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天神様と将門塚、そして御霊神社
東風吹かば にほいおこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ
これは都から無実の罪で太宰府へ流された、菅原道真の歌です。太宰府に左遷された道真は59歳で亡くなりましたが、その遺骸を運んでいた牛車の牛が途中で座り込んで動かなくなりました。このことは道真の意思であろうと推察されたことから、道真はその場所に埋葬されたと言われます。
それから約30年後の延長八年(930)六月二十四日に、清涼殿落雷事件が起こりました。清涼殿とは、平安京の御所の一つです。ここに昼を過ぎた頃、愛宕山の上より起こった黒雲はたちまち雨を降らせ、にわかに雷鳴を轟かして清涼殿の上に雷を落とし、大火災を起こしたというのです。このため、大納言藤原清貫(きよつら)は胸を焼かれて死亡し、右中弁・平希世(まれよ)の顔は焼けただれました。また紫宸殿にいた者のうち、右兵衛・佐美努忠包(みぬのただかね)は髪が焼けて死亡、紀陰連(きのかげつら)は腹部が焼けただれて混乱、安曇宗仁(あずみむねひと)膝を焼かれて倒れ伏すというありさまで、しかもこの落雷で、時の醍醐天皇も病に伏し起きれらなくなってしまったのです。しかも3ヶ月後の九月二十九日には、この醍醐天皇が亡くなってしまったのです。この落雷は道真の祟りであるとされ、道真は雷神とされてしまいました。このことから、理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加え、ついには最高責任者たる天皇をも殺しかねないのだという認識が、当時の人々の間に定着していったのです。
御霊(ごりょう)とは霊魂を敬った表現で、非運にして命を絶たれた皇族や豪族、さらには政権争いや戦乱で敗れた者などの霊魂や怨霊が祟ると考えられ、天災や疫病の発生、不作など、社会全体に対しても災いをもたらすものと考えられたのです。このように市井の人々を脅かすような事柄が、怨霊『うらみのれい』という名に集約されていき、やがて『怨霊とは、怖れるべきもの』として人々に捉えられるようになったのです。平安時代になると、人々はこの恐ろしい怨霊に対して敵対するのではなく、これを慰めることによって祟りから免れようとしました。そのために怨霊に位を贈って鎮め、神として祀ればかえって社会全体を鎮める神となり、世に安寧を与えるという考え方が起こったのです。それもあって、政争での失脚者や戦乱での敗北者となった多くの皇族方も、御霊とされて祀られるようになっていきました。これが御霊神社です。中でも有名なものが、今も語り継がれている平将門の首塚です。
話が一挙に現代に飛びますが、平将門の首塚と言えば、第二次世界大戦後、GHQ、つまり連合軍総司令部が、爆撃を受けた丸の内周辺の区画整理をするため、邪魔となる平将門の首塚周辺を撤去し造成しようとしました。ところが、不審な事故が相次いで起きたため計画を取り止めた、という事件がありました。そのため平将門の首塚は現在にも残され、近隣の企業が参加して『史蹟将門塚保存会』が設立され、維持管理を行っているのです。隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けない。」「塚に対して管理職などが尻を向けないように配慮して机の配置をする。」と言われますが、そのような事実は特にないそうです。また数十年にわたり、地元のボランティア団体が浄財を元に、周辺の清掃・整備を行っているのですが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれているそうです。ところでお笑い芸人の爆笑問題の太田光は、この首塚にドロップキックをしたことがあったのですが、そのせいか、しばらくの間まったく仕事が来なかったという噂があります。
さて皆さんのご近所に、八幡神社という名の神社はありませんか? この神社のご祭神の八幡太郎は、平安後期の武将の源頼義の長男の源義家なのです。源義家は、父頼義が今の京都府八幡市八幡にある石清水八幡宮に参詣したときに夢のお告があり,間もなく生まれたのが義家であったといわれ、この源義家が、石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎と号したといわれます。八幡太郎には多くの伝説がありますが、この伝説を大きく分けると,
(1)戦闘での武勇伝と,従者や部下に対する思いやりを描いたもの。
(2)そこから派生して、八幡太郎の名や声を聞いただけで悪辣な輩も逃げ出すというようなもの。
(3)さらに八幡太郎によって物の怪 ( もののけ ) や悪霊さえも退散するという神がかり的な武勇神とでもいうべきものの3種があります。
この八幡太郎の家来に、鎌倉権五郎景政という人がいました。後三年の役において、敵兵の放った矢が権五郎の右眼に深々と突き刺さりました。権五郎は刺さった矢を抜くことなく、彼を射た敵兵を斬り殺し、そのまま陣中に戻って来た権五郎は仰向けに倒れ込み、部下の三浦為次に矢を抜くよう頼みました。しかしあまりに深く突き刺さっているため困った為次は、権五郎の顔に足をかけて矢を抜こうとしたところ、突然権五郎は仰向けのまま刀を抜き、為次を刺そうとしたのです。驚いて飛びすさった為次は怒り心頭、理由を尋ねたところ、「弓矢で死するは武者の望むところ、生きたまま顔に土足をかけられるは我慢がならぬ。されば、いま汝を仇として討ち、我も死なんとした。」と言ったため為次は驚き、かがめた膝で顔をおさえて矢を抜いたというのです。
このような御霊信仰に基づく神社が、郡山にもあります。大町二丁目の阿邪訶根神社(通称・うぶすなさま)には弓の名手として剛勇を鳴らした平忠通が祀られています。平忠通は、平将門の娘を嫁に貰った平忠常の弟で、若いときに源頼光配下の四天王の一人、と呼ばれました。渡辺綱、坂田金時(またの名、足柄山の金太郎)、卜部季武(うらべのすえたけ)、そして平忠通で、大江山の酒呑童子を退治したとされる人たちです。
その二は、富久山町の豊景神社です。祭神は豊斟淳命 ( とよくむぬのみこと ) と鎌倉権五郎景政です。伝えによると、八幡太郎は安積地方が毒蛇の禍で凶作に苦しんでいるのを知り、権五郎に命じてこれを退治させたという伝説と、この地が乱暴な盗賊に荒らされ、住民はほとほと困り果てていたが、そこを通りかかった八幡太郎が住民の頼みを聞き入れ、自分の家来である鎌倉権五郎に命じて、4人の兄弟の悪人を滅ぼしたという話が残されています。感謝した住民たちは、権五郎の御霊(みたま)を豊景神社に合祀したというのです。
その三は、逢瀬町の多田野本神社です。多田野には、浄土松公園があります。年ともに風化が進みましたが、松の緑が点在する風景が日本三景の松島に似ていることから『陸の松島』とも呼ばれています。断層で分断された地層が風化し突出した白亜の岩が『きのこ岩』、日本のカッパドキアとも呼ばれ、独特の景観を見せてくれる場所で、県の名勝天然記念物に指定されています。この浄土松にも、八幡太郎にまつわる伝説が残されています。前九年の役において八幡太郎の東征に同行した鎌倉権五郎が、里人の願いにより、多田野の『きのこ岩』の大蛇を退治して民を救いました。ところがその後、大蛇の亡霊が祟って農民を苦しめたので、里人が大蛇の亡霊を峠の『櫃石 ( ひついし ) 』に供養したところ、五穀豊穣となったため、この御石を御霊櫃と言って崇め、この峠を御霊櫃峠と呼ぶようになりました。
鎌倉権五郎は、怨みを持って死んだ訳ではなかったようですが、しかしなぜか、御霊信仰の代表例とされた人物です。これらの三つの神社は、『御霊の宮』と呼ばれていました。『郡山の地名・安積名称考』によりますと、『多々野村城主鎌倉権五郎阿倍貞任征伐ノ後、是ノ多々野ノ地ヲ権五郎ニ賜ハル。(中略)又大槻ノ北ニ蝦夷原ト云フ處アリ、永承康平ノ頃(1046〜1065)モ尚此地ニ蝦夷人ノ長タル者住居セン處ナリ。故ニ蝦夷原ト云』とあります。
八幡太郎は、歌も詠んでいます。『吹く風を なこその関と 思へども 道もせに散る 山桜かな』が、 勅撰和歌集の一つである『千載和歌集』に収録されており、詞書に「陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花の散りければよめる」とあります。平泉の安倍氏との戦いの際、勿来から浜街道を北上したことが推察できます。
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