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ユ タ 準 州 ソ ル ト レ ー ク
ソルトレーク・シティは、末日聖徒イエス・キリスト教会の本部のある、不思議な町であった。とにかくフレンドリーなのである。いままで人種差別の強い風を受けていた富造にとって、その身構えを緩めさせる何かが感じられた。いままで受けてきた人種差別が、ここでは薄くなっているとも感じられた。そしてこの町を知るにつれ、この町が辿って来た歴史に、その理由の一つがあると思うようになっていた。
一八三〇年、末日聖徒イエス・キリスト教会が組織され、モルモン書が出版されると、彼らはすぐに宣教活動に入った。しかしその活溌な活動から改宗者が増えると同時に、近隣住民の反感が高まった。その反感からを逃れようとした教会員たちは、ニューヨークからオハイオ州、そしてさらにミズーリ州に移動した。しかしこれら行く先々でも、武装した暴徒たちに追い払われた教会員たちは、やがてイリノイ州ノープーに、新しい町を築いたのである。
この新しいノープーの町には、各地で迫害を受けた教会員が集まってきた。一八四四年、ノープーの人口はシカゴに迫るまでになったが、このことが逆に地域社会に不安と疑念を膨張させることになってしまったのである。近隣の町の新聞は、この教会員の撲滅を目的にした記事を書いたため、煽られた暴徒による家屋の破壊、農作物の焼き払い、脅迫が続き、やがて教会員の射殺事件までエスカレートしていった。
ブリガム・ヤングをリーダーとする末日聖徒イエス・キリスト教会の会員一四八人が、これらの迫害を逃れるため西へ向かったのは一八四六年のことであった。そして種々の苦難の中で多くの犠牲者を出しながらグレート・ソルトレークにたどり着いたのは一八四七年、やがて彼等はこの広大な塩の砂漠や塩の湖、そして岩山が周りを囲むこの土地に自分たちの町を築きはじめたのである。
グレート・ソルトレークは大昔の海が内陸部に残され太陽熱によって蒸発、塩分だけが残された巨大な塩水の湖である。そのため潅漑用の水としては使えず、ここに生活の場を築くのには更なる努力と忍耐を必要としたのである。しかもこの周辺には何年か毎に天地を埋め尽くすかのような膨大なバッタが発生し、丹精込めた農作物や緑を食い荒らして開拓者たちを苦しめた。このために、このバッタの群は、モルモン・ローカストと呼ばれたほどであった。
(グレート・ソルトレーク・筆者背面)
これらの歴史を学びながら、富造がいま住むソルトレークの立派な町が出来たのが、自分の生まれる前、それもたかだか十八年前に過ぎないことが、まるで信じられなかった。
ある日、富造は、町の大通りで多くの人が群がっているのに気がついた。様子を訊くと、馬車を引いていた馬が市内電車の電線で感電したのだという。馬は泡を吹いて倒れ、御者は鞭を持ったまま呆然と立ちすくんでいた。それを見た富造は適切な応急処置をとり、しばらくそのまま落ち着くまで休ませるように指示をして立ち去った。
それから間もないある日、富造はカール・クリスチャン・アムッセンの使いという黒人の訪問を受けた。「ご主人様の馬を診察して欲しい」、と言うのである。その名を聞いた富造は驚いた。彼は、ソルトレーク・シティの名士であったからである。
「ここがアムッセン様のお屋敷で・・・」
連れられて行った先は、柱廊玄関と大理石のマントルピースやマホガニーの回り階段をもつ、豪壮な大邸宅であった。
当主のアムッセンの出迎えを受けながら、富造は訝った。
「どこで私のことを?」
アムッセンが答えた。
「私の大事にしていた白いアラブ馬が病気になりましてね。たまたま町で、あなたが馬を診察するのを見ていました。そしてこの男はできる、と思いました」
(旧アムッセン邸・ユタ州ローガンシティの遺族の提供による)
このころ富造は、日本にいる重教に手紙を出している。
「先年重教兄も御一覧のソルトレークは、我が琵琶湖の眺めにも優り、湖畔には緑樹繁茂し、昨今の夏期八十度なるに、涼風おとつるるより至って凌ぎよし・・・。
・・・当地にて、馬車馬が電鉄レールを横切らんとする際電気に感じ、馬は数尺空中に跳ね飛ばされ、即死後に馬を解剖したるに、腸間膜腺、心臓肥大を見る」(重教七十年の旅より)
富造はアムッセンの影響で、教会に通うようになっていた。あのフレンドリーな気質が、この教会と無関係でないことを知ったこともあった。富造も東京とサンフランシスコで、キリスト教の片鱗に触れてはいた。それであるから、この末日聖徒イエス・キリスト教についても違和感はなかったのである。
やがてアムッセンから、日本で養蚕の経験のあった富造に、一つの話が持ち込まれた。「ビーハイブ扶助協会(婦人会)で、日本の方式による養蚕法を教えてくれないか」
それは富造と周太郎が、日本で養蚕を実践していたことを知っての依頼であった。
「それは素晴らしいことだ」
周太郎は喜んで言った。
「さすがアメリカは懐が大きい。われら外国人にチャンスを与えてくれた」
ユタ準州での養蚕は、一八五六年にエリザベス・ホィタッカーがイングランドから蚕種を輸入し、蚕にレタスを与えて育てていたがうまくいかず、一八五九年にフランスから桑の木を輸入してから一応の成功を見、絹のドレスを作るという実験段階にあった。しかし一八六三年にはオクターバ・ウルセンバッハとその妻が、また一八六七年にはポールとスザンナ・カルデンらがフランス式の養蚕に努力を傾けていたが、肝心の蚕の成長が思わしくなかった。このためブリガム・ヤングは無料で教会員に桑と蚕種を提供したり、個人でも努力しようとする者に援助をしたりしていた。ソルトレーク・シティに移住してきたばかりの教会員にとって、まだ安定した生活基盤が確立されていなかったため、種々の取り組みが行われていたのである。このようなときであったので、アムッセンは二人の日本人の出現に喜んでいたのである。