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2021.04.20
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橋本庄七郎とは?

 私が学生時代、つまり今から60年ほど前、本家の橋本孫十郎に家系図を見せてもらったことがある。その時に聞いた話であるが、本家の先祖は、南北朝時代の橋本九郎正茂(まさもち)であるという話を聞いたことがあった。そして正茂の末裔の橋本刑部顕徳(あきのり)という人が、本家の最初の先祖であるという。顕徳は、戦国田村氏三代と言われた初代の田村義顕の弟である田村月斎頼顕(あきより)の子であった。月斎は田村家きっての勇猛果敢な武将として恐れられ、『畑に地縛り(じんばり・害虫) 田にひるも(蛭) 田村に月斎 なけりゃ良い』とまで言われていた人物であった。その頼顕により、『橋本家の先祖は橋本正茂(まさもち)である。』と言い伝えられてきたと教えられた。孫十郎は、私の祖父の年代の人である。当時、私は若かったこともあって、このようなことにあまり興味を持っていなかった。

 そして幾星霜、土蔵の中を整理した時に、大正七年に、宮内省より故・橋本九郎正茂(まさもち)へ与えられた『贈正五位』の位記が見つかったのである。その贈位記には、『我祖ハ人皇五十六代清和天皇ノ系統ニ而源經氏ヨリ起リ家氏、頼氏、義氏ヲ經テ正氏ノ代大和国橋本ノ城主タリ子孫正忠ニ至リ楠木氏ノ縁戚タリ其子八郎正員ハ楠正成ト與ニ後醍醐天皇ノ朝元弘建武ニ渉リ勤王シ湊川ニ楠正成ト共ニ忠死シタリ其子正家ハ楠正秀ト與ニ千剱破城ニ兵ヲ揚ケ賊軍ノ為メニ破ラレ遁レテ奥州ニ下リ其子贈正五位故橋本正茂ハ祖尊八郎正員ヨリ楠氏ノ一族楠氏八臣ノ一ニシテ祖八郎正員忠死ノ後北畠顕家義良親王ヲ奉シ入京シ攝泉ノ間賊兵起ルヤ正茂天王寺ヨリ赴キ賊軍ヲ破ル三年ニシテ顕家ノ弟顕信ニ属シ顕家戦死スルニ當リ正茂軍ヲ旋シテ之ヲ援ク延元四年後醍醐天皇崩シ人心危懼ス正茂楠正行ヲ輔ケ正平年中田村輝定ノ軍ニ属シ再奥州ニ下リ北畠顕信ニ従ヒ賊軍ニ抗戦スルコト十有余年而シテ祖先八郎正員ヨリ朝廷ニ勤王シ終始淪ラサル忠節ヲ盡シタル功績ニ因リ今般贈位ヲ賜フ祖先ノ徳ヲ尊奉シココニ後裔一族ニ此表ヲ贈ルモノ也』とあったのである。

 これを見た私は本家を訪れて、むかし見た家系図を見せてもらおうとしたが、生憎紛失したという。すでに世代が一代、代わっていたのである。しかも故・橋本孫十郎には子がなく、養子の夫婦であったことも、家系図が無くなった理由の一つであったのかもしれない。そこで調べてみると、『贈正五位』の由緒にある橋本八郎正員は、橘姓を称した楠木氏の一党であり、この橋本八郎正員の名が、『太平記』巻十六にあることが確認できた。橋本氏は、和泉国、いまの大阪にあった日根郡橋本郷、いまの大阪府貝塚市橋本を発祥としたが、南北朝時代に、正員をはじめとする多くの一族が戦死している。

 そして時代の下がった戦国時代、三春は、いわゆる戦国田村三代と言われた田村義顕・隆顕・清顕と続いてきた。この橋本刑部顕徳の父は、義顕の弟の田村月斎頼顕であるが、何故か橋本の姓となっている。父が田村月斎でありながら、顕徳が橋本の姓となったのは、月斎が橋本の姓を使っていたことがあったからという。このことは、日本家系協会『田村一族68ページ』に、田村月斎の嫡子の羽州秋田の宗輪寺住持(氏名不詳)の説として載っている。それによると、田村義顕は橋本姓を名乗ったこともあり、月斎もまた橋本庄七郎と称していたこともあったという。その上、田村清顕の甥の田村広顕が橋本の姓を名乗ったことなどから、顕徳が橋本の姓を名乗ったとも想像される。

 明治三十七年に出版された『田村の誉・73頁』に、次の記述がある。

『田子森舘跡=要田村大字荒和田字田子森に在り応永年中田村持顕館を荒和田に築き次子重顕をして之れに居らしめ東北の藩屏たらしむ重顕の子廣顕に至り氏を橋本と改称す爾来子孫相継ぎて田子森舘に居る天正十八年田村氏没落橋本時顕も亦降りて民官に居り世々荒和田村の里正たり後時房に至り文政六年出て三春城主秋田公に仕ふ故に其子孫三春に居る尚荒和田に居るもの荒和田を以って氏とす』

 少なくともこれによっても、田村氏と橋本氏の間に密接な関係のあったことが想像できる。

 この橋本正茂と田村氏をつなぐ系図は残されていないが、義顕の祖父が直顕、父が盛顕とその名は残されている。田村氏の22代とされる盛顕の生年は不明であるが、没年は長享元年(1487)とされる。清顕の没年、天正十四年(1586)などを参考とすれば、初代の田村氏は南北朝になるかと思われる。するとそのあたりで、田村氏と橋本正茂との間には、なんらかの関係があったのかとも推測される。ここのところは、宗輪寺の住持の説であるということに、留めておくべきなのかもしれない。

江戸時代に書かれたものに、『仙道田村兵軍記』という本がある。これは平姓田村氏を始祖と称する三春の田村清顕一代記として書かれたもので、延暦十三年(794)の田村麻呂の征夷から始まり、古くからこの地に定着していた橋本氏に結び付け、自らの出自を貴種とする物語であるという。『仙道田村兵軍記』では、田村麻呂は奥州の生まれで、胆沢の高丸・悪路王・阿底利為・母礼等を征伐したが、阿底利為と母礼を殺さなかったというこの話は、江戸期一ノ関に移封された田村氏が、三春で勢力を振るっていた時代を回顧して書かれたものであるとされる。一ノ関は、胆沢城の南、阿底利為と母礼の勇敢な戦闘の歴史が残る場所である。なおこの文中、『田村麿の子浄野公三春城を築き数代を経て橋本左京政秀に賜はるてふことは御国史によりても知るを得べし』とあるそうであるが、この政秀、果たして実在の人物なのかどうかも不明である。なお『仙道田村兵軍記』は、お伽草子の『田村皇子』や世阿弥の謡曲『田村』、仙台浄瑠璃などを参考にして書かれたらしいから、事実にはないことも含まれていると思われる。

 ところでこの故・橋本九郎正茂の受けた『贈正五位』の位記が、なぜ我が家にあったのか? 疑問に思って調べてみたが、まったく不明であった。そこで怖るおそる、宮内庁に電話してみた。結局わかったことは、明治後期から大正にかけて、天皇に忠誠を尽くした複数の人物を洗い出し、位階を与えたと言うのである。静それで南北朝時代の橋本九郎正茂に、大正七年なってから与えられた理由はわかったが、それではなぜこの文書が我が家にあるのかを尋ねてみたが、それについては、わからないという。ちなみにこの時期、幕末三春藩家老の秋田 主税も、『正四 位』を贈られている。

 ところで田村清顕の弟・氏顕の子の宗顕が孫七郎を、また清顕の次弟が孫八郎を名乗っていた。うがった見方をすれば、本家の襲名・孫十郎や私の家の襲名・孫三郎ともつながると思うのは、我田引水に過ぎるのかも知れない。なお私の場合、幼名が正明、壮年期は捨五郎、老年期は孫三郎を襲名することになっていたらしい。というのは私が9歳のとき父が襲名しないまま、11歳のときに祖父8代目捨五郎が亡くなった。戦後の配給の時代、母は私に無断で捨五郎を種名したが、その理由の伝承は途切れていた。あるとき、私は叔父に言われた。「なぜ生まれた息子に孫の字を使った名を付けなかったのか?」と。そして襲名についての事情を教えられたが、それはすでに遅かった。ところが私の祖父の8代目の捨五郎が、三春大神宮の境内に親戚の人たちと橋本神社を建立した記念の写真が、あの『贈正五位』と一緒にまとめて残されていた。それでも今は亡くなっているが、私の父の妹の伊藤サワから、写っているそれぞれの人の名の確認をすることができた。せめてもの、我が家の歴史の一端を確認できたことは、幸いであったと思っている。

 蛇足になりますが、私・十代目捨五郎の嫡子に子供が恵まれなかったので、この名は風前のともし火となりました。それでも嫁に出た娘夫婦に姓は異なりますがただ一子、男の子が生まれたのです。橋本家での襲名の話を聞いたムコ殿は、その男の子に『捨』の文字を入れた名を考えてくれたのです。しかし私は、猛反対をしました。孫が学校に行くようになったとき、イジメに会うのではないかと心配したからです。さてこの捨五郎の名は、どうなるのでしょうか。後は娘夫婦が、孫が成人した折にどうするのか。予断を与えないようにして、黙って見ています。

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最終更新日  2021.04.20 06:30:07コメント(0) | コメントを書く
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