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ユキ ミワ キタオカよりの手紙。
私、ユキ ミワ キ タ オカ は 、大正二年(1913)に生まれました。そして 私の両親、 ハルエイとタリ ミワは 、福島県三春町の出身です。私の父方の祖父は、三春藩の医者でした。私は 祖父が、サムライと考えられたかどうかは、わかり ません。父の姉妹は8人か9人でした が、父はただ一 人の息子でした。私は、父がどのような教育を受けたかなどにつ いて、本当に知りません。私が知る限りにおいて、父は学校を卒業してから、三春で学校の教師になりました。そして母は、父の教える生徒になりました。私は彼らの間には、およそ5または6歳の差があったと思います。また母の生い立ちがどうであったか、これも私はわかりません。しかし母は、遊び以外の何もしないで育ったので、ハワイに来たとき、家事について何も知らなかったと言っていました。母は、裕福な家庭で育ったようでした。
父と勝沼富造は従兄弟で、同じ町の出身でした。それもあって、私の父と彼とは、非常に親しくしていました。はじめ富造は、サンフランシスコに渡り、それからユタのソルトレークの大学に入学して獣医の資格を得ました。その後に彼はハワイに来て、ハワイ王国移民官になったのです。ですから、勝沼富造が、ハワイでこの仕事を得たとき、勝沼は父がハワイに移民するのを奨励したのです。勝沼は父に、ハワイに来てください、ハワイの学校に行ってください、そして、父がしたいことは何でもしてください、と言ったのです。それで父は移民に興味を持ち、ハワイへの移民を決意したのです
父がハワイに来ることを決心するとき、私は父が、しばらく三春の勝沼家に泊まったと聞いています。そしてハワイに来た父は、マウイ島のハマクアポコに移住し、ハマクアポコの英語学校に入りました。その後、父は日本にいる母にラブコールの電話をすることに決めました。彼らは、その時まだ結婚していませんでした。それから母は、ハワイに来、そして二人は結婚し、二人はハマクアポコに住みました。私は父が、非常に心のしっかりした人であったことを覚えています。ミワ家は、ハマクアポコで、3人の子どもたちが、そしてカウアイ島のリフエで他の3人が生まれました。私は、ハマクアポコで生まれました。
私は日本軍の役員であった一人の兄がいましたが、母は日本に住んでいた自分の妹への手紙で、妹がこのことについて、他に決して話さないようにと伝えていました。私は、母とその妹との間で多くの手紙の遣り取りがあり、その手紙で箱が一杯になったのですが、私は日本語を知らないのでそれらを読みませんでした。母は常に上品で、最も素晴らしい女性でした。私の夫は私に、最も素敵な、そしてとても穏やかな日本の女性の一人として彼女を覚えている、と言います。
ハワイの初期の生活については、父が決して話さなかったので、私は本当のことは知りません。しかも私はハワイ生まれでしたので、日本語があまり得意でありませんでした。しかし私は、日本語学校で日本語を学びましたので、片仮名は少し書けます。しかし今になると、日本語を読むことさえできません。少し話をすることができる程度です。しかし我々家族は、英語と簡単な日本語の半分半分で話しをしました。母は、英語で話すことを好みませんでした。誰かと話すときは、日本語で話しをしたのです。母は、ハワイに来てから一年は、泣いて暮らしたということでした。住んでいた場所がとても原始的だったので、母は日本に戻りたかったです。プランテーションでの生活は、何もなく、贅沢などできなかったのです。
私には、姉がいました。姉は隣の人と日本に行ったのですが、戻って来ませんでした。それで私は、写真を通して以外は、姉のことを知りません。私は、親たちが喜んで姉を日本へ行かせたかどうか、また、隣の人と姉が全く戻って来なかったかどうかを尋ねましたが、常に話しをはぐらかされてしまいました。結局姉は、帰って来なかったのです。
私たちがハマクアポコにいたときのことは、私は小さかったので、ほとんど覚えていません。しかし私は、私の2人の姉の間に生まれた兄が、わずか2才で亡くなったと聞いています。私が生まれる前に死んだので、私はまったく兄を覚えていません。一方の姉は、よく、「私は、あなたにおしめを当てたものですよ。」と言って私をからかっていました。
なぜかわかりませんが、私の家に、一人の日系の男の子が来ました。明らかに彼は、貧しい家族の出身でした。彼は、私の家族と一緒に暮らして、家などのまわりでの仕事を手伝っていたのですが、私はまったく、わが家と彼との関係を知りませんでした。彼はその後、ここに住んでいたのち大学へ行ったと聞いています。私が彼について覚えているのは、これだけです。
その後家族は、ホノルルへ引っ越しました、そして私は、家族がどのくらいここにいたか、わかりません。しかしホノルルにいたとき、私は父が、ホノルルのマノア日本語学校で教えるよう頼まれて行ったと教えられました。父は英語を本当に読むことができました。しかし、彼は決して英語を話そうとしませんでした。
話しは、ここで終わっています。私のつたない翻訳によるものですが、当時のハワイ移民の生活の一端を知って頂けたらいいな、と思っています。なおこの文を送ってくれたトーマス カツヌマは、文中に 出てくる勝沼富造の孫で、今年(2019)76歳になります。また富造は、ハワイ移民の間でダクターカツヌマと呼ばれ、慕われていました。
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