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アルベルト・モラビア(1907―1990)といえばイタリアの文豪・ヨーロッパ知識人としておおきな存在である。1929年、22歳の若さで『無関心』(邦訳『無関心な人々』)を刊行、以後、『軽蔑』『孤独な青年』『倦怠』『ローマの女』など多数の長篇小説や短編小説集を発表した。それらのなかには映画化されたものも多く、『軽蔑』はジャン・リュック・ゴダールが1963年に、『倦怠』はセドリック・カーンが1988年に、また1970年にベルナルド・ベルトルッチが撮った『暗殺の森』は、モラビアの『孤独な青年』が原作である。 私は学生時代、モラビアの作品が好きで、当時弘文堂から出ていた邦訳本を大切に書棚にならべていたものだった。そのころはヨーロッパではアンチ・ロマン(反小説)が新しい文学として台頭してきて、アラン・ロブグリエなどを私も熱心に読んでいたが、好みはどちらかといえば〈旧態〉の、モラビアのような、物語りの巧みな作家だった。しかし私もよほど気紛れなのか、やがてモラビアを完全に離れてしまう時が来る。アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグに出会ったのだ。 今日のタイトルとした「私が会ったA・モラビア氏」というのは、モラビアの文学に出会ったという意味ではない。モラビア氏その人に、直にお目にかかったのである。 モラビア氏は何度か来日して、NHK教育TVにも出演しているが、私がお目にかかったのはたしか2度目の来日のときではなかったか。私がまだ大学生で、21歳だったと思う。何かで調べればはっきりするだろうが、そのときモラビア氏は新宿の紀伊国屋書店のホールで講演をされた。私をモラビア氏に会わせてくれたのはイタリア大使館の職員だった。私は邦訳の『無関心な人々』を携えて行った。 男女5,6人のひとたちがモラビア氏のそばにいた。大使館の方が私に、「モラビア氏は英語をはなされますから、どうぞ英語でお話ください」と言った。 現在もそうだが私の英語は、読めるけれど話せない式のものだから、私はちょっとあわててしまった。学生がたったひとりで世界的な文豪を訪ねて来たことに好奇の眼差しを向けていた女性が、私の顔をみて微笑した。すると不思議なことに私の気持のなかで何かがストンと落ちて、比較的楽な気持になってしまったのだ。 モラビア氏はとてもおしゃれな感じだった。黒いズボンにネイヴィー・ブルーのジャケット、ごく薄いクリーム色のワイシャツ、それにピンク地に金色のラズベリー柄のネクタイを締めていた。背はそれほど高くないけれど、四角い顔のせいかもしれないが、がっしりしていた。 大使館の方々は、じゃましないようにと気づかってくれたのか、少し引き下がって静かに自分達の会話をしていた。「あなたの小説は、語り口の酷薄な感じにくらべて結末が何か甘い幸福感が滲んでいるように思うのですが、それは意識的にやられていることですか?」と、私は無遠慮に尋ねた。「すぐれた小説は、みな、結末に希望が見えるのです」「意識的にそうしようとしなくとも?」「そう。おのずと----」「ここにあなたの最初の小説の日本語版を持って来ました。御署名を頂戴できますか」「いいとも。書くものはあるかね」 私は自分の万年筆をそえて本を差出した。 するとモラビア氏は本を受取るや、くるりと裏返しにした。「あっ!」と私はちいさな声をあげたかもしれない。大使館の方がこちらを見た。 モラビア氏はそのまま裏表紙を開けて、見返しに署名をした。じつは縦組の日本語の本は左開きである。ところがモラビア氏は洋書と同じ右開きに本の向きをかえてしまったのだ。「ありがとうございます。お目にかかれて光栄でした」 私は本と万年筆を受取りおじぎをした。 帰りぎわにさきほどのイタリア人大使館員が、「良かったですね、署名がもらえて」と言った。私は本を開いてみせた。「ああ!」と、彼は言った。署名が裏表紙にはいってしまったことを理解したようだった。 私は40年ちかく経ったいまでも、あのときのモラビア氏の風貌をまざまざと思い出せるのである。
Aug 31, 2005
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先日来、奇想の建築をめぐる話しをしたが、私がそんなものに関心をもったのは、もしかしたら小学校入学の前年から2年余、父の仕事の任地で借りていた家に起因するかもしれない。ごく普通の平屋なのだが、その玄関が私の空想をあおったのである。本来なら三和土(たたき)と書くべきところだが、一坪の板敷きだった。私たち一家が入居した当初はだれも気がつかなかったのだが、そのうちなんだか足音がすこし反響するようだと私は思った。父がその板敷きの床を調べていたが、やがてその板が全部取り外せることが分った。板は厚さ約1寸半(45mm)ほど。それを取り外すと深さ5尺(150cm)ほどの室(むろ)が、ぽっかり口をあけたのである。穴底と周囲はコンクリートで固めてある。 じつは何のことはない食糧備蓄用にでもつくったのであろう床下収納庫。まさか防空壕ではなかっただろう。 それにしてもなぜ勝手口のほうにつくらなかったのか。幼い私は、玄関がそっくり穴蔵になってしまう構造にひどく不安な気持にさせられたものである。もしも夜中に板を取り外しておいたなら、暗闇を外からいきなり入ってきた者は、いったいどういうことになるか? しばらくのちに私は『白狐仮面』というチャンバラ映画で、主人公の白狐仮面が敵の屋敷内に仕組まれた落とし穴に墜落する場面に出会った。床が逆観音開きになって、侵入者を陥れる仕掛けだった。私はついさきごろまで住んでいた家の穴蔵を思い出して、目をみはってしまった。 さてそれからというもの私はこんなカラクリ屋敷に夢中になってしまったのだ。「宇都宮の釣天井」や幕末の京都の旅館「いくまつ」の釣天井。宇都宮のほうはどうやら作り話らしいが、「いくまつ」のほうは現実。吊り戸棚のなかに隠された紐を操作すると、750kgの石を乗せてある天井が落下する仕掛けになっているのだ。 石川県金沢市の妙立寺は通称忍者寺といわれているが、ここには隠し拝殿などのカラクリ仕掛けがある。 そういえばかつてTV時代劇で、たしか大川橋蔵の『銭形平次』だったと思うが、釣天井がでてきて木製のおおきな歯車がガラガラ動くいいセット美術だった。 映画『名探偵登場』にも釣天井がでてくる。ただしこちらはセリフにあるように、むしろ鴨料理の仕方が直接のヒントか。鴨料理は御存知のように専用の器具で圧殺し、血の一滴まで絞り取ってしまうのである。 それではヨーロッパには釣天井はなかったかというと、ナポリにはあったとも言われている。石造建築にそれは無理ではないかと思われるかもしれないが、あにはからんや、西洋の宮殿などの天井にはたいてい壮大な絵が描かれているのでお分かりのように、取り外しができる比較的軽いものを内部で吊ってあるのである。イタリア・オペラの殿堂、ミラノ歌劇場が近年大修理をしたが、そのとき、あの大ホールの天井が釣天井だと言っていた。 しかしやはり西洋の宮殿などは日本建築にくらべて規模が広すぎ、釣天井は実用的(?)ではないにちがいない。むしろ釣燭台が凶器になる。ミステリ小説にもピエール・ポワロオ『釣燭台』というそのものズバリのものがある。 そうそうチャンバラ映画には「ドンデン返し」もよく登場する。 私は漫画の読者としては10歳で卒業してしまったが、堀江卓の『矢車剣之助』だけはその後までひきずった作品だ。昭和32年8月から36年12月まで雑誌『少年』に連載されたということだが、私が読んでいたのはせいぜい33年ごろまでかもしれない。何が私を夢中にさせたかというと、モグラのように地下を掘鑿しながら進む戦車とか、なんだかとても奇妙な物がたくさん登場するためだった。矢車剣之助とは大岡越前配下のお庭番、いわゆる忍者。無限機関銃とかいう武器を片手に愛馬ゴローとともに縦横無尽の活躍をするのである。しかし、私の記憶にはそんなストーリーはまるで残っていない。堀江卓の奇想の発明品にただただ夢中だったのだ。これもみなカラクリ屋敷に通じる関心事なのである。 さて与太話(無益な話)をしてきたが、それにしても建築にとって奇想とはなんだろう。なぜ〈奇想〉と言わなければならないのだろう? この疑問にこたえるかのように、バーナード・ルドフスキーが次のように言っている。 「立派な大人が、たかが中二階のある程度の美的な冒険性に大よろこびすることがあるが、このことはそのまま現代文明に対する、とは言わないまでも、現代建築に対する奇妙な批評となっている。つまりそれは私たちが自分の建築への好みにおいて、穏当な水準から遠く離れることは決してできないことを暗示しているのだ。想像力豊かな趣向をこらした空間を知らない私たちには、ここに示されたような建築を正しく評価する資格はなさそうだ。」(渡辺武信訳) これは私の子供時代の思い出にとっても手厳しい批評だ。なぜって、たかが玄関の地下収納庫にワクワクしていたのだから。いまもって、想像力の欠如をなげくかのように、創造の山へ芝刈りに行くというわけです。
Aug 30, 2005
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昨日ご紹介した精神科医式場隆三郎博士には、多くの著作があることは述べたとおりだ。私が所蔵する本としては他に『サド侯爵夫人』がある。今日はこの本をめぐって書いてみよう。 サド文学の研究者といえば即座に澁澤龍彦が念頭に浮かぶ。しかし日本においておそらく澁澤よりずっと早い時期に、精神科医の立場から〈真面目〉にサドの生涯と芸術について取り組んだ人は式場博士だったかもしれない。 式場博士がサド侯爵の伝記的研究を『愛の異教徒』という一書にまとめて発表したのは昭和22年(1947)4月で、それは綜合出版社から刊行された。そしてそれ以前の昭和21年1月に刊行されたのが『サド侯爵夫人』である。この著書は2,3年の間に3版を重ね、私が所蔵しているのはその3版に全面的改訂をほどこしたものである。W175mm×H187mmの変型判、紙装、東郷青兒の装幀・挿画、昭和24年1月30日、うらら社刊。 東郷青兒の装幀だから軽くしゃれている。緑色がかったグレーの地に二人の裸婦が白で単純に線描されている。ひとりは正面向きの身体をくねらせながら俯きの横顔をみせている。よく見ると手首がくくられている。もうひとりは後ろ手にくくられ、吊されているようだ。髪をばさりと下げ、背面をさらしながらお尻が高く突き出ている。上端中央に朱色の中太楷書体で〈サド侯爵夫人〉、下端に朱色に墨を混ぜた色調で〈式場隆三郎〉。裏表紙も同様で、タイトルがフランス語になっている。上端に〈LA MARQUISE DE SADE〉、下端に〈Doctour R.Shikiba〉。 博士はこの本を執筆した動機を次のように述べている。「私はサド侯の伝記とともに、その犠牲になった夫人の伝記を世におくりたいのである。しかし、私はサド侯夫妻の波瀾にとんだ生涯を、たんに猟奇的な興味から取扱いたくない。私の態度はこの本を読んでもらえば、わかると思う。私は愛情の変性がこのように高度にまで及ぶ場合のあることを証明し、分析するとともに、そのようなひどい良人をもちながらも、少しも悪感化をうけず、ますます純愛を深め、良人の兇悪無残な愛情が常態にもどることを祈りつづけた稀有の女性の生涯を讃えたいのである。----」 式場博士のサド夫人に対するやさしい眼差しは、もしかしたら原資料の読み違いをさそったかもしれない。のちに澁澤龍彦がもっと詳細な『サド侯爵の生涯』を執筆したとき、式場博士と最も異なる見解だったのは、サドが晴れて自由の身になったときのサドと夫人とのそれぞれの行動に関することだった。 それはこういうことだ----。 まず式場博士の記述から見てみよう。 「出獄した侯爵が最初にやったことは、夫人との肉体と住居の別離、つまり法律上の離婚手続をとることであった。彼は先づ、妻と子供の利益がこの訴訟を要求するというのを口実にし、事件を彼女の意志にもとづくように仕向けた。それは最も忌わしい策略であった。というのは、侯爵はそのときフルーリュウ議長夫人を情婦にしていたからである。」 つぎに澁澤の記述を見よう。 「自由になった囚人の第一歩とともに、旧世界との最後の関係が断ち切られた。すなわち、サン・トオル修道院に身を寄せていたサド夫人は、彼が出所した翌日訪ねて行くと、意外にも、夫にふたたび会うことを冷たく拒絶したのである。彼女は離別の意志を明らかにした。あれほど長年月にわたって忠実に夫に仕えてきたルネ夫人が、いったい、どうしてこの時になって、夫と別れようという気になったのか。(略)おそらく、ルネ夫人の気持を別居に踏み切らせたものは、第一に宗教的な理由であろう。(略)自由になった夫にとっても、もう自分は用はあるまい。子供もそれぞれ成長したし、もう母親としての役目も終っていた。彼女は一人になりたかった。----(略)しかしサドにとって、長年連れ添ってきた妻と別れることは、やはり相当なショックだったようである。(略)事実、四月下旬になると、ルネ夫人はパリ裁判所に夫婦別居の申請を出し、同時に、持参金としてサド家に受納されていた16万842リイヴルの金の返却をも申請しているのである。」 この二人の識者の意見の相違は、見過ごしにできない決定的な違いである。そしてここに注目したのが三島由紀夫だった。三島由紀夫という人は他人の作品をまことに透徹した眼で的確に読みとる。彼は澁澤が書いた「長年忠実に夫に仕えてきたルネ夫人が、夫が自由の身になった途端、面会を拒絶した」ことに創作意欲をかきたてられ、たちまち一篇の戯曲『サド侯爵夫人』を書き上げてしまう。登場人物が6人の女性だけ、サドは一度も舞台に登場しない。しかしその6人の女性の丁々発止たるセリフによって、観客の脳裏に巨大な幻のようにサド侯爵その人が立ちあらわれるのである。けだし名作というべきである。私は初演を観ることはできなかったが、再演でその舞台を観ている。 このように後進の研究者によって訂正されるべき部分はあったにせよ、式場隆三郎博士の業績はまことに先進的であった。精神科のお医者さんだけあって人間についての目のつけどころがちがう。学生時代の私にとっては、人間観察のひとつの偉大なお手本だったのである。
Aug 29, 2005
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風土と都市の構造や建築物とのかかわりが感覚的にはいってくるのは、やはり海外を訪れたときかもしれない。たとえばマンハッタンで聞くパトロール・カーのサイレンの音は、いったい何処から聞えてくるのだろうと迷うほど、音源の方向をはかりがたい。日本より空気が乾いているうえに、固い岩盤のうえに密集して建つ摩天楼に反響し、音は鋭くあちこちを駆け巡る。 あるいは散策している足の裏に日本よりずっと固い感触がある。大理石の床もカチッカチッという響きをする。もっと私が驚いたのは、カンディンスキーの絵をニューヨークではじめて理解した気がしたことだ。日本でも何点も実物を見ているのに、たぶんそれらは私の心と感覚をとらえることはなかったのだろう。ところがニューヨークで見たときはまるで違っていた。私は溜め息をついて見入っていた。輝く色彩が大理石ずくめのスクエアーな固い固い空間のなかで自由に息づき、飛び跳ね、その空間の雰囲気をガラリとかえてしまっていた。「ああ、こういうことであったか。カンディンスキーの絵はこういうことであったか」と、私は彼をはじめて理解した。絵画もまた風土や都市の構造などと密接につながっているということか。 さて今日私はかつて昭和13年の4月頃まで東京深川門前仲町にあった〈二笑亭〉という奇想の建築について書くつもりだった。しかしどうも限られた字数では紹介できそうにない。そこで私が所蔵するちょっと珍しい本を御紹介し、その後は興味をもたれたみなさんが御自分で調べて頂きたいと思う。もっとも、私の所蔵本を古書店で探すのは、現在ではもうかなり難しいかもしれない。 式場隆三郎著、三井永一装画『決定版 二笑亭綺譚』特製総布装幀本貼箱入り、千部限定出版、昭和40年6月30日、今野書房刊。 1000部のうち1番から65番までは超特製総皮装幀本である。65番から1000番までは特製総布装幀本となっている。式場隆三郎氏の筆墨による署名と、奥付に式場氏手彫りの認印票が貼ってある。 式場隆三郎といってもお若い方は知らないかもしれない。著名な精神科医で、多くの著書があり、また山下清画伯の才能を認め保護した。話がそれるが、私は中学1年生のときに会津若松で山下清画伯に会っている。署名ももらい、それがつい3年くらい前、いろいろな資料を整理していたらひょっこり出て来た。またどこかにもぐってしまったが、あるにはある。 そんなわけで私は随分昔から式場博士の名前は知っていたのだ。『二笑亭綺譚』は初め昭和12年に『中央公論』に発表されてセンセイションを巻き起こし、その後単行本として出版されてからも、出版社を変えたりして幾つかの種類の本が刊行されているようだ。私は学生時代からながらく探していたのだがそれらを一度も見かけたことはなく、ようやく34,5年前にこのおそらく最後の出版物を入手したのだった。 〈二笑亭〉とはどんな建物だったのか。 大正14年10月、一人の男が息子二人をつれて横浜から世界周遊の旅にでた。自分で縫ったシャツ一枚に股引のようなものを穿き、ちょっとあらたまったときにはこれにドテラをはおり袴を穿くという異様な服装。ボーイたちには100円もの高額なチップをばらまくように与える。父の暴挙ともいえる行動に、長男は心労がかさなり船中で発狂してしまう。そんなことも意にかいさず彼はフランスのマルセーユからロンドンにわたり、ついでアメリカ、カナダとめぐって大正15年の4月に帰国した。この男の精神はおそらくこの世界旅行の間にも徐々に狂っていたにちがいない。発狂しつつあるその目に映じた世界各地の風土や文物の印象がもともとの彼の教養と混然となって、帰国後、摩訶不思議な建築を10余年の歳月をかけて孤独のなかで具現した。 精神分裂病であったと式場博士は言っている。博士は赤木城吉という仮名で紹介しているが、死亡後、渡辺某と明かした。博士は彼のつくった〈二笑亭〉をシュルレアリスムに通じる奇想として、自宅の敷地に移築して保存することを考えていたらしい。しかし昭和13年のこと、博士が知らぬ間に完全に取り壊されてしまった。 カナダで製材会社を視察してきた赤木城吉は木曽の御料林へでかけて木材を買いあつめた。建材はすべて精選されたものだという。敷地95.7坪、建坪は普通の物差の規準を守っていないので正確な計算ができないけれど、およそ67坪。いまどきの東京の一般住宅にくらべて大層な邸宅である。 表から見た感じは寺院のような神社のような、あるいは倉のようにも見える。一階の全面がまるで江戸時代の牢獄をおもわせるような格子戸。その背後に厚い洋風の引き戸がついている。表二階部分におおきな三稜形のガラスの嵌殺し異形窓。外観が左右不均斉であることが異様さを一層印象づける。どうやら不揃いの木材は不揃いのまま使用し、隙間ができたらそこを通風口にしてしまったらしい。合理的不合理とでもいおうか。屋根から落ちる雨が街路にあふれるのを防ぐためか、直径1間ほどの半円形の鉄板が地面にすえつけてある。 裏口は石と鉄でかためられ、裏木戸は周囲をものものしい分厚い石で囲い、なかに鉄筋が縦横にはいっている。鉄筋を必要以上に使ったため戸を開けても足がひっかかる。垣は基礎石のうえに高さ9尺の鉄管とレールを交互に林立させたもの。しかし牢獄のような陰惨さを除くためか、一本おきに灰白色の塗料を施し、それなりの美しさをかもしだしている。 この家の内部こそ赤木城吉の独創にあふれているのだが、式場博士自身がいっているように、なかなか言葉ではいいきれない。部分部分を見ると奇妙な美しさがある。 二階に彼の9畳の居間がある。畳と畳のあいだに木がいれてある。この二階へは一階の広い廊下の両端にある大梯子からのぼれるようになっている。二階の大広間なりやと3間幅(540cm)の板戸を開けると、あにはからんや奥行きが一尺(30cm)しかない。赤木城吉の笑いが聞えてくるようだ。床の間の違い棚が、2枚とも急傾斜をしている。その間を黒い漆塗りの竹でささえている。もしかしたら彼はときどき傾斜角を変えて楽しんでいたのかもしれない。とても物を置けはしないけれど。 立派な桧の板壁に九つの節穴がならび、そこにひとつずつ厚いガラスが嵌め込んである。その節穴から彼は外の人生を覗いていたにちがいない。 前に述べたように〈二笑亭〉の奇想は細部の意匠である。シュルレアリスムやダダイズムに通じる美がある。しかし苦心の結果が用をなさないのだ。和洋折衷が常人には理解不能の実現となっている。被害妄想のなせることか、人から覗かれる恐怖心が必要以上に頑丈な鉄板の目隠しを窓に取り付けさせている。分裂病がしだいに昂進してきたのだろう、超越する精神をつなぎとめようとするかのように、彼は天秤を愛し、建築においても一生懸命均衡をとろうとしたらしい。二階へ通じる階段を左右両端につくったのもその現われ。9畳の居間も3畳ずつならぶ均斉をはかったのだった。茶室のついた玄関の上に、横に一本の天秤棒が嵌めこまれている。使い方が巧みで自然にできているから見過ごされがちだが、式場博士は注目している。 こう書いてきても多分読者には〈二笑亭〉のイメージは伝わらないだろうと思う。私の所蔵本には三井永一氏のスケッチと、式場博士にさそわれてこの建物を調査した建築家谷口吉郎氏の図面がはさみこまれていて、それで私もようやく全体像をつかめるのである。興味あるかたはこの本を探してみてください。なんだか歯切れのわるい文章になってしまった。お許しあれ。
Aug 28, 2005
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私自身は銃火器にまったく興味がないのだが、かつて『S氏の猟銃』という静物画を描いたとき、私はS氏の厳重な管理のもとで実物を10日間にわたって写生した。まず銃の分解と組み立てをおそわり、構造を頭にたたきこみ、螺子1本の役目まで知るにいたった。描き終るころには私の頬はすこし削げ落ち、目の下に疲労がにじんでいた。制作の疲れではなく、弾丸が入っていないとはいえ殺傷能力がある武器に10日間じっと対峙してゆくことによるエネルギーの消耗だった。銃の構造というのはきわめて単純である。弾丸を十全に発射するただそれだけの目的のために、あらゆる無駄ははぶかれ、物理的には最大の効果を得るように工夫されている。なるほど銃のコレクターを魅了するのはこういうところでもあるか、とひとり納得した。ライフルのウィンチェスターなどは、その古いカタログまでがコレクションの対象になり、復刻版も出版されているようだ。 前置きが長くなった。私のこころを惑わす建築の話をしようというのに、私自身の銃体験を持出した。実はライフル製造元で有名なウィンチェスター家の令夫人が建てた屋敷の話から始めようと思うのだ。 夫人の名をサラという。ライフルで射殺されたインディアンの霊におびえて屋敷に閉じこもったばかりでなく、つぎつぎに部屋を建て増しして、ついに160部屋にもおよぶ奇怪な建物をつくりあげたのである。いやそれは完成でなかったかもしれない。夫人の死によって、160部屋でストップしたまでのことである。この屋敷はサンフランシスコから南に行ったサンノゼというところに建てられた。 事のおこりは、夫人の娘が生後1ヵ月で死亡し、ついで夫にも先立たれたことにあるらしい。サラ未亡人はその我身の不幸を霊媒に相談した。するとその霊媒は、インディアンの怨霊が夫人に取り憑こうとしている、休むことなく家を建てつづければ命までは取られない、と託宣したのである。 以後、彼女は82歳で亡くなるまで、38年間にわたって文字どおり休むことなく屋敷に手をいれ、つぎからつぎへと部屋を作りつづけた。インディアンの霊に許しをこうのか、サラ未亡人はときどき霊と話しをしているようだった。 この奇怪な屋敷はただ部屋数が多いというだけでなく、行き止まりの階段があったり、煙りが出せない----つまり穴のあいてない煙突があったり、どうやら彼女はインディアンの怨霊を迷わそうと考えたようだ。しかも不吉な数字13を、まるで護符を貼付けるようにいたるところに表現した。窓のかず、階段のかず、電灯のかず等々。 罪作りな霊媒である。こうして大富豪ウィンチェスター家の未亡人サラは託宣を真に受けたばかりに、終生この奇怪な屋敷のなかを逃げ惑いながら、ここに閉じこもりつづけたのである。 彼女にくらべるとフランスの郵便配達人フェルディナン・シュヴァルの場合は幸せだったろう。彼もまたその死まで一心不乱に建築しつづけたのだけれど。 1879年のある日、道端にころがっていた奇妙な形の一個の小さな石が、シュヴァルを奇想の建築家へと変えた。そのときシュヴァルは43歳だったらしい。彼は拾ってきた石をひとつづつセメントで固めて積み上げ、34年かかって幻視的な『理想宮』を築きあげたのである。 完成してから19年後の1931年に、アンドレ・ブルトンは現地オートリヴに『理想宮』を訪ね、33年12月に発行されたシュルレアリスムの機関誌『ミノトール』に、「類いまれなる、霊媒的な建築ならびに彫刻の巨匠」と紹介した。以後、フランスはドローム県の寒村オートリヴのこの『理想宮』はシュルレアリストたちのメッカのような存在になった。 フェルディナン・シュヴァルは無学ではあったが狂気の人ではない。子供のように空想し、その夢を実現したのである。彼自身が誇らし気に語っている。「かつてこれに比べられるものがない世界で最も独創的な建築物だ。たった一人の男が、34年かかってこの膨大な仕事をやりとげた。片意地な努力のなせるわざだ」と。 拾った小石が彼にはいろいろな動物の形に見えた。彼は神の啓示であると信じた。こんなに自然が彫刻を提供してくれるのだから、私は建築家にならなければならないのだ、と。村びとは狂人扱いし、妻は辟易して愛想をつかす。嘲笑をあびながらシュヴァルは基礎工事に着手した。まず初めに滝をつくることから始め、これに1年と10ヵ月かかったらしい。それから宮殿全体の基礎工事に3年費やした。 この『理想宮』は、アルフレッド・H・バーJr.が撮影した写真やシュルレアリスム関係の書物、あるいはそれらを引用して澁澤龍彦も紹介しているので、ご覧になったかたも多いだろう。それとも現地を訪ねたかたもおいでかもしれない。アラビア風寺院やインド風神殿、あるいはヨーロッパの中世の城がうかがえたり、はなはだ不統一の様式。長さ26m、幅14m、高さ12m。いたるところ豹やワニや象や駝鳥などの彫刻にうもれ、それらの間にキリスト教ゆかりの人物や聖母マリアや天使の像がある。内部は洞窟のような廊下が迷路のように通じ、そこにも巡礼者や天使たちの彫刻が埋め込まれている。 76歳でこの建築を完成すると、シュヴァルは自分が使用した建築道具や手押し車を宮殿の一番立派な場所に安置した。 宮殿の建設のつぎに彼はそのそばに小さな自分の家をつくった。そしてさらに休むことなく自分の墓所をつくりはじめ、8年かかって完成した。86歳になっていた。2年後、88歳でフェルディナン・シュヴァルは幸福な生涯を閉じた。もちろん自作の墓所に葬られた。 先日、飯盛山の栄螺堂のところで述べたとおり、私はある種の建築空間にほとんど肉体的に反応してしまうタチだ。建築空間の気の流れが私の生理と精神に影響するのだろうか。特に奇想の建築に限ったことでもない。たとえば愛知県の犬山城天守閣の黒光りする急な階段をのぼっていくと、昂揚感でだんだんヘンな気持になってくる。こんな告白めいたことは言わぬがよかろう。 そんなわけで私の記憶の頭陀袋には意外に建築関係が入っている。あしたは珍本を紹介しつつ、日本の『二笑亭』を見てみます。
Aug 27, 2005
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そろそろ忙しさもお尻に火がついた感じ。しかし性分なのか、この日記や別館で連載を開始した『映画の中の絵画』やら、どれもこれも放っておけなくて、こうしてキーボードにむかって叩きはじめたところ。みなさん、いったいどうやり繰りしておいでなんでしょうねエ~。ともかく始めましょう。 会津若松市の北東に小高い岡のような飯盛山がある。戊辰戦争のとき白虎隊の少年達が悲惨な自刃をした場所である。御存知のかたもあるだろう。 この山の中腹に正宗禅寺円通三匝堂(さんそうどう)、通称栄螺堂(さざえどう)という大変めずらしい建築がある。寛政8年(1796)の建立である。ある種の建築空間に敏感に反応し、あまつさえ性的昂揚感さえおぼえる私だ。この栄螺堂こそ私の眷恋(けんれん)の建築のひとつなのである。 外観は六角堂なのであるが、内部はまるでDNAのように二重螺旋のスロープが4層を貫いている。高さは約16m。唐破風の正面から入ると、右回りにスロープが螺旋状にのぼり、頂上で橋を渡ると、下りのスロープがこんどは左回りに螺旋を描きつつ正面とは正反対にある背面出口に通じている。 まさにDNA遺伝子の二重螺旋構造そっくり。のぼる人と降りる人が顔を会わせることはない。本来、このスロープにそって計33体の観音像がまつられていて、上下一巡すると西国観音札所を巡礼したことになるという、江戸時代の庶民のための簡易巡礼道だった。 このような〈栄螺堂〉は葛飾北斎の「富嶽三十六景五百らかん寺さざゐどう」や、江戸名所図絵「五百羅漢寺三匝堂」にも描かれ、頂上の見晴らし台から遠く富士山を望み見る江戸の人々のすがたをしのぶことができる。現存するこの形式の仏堂は関東に3棟、そしてこの会津飯盛山の1棟だけである。しかし塔の形は飯盛山のものだけで、仏堂建築としてはきわめて特異なものである。 私としては、この特異な建築構造の発想の源を知ることに関心が向う。建築学的研究の嚆矢は日本大学理工学部建築史研究室の小林文次教授であろう。私の収集した資料のなかにこの御堂の実測図があるが、それは小林研究室が1965年8月に制作したものである。 はたして日本人のオリジナルな発想であるか、それともヨーロッパあたりの渡来であるか。 秋田藩主で画家でもあった佐竹曙山が残したスケッチ帳に二重螺旋の図があり、日本における初期西洋画についての研究者はこのスケッチを洋書からの写しと考えて来た。小林教授はこのもとの書物を1670年にロンドンで出版されたジョゼフ・モクソン(1627―1700)の著書『実用透視画法』の第35図であることを発見した。そして佐竹曙山が1785年に没していることをふまえて、飯盛山の栄螺堂が建立された1796年以前に、二重螺旋構造の建築図は日本の一部の人には知られていたと発表した。しかし小林教授は慎重に、曙山のスケッチと栄螺堂を結ぶ直接的史料は発見されていないと述べている。 二重螺旋階段といえば、私は、レオナルド・ダ・ヴィンチの発想になるというフランソワ1世のためのシャンボール城の中央階段を思い出す。つい最近、NHK・TVがレオナルドをめぐる番組でこの中央階段の映像を見せていた。残念ながらその天才的発想と同じ発想になる建築が、会津若松市に現存することまでは気が回らなかったようだ。 何もかもぶっこわしてしまった会津若松だが、どうかこの建築は建築史上重要なものであることを忘れないでほしいものだ。世界に誇れる建築でありますぞ。そしてもとはと言えば実用に発するものながら、なんと幻想味にあふれていることか。なんだかそのあたりに、実用と非実用とのうまい組み合わせの哲学が発見できるのではないだろうか。私はいまそんな思いに深くとらわれているのだ。
Aug 24, 2005
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きょうは42年ぶりに訪ねた会津若松市の街の様子について書いてみよう。じつは書くべきか書かざるべきか、迷っている。住民ならざる私が、街の〈荒廃〉について物を言う資格なぞあるはずがないからだ。私にとってあきれるような現状も、現に住まいしている市民の総意で〈斯く成った〉のであろうから。しかしそうかと言って、私は観光客のような気持にもなれない。私を育んだもっとも大切な土地なのだから。 かつて42年前、私が住んでいたころの会津若松市の街衢(がいく)は、城下町としてのまるでお手本のような構成を保っていた。鶴が城へ到る道路という道路は一望できないように鍵形にすこしズレ、道幅は狭く民家の軒が通りへせりだしてくるかのようだった。江戸時代の建物があるわけでもない、せいぜい昭和初期の建築がかろうじてみかける程度だったが、しかししっとりとした落着きがあり、町の端から端まで歩いても私は疲れを感じたこともなかった。もちろん若かったからでもあるが、そういう肉体的疲れを言っているのではない。町のなかに時間が粛々とふりつもって、人のこころをやさしくつつみこむような、何かいわくいいがたい気配が人を疲れさせないのであろうと思われた。私は子供ながらにそういうことに敏感だったから、友達の父親の古い蔵書から、さらに昔の地図を借りて、せっせと筆写して、この町に住んでいる喜びをあじわっていたものだ。その筆写した古地図はいまでも私の資料箱のなかに大切に保存してある。 町名は、歴史をなによりも雄弁に物語っていた。城下町というものが如何に構成されていたか、町名によって明らかになるのだった。どのような人々が住んでいたかということばかりではなく、封建階級社会でどんな人たちがどんな扱いを受けていたかもわかるのである。百聞は一見に如かずというが、会津若松市のかつての町名はまさにその通りであったのだ。会津若松市が歴史観光の町としての意義は、それだけでも充分だったかもしれない。 さて、以上は前置きである。ということは、今述べてきたことが、すっかり失われたということである。私は20日の昼近くに到着し、午後、昔の先輩女性とふたりで自転車で市内めぐりをした。私の住んでいた場所や、中学校や高等学校をたずね、町のあちこちに42年前の面影をさがしてみた。それは私の青春時代へ遡る小旅行であったが、別にセンチメンタル・ジャーニーというわけでもない。センチメントになる前に、そのよすがとなる場所も建物もほとんど何一つ残ってはいなかったからだ。町名しかり、学校しかり。道幅はたくさんの車が悠々と走行できるように〈立派に〉拡張されていた。しかもそれは全市にわたって、ほぼくまなく行われていた。どうしてそんなことが可能だったのかと不思議なほど、昔の街衢は破壊され新生していた。町名もなんの意味もない名前にとりかえられ、御丁寧に旧町名の石碑がいたるところに建っていた。首をかしげざるをえない滑稽な行為! この滑稽で愚劣なことを市議会はおそらく真剣に議論して、よそから見ればふきだしてしまう〈おバカ〉を大金を出費して行ったのだろう。 私はこのように批判的に言っているが、車一台がようやく通れるような道幅では、現在のめまぐるしい流通経済からの疎外感をあじわうことぐらい、すぐに納得できる。だから私は最初に、書くか否かを迷ったのだ。おそらくこの大改造は、そうした強迫観念のなせるわざにちがいない。市民はこぞって強迫神経症におちいったのだろう。 しかしその改造が終了したいま、市民のなかには健常な精神をとりもどす人たちも出てきたらしい。古老たちは、新しい町名になじめず、かろうじて自分の住所を認識しているだけで、耳にはいる所番地をしかと認識できないでいる。あるいは、私がインタヴューした数人の方々が、いずれも、市の経済が活性化したわけではないと言う。町は、新建材の新建築で埋まっているが、メイン・ストリートの商店が、観光シーズンの最中に薄汚れたシャッターを閉ざしている。無人のまま廃墟同然の家々が市の中央部にさえみられる。空はさえざえとして青いが、かつてのしっとりした町のたたずまいはどこにもない。歩いていると、疲労感がどんどん溜まってくる。観光客も車やバスで、点点とちらばる観光スポットに直行するらしく、街を散策する姿をあまりみかけない。 会津若松は、売り物の歴史そのものを破壊してしまったのではないかしら。----思えば、私が住んでいたころから、文化財をおしげもなく破壊する徴候はあった。あの素晴らしい西洋建築の旧図書館の取り壊しがそうだった。その隣の公会堂。陸軍練兵場宿舎。裁判所等々。 私の青春の城下町は、いまや私の心の中だけにあることを知らされたのだった。
Aug 23, 2005
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この日記を2,3日休んでいたが、この間に、私が中学・高校時代をすごした会津若松市を42年ぶりに訪ねてきた。中学校の新聞委員会OB・OG12人が、顧問だった先生の喜寿を祝う会を催したのだ。私は出席した12人にも42年ぶりに会い、先生に連絡がついたのも2年前のことだった。 なぜこんな長い年月、私はこの町に音沙汰無しで来たかといえば、もともとこの町に一切の係累はなく、ただ勉学のために自ら望んで12才から17才までただひとりきりで暮していたのだ。昭和33年3月から39年3月までである。だから、大学入学と同時に東京へ去ってしまってからは、訪ねるよすががないまま、いつのまにか42年経ってしまったのである。 私は画家修行にあけくれて、実際昔のことを思い出す暇さえなかった。いちども思い出したことがなかったのだ。とにかく前進しなければならなかったので、もしかしたら過去をふりかえることを自分自身で無意識のうちに禁じていたのかもしれない。そして、以前に書いたけれども、60才になったとたん、いままで思いもしなかったネットワークができて、自分でもなんとなく昔の話をするようになった。こんどの訪問もそういうもろもろの新しく(いや、あらためてと言うべきか)できた連絡網のひとつの帰結だった。 先生とはこの2年間、空白の消息をいそいで埋めるように、お互いの資料を交換してきた。お互いにもう何事も急がなければならないのだ。画集やマスコミ記事や、論文掲載誌や、英米で刊行された人名録などごっそり送り、先生もまた雑誌や新聞記事や、活動記録や、はては御自身の詳細な病状記録まで送ってくださった。「40年間、貴方のことをずっと探していたんだ。ここと思うところに手紙を出しても、もう住んでいないと返されてくる。中学時代は小さくてひょろひょろしていたから、もしかしたら亡くなったかもしんねと考えたりもしていた」と。「今の写真をみると、ガッシリして、これじゃ街でバッタリ遭ってもわかんねな」「先生のお声は昔とまるでお変わりありませんね。一気に中学生に逆戻りしてしまいました」 と、これは最初の電話での会話だ。 昨日、夕方帰京の時間まで、先生のお宅でおしゃべりしていた。 「昔からちょっと変な子だったが、やっぱり、こんな変な絵を描く画家になっていたとは。いやいやたまげた、すごいすごい」 私の送った画集などを専用らしいバッグにつめて、それを奥さんにもってこさせてテーブルのそばに置いてらした。 「美術のI先生には間にあわなかった。亡くなってしまった。見せたら喜んだべ」 遊卵画廊のインタヴューでもこたえているが、この町ですごした孤独のなぐさめに美術が私のこころへ入ってきた。I先生は私が仏教美術史をひとりで勉強していたのを御存知だった。白鳳仏の杏仁形の眼についておしえてくださったのはI先生だった。また校舎内の階段踊り場にかける一間四方の絵の下絵を描くように私に命じたのもI先生だった。私は美術部でなかったけれど、私の指示にもとづいて美術部員たちが手分けして彩色した。巨大な人間の顔を半分、デザイン的にデフォルメし、涙の池や花々にうもれていたと記憶している。卒業後も何年間かしらないけれど、同じ場所にかけられていたらしい。 そのI先生のことを、先生はおっしゃったのだった。 「それでは時間が来ましたので、これで帰ります」 「そうかい。帰るかい」 「お元気で」 「あと2年は生きなければなんね。貴方にパンフレットに絵を描いてもらうんだから」 先生は御自身が顧問をし、かつて私も先生にひっぱられて団員になった劇団の50周年パンフレットのことを言った。わたしは役者として3年間、その劇団の舞台にたっていたことがあるのだ。 「かならず私が表紙の絵を描き、デザインしますよ。御心配なく」 「ああ、よかった。頼んだよ」 こうして私はまた東京に帰ってきた。わずか3,4時間で行けるところが、私には42年間の距離だった。
Aug 22, 2005
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昨日は、私の作品が他人の記憶や夢を写し取っている、と怒られた話をした。すると常連のお客さんたちがコメントを寄せてくださり、いささか恐縮した次第。それでまた思い出したことがある。小説家の花輪莞爾氏の夢のなかで、私の作品が暴れるというのだ。これは花輪氏が発表した『夢日記』のなかに書かれていたことである。 いま、書庫をさがしたが見つからない。もう14,5年前のことで、私の作品が氏の夢のなかに登場する詳しい経緯はわすれてしまった。後日あらためてその発表誌をさがしてみるが、花輪氏はすでに御紹介したことだが國學院大学の教授でもある。その『夢日記』は長年に亘って『國學院雑誌』と『Walpurgis』という國學院大学外国語研究室・外国語文化学科紀要に分載で連載されている。氏は御自分の見た夢を大学ノートに記録し、それがかなりの巻数に達するのである。 発表誌がれっきとした格調をそなえているだけに、いくら夢のなかだとはいえ、私の作品もあまり理不尽なふるまいはしてもらいたくない。夢のなかに登場したのは、花輪氏夫妻が所蔵する『E・A・ポーの肖像のある静物』らしい。夫妻は現在私の作品を4点所蔵しているのだが、『E・A・ポーの肖像のある静物』は1979年の作品。早川書房の「イギリス・ミステリ傑作選」シリーズの第1巻『ポートワインを一杯』のカバーに使用した。ポーとポートワインを掛けた駄洒落ではない。ミステリ小説の父祖に敬意を表わし、第1巻の表紙にしたのだ。 この絵の何が作用して花輪氏の夢に登場することになったのだろう。花輪氏の深層心理に何かが触れて暴れだしたにちがいないが、これもまた私の責任ではあるまい。この夢から御自身の深層心理の井戸に降りてゆかなければならないのは、むしろ小説家花輪莞爾氏であろう。 しかし、もし私の無意識が、作品を媒介にして花輪氏の夢にはたらきかけたとしたら? アルフォンス・アレ『奇妙な死』(創元推理文庫「怪奇小説傑作選4」所収)を皆さんは御存知だろうか。 ある画家が、みごとに描きあげた水彩画を恋人に贈った。彼女はすぐに自分の部屋にその絵を掛けた。画家はこの絵を海の水で描いたのだ。海の水で描いた海の絵は、月の引力の影響を受けて、潮の満干を起すようになった。絵のなかのちいさな海の水が、ぐんぐん満ちてきて、岩をすっかり隠してしまうと、今度は逆にぐんぐん引きはじめ、岩肌をすっかり露出してしまうというわけだ。 「そうだとも! ある晩、ちょうど今日のような、百年に一度か二度という大津波が起った。海岸は暴風で大荒れに荒れていた。嵐だ、雷だ、颱風だ! 朝になって、僕は恋人の住んでいる別荘に行ってみた。そして、狂おしい絶望のどん底に突き落とされた。僕の水彩画が氾濫していたんだ。若い娘はベッドのなかで溺れ死んでいた」 これが我が恋を永遠の悲恋に仕立てたい、青年画家の無意識の発現だとしたら?
Aug 18, 2005
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知らない人から手紙や電話を頂戴するのはしょっちゅうだが、今日とどけられた葉書には首をかしげてしまった。差出人の名前が書いてあるだけで、それ以外はなんにも書いてないのだ。ただ真っ白。しかもまったく記憶にない、知らない人からである。 文面を書く前に何か用事にかまけていて、何も書いてないことを忘れてそのまま投函してしまったのだろうか。それにしても、最後の自分の名前をまず書いておくというのも珍しい。名前は達筆なのだ。 こんな葉書はさすがに初めてだが、長い画業の営みのあいだにはいろいろな方々に出合って来た。そのなかから、私が怒られてしまった話をふたつお聞かせしよう。ふたつとも私の展覧会でのことだ。 賑わっていたお客さんが、まるで申し合わせたようにサーっと引いてゆくときがある。そのときもそうだった。画廊の事務室に所在無くすわっていたが、なんとなく人の気配がするので、ちょっと会場を覗いてみた。誰もいないと思っていたのに、ひとり学生風の男性がじっとある絵を見つめていた。あっ、まだお客さんがいたのかと、私は首をひっこめた。しばらくしても帰った様子がないので再び覗くと、その人はまだ同じ絵の前に立っていた。 私は会場に出て行き、背後から声をかけて挨拶した。その人は驚いたように振り返った。そして私をつくづくと見つめた。その目は何か怒っているようだった。 この目は何を表わしているのだろう、と私は思った。何か私に危害を加えようというのだろうか? いや、そうではあるまい。この目は怒りをふくんでいるが、知性のある目だ。 「学生さんですか」 「T工大です」 彼はある有名な工業大学の名前を言った。 「この絵を長い間ご覧になっていましたね----」 すると彼は堰を切ったように話しはじめたのだ。なぜ、あなたは私が忘れていた光景を思い出させるのですか? 何処であなたはこの花園を見たのですか? どうしてあなたは私の子供時代の記憶を知っているのですか? 私はただ茫然とするばかりだったが、よくよく尋ねてみると彼の記憶というのは、こうだった。 まだ小学校入学以前のことで、野原のようなところでボール遊びかなにかをしていたらしい。たぶんボールが近くの邸宅に入ってしまったのだろう。彼は木戸を開けて入りこんだ。随分おおきな家だったが、人が住んでいないようにも思えた。庭が一面に草に埋もれていた。いや、そうではない。さまざまな花に埋もれていたのだ。それは見たこともない光景だった。 「美しいと言うより、恐かったんです」 「そのときの光景が、この絵に似てるのですか?」 「そうです。ぼくは、いままですっかり忘れていたんです。それが、突然記憶がよみがえって----」 「これはあなたの見た光景ではありませんよ。私の幻想なんです。私があなたの記憶を覗けるわけないでしょう? 怖がらないでください」 「すみませんでした。----分かっています。----失礼しました」 帰り際に、彼は自分の名前を名のった。 その姓を、いまでも私は憶えている。私が青春時代をすごしたある地方都市を興した戦国武将の名前と同じだった。 次のできごとも展覧会場でのこと。 ちょうど昼食時で、画廊の事務員が「ここは周囲がオフィス街ですから、お昼休みを利用してたくさんお客さんがいらしゃるんですよ」と言ったとおり、同僚とつれだったり、ワイシャツにネクタイ姿だったりのお客さんがつぎつぎとドアを開けて入ってきた。 その人もワイシャツ姿だった。当時の私より年輩で、40過ぎに見えた。きっと、私がお客と話しているのを見ていたのだろう。私が通りかかると、「あなたが作者ですか?」と声をかけてきた。そうだと応えると、くるりと絵に向き直り、「これは、何で描いているのですか? これ、絵ですか、写真ですか?」と聞いてきた。 「絵です」 「でも表面が印画紙のようにつるつるしてますね」 「そうですね。墨を使っているのですが、特殊な技法なんです」 「秘密ですか」 「まあ、そういうことにさせてください」 「俺達の仕事でも、秘密はあるからなあ。----ところでさ、あなたはどうして、俺の見ている夢がわかるの?」 と、急に怒りをふくんだ声で言った。 「は?」 「このところ同じ夢ばかり見るんだ。あなたが描いている、この絵のような夢なんだよ。不思議だよ、夢のことなんか誰にも話していないんだ。それなのに、あなたは俺の毎晩見る夢をこうして描いている。どういうこと?」 その人は絵を見つめたまま、声だけはまるで詰問するかのようだ。 「おっしゃることが、よく分らないのですが----」 「それも秘密?」 私は黙っていた。 「いいよ、いいよ。あなたは人の夢を写真のように写し取る能力があるんだよ。俺は、今日、そういうひとに出会ったんだな」 彼は私に握手をもとめた。そして、「じゃあ」と片手をあげると、画廊を出て行った。 この人達がどこでどのような生活をしているか私はしらない。 私はこの二人を思い出すたびに、作品というものは無責任に成立しているのだと思う。私が直接的に誰かを攻撃したというのならともかく、そうでない限り、彼らの心をたとえどんなに傷付けることが起ろうとも、私が責任を感じる必要はないのだ。作品とはそういうものだ。 それにしても、今日の真っ白な葉書も、作品の無責任性に対する無言の抗議なのだろうか。それとも何か〈夢〉を送りとどけてくれたのだろうか。
Aug 17, 2005
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現在、ミステリー作家の折原一氏が原画を所蔵する東京創元社版ディクスン・カー『皇帝のかぎ煙草入れ』のカバーには、ナポレオンのデスマスク(死面)が描かれている。〈写実的〉な静物画である。しかしこれは、一つのトリックであって、こんな空間が私の周辺にあったわけでもないし、まして描かれた物達も私が作り出した、現実には存在しないものなのである。したがって写実という意味の〈実〉を〈写した〉絵ではまったくない。幻影をこれでもかというように執拗に描いて、ついに、ありきたりのどこにでもあるような静物画に仕立ててしまったのである。それは私だけの秘密の遊びであり、また、倒錯シリーズの作家折原さんが所蔵してくださってナポレオンの死面も安息の場所を得たのかもしれない。 前置きが長くなった。 この絵に描いたナポレオンの死面は、私が実際にそれを見た思い出に照らして、古い写真資料から再現した。私は意外に多くの死面を見ているのだ。 川端康成に『死面』という掌篇がある。死んだ女のデスマスクの前で、恋敵同士が握手する。死面というものは、男女を性別しにくいというのが話の骨子。しかしそれは、川端流のレトリックであろう。私が実見し、また一般に比較的なじみのデスマスクといえば夏目漱石のもの。あるいは北原白秋。乃木希典のものを見たことがある人もいるかもしれない。ベートーベンやトルストイのデスマスクもよく知られている。こうした偉人ばかりでなく、ロンドン警視庁付属の犯罪博物館には、稀代の殺人鬼のデスマスクも保存されている。それらはいずれも、私には、女性的とも中性的とも思えない。 上記のように日本の偉人のデスマスクもあるにはあるが、しかしどちらかというと亡骸に石膏を塗りつけて死面を取ることを日本人はあまりやらない。それは本質的に、精神の物質化という方向から永遠性にアプローチするヨーロッパ文化圏の発想なのだ。日本人は、死者の栄光も悲惨も思い出はすべて〈気〉に還してやろうとする。〈気〉に還すことで永遠性を獲得する。 ----デスマスクを取る時、先生の動かなくなった顔に、油を塗りたくり、石膏を圧しつけたそうである。私は知らないのだけれど、見てゐた人の話に、引つ剥がす時に髭が釣れて、痛痛しかったと云った。その一事でも、私は一生涯忘れられない事を聞いたと思った。----と、内田百ケン(門ガマエに月)は『漱石先生臨終記』に書いた。西洋の本質に触れた数少ない我が近代知識人の亡骸に施された一事であった。 ところで私が実際に見たデスマスクは前記のほかに、もう一つ---- もう34,5年の昔の話だが、パリに遊学していた友人の画家が、7年振りに帰国し、新しくアトリエを構えた。一夕招かれ、一本ぶらさげて出掛けた。四壁といわず天井も床も白く塗った、なんだか病室のようなアトリエで、のっぺらぽうの壁面に若い女の石膏面が掛けてあった。装飾品にしてはいやになまなましい。聞けば、デスマスクだと言う。セーヌに身を投げて死んだ娘のものだが、パリでは土産物として売られているのだそうだ。悲恋の果てというところだろうか。娘にまつわる話は彼の地ではかなり有名らしい。美しい女性であったことは、死後のおもざしからも窺うことができた。しかしやはり、デスマスクには、彫刻作品にそなわる〈美〉がない。美しい娘のそれにも、ある無惨さがつきまとっていた。 それにしても、自殺した若い女のデスマスクを土産物として売るというのも奇妙な話ではないか。 そんなことを思って盃を傾けていたが、同時に、いまは目の前にいる友人のあまり芳しからぬパリでの風評をも思い出していた。 今どきパリでもないがと笑いつつも、永住さえ決意しての絵画修行は、なぜか早々に頓挫し、その後は荒んだ恋愛三昧。双子の姉妹をどうのこうのして、綱渡りのような生活をしているという噂もあった。 夏目漱石の死から現在では100年、昔、フランス病といえば性病のことを言った。いまではフランスに憧れて渡ったものの、フランスにとけこめず鬱病になることを差すらしい。15時間ほどで行けるパリだが、彼にもやはり遠い都であったのか。----壁にもたれた友人の頭上で、フランス娘の死面が眼をふせている。 急に酔いがまわってきて、はっとして見やった友人の眼が、へんな具合に歪んでいた。
Aug 16, 2005
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1550年に初版が刊行されたジョルジオ・バッサリのかの有名な『美術家列伝』のなかに、フランドルの樹脂状の油で描く絵(Oleo Resinous Painting)をいかにして思い付いたかが語られている。フランドルの多くの画家たちがこの研究にいそしんだ。そしてフーベルト(1370年頃―1426年)とヤン(1390年頃―1441年)のファン・アイク兄弟によって、ついに油絵という偉大な到達点をむかえたのだった。 先日、私はファン・アイクのパレットはわずか9色だったと述べた。それでは、すばらしい管理のもと、560年の時を超えていまなお審美性を失わず輝きつづける、この兄弟の技法とはどんなものだったのだろう?。 私が実際に作品を見たことと幾つかの研究書をたよりに、簡単に説明してみよう。 ベルギーのアントワープ美術館に未完成の作品があり、それによって絵画組成の最初の状態がわかる。 支持体は堅い槲(カシワ)をもちい、ゲッソ(Gesso;石膏)で下地を塗る。乾燥後、水研ぎして表面をなめらかにする。 次に、羽根ペンのようなもので硬質な線描でモデルを精密に素描する。暗いところは、線を密に重ねてゆく。 これにテンペラの単色、もしくはピーチ・ブラックとシルバー・ホワイトによるグレーの諧調を重ね塗りする。グリザイユという技法である。 ピーチ・ブラックは桃の木を焼いてつくった炭で、透明性の黒である。葡萄の木の炭であるヴァン・ブラックも同じ性質をもつ。この黒とシルバー・ホワイト(塩基性炭酸鉛)との混色によってできるグレーはすばらしく美しい。ちなみに私もこのグレーの愛用者である。グリザイユのグレーは、粘稠度を高くしておくことが望ましい(現在のチューブ入りの絵の具なら、絞り出したままが良い)。 このグレーによるモデリング(モデルを描くこと)は、ときに筆勢(ブラッシュ・ストローク)を活かし、また暗部は豊かで滑らかな(リッス;lisse)複雑な諧調をつくって、画肌をソリッド(堅牢)に仕上げていかなければならない。それは次の段階に重要な作用をするからである。そして、ここでいったん完全乾燥をまつのである。 さて、ここからファン・アイク兄弟は作品によってふた通りの技法を使っている。 その一つは、あの『ゲントの祭壇画』のように色彩豊かな作品の場合である。乾燥したグレーの諧調で描きあげたところに、彩料を樹脂油に溶き(当時、絵の具は画家自身が原料からつくっていた)、その絵の具で明るい部分から薄塗りで彩色しはじめる。乾かしては塗り、塗っては乾かしながら、順次暗い部分を塗り重ねてゆく。ファン・アイクの作品を顔を近付けて仔細に観察する機会は我々にはなかなかないけれども、もしその機会があったとしたら、暗い部分は彩色層が厚くなっているのが見てとれるのである。 二つ目の技法は、グラッシーという。透明色を1色ないし2色もちいて、グレーの諧調の上におつゆ描きする方法である。これも塗っては乾かし、気長に仕上げていかなければならない。もし乾かないうちに次の塗りをすると、後に塗った層が乾くときに下の層を引き摺るように収縮させ、いわゆる縮緬皺をつくってしまい、修復が不可能な状態になってしまう。 グラッシーによるヤン・ファン・アイクの作品は、私はティッセン=ボルミッサ・コレクションの小さな『受胎告知』を見ている。一種のだまし絵で、右にマリア、左に大天使ガブリエルがともに大理石の彫刻のように描かれている。精緻なグレーの諧調でモデリングして、オーカー(Ocher;黄土色)でグラッシーしている。とても1色とは思えないような深さをたたえ、それぞれがわずか39cm×24cmにもかかわらず、溜め息がでるぐらい美しい。 最後にファン・アイクのパレットの9色をあげておこう。 1,ブラウン・ヴェルダッシオ(Brown Verdaccio) 2,マダー(Madder) 3,ラピス・ラズリ(Lapis Lazuli) 4,オーカー(Ocher) 5,テル・ヴェルト(Terre Vert) 6,オルピメント(Orpiment) 7,シノピス(Sinopis) 8,ピーチ・ブラック(Peach Black) 9,シルバーホ・ワイト(Lead)
Aug 14, 2005
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昭和33年に雑誌『宝石』に発表された楠田匡介のミステリー『朱色(バーミリオン)』は、その道具立てのおもしろさで私の記憶に残っている。のちに角川文庫の「ミステリー選集8」に収録された。いまこれを書くにあたって、正確を期すために文庫の書棚をあちらこちら探して、ようやく見つけだした。概略を引用のかたちで次に述べておこう。 〈21日の夜10時半、やくざで宝石や時計などの密輸のピンはねしている石井が、これもやくざの一方の旗頭である熊谷組の会長の事務所で射殺された。〉〈大粒ダイヤにからんでの殺人事件だと、警察は睨んでいた。〉 さて、殺害現場は、事務所と称しているが熊谷の邸宅で、暖炉の上の壁に7,80号もある、今描きあげたように輝く絵がかけてある。〈里見勝蔵の絵で野獣派的な、まるで皮を剥いだ獣肉のような、赤色の多いけばけばしい裸婦であった。例の野性的な赤いタッチで、まるで描くというより、チューブから絵具をしぼり出して、そのままなすりつけたという感じである。所々パレット・ナイフを使っているが、指ででもこねくったものだろう----。〉 ストーリーを紹介するのが目的でないので、一気に結末にもって行こう。忽然と消えたダイヤモンドが発見されるくだりである。殺人事件から3日目の24日、スピード解決だった。 〈机の上からペーパーナイフを取り、(裸婦像の)乳首のバーミリオンの盛り上がりの所を、ほじくり出した。絵の具はパックリとはがれて、中から真っ赤な親指くらいの塊が顔を出した。所々絵の具がはげて、それが電灯の光に、キラキラ光っている。〉 里見勝蔵の裸婦像の、バーミリオンを使って描かれた真っ赤な乳首の下に、ダイヤモンドを埋め込んでおくなんザァ、ちっと心憎いじゃァござんせんか。 でもね、作者の楠田さん、バーミリオンという絵の具は特に乾燥が遅いのを御存知なかったかしら? 表面を指でさわってくっつかなくなるまで、10日以上もかかるのですよ。乳首のように厚く盛り上げたら、中はまだドロドロ状態まちがいなし。21日に事件が起って、24日に解決でしょう? その何日前とは書いてないが、まだ表面に塗った油が濡れているようなのだから、10日も経っていないでしょう。----絵描きの読者は、ここで、感心しながら苦笑してしまうのです。どうして小説家は「物性」に弱いのだろう、と。 昨日もお話ししたように、画家の精神はそんなに夢見がちではないのだ。たとえばゴッホ。彼は社会人としては、どうやら精神分裂病に罹患したことはまちがいないようだ(説は9通りぐらいあるが)。そして1日に10点も描きあげるほど速筆、まさに嵐のごとく筆を走らせたようだ。しかし、それでもなお、画家の技術はきわめて正確に維持されていて、やっていけないようなことは、まったくやっていない。並べると化学変化を起してしまう色と色との間には、ちゃんとそれに適した油や樹脂でコーティングしているのである。画家としては全然クルッテいなかったのだ。 画家の精神は、「精神が物質を統御」し、また「物質が精神を統御」するめまぐるしい素早さのなかで、自己実現を図っているのである。絵画の成立には、そういう一面があるのだ。ほとんどの画家は、そんなことは黙して語らないけれども。----
Aug 13, 2005
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現在、堀辰雄の小説を読むひとはどのぐらいいるのだろう。『窓』という小説を御存知だろうか。私は名作といわれる『風たちぬ』や『美しい村』や『菜穂子』などより、この400字詰め原稿用紙にしてわずか10枚程度の『窓』をひそかに愛しているのである。 ----Aという画家晩年の難解な「窓」という小品が、O夫人の所蔵するところとなって以後、夫人はその絵を秘蔵してしまい、世間の目にふれることがなくなってしまった。A氏の弟子である「私」は、師の遺作展を開く機会にその「窓」をO夫人から借りられないかを打診するため、夫人の別荘を訪れる。しかし、夫人はその絵はもう世間に出せないのだと言う。「あなたは、あの作品をよく憶えているか」と尋ねられて、「憶えている」と応えると、夫人は私をともない薄暗い廊下から廊下をあるき、と、私はA氏の絵の前に立っていたのだ。そこにはぽっかり「窓」があき、そればかりか絵から発する超自然な光線のなかにA氏の青白い顔がくっきりと浮かび上がっていた。---- ところで、このストーリーもさることながら、私がとても気になる一節があり、それをめぐって今日は書こうとおもう。その一節とは次のようだ。そのまま引用しよう。〈私はA氏とともに、第何回かのフランス美術展覧会にセザンヌの絵を見に行ったことがあった。私達はしばらくその絵の前から離れられずにいたが、その時あたりに人気のないのを見すますと、いきなり氏はその絵に近づいて行って、自分の小指を唇で濡らしながら、それでもってその絵の一部をしきりに擦っていた。私が思わずそれから不吉な予感を感じて、そっと近づいて行くと、氏はその緑色になった小指を私に見せながら、「こうでもしなければ、この色はとても盗めないよ。」と低い声でささやいたのであった。---〉 芸術に身を捧げつくすA画伯の鬼気迫るような行動、かどうかは別として、ロマンチックな一節である。しかし、小説家って、あんまり画家のことを知らないのだなア~、と私は思ってしまった一節でもあるのだ。 セザンヌの緑色はどういう色なのか? これは、指で擦ってわかるようなものではないし、またそんなことをしなくとも分ることでもあるのだ。 「パレット」という言葉を御存知であろう。が、あるいはそれを絵の具を置いたり、混ぜ合わせたりする板のことだと思ってはいないだろうか。まあ、まちがいでもないのだが、実はその画家独自の使用色をさしているのだ。セザンヌは18色の絵の具で、あの美術史上の傑作をものした。全部で18色だ。 たとえばファン・アイクは9色。エル・グレコも9色。マチスは16色。ユトリロは13色を基本に、必要に応じて3色ほど加えている。 もちろん何色使ったかが問題でなく、どんな色の絵の具を使ったかが重要で、同じ9色でもファン・アイクとエル・グレコではパレットがちがうのである。 さて、セザンヌのパレットの緑色はどんな絵の具だったのだろう。それは3色あった。ヴェール・ヴェロネーズ(エメラルドグリーン)、ヴェール・テムロード(ヴィリジアン)、テル・ヴェール(テルベルト)。 A画伯が「こうでもしなければ、盗めない」と言った緑の色調は、小説の言葉からは判然としないが、セザンヌがそれら3色の緑系の絵の具をもっとも効果あるように使っていたその画家の「知性」は知ることができるのである。 たとえばエメラルドグリーンはじつに美しい色であるが、他の色との混色をきらう変化しやすい絵の具なのである。したがって最上層に塗らねばならず、しかも黒ずんでゆく変化を避けるために、絵の具の仕組みをつくる必要がある。たとえば、最下層にジョンブリアンないし同性質のネープルス・イエローを置き、乾燥後に鉛白(シルバー・ホワイト)を少量まぜたヴィリジアンを塗り、さらに乾燥をまってエメラルドグリーンを塗るのである。エメラルドグリーンの下に仕組まれた絵の具の層が化学変化による色調の鈍化を救うのみならず、もっとも輝かしいプロヴァンスの草原のような緑が表現されるのである。こういう真に「知性」的な操作は、唇で濡らした指で擦って盗めるようなものではないのである。小説家諸氏よ、画家を「舐め」てはいけない。 それにエメラルドグリーンは毒性顔料ですぞ! 醋酸銅と亜砒酸銅の複塩。致死量は体重1kgに対して10gという研究があるが、中毒の危険性は常にあるのだ。 小説のなかのできごとをしかつめらしく言ってもつまらない。私は『窓』という短編が好きなのだから。
Aug 12, 2005
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この講座も大詰めです。本体はできあがりましたので、今日はカバーのお話をいたします。 「カバー」と言っておりますが、この英語表現、海外で使うと場合によっては通じません。英語圏ではカバーとは本体にくっついている表紙を差します。では私たちがカバーと言っているものは、何と言うかともうしますと、「ブック・ジャケット」あるいは単に「ジャケット」と言います。本を保護しているというより、むしろ本に着せかけている感覚でしょうね。 ついでに、小さな装絵を「カット」と言っておりますが、これは「スポット」。白黒印刷のモノクロ(モノクローム)という表現はしないでもないが、本来的には赤一色でもモノクロームですから、印刷関係にたずさわっている人は誤解をふせぐために、白黒印刷は「ブラック・アンド・ホワイト」ときちんと表現しています。ですから、‘a spot in black and white for magazine’などと、グラフィック関係の書籍に書かれているのを目にすることがありますが、これは「雑誌用に白黒印刷されたカット」ということです。 海外とやりとりをしていますと、専門分野の用語に面喰らうことがたまにあります。たとえば、‘separations’というのがあった。これはオフセット印刷用の4色分解フィルムを差しています。現在ではコンピューター用のページ・メーカー・ソフトにはこの4色分解機能が付属しているものが多いですから、同一ソフトを使っているかぎり、海外であろうと何処であろうと、データーを送信すれば事はすんでしまいます。しかし少し以前までは、製版所に分解フィルムをつくってもらって郵送したこともあったのです。そうしたやりとりのなかに‘separations’という言葉がありました。 さて、ブック・ジャケット、「カバー」ですが、もしかしたら日本の出版界ほどこれに力をそそいでいるところはないかもしれない。とにかく華やかです。書店の棚で存在をアピールするために、何千、何万という本の「カバー」が妍(けん)を競っています。 その制作現場はイラストレーターとグラフィック・デザイナーが分業で行う場合が多かったのですが、制作現場に全面的にコンピューターの導入が完了したいまでは、かつての分業体制はほとんどなくなってしまいました。私自身、絵から版下制作まで一貫しておこなっています。昔は製図机に向って、カバー用の図面を引き、写植文字を貼付けていましたが、いまでは写植屋さんをさがすのも難しくなりました。 ページ・メーカーで制作するにしろ、注意しなければならないことは昔も今も変りなく、それは各寸法を本体より幾分大きく作図しなければならないことです。背巾は1.5ミリぐらい、平(ひら)から袖の折返し部分でも1.5ミリから2ミリぐらい。そうしないと、実際に着せてみると、おもわぬツンツルテンとなりかねないのです。この寸法計測は装画の場合にも言えて、天地に3ミリずつ断裁分の余裕をもたせ、また万が一着せかけがずれてもよいように、袖への折返し分として6ミリぐらい大きく描いておいたほうがいいでしょう。 そうそう大事なことを忘れていました。カバーの裏には販売コードがはいります。そのためできるだけ色紙の使用は避けたほうが無難です。白地に印刷で色をのせる。コードの部分は窓をくりぬいておく。紙の見本帳には、そのまま使用したくなる素敵な色紙、模様紙がたくさんあるのですが、あとで取り次ぎ店や書店とのトラブルのもとになるばかりか、機械に反応しない商品は相手にされず、せっかく作った本が墓場行きとなってしまいます。 さあ、あとは日本独特の習慣----デザイナー泣かせ、絵描き泣かせの帯(腰巻)をつければ、できあがりです。 最後に書籍の価格はどのように決定するかをおおしえしましょう。【直接生産費】 [本文等]1,用紙 2,製版 3,印刷 4,装幀・装画 [挿入物]1,用紙 2,製版 3,印刷 [印税] 1,印税 2,原稿料3,翻訳料【間接生産費】 [間接費]1,企画費・編集費(資料・会議・交際費) 2,人件費・売れ残り品・交際費・会議費・ 販売促進費・管理費 [宣伝費]1,広告宣伝費【販売手数料】1,販売手数料(取次ぎ約7パーセント・小 売店約20パーセント)【利益】 1,利益 いかがでしたでしょう。 これで夏休み製本講座をおわります。お退屈さまでした。
Aug 11, 2005
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さていよいよ表紙を取り付けるところまで来ました。その前に、化粧裁ち以前に大事なものを糊付けしておく説明を忘れていました。扉や見返しをつけなければなりません。ここでついでですから、書籍がどんなふうに構成されているか確認しておきましょう。そして書籍の正式な名称もおぼえてください。【書籍の構成】〈前付〉―扉、口絵、献辞、序文、凡例(はんれい)、目 次。〈本文〉―ノンブル(頁数)、かくしノンブル、見出し、 柱、引用文、註(頭註、割註、脚註、傍註)、 図表、図版、写真、イラストレーション。〈後付〉―索引、後書き、奥付、奥付広告。〈付属物〉―間紙(あいし)、正誤表、カバー、帯、しお り。[前付、本文、後付、付属物]----これが書籍構成の基本です。 それでは話を本筋に返します。 「扉」はたいてい本文紙とは別な種類の紙を使います。ここから読者の期待感を高めなければなりませんので、制作コストにもよりますが、デザイナーは意外と力を注ぐものです。紙の風合いや、色彩、あるいは絵を入れることもあります。 扉の上にはもう一枚「見返し」という紙が付きます。ここには普通なにも印刷されていないのですが、デザイナーは色彩の流れを考えているものです。つまり、「表紙」「見返し」「扉」と、読者がつぎつぎと本を開いてゆくときの、さきほども言いましたが期待感や、本の内容を感覚的に伝える努力をしているのです。「見返し」は「遊び紙」とも言いますが、これは同じ紙が一方で表紙に貼付けてあり、そちらを「利き紙」と言うからです。 さて、いま私は早々と「利き紙」を表紙に貼付けてしまいました。これで本が出来上ったわけですが、もうすこし細部を見てみましょう。 書店で手にする書籍の多くは、近頃では背に丸みがあります。これを丸背といいます。表紙の厚板ボール紙が背にはいれず、本体に接着せず、いわばフレキシブルになっています。 これに対して、背が角張っていてぴったり接着されているものを「角背」と言います。背の部分にも厚板ボール紙が入っています。 「丸背」も「角背」も、どちらが良いとか悪いとかは言えないのです。デザイナーはその本の内容によって決めているのでしょう。私が企画して作った湯浅泰雄著・訳『ユング超心理学書簡』という本は「角背」です。書簡という四角いイメージを表現したかったからです。また超心理学というのは、いわゆる怪奇現象とか念力などを心理学的に研究する学問ですが、通俗的イメージが横行していますので、あえて学問「らしさ」を表現したかったのです。それで角張った本となったわけです。 ところで背の上部と下部----表紙と本体のあいだに、小さい布が付いているのにお気づきと思います。端布(はなぎれ;花布)といいます。本の開閉で一番こわれやすい部分に力布として糊付けされています。これは見過ごしがちなのですが、本の格調や、色気がでるなかなか面白い部分です。メーカーがそれぞれ工夫したものを拵えていて、数十点を並べた見本帳を出しています。小さいものだけにデザイナーは一層気をいれて、ああでもない、こうでもないと言う時間を必ずもつのです。プレーンな単色のものもあれば、錦織りのようなもの、縞になっているものなど、出来上りのイメージを頭に描いて、なかなか楽しい悩みの時なのです。どうぞお手許の本で、端布批評をしてみてください。 それでは今日はここまで。明日はカバーについてお話しします。
Aug 10, 2005
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面付けは昨日の復習で、納得していただけたようだ。文字と数字の羅列で3次元的なことを説明しようとすると、受取る方もついつい難しく考えてしまいがちです。でも、自分でモデルを作ってみると、ナルホドと納得できると思います。 さて、いよいよ表紙をつける段階にきました。いやその前に、ブック・デザイナーが実際に行うことをお話しましょう。 昨日までの段階で643ページの本が印刷されたのですが、じつはそれ以前にデザイナーは、なんにも印刷されていない、ただ真っ白な紙だけの643ページの本を一冊作るように製本所に発注しているのです。ここで使用される紙も製本方法も、実際の本とまったく同じものです。刷紙と同じ紙を「本紙」といいます。画集などをつくるときは、校正刷りの段階から本紙でおこないます。そうでないと色調のチェックができないからです。 紙は無数といってもよいほど種類があります。色味のちがい、厚さのちがい、インクのノリ具合のちがい、吸湿性のちがい。もちろん値段のちがい。たくさんのメーカーがたくさんのブランドをだしています。デザイナーは、それらの特徴をよく知ったうえで、その本に一番適切と考える紙を選択するのです。 話しをもどしますと、つまり「本紙」を使って一度見本を作ってみないと、その本がどのぐらいの厚さになるか分らない。わずか4,5枚の紙の厚さが有に1mmぐらいになる。こうして出来た見本を「束(つか)見本」といいます。束(つか)と言うぐらいですから、本の厚さを知るために用います。 それではなぜ本の正確な厚さを知る必要があるのでしょう。表紙のデザインの正確を期すためです。つまり、タイトルや著者名や出版社名、あるいは絵や模様の位置がデザイン通りに正確に印刷され、印刷された紙が本体に正しく貼られるために、是非知っておかなければならないことなのです。 表紙というのは、どんな具合になっているでしょう。現在、日本で刊行されているごく普通の書籍の場合、まず表と裏に厚紙の「平(ひら)」があり、背と平のあいだに「溝(みぞ)」があり、溝の端がわずかにもりあがってゆるやかなカーブを描きながら「背」になる。その溝から背になる山の部分を「耳(みみ)」と言います。 ついでに背と反対側の本を開くほうを「小口」といい、上部を「天(あたま)」、下部を「地(けした)」と言います。 さて、表紙ですが、お手許の本を見て容易に気がつくことは、たとえばB5判の本であっても、表裏2倍でB4の紙でくるめばいいというのではない。背の厚さを加えるだけでなく、溝に落ちてゆく分や、厚紙の厚さもあるし、糊代もある。デザイナーはそういう微妙な長さをいちいち計測してデザインの設計図をつくるのです。 実際的なことを少し述べますと、たとえばタイトルを縦組で中央に入れるとします。そのとき平(ひら)の端から耳(みみ)までを計りその真中に文字を入れました。しかし出来上ってみると、どうもずれて見える。あらためて計測してみても、タイトルは本の中央に入っている。でも、ずれて見える。 そうなんです。これは、溝の存在が視覚に影響していて、中央に入っていても、そうは見えないのです。中央に見えるようにするには、平(ひら)の真中においたほうがいいのです。錯覚をあらかじめ作ってしまうのです。 これは上下の関係にもありまして、ちょうど真中に入れたのでは、下に落ちて見えてしまうのです。中央よりやや上に入れると、錯覚で中央に見えるのです。 さてデザインもでき、印刷もすべて完了しました。製本所にこんどこそほんとうに表紙を取り付けてもらいましょう。 しかし今日はここまでにいたします。
Aug 9, 2005
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昨日の面付けが分りにくいと言うメッセージが寄せられました。そうかもしれません。図解すると簡単なのですが。----よし、もういちど説明し直してみましょう。きのうのところも参考にしてください。 ではメッセージを寄せられた悦っちゃんのために復習します。 一枚の紙を8等分に折って、あらかじめ折り線をつけてください。 紙を横長になるようにして、ここに番号をつけてゆきます。 1、16、13、4 8、 9、 12、5 これで表側はおわりましたね。次はこの裏に番号をふりますよ。 1の裏に2、16の裏に15、13の裏に14、4の裏に3 8の裏に7、9の裏に10、12の裏に11、5の裏に6 8等分したところが、表も裏も全部数字がはいりました。 次にこれを折畳んでゆきます。1がいつも自分の側にくるようにしてください。私は折りおわって、いま悦っちゃんが見ている紙の状態を数字であらわします。 一回目の折りが終った。 1、16 8、 9 二回目の折りが終った。 1、16 三回目の折りが終った。 1 どうですか、左側がパフパフ開いて、右側は折りの山がまとまっているでしょう? 番号は1、2、3、4----と正しく順番になっているはずです。 次に裁断です。鋏みでパフパフ側の端を何ミリか、まとめて一気にバサリ。 同様に下端も何ミリか、まとめてバサリ! これで16ページの本ができました。B5の紙を使うと、タテ92mm×ヨコ64mmの冊子ができます。 悦っちゃん、おわかりですか。難しく考えないでね。 それではおさらいが終ったところで、昨日のつづきをお話しします。 16で割り切れない端数がでた場合はどうするか。これはペラと言って、そのぶんを別刷りします。なんだそれでは別にどうということないじゃないか。まあそうなんですが、製本の段階で問題になってくるのです。いや、問題にしたほうがいいのだ、と言っておきましょう。 さて643ページ印刷完了しました。この刷紙は製本所に運ばれ、折り機にかけられ、上で説明したようにパタパタパタと折って行きます。40折りと3ページ分のペラができました。これを順にそろえます。これを「丁合い」といいます。じつは折りの背には印刷所が40折りそれぞれ異なる小さな目印を印刷してあり、順番を正確に丁合いすると、きれいな模様ができるようになっている。順番が違うと、模様に乱れができるわけです。それでもやはり間違うことはあるもので、それを「乱丁」、場合によっては「落丁」と言っています。 こうして丁合いが終ると、その束を締め機にかけて圧縮します。本がガッシリとして紙が浮いていないのは、この作業を経ているからです。 それから背に糊付けします。このときペラは当然最終部になっているわけですが、これだと本になって何度もページを開いているうちに抜け落ちてしまうことがあるのです。 じつは、本造りがよくわかっているデザイナーは、ペラを挟み込む位置を変えるよう指示しているのです。このことは、まず印刷段階から計画していなければなりません。3ページ分のペラを625ページから627ページにわりあてる。そして628ページから643ページで1折りをつくるのです。そうすると糊付け製本の段階で、そのペラは折りと折りの間に挟み込まれるというわけです。これでページが抜け落ちることは、まあないでしょう。 では逆にページ数が637ページあって、あと3ページあればちょうど40折りになって半端が出ないのだが、---と、こういう時はどうするか? 大抵の出版社は自社広告をのせることで、3ページ追加してしまいます。著者には申し訳ないが、ガッチリした本ができたほうがいいですからね。 こうして次第に本らしくなったところで化粧裁ちといって、小口の三方を断裁します。 さあそして、これにいよいよ表紙をつけることにします。 今日はここまで。
Aug 8, 2005
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制作に忙しく、この日記も私の蔵書からピックアップしてご覧に供してきました。しかし、約4000册の中から選ぶのもなかなかしんどい。きょうは目先を変えて、製本の実際について、かいつまんでお話しようと思います。はじめてお知りになることや、お手許の本を見直してみて思わぬ発見があるかもしれません。 現在は、ページの割り付けはコンピューターで行われるので、ページ・メーカー・ソフトは本作りの必須アイテムで、これなしには始まらない。だけども、あるいはそれゆえと言うべきか、ページの割り付けの説明は不要であろう。ただ、腕のいい編集者や割り付けデザイナーは、全ページを16で割り切れるように考えている、ということは覚えておいてください。 さっそく何かお手許の本を見てください。もし割り切れる数字でなかった場合は、何が問題か? そして何故、16なのか? そこから話し始めましょう。 ページメーカーで割り付けられたぺージは、そのまま印刷用の版になるわけではない。まずその版(刷版といいます)を作らなければならない。ページメーカーで割り付けたページは、当然1P、2P、3P、4P----と順序よく並んでいるが、刷版ではこれをとても不思議な順序に変えてしまうのだ。 その前に先ほどの16という数字だが、JIS規格の紙を無駄なく最も経済的に使用すると、じつは一枚の紙の表に16ページ分を組むことができるのである。すなわち表裏32ページが一枚の紙からとれるのだ。 紙を印刷機にかけて印刷する方法には、「本掛け」と「打ち返し」とふたとうりある。現在は「打ち返し」が多く用いられている。これは本掛けの半分の版で作業がすすめられて、刷り上がった紙(刷紙という)を製本工場に早く渡せる利点があるからだ。そこで、ここではその「打ち返し」による方法を説明してゆきます。 さて、それでは16ページ分はどのように刷版として面付けされるのであろう。 左開きの本を例にとろう。説明の都合上、一枚の紙を縦長におき、上半分と下半分に分けてください。これは実際は紙の表と裏にあたります。上が左ページになる分で、下が右ページになる分です。さて、ここから摩訶不思議な順序でページを並べてゆきますよ。みなさんも、何か紙を用意して番号をふってみてください。表と裏を使うと実際的です。番号がページですよ。1というのは、1Pのことです。 では行きます。 1段目:左から右へ: 1、16、13、4 2段目:左から右へ上下逆さまに: 8、 9、 12、5 3段目:左から右へ: 7、10、11、6 4段目:左から右へ上下逆さまに: 2、15、14、3 これで最初の16ページの面付けがすみました。説明の都合でこのように示しましたが、すでにお分かりのように、3段目と4段目は、2段目、1段目の裏側です。 以下、この法則に従って全部のページが割り付けられてゆきます。 さあ、これを折り紙のように四角くたたんで、ページが正しく並ぶようにしてみてください。紙は切らないでください。折畳むだけでやってください。 できあがったら、もう一度ひろげて、いったい何回の動作で正しく折り畳めるか調べてください。その後に、別の折り方がないか考えてみてください。そして最初の折りを、本の背になる一方をホチキスで留めて、本になるよう繋がっている周囲を断裁してみてください。何度の手間でできましたでしょうか。 答えは断裁まで入れて、5回です。 ではやってみます。3,4段目は裏にあるので、1,2段目だけで説明します。 1;16と13(当然9と12も)の間で半分に折る。(常に1を自分の側に見えるように折ってください) 2;1と8(16と9)の間を半分に折る。 3;1と16の間を半分に折る。これで折りは終了。ページが1,2,3,---と順序よく繋がっていましょう? 4;左側を断裁。 5;下端を断裁。これで全部終了。 じつは、このようにページを面付けし、いまみなさんがやった折り畳み方で断裁することがもっとも動作が少ない、と言うことは最も経済効率のいい方法なのです。これは数学的に証明できることなのですが、それはまあここではおいておきましょう。ただ、印刷工程も製本工程も、常に経済効率が計算されていることがおわかりでしょう。この16ページを一つの単位として、これを1折り(あるいは1丁)とかぞえます。640ページある本は40折りを綴じたものです。さて、ここでページ数に端数がでた場合が問題になってきます。どうしても643ページの場合はどうしたらいいのでしょう? しかし、今日はここまでにいたします。
Aug 7, 2005
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ただいま制作中につき身辺波風なし。3度目の蔵書紹介。 私は画家だけれど、古今東西の美術家の画集を持っていない。自分が実見した展覧会の図録はたくさん持っていて、それで充分という感じだ。そんな私がただ一冊所持しているのが、パリで購入した『アルチンボルド』画集である。 ARCIMBOLDO; texte de Rolando Barthes, Franco Maria Ricci editeur. 1978年にフランコ・マリア・リッチが監修して限定3,000部がミラノで刊行された。私が所蔵するのは第209番目の本である。 布貼箱入り、黒絹装金箔押し。本文紙にピエロ・ミリアニ氏による薄いブルーの特別紙を使用し、一点づつ別刷りした作品が46葉、本文紙に貼付けてある。ヨコ238mm×タテ355mm。 私が購入したのは1978年のことで、イタリアから入荷したばかりであったようだ。はじめ私は、そのころ日本ではまとまった資料がなかった「だまし絵」の画集をさがしにその店に入ったのだが、私のフランス語の発音が悪く、trompe-l'oeil(トロンプ・ルイユ)がなかなか通じない。店の奥から年輩の女性支配人が出てきたので、再三「トロンプルイユ」を繰り返すと、親切なのかお節介なのかその場で発音指導がおこなわれ、ようやく「ボ~ン」とお許しがでて、挙句の果てが「その本はない」と言うのだった。 私はちょっとムッとして、いったいこの店は何が置いてあるんだとばかり、あらためて見回した。すると奥まった中央のガラス・ケースのなかに『アルチンボルド』が鎮座ましましているではないか。「あれを見せてください」「あれは、とても高価な本ですよ」「いいから、出して見せてください」「わかりました。あなたはお目が高い方だとわかりました」「ちょっとケースから出しますよ」「どうぞご覧ください」「ふむふむ。特別な紙ですね」「ああ、あなたは何とすばらしいのでしょう。もちろんそうです。ボ~ン・パピエ。ウイ、ウイ、セ、ボ~ン、パピエ!」「これください」「あなたがこの本を? お高いのですよ」「きれいに包装してください」「ああ、わかりました。マダムへのプレゼントなのですね? なんて素敵でしょう」 イイカゲンニセンカイ、アホンダラ! ----かくして限定番号209の“ARCIMBOLDO”は我がものとなった次第です。 この画集に収められている46点の作品は、31点がジュゼッペ・アルチンボルドの作、15点がいわゆるアルチンボルド派の画家たちの作品である。めずらしいのは、アルチンボルド作のステンドグラス2点とタペスリーが1点含まれていることだ。こういう作品は他のアルチンボルド画集には収録されているのを見たことがない。 ついでながら、この本、たしかに高価だったのだが、喉元すぎればなんとやらで、いったいいくらだったのか全然覚えていないのだ。
Aug 6, 2005
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昨日のつづき。 『コルク栓抜き』はドイツの本だが、ドイツは遊びの造本に手間をおしまないのだろうか。次もドイツのもの。 Edi Lanners “ILLUSIONEN”、すなわち『イリュージョン』。 だまし絵や幻像についてのこの本、なんとページの前後がない。74ページまでくると、印刷が逆さまになってしまう。いままで後ろだったページから読みはじめなければならないのだ。しかもその74ページには回文式音楽の楽譜が掲載されているのである。 内容がこうであるから、表紙デザインも凝っていて、表裏がそれぞれに対して逆さまであることはもちろん、タイトルのILLUSIONENという語が本の下に向って繰り返されながら次第に小さくなってゆく。行きつく先に円形のホログラムが埋め込まれていて、そのなかで赤青緑、三つの矢車がクルクル回る仕掛け。見ているとめまいがしてくる。----そうそう、E.LANNERSという著者名がたくさんのタイトルの列にまぎれこんでいる。そして裏表紙はというと、ホログラムのかわりに本物そっくりの1ペニヒ銅貨が埋め込まれているのである。もちろん型押印刷したボール紙か何かだろうが、----いや、本物かしら? 次はフランスの本。日本の新書判とほぼ同じおおきさ。 Bruno Richard“spasmes”、『痙攣』。表紙は、塩化ビニールにタイトルや絵を印刷して厚さ3mmのボール紙をくるでいる。ただしこの製本技術は、使用した糊の研究が充分でなく、購入後25年を経た現在、塩化ビニールを黄変させてしまっている。 表紙をひらくと、ページは厚紙の経本仕立て、つまり蛇腹折りになっている。そしてペン画による100人を越す男女の大乱交パーティが繰りひろげられるのだ。いやはや、銘々が好き勝手にからみあって痙攣している。飼い猫まで女のからだによじ登って、ディープ・キスを覗き込んでいる。この男は冷蔵庫にしがみついて何やってんだ? 女のパンティを脱がせて、どこをドライヤーで乾かしているんだ! 自分で自分のナニを銜えて、おいおい背骨が折れやしないか? テープレコーダーのリールの穴に乳首をいれてどうすんだよ! ----この本、大人の絵本とお思いかもしれませんが、私はポンピドー・センター内の美術書店で購入したのだ。だから、たぶん、美術書ですよ。 この後に紹介するのは畏れ多いが、フランスの経本仕立てに対抗して、やはり日本の経本もお見せしなければという気持で、次はほんもののお経本です。 明治41年9月10日に初版発行、大正5年11月3日再版発行、立太子式記念出版として法藏館より刊行された『浄土三部経』。すなわち「仏説無量壽経」「仏説観無量壽経」「仏説阿弥陀経」を収める。唐草模様を織り込んだ青い絹布で表紙をくるんでいる。それを納める墨染めの畳紙(たとう)は象牙の爪で留めてある。 大学時代に三部経を勉強したくなり、伯父に経本を送るように頼んだらこれをプレゼントしてくれた。伯父はすでに亡くなって久しいが、じつは東本願寺派の権僧都だった。私は無宗教の人間だけれども、ひとりでそんな勉強をしていたのだ。伯父はなんにも聞かず、なんにも言わず、随分立派な経本を贈ってくれたのだった。
Aug 5, 2005
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遊卵画廊のインタヴューVol.4の中で、知り合いの編集者からプレゼントされた昭和8年、第一書房刊、堀口大學訳『ボードレール感想私録』のことをお話しした。小型本ながら皮装小口三方金の美しい本である。かの編集者氏は神田の古書店をひやかしていて見つけたと言うことだが、これぞと思う出物は思いきりよく買ってしまわないと、その後とんとお目にかからぬという事態になりかねないのである。きのうきょうは、例の制作準備に終日仕事場にとじこもっているので、身辺これという話もない。そこで私の蔵書から珍しい、また美しい本を紹介しようと思う。だがその前に、古書店めぐりの失敗談をひとつ。 私も神田古書店街でのこと。たしか岩波ホールで映画を見ての帰りだったと覚えている。次のスケジュールのため足早に歩いていると、とある古書店のウインドーの中央に昭和46年に有隣堂から限定出版された小林剛著『俊乗房重源の研究』が飾られているのが目に入った。横目で見たのではっきりしないが、題字がそのように目に入って来た。当時、私は重源に関心をもって、資料を採集している最中だった。この僧は東大寺を再建した人物であるが、兵庫県にある国宝浄土寺阿弥陀堂を建立したことでも知られる。私の関心はこの人のイマジネーション喚起力についてである。それがどんなものか語る余裕が今はないが、ともかく良質の資料がないのだった。小林氏の研究は古資料を精細に調査して、重源の足跡を追ったすばらしいものであることを私は知っていた。しかしそれまで実物を目にしたことはなかったのだ。 私は急いでいたけれど、引き返してウィンドーを覗いた。まちがいなくその本だった。値段がでていない。私は店内に入り、値段を尋ねた。財布をのぞくと持ち合わせがない。銀行に行くにも時間がない。明日またくることにして、後ろ髪引かれるような気持でその場を去った。 翌日は都合がつかず、三日後に訪ねた。その本はウィンドーから消えていた。店に聞くと三日前に売れたという返事。「三日前?」私がみつけたあの日? それじゃあ、私のあとに現れた人物が買って行ったのか? 東京って、おっそろしいところだな!---私は、しょんぼり店をあとにした。 この日記を読んでくださるお客様にこんな経験はおありだろうか。 しかしこれはとても勉強になりました。またあるとき、澁澤龍彦訳のロベエル・デスノス『エロチシズム』をみつけた。このときも財布に金がはいってなかった(はいっている方が珍しい)。しかし私は息せききって、銀行に駆け込んで金をつくり、ふたたび猛ダッシュ。めでたくGET! 世に「愛書狂」っているでしょう? わたしはそんな「狂」のつくほどじゃないけれど、それでもほしい資料の域をこえていることがある。『俊乗房重源の研究』は昭和55年に改訂版が出ている。私の書棚にあるのはこの改訂版である。資料としてはそれで充分なのだ。でも、限定版の初版を見たいし、所蔵したいのだ。あるいは『エロチシズム』だって、澁澤の全集で読めなくはない。だけど安い紙の表紙の薄っぺらな一冊がどうしてもほしい。やっぱり少しは「狂」のケがあるのかもしれない。 さて多かれ尠かれそんな風にして集めたなかの珍しい本を2,3御紹介しよう。 昭和22年2月に鳳書房から刊行された今東光『稚兒』。原稿用紙に墨で手書きした谷崎潤一郎の序文がそのまま翻刻されている。装幀は日本画壇の重鎮鳥海青兒。表・裏表紙ともに金泥を塗り、表は中央に大きく蓮華座を墨で線描し、地を白く抜き、花弁の先だけに紅を差す。蓮華座の上には如意輪種子を表わす梵字を置く。この梵字は周囲を凸版で押してある。つまり文字の周囲が溝になってへこんでいる。そしてこの梵字にも金泥を施している。左上に赤で「稚兒」。著者名も出版社名もない。著者名は背にだけ黒で印字されている。扉にはグレーで蓮華座に密教具の雙身三鈷杵が描かれ、右上から左下に対角線上に、「今東光」「稚兒」「鳳書房梓」と赤で印字されている。 時代を考えると実に贅沢で華やかな本だ。 この本、じつはもうひとつ時代を思わせるところがある。しかし気がつかない人は気がつかないですむ。重要な一節がまるまる削除されているのである。これも詳しくのべるゆとりはないが、今氏が若い頃、客僧として比叡山戒蔵院で見る機会があった秘本、伝恵心僧都作『弘兒聖教秘傳』の詳細な紹介が削除されているのだ。ごく簡単にのべると、その昔、天台寺院でおこなわれていた男色の、いわば初夜の儀式と閨房心得である。今氏は鳥海青兒の装幀は、よく密教の研究をしていると述べているが、この秘密の儀式は如意輪観音を本尊とするものであり、扉絵の雙身三鈷杵は愛を表わす三昧耶形であるという。 ウ~ン、装幀もここまでくると、深すぎて、いまの私にできるかどうか!!?? 次は、装幀はどうということもない。 明治31年5月、高知市片桐氏刊、東京堂書店発売、高知県士族寺石正路著『食人風俗考 全』。 すなはち人肉食(カニバリズム)の風俗を民俗学の視点から研究したものである。著者の寺石正路は南方熊楠と親交のあった、いわゆる在野の民俗研究家。熊楠の全集でふたりの書翰のやりとりが知られる。 こういう研究は、近年になってたしか中野美代子氏にあったと思うが、それ以前となると少なくとも日本人の手になるものを私は知らない。事件となると、アンデス飛行機遭難事件や佐川某のパリ猟奇殺人事件が思いうかぶけれど。 ちなみに私が所蔵する『食人風俗考』は、日本昆虫学会を創設した矢野宗幹の旧蔵書である。裏表紙の内側に名前が朱で書かれている。 さて心胆寒くなったお客様もいるかもしれない。いくら連日の猛暑でも、こんな本ばかり並べるのもお気の毒。それに少し長話になってきたので最後に楽しい本を一冊。洋書です。 Manfred Heckmann“KORKENZIEHER”。つまり『コルク栓抜き』という本。ワインのコルク栓抜きがあるでしょう? その歴史と、さまざまな形のコルク栓抜きの図鑑です。そしてこの本が楽しいのは栞の先に丈5cmのほんもののコルク栓抜きがついていること。もちろん本にはさみこんで書店の書棚に並べることはできないので、その栓抜きを表紙の上に置いて簡素なプラスティック・ケースに入っている。それにしてもこういう造本って、容易に想像できることだが、たいへん手間がかかるのだ。まず機械まかせの作業ができない。一冊ずつ手作業で、あらかじめ背に糊付けされた紐に栓抜きを結わえ付けて行かなければならない。でも、もともと趣味の本だから、こういう遊びが嬉しいのですね。
Aug 4, 2005
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私の作品「花と礫のなかのアダム」を収録した『現代の絵画』第11巻が刊行されました。 本書は、明治から昭和世代の「日本を代表する大家から、現在活躍中の新進作家まで、時代を代表する(同書より)」221名の近作を掲載しています。『現代の絵画』Vol.11、定価11,550円(本体11,000) お問い合わせ先:朝日アーティスト出版 電話:03(5280)3078〒101-0047 東京都千代田区内神田1-4-5 大手町ロイヤルプラザ508号
Aug 2, 2005
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お客様へ 長らく御不快をお忍びくださりありがとうございました。皆様にご覧いただいたような状態でしたが、人物も特定し、ストーカー行為の常習者としてなおきびしく監視(この日記をリンクして、私の動静をうかがっていますので)して行きますが、コメント欄の書き込みは証拠としてMOに保存してありますので、とりあえずこれまでの不快な記述を画面から削除いたします。 御迷惑をおわびするとともに、それでもこの遊卵画廊をお訪ねくださったみなさまに、こころから御礼申しあげます。---------------------------------------------- きのう思い付いた新しい執筆方法を実際に試してみることにした。行為の過程がまだシステマライズされていないので、ちょっと従来の方法より手間取る。どこまで習熟でき、どこまで過程を簡略化できるか、だろう。たぶん印刷原稿としては、この方法のほうが、印刷所側の習熟度を問題にせずにすむのではないか。 まずは何点かつくってみることだ。
Aug 1, 2005
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