全3件 (3件中 1-3件目)
1
三春駒 三春駒は、現在、郷土玩具の『子育て木馬』として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られています。その発祥の伝説は、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、坂上田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦14年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。 翌日、村の杵阿弥(きねあみ)という人が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。 三春藩の奥地には、もともと野生の馬が多く生息していました。それらを飼い慣らして農耕馬とし、軍馬として使われるなかで『三春駒』と言うようになったのです。江戸時代になると、藩を豊かにするための産業として馬を改良し、多くの良馬を生み出して全国へ広がっていったのです。 それもあって人々は、飼馬の安らかな成長を祈って、神社や馬頭観音に絵馬や高柴村で作られた木の三春駒を刻んで奉納するようになり、また子供の玩具に用いたりするようになったのです。木製の三春駒は、現在郷土玩具として、西田町高柴のデコ屋敷や三春町内で作られるようになりました。いまの三春駒の原型は大正期に出来たとされ、直線と面を活かした巧みな馬体と洗練された描彩は、日本三大駒の随一との定評があります。馬産地として日々の生活の中で出来た人と馬との絆が、この木馬を生み出したのかもしれません。『三春黒駒』は子宝・安産・子育てのお守りとして、また『三春白駒』は老後の安泰、そして長寿のお守りとして作られています。『三春駒』は、青森県八戸の八幡馬、仙台の木下駒と並んで日本三駒とも呼ばれています。大小さまざまあるが,シュロのたてがみと尾をつけ,直線を生かした逞しい馬体につくられ,馬産地にふさわしいできばえを示していると言われます。 生きた三春駒は絶滅してしまったので、どのような特徴のある馬であったかは分かりませんが、現在の日本経済新聞の前身となる中外商業新報の大正4年5月1日の記事に、『三春藩時代に於ては日暮、花月等の名馬を産し、明治時代に在ては夫の御料乗馬たりし友鶴、旭日等のごとき・・・』とあります。三春駒の友鶴、旭日の二頭が明治天皇の、また繰糸号が明治天皇の后の昭憲皇太后の、さらに第二関本号が大正天皇の御料馬であったということに驚かされます。これは田村郡から献上された三春駒の在来馬であったといわれていますが、いずれにせよこれらの馬の調教師は、いまの本宮市白沢の佐藤庄助さんであったそうです。 ところでデコ屋敷の『デコ』は、『木偶(でく)』で木彫りの人形を表し、人形屋敷という意味になります。現在、高柴地区は郡山市に属しますが、江戸時代は三春藩領の高柴村であったため、その名残で三春駒や三春人形と呼ばれるようになったのです。大小のダルマや各種のお面、恵比寿・大黒や干支の動物などの縁起物をはじめ、雛人形や歌舞伎・浮世絵に題材をとる人形まで多くの種類を手掛けています。デコ屋敷周辺の狭い範囲には神社が点在し、約100基の朱の鳥居の立ち並ぶ『高屋敷稲荷神社』や、パワースポットの大岩のある日枝神社などがあり、ここには代々ご長寿の方が多いことなどから、そのご利益であるとの信仰を深めています。日本の三大駒として、青森県の八幡馬、宮城県の木ノ下駒と並んで三春駒が挙げられていますが、三春駒は、木ノ下駒の影響を受けていると考えられています。デコ屋敷にある郷土人形館では、江戸時代に制作された三春駒を見ることができ、福島県の重要有形民俗文化財に指定されている各工房の木型や、江戸時代の人形が展示されています。 私は子どもの頃から、三春大神宮の境内に等身大の白馬の像のあることを知っていましたので、これは明治天皇に献納した三春駒の記念の像かと思っていました。しかし調べてみると、三春藩駒奉行徳田研山の指導で、石森村の仏師伊東光運が制作したものと分かり、時代も古く、明治の天皇家に献納した馬とは無関係なようでした。 第二次大戦後は軍馬の需要は無くなり、また農業の機械化によって馬そのものの需要が激減しました。しかしその後も、田村郡では競走馬の生産が続けられ、小野町今泉牧場のトウコウエルザや、桑折町で生まれて北海道新冠の早田牧場新冠支場で調教を受けた天皇賞・宝塚記念・菊花賞を制したビワハヤヒデがいます。現在、東京電力福島第一原発よる放射能事故に追われ、全村避難となっていた旧三春藩領の双葉郡葛尾村でも、多くの馬が育てられていましたが、古代以来の馬作りの伝統が、福島産の馬の活躍にもつながったと思われます。なお、トウコウエルザは、昭和49年度優駿賞の最優秀4歳牝馬を受賞しています。またビワハヤヒデは平成4年、中央競馬でデビューし、翌年のクラシック三冠路線では、ナリタタイシン、ウイニングチケットの、それぞれの頭文字から『BNW』と呼ばれたのですが、それらライバルを制して三冠のうち最終戦の菊花賞を取得しています。 令和元年5月3日のTBSで、大正天皇と貞明皇后のお二人の最側近として仕えた、元高等女官『椿の局』こと坂東登女子さんが、世にも稀な経験の数々を雅やかな御所言葉で語る、貴重な記録が放映されました。およそ100年前に宮中で仕えた女官の肉声を収めたカセットテープの内容でした。そして大正天皇と貞明皇后の人となりの話の中に、馬の話がちょっとだけ出ました。 「陛下のお毒見しますでしょ。魚ならこんなひと切れとか」 「趣味は御乗馬ですね。お馬さんですね」 私はひょっとして、このお馬さんは三春駒ではなかったかという思いと、大正の時代までツボネという敬称が使われていたことに驚かされました。 三春駒は、日本で最初の年賀切手に採用された民芸品です。工芸品とだけなって、生きた馬の姿は見ることができなくなってしまいましたが、新幹線郡山駅のコンコースに、その姿が描かれています。
2024.07.20
コメント(0)
在来馬と民話 昔から日本にいた馬のことを、在来馬と言います。日本の在来馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された小形の馬とされています。古墳時代は、モンゴル文化の影響から、馬が魂を運ぶ動物と考えられていたため、古墳上には舟形埴輪と共に馬形埴輪も置かれるようになりました。こうした馬形埴輪の近くからは、俗に踊る埴輪と呼ばれるタイプの、馬飼の人物埴輪も出土します。これに付随して、馬の骨や馬の歯、それに馬具が遺跡から出土していますから、古くから馬が存在していたことの確認ができます。 現在、在来馬としては、北海道の北海道和種、長野県の木曽馬、愛媛県の野間馬、長崎県対馬の対州馬、鹿児島県トカラ列島のトカラ馬、宮崎県の御崎馬、沖縄県宮古島の宮古馬、それと与那国島の与那国馬の8種類がいますが、その数は減少してしまいました。しかしこれらの8種類は、日本の在来馬として保護されています。北海道和種は、道産子の俗称で親しまれており、その頭数はおよそ1800頭で、在来馬の約75パーセントを占めています。しかしほかの7種は数十から百数十頭しかいないそうです。一番少ない対州馬となるとさらに少なく、30頭以下とされています。また新潟県の粟島には、粟島馬がいました。この粟島には、昭和初期まで生息していました。江戸時代の記録によればその数5・60頭がいたとされるのですが、明治期になると捕獲や事故などで数が段々減りはじめ、昭和七年には最後の一頭が死んで島の在来馬は絶滅してしまいました。ところがこれ以外にも、三春駒がありました。今は無くなりましたが、福島競馬場において、三春駒の名のレースが行われていたのです。 西洋の馬が輸入されるまでの三春駒は、南部駒とともに有名な馬でした。これら在来馬の特徴は体高が低く体重も軽いのですが、辛抱強く雑食性であるという特徴がありました。宮古馬は、体高はおよそ120センチと小型で、ポニーに分類されます。宮古馬は、サトウキビ畑などでの農耕馬として利用されてきましたが、現在は45頭にまでにまでなってしまったそうです。なお宮古馬は、大野正平の『日本縦断こころ旅』で放映されましたので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。日本馬事協会は、先ほどの8種類を日本在来馬と認定して保護にあたっています。 戦国時代の馬は、その小柄な体型から甲冑武者を乗せるとよたよたとしか走れないと誤解されていますが、約3・5キロメートルをノンストップで速歩、駈歩で問題なく走り続けられることが確かめられています。そこで、それぞれの馬の走りをスローで見てみると、木曽馬は現在のサラブレッドよりも、上下の揺れが少なかったそうです。サラブレッドは足が長く、大きな歩幅で飛び跳ねるように走るため、上下の揺れが大きいのだそうです。そう言われてみれば、競馬の騎手の乗る姿からも想像できます。つまり、在来馬は走る際の揺れが小さく、馬上での戦いにも優れていたと言われます。 延宝七年(1679年)、三春藩主三代目の秋田輝季は、領内で産した7歳馬を4代将軍・徳川家綱へ献上して以来、参勤交代の度に三春駒を献上して全国に知られるようになりました。その後、三春藩では、仙台や南部藩から良馬を買い付けてかけ合わせることで馬の名産地となったのです。江戸時代の後期から近代にかけて、田村地方産の馬は名馬も多く、三春駒と呼ばれるようになっていきました。 さて民話です。456年から479年の間の雄略天皇期の話の中に、270年から310年の間の応神天皇の陵の馬形埴輪が赤い馬に化け、人を乗せて早く走ったといった話があり、古代から馬に関する多くの怪異話が語られています。仏教説話集の『因果物語』などにも、馬の怪異が語られています。その多くは、馬を粗末に扱った者が馬の霊に取り憑かれて馬のように行動し、最後には精神に異常をきたして死ぬというものです。日本ではかつて仏教国として、獣を殺したり獣の肉を口にすることは五戒、つまり仏教徒が守るべき基本となる不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)の5つの戒めに触れ、殺生を行なった者は地獄に堕ちると言われた迷信が、これらの憑き物の伝承の背景にあるとの説があります。 江戸時代になると、在来馬に関連した妖怪話も盛んとなります。死んだ馬の霊が人に取り憑いて苦しめるという『馬憑き』、馬の足が木の枝にぶら下がっていて、不用意に近づくと蹴り飛ばされるという『馬の足』、首のない馬が路上に出没し、人に襲いかかって噛みつく『首切れ馬』などは、馬の妖怪です。このような怪異話は、福島県にもありました。例えば、昔、ある男が娘と一緒に住んでいました。ある日、男が狩りに出かけて、何日たっても帰ってこなかったので、娘は自分の家の馬に、父を探してきてくれたら嫁になってやると言ったというのです。するとその馬はどこかに走って行ったのですが、夕方になってから男を背に乗せて帰ってきました。それから馬は変な『いななき声』をたてるようになったので娘に聞くと、娘は今までのことを話しました。男は怒って娘を島流しにしてしまったのです。それを知った馬は、娘のあとを追って行方不明になっていたのですが、やがてすごすごと帰ってきました。それが駒帰り、今の会津駒ヶ嶺となった、というものです。 ところで田村郡にも在来馬の妖怪話がありました。三浦左近国清という人が今の西田町太田に住んでいました。結婚できないことを憂い、滝桜近くにある滝不動に、美しい妻が得られるようにと祈願したのです。すると夢に不動明王が現れ、現世には嫁がせるべき女がいないので、五台山の奥の池で天女が水浴びをしているので、その羽衣を取れと言ったのです。国清はその通り山に登り天女の羽衣を取って家に帰りました。やがて天女は羽衣のないのに気付き、国清の家に行って羽衣を返して欲しいと願ったのですが返されず、ついには夫婦になってしまいました。二男一女をもうけたのですが、やがて子供たちが大きくなったから別れても立派に育つと言い残し、天女は羽衣を着て天に昇って行ったのです。国清は悲しんだのですが娘はそれにもまして悲しみ、ついには池に身投げして死んでしまいました。中太田に姫塚と呼ぶ塚がありますが、この姫を祀ったものといわれます。それにしてもこの話、天女が田村郡に遊びに来ていたとは、荒唐無稽ではありますが、面白いと思いました。 ところで明治初期に日本を訪れた欧米人たちは、日本の在来馬が世界で最も進化していない馬であるということで、本国に持ち帰ったという逸話もあります。しかし明治政府が、「富国強兵政策」の一環として軍馬や農耕馬を強くするために外来種を輸入し、品種の改良を行ったことも在来馬の数を激減させた理由の一つでした。それでもかろうじて残った在来馬は、離島や岬の先端など交通が不便な所に、前述した8種類だけが残ったのです。
2024.07.10
コメント(0)
14 鉄道よもやま話② 列車の運賃はヨーロッパに倣って三等級制が採用され、大人一人が全区間を乗車した場合、上等が一円十二銭五厘。中等が七十五銭、下等が三十七銭というように設定されていた。なんだか妙に半端な値段であるが、なぜもっとキリの良い価格設定にできなかったのであろうか。この頃は時間の問題だけでなく、多くの日本人がまだ江戸時代を引きずっていた。鉄道開業の当時、駅に貼り出された汽車の出発時刻および賃金表には、江戸時代からの貨幣単位である両・分・朱で表示したものと、新貨幣単位の円・銭・厘に換算したものが並んでいたという。このようなことは、当時の庶民が、両・分・朱の旧単位の方が円などの新単位よりはるかに理解しやすかったため生じたものだと言われている。この傾向は明治十年代ぐらいまで続いたようで、地方ではその頃まで天保銭などが流通していたという。 東京以北に初めて特急列車が誕生したのは、昭和三十三年十月のことである。上野・青森間に一往復設定された『はつかり』がそれです。もちろんその使命は、東京と東北本線沿線の都市と直結すること以上に、北海道への連絡が大きなウエイトを占めていた。この特急『はつかり』の運転開始当初は、上野〜青森間のうち日暮里・岩沼間は常磐線経由とされ、ルートから外れる東北本線沿線の宇都宮、郡山、福島などの都市は全く無視された格好となっていた。これはなにも『はつかり』に限った話ではなく、この頃はなぜか、上野から仙台へ、そして仙台より先に向かう急行列車の多くが常磐線回りであった。これを見る限りでは、常磐線の方が本線で東北本線は支線といった感じがするが、なんでこんな珍妙なことが起きてしまったのであろうか。常磐線沿線にはいくら炭鉱が多かったとは言え、それほどまでに重要な都市がひしめいていたというわけでもなかった。 東北本線の上野〜青森間が全通したのは明治二十四年九月であった。これは私鉄の日本鉄道が開通させたものであるが、その線路は黒磯〜白河間、郡山〜福島間、福島〜白石間などに急勾配区間が多数存在していたのである。このことが輸送力増強とスピードアップの面でネックとなっていたのである。そんな折の明治三十一年八月、同じく日本鉄道の手により、現在の常磐線である海岸線の田端〜岩沼間が全通した。海岸線と言うだけあって、この線は勾配の少ない平坦な路線となっていた。そのため東北本線経由の列車が一部、常磐線に移ったのである。しかし、戦前はまだ東北本線の方がメインルートとされていた。それが逆転するのは戦後のことで、昭和二十年代に新たに設定された急行列車の多くが常磐線を選択したのである。これは激増する旅客需要に対応するため、一列車あたりの連結車両数が増えたことが要因のひとつと考えられるのですが、当時の動力車の主力は蒸気機関車であったから、東北本線経由とすると、勾配の関係で連結両数が制限されざるを得なかったという事情があった。ところが東北本線には福島で分岐する奥羽本線秋田方面に向かう列車を多数設定しなければならないという状況があったのである。しかしそんな東北本線であったが、昭和四十三年八月に全線複数電化が完成し、勾配自体も線路の付け替えなどで緩和されて状況はかなり変わった。『特急はつかり』は電車化されたうえで東北本線経由に改められ、以降の増発列車も東北本線経由が中心となっていった。勿論この頃には常磐線も全線電化が完成していたが、平以北はほとんどが単線だったため。全線複線の東北本線にはとてもかなわなく、だんだんその地位は低下していった。ただし、夜行列車に限って言えば東北新幹線開業まで、常磐線がメインルートとされていた。しかし東北新幹線が開通し、飛行機が長距離輸送の主役とされる今となっては、東京から東北・北海道への輸送において、両線ともほとんどその機能を果たしていない。 鉄道国有化後の明治四十五年六月十五日、従来の新橋・神戸間の『最急行』を下関まで延長し、『特別急行』と改称された。この日本最初の特急列車は新橋を八時三十分に発ち、下関には翌朝九時三十八分到着、所要時間は二十五時間八分、対となる上り列車の所有時間は二十五時間十五分で、今から見れば、ずいぶん時間がかかっているようにも感じられるが、当時としては画期的なスピードであり、しかも列車の編成も特別急行の名に恥じない豪華なものであった。まず三等車は連結されず、一等車と二等車のみで編成、座席車以外に寝台車や食堂車、そして最後部には特別室を備えた展望車まで連結された。その展望車の内部装飾には、網代天井、各天井、吊灯籠式照明、すだれ模様の窓カーテン、日本式の欄干、藤椅子などと、心にくいまでの和風趣味がふんだんに取り入れられていた。展望車特別室の書架には、日本文学全集の他に洋書も多数取り揃えられ、車掌も英語の堪能な列車長が乗務したという、まさに走るホテルであった。 ところで、この特急列車が新橋・大阪間というのであれば、政財界の要人の利用も多いわけで編成の豪華さも頷けるが、なぜ本州の西の外れの下関まで足を伸ばしていたのか。実はこの特急列車は、国際列車の性格を持ち合わせていた。下関と朝鮮半島先端の釜山との間には山陽汽船による関釜航路が開設されており、当時日本領であった朝鮮半島を北上、これを満洲、シベリアを経由してヨーロッパ諸国とを結ぶ欧亜連絡ルートの一部を形成させようとしていた。これは日本人だけでなく、ヨーロッパ諸国の要人の利用も想定して新設されたものである。日露戦争に勝利した日本は、世界の一等国の仲間入りを果たしたわけだから、それに恥じない国力の象徴としての国際列車が必要だったと考えたのでしょう。 終戦直後、多くの列車が現在の首都圏における朝の通勤電車など足下にも及ばないほどの殺人的混雑にあった。その混雑もさることながら、車両の荒廃もものすごかった。客車の窓はガラスが割れたものが多く、代わりにベニヤ板がはめ込まれていたり、あるいはそれすらなかったといった状態だった。戦時中に敵の機銃掃射を受け、車体にいくつも穴の開いている客車まで使われた。とにかく最悪の設備、車両、そして少ない列車の本数で洪水のように押し寄せる人々を運んでいたのである。そのような列車を横目に、寝台車や食堂車などが連結された豪華な列車も走っていた。そして、その列車はほかの多くの列車のように乗客が鈴なりになっていたわけではない。日本人は、これに乗ることは許されなかったのである。これらは、進駐軍専用の列車だったのである。昭和二十年八月十五日の戦争終結後、日本は進駐軍総司令部GHQの統治下に置かれた。当然、国有鉄道もGHQの管理下とされた。そして進駐軍関係の輸送は絶対輸送優先だったのである。 進駐軍は、無傷で残っていた寝台車、展望車、食堂車などの優等車を中心に状態の良い車両を五百両近く召し上げ、運輸省に整備を命じ、車体にはAllied Forces(連合軍)の文字が記された。多くの日本人を乗せた窓ガラスもろくにないようなオンボロ列車を駅に待たせておいて、この列車が颯爽と追い抜いていったのである。しかし昭和二十二年頃からは進駐軍専用車に空席がある場合に限って二等運賃を払えば日本人も乗車できるようになった。ただ、乗車券の裏には、次のような注意書が書かれていた。進駐軍専用車御乗車の方へ。乗車の際には乗車券を必ず車掌に提示すること。空席のない場合には絶対に乗車しないこと。連合軍またはその家族が後から乗車して、座席のない時には必ず席を譲って他の車両に乗り換えること。専用車内に立っていることは許されません。専用車は、昭和二十七年三月の占領終了まで存在していたのである。(この稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。の稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。
2024.07.01
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1