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ハワイへの移民以前
日本人のハワイ上陸の歴史は、自分の意思で移民をした人たちではなく、漂流民から始まりました。記録に残る最初のハワイへの漂流民は、カメハメハ大王がハワイ王国を創り上げた後の1806年のことで日本では文化三年、十一代将軍徳川家斉の時代にあたります。それ以前にも漂流してハワイにたどり着いた日本人が居た可能性はありますが、それは想像の域を脱しません。
安芸国の稲若丸は大坂から伊勢に向かう途中の1月、暴風雨に遭い漂流、幸いにも3月になって米国の捕鯨船に助けられ、乗組んでいた8名全員が1806年4月にオアフ島に上陸して、カメハメハ大王に謁見をしました。しかし鎖国をしている母国に直接帰ることは叶わず、翌年2名が長崎に上陸して、生き残った平原善松のみが取調べに対してハワイについて口述しています。
天保九年(18389)、富山の運搬船・長者丸が、三陸の釜石のあたりで西風にあおられて漂流、五ヵ月後にアメリカの捕鯨船、ジェームスローパー号に救助され、10名の乗組み員の内、生存していた7名がハワイ島ヒロに到着した後、カムチャッカ経由で、天保十四年(1843)に帰国を果たしています。
ハワイに到達した漂流民の中で、最も名が知られているのは、ジョン万次郎です。天保十二年(1841)、他の4人と共に鳥島に流れ着いた後、アメリカの捕鯨船・ジョン ハウランド号に救助され、ホノルルに上陸しています。国外の事情は、公式には長崎のオランダ商館経由でしか知り得るルートの無かった徳川時代の後期、漂流民からの聞き取りは、開国派と攘夷派のせめぎ合いの中、非公式ながらも大変有益な国外情報となったのです。これは後に元年者と称されるようになる移民が、1868年・明治元年五月に149人の日本人移民が、ハワイに到着する前のことでした。
ちなみに、元年者という名は、彼らが明治元年に日本を出発し、ハワイの地を踏んだことに由来しています。1835年当時、ハワイのカウアイ島ではにサトウキビのプランテーションが始まり、中国人労働者が最初の移民として活躍活動していました。その後、ハワイ王国政府は他人種の労働力も必要と判断し、その一環として日本人の移民を徳川幕府に打診したのです。
この最初の移民を送り出すにあたってはさまざまな問題がありました。当時、徳川幕府は開国直後でしたので、外国公使はまだ少なく、ハワイの公使もおりませんでした。そこでハワイ王国政府は、当時神奈川県に住んでいたアメリカ人の商人・ユージン・M・ヴァンリードをハワイ総領事に任命したのです。そこでヴァンリードは徳川幕府に対し、350人の移民希望者に対しての旅券を求めたのですが、180名の許可しか下りませんでした。ところがその年、江戸は無血開城によって新政府の支配下に入ったため、徳川幕府の発給した旅券はすべて新政府の旅券と交換するという名目で全員の旅券を取り上げられました。ところが新政府からの旅券は、発給されないままとされました。そこでやむを得ないと考えたヴァンリードは、五月二十二日、自らの判断でイギリスの船サイオト号を雇い、移民希望者を旅券がないまま出航させたのです。
これが新政府での問題とされ、ヴァンリードは人身売買を行ったという罪で訴えられます。紆余曲折ののち、彼の罪は不問に問われましたが、以後にしこりを残すことになりました。そこで翌・明治二年(1869)十月、新政府は移民者全員を帰国させるべく公使をハワイへ送りました。移住者たちが、さまざまな苦情を訴えたことに端を発するこの問題は、本土のサンフランシスコで過大に取り上げられることで、新政府としても無視することができなくなったためです。
移民たちのサトウキビ畑での仕事はたしかに大変なものでしたが、ハワイ王国ではそれまでの中国人労働者の仕事を通して可能な労働量を見きわめていなかったことと、肥大化する一途のサトウ産業を支えるために、より多くの労働力を必要としていました。そのための日本人移民でしたから、新政府特使による帰国の呼びかけに対し、戻ってきたのは結局43名にすぎなかったのです。
元年者の契約は3年間だったため、契約終了後は大半が帰国したということになっていますが、実際は残った100名以上のうち、契約終了後に帰国したのは11人にすぎませんでした。残りのほとんどはアメリカ本土への移住を許可されたので、約半数がサンフランシスコに移り住みました。しかし彼らの、その後の動向は杳としてわかりません。元年者のうち、最終的にハワイに残ったのは25名で、その大半はハワイの女性と結婚した男たちでした。この25名が、今日に至る日系ハワイ人の大本となる元年者となったのです。
明治十八年(1885)、日布移民条約が結ばれ、官約移民として多数の人々が続々とハワイへとやって来ました。主に広島や山口、熊本、そして福島などの農村から、より良い生活を夢見て、いくつかの行李に身の回りのものだけを詰めて、ハワイへ渡ったのです。これらの移民一世たちが働いたのは、ハワイ各地のプランテーションと呼ばれたサトウキビ農場でした。彼らは出身地ごとに分けられ、様々なプランテーション・キャンプに居住したのです。そこでは個人名ではなく、番号で名前を呼ばれながら、農場での過酷な労働に耐え忍び、故郷へ送金を続けたのです。当事日本では年収が十円だったところ、ハワイでは212円が稼げたのです。移民達はできるだけ節約をし、日本の家族へ送金したのです。
現在ホノルルにある日本文化会館のギャラリーの入り口には、ずらりと石の柱が並んでいます。そのひとつひとつに、日本語で言葉が刻まれています。孝行、恩、我慢、頑張り、仕方がない、感謝、忠義、責任、恥、誇り、名誉、義理、犠牲。これらは、日系一世の人々が大事にしてきた価値観です。より良い生活を求めてハワイに渡り、大変な困難の中、汗にまみれて働きぬいた 1 世の人々の、つつましいながらも誇りある生き方がじわじわと胸に迫ります。特に「仕方がない」という言葉は、当事の大変な暮らしを思い起こさせるものです。ハワイは移民一世にとって、決して夢の国、楽園ではなかったのです。
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