『福島の歴史物語」

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2007.09.23
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田村太平記

             (柄野原の攻防戦)


 この戦いの最中に、足利尊氏は伊達左近將監に彼の父の討死に感状を与え、結城顕朝に仙道八郡の検断職を安堵した。これは結城顕朝の心を引き、宇津峰城攻略を急ぐためであった。しかしこれらの政策と戦況にもかかわらず宇津峰城の守りは固く、北朝軍の総攻撃にも陥ちることなく、戦局は膠着状態のままもつれこんでいた。
 則義は再び谷田川口で戦う。しかし北朝方に降伏していた彼の叔父の田村参河守は、今度は甥を攻めたのである。
 ──まさか叔父に攻められるとは・・・。
 この不意を突かれた叔父の攻撃に、さしも固い守りを誇った宇津峰城もここにはっきりと退潮を示しはじめた。宇津峰城の地理も地形もましてや則義の軍事態勢も、参河守はしっかりと把握していたのである。田村参河守は谷田川口での戦いに功ありとして、田村庄富塚村と六日市城とを足利尊氏から安堵された。叔父の田村参河守が北朝方に走ったため、宇津峰城の田村則義はさらに孤立化を深めていた。
 北朝軍は柴塚城口・東乙森・谷田川口・西乙森の各方面から総攻撃を開始した。宇津峰城は海岸に押し寄せそして引く波浪の中の岩のように、間断なく攻め立てられていた。そして時折、周囲の山や谷から沸き起こる喚声が周囲の峰々にこだまして、田村南朝軍に精神的圧迫を与えていた。そして朝夕に山の周囲に上がる幾条もの炊餐の煙と夜中に起こる何度かの喚声は、田村の軍兵の孤立感を強めていた。
 このような一ケ月に渡る激戦の末、宇津峰城はついに落城した。
 敗れた則義は田村庄司氏の再興を胸に、阿武隈の山塊に活路を求めて逃走した。

 その後、北畠顕信の子・守親が兵を挙げると、田村則義はいち早くこれに応じた。南下した則義らは阿武隈川を渡ると浅川を襲い、福井、袖山にかけて大激戦となった。しかし兵力の多寡はこれを覆うべくもなく、田村南朝軍は遂に社川の北に追い落とされてしまったのである。
 この乱戦の中で、浅比重盛は「兜首ぞ! とどめをを刺せえ!」と叫ぶ敵の声を聞いた。その声とともに、敵の大軍が周囲に押し寄せてきた。迫り来る大勢の敵が重盛の乗馬の腹を槍で刺した。重盛を振り落とした馬が一瞬棒立ちになると、前足で空をかいていなないた。
「こしゃくな!」
立ち上がりざま敵に一太刀あびせたところを、背後から突かれた。
「無念!」
 浅比重盛は、ここに戦死した。敵の多くの足音が近づくのを、土の上に横たわった重盛の耳に伝わって来たような気がした。

 南北朝の内乱は表面的には皇室の正統争いであったが、実質的には武士同士の利益獲得の争いであった。もっと具体的に言えば、ある土地を北朝がAに安堵する、Bがそれを不満として南朝に訴えれば南朝はそれを安堵したのである。つまり同じ土地にAB二人の領主が出来るのだから騒ぎにならない訳がなかった。したがってこの戦いはどこかに境界線を敷いて南北に分かれて戦ったのではなく、各地で南朝と北朝が入り乱れての戦いとなったのである。しかも片方が潰されるとまた反対勢力が芽生え、またその時の都合で南北両朝を股にかけるという武将もあったのだからなかなか帰趨が定まらず、非常に長い戦いとなったのである。







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最終更新日  2008.01.16 21:43:57
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