『福島の歴史物語」

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2007.09.13
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 後醍醐天皇の行在所のある吉野は、吉野川の南岸に柵を巡らし、僧兵や南朝方の武士たちが薙刀や槍の穂先をきらめかしていた。吉野は全山が要塞化して、敗残の南朝軍を優しく迎え入れてくれた。
 後醍醐天皇は奥州南朝方の再建案を発表した。それは義良親王を皇太子とし、北畠顕信(顕家の弟)を陸奥介兼鎮守府将軍として、父・北畠親房や結城宗広を差し添えて陸奥に下だすというものであった。奥羽の政治を南朝方として軌道に乗せ、兵力の増強をはかり、「三度京都を・・・」という意志であった。京畿に出陣していた南奥南朝軍は、義良親王を奉戴して多賀城へ戻ることになった。奥羽の南朝の武将たちは、元弘以来後醍醐政権に密着してきた。ここまでになれば、あとは後醍醐支持を貫くのみであった。
 敗れた南奥南朝軍はまず伊勢に向けて出発すると、その帰途の安全を伊勢神宮に祈った。彼らは各地の合戦で大きな痛手を被っていたため、途中での北朝軍との争いによる兵力の消耗を避けるという考えもあって海路を選んだのである。
 南奥南朝軍は五十余隻の大船団を編制すると伊勢の大湊を出航し、伊良湖岬で東に針路をとった。潮の流れの荒い伊良湖岬の沖は、満潮時、干潮時は特に船の難儀するところである。とはいっても海を知らない田村の将兵は、この船旅を楽しんでいた。彼らは、疲れ切っていた。
「船とはいいものよな。歩かずに座っているだけでいいのだから」と誰かが言った。
「そうよな。それに戦さも無いしな」とすかさず相の手が入ると、皆がドット笑った。
 左手の海の向こうには、なだらかな陸地が続いていた。それが遠く離れると、青くけぶって見えた。船の傍らを、時折飛び魚が飛んでいた。
「ほお・・・。飛ぶ魚がいるぞ!」
「なに! 魚が飛ぶとな?」と珍しがった。飛び魚が波間に消えたかと思うと続いて幾匹も鱗を光らせながら飛び上がった。その波間のきらめきを多くの目が見つめていた。
 大船団が遠州灘にさしかかった時、いつしか空が灰色に垂れこめ海も鉛色にうねっていた。頭上に広がった厚い黒雲を引き裂くように稲妻が走った。不安と船酔いに悩んでいた南奥南朝軍の将兵の耳に飛び込んだ水夫らの声は、すでに恐怖の中にあった。
「嵐がくるぞおーっ!  帆をおろせえーっ!」
 その声を待っていたかのように突如として強風が襲った。船が突き上げられるように大波の上に乗った。今まで穏やかなうねりを見せていたのに、海の姿は一変していた。今度は海の底に引きずり込まれるように波の底になった。また稲妻が閃いた。一瞬荒れ狂う海の高まりから急に視界が広がり、そしてそれが消えた。視界が広がった時に多くの船が見えたが、やがてその数も少なくなっていった。
 この激しい暴風雨に襲われて、大船団は二日二晩木の葉のようにもてあそばれた。そのような中、船団の一部が安濃津に漂着すると疲労の極にあった義良親王は多賀国府への旅を諦め、吉野に戻って行った。
 三日後にやっと嵐も止んだがあの大船団は四散していた。結城宗広らは伊勢の吹上浜に漂着した。結局、出発点に吹き戻されたようなものである。しかもこの嵐は、船団をバラバラに解体した。伊豆半島、安房、江の島、神奈河(神奈川)などにも漂着したのである。
 生憎と田村南朝軍は北朝方の常陸に漂着した。長い漂流であった。この嵐に疲れ切った田村南朝軍が上陸したところを、佐竹北朝軍に包囲され囚われた。佐竹氏は橋本正家の、「武士の情け」との懇願を受け入れ、正家以下十九人の斬首を条件に全軍を釈放した。田村南朝軍の残兵は、田村輝定、橋本正家などの将を失った敗残兵としてようやく守山に戻った。守山は粛として、彼らを迎えた。
 ところで吹上浜に漂着して伊勢に戻った結城宗広は、まもなく重病になってしまった。その臨終にあたって遺言をたずねられると、「自分はもう七十、栄華は身にあまり思い残すことはない。しかしせっかく上洛したのに朝敵を滅ぼさなかったのが残念だ。息子たちに後生を葬ることは無用、供養も読経もいらない。ただ、朝敵の首をはねて、我が墓前に供えよと言ってくれ」 と言い、恩賜の鬼丸の名刀を抜いて逆手に持ち、口から突くと壮絶な死を遂げた。








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最終更新日  2007.11.15 16:51:00
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