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7 陽の目を見なかった鉄道 前回までお知らせしたように、福島県でも国鉄、および私鉄でも、多くの路線が建設されました。しかし計画されながらも作られなかったり、また一時期運行されながら廃止されてしまった鉄道もありました。そのような路線のひとつに、大寺専用鉄道がありました。大寺専用鉄道は、いまの会津若松市河東町八田字大林に、猪苗代第二発電所建設のための資材輸送用の専用軌道として、磐越西線磐梯町駅と猪苗代第二発電所の間に敷設されたものです。しかし大正7年、猪苗代第二発電所の完成とともに一旦撤去されたのですが、その後、会津若松市河東町八田高塚乙の猪苗代第三発電所の建設に伴い、大寺駅と猪苗代第三発電所間に再び敷設されました。この専用軌道の途中、猪苗代第二発電所付近で軌道がスイッチバック方式となっていました。しかし大正十五年の猪苗代第三発電所完成後には撤去されています。 もうひとつは、広田専用軌道でした。広田専用軌道は、喜多方市塩川町金橋に、猪苗代第四発電所建設のための専用軌道でした。資材輸送用のもので、磐越西線広田駅より猪苗代第四発電所の間に敷設されました。大正15年の猪苗代第四発電所完成後にこの専用軌道は撤去されましたが、日橋川橋梁は道路橋に転用されて、『切立橋』として現存しています。 乗用の軌道としては、常葉軌道株式会社がありました。これは平郡西線新設の計画では、常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったのですが、鉄道敷設に反対の声が上がったのです。それは常葉町から物資の輸送をしていた馬車組合と農地の解放を渋る農民たちによるものでした。また、政治的な感情も鉄道敷設問題に影響を与えました。当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあったのですが、常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対的に支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であったのです。そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設されたのです。 常葉町の町民は、平郡西線の開業後に鉄道の利便性と重要性に気がつき、町から最短距離にある船引町今泉地区に町名を冠した駅の設置を請願したのです。その際に駅敷地を町民の寄付によって提供することを条件とし、大正10年になって開業しました。ところが常葉町の中心から磐城常葉駅までは距離があり、むしろ船引駅へ出るほうが容易であったため、常葉町民はこの駅の設置後も利便性を享受できず、町民有志による常葉軌道株式会社を設立し、磐城常葉駅より常葉町を経由し、常磐線双葉駅への接続を計画したと言われます。ところが常葉軌道は常葉町まで軌道敷が竣工し、列車の試運転を行って開業寸前だった昭和8年に、負債過多から解散してしまったのです。この歴史を語る記念碑が、いまも磐越東線の磐城常葉駅前に建立されています。 大正11年、小出〜柳津〜只見〜古町線が建設されることになりました。しかし大正12年の関東大震災によって全ての鉄道計画が止まり、そのあおりで中止となってしまいました。そのとき計画された路線は、只見駅から古町駅までの13駅で、只見・楢戸・会津福井・会津長浜・会津亀岡・明和・梁取・和泉田・界(さかい)・鴇巣(とうのす)・会津山口・木伏(きぶし)・会津古町でした。会津古町駅は旧伊南村に属していましたが、町村合併により、現在は南会津町古町となります。ここには、古町温泉があったため、ここへの運行が目的とされたものです。 さて、私は知らなかったのですが、郡山に市内電車の計画がありました。2021年12月に発刊された『明治開拓村の歴史〜福島県安積郡桑野村・安積開拓研究会・矢部洋三氏』の著書より借用させて頂きます。 『幻の市街電車 矢部洋三 大正十三年の市制施行に向けた「大郡山構想」の中で、市街電車を敷設する計画があった。市内最大企業である郡山電気(橋本万右衛門社長)が事業主体となって郡山駅を起点にして桑野村開成山を経由して郡山市街を循環して駅に戻る十五・七キロメールの市内電車であった。大正八年から計画され、大正十二年に発起人代表の橋本が郡山町会の承認を受け、福島県を通じて鉄道省・内務省に敷設許可を申請した。そして大正十四年に計画案への許可が、昭和二年には施行許可も下りた。しかし昭和五年敷設許可が失効して幻となってしまった。その理由は、① 敷設時期の昭和初期が金融恐慌、昭和大恐慌という最悪の経済状況であった こと、② 郡山電気が茨城電力との合併によって東部電力となり、本社を東京に移された こと。③ 敷設の中心人物である橋本が安積疎水疑獄事件で失脚してしまったことであっ た。 なお桑野村は、大正14年6月1日に郡山と合併し、郡山は市に昇格しました。大正13年の市街電車の計画案は、これと関係があったのかも知れません。またこの計画が、郡山電気が主体となって進められたのは、自己の発電する電力の、有効利用を考えたとも思われます。 この他にも、県内の鉄道の中には、各地域で多くの支持を得ながらも日の目を見ない鉄道がありました。それは日中線の先の米沢までであり、完成すれば野州・岩代・羽州を結ぶ野岩羽線となるはずでした。もうひとつの路線は、川俣線で、東北本線松川駅より岩代川俣駅まで開通したのですが、常磐線の浪江まで延伸する予定が中座してしまったものです。さらに計画されたものの未成となった線には、福島〜丸森〜相馬間の福相線、須賀川〜長沼の線、平〜小名浜の線、川俣〜津島の線などがありました。しかし、もしこれらの線は出来たとしても、昭和40年の国鉄民営化に伴う赤字線として、廃線となっていたかも知れません。ところが新幹線にも未成線があったのです。それは福島〜山形〜秋田を結ぶはずの奥羽新幹線です。現在ここは、ミニ新幹線として山形までは整備されましたが、未だ秋田までは通じていないのです。
2024.04.20
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明治39年、帝国議会で鉄道国有法及び帝国鉄道会計法が成立し、その年の11月、日本鉄道は青森まで開通していた路線と、岩越鉄道の開通していた部分が国に買収されました。日本鉄道会社が設立されたときの設立特許条約書の、『五十年後には、政府が会社を買収できる』という条件は、半分の25年後のこの年に実施されることになったのです。政府は、奥州線の線路の約1300キロメートル、車両7636両の他、青函連絡船としてイギリスへ注文していた船舶2隻と職員13473人を引き継いでいます。 明治40年4月1日、鉄道の国有化に伴って新たに帝国鉄道庁が設置され、東北に4ヶ所の営業事務所が置かれました。その一つであった福島事務所は、栃木県の宇都宮駅と岡本駅の中間点より、宮城県の槻木駅と岩沼駅の中間点までを担当しています。この年、岩越鉄道は、国有鉄道岩越線と名称が変更されました。一方,岩越鉄道が買収されたため工事が中断していた喜多方以西は、喜多方と新津の双方から工事がはじめられ、大正3年11月1日、野沢~津川間完成によって、郡山と新津の間が全通しました。しかし国鉄が発足したからといって、すべての鉄道が国有化されるわけではありません。国鉄として手の届かない所に敷かれたのがいわゆる私鉄でした。福島県での私鉄の最初は、明治24年に開業した三春馬車鉄道でした。 明治37年、勿来軽便馬車鉄道(勿来〜白米)を皮切りに、赤井軌道(赤井〜平)、小名浜馬車鉄道(小名浜〜泉)が開通しました。 明治41年、私鉄の信達軌道が福島〜長岡〜湯野町間に開設、その後、保原〜梁川、保原〜掛田〜川俣に延長されました。なお、信達軌道の主体となった雨宮敬次郎は、「天下の雨敬」「投機界の魔王」「明治の鉄道王」などの異名をとった人物です。大正6年には、保原〜桑折に延伸し、福島町内を走るチンチン電車として親しまれました。 明治43年4月21日より上野から郡山間に、そして大正6年6月1日より青森までの全区間に急行列車を運行しています。その停車駅は、赤羽・大宮・小山・宇都宮・黒磯・白河・郡山・福島・白石・仙台・小牛田・一ノ関・盛岡・沼宮内・尻内でした。そして大正15年11月、東北本線線の三大操車場の一つとして、郡山操車場が完成しました、ちなみに郡山操車場は、仙台の長町駅操車場、そして青森操車場と並んでの大操車場だったのです。 大正2年、日本硫黄沼尻鉱山の精錬所から『黄色いダイヤ』と呼ばれた硫黄を沼尻まで索道で運び、そこから磐越西線川桁駅まで運ぶ軌道として初めは人が押す人車軌道が、次いで馬が貨車を引いていたのですが。硫黄のほか猪苗代からの生活物資の運搬、沼尻温泉やスキー場への客を運ぶ足としても利用されていました。やがて沼尻軌道はドイツから『コッペル蒸気機関車』を導入し、運搬量もスピードも飛躍的にアップしましたが、その後も時代の変遷とともに蒸気機関車からガソリンカーと運行する車輌も変わっていきました。全長15・8キロメートルの軌道には、5つの駅と6つの停留所がありました。一時は会津樋ノ口駅より分岐し、長瀬川に沿って秋元湖へ至る裏磐梯観光開発に主眼をおいた路線の建設も計画、認可も得たのですがこちらは未完に終わっています。沼尻鉱山閉山後は観光鉄道への脱皮を図り、磐梯急行電鉄株式会社として再発足しました。観光シーズンの夏は旅行者が多く、冬はスキー客で車内は混雑しましたが地元の集客にはならず、昭和43年に倒産してしまいました。急行列車が無いのに磐梯急行、電車が無いのに電鉄、もはや伝説です。小野町出身の丘灯至夫作詞、福島市出身の古関裕而作曲で知られる歌謡曲『高原列車は行く・汽車の窓からハンケチ振れば』は、この軌道がモデルとされています。 大正3年、磐城軌道が湯本〜長橋間に、その年の7月21日には、平郡西線のうち、郡山〜三春間が開通しました。このあおりを食って、三春馬車鉄道が廃業しています。ちなみに今も、磐越東線阿武隈川橋梁の上流約100メートルの所に、三春馬車鉄道が走っていた橋の橋脚が一つ残されています。この三春馬車鉄道があったころ、日本の馬車鉄道会社は、福島・北海道・石川・静岡に各5社、福岡に4社、群馬、埼玉、山梨、佐賀に各3社など、その数は40社にも及んでいました。いま振り返ると、馬車鉄道は、時代遅れにも感じられるかも知れませんが、道路も舗装されてなく、道路事情の悪かったこのころ、揺れや振動が少なく至極快適な乗り物だったようです。しかし馬の餌や糞尿の問題もありました。それに対して、最初の路面電車は、明治28年に開業した京都電気鉄道で、京都南部の伏見から京都市内まで6、6キロメートルの区間を走ったのですが、しかしこの電車、前後についている運転席が外部に露出しており、馬車鉄道の客車の形式をそのままに残していたのです。 そしてこの年、現在の秋田市金足黒川にあった黒川油田が噴出し、年産15万キロリットルを超える大油田となり、日本有数の油田として注目を浴びました。ところが、地元の土崎製油所だけでは処理し切れず、原油のまま新潟県の沼垂、柏崎、黒井の製油所に輸送していました。しかしここで出来た石油製品は、すでに明治39年の5月より、『軽井沢ト横川間ニ、流油鉄管ニ依ル石油輸送ヲ開始ノウエ、北越鉄道線ヨリ発送シタル油槽貨車ハ、軽井沢ニ於テ流油鉄管ニ放流シ、鉄管ヲ通ジテ横川ニ於イテ流ケル油ヲ油槽貨車ニ放流セシメ、更ニ之ヲ輸送スル』という苦肉の策を講じていたのです。それでも、急勾配が続くため、アプト式鉄道での碓氷峠越えの旧信越線経由では、思うように運べなかった油なのですが、岩越線の全通によってそれが解決されたのです。岩越線は、石油輸送の隘路となっていた信越本線の補助線として距離も時間も短縮され、新潟と東京の間を結んだのです。岩越線のこうした役割が消えたのは、群馬県と新潟県の間にある清水トンネルの完成に伴うもので、上越線の宮内と高崎間が開通する昭和6年まで続いたのです。 大正4年、三春から小野新町まで平郡西線、および平郡東線の平〜小川郷間が開通し、平郡東西線の全てが開通しました。そしてこの同じ年、岩越線の『堀ノ内』駅が今の喜久田駅に改称されています。 大正5年、白河〜棚倉間に白棚軽便軌道が開通しました。そしてこの年、磐城海岸軌道は廃線になった三春馬車鉄道より不要になった車両および資材を購入し、小名浜と江名の間で開業しました。磐城海岸軌道は昭和14年に小名浜臨港鉄道と社名を変更して内燃化し、昭和42年、小名浜臨港鉄道に福島県と国鉄が出資して、第三セクターの福島臨海鉄道となりました。このような経緯をたどった磐城海岸軌道は、現在も貨物専用線となって運行されています。 大正6年、岩越線は、国鉄の磐越西線となりました。 大正8年、全列車に連結していた一等車に大整理が行われ、東北では東北本線と常磐線経由の青森行き急行の一往復のみとなりました。この一等車の整理について、東北では大きな反対論はなかったといわれますが、東海道方面では横浜や神戸あたりに住んでいた外国人から文句が出たそうです。その理由が「日本人は無作法、不規律のため、同席に耐えず」というものであったというのです。もっともこのころの日本人は汽車に乗ると旅館に着いたような気持ちになり、ステテコ一枚になったというのですから、やむを得ない抗議であったのかも知れません。ところが三等車ともなればかなりお粗末で、シートひとつとっても、一・二等車の椅子はバネ入りのクッションでしたが、三等車の椅子は茣蓙敷きだったのです。 大正10年、好間軌道(北好間〜平)が馬車鉄道で開業しています。ちなみにこの馬車鉄道、今の宮崎県西都市八重から銀鏡(しろみ)の間を運行していた銀鏡軌道が、昭和24年に解散していますから、実に67年もの間、わが国には馬車鉄道が存在していたことになります。 大正13年、福島飯坂電気軌道が、森合と花水坂の間で開業しました。 昭和2年、信達軌道は福島飯坂電気軌道を買収し、飯坂西線と改称し、従前から飯坂に乗り入れていた軌道を、飯坂東線としました。しかし昭和46年、飯坂東線が廃止されましたが、旧飯坂西線は飯坂線として現在も営業中です。 昭和13年、喜多方駅と熱塩駅の間に、日中線が開通しました。この鉄道は、栃木県今市市と山形県米沢市を結ぶ東北縦貫鉄道『野岩線』として建設されたもので、途中の駅は会津村松駅、上三宮駅の2駅でした。日中線の開業当初は、1日に6往復あったのですが漸次少なくなり、昭和23年からは1日3往復の客 貨列車混合列車に短縮されました。終点の熱塩駅には転車台があったのですが、その後に撤去され、喜多方発はバック運転、帰りは正常運転で喜多方に戻るという変則運転をとっていました。 昭和15年、国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づいて作られた日本発送電会社により、秋元発電所の建設のため、沼尻鉄道名家駅より分岐する資材搬入用線を新設されました。 このように鉄道の国有化が進む中でも、多くの私鉄が活躍した様子を、垣間見ることができます。
2024.04.10
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明治20年、この奥州線の恩恵になんとか預かろうとして、若松村は郡山村までの馬車鉄道建設の計画を立てました。その概要は、次のようなものでした。『奥州線ノ線路ナル安積郡郡山ヨリ、同郡堀ノ内村、同郡安子ケ島村、安達郡玉川村、同郡高玉村、安積郡中山村ヲ経テ耶麻郡山潟村ニ至ル八里ノ間、山潟ヨリ北会津郡赤井村字戸ノ口ニ至ル間ハ湖上汽船ノ便ニヨリ、戸ノ口ヨリ若松ニ至ル四里間合計、鉄路敷設ノ里数凡ソ十二里ニシテ、追テ若松ヨリ北部耶麻郡喜多方町、西部河沼郡坂下町ニ通ズル線路ヲ選定シ、業務ヲ拡張スル目的ナレドモ、目下、工事ノ都合ニヨリ、先ヅ郡山・若松ト定ム』というものでした。しかしこの馬車鉄道は、開業するには至らなかったのですが、思わぬ副産物を産んだのです。それから4年後の明治24年、三春馬車鉄道会社の三春〜郡山間が開通したことです。新橋〜横浜間に鉄道が開通してから、実に19年後のことでした。ところが日本にも、新橋〜横浜間に鉄道が開通する以前に馬車があったのです。ちなみに馬車とは客車や貨物車を馬が曳くものであり、馬車鉄道とは、それがレールの上を走るものです。 文久元年(1861年)のころ、横浜の居留地から江戸の公使館の連絡用に使われていましたが、慶応3年には、江戸・横浜間に乗合馬車の営業がはじまりました。明治になって間もなく、東京築地居留地が開かれると横浜・築地間に外国人経営の乗合馬車が相次いで開業したのですが、日本人の利用客はまったくありませんでした。こうした外国人の乗合馬車に刺激され、日本人の経営する馬車会社が、運賃75銭、片道を4時間で営業をはじめています。こうした中で新橋・横浜間に蒸気鉄道が開通するのですが、その10年後に、わが国最初の私鉄(一般運送を目的とするもの)である東京馬車鉄道が、2頭曳きで定員が28人の31輌の客車と、約250頭の馬で新橋と日本橋間のおよそ15キロメートルで開業をしました。停留所は新橋と日本橋の終着地のみで途中に停留所は存在せず、利用者が降りたい所を車掌に言えば下車ができ、乗るときはどこであっても、手を上げれば乗れました。年間3300万人が利用したと伝えられていますから、その盛業振りには驚かされます。 森銑三著の『明治東京逸聞史』には、新聞への投書が載せられています。『鉄道馬車の車掌にも困る。昨日僕が本町から乗ろうと思って停めてくれと呼んだが、あいにく四つ角でなかったから、向こうの辻に来いと言うので半町ほど走らされた。これは馬車会社の規則であるから仕方がないが、僕が乗ってから少し行くと、路傍の家から三人連れの美人が出て来て、かわいい手で車掌を手招きしたら、車掌は四つ角でも何でもないのにすぐ車を停めた。不当である。」「馬車鉄道の駁車台に近き方に腰を掛け居りしに、駁者は鞭を振り過ぎ、革の先で窓の中の客の頭をぶんなぐり申候。」こんな不平や小言を、わざわざ新聞に投書している人があったのですが、これらの記事からも、東京での様子が垣間見ることができます。ところで日本では蒸気鉄道に至るまでの過程がなく、いきなり完成した形のレールと蒸気機関車が入ってきたために、日本では蒸気機関車が先に、逆にその後に、馬車鉄道が入ってきたことになります。そのような明治24年、郡山〜三春間に馬車鉄道が生まれました。そしてその9年後の明治33年9月2日、大阪馬車鉄道が天王寺と下住吉の間で開業しています。この間にも、多くの馬車鉄道が建設されていますが、事業社の数でいえば、地方の貨物の運送を主としたものが遥かに多かったのです。しかしその中でも、三春馬車鉄道が乗用客車での運行が主であったことは、刮目に値することであったのかもしれません。その後も東北各地に馬車鉄道が作られていきます。ところでこの馬車鉄道、奥州線との踏切は木戸と称して汽車が来ると遮断し、通り過ぎるとガチャンと開けて馬車鉄道を通しました。踏切番を常駐させていましたが、線路工夫の古い者とか夫婦者を使っていました、 話を戻します。 明治20年、郡山駅を終着駅として、郡山は上野と直接とつながりました。奥州線が青森まで全通したのは、明治24年になります。県内でも、鉄道の駅と地方の道路を結ぶ交通が盛んになってきました。例えば郡山を中心として、会津若松や平方面など東西の交通のための馬車や人力車の利用が急激に増えたのです。ところで汽車の通過する沿線の各地では、汽車の吐く火の粉による火事が頻発していました。そのため、多くの駅は、機関車の出す火の粉による火事を恐れ、集落から離れた場所に作られたのです。それは郡山も同じでした。現に茅葺き屋根の集落であった笹川駅、この駅は、昭和六年に安積永盛駅と改称されていますが、この沿線の民家が、汽車の火の粉で火災が発生していたのです。 明治26年、鉄道の所管官庁であった工部省が廃止されて逓信省鉄道局となり、鉄道敷設法が審議されました。ところがその条文にあった日本鉄道を国有化する案には反対が多く、廃案とされました。そこで政府は日本鉄道に対して、日本海側の新津と福島県中央部の日本鉄道奥羽線(現東北本線)を結ぶ路線の建設を要請したのです。しかし政府は、『新潟県下新津ヨリ福島県下若松ヲ経テ白河、本宮近傍ニ至ル鉄道』としたため問題となり、本宮、郡山、須賀川、白河が激烈な誘致合戦を演じることになったのです。この4つのいずれの町にも、会津に向かう道、つまり会津街道を有していたのです。郡山では、現在の磐越西線の路線と、長沼から猪苗代湖の南を通り、会津若松に至る路線を提示しながら、その優位性を主張していました。 この年に福島県知事に就任した日下義雄は「地域発展のため鉄道は不可欠」との強い信念のもと、郡山からの路線開通のために奔走し、東京の渋沢栄一のもとにもたびたび相談に訪れています。渋沢は日下に対して「中央からの援助を待つばかりではなく、地元の資産家も資本投入をするべきである」とアドバイスをし、自らも岩越鉄道に出資して設立すると同時に株主を募って創立委員の一員となっています。ただこの時、郡山が提出した鉄道誘致の請願書の第三項が、興味を引きます。それには、『太平洋岸に抜ける場合、三春馬車鉄道があり、平迄の延長工事が容易である』とあったのです。この請願文から指摘されることは、馬車鉄道の細いレールの上を、重量のある陸蒸気が走れるなどと思ったのかという技術的幼稚さではなく、むしろ郡山が馬車鉄道とは言え、既に鉄道の分岐点として存在しているという事実の政治的アピールの方を、高く評価すべきであると思われます。明治20年の奥州線の乗車料は、須賀川〜郡山の上等が20銭、中等が14銭、下等が5銭であったと記録されていますこの時期、郡山は安積平野という自然の好条件と、安積疏水という人工の好条件に加えて、日本鉄道の奥州線と三春馬車鉄道を擁し、更に岩越線のターミナル駅となって交通の要衝としての地位を確立していくことになるのですが、同時にこの疎水の水とこの水力による電力の利用が紡績工業の発展を促し、やがて工業都市としての性格を強めていったのです。この岩越鉄道の整備から導きだされた郡山の交通の要衝への位置確立にとって、三春馬車鉄道の存在が大きく貢献したのかもしれません。 明治29年、福沢諭吉や真中忠直(まなかただなお)らが平〜郡山間に私設鉄道の敷設を計画し、明治30年7月に仮免許状を得たのですが、着工には至りませんでした。 渋沢栄一を擁した岩越鉄道は、明治30年10月15日、郡山に建設部を置き、直ちに工事に着工しました。明治31年には郡山駅と中山宿駅の間が開通しましたが、郡山と会津若松の間は急勾配が多く、中山宿駅はスイッチバック方式を採用し、会津若松駅自体もスイッチバック方式で建設されたのです。明治32年7月26日、会津若松で開業祝賀会が開催され、駅前には杉のアーチが作られて各家では国旗や提灯が飾られ、夜遅くまで山車が練り歩きました。ちなみにこの年の4月1日、会津若松は市制を施行、福島県で最初の市となっています。この年の会津若松の人口は3万480人でした。そして明治36年、創業以来、取締役として岩越鉄道経営に関与してきた渋沢栄一が退任しました。そしてその後の明治37年1月、岩越鉄道は喜多方駅まで開通したのです。 明治33年に発表された鉄道唱歌の奥州・磐城編から、白河〜福島間を抜粋してみました。これのメロディーは、『汽笛一声新橋を』と同じです。ただし数字は、この歌の順序です。 1番*汽車は煙を吹き立てて 今ぞ上野を出(い)でて行く 行方はいずくみちのく の 青森までも一飛びに17番*東那須野の青嵐 吹くや黒磯黒田原 こゝはいずくと白河の 城の夕日は 影赤し18番*秋風吹くと詠じたる 關所の跡は此のところ 會津の兵を官軍の 討ちし 維新の古戰場19番*岩もる水の泉崎 矢吹須賀川冬の來て むすぶ氷の郡山 近き湖水は 猪苗代20番*こゝに起りて越後まで つゞく岩越線路あり 工事はいまだ半にて 今は若松會津まで21番*日和田本宮二本松 安達が原の黒塚を 見にゆく人は下車せよと 案内記にもしるしたり22番*松川過ぎてトンネルを 出(い)づれば來る福島の 町は縣廳所在の地 板倉氏の舊城下23番*しのぶもじずり摺り出(い)だす 石の名所もほど近く 米澤行きの 鐵道は 此町よりぞ分れたる24番*長岡おりて飯坂の 湯治にまはる人もあり 越河こして白石は はや陸前の國と聞く 明治30年、逓信省鉄道局は監督行政のみを受け持つことになり、現業部門は逓信省外局と鉄道作業局に分離されて移管されたのちも、鉄道敷設法及び北海道鉄道敷設法、事業公債条例などに則ってよって運営されていました。ちなみに日本鉄道の時代、駅には等級がありました。一等駅には福島駅が、二等駅には郡山駅と白河駅が、しかし三等駅はなく四等駅に本宮駅・二本松駅・松川駅・桑折駅があり、五等駅には長岡駅、いまの伊達駅と藤田駅がありました。興味深いのは、東京の新宿駅が二等駅であったということですが、今になると、それがどのような基準によるものであったのかは不明です。
2024.04.01
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