『福島の歴史物語」

PR

プロフィール

桐屋号

桐屋号

カテゴリ

著書一覧

(1)

ショート、ショート

(236)

街 こおりやま

(91)

阿武隈川~蝦夷と大和の境界線

(15)

埋蔵金の伝説

(7)

三春藩と東日流外三郡誌

(12)

安積親王と葛城王

(18)

安積山のうた〜思いつくまま

(8)

和歌と紀行文に見る郡山

(42)

田村麻呂~その伝説と実像

(19)

雪女~郡山市湖南町の伝説

(9)

郡山最初の領主・伊東祐長

(21)

田村太平記~南北朝の戦い

(32)

源頼朝に郡山を貰った男

(24)

愛姫桜~ひそやかな恋の物語り

(12)

北からの蒙古襲来

(12)

さまよえる神々~宇津峰山に祀られた天皇

(15)

三春挽歌~伊達政宗と田村氏

(19)

寂滅~隠れ切支丹大名

(10)

平賀源内と三春駒の香炉

(3)

江戸屋敷物語

(9)

大義の名分~三春は赤穂とどう関わったか

(12)

三春化け猫騒動~お家騒動伝説

(14)

三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本

(0)

地震雷火事おやじ

(1)

戒石銘

(10)

会津藩、ロシアに対峙す~苦難の唐太出兵

(42)

郡山の種痘事はじめ

(25)

いわれなき三春狐

(10)

三春戊辰戦争始末記

(45)

遠い海鳴り~幕末三春藩の経済破綻

(15)

目明かし金十郎

(5)

小ぬかの雨~明治4年、三春藩最後の敵討ち

(16)

馬車鉄道〜インダス川より郡山・三春へ

(31)

三春馬車鉄道(抄) 2006/3 歴史読本

(1)

マウナケアの雪~第一章 銅鑼の音

(27)

マウナケアの雪~第二章 心の旅路

(24)

マウナケアの雪~第三章 混迷するハワイ

(29)

マウナケアの雪~第四章 束の間の平和

(26)

我ら同胞のために~日系二世アメリカ兵

(50)

二つの祖国の狭間で

(21)

九月十一日~ニューヨーク同時多発テロ

(13)

石油輸送救援列車・東へ

(13)

講演その他

(2)

新聞雑誌記事

(27)

いろいろのこと

(6)

海外の福島県人会

(34)

鉄道のものがたり

(14)

コメント新着

桐屋号 @ Re[1]:平賀源内の三春駒の香炉(10/20) ごん924さんへ コメントをありがとうござ…
ごん924 @ Re:平賀源内の三春駒の香炉 初めまして。私は日下部先生が晩年 平賀源…
桐屋号@ Re:旗本・三春秋田氏五千石(08/10) ご覧になっていただき、ありがとうござい…
湊耕一郎@ なんでも鑑定団 残暑お見舞い申し上げます。 さて、さくじ…
桐屋号@ Re:郡山の製糸(01/04) ビジターさん 1* 私はPCについてよく知…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
桐屋号 @ Re:10 新たな資料(02/26) 詳細をありがとうございました。 つい先日…
桐屋号 @ Re[1]:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) 通りすがりさんへ ありがとうございます…

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2007.09.11
XML


「小山城を陥とせばその先の敵は手薄ぞ。鎌倉は目前である」
 北畠顕家の下知に、全軍は奮い立った。しかし小山北朝軍も鎌倉からの援軍を得ると必死に防戦した。簡単な筈が、十三昼夜にわたる激戦となってしまったのである。それでもようやく小山城を陥とし、守將・小山頼郷を捕虜にすると味方の中から、
「親戚の結城に刃向かうとは不埒な」
「小山頼郷を叩っ切れ」
「奴を出陣の血祭にせよ」
との声が上がった。しかし板ばさみになって苦悩する結城氏の、
「同族のよしみなれば」
という訴えに北畠顕家はこれを認め、小山頼郷を城下に落としてやった。
 十二月十三日、南奥南朝軍は北朝軍と利根川において激突した。戦いは南奥南朝軍の大勝であった。この利根川の大会戦は、両軍数万騎が数日にわたって死力を尽くした合戦であった。ここでの勝利は南奥南朝軍の武威を大いに輝かせた。
 十二月十六日、北畠顕家は武蔵国安保原の戦いに勝つと、破竹の進撃を続けた。 
 十二月二十三日、南奥南朝軍は鎌倉に突入した。
 この戦いで足利義詮は辛くも鎌倉を脱出、敵將・斯波家長は自刃した。
 しかし戦いに勝ったとは言え、前の上洛がわずかの日数しかかからなかったのに今度は既に四ヶ月以上を費やしていた。総大将の北畠顕家はもちろん、従う将兵たちも残してきた故郷への心配と先行きの不安に焦っていた。これらの焦りを見せるかのように、翌年正月二日、松の内にもかかわらず南奥南朝軍は鎌倉を出発した。
 ところがこれから先は、面目を一新するかのような快進撃をはじめる。
一月七日、伊豆・三島神社に戦勝祈願の参拝をすると、東海道をひたすら西へ駆け続けた。そしてこの軍勢が西へ進めば進むほど、次第に膨れ上がっていった。道々の南朝方が馳せ参じて来たのである。
 一月十二日、遠州・橋本では井伊道政が合流した。
 一月十四日、三河・豊川あたりで宿営中、在地の武士が駆けつけた。
 一月二十二日、尾張・黒田宿に到着すると、熱田大宮司・昌能と堀口美濃守貞満が合流してきた。
 一月二十四日、美濃の阿志賀川渡河戦に勝った。
 この戦いに勝った騎馬武者の行軍は、前衛部隊と後衛部隊との間は五日の行程がかかり、左右は三里にもわたるほどであった。南奥南朝軍の通過した後には、一軒の家も一本の木も残らなかった。この軍の進軍の模様は、服装も異様で馬も大きく、重たげな響きで言葉もよく聞き取れぬ、人間離れをした騎馬武者どもの大進撃なのであった。美濃からは、新田一族の堀口貞満も参陣してきた。
「夷ども迫る」
 この知らせは京都の軍兵ばかりではなく、庶民をも震え上がらせた。足利尊氏にしても、二年前の京都でこの『夷ども』に手痛い敗北を喫しているのである。
「防備を確実にせよ!」
 尊氏の命令で、北朝軍は関ヶ原あたりに強力な防衛線を構築し、美濃の青野ケ原に布陣した。尊氏も必死であった。
 一方怒涛のように進軍を続ける南奥南朝軍の背後には、鎌倉で敗れた北朝軍が態勢を立て直して追尾してきていた。南奥南朝軍は前後を北朝軍に挟まれる形になった。それを知った北畠顕家は向きを変えると引き返し、木曾川を前にして追尾の北朝軍を迎え討った。ところがこの大戦闘で敵を大破した北畠顕家は、ここで俄に兵を転じると北朝軍との正面での衝突を避け、父・北畠親房の居る伊勢に迂回してしまったのである。京都まではほんの一足の距離であったのにである。なぜ北畠顕家は決戦を回避したのか? ここのところは歴史上の謎とされている。 
 二月一日、南奥南朝軍は養老山脈の麓を垂井方面から桑名に南下した。
 二月四日、さらに鈴鹿山脈ぞいに南下すると在地の武士団が武器糧食を持参して出迎えた。ここで兵力の増強をはかった南奥南朝軍は須賀瀬の雲出川ぞいの戦いで北朝軍を破った。
 二月十六日、南奥南朝軍は神山城、そして田丸城を陥とすと軍を反転して北上、曽原城や星合城を陥とした。さらに雲出川の流れにそって進軍する。美杉村に入ると竹原・八知郷・阿保峠・青山高原と横切って伊賀にはいり、さらに名張、月ケ瀬・山添村を抜け、笠置・柳生を通った。この頃の南奥南朝軍は疲れ果てていた。兵力の温存を考慮した北畠顕家は、目立たぬ山間地を西進していたのである。しかしそのことから兵糧の補給もなく、むしろ野盗に近い軍隊となっていた。
 二月二十一日、ようやく奈良に入った。この間、苦しい行軍が続いていた。転進をはじめてから二十日も経っていた。そのため奈良市中に入ると手当たり次第に略奪を行い、腹をふくらませた。
 こんなに苦しんでも南奥南朝軍諸将の念願はただ一つ、京都奪回だけであった。
「京都を奪えば天下を握れる」
 彼等の目的はそこにしか無くなってしまったのである。[南奥南朝軍北上]の情報は、すぐ京都に流れた。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007.11.15 16:48:54
コメント(2) | コメントを書く
[田村太平記~南北朝の戦い] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: