『福島の歴史物語」

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2007.09.22
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 この機に乗じ、後村上天皇は宗良親王を征夷大将軍に任命すると鎌倉の占領を命じた。宗良親王は越後・信濃の兵を合わせると碓氷峠を越えて武蔵へ進撃した。この鎌倉大包囲戦に、多賀城を奪還したばかりの南奥南朝軍にも[鎌倉を挟撃せよ]との指令が届いたのである。
 勝ち戦に意気上がる南奥南朝軍は、足利尊氏を討つべく多賀城を出陣すると柴田庄(宮城県)に着いた。多賀城の留守は北畠顕信の子の守親にまかされた。
 北朝方はこの間隙をついた。吉良貞家はひそかに稲村館を出ると黒羽城に入り、兵力を結集して多賀城攻撃の機会を窺っていたのである。吉良北朝軍は北畠顕信不在で手薄の多賀城を襲って、これを陥としてしまった。ようやくにして南朝方が奪還した多賀城は、再び北朝方の手に帰してしまったのである。
「しまった!」
 急報により南奥南朝軍は救援に引き返したが時すでに遅く、逆に体勢を立て直した吉良北朝軍の追撃を受けてしまった。
 北畠顕信は宇津峰宮を奉じると宇津峰城に逃げ入った。
「やられた! 吉良を潰したと思うたに!」
 全軍がくやしがった。苦労を続けて得た多賀の国府への入府も、わずか二ヶ月で終わってしまったことになった。北畠顕信は、十一年もかけ武力をもってようやく獲得した自分の任地を、再び追われてしまったのである。

 多賀城を陥とした吉良定家は、次の目標である宇津峰城攻撃のため相馬・伊賀・国魂・石河・結城・芦名らの奥州武士、さらには那須氏等関東武士をも動員した。すでに常陸の南朝軍も破れ、頼ってきたそれぞれも宇津峰城に集結していた。そこで宇津峰城を防衛のため集結した田村南朝軍は、南下して来た北朝軍と佐々河において激突した。この戦いで田村南朝軍は、北朝軍の将、伊達左近將監の父を討ちとった。
 敗退した北朝軍は、国魂氏、芦名氏、左原氏、伊賀氏の参陣によってその戦力を増強すると二ツ石山に陣を敷いて北東部を押さえ、包囲体勢をとってきた。田村則義は籠城戦を覚悟した。
 「戦線を縮小して防備を固めよ!」
との命令を発すると阿武隈川を楯として、その東に撤退した。
 それを西から追った北朝軍は阿武隈川を渡河し、御代田城、守山城を陥とした。則義は大壇館に撤退した。田村南朝軍は、この館の眼下に広がる柄久野原に陣を敷いた。大壇館は柄久野原の縁に立ち、宇津峰城に至る後背地は畳々として起き伏す山に守られていた。しかしその夜、大軍を擁し絶対的優位に立つ北朝軍に包囲の輪の縮小の体勢が見られた時、則義は「太政屋敷に撤退!」
を命令したのである。遂に、大壇館も落城した。
 さらに北朝軍は太政屋敷を攻撃してきた。この館は、宇津峰城の取り付け口に位置していた。乾堀を越え土居に迫る北朝軍を、そうはさせじと激しくもみ合った。双方が傷ついた。北朝軍は次々と新手を繰りだした。一カ所からだけでなく周囲から攻め立てられた。もともと居住用の館を増強した程度の急造の砦は、敵を長いこと支えることが出来なかったのである。
 一方宇津峰城の南西部、阿武隈川を楯に戦っていた六日市城は、背後の城が次々に陥とされる中でついに孤立し北朝軍に降伏した。六日市城は則義の叔父、田村参河守の守る重要な城であったのである。
 六日市城の陥落の後、、刑部内館に拠った田村南朝軍は、北朝軍に出血作戦を強いた。つまり北朝軍が攻めかかると柵内に逃げ込み、北朝軍が引けばその後を追って出るというやり方である。
 刑部内館の田村南朝軍は、援軍の到着を待っていた。本陣からの援軍が来たところで一気に攻勢に出ようと思っていたのである。しかし彼らが受けた下知は、「敵に攻め込む機を失った。自重しながら矢柄城に退け!」というものであった。
 刑部内館を手にした北朝軍は、矢柄城に攻撃をかけてきた。新手々々を繰り出す北朝軍に対し、田村南朝軍にはようやく疲れが見えてきた。しかし則義は、矢柄城防衛のために重盛を派遣すると防戦につとめた。ここは宇津峰城の喉元にもあたる城であったのである。がしかしついにここも敗退した。これにより宇津峰城の本丸・星ケ城は、谷田川口を失うこととなり、北朝軍の強い圧迫を受けることとなってしまった。則義は、宇津峰宮と北畠顕信の二人を宇津峰城から脱出させようとした。しかし今度は二人ともそれを断った。
 ついに宇津峰城は夜襲を受けた。田村南朝軍はここまで追い込まれていたのである。しかしこの夜襲は、どうやら撃退した。この時の戦いに、吉良貞家は那須氏の家来・大塩宗広に、[顕家卿以下田村凶徒対治]の感状を与えた。







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最終更新日  2008.01.16 21:45:08
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