『福島の歴史物語」

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2007.09.12
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 北畠顕家は、「もはやこれまで」と決死の覚悟を決めると、結城宗広に義良親王を守らせて吉野へ向かわせた。背水の陣を敷き、後顧の憂いを断ったのである。そして自分は南奥南朝軍をまとめて河内へ進んだ。もはや伊勢に引き返すこともならず、河内の楠木や橋本南朝軍と合流しようと考えたのである。すでに兵力の減少は目を覆うばかりであった。
 三月八日には、河内平野を北上すると天王寺を攻略した。天王寺から京都は近い。北朝軍は副将軍・足利直義自らが出陣してきた。天王寺の敗戦で京都に動揺が拡がっていたのである。これはどうしても押さえなければならなかった。
 三月十三日、南奥南朝軍の春日顕国の率いる先遣隊が、男山八幡宮を占領した。さらに河内平野の諸城砦をアッという間に占領し、南朝軍一色とした。橋本正茂も八木城救援に赴き、これを救っている。しかしこれが兵力の減少に悩む南朝軍最後の輝きであった。
 三月十六日、南奥南朝軍は河内の国府、枚岡、生駒山の中腹より渡辺橋で苦戦する楠木正行の救援に赴いた。南奥南朝軍と楠木南朝軍の共同戦線は、南朝軍として一時的な兵力の増強をもたらしたに過ぎなかった。
 五月、南北朝両軍の死闘が続く。
 五月六日、境浦・熊取・佐野・長滝方面にも南奥南朝軍が出撃。
 五月十五日には、南奥南朝軍は河内・高安城を焼き払い、八尾周辺の萱振一帯にも放火した。更に藤井寺・道明寺方面で北朝軍の南下を阻止すると、石津を攻略した。しかしその石津に北朝軍の新手が進撃してきたので石津を退却、観音寺・箕形城に篭もった。
 北畠顕家はすでに五年も京都を離れ、多賀国府や霊山で奥羽の経営に当たってきた。そしてその実務と戦いの中で、顕家は、
 ——戦っても戦っても北朝方を倒せない。
 ——天下は次第に足利のものになりつつある。何故そうなったのか?
 ——足利尊氏は地方の武士の心を巧みに掴んでいるのに、朝廷は余りにも地方の現実を知らなすぎる。
と考えていた。
 戦いに明け暮れていたこの日、北畠顕家は後醍醐天皇に長文の諌奏文を呈上し、その政治姿勢について七ケ条にわたって真摯に批判した。後醍醐天皇に忠勤しようとすればする程、後醍醐天皇の政治理念と現実との差異に苦悩を深めていたのである。
 五月二十二日、ついにその日が来た。両軍の戦いは堺浦から石津にわたり、海上でも戦われた。数も少なく疲れの多い南朝軍は次第に討ち破られ、北畠顕家を守る南奥南朝軍もわずかになってしまった。死力を振りしぼり包囲を切り抜けて吉野に向かおうとしたが、力尽きてここに倒れた。橋本南朝軍もこの激戦の中で、河内の松原・野田周辺の北朝軍を破ったがその目的は達し得なかった。
「鎮守府将軍・北畠顕家様、阿倍野にご戦死」
 この戦いでの最大の悲報が、八方に飛んだ。
 輝定は眼前に暗雲の立ち込めるのを感じた。形こそ後醍醐天皇のためであったが、実質は北畠顕家のためであったことを、今、痛切に自覚した。今まで互いに助け合ってきた北畠顕家が戦死したのである。
 田村輝定はこの阿倍野の乱戦の中に崩れ立つ味方の兵を率いて河内の松原に退き、体勢を立て直そうとした。背後から襲いかかる北朝軍を支えながら、大和川まで逃げてきた。この川に後退を阻まれた田村南朝軍に輝定は大声で下知をした。
「川を渡れ!  松原にはお味方がいるぞ!」
 田村南朝軍は一斉に水しぶきをあげ、対岸を目指した。それをかばって立つ輝定らの一団に、追手が迫った。取り囲む北朝軍の騎馬武者たち。その前に立ちふさがる輝定らの一団。やおら太刀の鞘をはらった輝定は大音声を張り上げた。
「やあやあ我こそは北畠顕家卿の臣、田村右京太夫輝定なるぞ! 尋常に勝負致せ!」
「何を古臭い名乗りなどを。問答無用!」
「かかれーい!」
 敵のそれらの声を耳にすると、輝定らは敵の群れに飛び込んで行った。目に入る相手の敵味方を識別する必要はなかった。とにかく多勢に無勢である。周囲は、敵の塊であった。輝定は刀を振るった。当たるのは敵兵のみである。徒歩で迫る何人かの兵を倒し次の騎馬武者をも堵った。そして、疲れた身体で敵と刀を二~三合を合わせているその後ろから、敵に槍で突かれた。
「卑怯者!」
 それが、どうと崩れ落ちる輝定の最後の言葉となった。
「田村輝定様、大和川にご戦死」
 南奥南朝軍総大将・北畠顕家に殉じ、田村輝定もまたここに戦死したのである。田村南朝軍もその將を失い、河内の道明寺天満宮へ逃走した。そこには先に義良親王を奉じていた結城宗広が布陣していたのである。
 結城宗広はこの北畠顕家と田村輝定戦死の悲報を、阿倍野の敗軍から受け取った。そしてその場にスックと立ち上がるとただ一言、
「吉野へ向かう」
との指示を与えた。北畠顕家の亡き今、結城宗広が南奥南朝軍の将を継いだことになったのである。宗広はカサにかかった北朝軍の追撃を恐れていた。








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最終更新日  2007.11.15 16:49:55
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