでもあるまいけれど、タイトルも何もかも、他のすべてが記憶からふっとんでしまった。 次ぎの作品は、戦争映画。敵の戦車隊をたった二人でやっつけようという算段。 なんだかだだっぴろい草原のような場所で、かくれるような所もない。一人が太い枝を張る樹にのぼる。もうひとりは少し離れた草むらで、二人分の自動小銃を両脇にかかえて待ち受ける。やがて先頭の戦車がやってくる。例の樹木の方へと砲を向けながら----。草むらのひとりがやおら立ち上がる。両脇の自動小銃を発射する。ババババババ―。その反動で彼は後方に投げ出される。戦車の操縦室の蓋があく。敵兵が様子をうかがうために顔をだす。そのときだ、樹上の兵が、手榴弾をその操縦室をめがけて投込む。あっ、と敵兵は思わず身を沈めて蓋をとじる。その蓋のうえに樹上から兵がとびおりる。ドカン!! 中で手榴弾が爆発して、操縦室の蓋が兵をのせたまま吹っ飛ぶ。 これは私がそれまで見たことがないようなシーンだった。自動小銃の反動の大きさも、このとき初めて知った。滑稽と緊迫感が同居していて、ちょっと子供のころ読んだ『ほらふき男爵』を思い出させた。でも、なぜだろう、タイトルを忘れている。 どなたか、この2本について、心当たりががあれば教えていただきたいものだ。 そんなふうに、地方の山のなかでワクワク、ドキドキの映画経験を積んでいた。釈迦楽さんがスターウォーズのエピソード1をご覧になったのは、中学生のころだそうだが、私の映画に対する視点を一変させたのは中学生になるかならないかの1957年(昭和32)、黒澤明監督の『蜘蛛の巣城』だ。山田五十鈴が血まみれの手(幻覚だが)を小桶で洗うシーン。森が動いて押し寄せて来るシーン。その森から無数の矢が放たれ、三船敏郎の首元をかすめ、板壁に突き刺さるシーン。三船の表情。----なんと素晴らしいのだろうと、私は感嘆した。 あるいは『用心棒』の大樽の積まれた倉庫でのチャンバラ・シーンの光の扱いや、モノクロの黒味のかがやかしい深さ。 私は見てきた映画を年長の友人たちに話して聞かせるのだ。みんなが目にみえるようだと感心してくれる。すると嬉しくなって、お小遣いをやりくりして、また映画館にでかけていったものだ。 その中のひとりの高校生が、ある日、ヒッチコック監督の『ロープ』を観てきて、今度はわたしにいちぶしじゅうを語った。たぶんその時だった、私は、映画が「創造するもの」だということをはっきり認識したのである。これはちょっと奇妙な言い方かもしれない。なぜなら、それまで私が映画が創造の産物だと知らない訳はないのだから。でも、たしかに私は、その高校生の話しを聞きながら、「創造」ということの秘密のような事柄に気がついたのだった。 さあ、ちょっと長くなったので今日はこれまでにしよう。
Jul 12, 2005
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このタイトルで昨日書きはじめたのだが、夜、シルフ氏からメールがとどき御尊父のご容体が回復にむかっておいでとのことで、急遽、内容を変更した。 で、一日遅れでTVで『帝国の逆襲』を観たことを少し書こう。 スター・ウォーズ;エピソード1が制作されたのは1977年。日本公開が翌78年だから、私が劇場に足をはこんでいたのはもう27年前ということになる。前評判もたかく、日本SF界は浮き足立っていた。各雑誌はにぎにぎしい座談会を掲載した。そんな中で、『別冊宝島』からこの映画の短評を書いてほしいと言ってきた。編集部の方針は、否定評がほしいのだという。ところがSF界の書き手は誰も否定評など引受手がいないばかりか、ちょっと頼み難い雰囲気ができあがりつつある。そこで、私に目をつけた。日頃SFを読み、またSF雑誌でイラストレーションを描いている私だけれど、SF界とはなんとなく距離がある。否定評を書いたからといって、当たり障りがあるわけでもあるまいと、こう言うのだった。 随分な頼みかたもあったものだ。しかし、つくずくだよ(出川風に)と言わないで、私は「はい、はい」とふたつ返事で引き受け、劇場へ出かけたのであった。 “a long time ago in a galaxy far,far away …” 「あっ、やばい、否定評かけないかも…」 “STAR WARS” タイトルが宇宙の彼方に消えて行く。 「ほんとに、やばい、どうしよう」 私は根が律儀なのだ。引き受けた仕事はきっちりこなしてきた。 ストーリーの前提をつたえる字幕が、帯びのように流れてこれも星の彼方に消えて行く。そして、いきなり私たちの頭上を巨大母船が船腹をみせて通り過ぎる。 「ええい、ちくしょう、もうどうにでもなれ!」 まァ、ストーリーはね、年が年だから身につまされるでもないが、美術はすべてのカットで讃嘆した。あらゆるところに念入り仕事のワザがかがやく。 ルーク少年のポンコツ車の錆びぐあい。戦闘機の脚部に流れるオイル。さまざまなところからやってきた星人が行き交う街、と、奇妙な長い棒状のものが2本、画面を横切って行く。それは、やけに背の高い物干竿のような脚をした星人が通ったと言うことなんだな。 それにアストロメク・ドロイドR2-D2が、1926年のUFA製作の『メトロポリタン』に登場するロボットを彷佛とさせるのだ。おそらくR2-D2のイメージの原型だろう。プロトコル・ドロイドC-3POだって、ああいうイメージ・タイプは、1920年代のアメリカのSFイラストレーションでしばしば見かけるものだ。そういう、なんというか、懐かしさみたいなものをちゃんと残している。オビ・ワンとルーク少年の関係だって、アメリカ映画のプロトタイプであるお爺さん(老賢人)と孫の関係だ。『カラテ・キッズ』みたいなね。----そういうところを、このスター・ウォーズという映画はきっちり押えている。スペースオペラとして、とても良くできているのだ。 私は否定評どころか絶賛評を書いて入稿した。担当の女性編集者は口をとがらしたが、後日とどけられた雑誌をみたら、ボツにならずに掲載してあったけれど。 エピソード1にはそんな思い出があるけれど、『帝国の逆襲』も何度観たことか。 雪の白さがいい。それも時間の変化や雲の様で色合いが微妙に変化する。帝国軍の象のような4本脚のおもしろい戦闘機が雪原を歩いているシーンは、合成に違いないのだけれど、従来ならその戦闘機の周囲にほんの少し青いかげみたいなものがでる。それがまったく見えない。合成技術が格段にすぐれているのだ。 それに相変わらずというか、前作以上に、美術の細部のイメージがすごい。4本脚の戦闘機が破壊されて、巨大な脚部のちょうど足首のあたりが雪の中に埋もれて見える。カメラは一瞬なめるだけだけれど、その壊れぐあいがとっても素敵だ。 昨晩は、私はルークがヨーダに出会い、フォースの習練を積む沼地の細部に目をこらしていた。錯綜する枝や鬚根の様、そしてその木肌の様子がほんとうにすばらしい。そして光景が美しいんだね。また、格納庫らしき建造物のインジゴ・ブルーの光りがつくりだす陰影なんて、あっと思うね。 雲の星の建物の窓の外を、一瞬スッと小飛行艇が飛んで行くのが見えたりすると、やっぱり喝采をおくってしまう。あるいは、こういうところもだ。 ダースベーダにお前の父親だとつげられたのち、ルークは母船の外へ投げ出されてアンテナに引っ掛かる。姫がルークのテレパシーを受取って、飛行艇を引きかえす。飛行艇は前方の雲の下をくぐって、まるでバクテンするようにターンして雲の上から出てくる。----こういうシーンがほんとうに上手い。おもしろいねエ。 お気に入り場面をならべてもきりがないけれど、そんなわけで、普段TVで吹き替え映画はまったく観ないのだけれど、昨夜は十分楽しみました。
Jul 11, 2005
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今日は夜になってシルフ氏からメールがとどき、どうやら御尊父が持ち直されたとのこと。本当によかった、よかった。 それにつけて思うのだが、近年ホリスティック・メディケーションという考え方がクローズアップされてきている。簡単にいえば、従来の患部治療第一主義から視点を変えて、患者の全体をみながら治療に当るということだ。 そこには患者の精神状態はもちろん、家族関係など、できるだけ多方面から患者の人間的全体像をとらえようというもので、どうやらその方が治療効果が格段にアップするらしいのだ。 そしてこの考え方のなかには、科学的医学的一面ばかりでなく文化的一面も議論の対象になっている。つまり現代医学といえばだいたい西洋医学プロパーを指すのだが、そこに東洋医学の考えかたや技術も加え、文化的融合状態が目されているということである。哲学問題でもあるのだ。 西洋医学というのはデカルト以降の人間機械論のうえに発展してきた。人間は機械のように精密なさまざまな部品からできあがっているという考えである。だから、手術によって悪い部分を取り替えればいいのだし、なくても生命が維持できるのであれば、切り取って捨ててしまってもかまわないと言う訳だ。 厳密にはデカルトも西欧社会の歴史的動勢のなかの一点で、西欧世界全体が中世の宗教や迷信に支配された蒙昧な闇を、科学によって脱出する機縁にあったのだが、ひとつの論理的整合性をうちたてたのがデカルトだった。 いっぽう東洋医学というのは、たとえば漢方や、鍼灸(ハリやキュウ)、按摩のような施療を主体とする医法である。古くはマジナイのようなものも含まれていた。さすがに現在、正統な東洋医学はマジナイはしないけれど、しかし科学的にはいまだに証明されないことがたくさんあることは事実。 鍼灸ではもっとも大切なツボ、つまり経絡(ケイラク)については、あまり分っていない。血管系やリンパ系や神経系とは違う反応系、とまでは言える。しかしその実在が見えない。見えないけれども、ハリやキュウはたしかに効果がある。西洋医学からすると、一体これは何だ!?ということだが、つまり東洋医学というのは科学では証明されないが非常に長い何千年という年月のおそらく経験による知識の蓄積かもしれない。しかしそこに、現在問題になっているホリスティック医学のヒントがある。 どういことかと言うと、たとえば脾臓が悪いのに、そこからは遠い足のどこかにキュウをたてたりする。セックスの精力が減退したら、性器とはぜんぜん別などこかを指圧するとか。 それはなぜなんだ、ということだ。 ここにもう、西洋医学ではとらえきれなかった、人間の全体を考えなければいかんじゃないのか、という思想がめばえているのだ。 世の中にはしゃにむに西洋だ、東洋だ、と分けたがる人がいるけれども、そういう考えはじつに愚劣なのだ。いまの世界情況では真に固有のものなんてないんだよ。自分は日本人だ。だけどその自分から、どこの文化からもまったく影響されない自分を抽出することなんてできはしない。もしできると主張するなら、それはjingoだ。文化精神論的には狂気だ。 なぜそんな言い方をするかというと、東洋医学趣味といってもいいような人にときどき出会うのだ。西洋医学を全否定してしまう極端論者だ。自分の身体のことだし病気に苦しむのは辛いから、どうしても信仰にちかいようなところまで行き着くのも分らないではない。でも東洋医学というのはスローフードのようなもので、緊急救命医療としては役にたたないのだ。それはちょっと病院の緊急救命医療棟に行ってみれば、たちどころに納得できる。一分一秒をあらそうばかりか、素人が想像もできない手術や治療をやっているんだから。 シルフ氏の御尊父の御回復を祈りながら、そんなことを考えていた。
Jul 10, 2005
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今夕6時、I女史のパーティに出席。会場は池袋のホテル・メトロポリタン。さきほど帰宅したばかりだ。 I女史はもう35年以上の友人。その若くして亡くなった夫のI君とは、いわば同業者で、駆け出しの頃は雑誌の誌面で一緒になることもあった。お互いにめざす方向がちがっていたので、会っても仕事の話をしたことはなかった。血気盛んな頃だったから、おそらく舌鋒するどくやりあって仲たがいすることを、もしかしたらお互いにおそれたのかもしれない。 I君夫妻は東京生まれの東京そだち。根っからのお祭り好きだった。もう25年も昔になるが、その年の祭日に夫妻の家にはじめて泊まり掛けで招待された。一升瓶をぶらさげて訪ねると、しばらく後にふたりは奥の部屋で祭り装束に着替え、I君はさっさと庭に出て行く。おやおや私をほったらかしてと思ったら、I女史が私の目の前にきっちりたたんだ真新しい祭装束一式、草鞋をそえて置いたのだ。 「どうなさいます?」とI女史。庭からI君が「ひとりで留守番しててもいいですよ」と言って、腕組みしている。 こうして、ふたりの術中に手もなくおちて着替えさせられ、私は生まれて初めて江戸神輿を担いだのである。 鳶の親方には、「初めてにしちゃ、えらく上手い」とおだてられ、その後3年間、その日がくると一升瓶を下げて夫妻の家に泊まり掛けでお邪魔した。 祭りが終った翌日は、I女史は手早く朝餉を用意して、男ふたりを残して仕事に出かけた。私はその後はI君の仕事場に場所をうつして、旨い鰻重をごちそうになりながら夕方遅くまで過したものだ。 彼はときどき何気なく自分のやった仕事を持出して来て私に見せた。 「それ、いいね」などと私は言いながら、彼はきっとずっと以前から、私に自分の仕事の成果を見せたかったのかもしれない、と思った。 I君が亡くなって1年ばかり後、彼の遺した蔵書のなかから民俗学関係の書籍200册ほどを、I女史は私に譲ってくれた。 その本を仕事の資料としてページをめくっていると、ところどころにI君の書き込みがみつかることがある。 きょう別れ際に「しばらくぶりで会って、元気そうなんで嬉しかった」 「ほんと、しばらくでした。きょうは来て下さって、ありがとう」と、彼女は笑った。古代紫の着物がよく似合っていた。
Jul 9, 2005
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昨日は忙しくてこの日記を書くことができなかった。それに、この山田維史の遊卵画廊をシルフ氏のサイトから訪れてくださるかたは、先刻ご承知だろうが、彼の御尊父が急に御倒れになられたとのこと。心配している。 シルフ氏とはメールでやりとりしながらこの画廊を構築してもらっているのだが、その私宛のメールが局留めになって配達できないと知らせてきた。何のことかと思って、その知らせを詳しく読んでみると、どうやらシルフ氏は私のいくつかのメール・アドレスをごちゃまぜにタイプしたようだ。私にとってこれがショックだった。御尊父が倒れられた後の彼の動揺が、そこから伝わってくるからだ。こころから御回復をお祈りする。 さて、そんなこんなのところ、私は眼鏡を新しく作り直している。特注品なので16日もかかる。それまでは古い眼鏡で仕事するしかない。不便なことこのうえなし。いまこの日記を書きながら、ときどき手許がくるう。それでもちょっと発奮して、遊卵画廊の論文アーカイブに文章を入力しはじめた。図版はあとまわしにして流し打ちに書きこんでいる。 その作業をしながら思うこと。 こういうサイトも、デフォルトのフォントや機能では、論文等の執筆にはとても制限があるということだ。まず正字・旧字がまったくだめである。古資料からそのまま引用したい学術的論文は、まずダメだ。原文の文字使いがとても重要な意味をもつことがあるのだ。 そういうことを含めてだが、IT革命だと言っても、軽便さだけが先に走っていて、底の厚みがまだまだなのかもしれない。つまり、金をかければ可能だとか、専門家に依頼すれば出来るとかいうような状態では、真の文化状況とは言えないのではないかしら。誰でもが、ほんとうに気軽に、成そうと思うことを成せ、深いところへ行こうと思えば行けるようじゃなければ、情報手段としてはやっぱり未だしなのだ。 まあ、そういうことを感じながら、せっせとタイピングしている次第です
Jul 8, 2005
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小説家の花輪莞爾氏(国学院大学の教授でもある)から、氏の短編5篇が掲載されている『現代文学』最新号がとどく。このところ精力的に執筆されているので、それを言うと、「だってさぁ、もう時間がないんだよ」と仰る。「まあ、まあ」と私は笑うが、かくいう私だって同じなのだ。「昔書いたものを読むと、耐えられないんだよ」「私もそうなんです。でも筆一本の身過ぎ世過ぎ、作品が人手に渡っていますからねぇ」「うちが所蔵してる山田さんの作品、返してほしくなったの」「いや、そういう訳じゃないんですが」 このところ花輪氏の怪異小説は、戦中戦後すぐのころの東京・成城物語の一面があり、それが私にはめっぽう面白い。花輪夫妻とはもう25年のおつきあいだ。私は第一等の花輪小説読みを自認しているが、成城生まれの成城そだちで、そこを故里などという人がなんだか不思議なのだ。「なんで?」と花輪氏は言うが、私も長年御近所に住まいしていたので、やっぱり私のなかにある故里のイメージとはそぐわない。でも、「ある屋敷の庭をのぞくと60年前と同じなんだよ」などという話は、ちょっとこたえられないくらい面白い。 あるいはこんな事も聞いた。 東宝の『ハワイ・マレー沖海戦』は特撮監督円谷英二の名をたかからしめたが、東宝はこのミニチュア・セットがよほど自慢だったらしく、普段は厳重に目隠ししている所内を、御近所のみなさんにどうぞご覧になってくださいと招待したのだそうだ。子供の花輪氏も見に行ったんだって。 ‥‥私の知識が浅いせいかも知れないが、こんなこと日本の映画史は書いていない。どうして書かないんだ? こういうことって大切だよ。 そしてこれも花輪氏から聞いたのだが、その東宝撮影所のスタジオが、戦時中から戦後しばらくまで迷彩をほどこされていたんだって。こんなことも映画関係者を名のる人は書いていない。そりゃァ、あんな大きな建物だもの敵機の格好な標的になるだろうと言うことは、言われりゃ気が付くよ。だけど、やっぱり映画史に書くべきだよ。スタジオに迷彩をほどこした、って。年寄りだけが想い出のなかで分っていたって何にもならないのだから。 ----いつの間にか異界へ読者を拉致する、その途中にこんな面白い話をするのが花輪氏なのだ。奇妙な味のする小説が好きな方は、ぜひ御一読を。そんな名短編を51篇も収録した『悪夢五十一夜』は、私の絵をカバーに使っているが、ちょっと手に入れ難いかもしれない。この遊卵画廊でもうじき展示しますからね。
Jul 6, 2005
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午前中にシルフ氏とメールで連絡をとる。それからすぐに急用ができて午後いっぱい外出。その間にも、このHPの内容のことを考える。シルフ氏のアドヴァイスもなんとか消化したいものだと。 それでアッと思い出したのは、5年前に35年振りに発見した、少年時代に書いた詩稿のことである。 5年前のこと、引越しを決意して身辺整理をしていたら、さまざまな紙に書いてある110篇の詩の束が出てきた。16,7歳頃から20歳前後までのあいだに、詩を創作するというより、想いを短く書き留めたといったようなものである。 私の10代の後半は暗澹たるものだった。その気分は、これらの稚いことばの連なりにも読み取れる。まったく、何故これほどまでに鬱屈し、自殺衝動やゆえしれぬ閉塞感に苦悩していたのか。今になっては不思議だ。しかし、イラストレーター・画家としてのイメージの源像は、その憂鬱な精神を自らの力で回復する過程で蓄積されたことはまちがいない。 この数年来、「少年の凶行」が頻々と取り沙汰される。私はこの少年達の父親よりおそらくずっと年輩である。45年以上のへだたりがある社会環境の差異を考えると、彼等の精神状態を理解できるとは決して言えない。が、私自身がただひとりで苦しんでいたことを顧みて、愕然とするのだ。 拙い詩ではあるが、これらをこのHPに掲載してみようかしら。 シルフ氏とメールで語りあいながらも想うのだが、私は画家として自らをさらけだす覚悟ができている。もし現在の少年諸君がこの遊卵画廊を訪れてくれ、その詩を読んでくれたなら、いま60歳のおとなも、じつは同じように閉塞感に悩み自殺まで考えた時代を通過してきたのだということを、感じてもらえはすまいか。 まだ、掲載をきめたわけではないが、ちょっとシルフ氏の意見も聞いてみよう。
Jul 5, 2005
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展示用の資料をなんとか形がとれるようにまとめる。ディクスン・カーはどうやらみな書庫にあった。全47册。ありゃ! シルフ氏にあらかじめ44册と報告したが、記憶ちがいだ。3册多かった。 ブック・カバー選集ギャラリーの第1回は、幻想小説家花輪莞爾氏とミステリーの人気作家折原一氏、二階堂黎人氏、篠田真由美氏にしよう。1点ごとにデザインコンセプトやエピソードをそえて。----すこしでもお客様に楽しんでもらわなければ。 とりあえず400点ほどの作品資料ができた。明日、シルフ氏に発送だ。ドカッと行きまっせ、シルフさん。まだ第一陣だっせ。ほんま、よろしくたのむわ。 身体の心配をしながら、一方でこれだ。われながら恐ろしい根性だ。(この1行はシルフ氏にもお客様にも見えない!!??)
Jul 4, 2005
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今日は都議会議員選挙の投票日。午後4時ごろ、そぼ降る雨のなか投票に行く。その余は終日この遊卵画廊に展示するための作品資料の整理をして過す。まだ中身のない画廊に立ち寄ってくださる方がいるとなれば、ちょっと気がきではない。 シルフ氏も、どうやら今朝方まで画像をアップしてくれていたようだ。彼は情熱的で働き者。心臓がアップアップ(しゃれを言っている場合じゃないが)するまで突っ走るところがあるようだ。私も若い頃は食う寝るより、次々にわきあがるイメージの処理をしているほうがよかったものだ。私のために身体をこわしてもらいたくはないが、多分、はたから言ったって聞きはしないだろう。自分がそうだったから良くわかる。内心で願うほかはあるまい。 さて膨大な量の作品のなかから、何をお見せしたらよいだろう。スタジオ撮影していない作品もたくさんある。エロチックなものは無理だろうなァ。ほんとうは絵画とはセクシャルなしろものなんだ。作者の側から言えばね。みんななかなか気が付かないだけなんだ。作者だっていちいち自作の因ってきたるところなんて公言しないしね。 とにかくこの画廊のかたちだけは作らないと‥‥。
Jul 3, 2005
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立ち上げたばかりで、コンテンツも空っぽの遊卵画廊に、すでにお客様がお立ち寄りくださっている。申し訳なくも、ありがたい。 じつはこのサイトの立ち上げには、大阪在住の若き友人シルフ氏が全面的に尽力してくれた。私は一切何もしていない。シルフ氏は、アトリエにこもりきりの私を外に引出すかのように励ましながら、私のこれまでの仕事の全体像をまとめ、このサイト上にプロデュースしようと骨折ってくれている。シルフ氏にも感謝である。 ところで私のハンドル・ネーム「AZURE」とは、空の青、蒼穹の雅語である。梅雨の一時の晴れ間か、いまアトリエの窓に、すこしグレーがかってはいるが薄青い空がのぞいている。近所の散歩道や、やはり近所の高幡不動尊の山内には、紫陽花の青が美しい。青色の紫陽花は土壌が酸性のためだそうだ。桃色だとアルカリ性。リトマス反応とは逆の色が出る。紫陽花は遠くからでも見映えするし、よくみるとどことなく楚々として可憐なところもある。少女の可憐さではない。若女房の可憐さというところか。むかしシーボルトがこの花に、我が妻の名(おたき)をとって「おたくさ」と名付けたが、その心情はちょいとうなづける。ぽってりとしながら楚々とした風情のある紫陽花を、雨上がりの庭先にながめるうちに、若い妻の姿を想ったのであろう。 「青」ついでに、油絵具の青についてちょっと触れておく。紫陽花の青といわれている油絵具がある。ハイドレジャンブルーである。別名フタロシアニンブルー。 油絵具の青はじつはとても扱いがやっかいだ。扱いというより、深みを出し難いと言う方が適当だろうか。コバルトブルー、プラッシャンブルー、マンガニーズブルー、ウルトラマリンブルー(ラピスラズリ)、これらはいずれも透明色で被覆力は強いが下地が透けて見える。プラッシャンブルーやハイドレジャンブルーは強い絵具で、混色すると他色を食ってしまうおそれがある。セルリアンブルーは不透明色だが、下色としてつかうと上層色の油性を吸収してチョーキング(油引け状態)を起してしまう。 昔、私はそんな実験にあけくれて、製作が二進も三進も行かなくなったものだ。 ハンドルネームの話が、つい三題噺めいてしまった。 今後この山田維史(ヤマダ タダミ)の遊卵画廊をおとずれて下さるお客様、どうぞ気長におつきあい下さい。
Jul 2, 2005
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山田維史の『遊卵画廊』(ホームページ)が本日オープンしました。コンテンツその他はこれからですが、よろしくお願いいたします♪
Jul 1, 2005
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